084.ハートのつばさ
2人が赤ん坊の世話に奔走しはじめて2週間。結局横須賀コミューンに発生した女性化現象はいまだ解決していなかった。女性化した男性向けに女性として生活するためのマニュアルや早急に必要となる物資が配布されたりしてある程度混乱はおさまったが、この先の不安から精神科に通う人や自殺者が増えているという話もある。
そしてこの原因ともいえる赤ん坊は相変わらず睡眠と泣き叫ぶことを繰り返していた。違うことといえば、精霊魔装の発現回数が少なくなったことと、以前は可愛げのあった泣き声が、しだいに脳を刺すような痛みを伴うものになってきたことぐらいだ。
リコの部屋のチャイムが鳴る。最近、リコはこの音を聞くと心に安堵が広がるようになった。それは暁が来た合図、赤ん坊から解放される合図、不安と責任から解放される合図だった。
「おはようリコ、赤ん坊を預かろう」
「ありがとう暁」
リコは抱いていた赤ん坊を暁に預けた。
「女性化の方は……相変わらずみたいね」
リコは暁の姿を見て言った。相変わらず元男とは思えないほど豊満なボディをしている。
「ああ、しかもセシルさんから聞いたが事態はさらに面倒なことになっている」
「なに?」
「この女性化現象、どうやら人以外の動物にも発生していたらしい」
「なにそれ、このままだと横須賀コミューン中の生き物が全滅するってこと?」
「自由に移動できる生き物なら別に問題はないだろうが、牧畜が壊滅的なダメージを負うだろうからてんやわんやしてるらしい」
「どこも大変ってことね」
暁を部屋の中に招き入れ、リコはテーブルに置いているポータブルテレビを指さす。
「こいつらもこいつらなりに大変ってことなのかしら」
そこには朝から四十六室への抗議デモを行っている団体が映っていた。もちろん全員女である。
「今度はなんのデモだ?」
「横須賀コミューンのナプキン不足は四十六室が不正に独占しているせいだ、らしいわよ」
「ナプキン不足か、正直抗議したくなる気持ちはわかる。この前体調悪いなと思ってそのまま寝たらベッドがとんでもないことになったからな」
「でも防衛隊に抗議しても出てこないわよ」
「どうせ魔甲虫は存在しないと言っていた連中が言葉を変えて攻撃しているだけだろう」
軽く世間話をした後、リコはベッドで横になって休んだ。赤ん坊の世話は暁が代わって受け持つ。
「でも意外、あんた結構子供好きなのね」
「子供好き? 俺が?」
「違うの? 毎日その子の面倒見てくれてるじゃない」
「ははははは!」
眠っている赤ちゃんの頭を優しくなでながら、暁は大笑いした。
「俺がこの子の面倒を毎日見てるのは、君と一緒に居たいからさ、リコ。赤ん坊はどちらかと言えば嫌いだよ」
「嫌い?」
「ああ、俺とリコが結婚しても君が望まなければ子供は作らないつもりだし、たとえ作ったとしてもベビーシッターを雇って2人の手を煩わせないように考えてる」
「勝手に私と結婚した時のプラン考えないでよ気持ち悪い。あとコミューンの条例で一組の夫婦は必ず1人以上の子供を作らなきゃダメだから」
リコの非難を無視して、暁は自分語りを続ける。
「赤ん坊は俺の好きな女の時間と愛情を奪っていく。だから嫌いだ。赤ん坊なんてセックスの後に出てくる排泄物みたいなもんさ」
「それは言い過ぎでしょ! 赤ん坊産むのあんたじゃないし! いや、今のあんたは産めるかもしれないけど……」
「だが……俺と愛する人との結晶を見てみたいとも同時に思う」
赤ん坊が目覚めた。とくに泣き出す様子はなく、暁を目でとらえると天使のような笑顔を見せる。
「なぜこの世には男と女がいると思う?」
「なにそれ? 哲学的な話?」
「いや、生物学的な話さ。アメーバのように自らのコピーを作り出すだけの無性生殖のほうが簡単にできるのに、この世界にいる動物は大抵つがいがいないと子供を残せない有性生殖を採用している」
「……そう言えばそうね」
う~ん、とリコは考え、自分なりの答えを出した。
「男と女に分かれてると争奪戦が起きて強い奴が生まれやすかった、とか?」
「素敵な答えだ。そういう側面もあったのかもしれない」
「お世辞はいいわよ。要は間違ってるんでしょ」
「本当に素敵な答えだと思ってるよ。それはともかく、有性生殖の方が遺伝的な多様性を生み出せて、生存に有利だったということらしい」
「遺伝的な多様性って?」
「今までに地球上の生き物は5回の大量絶滅を経験してる。仮に一種類の生き物しか存在しなかった場合、1回の絶滅で地球上の生命はいなくなっていただろう」
赤ん坊は自分の指をちゅぱちゅぱとくわえはじめる。もしかするとミルクが欲しくなってきたのかもしれない。そこで暁は1ついたずらを思いついた。
「だがそうじゃなかった。生物の細胞には変異する仕組みがあり、長い時間をかけて陸に住むやつ、海に住むやつ、熱さに強いやつ、寒さに強いやつ……そういう多様性が生まれていたからだ。だから多くの生き物が絶滅するような事態が起きても、その環境に適応できる奴らがいて、命脈を保ってきた」
「……有性生殖はその変異を効率的に起こせるってこと?」
「その通り。自分のコピーではなく、自分とは違う誰かと染色体を分け合って子供を作る。そうして意図的に変異を作り出して、多様性を確保する。少なくとも今地球上にこれだけ有性生殖の動物が多いのは、その戦略が有効だったことの証明だろう」
リコと会話を交わしながら、暁はいたずらを開始した。暁のいたずらというのは赤ん坊に自分のオッパイをくわえさせてやろうというものだった。当然母乳など出ない。そうとも知らずに一生懸命乳に吸い付く姿を見て嘲笑おうという魂胆だ。
「俺も、リコも、そしてこの子もそうやって生まれてきた。素敵なことだとは思う。だから俺とリコの子供を見たくないと言えば嘘になる」
「だから勝手に私と子供を作ろうとしないで」
「だが、それで貴重な2人の時間を失うのは……ある意味で、俺とこの子は似た者同士なのかもしれないな」
「どこがよ」
暁はオッパイを出して、赤ん坊にくわえさせた。必死に母乳を飲もうとしているようだが、当然ムダな努力である。暁は愚かで哀れなその赤子を内心で嘲笑った。
「男を全員女に変えただろ? 『子供なんて作らずに真の愛に目覚めろ!』ってことに違いなイデデデデデデデデデデデッ!? っっこの、クソガキがぁああッ!」
「なに!? どうしたの?」
いきなり叫び出した暁に驚いて、リコは飛び起きた。そこで見たのは自分のオッパイを丸出しにして赤ん坊を睨みつけている暁の姿だった。その乳首の辺りが赤くなっているのを見て、リコはすべてを理解して大笑いした。
「あははははは! あんたと同類扱いされたのに怒ったんじゃない?」
「やっぱり赤ん坊は嫌いだ。俺の乳首まで奪っていく」
暁の言葉に、リコはもう一度大笑いした。
そしてその時、唐突に、暁は男の姿へと戻ったのであった。




