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血統 ー蹄の記憶ー  作者: あいまいもこ
幻の馬

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47/61

11_期待、空気、圧力

時代が一頭の馬を必要とすることがある。


だが、その裏で――

人間は、その馬にすがる。


戦後の競馬は、まだ脆かった。


中央も地方も、互いに独立し、

制度も資金も整っていない。


観客は戻りきらず、

売上は安定せず、

運営は常に綱渡りだった。


その中で現れたのが、トキノミノルである。


速い。

勝つ。

しかも、誰の目にもわかる形で勝つ。


新聞は書き、

人は集まり、

金が動く。


それまで「賭博の残り火」のように見られていた競馬が、再び「見世物」としての力を取り戻し始めていた。


だからこそ――

この馬は、ただの一頭ではなくなっていた。


皐月賞の勝利。

皐月賞。


あの圧倒的な走りは、

関係者にとって「確信」だった。


いける。


ダービーも取れる。


いや――


取らなければならない。


東京優駿。


それは単なるレースではない。


競馬という興行の、象徴である。

その舞台に、トキノミノルが立つかどうかで、

今年の競馬の“顔”が決まる。


関係者たちは、皆わかっていた。

――この馬を出さねばならない。


調教師の田中和一郎は、黙っていた。


怒りではない。

焦りでもない。


もっと冷たいものだった。


計算が崩れていく音を、頭の中で聞いていた。


それでも、ダービーは待っている。


東京優駿。


この馬のために用意された舞台。

そこへ向けて、最終調教の日が来る。


騎手の岩下密政は、馬にまたがる。

そして――走らせる。


だが、抑える。


最後の六百メートルだけ。

それ以外は、流す。


決断だった。


攻めれば壊れる。

抑えれば、仕上がらない。


その狭間で、岩下は「守る」方を選んだ。


調教が終わる。


静寂。


次の瞬間、怒声が飛ぶ。


「なんで追わないんだ!」


田中だった。


怒鳴る。感情が、抑えきれない。

それは、怒りというよりも、恐怖の裏返しだった。


このままでは間に合わない。

だが、追えば壊れるかもしれない。


どちらを選んでも、破滅の匂いがする。

その板挟みが、人を怒らせる。


岩下は、何も言わない。

言っても意味がない。

この問題に、正解はないからだ。


---


勝ち続ける者には、必ずその裏側がある。

それは表に出ない。

出てしまえば、物語は終わるからだ。


だが――

皐月賞の翌日、その裏側が、ついに姿を見せた。


厩舎の空気は、一変した。


それまでの熱狂が、静まり返る。

誰も、大きな声を出さない。

聞こえるのは、馬の息と、人の足音だけ。


トキノミノルが帰厩したとき、様子がおかしかった。

歩様が乱れる。


ほんのわずか。

だが、関係者の目には、それで十分だった。


空気が変わる。

誰もが同じことを思う。


――来たか。


右前脚。


あの弱点が、ついに表に出た。


そして翌日。さらに悪い報せが来る。


左前脚。


腱が腫れる。

さらに数日後、裂蹄。


蹄が割れる。


競走馬にとって、それはただの傷ではない。

走れなくなる可能性を意味する。


右を庇い続けた結果だった。

均衡が崩れ始めている。

厩舎総出の治療。


冷やす。

巻く。

祈る。


それは、もはや科学というよりも、

祈祷に近い行為だった。


---


やがて、その不安は外へ漏れ出す。

厩舎の中で起きていることは、外にはすぐに伝わらない。だが、完全に隠すこともできない。


新聞が書く。


「状態に不安あり」


マスコミは、敏感だった。わずかな異変も、逃さない。


「状態が悪いらしい」


その噂は、水のように広がる。

やがて、別の流れが生まれる。


――出るのか、出ないのか。


この問いは、やがて圧力へと変わる。

表からの圧力は、まだ柔らかい。


「ぜひ出てほしいですね」


「ファンも期待していますから」


「ここで回避というのは、どうでしょうか」


