093.君さえいれば
その日は、特別な日ではなかった。
歴史的にも大きな事件などもなく、そのような記録も残されてはいない。図書館で当時の新聞などを半日かけて調べたとしたら誰もがそう結論するだろう。
だが、横須賀コミューンの防衛隊本部内にある食堂で昼食をとった者たちにとって、この日は決して忘れられない日なのである。
「……旨い」
その言葉は無意識のうちに暁の口からこぼれていた。自分自身ですら意図していなかったつぶやきに暁は目を見開いた。
「そう……ですね」
「うん。ほんとに美味しい。このとんかつ……」
「ここのとんかつこんなに美味しかったっけ?」
セシルたちも口々に暁に同意した。本当に何でもないことだった。昼食で提供されたとんかつが旨かった。それだけだ。だが、そのとんかつはそれについて考えを巡らすに十分すぎるほどの不思議な魔力を秘めていた。
「今まで何度かとんかつは食べたが……まるで別物だ。これに比べたら今まで食ってきたとんかつはカスだな」
それは100年前を含めての暁の忌憚のない意見だった。本来はあんまりな言い方ではあったが、他の3人も押し黙り目の前のとんかつを見つめていた。暁の発言を軽々しく否定できない現実を、彼女たちの舌も感じていたのだ。
「……まず衣が違う気がします。パン粉がいつもより細かい。口当たりが優しくなっています。それゆえだと思いますが噛みしめたときの感触が絶妙で、衣から肉までスッと違和感なく噛むことができる……とんかつが舌にたどり着く前に、食感だけで美味しいと脳が判断する、そんな感じです」
セシルが妙に饒舌に目の前のとんかつを論評する。それにリコも同調した。
「うん。それに実際の味も。肉の部分はもちろんだけど脂身も美味しい。私いつもとんかつの脂身部分が苦手だったんだけど……脂身が舌の上で自然と溶けて肉と絡み合ってよりおいしくなってる。口の中でとんかつという料理が完成してるって感じ」
ロジェはしゃべらなかった。しゃべらずに黙々ととんかつを口に運び、時にはソースをつけ、時にはレモンをかけ、時には塩をつけ、とそのとんかつを十二分に味わうことに集中していたのだ。
暁は周りを見た。どうやらその食堂で食べている多くの人間が暁たちと同じ感想を抱いたようだった。端々で「美味しい」「何だこれは」「とんかつ」という言葉が飛び交っている。
「どうだった? あたしのとんかつは」
「!」
不覚――暁はとんかつに集中しすぎて自分のパーソナルスペースに入って来たその女に気づかなかった。見た目は40~50代と言ったところか。完全におばさんである。暁としてはアウトオブ眼中な容姿であったが、彼女から目が離せなかった。先ほどの言動から、間違いなく彼女がこのとんかつを作ったことが明らかだったからだ。
「……ありがたいな。わざわざシェフを呼ぶ手間が省けた」
強がりであった。それを見通していたのか彼女は不敵な笑みを崩さない。
「あたしは今日からこの食堂で働くことになった調理師、仲間内では『とんかつDJアゲ太郎』って呼ばれてるよ」
「ほお……そのアゲ太郎さんが俺に何か用かな?」
「あたしはね、前々からこの防衛隊の職場で働きたいって請願書を出してた。あんたに……風早暁に会いたかったからさ」
「悪いがプロポーズは受け取れないな。俺の好みじゃない」
アゲ太郎は暁の言葉を一笑に付す。
「違うよ! あんたの能力に用があるのさ……」
「ほお?」
「あんた……今食べた以上のとんかつを食べてみたいと思わないかい?」
「!?」
その言葉に反応したのは暁だけではない。セシルたちや聞き耳を立てていた防衛隊員なども思わずざわついた。
「なるほどな。詳しく話を聞く必要がありそうだ」
暁とアゲ太郎は場所を移動した。食堂の奥、調理師だけが入れる聖域、調理場に。
「あたしの親父はね。あたしと同じ調理師だった。もう引退してるけどね」
