013 病みと禁忌と幻覚
「ミア様、おはようございます」
うぅ゙ぅ゙……もう少し寝たい。毎朝アンナさんに起こしてもらうのがすっかり習慣になってしまった。
「ライネス様……、おはようございます」
そうだった。アンナさんの声に驚きが含まれている。気まずい。
「ああ。おはよう。今日は休務だ」
かしこまりました、というアンナさんの声と静かにカーテンを開ける音がする。
ライネスブラウ氏が休む日は、彼の専任事務官のわたしも休みだ。
ライネスブラウ氏に決まった休みはない。休めるときに休むスタンスだ。基本的にライネスブラウ氏は働き過ぎる傾向にあるので、スケジュールを調整して休みを確保するのも事務官の勤めだ。が、緊急出動などでスケジュール通りにならないため、こうして休めそうなときに休んでもらっている。自分だけなら働き詰めになりがちだが、わたしの休みも兼ねているので、適度に休むようになったらしい。
「毎晩こちらに?」
「ミアは気付いていなかったようだが」
バレてる。
「今後はお声がけください」
アンナさんの声に柔らかな微笑みが含まれている。
「昨晩ミアにも言われた」
心地良い声と同時にかすかな振動も伝わってくる。人は話すときにこんなふうに振動するのか。
「ご朝食はいかがなさいますか」
「そうだな、もう少し休む」
同じく。もう少し寝たい。
「かしこまりました。それでは、軽めのものをご用意いたします」
再びカーテンが閉められた。光を通す気のない分厚いカーテンは、魔力でもしっかり遮光されている。
「ああ、頼む」
ドアの閉まる音が小さく聞こえた。アンナさんは気配を消すのが上手いうえ、物音を立てずに動ける人だ。
「ミア、もう一度寝る前に少し水分を摂れ」
寝たふりもバレていた。
目を瞑ったまま軽く起こされて、口元にグラスがつけられる。
アンナさんが起き抜けに飲むハーブ水を毎朝持ってきてくれる。これを飲むと口の中がさっぱりする。至れり尽くせり。
「一人で泣くくらいならなぜ私を呼ばない」
それもバレていた。
少しずつ傾けられたグラスからぬるま湯が流れ込んでくる。多すぎず少なすぎず、ちょうどいい量の水分が喉を潤す。自分でも気付かないうちに喉が渇いていた。泣くと渇く。
「ライネスさんが帰ってきても声をかけてくれなかったから」
もそもそ八つ当たりしながら、もぞもぞキルトケットの中に潜る。
一度でも目を開けてしまうと二度寝できない質だ。だから、目を瞑ったまま、抱き寄せられるまま、至福の二度寝をする。
こうやって甘やかされていると、もう一人では眠れなくなってしまう。
……あれ、もしかしてこれは――。
「策士ですね」
「なんのことだ」
声が笑っている。長い指で髪を梳かれる。
これまでずっと髪はロング一択だった。不器用なわたしがセルフカットするにはある程度の長さが必要だっただけで、長い髪はただ鬱陶しいだけの存在でしかなかった。
「一人で眠れなくなります」
「奇遇だな。私もだ」
嘘くさい。
髪を梳くライネスブラウ氏の指先の気持ちよさにうっとりする。
アンナさんが様々なスキンケアやヘアケアを教えてくれたおかげで、肌も髪も驚くほどツヤツヤになった。
「わたしはきっと、鬱陶しいくらい依存します」
「私はおそらく、鬱陶しいくらい執着する」
薄く目を開けると、ライネスブラウ氏がわたしの髪をくるくると指に巻き付けてはすっと解くを繰り返していた。なにげに楽しそうだ。髪が長くてよかった。生きてきて初めてそう思った。
「ライネスさんのは執着ではないと思いますけど。いつもわたしを尊重してくれますし」
「ミアも依存はしていないだろう。テオに給金を全て預けていると聞いたが」
ライネスブラウ氏の財産を管理運用しているのはテオさんだ。ライネスブラウ氏が学生寮で過ごす間、テオさんはアルジェントに留学して金融を学んだらしい。
「アンナさんに頼ってばかりです。それに、ちゃんとお小遣い分は貰っています」
衣食住を面倒見てもらっているのは、十分すぎるほどの依存だ。
満腹を知ったのも、安眠を知ったのも、ここで暮らすようになってからだ。
