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帰還

 メージェベスは弟の戦死を間近に目撃した。全身の血が沸騰し、目を血走らせて敵総大将を睨む。だがここで戦っても意味がない。時間稼ぎも充分だ。再戦のために戦力を温存しなければならない。深く息を吸い込み、気持ちを落ち着ける。感情に任せた判断は最悪の結末を招くものだ。

 彼は退却を命じた。兵士たちは乱戦を解き、生き残ったクジェの部下を保護して東に逃れる。

「追うな。我が方の兵も疲労している。これ以上の戦闘は無意味な損害を増やすだけだ」

 アルディスはそう判断し、追撃を禁止した。近衛兵の多くがクジェ一人に殺され、再編が必要になっている。シェルイ本軍の帰還も遠い話ではない。彼らとの戦闘に備えなければならないのだ。

 しかし彼の戦いはまだ終わってはいなかった。

 アルディスの命令がまだ届いていなかった部隊は逃げるウィルヘルミナ兵を神の名を叫びながら追いまわしていた。

「待て! 蛮族の異教徒め! 心臓を抉り出してやる!」

 勝利に酔った無秩序な行動だった。彼らは気付いていなかった。自分たちが追いかけているのはクジェ軍の敗残兵などではなく、ウィルヘルミナ王国軍新規兵力の先遣隊の兵士であるということに。

 彼らは本隊から離れ、血の臭いを求めた先で騎馬の兵団に遭遇した。翻るのは白い狼の旗。先頭には金と銀の瞳の青年がいた。

「あ、あれは…!」

 矢が帝国兵の眉間に命中する。騎士は馬上から転げ落ちて戦死者の列に加わった。帝国兵は逃げ出す間もなく殲滅された。

「このまま帝国軍に攻撃を仕掛けるぞ! 全軍突撃!」

「はっ!」

 シェルイの号令で王国軍は帝国軍に襲いかかった。陣形を乱していた帝国軍はシェルイ軍の一斉攻撃を受けて多くの兵を討ち取られ、森の中に逃げ込まざるを得なかった。シェルイ軍は帝国軍本隊から逸れた部隊を殲滅し、クジェ・メージェベスの敗残兵と合流して南に陣を構えた。

「シェルイ様」

 シャルが駆け寄ってきた。彼女の目の下には隈ができている。艶やかな黒髪も乱れ、ただただ疲労の中にいた。

「よくぞお戻りくださいました。お留守の際の国の守りをお任せいただいたにも関わらず、不甲斐無い限りでございます。申し訳ございません」

 彼女は俯いている。

「謝らなくていい。まさかネテアの大森林を突破してくるとは思わなかった。俺の想定が甘かった。ごめん」

 シェルイは頭を下げた。

「シャルもメージェベスの親父も元気そうでよかった。クジェの親父もよくやってくれてる。クジェの親父はどこだ?」

 彼の活躍は帰還の道中に遭遇したヤムハから聞いている。彼がいなければ帝国軍は補給に行動を制限されることなく王国各地を蹂躙していただろう。

 周囲の兵が沈黙した。見渡すとクジェの副官のベーネンが負傷して横たわっていた。シェルイはベーネンと旧知の仲であったが一見してその男がベーネンだとわからなかった。全身を血のにじむ包帯で巻かれ、数人の治癒師に囲まれている。彼の横に置いてある特徴的な装飾の槍と呻き声で何とか判別できたのである。

「ベーネン、無事か?」

 シェルイは彼の側に腰を下ろした。

「王ですか…。無事のご帰還、お慶び申し上げます。現在、私がクジェ様率いる西方守備軍司令官の代理を務めております」

「どういうことだ。親父は重傷でも負ったのか。あの化け物」

「…クジェ様は帝国軍総司令官アルディスを討つために…本陣へ突撃を行い…戦死なさいました…」

 瞬間、シェルイの見ている世界が揺らいだ。

「何言ってんだよ。そんな冗談面白くねえよ」

 青年は立ちあがって周囲の兵士たちに呼びかける。

「おい、クジェの親父はどこにいる?」

 誰も答えない。一人の軍医がついてくるように無言で促した。シェルイは黙ってついていく。足に力が入らない。地面の感触がない。空中を歩いているような感覚だ。篝火に照らされた急造りの野営地を歩くと兵士たちの死体が並んでいる地区に入った。その一番奥の死体の前で軍医は止まった。その死体を視界にいれた瞬間、シェルイの血が凍り付いた。

