014 報告書とトラウマ
ミルトさんから突然ぽんと渡されたのは、ライネスブラウ氏の母親の事件の報告書だった。
ざっと目を通して、記憶と擦り合わせる。
「ライネスさんのお母さまの名前って、菫で合っていますか」
彼女から名前を聞いたとき、わたしにはそう聞こえたのだが、おそらく誤変換されている。
本来であれば、ライネスブラウやミルトなど、彼女の名前もアウルム語で伝わってもよさそうなのに、むこうにはアウルム語がなかったせいか、わたしの思い込みからか、菫と変換されてしまった。
わたしの目には、報告書の名前の欄に“菫”とそこだけ漢字で表示されて見える。違和感がすごい。たまたまこの名前の子がいたから知っていた漢字なので、知らなければ別の変換をしていた気がする。
「リイの目の色にちなんだと聞いたことがある。青の中にほんのわずか、その色が混じっていた」
ミルトさんは彼女のことをリイと呼ぶ。この国の人は発音できない音のはずなのに、普通に呼んでいる。
わたしが彼女のことをリイと呼ぶと、ミルトさんがそこはかとなくむっとするので、正確な名前がわからないまま菫さんと呼んでいる。
結局、犯人につながる手がかりは未だ見付かっていない。
十八年前の捜査資料は杜撰の一言で、報告書以外の証拠物は全て処分されていた。
「わたしが彼女から聞いたのは、レイという言葉と息子の存在だけで、ずっと同一人物だと思い込んでいました」
報告書を見ながらとりとめもなく話す。
人が液状化するとは、一体どんな事態だったのか。素人のわたしですら疑問に思うのに、当時の捜査員たちは魔力暴走で片付けることに疑問を抱かなかったのだろうか。
一番気になるのは目撃者がいないことだ。いくら私有地の森だとしても、王妃と王子の散策に護衛はつかないものなのか。ここでは侵入者には厳重なセキュリティが設けられているが、内部の監視システムはほとんどない。
「ただ、彼女から夫の話は一切出てきませんでした。わたしの育った環境では片親が多かったので、特に疑問にも思いませんでしたが、実際のところ、彼女には夫がいたわけで……。夫の話が一切出なかったというのは不自然じゃないですか」
「元々リイは俺が中にいたこともあって、婚姻する気がなかったんだ。それを半ば強引に押し進めたのがライネスの父親だ」
ミルトさんは菫さんの中に存在していたらしい。体内にという意味ではなく、魂のようなものが彼女の存在そのものに憑依していた、とわたしは解釈している。
ミルトさんがときどき母親のようにライネスブラウ氏の世話を焼くのは、菫さんの中にいたときの名残なのかもしれない。
「不仲だったんですか」
ミルトさんが調べ直した報告書には、事件の前後に行方不明になっている関係者のリストがあった。出入り業者、エレメン教徒、王宮の従業員、王族たちの側仕えなど複数人いる。その後の足取りが確認できていないのは、王宮に出入りしていたエレメン教の要職者、王妃の側仕えをしていた女官、国王の側近男性の三人。そのうちの一人が液状化した犯人なのか、それとも全く別の人物が犯人なのか。
「嫌ってはいなかったが、あまり興味は持てなかったようだな」
それは恋愛において最悪なパターンではないだろうか。好きの反対は嫌いではなく無関心。
夫である国王にしてみれば、妻に興味を持たれないのは悲惨だ。しかも強引に話を進めるほど好意を抱いていたのであれば余計に虚しい。
執務室のドアに目を向ける。その先にいるライネスブラウ氏はどう感じていたのだろう。
父子の関係がうまくいっていないのは、世間が言う“母殺し”よりも根深いところに原因があるような気がする。彼女に愛されなかった夫と、彼女に愛された息子。そして、それ以上に側にいたレイの存在。
「複雑ですね」
「単純だろ」
事も無げに言い切るミルトさんは、自分のデスクで大きく伸びをしている。
「ミルトさんって寝なくても平気なんですか」
「平気だな。ただ体を維持できない」
ライネスブラウ氏からはミルトさんは人に擬態したと聞いている。
わたしのイメージではホログラムが実態化したようなつもりでいたのだが、実際に肉体をつくりだしたという意味だったのだろうか。普通に人としての感触はある。
ミルトさんは謎が多い。
どうやって肉体を作り出したのかは、ミルトさんの過去の発言を考えると、あまり知りたい話ではない。ミルトさんの謎は知らないままが平和だ。
「ミルトさんは菫さんに会いに行かないんですか」
「行けるわけないだろ」
バカかおまえは、と目が言っている。
「どうしてですか。ライネスさんから力を返してもらえばいいじゃないですか」
「すでにライネスの魔力に馴染んでいる。身に覚えがあるだろう」
たしかに、絡まり縺れていた彼の魔力を馴染ませてひとつにしたのはわたしだ。ミルトさんに責められている気はこれっぽっちもしないし、ミルトさんも責めるつもりはないだろうが、責任は感じる。
