ずっと守ってくれてありがとう(3/3)
「いつまでそこに棒立ちしているつもりだ」
私がなかなかドラドから視線を外さないものだから、彼は痺れを切らしたように壁際に歩み寄った。
「のんびりやっていたら終わらないんだろう? 特別に手伝ってやるから、お前も見ていないで作業を再開しろ」
ドラドが霊力を解放しながら壁に指を滑らせて、文字を刻み始めた。我に返った私は慌ててしまう。
「適当なことを書けばいいわけじゃないのよ!」
「適当には書いていない」
「またそんなことを言って……」
私は批難するように壁を見たけれど、そこに彫られた記述にハッとなる。
『神が豊漁をもたらした』
ちゃんと合っている。一緒に彫られている年月日も正しかった。
「ここに書かれた歴史を知っているのは、お前だけじゃない」
唖然とする私に、ドラドがそう言った。先ほど自分で彫ったばかりの記述にそっと手をかざす。
「この年はトウモロコシが不作でな。飢えた者たちを救うために、魚をくれてやったんだ」
ドラドは、まるでそれが自分のしたことであるかのような口調で話していた。
でも、それっておかしいわ。だって、ここに書かれているのは守護神様の記録なんだもの。ドラドはこの国の守り神ではないはずなのに……。
……いいえ、違うわ。
ある可能性に思い当たり、私は衝撃を受けた。ドラドと壁の記録を交互に眺める。
「あなたも夕凪の都の守護神だったのね?」
けれど、それは現在の話ではない。もっと過去の出来事だ。
「聞いたことがあるわ。五十二年に一度世界が一新される時に、新しい神が生まれることもあるって。それが国の守護神だった場合、守り神の代替わりが起きることもあるとか。その際に、過去の神の記録はすべて現在の神の功績として上書きされて、祭壇も新しく作られる……」
いや、「作られる」というよりは「建て増しされる」と言ったほうが正しいだろうか。かつて使っていた古い祭壇ピラミッドを覆うような形で、新しいピラミッドを作るのである。
古い祭壇と新しい祭壇は、階段によって繋がれる。そして、かつての祈りの場は、今度は記録保管庫として活用されるようになるのだ。
「古い神は忘れ去られるのが宿命だ」
ドラドが呟いた。
「ついこの間まであれほど私に対して熱心に祈っていたのに、新しい神に代替わりした途端、人間たちはかつての神のことなどどうでもよくなってしまったらしい。本当に身勝手なことだ」
「どうして自分の正体を黙っていたの?」
「……」
私の質問にドラドは何も答えなかった。けれど、返事がなくても、私には彼の考えていることが分かるような気がする。
ドラドは神としてのプライドがとても高いのだ。
そんな彼が、「自分の正体は、今はもう崇められなくなった神である」なんて言えるわけがない。信者がいない神なんて、あまりにも情けないから。誰にも信仰されていない時点で、神と呼べるかも疑わしいだろう。
だからこそ、彼の行動には疑問が残った。
「なぜ正体を明かす気になったの?」
「明かしてはいない。お前が勝手に突きとめただけだ」
「あなたの言動から察したのよ。本気で隠すつもりなら、あなたはもっと慎重になっていたはずだわ」
私の言葉に、ドラドはそっぽを向いた。けれど、やがて観念したように答える。
「……お前になら気づかれても構わないと思ったからだ」
「どうして?」
「知るか」
ドラドは早くも胸の内を明かしたことを後悔しているような口調になって、修復作業を再開した。
「お前のことだから、私の正体を明日にでも国中に触れ回る気でいるんだろう。そうしたければ好きにしろ。どうせ私は、もうすぐ地上界からいなくなる」
「地上界からいなくなる……? ……ひょっとして、天上界に帰る方法が分かったの?」
私は目を見開いたけれど、ドラドは「これから探すんだ」と返した。
「魔術の記録保管庫の片付けが終わり次第、地上界から出る方法を見つける予定だ」
今朝のドラドが記録保管庫へ行こうとしていたのは、そういうわけだったのね。私が彼との離婚の方法について考えていたように、彼も元の世界に戻る方法を調査しようとしていたんだ。
もしかして、私たちの利害って一致していないかしら?
