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血統 ー蹄の記憶ー  作者: あいまいもこ
幻の馬

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42/61

6_ダービーを狙う馬

函館の初戦が終わった夜のことである。


海の町は、日が沈むのが遅い。

夏の薄明のなかで、

函館競馬場

の厩舎はまだ騒がしかった。


パーフェクトは、すでに飼葉を食べ終えている。

八馬身差の圧勝。

しかも日本レコード。


厩舎の者たちは興奮していた。


しかし、ひとりだけ落ち着いた男がいた。

調教師の田中和一郎である。


田中は事務所の古い電話機の前に座り、受話器を取った。

東京へ電話を掛ける。


相手は馬主、

永田雅一。


呼び出し音が何度か鳴る。

やがて向こうで受話器が上がった。


「もしもし」


田中は静かに言った。


「函館です。田中です」


少し間があった。


「ああ、どうも」


永田の声は忙しそうだった。

映画会社の社長である。

競馬だけを考えているわけではない。


田中は用件を伝える。


「今日、馬が勝ちました」


「……?」


電話の向こうが一瞬、沈黙した。


永田が言う。


「馬?」


田中は少し困った。


「ええ、例の馬です」


また沈黙。


そして永田は、率直に聞き返した。


「……何だそれは」


パーフェクトのことを、

忘れていたのである。


田中は苦笑するしかなかった。


「函館で走らせた馬です」


「ああ、ああ……」


ようやく思い出したらしい。


「それで、どうだったんだ」


田中は言った。


「勝ちました。レコードです」


電話の向こうで、永田は

「そうか」

とだけ言った。


それだけで、その日の電話は終わった。


いかにも永田らしい反応だった。

興味がないわけではない。

だが、まだ実感がないのである。


それから数日後のことである。


東京の厩舎に、一台の車が止まった。


降りてきたのは永田だった。


大映の社長として映画界に君臨する男だが、

その日は妙に機嫌がよかった。


厩舎には田中がいる。

そこへ、ちょうど挨拶に来ていた笠木も顔を出した。


三人が揃った。


永田は二人の顔を見ると、いきなり笑った。


「君たちのお陰で」


少し大きな声で言う。


「ダービーが取れるんだよ」


あまりに話が大きいので、田中は黙っていた。


まだ一勝しただけである。


しかし、永田は、もう未来を見ていた。

彼は興奮すると、想像力が先に走る男だった。

そのとき、ふと思い出したように言う。


「そういえば、名前がまだだったな」


パーフェクトというのは血統名であって、競走馬の名前としては味気ない。


永田は少し考えた。


そして言った。


「よし、決めた」


その名は――


トキノミノル。


競馬に懸けてきた時間。

その時間が、やがて実を結ぶ。


「時が実る」


そういう意味だった。だが、もう一つ理由があった。


「トキノ」という冠名である。


これは永田が尊敬していた作家、菊池寛が使っていた名前に由来していた。


永田は文学好きの男である。

菊池寛を深く敬愛していた。


だから、その「トキノ」を借りた。


ただし、この冠名には条件があった。


永田は言う。


「これはな」


「ダービーを狙う馬だけに使う」


つまり、彼の中ではもう決まっていた。

この馬は、いずれ東京優駿を走る。


そして勝つ。


そういう未来が、彼の頭の中には出来上がっていた。


厩舎の奥では、黒鹿毛の若馬が飼葉を食べている。

ついこの前まで、パーフェクトと呼ばれていた馬。

だがその日から、名前が変わった。


トキノミノル。


その名は、まだ静かな厩舎の空気の中で、初めて口にされたばかりだった。

しかし、やがてこの名は日本中の競馬場で叫ばれることになる。


そして――伝説になる。

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