094.お料理行進曲
DAY1
夕食。まずは単純な解決策を試してみることにする。油の浮力よりも重力を強めてとんかつを浮かないようにするのだ。
「こんなところだな」
業務用フライヤーに重力を加えてとんかつが浮かないように調整する。低い温度の油でとんかつの奥まで火を通した後は高い温度の油で二度揚げをする。二度揚げをしたとんかつは衣のサクサク感に大きな違いが出るのだ。
「……」
とんかつは完璧に油の中に留まっている。だが、アゲ太郎の表情は険しいものだった。ついに完成したとんかつを2人は実食する。
「……」
「駄目だね」
アゲ太郎の吐き捨てるような言葉に、暁も無言で首肯する。美味しくなるどころか、明らかに昼に食べたとんかつより美味しくない。
「どういうことだ?」
「……おそらく圧力がかかりすぎたんだね」
「確かに重力を強めたし、その結果油に沈むと油の密度も増えて浮力も増える……しかしそれが味の劣化とどういう関係が?」
「本来は衣で守られている肉汁が外に出てしまっている」
とんかつの旨さの重要なファクターである肉汁、それが漏れ出てしまっては『最高のとんかつ』など夢のまた夢。
「油にはちゃんと沈ませる。そのうえで圧力は今までのとんかつと同じ程度に抑える必要がある、と?」
「そうなるね……だが、そんな方法は……」
アゲ太郎は眉間にしわを寄せる。果たしてそんな方法があるのか? アゲ太郎は考えを巡らす。そこに助け舟を出したのは暁であった。
「俺に考えがある」
「なんだって?」
「料理については分からないが、物理学は俺の領域だ」
DAY2
朝。朝からとんかつはきつくないか? と思う人もいるだろう。だがこのとんかつの前には無意味な疑問である。
「こ、これは……!」
調理場に入ったアゲ太郎は目の前の光景に驚愕していた。油が球状になり、宙に浮いていたのだ。
「昨日はとんかつにかかる重力だけ操作して失敗した。今度は油も含めて均一の重力を加えてみようというわけだ。こうやってな」
本来浮力は物体と同じ体積の流体――つまり油――に加わる重力と等しくなる。つまり、普通にフライヤー全体の重力を強めてもとんかつは沈まない。それゆえの油の球体化だった。全方位から重力がかかっているこの状態では同様に全方位からの浮力もかかる。ゆえにとんかつはその中心で留まり続ける。
「これならいけるんじゃないか?」
「やってみる価値はありそうだね……!」
アゲ太郎の瞳に光が戻る。それは揚げたてのとんかつから放たれる油のきらめきに似ていた。早速とんかつを球状の油の中に入れ、調理を開始する。暁の目論見通り、とんかつは油の中心部でくるくると楽しそうに浮かんでいる。程よく熱が通ったところを鋭い眼光で見極めたアゲ太郎がさっと取り出す。完成したとんかつを2人は口に運んだ。
「……」
「なるほどね……」
2人の表情は暗い。やはり味は『最高のとんかつ』には遠い。
「油は結構すぐ温度が下がるんだ。球状にしてフライヤーから出してしまったからその影響をもろに受けたね。衣と肉の熱の通り方に違いが出ちまってるね」
「そういうことか……」
これを解決するためには宙に浮いた油を保温する必要がある。そのような方法が果たしてありうるのか? 押し黙った2人の耳に、天使の声が聞こえてきた。
「苦戦してるみたいね?」
「リコ!」
調理場に降り立った赤髪の天使リコ。暁は自分の頭の中でパズルのピースがパチリとはまった音がした。できる! リコの能力なら宙に浮いた油の保温が!
暁は確信した。『最高のとんかつ』とは自分とリコとの共同作業によって完成する2人の愛の結晶なのだと。その昼、ついにその営みを実践するときがやってきた。
「リコ。別に炎を使う必要はない」
「え?」
宙に油を浮かせ、暁はリコに説明をはじめる。
「君の能力はおそらくエネルギーを高めること。炎はそれによって起こされる現象の1つに過ぎない。熱とはつまり分子の持つ運動エネルギー。この油の中に君の力を少し分けてくれるだけでいい」
「……やってみるわね」
球体の油に変化はない。そこにアゲ太郎が菜箸の切っ先を入れてみる。そこから、ぷつぷつと泡が出てきた。
「本当に温度が保たれているみたいだね……」
「さあアゲ太郎。調理の時間だ」
「わかってるよ」
そうして……。
そうしてその日、ついに『最高のとんかつ』は完成したのである。
DAY3
その日、本来は防衛隊に所属している者にしか入れないその食堂に1人の老人が招かれた。そう、アゲ太郎の父親である。彼はしっかりとした足運びで椅子に腰を下ろす。
食堂はすでに満席だった。皆一様に沈黙し、何かを今か今かと待っている。一体何を待っているのか? 愚問であろう。『最高のとんかつ』に他ならない。
アゲ太郎の父親が席についたことを確認し、ついに皆の下へ料理が運ばれてくる。だが、目の前の料理を見て、彼らは一様に驚愕した。
――――――――――――――金塊!?
