012 魔物討伐とクソ思考
「どういうことだ」
討伐されたのはクマの群れだった。
ミルトさんを中心に、本隊と機動班が討伐されたクマを検分している。駆除されたのは七頭だ。
ルベウス領には野生のクマは生息していない。アウルム国内でも生息地は限られており、サフィルス領の南部、アルプス山脈と同じ位置にあるルベン山脈の一部地域にしか生息していない。しかも、クマは群れで行動しないという。
「ミア、なにか感じるか」
ライネスブラウ氏に訊かれて言葉に詰まる。
実際にクマを見ることが初めてで、どう説明していいかわからない。知識がないせいで、いま見えていることの真偽がはっきりしない。
「感覚を共有できたらいいのに」
返答に窮してぼそっと零したら、ライネスブラウ氏がぐっと距離を詰めてきた。
「なにかあるんだな」
「クマを直接見るのが初めてなので、正直なにが正解かわからないのですが、そもそもクマは魔力を持っていませんよね」
「魔力を持つものは人と竜だけだ。変質した魔素の影響を受けた動物は、凶暴化して人を襲うようになる」
小声で話しているとはいえ、これは口にしていいことだろうか。
〈ここからだとはっきりしませんが、あのクマたちの体内に魔力が流れているように見えます〉
〈黒い魔素か〉
〈ここからだとはっきりしません。ライネスさんにはあのクマたちが魔力持ちだということはわかりますか〉
〈魔力を帯びていることはわかる〉
近くで見ないと詳しいことはわからない。
「近くで見てもいいですか」
ライネスブラウ氏に促されて一頭のクマに近寄る。
魔物の場合は魔力攻撃が通じるようで、心臓を一撃で仕留められている。口の中からだらりと垂れ下がった舌が絶命を意味しているようで目を背けたくなる。
〈解剖はできますか〉
〈処理班ができるはずだ。もしくは三隊の鑑識班ができるだろう〉
ライネスブラウ氏に作ってもらったマスクの術式を応用して、口元と両手をマスキングする。
感染症を防ぐためだ。念の為、ライネスブラウ氏にも野生動物からの感染症の可能性を説明して、同じようにマスキングしてもらっている。全身は隊服に防護が付与されているので、肌が露出している部分のマスキングだけで十分だろう。他の隊員にも野生動物の死骸に触れる際はマスキングを推奨している。
専門知識のないわたしにはこの程度のことしかできないが、なにもしないよりはマシだろう。
クマの死体に手のひらで触れてみる。まだ体温が残っているのが生々しい。人や恐竜の魔力の流れははっきりわかるのに、このクマの流れは見えにくいうえに感じにくい。指先に魔力を集中させてもはっきりしない。ほかのクマを見ても似たような印象だ。
〈魔力は、もしかしたら血液の中を流れているのかもしれません〉
〈血液に魔力を流し込んだということか〉
〈魔晶石を粉砕して血管に直接注入したか、もしくは経口摂取したものが血液に入り込んだのか。それとも輸血か……いずれにしても、解剖でもしない限り現状はっきりしたことはわかりません〉
しばらく考え込んでいたライネスブラウ氏と目が合った。
〈ミア、感覚を共有してみてもいいか〉
〈そんなことできるんですか〉
〈わからない。だが、ミアとならできそうだ〉
わかりました、と言った途端、クマと二人を包む空間干渉が展開する。遮音と遮像だけでなく、術そのものが隠蔽されている。
「えっ、なんで隠蔽?」
しかも精霊魔法が使われている。幻影の結界だ。他人に見えるのはその人が記憶しているわたしたちの姿であって、いまここにいるわたしたちの姿ではない。気配だけは本物だが目に映る姿や動きは幻だ。
なぜかわたしのベッドにも施されている。ミルトさん以外の人には見破れない高度な魔法だと聞いている。
「現場で婚約者と二人きりになるのは不謹慎だろう」
「さすがに誰もそんなこと気にしませんよ」
「なにが災いするかわからない。用心に越したことはない」
貴族社会は闇深い。たしかに、政治家が足元を救われるのは、金銭問題か女性関係が大半だった。
「それで、どうすればいいですか」
