8_脚部不安
連勝という言葉は、数字で書けばただの積み重ねにすぎない。
だが現実のそれは、空気を変える。
一つ勝つ。
また勝つ。
そのたびに、人の目が変わる。
トキノミノルは、そういう勝ち方をした。
函館での初戦の衝撃が、まだ消えぬうちに、
二戦目のオープン戦を、まるで当然のように勝った。
ここまでは、まだよかった。
「強い馬が出てきたな」
――その程度の話で済んでいた。
だが、三戦目。
札幌で行われたステークスで、
相手は三戦三勝の有力馬、トラツクオー。
無敗同士。
この時代、情報は遅い。
だが「強い馬がいる」という噂だけは、やけに速く伝わる。
観客は半信半疑だった。
本物か、それとも地方で勝ってきただけの馬か。
発走。
馬群が動く。
そして――
一頭だけ、違う。
トキノミノルは、他馬と同じ競馬をしていない。
並んで走るのではない。
最初から「離れる前提」で走っている。
直線。
差が開く。
一馬身。二馬身。
やがて、それは数えるのが馬鹿らしくなる。
十馬身以上。
しかも、レコード。
観客席に、ざわめきではなく、笑いに近い声が広がった。理解を超えると、人は笑う。
「なんだ、あれは」
誰かが言う。
だが、誰も答えられない。
競馬という枠組みの中に、
収まりきらないものが、目の前を走っていた。
――そして、関東へ。
輸送というものは、当時の馬にとって小さくない負担だった。
環境も違う。気候も違う。
普通は、どこかで崩れる。
だが、トキノミノルは崩れない。
四戦目。
また勝つ。
しかもレコード。
五戦目。
また勝つ。
やはりレコード。
ここに至って、もはや「強い」という言葉は意味を失う。
強いのではない。基準が違う。
関東の競馬関係者が、ようやく現実を受け入れ始める。
「これは、来る」
目標は一つ。
朝日杯三歳ステークス。
関東三歳王者決定戦。
その舞台に、トキノミノルは立った。
だが、その日、空は崩れた。
雨。
馬場は重くなる。
当時、重馬場は別競技に近い。
脚を取られ、力を奪われる。
どれほど速い馬でも、条件が変われば脆い。
それが競馬だった。
だから、人は少しだけ期待した。
「これで崩れるかもしれない」
発走。
泥が跳ねる。
他馬は慎重になる。
だが――
トキノミノルは、ためらわない。
むしろ、踏み込む。
重い馬場を、力でねじ伏せる。
直線。
差が開く。
四馬身。
終わってみれば、何事もなかったかのような勝利。
六連勝。
三歳王者。
相手が強かろうが、条件が悪かろうが、結果は変わらない。ここに至って、人は確信する。
「これは、本物だ」
いや、本物という言葉でも足りない。
時代が、この馬を必要としている。
当時の競馬は、まだ揺れていた。
戦後。
制度も整わず、中央も地方も、それぞれが別々に動く。
資金は足りない。
人気も安定しない。
国営競馬は、どこか頼りなかった。
そこへ現れたのが、トキノミノルである。
速い。
勝つ。
しかも、わかりやすく勝つ。
人は、こういうものに惹かれる。
難しい理屈はいらない。
見ればわかる。
強いから、見る。
見るから、また人が来る。
気づけば、競馬場の空気が変わっていた。
観客が増える。
新聞が書く。
話題になる。
トキノミノルは、単なる一頭の競走馬ではなくなっていた。
現象になっていた。
ある記者が書いた。
「戦後の国営競馬界にとっての救世主」
大げさではない。むしろ、正確だった。
焼け跡から立ち上がろうとする時代に、人々は「何か」を求めていた。
勝つもの。
明るいもの。
信じられるもの。
トキノミノルは、そのすべてを持っていた。
だから、人はこの馬を見る。
そして、思う。
「このまま、どこまで行くのか」
答えは、まだ誰にもわからない。
だが一つだけ確かなことがある。
この馬は、すでに競馬という枠を越え始めていた。
だが――
完璧に見えるものほど、どこかに綻びを抱えている。
トキノミノルにも、それはあった。
勝てば勝つほど、その影は、静かに濃くなっていく。
右前脚。
生まれつき、そこが弱かった。
外から見ればわからない。
走っているときは、なおさらだ。
むしろ、その走りは美しかった。
地を蹴るたびに、前へ、前へと伸びる。
他馬よりも軽く、速く、無駄がない。
だが、それは裏を返せば――
一箇所に負担を集中させている走りでもあった。
庇っている。
無意識に。
右前をかばい、他の三本で補う。
結果として、それは異様な推進力を生む。
だが同時に、どこかで均衡が崩れれば、すべてが壊れる。関係者は、気づいていた。
あまりにも速すぎるこの馬が、あまりにも危ういことを。
騎手の岩下密政は、その感触を誰よりも知っていた。
背に乗ればわかる。
「軽い」
だが、その軽さは安心ではない。
どこか、浮いている。
踏み込んだ瞬間、ほんのわずかにズレる。
普通の馬なら気にも留めない違和感。
だが、この馬では、それが命取りになりかねない。
調教のたびに、岩下は考える。
――今日は、どこまでやるか。
やらせれば、どこまでも走る。
抑えなければ、限界を越えてしまう。
だから、だます。
馬を、ではない。
自分をだます。
「今日はこれでいい」
そう言い聞かせて、手綱を引く。
だが、引けば不満が伝わる。
もっと走れる、と。
トキノミノルは、そういう馬だった。
痛みを見せない。
弱さを見せない。
ただ前へ出ようとする。
だからこそ、怖い。
膝の痛みは、徐々に表に出てきた。
特に四歳に入ってからは、常態化していた。
歩様にわずかな硬さが出る。
厩舎に戻れば、脚を気にする仕草を見せる。
だが、レースに出れば――
何事もなかったかのように走る。
勝つ。
また勝つ。
そのたびに、周囲は安心する。
「大丈夫だ」
だが、本当にそうか。
誰も、確信は持てなかった。
調教師の田中和一郎もまた、沈黙していた。
言葉にすれば、現実になる。
だから言わない。
だが、わかっている。
この馬は、長くはもたないかもしれない。
それでも、止めることはできない。
なぜか。
この馬は、止まるようにできていないからだ。
そしてもう一つ。
時代が、この馬を求めている。
勝たなければならない。
走らなければならない。
それは、馬の意思ではない。
人間の願いであり、
競馬という世界そのものの欲望だった。
その中心に、トキノミノルがいる。
速すぎるがゆえに、壊れやすい。
輝きが強いほど、影もまた濃い。
厩舎の片隅で、誰かが小さく言った。
「……あれは、長く走る馬じゃない」
誰も否定しなかった。
だが同時に、こうも思っていた。
それでもいい、と。
たとえ短くとも、
頂点まで一気に駆け上がるならばと……




