1_たづな
昭和二十六年、春。
東京の空は、まだ朝霧に包まれていた。
観客席は空っぽ。
新聞記者もいない。
競馬場は、まだ眠っている。
だがその静かな芝コースで、
一頭の若い馬が走ろうとしていた。
黒鹿毛。
まだ三歳にも満たない小柄な馬。
「……行け」
低い声で言ったのは調教師、田中和一郎だった。
騎手が軽く手綱を動かす。
その騎手はまだ若い。
のちに“神様”と呼ばれる男――
野平祐二。
しかし、このときの彼はただの若手騎手だった。
スタート地点。
静寂。
次の瞬間。
若駒が地面を蹴った。
芝が弾ける。
空気が裂ける。
野平は一瞬で違和感に気づいた。
(……速い)
いや、違う。
速すぎる。
脚が地面に触れる時間が異様に短い。
一完歩で進む距離が普通の馬より明らかに長い。
まるで――
重力が違う世界を走っているようだった。
風が顔に叩きつける。
野平は思わず声を漏らした。
「なんだ……この馬……」
止まらない。
ぐん、ぐん、ぐんと直線を突き抜ける。
やがてゴール板を通過した。
その瞬間。
競馬場に静寂が戻る。
田中調教師は、ゆっくりと時計を見る。
そして――
固まった。
助手が覗き込む。
「先生……?」
田中は何も言わない。
ただ時計を差し出す。
助手の顔から血の気が引いた。
「……嘘だろ」
そのタイムは三歳馬の調教としては
ありえない数字だった。
いや、下手な古馬より速い。
田中は若駒を見つめた。
若い馬は、何も知らない顔で静かに息を整えている。
田中がぽつりと言った。
「……おかしいな」
助手が聞き返す。
「何がです?」
田中は少し考えてから言った。
「この馬はな」
ゆっくりと続ける。
「負けないかもしれん」
朝の競馬場にはまだ誰もいない。
新聞も、観客も、世間も、何も知らない。
この馬が無敗で東京優駿を勝つことを。
そして――
そのわずか数週間後に死ぬことを。
若駒はただ静かに鼻を鳴らした。
朝霧の中で。
まだ伝説になる前の普通の若馬として。
まずは導入のみ。
たぶん明日の夜ぐらいから
ちゃんと投稿したいと思っています。