「私もわからない。とりあえず密着してみるか」
おいでとばかりに軽く腕を広げられたので、照れくさいながらも抱き締められてみる。現場でこれは不謹慎すぎる。隠蔽は正解だ。
様々な方法を試した結果、手のひらを合わせるように指を絡めて握り合い、おでこをくっつけ合うと感覚が広がることがわかった。
感覚が共有されるというよりは、感覚が倍増する。自分の視界にライネスブラウ氏の視界が重なって、驚くほど鮮明になる。ライネスブラウ氏が感じている自分の手のひらの感触までわかるのは面白い。
あれ、この感覚――ふとなにかに気付きかけて意識が逸れた。
「ミア、集中しろ」
少し焦ったようなライネスブラウ氏の声に、逸れかけた思考が引き戻される。
一度共有すると離れても平気だった。ただ、感覚が少し弱まる気がして、片手は繋いだままにする。
「クマの体内にある魔力がわかりますか」
ライネスブラウ氏の感覚のお陰で、それまで以上に鮮明に見える。
クマの魔力はほぼ血管と同じ位置で滞っている。恐竜の場合は絶命しても魔力は循環したままだったが、このクマの場合はほとんど停止している。動きがないから見えにくかったようだ。
「駆除前はもう少しはっきり見えていたので、少なからず魔力は流れていたようです。駆除後に見えにくくなったのは停滞したからかもしれません」
突然ミルトさんが魔法円の中にぬるっと入ってきた。
「ミルトは私の魔力に干渉できる」
驚くわたしを放置して、ライネスブラウ氏はいまわかったことをミルトさんに端的に説明している。
「ミアはどう思う」
ミルトさんに聞かれて、考えつくままにつらつら話す。
「黒い魔晶石を首の後ろに打ち込めば、人工的に魔力の歪みを作り出すことができると仮定して……」
直接体内に入れる理由はなんだろう。
最終的な目標は人への投与だと仮定する。麻薬のような中毒症状が出るのだろうか。暴走状態が苦しみを与えるのであれば、拷問にでも使うつもりか。歪みを作り出して魔力暴走を引き起こし、犯罪行為を行わせるとか。暴走が治まると前後の記憶が消えるのであれば、完全犯罪も可能だろう。エレメン教の信徒ともなれば、人材確保も口封じも容易いはずだ。とはいえ、そこまで都合よくコントロールできるものだろうか。催眠術などと組み合わせれば可能なのか。そもそも暴走中の行動に一貫性はあるのか。
可能性として様々なことが考えられるが、突き詰めると現実的だとは思えない。まさか、とんでも魔法でなんとかできたりするのだろうか。精神系の魔法はおとぎ話だと言っていなかったか。
「このクマたちが被検体だとしたら、……」
もし、前回は恐竜の体内に流し込むことができなかったのだとしたら……。
「現状では魔力量が多いと体内で淘汰されてしまうのかもしれません。でも、この先実験を繰り返せば、魔力量の多い竜や人にも使えるように…なる……」
そこまで話していて気がついた。
「標的はライネスか」
ミルトさんが凶悪な顔で吐き捨てた。
「仮に成果が出るまで十年かかったところでライネスさんはまだ三十八歳です」
十分利用価値はある。
「ライネスが目的ではないにしても、混乱は起こせる」
「でも、エレメン教はこの国最大の宗教ですよね」
カルト教というわけでもないのに、そんなことまでするだろうか。
「一枚岩ではないのかもしれないな」
ずっとなにかを考え込んでいたライネスブラウ氏が静かに言った。
たしかに内部分裂はありそうな話だ。
世界的一神教から派生した小規模の宗教団体がカルトになることはよく聞く話だ。魔女狩りや悪魔崇拝も元はといえば一神教からの派生だと考えれば納得する。
そもそも、あの黒い魔素の原料はなんだろう。
「あの黒い魔素はなにから作られているのでしょうか」
「なにから?」
ライネスブラウ氏が怪訝な顔で繰り返した。
「歪んだ魔力を抽出する方法でもあるのでしょうか」
「ミアは、あの黒い魔素は人の魔力から抽出されたものだと考えているのか」
それ以外になにか方法があるのだろうか。
