アパ-ト
「ここだ……」
十八歳になった航平は、卒業式を迎えると同時に家を出た。
島には戻らないと、決断して出てきた。
とうとう来てしまった。
拓巳にもらった地図は、汗でくしゃくしゃになってしまっている。
木造二階建ての建物は強烈な台風がきたら、真っ先に吹き飛びそうなボロいアパートだった。
ここの一階に陣が一人で暮らしている。
航平は一番端のドアの前に立った。
心臓が飛び出しそうだ。
表札はかかっていない。
拓巳の話では、日曜日は銀行が休みだから家にいるはずだという。
陣は高校を卒業して大学へ行き、それから銀行に勤めていると聞いていた。
陣にとうとう会える。
息を大きく吸い込んで、思い切って木造のドアを叩いた。
少し待ったが、誰も出ない。
もう一度叩く。
誰もいない?
時計を見ると、午前十時を過ぎたばかりだ。
昨夜は拓巳の家に泊めてもらい、迷惑にならない時間を選んで来た。
まだ、眠っているのかもしれない。
そっと窓からのぞこうとすると、ドアが開いた。
「あ…」
航平は慌ててドアに近寄った。
「陣っ」
思い切りドアを開けると、目の前に驚いた顔の男がいた。
尖った顎。目つきが鋭く、一瞬も逃さないように獲物を見る目。
相手を見上げながら、かなりの長身である事に気付く。
百八十センチ以上あるのは確かだ。
腕も筋肉が付いてがっしりしている。
思わず、精悍な顔つきに見ほれた。
「陣…」
涙ぐんで手を伸ばそうとすると、手を振り払われた。
「…何しに来た」
怖い声だった。
航平は唇を噛んだ。
陣がいい顔をしない事は百も承知だった。
「な、何だよ、久しぶりなのに、なんでそんな言い方すんの? あ、お邪魔します」
「航平っ」
涙を見られないようにうつむいて、靴を脱いだ。
「勝手に入るな」
「い、いいだろ、幼なじみなんだし」
「航平」
陣の指が航平の皮膚に食い込む。航平は顔をしかめた。
「は、離せよ」
「何しに来たんだ」
足を踏み入れようとして立ち止まる。
「う……っ」
「だから言ったんだ…」
目の前に広がるのはゴミの山だった。
ムッとする腐った臭い。
「出て行けよ」
「やだ。それより何だよこれ。人の住むところじゃないぜ」
部屋の広さは人がやっと横になれるくらい。
押入れもなく四畳半に布団が敷かれ、それを囲むようにゴミが山済みになっていた。
あまりの汚さに言葉が見つからない。
足を踏み入れると、嗅いだ事もない臭いがした。
見ると窓際にこんもりと洗濯物の山ができている。
脱ぎ捨てたボクサーパンツやら靴下がうねうねとそこらにあり、異臭を放っていた。
後ずさりすると何かを踏んでしまって、たかっていたハエが飛んだ。
「ぎゃっ」
悲鳴を上げると、陣が肩で息をついた。
「ほ、本当にここが陣の家? 嘘ついてんじゃないの」
「バーカ」
その口調が懐かしくて思わず航平は笑顔になった。
「バカじゃねえよ」
どさりと持っていた荷物を床に置く。
「今日からここに住まわせてよ」
「はあ?」
「明日から拓ちゃんの店で働く事になったんだ。でも、住む家がない。だから、ここに住まわせてほしいんだ」
「お前……」
陣の手がぶるぶると震えている。
怒らせるつもりはないが、どうせ怒るのだから、はっきり言った方がいい。
「出て行かないよ。拓ちゃんにも陣のところから通うって言ってきたから」
陣が目を閉じて頭を抑えた。
うっとうしくて黙って俺から逃げたんだろうけど。
もう俺は子供じゃない。
航平は、心で叫んだ。
陣が怒鳴ろうがわめこうが、離れるつもりはなかった。
「お前、正気か? この狭い部屋で男二人が暮らせるわけないだろう」
「俺、細いから平気」
「確かに痩せたな」
陣がふっと懐かしむ声を出した。どきりと胸が弾ける。
「やっぱりお前、太ってたんだな。腕とかふよふよしてたし」
「お、大きなお世話だ」
確かに航平は太っていた。
育ち盛りだろうと高をくくっていたら、陣と拓巳がいなくなって、ケーキを食べなくなったら十キロは体重が落ちて、拓巳に似ているとよく言われるようになった。
「お前、拓巳に似てる…?」
「そ、そう? 気のせいじゃない」
「……そうだな。拓巳は美人だが、お前はただの田舎者だ」
鼻で笑われる。
「何だと…っ」
ムッとした時、陣の携帯電話が鳴った。陣は部屋に転がっていた携帯電話を取った。
「はい」
電話に出て、親しい口調で話している。
一体誰だよ、と航平は口を尖らせた。
「航平、拓巳からだ」
「え……」
航平は電話を受け取って耳に当てた。
すると、拓巳から今すぐ来いと怒ったような声がした。
「分かった…」
しょんぼりと肩を落として立ち上がる。
「拓ちゃんが来いって、明日の事で話があるんだって」
「あっそ。もう戻ってくるなよ」
「俺、絶対に帰らないからっ」
乱暴にドアを閉めて部屋を出る。
