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血統 ー蹄の記憶ー  作者: あいまいもこ
幻の馬

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13_異変

ダービーから、わずか五日後だった。

東京優駿の歓声は、まだ耳に残っている。


あの熱狂。

あの光景。


だが厩舎の中は、まるで別の世界だった。

静かだった。

異様なほどに。

厩務員の村田が、そっと口を開く。


「……どうも元気がないんです」


調教師の田中和一郎は顔を上げた。


「食欲も、落ちてきています」


ほんの一言。


だが、それで十分だった。

嫌な予感が、空気に滲む。


トキノミノルは、調教を休んでいた。

脚のこともある。

休ませるのは当然だった。


だが――


様子が違う。


悪化しているわけではない。

熱があるわけでもない。


それでも、日に日に元気がなくなる。


曳き運動。


歩く。


その歩き方が、重い。


辛そうに見える。


あの、どこまでも前へ出ようとしていた馬が、

前に出ない。


それが、何より異様だった。


数日後。


午後になって、異変がはっきりする。


目が赤い。


充血している。


結膜炎――


そう診断される。


治療が始まる。


だが翌日。


さらに悪い。


歩様がぎこちない。


目の充血が、増している。


そして――


瞬膜が、せり出してくる。


誰もが、黙る。


これは、ただ事ではない。


強心剤。

輸液。


できることは、すべてやる。


だが、夕方。


さらに悪化する。


そのとき、誰かが言った。


「……破傷風じゃないか」


空気が凍る。


それは、死に直結する言葉だった。


馬主の

永田雅一

が動く。


迷いがない。


車に飛び乗る。


隣には

岩下密政。


向かう先は、家畜衛生試験所。


血清を取りに行く。


夜の道を、走る。


無言。


ただ、急ぐ。


間に合うかどうか、それだけを考えている。


戻る。


厩舎に飛び込む。


薬が打たれる。


ペニシリン。

血清。


祈るように。


いや――


祈りそのものだった。


トキノミノルは、立っている。


だが、その姿は、もう違っていた。


かつての、あの張り詰めた気配がない。


どこか遠くを見ている。


永田が、近づく。


手を伸ばす。


触れる。


温もりがある。


生きている。


だが、それだけだった。


永田は、獣医と田中を見る。


その目は、いつもの強い光を失っていた。


声が、震える。


「……なんとかしてくれ」


一歩、近づく。


「頼む」


さらに、声が低くなる。


「助けてやってくれ」


そして、ほとんど叫ぶように言う。


「金は、いくらでも出す!」


静まり返った厩舎に、その声が響く。


「ダービーの賞金も、全部使え!」


誰も、動かない。


ただ、聞いている。


「競走生命なんて、どうでもいい!」


その言葉は、重かった。


あれほど「勝ち」に執着した男が、

初めてそれを捨てた。


「頼む……」


声が、崩れる。


「命だけは、助けてやってくれ……」


それはもう、命令ではなかった。


懇願だった。


誰もが知っている。


この男は、これまで一度も、

こんな声を出したことがない。


怒鳴ることはあっても、

頼むことはなかった。


だが今は違う。


ただの一人の人間として、

目の前の命にすがっている。


厩舎の空気が、重く沈む。


誰も言葉を返せない。


できることは、すべてやる。


だが、それで足りるかどうかは――

誰にもわからない。


薬は打たれ続ける。


夜が更ける。


時間が、異様に長くなる。


そしてその裏で、


費やされる薬剤。


その額は、膨れ上がる。


百万円。


ダービーの賞金。


それに匹敵する、あるいは超える。


だが、そんなものはもう意味がない。


金ではない。


勝ちでもない。


ただ一つ。


生きてほしい。


それだけだった。


かつて、七万人が見守ったあの馬は、

今、静かな厩舎の中で、


たった数人の人間に囲まれている。


歓声もない。


光もない。


あるのは、祈りと、恐怖だけ。

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