「それに、ライネスから俺の力を抜けば、ライネスはライネスでなくなる。俺はライネスがライネスだからここにいるんだ」
そう言ったミルトさんの目は、菫さんのことを話すときと同じ色をしていた。
「そもそも、俺は界から弾かれた存在だ。俺単独の力では精霊界に入れない」
「それって、精霊界に入ることさえできれば、ミルトさんの力そのものは界から弾かれるから、界を超えられるということですか」
「そういうことだろうな。だからリイは界を超えた」
「だったらわたしは? 精霊界に入れる魔力なんて持っていませんでしたよ」
「人の魔力は精霊界に弾かれる。持っていなかったから入れた。おまけに界を超えたリイにもミアと同じ精霊の魔素が入ったんだろう。それが界をこじ開けた」
「わたしの魔力って精霊の魔素からできているんですか」
「そうだ」
菫さんは精霊の魔素を使って界をこじ開け、ミルトさんの力で強引にわたしを界に送り込み、ミルトさんの力が弾かれて、わたしはこの界にたどり着いた、ということだろうか。
「じゃあ、わたしの魔力をあげますよ」
「はあ? おまえ死ぬぞ」
ミルトさんは時々ガラが悪い。人知を超えた“悪なる”存在だったのではないかと疑ってしまう。魔王的な。似合いそうだ。
「死にませんよ。元々魔力なんて持っていなかったんですから。魔力を持たない動物が存在しているなら、魔力を持たない人間だって生きていけます。それでも必要だというなら、ライネスさんに分けてもらいます」
「ライネスが拒んだらどうする」
「それはそこまでの命ということです」
もう一生分の幸せを手に入れた。あとは余生だ。
ライネスブラウ氏の力がなければ生きていけなくなったとして、彼はそんなわたしを心配しながらも心の奥では安堵するような気がする。彼に庇護されることがわたしを満たし、わたしを庇護することがライネスブラウ氏を満たすはずだ。
どうしようもない思いを抱えてきたわたしたちは、どうしようもないことでしか満たされない。
いずれ拒まれる時が来るとしても、逆に拒む時が来るとしても、それはそれで仕方のないことだ。人の気持ちはあっけなく覆る。
「ミアは本当に面白いな」
「この世界の常識がないだけじゃないですか」
「そうかもな」
そう言ったあと、ミルトさんはしばらく指先で唇をつまみながらじっと考え込んでいた。
どのくらい経ったのか、少なくとも書類五枚分をじっくりチェックし終えた頃、不意に立ち上がったミルトさんがつかつかと歩み寄り、わたしの座る椅子の向きを強引に変えて自分の正面に向けた。そして、思いがけずその場に跪いた。
「本気にしていいか」
最上級の礼の姿勢。こういうところがミルトさんの人間くさいところだ。
「いいですよ」
ミルトさんの群青色の瞳が煌めいた。
〈お忙しいところ申し訳ないのですが、おそらく拉致されました。現在監禁されています。周囲に人の気配はありません〉
あっ! と思ったら、ここにいた。
倉庫のような雑然とした空間には扉がひとつしかなく、ドアノブを押しても引いてもびくともしない。ずっと高い位置に排煙窓がひとつあるだけの薄暗い屋内は、湿気とカビ臭ささに満ちている。
こういう場所に馴染みがあった分、久しぶりすぎて気が滅入る。湿気による肌寒さに、雨の日の薄暗い部屋を思い出す。あの頃はいつも重苦しい湿気がまとわりついていた。
ここでは湿度を気にしたことがない。地域性があるにしても、ここでの生活がいかにハイレベルなのかを嫌というほど思い知る。
〈はあ?〉
ミルトさんは相変わらずガラが悪い。暗に「おまえバカか」と言っているような声だ。自分でもそう思うので反論はしない。
〈怪我は?〉
ライネスブラウ氏は伝心でも冷静だ。
〈ありません。魔力をぶつけられただけのような気がしますが、たしかではありません〉
魔力を圧縮して急所を打つと相手を倒せる。
つい先日、月イチで行われている女性職員のための護身術講座で“護身術として女性が教わる最も簡単な魔力攻撃”という名目で教わったばかりだ。それを喰らった気がする。練習では圧縮しない魔力を受けたため、本当にこの程度で倒せるものか、と疑問だったのだが、実際にされてわかった。圧縮と不意打ちのコンボで一般人ならあっけなく倒せる。
〈拘束は?〉
伝心を通じて居場所を探られているのがわかる。
〈されていません。倉庫のような場所に閉じ込められています〉
〈相手は?〉
〈見ていません。大廊下を歩いている時に背後からいきなり。気が付いたらここにいました〉
死角からの不意打ちだった。
〈わかった。すぐ行く〉
言い終わらないうちにライネスブラウ氏が目の前に現れた。
術式が固定されていない転移は周囲になにもない上空に出現するのがセオリーだが、ライネスブラウ氏はお構いなしに室内に転移してくる。それが才能なのだとなぜかミルトさんが自慢していた。
ちなみに、ミルトさんは転移先にある障害物は問答無用で消滅させる。転移先に人がいないことを祈るしかない。わたしの近くには転移してこないよう、しつこく念押ししているが、毎回返事が軽すぎるので信用ならない。
