序章 隠者の回帰
すべての人に、道行きの友があることを願って
幾度となく教え、
幾度となく語り、
幾度となくともに夢を渡り、
おまえにも、見せてきただろう?
この世には、永遠なるものが、ここにある。
師が自ら定めたその場所は、夏の借り宿の近くだった。
旅を繰り返す我々が、夏のひと時、憩う場所。
宿とも家ともいえそうにない、小さな洞穴。
それが実は唯一、我々が帰ると言える、ささやかな場所だった。
師は熊の頭と毛皮を持つ獣人だった。
百年を超えて生きた師が、自らの死を予見したとき、にわかには信じられなかった。
その壮年の姿を保つ、やや小太りだが頑健な体躯から、誰が死を連想しえよう。
人知れず己の道を極めた師は、その過程で肉体を根本から作り変えてしまったのだという。魔法使いである師・本人の言葉でさえなければ、俺は最初から、まともに受けあうことすらしなかった。それほどに、“死”とは縁遠い人だと思っていた。
俺は準備した食事を手に、師の元へと向かっていた。
もう三日ほど、師は食事をしていない。断食とも告げず、いきなり自ら食を断ってしまった。
口にするのは水だけ。そして、時折塩を舐めるだけ。
…この程度の断食なら、師ならば普通に行う。それは知っている。いつもなら何の憂慮もなく対処していけたが、今回ばかりは勝手が違っていた。
俺はまだ、師の言葉を信じきれていない。
先ほども診た、師の体は健康そのもの。なんら生命力の枯渇は見られない。一体どこに、その言葉を証明する根拠があるのか…。
手元の粥を覗き込み、己の狼の鼻でひくひくと匂いを嗅いだ。いい出来だと思う。だが溜息をついた。望まれてもいないのに、食事を作ってしまった。しかし、自ら死ににいくような真似だけはしてほしくない。でも、こういった冗談をいう師ではないとも分かっている。…混乱した俺は、ただ、師の言葉に抵抗したくて、…食べてほしくて、作ってみただけなのかもしれない。
師の姿が見えてきた。野ざらしの中にひっそりと座禅を組んでいる。俺は眉をひそめた。様子がおかしい。誰もいないのに、誰かと話している。
「師匠?」
俺はその場に椀を置き、足早に師の元へと進んだ。内心の恐怖は押し隠した。
「…あなた方が来てくれるとは…、思ってもみなかった。」
師のそばによる。師は何も見えない中空に向かい、静かに語りかけている。
…俺は泣きたい気分になった。師が狂ったわけではない。師は現実に何かと話している。俺にそれを見聞きする才能がないだけだ。
稀有なる偉大な魔法使いの弟子にして、俺には師に見合った才能がない。
魂も見えなければ、人ならぬものたちの声も聞こえない。一定の手順・儀式を踏まなければ霊眼は開いていないし、感覚も遮断されたままだ。俺はとり急ぎ、霊眼を開く儀式にはいった。
「父さん、母さん、お久しぶりです。…おなつかしい。」
霊眼を開くと、師の前に一組の男女の姿が見えてきた。
「…見えるか?…紹介しよう、私の父と母だ。」
…師の前に、師の両親が、魂の姿で現れた?