言葉は丁寧だ。


だが、その中身は一つ。


出せ。


もっと直接的な声もある。


「これで出ないなら、何のための競馬だ」


「ここで逃げたら、客は離れるぞ」


それは脅しに近い。

だが、誰もそれを否定しない。

なぜなら、それもまた事実だからだ。


一方で、裏からの圧力は、もっと露骨だった。


電話。


訪問。


非公式の伝言。


誰が言ったとも知れぬ形で、同じ話が繰り返される。


「今年は大事な年だ」


「ここで盛り上げないと、先がない」


「ダービーは、外せない」


それはお願いではない。

空気だった。

逆らえば、浮く。

従えば、守られる。

そういう世界だった。


調教師の田中和一郎は、その空気の中にいた。

表では冷静を装う。

だが内側では、揺れている。

出せば、壊れるかもしれない。


だが出さなければ――

何が起きるかも、わかっている。


信頼。

立場。

次の仕事。


すべてが微妙に揺らぐ。

それが、この時代の競馬だった。

____


馬主の永田雅一もまた、例外ではない。


本来なら、この男は押し切る。

自分の判断で決める。

だが今回は違った。

周囲の声が、大きすぎる。


そして何より――


自分自身が、その期待の中心にいる。

ダービーを取る。

そう言い切ってしまった。

だから引けない。引けば、言葉が嘘になる。


だが、出して壊れれば――

それはそれで終わりだ。


どちらも地獄だった。


馬主の永田雅一も、さすがに揺れる。


「出れば一番人気になる」


それはわかっている。


だが――


「ファンに迷惑は掛けられない」


出走辞退。


その言葉が、現実味を帯びる。


勝負師の男が、

初めて「引く」ことを考えた瞬間だった。


---


ある夜、厩舎の隅で、誰かが言った。


「これはもう、馬の問題じゃないな」


誰も否定しなかった。

トキノミノルは、ただ走るだけの存在ではない。


金が動く。

人が動く。

立場が動く。


その中心に、置かれてしまった。

それが、スターというものだった。

そして、時代というものだった。


誰もが「正しい」と思っている。

だが、その正しさは、どこか歪んでいる。


馬のためか。

人のためか。

競馬のためか。


その境界は、もう曖昧だった。

結論は、静かに決まる。


---


だが、運命は、簡単には終わらせない。


前日。


状態が、わずかに良化する。


当日朝。


さらに良くなる。

まるで何かが、無理やり整えているかのように。


両前脚。


見た目には、問題がない。

ここで決まる。


出走。


それ以外の選択肢は、

最初からなかったのかもしれない。


こうしてトキノミノルは、万全ではない身体で、

東京優駿へ向かう。


それは、栄光への道であると同時に――


取り返しのつかない何かへ続く道でもあった。


だがそのことを、誰も口にはしなかった。

いや、できなかった。


ーーー


だが、それは安心ではない。

むしろ、別の種類の不安を呼び込む。


田中は、調教手帳に書く。


「実に不安」


短い言葉。だが、その中にすべてがある。


永田もまた、口にする。


「今年のダービーは六月三日……足せば九だ」


九。


トキノミノルの枠順も九。


そして――苦。


脚の故障。


レースでも苦になる。


理屈ではない。


だが、人はこういうとき、意味を見出そうとする。


偶然を、運命に変えようとする。

それだけ、追い詰められていた。


そして、最後の手段。

蹄と蹄鉄の間に、フェルトを挟む。

負担を軽減するための措置。


応急処置。


完全ではない。


だが、やるしかない。

すべてが、綱渡りだった。

一歩間違えれば、落ちる。


だが、その綱の先には――


東京優駿。


頂点がある。


だから進む。不安を抱えたまま。

壊れるかもしれない身体を抱えたまま。


それでも、トキノミノルは出る。


なぜか。


この馬が、

走ることでしか存在できないものだからだ。


そして人間たちもまた、

その運命から逃れられなかった。


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