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血統 ー蹄の記憶ー  作者: あいまいもこ
幻の馬

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14_慟哭

硬直。


それは、静かに始まった。


最初は、わずかな違和感だった。

だが、やがて全身へと広がる。


首が強張る。

脚が伸びる。

呼吸が浅くなる。


触れれば、反応する。

音に、光に、空気の揺れにさえ――

過剰に、怯える。


草刈りの音。


それだけで、全身が固まる。


動けない。


逃げられない。


ただ、固まる。


厩舎の空気は、張り詰めていた。


誰も近づかない。


近づけない。


医師と厩務員だけが、最低限の手当をする。


それ以外は、すべて遮断。


光を断つ。


音を断つ。


外界を断つ。


馬房は閉じられる。


昼なのか夜なのか、わからない空間。


その中で、トキノミノルは立っている。


いや――


立たされている。


倒れれば、終わる。


だから、立つ。


その姿は、あまりにも痛々しかった。


その外で、

永田雅一

は、何もできずにいた。


手を出せば、悪化する。


声をかければ、刺激になる。


近づくことすら、許されない。


ただ、待つ。


それしかできない。


時間が、歪む。


一分が、一時間のように長い。


頭の中で、同じ言葉が繰り返される。


――なんでだ。


ダービーは勝った。


あれほどの歓声の中で、

誰よりも強く走った。


あの馬が。


どうして、今、こんなところにいる。


意味がわからない。


理屈も通らない。


ただ、現実だけがある。


――助けてやってくれ。


あのとき、確かにそう言った。


金はいくらでも出す、と。


だが今、思う。


金で、何が変わる。


何が救える。


あの脚か。


あの身体か。


いや――


この苦しみか。


違う。


何も届いていない。


何も、変えられていない。


無力だ。


これほどまでに、無力だったことがあったか。


勝ちも、金も、名も。


全部、意味がない。


ただ一つ。


息をしているかどうか。


それだけが、すべてになっている。


――頼む。


また、その言葉が浮かぶ。


誰に向けてかも、わからない。


神か。

運か。

それとも、この馬自身か。


ただ、願う。


願うしかない。


その夜が、明ける。


六月十九日。


変化は、ほんのわずかだった。


硬直が、緩む。


目の光が、少し戻る。


そして――


餌に、口をつける。


その報せが、届く。


永田は、動かない。


すぐには、信じられなかった。


「……本当か」


誰かが、頷く。


その瞬間、力が抜ける。


壁に手をつく。


息が、漏れる。


長く、深く。


――助かるのか。


その考えが、初めて浮かぶ。


これまで、考えることすらできなかった。


怖くて。


口にすれば、壊れそうで。


だが今は違う。


ほんの、わずかだが――


希望がある。


笑おうとする。


だが、うまくいかない。


顔が引きつる。


それでも、いい。


構わない。


「……そうか」


小さく、呟く。


「食べたか」


それだけで、十分だった。


ダービーの勝利よりも、

どんな歓声よりも、


その事実が、重かった。


――まだ、終わっていない。


そう思える。


それだけで、救われる。


だが同時に、どこかでわかっている。


これは、ほんの一瞬の凪かもしれない。


嵐の中の、わずかな静けさ。


それでもいい。


たとえ一瞬でも、


この馬が、苦しみから離れたのなら。


それでいい。


永田は、目を閉じる。


祈るのではない。


もう祈りすぎた。


ただ、願う。


静かに。


誰にも聞こえないように。


――このまま、戻ってくれ。


それだけを、何度も繰り返していた。


六月二十日。


朝は、静かに明けた。


昨日、わずかに見えた希望。

その続きを、人は信じたくなる。


トキノミノルは、口を動かす。


ニンジン。

青草。


ゆっくりと、だが確かに食べる。


それだけで、厩舎の空気は変わる。


「戻るかもしれない」


誰も口には出さないが、

その思いが、確かにあった。


正午。


診察。


獣医の判断は、慎重だった。


急変の可能性はある。

だが――快方へ向かう。


その言葉は、光だった。

わずかでも、前を向ける理由になる。


永田雅一は、その報せを聞いて、しばらく動かなかった。


胸の奥に、じわりと広がるものがある。

――助かるかもしれない。


それは、これまで押し殺してきた考えだった。

期待すれば、裏切られる。

だから、考えないようにしてきた。


だが今は違う。

ほんの少しだけ、信じてしまう。


その「ほんの少し」が、

どれほど危ういかも知らずに。


午後。


何の前触れもなく空気が変わる。

再び、硬直。

全身が張り詰める。


一度。

二度。

三度。


繰り返す。

さっきまでの穏やかさが、嘘のように消える。


「おかしい……」


誰かが呟く。

だが、その声はすぐに飲み込まれる。


わかっている。

これは、戻りではない。


崩れだ。


処置が始まる。


浣腸。


薬。


だが、追いつかない。


飲み込めない。

嚥下ができない。

薬が入らない。


手が、止まる。

何もできない。

ただ見ているしかない。


時間が、加速する。


そして――


午後六時四十分。


崩れる。


全身が痙攣する。


立っていられない。


倒れる。


あの、どこまでも前へ出ていた馬が、

地に伏す。


音が消える。


誰も、声を出さない。


出せない。


ここから先は、もう――


人の手の届かない領域だった。


夜。


時間だけが過ぎていく。


呼吸。


浅く、途切れそうになる。


それでも、まだ繋がっている。


誰も、その場を離れない。


ただ、見守る。


何もできないまま。


競馬記者の

橋本邦治

は、あとに語っている。


「これがあのダービー馬かと、目を疑いたくなるような姿だった」


あまりにも静かで、

あまりにも小さい。


あの七万人の歓声の中心にいた存在とは、

思えなかった。


夜、十時を過ぎる。


一人の男が、駆け込んでくる。


岩下密政。


知らせを受けて、戻ってきた。

息を切らし、そのまま馬房へ入る。

トキノミノルは、横たわっている。


近づく。


しゃがむ。


声をかける。


「どうした」


もう一度。


「どうした……」


その声は、優しかった。

レースのときの声ではない。

ただの、人の声だった。


その瞬間、トキノミノルは、わずかに反応する。

そして――


目を閉じる。


静かに。


何の音もなく。


まるで、眠るように。


午後十時三十四分。


終わりだった。


死因は、破傷風に伴う敗血症。

だが、その言葉は、あまりにも無機質だった。

誰も、そんなものを求めていない。


ただ一つ。


あの馬が、もういない。


それだけが現実だった。


厩舎の中は、静まり返る。


誰も動かない。


誰も泣かない。


感情が、追いつかない。

あまりにも急で、あまりにも大きすぎた。

ほんの数日前まで、日本中の期待を背負って走っていた馬が、今、目の前で、動かない。

それを、理解することができない。


やがて、誰かが小さく息を吐く。


その音が、やけに大きく響く。

それでようやく、現実が流れ込んでくる。


終わった。


すべてが。


だが――


あまりにも、早すぎた。


あまりにも、短すぎた。


そして、その短さゆえに、

トキノミノルという存在は、

誰の中でも、消えることのないものになった。


まるで――

最初から、そうなるために生まれてきたかのように。

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