ヴァルナイア会戦Ⅰ
早朝、太陽が東の地平線から顔を出して地上を照らし出した頃に帝国軍十三万五千二百余名と王国軍十二万七千五百余名はザーラ北西部の草原に布陣した。帝国軍は森林を背にし、背面を守っている。その東にウィルヘルミナ軍が横陣を敷いている。両軍は矢の射程範囲外でしばらく睨み合っていたがウィルヘルミナ軍の前進により戦いが始まった。ザーラ近辺で生活するヴァルナイア族の領地で行われたことからこの戦いはヴァルナイア会戦と称されることになった。
同じ時代を生きる両雄が十万からなる大軍を率いての決戦であったがその始まりは至って凡庸で面白みというものに欠けていた。第一列の兵士が矢を射かけ合って互いの戦力を削る。帝国兵の中には投石を行う者もいた。前哨戦とも呼ぶべきこの撃ち合いはウィルヘルミナ王国軍の優勢に進んだ。夏のこの時期には東から強い風が吹く。それがウィルヘルミナ軍の矢をより遠く飛ばし、もう一方の矢の飛距離を削いでしまうのだ。加えてウィルヘルミナ軍の弓は小ぶりながらも高い威力と連射性を誇っていた。そして狩猟民族として生きてきた彼らは幼少期から馬上で弓矢を使い、自らの生活を築いてきた。その自負に相応しい弓の腕を持っているのである。遥か広大な草原はそこに生きる者たちの軍勢に恵みを与えた。しかしそこからは人間同士の知恵と武力によって勝敗が決するのである。
風が弱まり、一方への加護ともう一方への迫害もまた弱まった。
「王国軍の両側面に回り込め」
消耗戦を嫌ったアルディスが命じる。
「帝国軍の側面を突く! 左右に兵を送れ!」
戦いの流れが変わることを悟ったシェルイが命じる。
両軍の総大将はほぼ同時に同じことを考え、それを部下に伝達したのである。彼ら自身はその場に留まって全軍の指揮を執り続けた。彼らの部下の将校たちが軍を率いて動き出した。しかし想定通りには上手く進まないものである。両軍が相手の側面を狙っているため互いに陣形を延伸して相対する敵の隙を窺うしかなくなったのである。
陣形は無秩序に伸び続け、総司令官の声が届く範囲内に留まるものではなくなった。各軍を率いる将軍らの実力によってこの会戦の勝利が決定する。ここまではシェルイもアルディスも想定していた。しかしそこからは彼らも予想できなかった。
ウィルヘルミナ軍右翼には右端からヴェレン、イディア、ティン、ドゥダイ、左翼には左端からメージェベス、ヤムハ、クトゥがそれぞれの軍を率いて布陣し、中央には国王シェルイとその直下兵一万が鎮座している。王妃シャルは後方支援を担当し、各軍の負傷者の手当てや物資の補給を担っている。対するヤルダバオート神聖帝国軍右翼には右端からアークリーチ、アーガス、ミーシャ、ブライヘル、左翼には左端からバアル、ロックウッダー、リッケが指揮している。中央のアルディスは直下兵一万二千名で正面のシェルイの首を獲る隙を窺っている。
南北に長大な陣形が展開される。古来より戦場でよくみられる平凡な陣形だ。しかしこれから始まるのは当代きっての英傑たちの殺し合い。平凡と呼ばれるほどの流血では済まないことはこの場にいる誰もが予感していたのだった。
開戦してしばらくは騎兵や歩兵による突撃は行われなかった。弓矢の応酬と休憩が繰り返され、相手の隙を見出そうとする。無策に突撃を行えば迎撃されて無駄に兵を失うことが予想された。互いに手の裡がわからない以上、こちらから隙を生む行動は控えるべきであると諸将は考えていた。
太陽が天頂に差し掛かる頃、痺れを切らした者がいた。帝国軍左翼左端に陣を置くバアルである。馬上で拳を振り上げながら兵に突撃準備を行わせる。
「おうおうおう! 全軍突撃準備! 我らが目の前の敵軍を討ち、敵右翼の側面を脅かすのだ!」
彼の戦術構想は至って当然のものであった。翼の中央を貫いたところで突破地点の左右両方から援軍が派遣されて穴が塞がれるのは明白であった。この状況において戦況を左右するのは長く伸びた陣形の端であった。シェルイもアルディスもそれをよく理解していた。であるからこそアルディスは攻撃力に長けたバアルと奇策を好むアークリーチを配置し、シェルイはどんな状況でも臨機応変に対処できるヴェレンとこの戦場において最も長い戦歴を誇るメージェベスを配置したのである。
バアルは赤い軍旗を翻らせた。暴力と流血が具現化したような存在である彼に相応しい色である。
「突撃!」
この会戦最初の突撃が始まった。バアルは斧を担いで先頭を駆る。後ろには彼と同じく血気盛んで命知らずの猛者たち。人間という小さな器に秘めた溢れんばかりの破壊衝動を開放し、雄叫びと足音を轟かせる。
「へえ、怖いね。軽装騎兵、矢を」
ヴェレンは糸のように細められた目で敵軍を見据える。突撃してくるその軍隊から死への恐怖を全く感じられない。ウィルヘルミナ軍の矢を浴びせられ、犠牲を払ってもその勢いが止まることはない。
