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血統 ー蹄の記憶ー  作者: あいまいもこ
幻の馬

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46/61

10_当たり前の勝利

春は、競馬にとって特別な季節である。


草は伸び、陽はやわらぎ、

そして――人は夢を見る。


その夢の中心にいたのが、トキノミノルだった。


連勝は続き、記録は積み上がり、

その名は、もはや競馬場の外へと溢れ出していた。


新聞が書く。

街が噂する。


競馬を知らぬ者でさえ、こう口にする。


「トキノミノルって、そんなに強いのか」


それは一頭の競走馬が、

世間そのものに浸透した瞬間だった。


迎えたのは、クラシック初戦――

皐月賞。


だのクラシック初戦ではなかった。


人々は「一頭の馬」を見に来ていた。


トキノミノル。


その名は、すでに競馬場の外にまで広がっている。

新聞を読まぬ者も、馬券を買わぬ者も、

なぜかその名だけは知っている。


だから、この日の観客は、どこか違っていた。


ざわめきがない。


代わりにあるのは、確信に似た静けさだった。


「勝つんだろうな」


誰もが、そう思っている。


だが同時に、心の奥底では別の感情も揺れていた。


――本当に、そこまで強いのか。


期待と疑念。


その二つが混ざり合い、

独特の空気を作り出していた。


単勝支持率、七三・三パーセント。


異様な数字である。


これは「賭け」ではない。


信仰に近い。ただただ信じていた。


トキノミノルが勝つことを、疑っていなかった。

だが、信じるという行為には、必ずわずかな恐れが伴う。


もし、負けたらどうなるのか。


もし、壊れたらどうなるのか。


その思いを、誰も口には出さない。


ただ、胸の奥に押し込める。


パドック。


トキノミノルが現れる。


観客の視線が、一斉に集まる。


声は上がらない。


ただ、見る。


その姿を、確かめるように。


「……あれが」


誰かが小さくつぶやく。


思ったより大きい。

思ったより落ち着いている。


そして、どこか張り詰めている。


生き物としての密度が、違う。


騎手の岩下密政は、無言だった。

手綱を握る指に、わずかな力がこもる。


いつもと同じ。


だが、違う。


この一戦が、何を意味するのか、嫌でもわかっている。

勝てば当然。

負ければ、すべてが崩れる。

それほどまでに、この馬は期待を背負っていた。


隣で調教師の田中和一郎が、静かに見ている。

表情は変わらない。


だが、その内側では計算が続いている。


馬場の状態。

ペース。

他馬の動き。


そして何より――


脚。


あの右前が、最後までもつかどうか。


それだけが、気にかかる。


だが、言葉にはしない。


言えば、現実になる。


だから黙る。


一方で、馬主の

永田雅一

は、まったく違う。


落ち着きがない。


歩く。

立ち止まる。

また歩く。


人に話しかけては、すぐに別の方を見る。


興奮している。


だがそれは、不安とは少し違う。


昂りである。


「勝つ」


そう思っている。


だが、それを体が持て余している。


勝つことを前提にした緊張。


それが、この男を落ち着かなくさせていた。


発走が近づく。


観客席に、再び静けさが戻る。


奇妙な時間だった。


何万人もいるのに、

まるで一人で息を潜めているかのような感覚。


ゲートへ向かう馬たち。


その中に、トキノミノルがいる。


誰もが目で追う。


そして思う。


――頼む。


その願いは、人によって違う。


勝ってほしい。

強さを見せてほしい。

伝説であってほしい。


だが、そのすべてに共通しているのは一つ。


この期待を裏切らないでくれ。


それだけだった。



発走。


いつも通り、出は速くない。


だが、誰も動じない。


知っているからだ。


二完歩目。


加速。


先頭へ。


その流れは、もはや様式美に近かった。


道中、無理はない。


だが緩みもない。


自らのリズムで、レースを支配する。


そして、最後の直線。


この馬の本当の姿が現れる。


三ハロン手前。


自分から動く。


合図はいらない。


鞭もいらない。


ただ、前へ出る。


その瞬間、他の馬は「競争相手」ではなくなる。


ただの背景になる。


伸びる。


差がつく。


だが、この日は少し違った。


着差は二馬身。


数字だけ見れば、圧勝ではない。


だが――


鞍上の

岩下密政

は、直線で後ろを振り返っていた。


それがすべてだった。


追う必要がない。


競る必要がない。


ただ、勝つだけでいい。


その余裕の中で、時計は刻まれていた。


二分三秒〇。


従来の記録を、六秒一も縮める。


常識が、壊れる音がした。


観客は、もはや歓声を上げることすら忘れていた。


ただ呆然と、

目の前で起きた現実を受け止めるしかなかった。


勝った。


当然のように。


だがその「当然」は、

誰も到達できない領域にあった。


この勝利は、それぞれに意味を持っていた。


岩下にとっては、初のクラシック制覇。


馬主の

永田雅一

にとっても、同じだった。


あの激情の男が、初めて掴んだ大舞台の勝利。


そして調教師の

田中和一郎

にとっては、三度目。


クモハタ、セントライトに続く勝利。


名伯楽としての地位を、さらに確かなものにした。


だが、この日の主役は、ただ一つ。


トキノミノル。


その競走能力は、対戦した者たちにさえ、

言葉を失わせた。


境勝太郎

は、こう語っている。


「桁違いの強さで競馬にならなかった」


敗者の言葉である。


だがそこに、悔しさは薄い。


あるのは、ただ純粋な驚嘆。


「とにかく強かった。素晴らしかった」


それ以上の表現が、見つからない。


競馬は、本来、力と力のせめぎ合いである。


だがこの日、それは成立しなかった。


勝負にならなかった。


一頭だけが、別の場所で走っていた。


それが、トキノミノルだった。


そして人は、思う。


この馬は、どこまで行くのか。


答えは、もう見えていた。


次は――


東京優駿。


すべての夢が収束する場所。

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