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英霊の花嫁  作者: 原田修明
11/12

炎ノ翼

次の日の朝、夫が眼を覚ますと、有働中尉はすでにハンモックを畳んでいました。


「立花大尉殿、昨日はすいませんでした。自分の後に続いてくれるひとがいるかわかりませんけど、今日はスカッと死んでやりましょう」


子供のような笑顔でした。


「何て顔をするんだ」


夫がつぶやきました。


有働中尉は、気づいていないようでした。


夫は飛行服に着替えました。

これが夫を見る最後なのでしょう。


何を思ったか、夫はじっとわたくしを見つめると、不意に掴みあげました。


もしやわたくしは、恵子ちゃんに送り返されてしまうのでしょうか。


そんな思いとは裏腹に、夫は優しく、さみしげな微笑を浮かべました。


「行こうか」


まるで人間(ひと)に対するような物言いに、わたくしは一瞬、己の身の上を忘れそうになりました。


夫はわたくしを腕に抱え、飛行場に出て行きました。

今日発進するゼロ戦が10機、発動機の音を轟かせていました。

そのうちのひとつに向かおうとしたとき、夫は呼びとめられました。


「司令殿! おはようございます」


基地司令の大佐が、夫の前に立っていました。

口髭が黒々としていて、とても厳しそうな人でした。


「何だ、その人形は?」


司令はわたくしを見とがめると、低い声で訊きました。


「はっ! 娘の餞別であります!」


夫は悪びれることなく、はっきりと答えました。


「それと一緒に()くのか」


「はい」


厳しい顔で司令は夫を睨みつけていましたが、不意に空を見上げました。

わたくしは彼の眼に、溢れそうな涙を確かに見ました。


しばらくそのまま、時が過ぎました。


司令が前を向いたとき、その眼から涙が落ちることはありませんでした。


「武運長久を祈る」


それだけを言うと、夫に敬礼をして去って行きました。


ふうっとため息をつき、夫はわたくしに笑いかけました。


「よかったな」


逃れられない破滅を前にして、わたくしは人形でよかったと心から思っていました。

人形であればこそ、最後の最後まで夫と一緒にいられるのです。


わたくしは、わたくしの力が夫を生きて返すことができると信じます。


夫はゼロ戦に乗りこむと、わたくしを操縦席の後ろにおいて機器の点検を始めました。


「よし……」


点検が終わると、わたくしを膝の上に置き、澄んだ眼でじっと見つめました。

わたくしもしっかりと、見返しました。


「不思議だな。おまえとはずっと昔から一緒に居るように思える」


胸がきゅうっと熱くなりました。


居たのです。

わたくしはずっと居たのです。

おばあさんの家で目覚めたときから、ずっとあなたをお慕い申し上げていたのです。


わたくしは声も出せなければ動くこともできません。

けれども、この心は真実(まこと)なのです。


「いかん、時間だ……しばらく待っていてくれ」


夫は操縦席を跳びだすと、飛行服を着た人たちが整列しているところへ駆けて行きました。

今日出撃する人たちでしょう。


髭の司令が訓示をした後、飛行士たちは水杯(みずさかづき)を空けて地面に叩きつけました。


そして、それぞれのゼロ戦へと乗りこみました。

夫は帰ってくると、わたくしに言いました。


「さあ、一緒に()くぞ」


夫は風防を閉め、発動機の回転数を上げました。


ゆるゆるとゼロ戦が動き始め、それは次第に速度を上げ、やがて上から押されるような力と共に持ちあがりました。


わたくしは、生れてはじめて飛んでいました。


夫は5機の編隊の先頭を飛んでいました。

その前にさらに5機、爆弾を腹に着けていないゼロ戦が飛んでいました。

おそらく爆弾を抱えて動きが鈍くなっている夫たちの護衛でしょう。


初めての空の旅が平穏だったのは、ほんのわずかな間でした。