超高級ホテルのような豪華な個室を与えられ、常に温かく美味しい食事が用意され、上質なものに囲まれて、毎朝起こしてもらえる至福。おまけに、安定した高給職に就けた幸運。
こんな生活を一度でも味わってしまえば、抜け出せる気がしない。
ライネスブラウ氏には精神的にも面倒を見てもらっている自覚がある。
完全無欠の依存状態だ。
「ミア」
名前を呼ばれて、ん、と返す。寝落ちしそう。泣くと疲れる。
「もっと依存していい。私がいなければ生きていけなくなればいい」
思わず笑ってしまう。魔力の歪みを整えているときに同じ事を考えていた。歪みが治らなければ、ずっと必要とされるのに、と。
「病んでますね」
「それは精神がという意味か」
「よくわかりましたね」
「自覚しているからな」
肩の力が抜ける。この人のこういうところに安心する。きっとわたしの歪んだ想いも正しく受け取っているのだろう。
「わたしもです」
なら似合いだな、という声がすぐそこで響いた。
国立魔竜研究所というストレートな名前の研究所が王都の北の外れに存在している。この研究所の職員が対魔隊の魔物処理班として討伐現場に臨場する。
魔竜研究所という名の通り、魔竜に特化した研究所だ。
今回のクマの魔物の解剖は職員が不慣れなために時間がかかったらしい。そのくせ三隊の鑑識班の派遣を拒否するのだから、それなりにプライドはあるのだろう。
解剖室に足を踏み入れた途端、うわっ、と思わず声が出た。
解剖後のクマは臓器別になっているのかと思ったら、スプラッターな状態で保管されていた。目に優しくない。お腹や脳がぱっかりしているのは仕方ないとして、せめて舌は口の中にしまってほしい。
人払いされた解剖室には精霊魔法による結界が成されている。絶対不可侵の精霊領域だ。
「どう思う」
「お二人とも、わたしがこういうものに耐性があると勘違いしていませんか」
「ないのか」
ミルトさんの意外だと言いたげな顔に強く抗議したい。ライネスブラウ氏が苦笑している。二人揃ってわたしをなんだと思っているのか。
「あるわけないでしょ。年頃の娘ですよ」
「それをここで言うのか」
「言いますよ。何度でも」
「で、どうなんだ」
ライネスブラウ氏の呆れ混じりの冷徹な声に、これは仕事だと割り切る。
「で」に込められた威圧感に首がすくむ。自然と背筋が伸びる。もう少し強ければ萎縮してしまうところだが、その匙加減がライネスブラウ氏は絶妙なのだ。
「各体液のサンプルはありますか」
これだ、とミルトさんに言われて、ひとまとめに用意されていたサンプルをざっと見渡す。
「これ、魔力が抜け切っていますが……」
どれからも魔力を感じない。血液にも残滓と呼ばれる痕跡もない。サンプル採取の際に消失したのかと思い、クマの体内を覗き見る。臭いが遮断されているおかげでなんとか吐かずに済んでいるが、かなりグロい。モザイク希望。
全てのクマを一体一体丁寧に観察する。内臓に手を突っ込むのはミルトさんに任せた。予想していた臓器には残滓がなく、予想していなかった臓器に残滓が見つかった。
「ここにかすかに黒い魔素が見えます」
二人の仮説にわたしの見立ても合致しているのだろう。二人とも納得した顔になった。
協議の場所をライネスブラウ氏の執務室に移そうと、研究所を後にする。いつまでも残酷な描写タグの付いたクマたちを視界に入れていたくない。気分転換も兼ねて移送ケージで戻ることを提案した。
屋外に出た途端、深呼吸する。血なまぐさいものをすべて吐き出し、清々しい空気を全身に取り込む。
王都の外れはゆったりと緑が広がっている。少し先に見えるのは城壁だ。
王都は昔の名残で城壁に囲われている。一時期は撤去も検討されたが、歴史遺産として城塞と一緒に後世に残すことにしたらしい。
風が薫る。いつの間にか新緑の季節になっていた。
わたしがここに来て一年が過ぎた。目まぐるしく環境が変わったせいか、驚くほど時間の流れが早い。
昨日の午後、ライネスブラウ氏に誘われて郊外までオルフィに乗ってのんびり駆けた。それがいい気分転換になったのか、今朝は妙にすっきりした気持ちで目覚めることができた。