「あの黒い魔素は、自然界で変質した魔素とは違うものだと思います。少なくとも、恐竜の魔力は黒の魔素が関わっている個体と関わっていない個体では、歪みの質が違いますから」
「はあ?」
ミルトさんからガラの悪い声が上がる。言いたいことはわかる。わたしも明確な違いがわかっているわけではない。でも、このクマの停滞した魔力を見ていて気が付いたことがある。
「死斑ってあるじゃないですか」
「死後にできる痣のことか」
「そうです。その死斑のようなものが魔力の流れにもできるようです。前に大型種で見たときは、単に魔力が滞っている状態だと思っていたのですが、このクマを見ているうちにもしかして、あれは魔力の死斑のようなものではないかと思いまして」
ライネスブラウ氏に伝わるように大型種を見たときの滞りを思い出す。滞っているところに抽出機を当てていたことをライネスブラウ氏に注意されたのだから、彼もきっと覚えているはずだ。
あのステゴザウルスに似た魔竜のときも、ぼんやりと眺めていたせいではっきりと覚えているわけではないが、効率よく滞っている箇所から魔力を抜けばいいのに、と思った覚えがある。
いま思えば、その滞り方に違いがあるような気がする。
「私には違いがはっきりとはわからないが、感覚的にはわかる」
「ですよね。わたしもまだはっきりとわかるわけではないのですが……」
ああ、そうだ、この感覚。感覚の共有……ようやくわかった。以前にも感じたことがある。
そういうことだったのか、とライネスブラウ氏を見上げると、わざとらしく視線を逸らされた。
どいやら彼も気付いていたようだ。気付いていたくせに、集中しろ、と注意して有耶無耶にしようとしたのか。
そこから七日、ライネスブラウ氏に会えないまま日々が過ぎていった。
ミルトさんに会えないことは度々あっても、ライネスブラウ氏に丸三日以上会えなくなることは、ここに来た当初の二十日間以来だ。
こういう事はよくあったらしい。
アンナさんが言うには、わたしを保護して以来のライネスブラウ氏の帰宅率は驚異的で、これまでは屋敷に帰ってくることのほうが少なかったらしく、タウンハウスに掃除に行っても仮眠した様子もなく、執務室で仮眠しているのではないか、と主の体調を心配するほどだったらしい。
その執務室にもいない。執務室に併設されている仮眠室を使った形跡もない。
前室にひとりぼっちのわたしは、午前のルーティンを終えると少し早めにお昼を済ませ、午後からのルーティンである治癒士としての仕事を行っている。
対魔隊の本隊は五つのチームに分かれている。そのうち三チームが出動待機、一チームは予備待機、残りの一チームが休みの四勤一休のローテションだ。
基本的に平時の治癒は予備待機組をメインに行う。飛び込みで一番多いのは機動班で、時々見慣れない顔のやたらとコリのひどい人は大抵諜報班だったりする。
そして夕方からは新兵と一緒に魔学の講義を受けている。生活術以上の魔学を学べるのは貴族か富裕層の子女だけなので、一般人も採用される軍では夕方に二時間ほど学ぶ機会が設けられている。
今日もタウンハウスから転移で屋敷に戻る。
ライネスブラウ氏とミルトさんは、クマの解剖に付き合いながら、現地調査を行っているらしい。
七日かけて七体すべての解剖がようやく終わり、ここからさらに黒い魔素や体内を流れていた魔力の解析が始まる。
その間にも、関係各所との協議がこれでもかと詰め込まれている。執務室に戻る暇もないくらいに。それでいて溜まった書類が翌朝にはきれいに片付けられているのだから、一体いつ寝ているのだろう。
毎日伝心で連絡はもらっている。直接戻ると言われてもいる。なにかあれば必ず呼べと念も押されている。
通勤時は安全を考慮してテオさんが送り迎えをしてくれる。一人で大丈夫だと何度も言ったのに、それがここでの常識なのだと却下された。
さり気なくカルラさんに確認したら、たとえ日中であっても一人で帰ろうとするわたしのほうが注意される始末だ。今更ながら育った国の治安の良さを思い知ったと同時に、自分がどれほど腑抜けていたのかも思い知った。