陣の意地悪なんて今に始まった事じゃない。
陣のアパートと拓巳のパティスリー『ブリュレ』は、歩いて二十分ほどのところにあった。
駅を間にして十分ずつの距離だ。
地理を頭に入れながら駅に向かい、駅を通り越して店が連なる商店街の方へ向かった。
航平は、ふと子供の頃の話を思い出した。
最初に言い出したのは拓巳だった。
「陣、二人でケーキ屋を作ろうぜ。俺がパティシエで、お前はオーナーな」
陣が嬉しそうに笑っている。
航平は仲間に入れてもらおうと必死だった。
「俺も、俺も一緒にやる。俺は拓ちゃんと同じ職人になるっ」
「いいぜ」
拓巳は喜んでくれた。
陣がどんな顔をしていたのかは覚えていない。
夢を叶えたのは、拓巳だけ。
陣は銀行員になった。
『ブリュレ』に着くと、表から入った。
お客は入っていない。
正直言って、初めて『ブリュレ』を見た時は、がっくりした。
店内はお世辞にも綺麗とはいえない。
その上、拓巳は自分がテレビ王で優勝した時の映像をがんがん流していて、ムードもへったくれもない店だった。
「遅い」
店番をしていたのは拓巳だった。
「ごめん」
航平は謝ってカウンターの傍に寄る。
陳列棚にはケーキが窮屈そうに並べられていた。
チーズケーキとショートケーキが今にもくっつきそうではらはらする。
「ねえ、少しスペース空けたら?」
「あん?」
拓巳は不機嫌に航平を睨んだ。
綺麗な顔をしている分、迫力が増す。航平は肩をすくめた。
「おい、誰かここに立っとけ」
拓巳は厨房にいるパティシエに声をかけてから、航平を促した。
「来い」
顎でしゃくり事務所に向かう。
拓巳ってこんなに偉そうな奴だったかな、と思う。
「陣には会えたのか?」
「うん」
拓巳はイスに踏ん反り返ると、立っている航平を横でちらりと見た。
「座れよ」
「うん」
航平は言われた通り、椅子に座って拓巳を見た。
青白い顔。全体にほっそりしてひ弱に見える。
でも、顔の雰囲気は綺麗さが増して、色気があった。
「明日は朝の五時には来い。指示は誰かに聞け。給料は十二万。それだけあれば足りるだろ」
「うん」
航平は頷いた。
時給はいくらなの? と聞き出せる雰囲気ではなかった。
航平は、半ば強引にここへ押しかけた。
たまたま従業員が一人辞めたから店番でもやるか? と声をかけてもらったのだが。その声はあんまり明るい声ではなかった。
「お前さ、本当は何が目的なわけ?」
拓巳が突然、冷ややかに聞いた。
「え?」
「陣の事なんて手紙には一言も書いてなかったよな。それがこっちに出てきて、いきなり陣に会いたいなんて言い出して。陣に何の用事があったんだよ」
「あ……」
航平が視線を泳がせると拓巳は吐き出すように言った。
「お前、陣の事が好きなのか」
思わず肩が震えた。返事が出来ない。
「やっぱりな。お前ら、俺に内緒でこそこそしてたもんな。気がつかないと思ってたのか?」
「し、知ってるの?」
航平は焦って顔を上げた。
「何を」
「何でもない…」
拓巳は知らないのかもしれない。
言えるわけがないか。あれは航平と陣だけの秘密だから。
「ああ、あれね。お前らがやらしい事してたって話? 陣から聞いて知ってるよ」
ひやりとお腹が冷える。
「え……?」
「陣が言ってたよ、お前とああなったのは自分の弱さが原因だって。何もかも話してくれたよ。航平とキスしたけど別に好きじゃないからできたんだ。でも、隠しておくのは辛いからって全部話してくれた」
ハンマーが飛んできた感じがする。
陣の口から聞いたわけじゃないけど、拓巳の話は真実に思えた。
「お前さ、邪魔なんだよ」
拓巳の言葉が突き刺さる。
陣にも同じ事を言われた。
航平は奥歯を噛みしめた。
「陣に言いたかったから」
「何をだよ」
「陣が好きだ。それを言いに来たんだ」
拓巳が腰を上げて、呆気に取られた顔をする。
「それを陣に言うつもりなのか? 本気か?」
吐き出すように言った後、拓巳は大声で笑い出した。
「どこまで自分勝手なんだ。お前の気持ちが迷惑で陣は逃げたんだろ。八年も過ぎたのに、ここまで追いかけて来て迷惑している事に気付けよ」
「そんなつもりじゃ…」
「陣をこれ以上傷つけるなよ。お前の顔見るだけで嫌な事思い出すだろ」
「お、俺はずっと、陣に言うって決めて生きて来たんだ。だから、拓ちゃんは口出ししないで」
強く言うと、拓巳はむっとして口を閉じる。
「後悔するぞ」
「しない。言わない方が後悔するから」
「言っておくが、陣は俺と付き合っている。寝取ったりしたら、お前を許さないからな」
拓巳はそう言うと部屋を出て行った。
航平は怖くて身動きひとつ取れなかった。
拓巳と陣はまだ付き合っている。
邪魔をしにきたわけじゃない。
そう言い聞かせながら、無理やり自分を納得させている気がした。