それなのに……クマのスプラッター七体ですっきり感が綺麗さっぱりなくなってしまった。
城に戻る途中、ミルトさんは寄り道してスイーツを買っていた。内蔵に手を突っ込んだあとでよく食べる気になるものだ。
と思っていたのに、少し早めの昼食を購入する頃にはお腹がぐうぐう騒ぎ出し、いつも以上にもりもり食べた。案外食べられるものだ。
ミルトさん購入のデザートまできれいに平らげてから、本題に入る。
「ひとつ疑問なのですが、なぜ被検体はクマだったのでしょう」
「クマも信仰の対象だからだろう。クマを信仰している地域がいくつかある」
クマのほかにもオオカミやヒョウなど、地域によって様々な動物が信仰されている。いくら信仰の対象だとはいえ、なぜクマだったのかがわからない。もう少し身近な動物でも良かったのではないか。
信仰心がないせいか、信仰ゆえの行動原理が理解できない。
そして、問題は黒い魔素の検出箇所だ。
ここにはDNA鑑定が存在していない。その代わりに魔紋鑑定がある。
「七体すべてから同一の魔紋が検出されている」
ミルトさんが渡してくれたタブレットのような魔晶板に鑑定結果が表示されている。
魔紋ということは、やはり人の魔力から黒い魔素が作られているということか。タブレットに浮かぶのは、見慣れた形状の魔紋と見慣れない形状の魔紋だ。
「魔紋は人だけのものですか」
「気付いたか。竜にも魔紋がある」
ミルトさんが感情のこもらない声で答えた。
「この魔紋は、ん? 同一の魔紋の検出? 同一? 一個体という意味ではないですよね」
「そうだ。人と竜の魔紋が混ざっている」
「これまでに人と竜の魔力を混ぜたことは?」
「なんの必要があってだ」
ミルトさんの責めるような声に思わず怯む。
「なんのって、知的好奇心とか、研究者の性とか、理由はどうであれ、興味を持って試すことは悪いことではありませんよね」
「ミア、この国の宗教を思い出せ。この国に限らず、世界的に竜は尊ばれる存在だ」
ライネスブラウ氏に言われて気付く。わたしには宗教そのものが理解できていない。理解しなくとも生きていける社会で育った。だから、被検体にクマを選ぶ意味がわからない。わかりようがない。
「もしかして、禁忌ですか」
「もしかしなくとも禁忌だ」
つまり、知的好奇心などで軽々しく試してはいけない行為。この世界においては倫理的にもタブーのようだ。
魔力とは遺伝子のような感覚なのかもしれない。遺伝子操作で人を生み出すのは禁忌――。
はっとして、ライネスブラウ氏を見た。黒い魔素の残滓が残っていたのは雄雌ともに生殖器だった。
「もしかして……」
口にするのはためらわれた。禁忌と言われたばかりだ。
「精霊魔法行使者を人口的に作り出そうとしている。私のように」
わたしがのみ込んだ言葉を代弁するかにように、ライネスブラウ氏は静かに言った。
「ミアはあんな話を聞いて、よく私に触れる気になるな」
息を乱すことなくライネスブラウ氏が言った。
「侮ら…ないで…ください。わたしが…その程度…のことで…怯むと…思いますか」
わたしは喉が干からびるほど息が上がっている。この体力差はいかんともしがたい。
ライネスブラウ氏に水を飲まされた。恥ずかしいくらい喉が鳴る。
なんだかもう、お互いに貪った。しばらくは体に力が入らないと思う。
ライネスブラウ氏の結界の中、本能のまま貪り尽くしてようやく人心地ついた。なんだかもう、そうしなければいけない気がした。きっとお互いに。
なにかを確かめたかった。そのなにかは結局わからないまま、貪り尽くしたらどうでもよくなった。
「多少なりとも怯むかと思ったが。私は人ではない生き物だぞ」
「どこからどう見ても人ですよ。それを言ったらわたしなんて、この世界の生き物ですらありませんから」
ライネスブラウ氏は人と人ではないものの魔力を持つ存在だ。
薄々気付いてはいた。
彼の魔力は他の人と違う。ミルトさんの魔力は人の魔力ではない。そして、わたしの魔力も他の人とも彼ら二人とも違う。