「正面からあれを止めようとするのは愚策か。右側のクエンリ重装騎兵隊、敵の側面に突撃を」
「はっ!」
ヴェレン軍の一部が突出し、一心不乱に突撃してくるバアル軍の側面を狙った。だがここで信じられない出来事が起こった。先頭を駆けるバアルが急旋回し、全軍で側面を狙っていた部隊に襲い掛かったのである。クエンリは自分たちに向かってくる大軍を見て、正気を疑った。
「た、退却!」
決して臆病ではなかった彼だったがこの時ばかりは背筋が凍り付いた。恐怖心がもたらしたものであったものの彼は正しい判断を下した。それでも全ての兵を救うことはできず、本軍と合流するまで百名近くの部下を失ったのである。想定外の出来事に戸惑っていたヴェレンだったが部下の危難を黙って見ていたわけではない。左から別の部隊を派遣し、右に注意を向けていたバアル軍に突撃させたのである。その部隊はバアル軍がクエンリ隊に与えただけの損害を与えることに成功したのだが次は彼らが標的となり、多くの兵を失うことになった。
互いに同数の兵を消耗する。このまま争い続ければ兵力で劣るヴェレン軍が消滅する。もちろん全軍で突撃を行っているバアル軍の疲労を考慮しなければの話であるが。
「なんて奴だ…!」
ヴェレンはその猛犬ぶりに薄ら寒いものを感じた。まともな軍隊の戦い方ではない。
バアル軍はそのままヴェレン本陣に向けて突撃を再開した。ヴェレンは重装騎兵を前面に並べて迎撃の準備を整えた。彼の軍は攻撃一辺倒になりがちなウィルヘルミナ軍の中で防御に秀でた軍である。常日頃からクトゥの突撃を観察し、その破壊力を前提とした防御訓練を兵に課してきた。
両軍が激突する。ヴェレン軍の防御陣第一列は呆気なく崩れた。
バアルは猛獣のような声を戦場の空に響かせ、斧を振るう。待ち構えていたウィルヘルミナ兵を盾や鎧ごと両断し、血の雨を降らせる。彼がこじ開けた陣形の穴に部下たちが続き、陣形を大きく抉る。
「進め進め! 敵の陣形は脆いぞ!」
バアルの赤ら顔は立ちはだかる敵に恐怖を与えた。ウィルヘルミナ兵は無意識に彼を避けた。
「ヴェレン将軍、後退を…!」
幕僚が進言する。
「ああ。中央も後退させるんだ。敵を陣形奥深くまで誘い込み、隊列が長く伸びたところを横から攻撃。あの敵将に続く兵士を削れ」
青年将校の溜め息が漏れる。敵を率いるのは猛将とは聞いていたがここまでとは想定していなかった。部下の士気も高く、無茶で無謀な突撃に付き従っている。ヴェレンは本陣を大きく後退させた。バアルは自らの体を血染めにしながら的に向かって放たれた矢のように後退していくヴェレン本陣を追った。誰がどう見ても危険な行為であったが彼自身、このやり方で武功を挙げてきた。一例を述べるとするならばアルフェンテの戦いでは敵将のイディアに戦闘不能の重傷を負わせたのだ。しかし過去の成功が未来の成功を約束するものではないことを彼は身を以て知ることになる。
バアルの突撃はヴェレン軍を真っ二つに切り裂いた。それなりの損害を出しながらも敵軍を分断することに成功したのである。だが同時に勢いに任せた突撃は陣形を著しく細長いものに変えてしまった。特に歩兵はヴェレン軍の攻撃を受けて夥しい被害を出していた。騎兵も馬を射られ、落馬したところを踏み潰されていた。
「バアル将軍、これ以上の攻撃は不可能です! 後続の部隊が全滅します!」
バアルは猛獣のような鋭い眼光を部下に向けた。まるでその目に映る全てが敵であるように思われた。部下たちはその目に怯んだが一方で慣れてもいた。
副官が懐から革袋を取り出すとバアルの顔にかけた。バアルの顔から赤色が引いていく。呼吸も落ち着きを取り戻した。改めて部下が撤退を具申すると彼は大きく頷いて提案を取り入れた。
「わかった! 退くぞ!」
ヴェレンの本陣を遠くに見たバアルはこれ以上の追撃は不可能と判断し、退却行動に移った。ヴェレン軍を迂回して陣に戻るのではなく、再び突入し、西へ走る。
ヴェレン軍各部隊の隊長たちは嵐のような怪物を仕留めることを諦め、彼に続く兵士を狙った。だが彼の部下たちもまた精強であった。ヴェレンは期待通りの損害を与えることができず、去っていくバアル軍を追った。更なる戦闘に備えて陣形を再編すべきであったが彼の目は隣の戦場にも及んでいたのである。
ヴェレンの隣の戦場のウィルヘルミナ軍を率いるのはイディアだった。アルフェンテの戦いでバアルに受けた傷は完治していないものの、馬上で指揮を執ることはできるまでに回復していた。彼女はバアル軍が全兵力で友軍に突進していくのを知った瞬間に好機を見出した。彼女と隣のティン軍はロックウッダーと睨み合いを続けていたのだが、ロックウッダー軍の側面ががら空きになったと捉えた。
イディアは剣を振り上げて兵士たちに命じた。
「全軍前進! 敵の側面を抉る!」
兵士たちは雄叫びをあげて動き出す。
戦場は再びうねりを見せるのである。