「大事ないか。どこか痛むか」
ものすごい勢いでボディチェックされている。大丈夫だと言っても止まらない。心配し過ぎだ。ぎゅっと抱きつくことで強制的に終わらせる。
「ほかに気付いたことは?」
「気付いたらそこに寝かされていました」
指の先にはそれなりに高価そうなブランケットが敷かれている。床にそのまま放置されていたわけではないので、一応の気遣いはされていたと考えるべきか。でも、理由がわからない。
「喉は渇いていないか」
「特には」
ライネスブラウ氏の手のひらが頬に触れる。目を観察され、唇に触れられ、口の中を見られた。それから、緊急出動に備えて常に右胸ポケットに携帯している小型の水筒を取り出して、半ば強引に水を飲まされた。
「どのくらい時間が経っていますか」
「そろそろ戻ってくる頃だろうと思っていたところだった」
意識がなかったのは小一時間程度というところか。
「目的はなんでしょう」
最近はもっぱら行き慣れている二隊への手交書類だったので、ライネスブラウ氏の魔力を指先にまとうことなく配達に出てしまった。これからは常に青の魔力をまとわせてから行こう。
「ちなみに、手交書類はまだ手元に……ない!」
耐魔力ケースの中は空だった。空のケースをずっと掴んでいた自分にがっかりする。先に確かめておくべきだった。
「ああ、それなら問題ない。宛名以外の者が開封するとインクが消えるようになっている」
精霊のインクと封蝋。かなり高価なものだと聞いたことがある。使用するには相手の魔紋を把握する必要があるため、主に国家元首同士の機密文書に使用されているという……。
「もしかして毎回使っているあの青いインクや蝋って……」
「私が作ったものだ」
いつも思うのだが、ライネスブラウ氏の財産はどのくらいあるのだろう。ものすごくお金持ちな気がする。
青の魔晶石だけでも一財産築けるはずだ。さらに、術式の開発も行っているため、いくつも特許を持っていると、これまたミルトさんが誇らしげに話していた。
ライネスブラウ氏の執務室に転移で戻った。
転移魔法はぜひ覚えたいところだが、わたしの学力では到底覚えられそうにない。
ミルトさんは時々ライネスブラウ氏の術式が付与された魔晶石を使って転移しているので、わたしもこういうときのために付与してもらおう。
「ミア、本当に大丈夫か」
こころなしかライネスブラウ氏の顔色が悪い。そうだ、この人は失うことをなによりも恐れる人だった。
「大丈夫です。全身を確かめますか」
隊服を脱いでいく。ライネスブラウ氏が慌てたように結界を生成した。
裸になって傷ひとつないことを確かめてもらおう。この人の心の傷を思えば、裸になることよりも、自分の不注意で彼の心を傷つけたことのほうがずっと痛くてきつい。
「すまない」
下着に手をかけようとしたところで、ライネスブラウ氏が我に返ったように自分の隊服を脱いでわたしを覆った。
「どうかしていた」
彼の胸に抱き寄せられた。
ボディチェックを強制的に終わらせるのではなく、気が済むまで確かめてもらえばよかった。
「謝るのはわたしの方です。二度とこのようなことがないようにします。わたしは、絶対にあなたを一人にしません」
力いっぱい抱き締め返す。わたしはここにいる。伝われ、と願う。
「この世に絶対はない」
背を丸めてわたしの首元に顔を埋めるライネスブラウ氏が、抱きしめている腕に力を込めて、吐息のような声で言った。
わたしには初めから絶対の存在がいなかった。だから、平気でいられたところがある。絶対の存在を失った人がほろほろと崩れるように壊れていくさまを、これまで嫌というほど見てきた。
どうかこの人の心にも“絶対”が沁み込みますように。
「あります。わたしが証明してみせます」
なにがなんでも転移魔法を覚えよう。この人のもとに辿り着けるだけでいい。覚えられなかったら、もういっそのこと、タトゥーのように体に術式を刻めばいい。それなら万が一の時でも大丈夫だ。
「なかなか不穏なことを考えるものだ」
「あー…伝わりました?」
なんだか最近は伝心しやすくなっている気がする。感覚共有してからだろうか。それとも、彼の魔力を吸収したせいだろうか。
軽口を言えるようになっても彼の腕は緩まない。わたしが思っている以上に傷ついている。
お腹の底に青く冷たい火がともる。
許さない。目的がなんであれ、この人を傷つけるものは、絶対に許さない。
「ミア」
ん、と小さく声に出して返す。
「側にいてくれ」
はい、と応えた次の瞬間、警報音が鳴った。
慌ててライネスブラウ氏に隊服を返して、手早く自分の隊服を身に着ける。
着終わった瞬間、ライネスブラウ氏に抱えられて窓から飛び出した。
「揃ったな、行くぞ」
凛とした声を上げるライネスブラウ氏はいつもの毅然とした姿だった。
それが痛い。とてつもなく苦しい。
なにがあっても絶対にこの人を守る。そう決意した。