夕凪の都では、特別な事情がある場合を除いて、夫婦が一年以上別居した状態になると、離婚が成立したと見なされるのだ。
ドラドが天上界に帰るということは、私たちは離れ離れになるということだ。その状態が長く続けば、私たちの結婚は無効になる。つまり、離婚できるのである。
この素晴らしい思いつきに、私は思わず微笑んだ。
「だったら私も協力するわ。頑張って天上界に帰る方法を見つけましょう?」
「どうした。いやに親切じゃないか」
ドラドは私に下心があるのではないかと疑うような目つきになった。私は肩を竦める。
「変なことは考えていないわよ。ただ、あなたを天上界に帰せば、離婚が成立するんじゃないかと思っただけ」
「……離婚、か」
ドラドが考え深げな声を出す。
「そうだな。私だって、お前といつまでも夫婦のままでいるのはごめんだ」
珍しく私たちの意見は一致した。こんなことは、相部屋は絶対に嫌だと主張した時以来だ。
それから半日以上かけて、私たちは作業を終えた。相手が彫った箇所をお互いに確認していき、記述に間違いがないと確信を得て、ようやく肩の荷が下りた気分になる。
「ふう……」
私は自分の仕事の成果を確かめるように、部屋の中央から壁を眺めた。改めて見ると壮観だ。この広い部屋の高い壁いっぱいに、神が私たちに与えてくれた恩寵が書かれているなんて。
「あなたは、私たちのためにこんなにもたくさんのことをしてくれたのね」
私が独り言のように呟くと、ドラドが「何だ、急に」と言った。
「だってここの記録の中には、あなたがやったことも含まれているんでしょう?」
この夕凪の都には、これまで何柱の守護神がいたのだろう。一体どれだけの神の功績が、現在の守り神がもたらした恵みとして書き換えられたというのだろうか。
けれど、手柄の上書きはあくまで形だけだ。「本当は誰が国を救ってくれたのか」という事実までは変えられない。
「ありがとう、ドラド。ずっとこの国を守ってくれて」
そんなことを言われるとは思っていなかったのか、ドラドは目を見開いて私を見つめ、固まってしまう。
けれど、すぐに我に返っていつもの高慢な調子を取り戻した。
「……当然だ。それが守護神の役目だからな」
口調こそ尊大だったけれど、光の玉の頼りない光源で照らされたドラドの端正な顔には、照れたような表情が浮かんでいるように見えた。
「じゃあ、戻りましょうか」
「ああ」
祭壇ピラミッドの頂上に出ると、空は夕焼けで真っ赤に染まっていた。
ピラミッドの外で待っていた関係者に無事に修復が完了したと告げると、皆は天を仰いで嬉し涙を流し始める。騒動の原因となった下級神官たちも、平謝りしつつもすっかり安堵していた。
聞いたところによると、神殿内の後片付けもほとんど完了したらしい。
これで、明日からは通常の生活に戻れるだろう。本腰を入れて、ドラドを天上界に帰す方法の調査もできるに違いない。
私たちは、あとどれだけ一緒にいられるんだろう?
私は隣に立つドラドを見つめる。
無邪気に球技の観戦を楽しんだり、かつてはこの国の守護神だったりと、ドラドが天上界に帰ってしまう前に、彼のいい面も知ることができたのは幸いだった。
嫌な奴と夫婦だったという思い出しか残らないなんて最悪だもの。
私たちに残された時間は短いだろうけど、その短期間の間に、もっとほかのドラドの長所も知りたいものだ。
そう思いながら、私はドラドと一緒に帰路についたのだった。




