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血統 ー蹄の記憶ー  作者: あいまいもこ
スーパーカー

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3_デビュー戦

ざわめきは、小さい。

まだ誰も、この馬のことを知らない。


スタンドにはいつもの観客。

新聞を折る音、馬券を確かめる声、どうでもいい予想話。

それが競馬場の普通だった。


1976年。中山競馬場。


パドックを一周する馬たちの中で、マルゼンスキーは目立っていた。


静かすぎる。


周囲の馬が落ち着きなく首を振る中で、その馬だけが無駄な動きをしない。

ただ、まっすぐ前を見て歩いている。


「ずいぶん落ち着いてるな」


誰かが言った。

それだけの話だった。


まだ、この時点では。


――


地下馬道は、少しひんやりしている。


鞍上は、中野渡清一。


彼は過去に、あの快速馬――タケシバオーの全盛期にも跨っている。


スピードとは何か。

強い馬とは何か。


それを、知っている男だった。


中野渡清一は手綱を握りながら、何も考えないようにしていた。


考えれば、昨日の感触が蘇る。


あの、制御できない加速。

あの、“乗っていない”感覚。


だが今日はレースだ。


調教とは違う。

他の馬がいる。ペースもある。


競馬になるはずだ。


――そう思うしかない。


「頼むぞ」


小さく呟く。


返事はない。

ただ、耳がわずかに動いた。


――


ゲート前。


馬たちが一頭ずつ収まっていく。


金属音。

係員の声。


緊張はある。だが、いつものそれだ。


ただ一つ違うのは――


自分の中に、確信がないこと。


この馬が、どう動くのか。

それが分からない。


ゲートに入る。


静かだ。


異様なほどに。


「……」


息を整える。


スタート。


その瞬間。


中野渡の中で、“何か”が崩れた。


(……違う)


タケシバオーとも違う。

これまで乗ってきた、どの馬とも違う。


加速が――異常だ。


一完歩目から、すでに他馬の上にいる。


追う必要がない。

仕掛ける必要すらない。


ただ、持っているスピードが違う。


音が弾ける。


次の瞬間、視界が前に流れる。


速い。


考える前に、身体が理解する。


一完歩で、他の馬より前にいる。


二完歩で、完全に抜け出す。


――早すぎる。


抑える。


だが、昨日と同じだった。


反応はする。

だが、速度は落ちない。


いや――


落とす“必要”を感じていない。


「……っ」


手綱をもう一度引く。


だが、無駄だ。


馬はただ、最短で、最速で、前へ行こうとしている。


後ろの気配が消える。


並ばれる感覚が、ない。


コーナーを回る。


普通なら、ここで隊列が決まる。


だが――


すでに決まっていた。


一頭だけ、別のレースをしている。


そんな感覚だった。


直線。


後ろを確認する余裕があった。


見るまでもなかったが、それでも見た。


――いない。


差が開いている。


詰めてくる気配すらない。


観客の声が、少しずつ変わる。


歓声ではない。


どよめき。


「なんだ、あれ……」


そんな声が混じる。


中野渡清一は、何もしなかった。


できなかった、の方が正しい。


鞭を使う必要がない。

いや、使う意味がない。


そのまま、ゴール板を通過した。


――


歓声が遅れてやってくる。


だが、それは勝利へのものではない。


理解できないものを見た時の、ざわめきだった。


「今の……何馬身差だ?」


「いや、それより……」


言葉が続かない。


――


検量室へ戻る。


馬を降りる。


脚元を見る。


異常はない。

呼吸も乱れていない。


まるで、軽く流しただけのように。


調教師が近づいてくる。


「どうだった」


短い問い。


中野渡清一は、少しだけ考えてから答えた。


「……分かりません」


また同じ言葉だった。


強いのは分かる。


だが、それ以上のことが分からない。


「抑えたのか?」


「抑えました」


「で?」


「……効いてないわけじゃないです」


一拍置く。


「でも、止まる気はないですね」


調教師が黙る。


言葉の意味は、理解できているはずだ。


――制御はできる。

だが、支配はできない。


それがどれほど危ういことか。


誰よりも分かっているはずだった。


――


外に出る。


観客はまだざわついている。


勝った馬の名前を確認する者。

タイムを確かめる者。


だが、その顔には共通したものがあった。


納得していない。


理解していない。


ただ一つの感覚だけが残っている。


――何かを見た。


それだけだ。


中野渡清一は、振り返らなかった。


振り返る必要がなかった。


もう分かっている。


あれは、他の馬と同じ場所にはいない。


競馬場にいるのに、競馬の中にいない。


そんな存在だ。


「……始まったな」


誰に言うでもなく、呟く。


その言葉の意味を、まだ自分でも理解していなかった。



レース後。


中野渡は、静かに語る。


「4歳の時のタケシバオーに乗っていたこともあるんだけど……」


そして、少し間を置いて言った。


「それとも、ちょっと違っていたね」



その言葉の意味を、

この時、正確に理解できた者はいない。


だが――


それは、“比較できる存在がいない”という宣告だった。



「ボチボチ勝てればいい」


そう言われていた一頭の馬は、


その日――


“基準そのもの”を壊した。

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