その意味を俺が考える前に、師が言葉をつないでいく。
「ここにいるのは、私の弟子…
私の自慢の弟子、リゲル。
私の弟子であり、息子であり、友であり、かけがえのない…」
師はここでしばらく、言葉を探すようにのどを詰まらせた。
「…私には過ぎた、できすぎた者、ほんとうに大切なものです。私の誇りであり喜び。ここまでのものが私の前に現れてくれるとは、ほんとうに、思ってもみなかった…」
師が口にした言葉には、万感の思いがこもっていた。感覚の鈍い自分にすら、魂の波長が感じられるほど。
俺はさらに、泣きたくなる気分を抑えた。
そんなことはない。俺は師の十分の一もできていない…。
「あなた方が迎えに来てくれたということは、私はもう、そちらに旅立つ時なのでしょう。
お迎えをありがとうございます。大変ありがたく思います。」
師が深く頭を下げる。
そして頭をあげ、次に口にした言葉は、決然とした拒絶だった。
「ですが、申し訳ありません、私はあなた方とともにいきません。
私は、ここにいるものを、守らなければならない。
これを、一人には、しない。
これとともにいます。」
俺はその言葉に胸が突かれて、もう何が何だか、体の芯がぐちゃぐちゃに崩れてしまったようだった。目の端から涙がこぼれそうになる。
「そうですよ、死なないでください、師匠。」
思わず口をはさみながら、俺は心の中で泣き言ばかりを言っていた。俺を置いていかないでくれ。まだあなたには習っていないことがいっぱいある。まだあなたには、教えて欲しいことが数限りなく、残っている…。
涙でゆがみ始めた視界に、見慣れた姿がゆがんで見える。…俺は気が付いた。開いた霊眼に見える師の燐光…、…生体なら誰しも発する光が…みるみるうちに弱っていく??!
「師匠?!」
俺はあわてて師の体に手を添えた。そこから静かすぎる息遣いが聞こえてくる。恐れおののいた。
「師匠!もっと深く息をしてください!」
「わが最後の願い…、最後の祈り…、」
ぶつぶつと何か、うわごとのようにいっている。
俺は己の全てを尽くし、命をつなぎとめようと触れた先から意識を伸ばす。
だが、返ってきたものは、どうしようもないほど色濃い、不確かな気配…死の気配だった。発した波動に応答がない。中空に放り出されたように、意識の手が何もない空間をさまよう。明らかに生命の気配が失われ、虚ろになっていく…。ただの物質へと変わりはじめていく肉体…、加速度的に滑り落ちていくぬくもり。光。…何もかも…、何もかもが失われていく!!いま、自分の手から!!!
「師匠ダメです!死なないで!」
俺は我知らず、泣き出していた。目を閉じ必死に方策を考える。…これを押しとどめる術はもうないのか?!その横で、力のかぎり師を抱きしめた。そうすれば、師の旅立ちを押しとどめることができるとでもいうように。
そんな自分のほほに、何かやわらかいものが触れた。
「…はは、そんな顔をするな、リゲル。」
俺のほっぺたの涙を舐めて、師がかすかに笑っている。
…その子供じみた所作に、状況を忘れて呆然とする。
いかに獣人同士とはいえ、お互いの体を舌で毛づくろいするのは…、親子関係か、恋人関係、何も知らぬ幼子同士…、本当に親しい、特別な関係に限られる。師に取り上げられ、師に育てられた己には、なんらおかしいことではなかったが…。それでも長じてからは、あからさまにすることではなくなっていた。
今は、師が幼子にするように、そうしてくる。
「おまえのそんな泣き顔を見るのは、いつ以来かなぁ?
小さかったおまえを手に取ったのが、つい昨日のよう…」
師の手がゆるりと上がり、俺の胸にふれた。意が伝わってくる。
そんな顔をするなよ。いつでも、ともにいるよ。
幾度となく教え、
幾度となく語り、
幾度となく、ともに夢を渡り、
おまえにも、見せてきただろう?
この世には、永遠なるものが、ここに、ある。
胸に響いた言葉の意味を、俺は呆けた頭で考えた。
その一瞬は、永遠のようだった。
自分に触れた手が、ふと力を抜き、ずるりと落ちる。
戦慄した。何もかもが凍りついた。
「…!!」
俺は、言葉なのか、嗚咽なのか、自分でもわからないまま、何かを叫びながらその手を取った。師の体の重さが増し、くずれおちる。
いつまでも、ともに。
最後はもう、言葉にすらなっていなかった。
息をとらえず、音にすらなっていないその言葉。言葉として形にもならないその想いを、俺は、魂で受け止めていた。
……そして。
かつて見たことのない現象を、俺は目の当たりにすることになる。




