2_違和感
まだ夜の冷気が残っている。
美浦の朝は早い。
吐く息が白く、馬房の奥からは乾いた鼻息と、藁を踏むかすかな音が聞こえていた。
いつもの朝だ。変わらない、繰り返しの中にある一日。
だが、その日だけは違った。
「これ、今日乗ってもらう馬です」
厩務員にそう言われて案内された先で、中野渡清一は一頭の馬を見た。
首をわずかに揺らし、じっとこちらを見ている。
「マルゼンスキーです」
名前を聞いても、特別な印象はなかった。
外国産馬。血統はいいらしいが、それだけの話だ。競馬場にはそういう馬はいくらでもいる。
問題は、乗ってみてどうかだ。
鞍を置き、跨がる。
その瞬間、違和感があった。
軽い。
いや、違う。
“静かすぎる”。
普通の若駒なら、多少は落ち着きがない。体のどこかに余計な力が入っている。
だがこの馬は、張り詰めているのに、無駄がない。
手綱を軽く取る。反応はいい。従順だ。
――問題なさそうだな。
そう思ったのは、ほんの一瞬だった。
コースに出す。
合図を送る。歩かせる。
そして、少しだけ促した。
そのときだった。
一歩目が、速い。
二歩目で、確信に変わる。
――速い、なんてもんじゃない。
身体が前に引っ張られる。
抑えようとしたわけじゃない。ただ、普通の加速を想定していた体が、置いていかれた。
まだ全力じゃない。
それなのに、すでに他の馬のペースを越えている。
「……おい」
思わず声が漏れる。
手綱を引く。反応はある。
だが、止まる気配はない。
いや、違う。
止まらないんじゃない。
止まる理由がないのだ。
まっすぐ前を見る。
耳がわずかに前を向いている。
この馬は――
「走ってるんじゃないな」
気づいたときには、背筋が冷えた。
命令に従っているわけじゃない。
暴れているわけでもない。
ただ、自分の意思で、最短で、最速で、前へ行こうとしている。
それだけだ。
だから、抑えが効かない。
――いや、抑えが「通じていない」。
一周回る頃には、呼吸が少し荒くなっていたのは自分の方だった。
馬の方は、まるで何事もなかったかのように落ち着いている。
厩舎に戻る。
待っていた調教師が顔を上げた。
「どうだった?」
少しの沈黙。
中野渡清一は、手綱を外しながら答えた。
「……分かりません」
それが、正直な言葉だった。
強いとか、弱いとか、そういう次元じゃない。
「競馬になるかどうかも」
調教師が眉をひそめる。
「どういう意味だ」
一瞬だけ考えて、言葉を選ぶ。
だが、適切な言い方は見つからなかった。
「……乗ってる感じが、しないんです」
それだけ言って、口を閉じた。
馬房に戻されたその馬――マルゼンスキーは、何事もなかったように餌を食べ始めた。
静かだ。
あまりにも、静かすぎる。
だが、その静けさの奥にあるものを、さっき確かに感じた。
あれは、力だ。
制御できるかどうかじゃない。
理解できるかどうかでもない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
――あの馬は、普通じゃない。
厩舎の外に出る。
朝日が昇り始めていた。
いつもの景色。
いつもの空気。
だが、何かが決定的に変わってしまった気がした。
理由は分からない。
ただ一つだけ、妙な確信があった。
「あれに乗り続けたら――」
言葉にはしなかった。
できなかった。
その先を考えるには、まだ早すぎた。
過去にタケシバオーに騎乗した中野渡。
タケシバオーで無謀な逃げを打ってしまった名手が、また異次元の馬に巡り合う。