それは錯覚であった。皿の上に乗ったとんかつがまるで金塊のように見える……それほどに衣が黄金色に輝いていたのだ。いや、錯覚と言い切ってしまったのはいささか軽率だった。それは皆がそのとんかつの本質を見抜いたが故。ある意味では真実の姿だったのだ。
このとんかつには金塊と同じ価値がある……そうその場にいる皆が感じ取ったのだ。
誰が最初だったのか、手を合わせて「いただきます」という言葉が聞こえてくる。それはすぐに食堂全体に波及した。皆の箸が動く。その切っ先の向く先は当然、とんかつ。
サクッ
とんかつを噛みしめた時、ほんの数秒意識が飛んだ。ハッと意識を取り戻した者たちが自分たちに何か起きたのか訝しむ前に、口に残るとんかつがその理由をはっきりと伝えた。あまりの美味さに脳が危険と判断し一瞬意識を飛ばしたのだ。脳がその美味しさに慣れ、やっとその味を彼らに伝えはじめる。
これ以上ない衣と肉の食感。噛みしめるごとに口中に広がる極上の肉汁。豚肉が作り出すことのできる極限がそこにはあった。それを食べた者は皆、感動し歓喜し……そして最後に恐怖した。
明らかに皆がとんかつを口に運ぶペースが遅くなる。気づいてしまったのだ。「もはや自分が生きている内にこれ以上の料理を食うことは叶わないだろう」と……。名残惜しんでいたのだ。そのとんかつとの別れを。だがどれだけ箸の動きが遅くなろうともその時は訪れる。
「ごちそうさまでした……」
どこからともなく終わりの合図が聞こえる。箸を置いた後、自らの頬に何かが伝うのを感じる。涙であった。果たしてそれはとんかつの美味しさによるものか、極上の味との別れによるものか……誰にもその答えは分からない。
ただ間違いなく言えるのは、その涙こそが『最高のとんかつ』へ返すことのできる唯一のものだということだけだった。
他の者たちと同様に、アゲ太郎の父親もとんかつを完食し、静かに箸を置いた。その眼差しはまっすぐに完食済みの皿の上に注がれている。
「どうだった? 親父」
調理室から出てきたアゲ太郎は真っ先に父親の元へ向かっていた。アゲ太郎の方を向いた父親の顔には涙の跡がある。
「年甲斐もなく……嫉妬したよ」
「……だろ?」
「これがお前の集大成というわけだ。思った以上に大きくなったな」
「違うよ」
アゲ太郎の否定に、父親は驚いたように目を見開く。
「あたしと親父の集大成さ。子供の頃食べた親父の味を追いかけて、ここまで来たんだ」
その言葉を聞いて、父親は大笑いをはじめた。それは食堂中に響くほどだった。笑いが収まった時、父親はアゲ太郎に向かって、泣き笑いの表情で言い放つ。
「買いかぶり過ぎだ!」
それを聞いて、アゲ太郎も笑った。その笑いはしだいに食堂全体に広がっていく。その楽しそうなアゲ太郎や父親、食堂のみんなの姿を暁とリコは調理室から暖かく見守っている。
「よかったわね」
「ああ」
暁は自然とアゲ太郎のことを目線で追っていた。
「……アゲ太郎さんって実はあんたの好みだったりする?」
「まさか! 完全に守備範囲外だ。ただ……」
暁は目を細めた。
「少しでも協力できたらと思っただけさ。親孝行はできるときにやらないとな」
「……そうね」
アゲ太郎と父親は笑顔で会話している。今まで2人で歩んできた足跡を辿るように。その光景に暁は遠い憧憬を抱く。そうして和やかに食堂の午後は過ぎていくのであった。




