終宴
8月、飛行機乗りたちの噂では、ニューギニアが陥落したとのことでした。
陥としたのは、2年前フィリッピンから逃げ出したマッカーサー大将でした。
おそらくニューギニアから飛んでくるのでしょう。
翼に星をつけた米軍の飛行機が何機もやってきて、稲妻のような機銃掃射をしていきました。
そのたびにゼロ戦が飛びあがって追い払っていました。
夫たち特別攻撃隊の隊員は温存されていましたが、いまやフィリッピンが最前線になるのは時間の問題でした。
9月、ついに米軍がパラオのペリリュー島に上陸しました。
フィリッピンから東へ1000キロのところにある小島ですが、飛行場があるそうです。
ペリリュー島が陥ちなくても、米軍はまもなくフィリッピンにやってくるでしょう。
終わりが始まったのは、10月でした。
とうとう、レイテ湾に米軍の大艦隊が現れたのです。
米軍は夫のいるミンダナオ島ではなく、レイテ島に上陸を開始しました。
破滅は鉄塊と強兵の姿を借りて、夫たちに襲いかかろうとしていました。
その日の夜は、いつもとは雰囲気が違いました。
米軍の上陸から基地は慌ただしく、殺伐としていたのですが、今夜は緊張した中にも笑顔がありました。
珍しく士官たちが酒を持って集まり、夫の部屋で宴会が始まりました。
夫と有働中尉を含む10人ほどの士官は車座に座り、静かにざわめいていました。
酒保からかき集めたのか、クジラの大和煮や牛しぐれの缶詰、干魚やするめが床に大量に並び、煮物などの料理が鉢に盛られていました。
これほど盛大な宴会は初めてでしたが、みんなは高歌放吟することもなく、箸でつまみをつつきながら、静かに酒を口に運んでいました。
わたくしは、戦闘の真最中に宴会をすることを不思議に思いました。
「この世で最後の酒だからな、ちゃんと味わわないとな」
夫の言葉に、みんなは小さく笑いました。
いったい、夫は何を言っているのでしょうか。
「とうとう明日、出撃ですね……自分が空母を沈めるところ、見ててくださいよ」
有働中尉が、赤ら顔でにやりと微笑みました。
ついにこの日が来たのです。
夫らは明日、爆弾を抱えて突っこむのです。
この静かで盛大な宴会は、今生の別れのために設けられたものでした。
有働中尉の言葉を聞いた夫は、不意に黙りこみました。
「……俺は、百里で体当たりを教えたことは一度もないぞ」
車座から、声が消えました。
「学生たちに戦闘機乗りとして、どこに出しても恥ずかしくないように、必死で教えてきた。それでも、俺の教え子たちは次々と戦死していく。もっと教えられることはあったんじゃないか、もっと鍛えられたんじゃないか、いつもそんなことばかり考えていた」
夫は手にしたコップから、透明な液体をごぼりと飲みました。
「もう我慢できなかった。俺は、教え子たちに報いなくちゃいけない。だから、志願したんだ」
誰にも言わなかった心でした。
わたくしだけが、知っていました。夫はこのことを抱えたまま、征くことはできなかったのでしょう。
「立花大尉!」
黙って聞いていた有働中尉が、酒で濁った声をあげました。
「あんた、そんな気持ちで特攻隊に志願したんですか。俺らを馬鹿にしてるんですか。自分の都合で、恵子ちゃんを父なし子にするんですか」
他の士官が立ちあがろうとするのを、夫は止めました。
有働中尉は続けました。
「自分も父なし子だから、わかります。どんなにみじめでさびしいか。名誉の戦死、いいでしょう。だけど、名誉が恵子ちゃんを守ってくれるんですか」
「人生を悔やみながら生きる父親を見せたくはない」
夫は、自分も父なし子であることは黙っていました。
「それがあんたの都合だと言ってるんだ! 醜い姿、いいじゃないですか。卑怯者、いいじゃないですか。特攻隊でさえなければ、立花大尉の腕なら生きて帰れますよ。いまさら自分らの命のひとつやふたつで、どうにかなると思ってるんですか。自分らが死んだあと、恵子ちゃんがどんな目に合うか、心配にならないんですか」
「……母や妻を信じている」
苦い顔で、夫が絞り出しました。
「もし自分に子供がいたら、とても……」
有働中尉が言いきる前に、夫は遮りました。
「もうやめろ、有働。もう俺も、海軍も、大日本帝国もここまできてしまった。俺たちに残されたのは、信じることだけだ」
「何をですか」
「俺たちの信念が、後に続く者を守ることをだ。俺たちがいなくなった後、立派に成長して、家族を作り、ふるさとを育てていく者たちを」
有働中尉は何か言いたげに口を開きましたが、声が出てくることはありませんでした。
今さら何を言おうと、運命の歯車は止まらないと気づいたのでしょう。
「……もう寝よう。明日にさしつかえる」
夫がため息のようにつぶやくと、気まずい空気のまま宴会はお開きとなりました。
ひとりふたりとつまみや酒瓶をかたづけ、部屋を去って行きました。
夫がハンモックを掛けている間、有働中尉はうつむいたまま黙っていました。
「消すぞ」
そう言われて有働中尉は無言でハンモックを掛けると、そのまま横たわりました。
夫が電灯を消すと、ただ細い月の光だけが部屋を薄青く照らしていました。
それがわたくしと夫が過ごす、最後の夜でした。