一人になってわかった。
これまでずっと、一人にならないよう気遣われていたことに。
気付いてしまったら、一人だということに打ちのめされる。
テオさんもアンナさんもいるのに、ちょくちょくカルラさんが様子を見に来てくれるのに、毎日伝心で声が届くのに、一人でいることがこんなにも寒々しい。
思い出したくないことを思い出してしまう。
どうしようもないほどの孤独を思い出してしまったら、いままで孤独を感じずにいたことにも気付いてしまう。もうずっと、一人ではないと感じていたことにも。ここに居場所を見つけてしまったことにも。
同じ色を持つ人たちが当たり前にいる国。言葉も通じて、奇異の目で見られることのない、雑踏に埋もれてしまえる安心感。これまでずっと感じ続けていた異物感から解放されていたことにも気付いてしまう。
怖い。
当たり前なんてどこにもないのに、当たり前に思えてしまっていたことが怖い。
一人は怖い。
ずっと気を張って生きてきたのに、気付かないうちに気を抜いていた。いつの間にか守られていることが当たり前になっていた。
もう一人は嫌だ。
ダメだとわかっているのに止まらない。
どうでもいいネガティブ思考が止められない。
これまでも年に何度か、どうしようもなくなる夜があった。
怖くて寒くて意味もなく凍えて震える。泣いてもなにも変わらないのに涙が止まらない。どこも痛くないのにどこもかしこも痛くて仕方がない。自分で自分の感情を持て余す。
ここにいたらダメになる。でもここにいたい。一人で生きていけなくなる。もう一人で生きたくない。ぐちゃぐちゃな頭で出した結論はいつだって碌でもない。
知らなかった。
“いない”不安は知っていても、“いなくなる”不安は知らなかった。“いなくなった”不安も知らなかった。
最初から一人だったから、どこまでいっても一人だったから、一人に“なる”不安なんて知らなかった。
大丈夫。
次の朝にはきっとまた平気になっている。大丈夫。どうしようもないこんな夜を、これまでも一人でやり過ごしてきたのだから、きっと大丈夫――。
不意にライネスブラウ氏の魔力の気配がした。
衣擦れの音の後にベッドに入ってくる気配。背を向けたまま動けないでいるわたしを後ろから抱きしめて、体の力を抜くように、まるで安堵するかのように、深く息を吐いている。
吐息に首元をくすぐられて反射的に喉の奥が、ん、と鳴った。
「悪い、起こしたか。今日は少し遅くなった」
今日は?
「明日は休む。ミルトに付き合っているとミアと眠る暇がない」
わたしと?
もぞもぞと寝返りを打ってライネスブラウ氏と向き合う。顔が近い。色々恥ずかしいので彼の胸に顔を埋める。
どうして半裸なのだろう。いつもはパジャマを着るのに――そうか、ここはわたしの部屋だから……。
触れる肌からソープが香った。
「お疲れさまです」
「なんだ、眠れなかったのか」
匿うようにぎゅっと抱き直されて、体から力が抜けた。
もしかして、毎日ここで寝ていたのか。直接戻る、とはこういうことだったのか。どこにも仮眠の痕跡がないはずだ。
一度眠るとなかなか起きなくなってしまった自分が恨めしい。
今日はいつもより帰りが遅かったから、無意識に不安に襲われて、その挙句のクソ思考――まるで子供だ。
ふっと思わず笑いそうになった。いまになってわかった。
迷子の子供が泣いてしまうのは、こういう気持ちなのか。不安で不安で、自分でもどうしようもなくて、感情が行き場を失うから、かわりに涙が出てしまう。
絶対の存在がいなかった子供の頃はわからなかった。
ああ、そう、か。
胸にすとんと落ちてきた。
この人がわたしの、絶対の存在――。
「ライネスさん、次は必ず起こしてください」
「ミアは起きない」
「起きなくても起こしてください」
「無理を言うな」
ライネスブラウ氏がくくっと小さく笑っている。体温が沁み込んでくる。
過去から降り積もっていた憂鬱が、怯えるほどのクソ思考が、とろりと熱に溶けていく。