ミルトさんはライネスブラウ氏の遺伝子上の父親ではないが、彼の魔力の素となった存在ではある。
ミルトさんは“レイ”と呼ばれる人知を超えた存在らしい。人知を超えた存在の意味がわからないので、一旦そういうものとしておく。
わたしが託された“レイ”という名は、かつてのミルトさんのことで、わたしが探していた息子はライネスブラウ氏だったという、世界を超えたにしては、やけに狭い世界の話だった。
あまりにもピンポイントすぎて、驚きよりも胡散臭さが勝るのは、わたしの根性がひん曲がっているからだろう。
そして、わたしの魔力には他の人との決定的な違いがある。色がないのだ。
魔力には色がある。その人の瞳や髪の色に近く、魔力の量や密度によって濃淡ができる。
わたしにはその色がない。無色透明。
人ではないミルトさんですら色はある。恐竜にも色があるというのに、わたしにはない。
わたしに色がないのは、この世界の生き物ではないことを意味しているのだろう。
そもそも、魔力の色が見えることもおかしいそうだ。
魔力の色は魔晶石に魔力を込めて初めてわかることで、魔力値が高ければ濃く、低い人だとほんのり色付く程度だが、色は見える。
魔力の流れが見えることや魔力の色が正確に見えていることが無色透明の証ではないか、と二人に言われた。
ライネスブラウ氏やミルトさんでさえ、黒い魔素の色は見えていない。
「それに、いまさら言われてももう遅いです」
「先に言っていたら違ったか」
「違いませんけど、ライネスさんこそ最初からわたしが異質だってわかっていたのによく手懐けようと思いましたね」
「人聞きが悪い。ミアは手懐けられるほど単純か」
「すごく単純だと思います」
少し優しくされただけでころっと手懐けられるほど単純だから、逆に疑り深く慎重になった。
大抵の人は見た目で判断する。
子供の頃から異物を見るような目でしか見られてこなかったせいで、耐性もついた。
それこそ、犯罪に巻き込まれたことはうんざりするほどある。
施設の職員たちからはっきりと教えられて、小学校に入学する前に自分があらゆる性犯罪の対象であることを自覚させられていた。だから、厳格といっていいほど自分を守ってきた。
誰かに手を伸ばしたい、誰かに寄り添いたい、誰かに守られたい、渇望ともいえる強い思いは常にくすぶっていた。
ほんの少し手を伸ばしては振り払われ、半歩だけ寄り添おうとしては突き放され、利用するためでしか手を伸ばされない。
守ってもらえないのであればせめて自分で守ろうとするたびに、かえって執拗に傷つけられてきた。
「あのとき、してましたよね、感覚の共有」
「そうだな。自然とそうなっていた」
あのとき、を正確に理解してくれたということは、やはり彼も気付いていたのだろう。
魔力が枯渇したとき、ライネスブラウ氏の魔力が沁み込んでくると同時に、幻覚のようなものを見た。
手を伸ばしたいのに伸ばせない、寄り添いたいのに寄り添えない、そんな身に覚えのある葛藤の中に、守りたいのに守れない、という自分とは少し違う思いを見た。
自分がどんなに傷ついても守りたいという思い。それと同じだけ、自分のものにしたい、という欲のようなものも見えた。
支配欲とも独占欲とも違う、もっと単純で子供っぽい、ただ確認したいだけの欲。十分すぎるほど身に覚えのある欲で、持ち物に名前を書いて自分のものだと確認するような、そんな原始的な欲。
わたしは守られたかった。自分で自分を守ることに疲れていた。もうなにものからも傷つけられないように、ただ守ってほしかった。
もう十分すぎるほど傷ついて、あとほんのひと押しで壊れる自覚があった。
きっとここで拒まれたら壊れてしまう。それがわかっていても、この人に壊されるならいいと思った。壊れてもいいからから欲しかった。幻覚でもいいから手を伸ばした。
「あのときは幻覚だと思っていました」
「私もだ」
「そんな自分に都合のいいことあるかって」
「そうだな」
手を伸ばした先のライネスブラウ氏は、わたしのすべてを包み込むように、ただ静かに笑った。