レイテ湾の空母から飛びたった米軍の戦闘機が、イナゴのように押し寄せてきたのです。


護衛のゼロ戦が必死で戦ったものの、何とか追いはらったときには胴体から火を吹いている1機が残っているだけでした。


夫たち特攻機は、奇跡的に無事でした。


まもなく、空母を中心とした軍艦の群れが、水平線におもちゃのように浮かんでいるのが見えました。


それを確認した護衛機は、力尽きたようにレイテ湾に落ちて行きました。


あらゆる軍艦から放たれる、赤く輝く対空砲火が空を埋め尽くしました。


「くっ……」


夫は機首を下げると、急速に高度を下げました。

後続の4機もそれに続きます。


途中、2機が撃たれてバラバラになりました。


水面ぎりぎりで機首を起こすと、1機がそのまま海面に突っこみました。

残っているのは夫と有働中尉だけでした。


夫が腕を上げて合図を送ると、有働中尉のゼロ戦は、奥にいる空母に向かっていきました。


有働中尉はぐんぐん速度を上げ、一直線に突っこんで行きました。


しかし巡洋艦を飛び越えようとした瞬間、有働中尉は大きな火球になりました。


火球はみるみる速度を落とし、空母の手前で落ちました。


「有働」


夫の唇から声が漏れました。


飛んでいるゼロ戦は、夫だけになりました。


夫は眼の前の駆逐艦を目標にしているようでした。


何万発もの曳光弾の下をかいくぐり、しぶきがあがるほどにまで海面にすれすれに飛び、ついに夫は操縦桿をぐいと引きました。


急上昇する夫に遅れて、対空砲火が追いかけてきました。


そして十分に高度をとると、そのまま背面に宙返りをしました。


真上に、ジグザグの航跡を描いて必死で逃げる巨獣が見えました。


ほとんど垂直になったとき、火の出るような急降下で駆逐艦に向かって行きました。


風を切る音、限界を超えた発動機の音、対空砲火の音、火薬の匂い、海の匂い、混沌が洪水となって押し寄せました。


対空砲火の激流に逆らって、夫は確実に狙いをつけていました。


そのとき、右の翼が吹き飛びました。


まっすぐ駆逐艦を狙っていた機体は、平衡を失ってきりもみを始めました。


「くそっ……!」


わたくしは祈りました。


わたくしに力を授けられた尊い御方(おかた)よ、どうか最後のお願いを叶えてください。


びきりと、白無垢の下で胴が砕ける音が聞こえました。


その瞬間、噴き出す炎が翼になったかのように、夫は体勢を立て直しました。


風防の外の光景が、水あめのようにねっとりと流れて行きます。


艦橋で、艦長が胸に十字を描いたのが見えました。


甲板で、そばかす顔の少年兵が、怯えに凍りついた顔でわたくしたちを見上げていました。


夫とわたくしは流星となり、甲板に突き立ちました。


刹那、腹に抱えた爆弾が爆発しました。


機器の破片が夫の体を切り裂き、風防の中は炎に包まれました。


炎の向こうで、甲板がふたつ折りになって迫ってくるのが見えます。


夫とわたくしの乗ったゼロ戦は、ひしゃげた甲板に挟まれ、ぎりぎりと哀しい呻きを上げました。


「恵子……」


炎の中で、夫は最愛の人の名をささやくと、燃え盛る両腕でゆっくりとわたくしを抱きしめました。


熱でわたくしの髪は溶け、黒い滴が眼から頬をつたっていきました。


それは、人形であるわたくしが流せる、ただひとつの涙でした。


わたくしと夫はひとつの巨大な炎となり、瀕死の巨獣と数百の命を飲みこんでいきました。


覚えのある感覚が、わたくしの中に現れました。

「眠い」です。

水底から見上げる太陽のように、炎が光っていました。


わたくしはもう、怖くありませんでした。

このまま眠気(ねむけ)に身を任せれば、わたくしは地上から消滅するのでしょう。


夫とともに。


炎の光は黒い刺繍を掛けていくように暗くなっていき、すべては闇に吸いこまれました。

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