「親父…」

 彼が最も信頼を寄せ、対帝国防衛線の全権を委ねていた男の死体がそこにあった。全身に傷を負い、赤茶色の血がこびりついている。

 シェルイの体勢が大きく揺らぐ。ティンがすんでのところで彼の体を受け止めた。

「おい、大丈夫か!?」

「…ああ、ごめん。大丈夫だ。もう少し…早くついていれば…」

 帝国軍襲来の報を聞いてから五日、不眠不休で走ってきた。馬を替え、山岳を踏破し、平原を駆け抜け、最高速度でここまで来た。それでも自分の能力の欠如を恨まざるをえなかった。

 シェルイは自分の頬を殴った。鈍い痛みが右頬に滲む。しかしその感覚はどこか遠いものに思えた。

「シェルイ?」

「…悲しむのは後だ。今は…勝つことを考えねえと…」

 ここでくよくよしていたらクジェに殴り殺される。これからのことを考えねばならない立場にあるのである。

 諸将を集め、被害の程や残存兵力の再編を行った。深夜から明朝にかけて帰還してきたウィルヘルミナ軍遠征部隊や南方・北方守備隊が合流し、戦闘可能兵員は十二万七千五百名。軍馬はおよそその四倍。王国軍のほぼ全戦力が集結したのである。

「偵察兵の情報によりますと帝国軍の数はおよそ七万九千。ネテア王都トーヴァー包囲軍の一部を糾合し、食糧を得たようです。また、我らの後を追って、ロックウッダー率いる帝国軍五万が国境を越えて侵入。本軍との合流を目指しています」

「今日、攻撃を仕掛けられるか?」

 空が白んでいく。今であればこちらが兵力的に有利である。合流されればその利点は消え失せる。

「やめておいた方がよろしいかと。こちらの兵は皆、急な行軍や戦闘で疲労しています。向こうもそれは同じですが…双方疲労状態での戦闘は不要な膠着状態をもたらします。向こうにも休息を与えることになりますが今日は兵を休めるべきです」

 ヴェレンの提言にシェルイは従うしかなかった。参列する将校らには皆等しく疲労が浮かんでいる。アルフェンテから帰還する道中、実務をこなしていた将校、特にヴェレンやイディア、ディアナは休眠の機会を与えられなかった。彼らを休ませなければ軍の本質的な問題に躓くことになるだろう。

「わかった。兵には一日の休眠を与える。みんなもしっかり休んでくれ」

 シェルイは椅子に腰を下ろしてそのまま眠った。ヘルが溜め息を吐き、彼を抱えて天幕に運んだ。ベッドに横たえ、毛布をかける。天幕から出ようとした彼女を彼女のたった一人の主君が呼びとめる。

「ヘル」

 彼女は振り返る。シェルイは目を閉じたまま言葉を続けた。

「俺は…少しだけ自信がなくなってきた。内戦、帝国、ネテア王国、東方諸国連合、何度も何度も勝って勝って勝ち続けて自分の才能に自信を持ってた。負けても上手く纏められたつもりでいた。でも違った」

 確かに彼には才能があった。大抵のことは誰よりも上手くこなせるだけの才能を持っていた。青年はその才能に限界があるということを知っていたが、青年期特有の万能感により自分の才能を高く見積もっていたのである。それが今回の事態を引き起こした。国内を荒らされ、軍副司令官や将兵を多く失った。隣国のネテアは散々略奪を受けたらしい。その事実が彼の真っすぐだが脆い精神に亀裂を走らせてしまったのである。

