15_田中和一郎の後悔
競馬に「たら・れば」は禁物だ。
それは、誰よりも田中和一郎 自身が、よく知っている。
結果は、ひとつしかない。
やり直しは、きかない。
だが――
だからこそ、消えない。
もし、あのとき。
もし、あの一歩を違えていなければ。
その思いは、時間が経つほどに、むしろ鮮明になっていく。
厩舎の中は、静かだった。
あの日以来、何も変わっていないようで、すべてが変わってしまった。
あの馬がいない。
それだけで、空気の重さが違う。
田中は、一人で立っている。
誰もいない場所を、見る。
そこに、かつての姿を重ねる。
歩く音。
息遣い。
あの、前へ出ようとする気配。
すべて、まだ残っている。
消えていない。
だが現実には、もういない。
――たらればは、考えるな。
そう、自分に言い聞かせる。
何度も。
だが、すぐに崩れる。
考えてしまう。
あのとき。
ダービー前。
脚は、悪かった。
裂蹄。
腱の腫れ。
事実として、あった。
調教も、満足にはできなかった。
自分でも書いた。
「実に不安」と。
それでも――
出した。
なぜか。
理由はいくらでも並べられる。
状態が、持ち直した。
当日朝には、問題なかった。
あの馬なら、やれると思った。
そして何より――
出さなければならなかった。
あの空気。
あの期待。
東京優駿。
すべてが、あの一戦に収束していた。
回避する。
その選択を、あの場で、言えただろうか。
言えなかった。
はっきりと、わかっている。
誰かに止められたわけではない。
命令されたわけでもない。
だが、空気があった。
流れがあった。
そして、自分自身も――
その中にいた。
勝てると思った。
いや、勝たせたかった。
あの馬なら、できると信じた。
それが、間違いだったのか。
田中は、答えを出せない。
出せるはずがない。
あのレース。
トキノミノルは、勝った。
完璧ではなかった。
だが、勝ち切った。
無敗の二冠。
それは事実だ。誰にも否定できない。
だがその代償が、これだとしたら。
その先に、あの最期が待っていたのだとしたら。
それでも、同じ選択をするのか。
問いは、消えない。
何度も、繰り返される。
――回避できたのではないか。
脚を休ませる。
時間をかける。
秋へ。
菊花賞へ。
ゆっくりと、整えていく。
あの馬なら、それでも勝てたかもしれない。
いや、勝てただろう。
そう思ってしまう。
だが、その思いの先にあるのは、いつも同じ場所だ。
確かめようがない。
それが、現実だった。
田中は、深く息を吐く。
自分の手を見る。
この手で、決めた。
出すと。
走らせると。
その結果が、これだ。
誰のせいでもない。自分だ。
そう思おうとする。
だが同時に、別の声もある。
あの馬は、走る馬だった。
止めても、止まらなかったかもしれない。
走ることでしか、存在できなかった。
あの舞台に立たなければ、あの馬ではなかったのかもしれない。
どちらが正しいのか、わからない。
たぶん、どちらも正しくて、
どちらも間違っている。
それが、この世界だ。
田中は、目を閉じる。
思い出すのは、最後ではない。
あの走りだ。
前へ、前へと伸びていく姿。
誰にも追いつかれない、あの背中。
あれが、トキノミノルだ。
苦しんで倒れた姿ではない。
そう思いたい。
そうでなければ、やりきれない。
「……すまなかったな」
誰もいない厩舎で、呟く。
返事はない。
だが、それでいい。
それが、残された者の役目だった。
忘れないこと。
そして、問い続けること。
あの選択が、正しかったのかどうかを。
答えは出ない。
だが、それでも――
問い続けるしかなかった。