「まさか身の上話を聞かせるためにここに?」
「まあ黙って聞きな。その親父が今度70歳になる」
70歳。それはこのコミューンにとって特別な年齢であった。それはこのコミューンで生きることのできる上限の年齢。食糧の負担、介護の負担……そういったものを軽減するために70歳を迎えた者は例外なく安楽死させられ、その死体はソイレント・グリーンなどに加工されることになる。
「親父が死ぬ前に『最高のとんかつ』を食べさせてやりたいのさ。それこそ唯一無二、この地球上で作られるとんかつの頂点、そんなとんかつをね」
「親孝行か、素晴らしいことだ。だが、とんかつ作りと俺になんの関係が?」
「長年とんかつを作ってきてあたしは気づいたのさ。『最高のとんかつ』の設計図はすでにあたしの頭の中にある。けどそれは普通では絶対に実現不可能。なぜなら……」
ビッとアゲ太郎は暁を指さした。
「浮力があるから……!」
「!?」
突然物理学の浮力の話が出てきたことで逆に暁は困惑した。なぜ『最高のとんかつ』に浮力が関わってくるのだろうか。それを聞く前にアゲ太郎は語りだす。
「当然だけどとんかつは油で揚げる。しかしこの工程に1つ問題がある」
「問題?」
「浮力だよ。浮力があるゆえにとんかつは油から浮き上がり空気に触れる。その瞬間起きる酸化……これを防がない限り『最高のとんかつ』はあり得ない」
暁は得心がいった。アゲ太郎の言葉が真実であれば、地球上で浮力を無くす事が不可能である以上『最高のとんかつ』は決して完成しない。
ただ、1つの例外を除いて――。
「それで俺、というわけか」
「その通り」
暁の不敵な笑みに、アゲ太郎も同様の笑みで返した。
「あんた重力を操れるんだろう? それを使ってとんかつを空気に触れさせることなく調理したい!」
「それが俺に近づいた目的というわけか……おもしろい!」
本来であれば……暁はこのような誘いには乗らなかっただろう。女性とはいえ彼のストライクゾーンとはアンドロメダ銀河くらい離れている相手からの誘いである。だが、先ほど舌鼓を打ったとんかつの味がそれをさせなかった。
それほどまでの衝撃……! それほどまでの美味……!
かのとんかつは暁の判断の中に「例外」として独自の位置を占めるほどに巨大なものになっていたのだ。その日、食堂の一角で暁とアゲ太郎は同盟を結んだ。『最高のとんかつ』を作り上げるための同盟を。
「さて、それでどうする? 早速とんかつを作ってみるか?」
「いやいくら何でもあたしの野望のために勝手に食材は使えない。けど仕入れの関係で豚肉はたくさんある。あたしがなんとか献立にとんかつが入るように調整してみるさ。とんかつを作る日になったらあんたを呼ぶから、協力してほしい」
「そんな悠長なことをやっていて間に合うのか」
「そこは……運としか言いようがないね」
「話は聞かせていただきました」
2人の会話に突然割り込んできた声の主はセシルであった。
「セシルさん……」
「つまりとんかつを献立に入れる日数を増やせばいいんですよね。それならば朝昼晩、すべてのメニューをとんかつにしてしまえばいいんです」
「ッ!? そんなことができるのか!」
「可能です。そうですよね。霧羽さん」
スッとセシルの後ろから霧羽は現れた。その仏頂面が、今日はどこか弛んでいるようにも見える。
「あれほどのとんかつならたとえ毎食でも不満は出ないだろう。いや、むしろ防衛隊の活力に繋がるはず」
「食べた」な――。暁は確信した。あのとんかつの抗いがたい魔力に霧羽も捕らえられていたのだ。
「ふふ、上がる展開じゃないか……」
アゲ太郎は自然と自分の拳を握りしめていた。お膳立てはすべて整った。あとは自分が『最高のとんかつ』を完成させるだけ……。アゲ太郎、調理師人生をかけた挑戦が今はじまるのだ。