「もうどうすればいいか全くわからん。王なんて、軍人なんて向いてなかったんだ」

 彼の声は震えていた。

「ごめん。みっともないとこを見せて」

 ヘルはシェルイの元に歩み寄ると目を閉じているシェルイの頬をひっぱたいた。

「ぐえっ」

 シェルイは慌てて起き上がる。ヘルは彼に馬乗りになると何度も何度も頬を叩いた。

「いだっ、え、ちょ、まって、叩きすぎ、がっ、ぎゃっ、ごっ」

 気が済んだのか彼女はシェルイから離れた。シェルイは彼女から距離を取って身構える。

「い、痛い…」

 シェルイの両頬は赤く腫れていた。顔色一つ変えずに馬の首をもぎ取る怪力の持ち主だ。手加減してくれていることはわかるがそれでも痛い。

「気は済みましたか?」

「こっちの台詞だよ! 気は済みましたか!?」

「叩いたことに大した理由はございません」

「じゃあ何で叩いた!? すっげえ痛いんだけど!?」

 シェルイは頬に手を当てる。

「非礼を承知で申し上げますがシェルイ様、貴方様は常にみっともないお方です」

「えー」

 突然の歯に衣着せぬ物言いにシェルイは消沈した。

「彷徨う逃亡奴隷、内戦で成り上がる一部族の将、似合わぬ花婿姿、性に合わない国王の姿。お会いした時から常に貴方様は何かを演じざるを得なかった。今更でございましょう」

「ごめん、何が言いたいか全くわかんない。敵か? お前敵か?」

 シェルイは目の前の寡黙な戦士の言葉の意味を測りかねていた。ここまで多くのことを話す姿は初めて見るかもしれない。

「失敗など一度や二度のことでは済みますまい。ですが貴方様はその度に立ち上がって乗り越え、自力他力を問わず数多の難局難敵を踏破された。苦難に満ちたその旅路の終着地はここではないはず。遥か彼方の海をその手に収めるのではないのですか?」

 青年の心臓が跳ねる。将やら王やらの衣服に身を包むうちにその胸の裡に宿る夢を忘れていたらしい。否、夢を追うことを忘れていたのだ。いつの間にか似合いもしない肩書に全精神力を奪われていたのである。

「ははっ、確かにみっともねえな。ウィアナとの約束を忘れてた。俺としたことが手段が目的になってた」

 乾いた笑い声が零れる。

「そうだな、ここで立ち止まってられねえよな。うん、目が覚めた。ありがとう」

 少しだけ気が晴れた。何のために剣を握るのか、原点に立ち戻ることができた。大切な人たちと海を見ること。それだけだ。

「それは何より」

 彼女は微笑み、天幕を出た。シェルイはそのまま眠り、夕方に目を覚ました。



 ウィルヘルミナ王シェルイは諸将を集め、会議を開いた。各々、休眠をとったようで顔には生気が戻っている。中でもシェルイはかつての精悍さを取り戻していた。

「シェルイ、何か考えついた?」

 ディアナが尋ねる。

「いや、何も。ははは」

 青年は笑った。

 将校たちは案を出し合って軍議を進めたが妙案と呼べるようなものは出なかった。どれも常識的な戦術に留まり、あのアルディスを打ち負かすことはできない。その間、シェルイは沈黙していた。

 会議が煮詰まって進展がなくなってきたところでシェルイと同じく沈黙を貫いていたクトゥが机を叩いて立ち上がった。

「目標は帝国軍を打ち破り、アルディスめの首を獲ること、ただそれのみ! であれば全将兵をもってアルディス本陣へ突撃し、その首を挙げればよろしい!」

 長い黒髪を振り乱してクトゥは叫ぶ。彼女の声が響き渡る。荒唐無稽で無謀なことを勢いに任せて口走っているが誰も彼女を止めることができない。

 猛々しい光を放つ彼女の目がシェルイを捉える。

「戦場に迷いは不要! 迷いがあるならその悉くを私が叩き潰して道を開こう! 何を迷う必要がある!?」

 その時、シェルイの金と銀の瞳に覇気の炎が燃え上がった。

「はははははは! その通りだ。巧緻な策も、周到な謀もいらん! 戦って、進んで、勝ち取るだけだ! 軍議は終わり。みんな、明日の戦いに備えておけ!」

「はっ!」

 諸将は解散し、次の戦いに備えた。


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