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英霊の花嫁  作者: 原田修明
10/12

終宴

8月、飛行機乗りたちの噂では、ニューギニアが陥落したとのことでした。

()としたのは、2年前フィリッピンから逃げ出したマッカーサー大将でした。


おそらくニューギニアから飛んでくるのでしょう。

翼に星をつけた米軍の飛行機が何機もやってきて、稲妻のような機銃掃射をしていきました。

そのたびにゼロ戦が飛びあがって追い払っていました。

夫たち特別攻撃隊の隊員は温存されていましたが、いまやフィリッピンが最前線になるのは時間の問題でした。


9月、ついに米軍がパラオのペリリュー島に上陸しました。

フィリッピンから東へ1000キロのところにある小島ですが、飛行場があるそうです。

ペリリュー島が陥ちなくても、米軍はまもなくフィリッピンにやってくるでしょう。


終わりが始まったのは、10月でした。

とうとう、レイテ湾に米軍の大艦隊が現れたのです。


米軍は夫のいるミンダナオ島ではなく、レイテ島に上陸を開始しました。

破滅は鉄塊と強兵の姿を借りて、夫たちに襲いかかろうとしていました。


その日の夜は、いつもとは雰囲気が違いました。

米軍の上陸から基地は慌ただしく、殺伐としていたのですが、今夜は緊張した中にも笑顔がありました。


珍しく士官たちが酒を持って集まり、夫の部屋で宴会が始まりました。

夫と有働中尉を含む10人ほどの士官は車座に座り、静かにざわめいていました。

酒保からかき集めたのか、クジラの大和煮や牛しぐれの缶詰、干魚やするめが床に大量に並び、煮物などの料理が鉢に盛られていました。


これほど盛大な宴会は初めてでしたが、みんなは高歌放吟することもなく、箸でつまみをつつきながら、静かに酒を口に運んでいました。


わたくしは、戦闘の真最中に宴会をすることを不思議に思いました。


「この世で最後の酒だからな、ちゃんと味わわないとな」


夫の言葉に、みんなは小さく笑いました。

いったい、夫は何を言っているのでしょうか。


「とうとう明日、出撃ですね……自分が空母を沈めるところ、見ててくださいよ」


有働中尉が、赤ら顔でにやりと微笑みました。

ついにこの日が来たのです。

夫らは明日、爆弾を抱えて突っこむのです。


この静かで盛大な宴会は、今生の別れのために設けられたものでした。

有働中尉の言葉を聞いた夫は、不意に黙りこみました。


「……俺は、百里で体当たりを教えたことは一度もないぞ」


車座から、声が消えました。


「学生たちに戦闘機乗りとして、どこに出しても恥ずかしくないように、必死で教えてきた。それでも、俺の教え子たちは次々と戦死していく。もっと教えられることはあったんじゃないか、もっと鍛えられたんじゃないか、いつもそんなことばかり考えていた」


夫は手にしたコップから、透明な液体をごぼりと飲みました。


「もう我慢できなかった。俺は、教え子たちに報いなくちゃいけない。だから、志願したんだ」


誰にも言わなかった心でした。

わたくしだけが、知っていました。夫はこのことを抱えたまま、()くことはできなかったのでしょう。


「立花大尉!」


黙って聞いていた有働中尉が、酒で濁った声をあげました。


「あんた、そんな気持ちで特攻隊に志願したんですか。俺らを馬鹿にしてるんですか。自分の都合で、恵子ちゃんを父なし子にするんですか」


他の士官が立ちあがろうとするのを、夫は止めました。

有働中尉は続けました。


「自分も父なし子だから、わかります。どんなにみじめでさびしいか。名誉の戦死、いいでしょう。だけど、名誉が恵子ちゃんを守ってくれるんですか」


「人生を悔やみながら生きる父親を見せたくはない」


夫は、自分も父なし子であることは黙っていました。


「それがあんたの都合だと言ってるんだ! 醜い姿、いいじゃないですか。卑怯者、いいじゃないですか。特攻隊でさえなければ、立花大尉の腕なら生きて帰れますよ。いまさら自分らの命のひとつやふたつで、どうにかなると思ってるんですか。自分らが死んだあと、恵子ちゃんがどんな目に合うか、心配にならないんですか」


「……母や妻を信じている」


苦い顔で、夫が絞り出しました。


「もし自分に子供がいたら、とても……」


有働中尉が言いきる前に、夫は遮りました。


「もうやめろ、有働。もう俺も、海軍も、大日本帝国もここまできてしまった。俺たちに残されたのは、信じることだけだ」


「何をですか」


「俺たちの信念が、後に続く者を守ることをだ。俺たちがいなくなった後、立派に成長して、家族を作り、ふるさとを育てていく者たちを」


有働中尉は何か言いたげに口を開きましたが、声が出てくることはありませんでした。

今さら何を言おうと、運命の歯車は止まらないと気づいたのでしょう。


「……もう寝よう。明日にさしつかえる」


夫がため息のようにつぶやくと、気まずい空気のまま宴会はお開きとなりました。

ひとりふたりとつまみや酒瓶をかたづけ、部屋を去って行きました。


夫がハンモックを掛けている間、有働中尉はうつむいたまま黙っていました。


「消すぞ」


そう言われて有働中尉は無言でハンモックを掛けると、そのまま横たわりました。

夫が電灯を消すと、ただ細い月の光だけが部屋を薄青く照らしていました。


それがわたくしと夫が過ごす、最後の夜でした。

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