083.可愛いベイビー
リコは生後1か月までの赤ん坊の状態と気を付けるべきことを邑輝から教えてもらい、部屋へと戻った。その後すぐに、セシルがさまざまな物資をリコの部屋に届けに来る。
「このダンボールがおむつ、こちらが粉ミルク、哺乳瓶、ベビーチェアです」
「はあ……」
リコの部屋は赤ん坊用物資で圧迫されていた。
「それから……」
「まだあるの!?」
「いえ、今はこれだけですが、赤ん坊が離乳食を食べる時期になればその物資も届く予定です」
「……さっき邑輝先生に離乳食は生後5か月くらいからって聞いたんだけど」
「そのくらいまで長期化する可能性もあるということです」
リコはもう一度ため息をついた。
「わ、私も協力しますよ。ベビーチェア組み立てましょ」
そう言って立ち上がったセシルに向かって、突然赤ん坊の爪が襲い掛かった。それはセシルの喉を貫く前に、リコの手によって止められた。
「……」
セシルはゆっくりと後退し、爪の範囲から逃れると、その場にへたり込んでいつの間にか止めていた呼吸を再開させた。
「……いいわよ。組み立ても私がやっとく。セシルは戻ってて」
リコはセシルの様子を見て、優しく言う。
「で、ですが……」
「そんなに手が震えてたら、まともに組み立てられないでしょ」
セシルはリコに言われてはじめて、自分の手が震えていることに気が付いた。ハッとしてリコから隠してももう遅かった。
「わかりました……でも、何かあったら呼んでくださいね」
「わかってるって」
結局セシルはそのままリコの部屋を後にすることにした。部屋を出た後、セシルは自分の下唇を噛まずにはいられなかった。
そして、強がってセシルを帰したものの、リコの胸中はやはり不安でいっぱいだった。
「さてと……」
赤ん坊は眠っていた。先ほどセシルに爪を伸ばした時も眠ったままだった。つまり、この子の精霊魔装の発現は寝ていようがいまいが関係がないのだ。
リコは先ほど邑輝に「この時期の赤ん坊は2時間程度の睡眠を何度も繰り返すのでまとまった睡眠時間は取れない。赤ん坊と一緒に寝た方がいい」という話を聞いたばかりだったが、どうやらこの子にはその方法は通用しないらしい。リコが寝ている時に精霊魔装を発現されたら、止めるものが誰もいない。
「最悪……」
つまり、リコは常に眠らずに赤ん坊を見張っておく必要があるのだった。そしてセシルの見立てでは、それが五か月以上続く可能性がある。だが、赤ん坊はその事実にうんざりする時間も与えてはくれなかった。
ア、ア、アァーーーーーーーーー
赤ん坊が目覚め、泣きはじめた。リコは邑輝から教えてもらったことを思い出す。赤ん坊が泣くのは大抵の場合空腹や排泄して不快な場合。リコは早速赤ん坊のおむつを確認した。
「うげ……」
想定通り、清廉なこの作品では直接名前を書くことのできない物体がそこにはあった。だが、赤ん坊の攻撃はそれで終わりではなかった。おむつを外したそのタイミングで、今度は小さい方をやりはじめたのだ。
「あ、ちょっと! こら! 止まれ!」
そんなことを言っても止まるはずもない。まき散らされたそれは床に染み込んでしまった。
「このクソガキ……」
悪態をつきながらもおむつの交換を終えると赤ん坊は泣き止んだ。そして、さっきのことなど完全に忘れてしまったようにリコに笑顔を向けている。
「いい気なもんね」
そう言いつつも、その笑顔を見ているとリコは自分の心が穏やかになっていくのを感じた。
だが、そうしたひと時の安らぎは本当に一時的なものだった。起きて泣き出したらおむつのチェックとミルクをやり、それでも泣き止まなければ熱がないかを確認する。それでも泣き続ける場合は……理由がわからないので抱きかかえておくことくらいしかできなかった。おまけにその間にも爪の攻撃は繰り返されていた。そうしていると、攻撃できない凶悪犯の相手をさせられているような錯覚に陥ってくる。少しだけ落ち着いたら赤ん坊の顔をじっと見つめる。可愛い寝顔ですり減った精神が回復すればいいが、その時間に考えることは決まって余計なことなのだ。
そんな時、リコの部屋に訪問者が現れた。
「……なんか用?」
「リコが赤ん坊を預かっているってセシルさんから聞いてね。手伝おうかと」
訪れたのは暁だった。
「無理よ。この子、精霊魔装使ってくるのよ」
「それもセシルさんに聞いた。リコだっていちいち防御のために根を詰めるのも嫌だろう? ちょうどいい方法を考えてきたんだ」
そういうと、暁はリコの部屋へと入り、ベビーチェアの赤ん坊を確認した。
「なかなか可愛いじゃないか。将来美人になるといいが、このころだと分からないな」
「皮算用はいいからそのいい方法を試してよ」
「OKOK」
暁は《インターステラー》を発現させ、赤ん坊の手を指でちょんとつついた。すると、赤ん坊の手の周りの空間が歪みはじめたのだ。
「なにこれ?」
「俺の《インターステラー》で赤ん坊の手の周辺に強力な重力場を作り出した。たとえこの子が精霊魔装を発現させても、外に出る前に重力場にとらわれて潮汐力で引きちぎられるってわけだ。こうしておけば俺にだって赤ん坊の世話ができる」
「あんたに赤ん坊の世話なんてできるの? いろんな注意事項があるのよ?」
「さっき邑輝先生に教えてもらったよ。2人で育てようじゃないか」
暁は赤ん坊の方に振り向いてその柔らかいほっぺたに触った。「2人で育てよう」と暁はさらりと言ったが、その言葉を聞いて心の重しが少し軽くなったのをリコは感じた。
「……そう。ありがとう。正直1人だと不安だったのよ」
「だろうな。だが、これで不安も半分ってところだ。早速だが1つ提案があるんだが」
「提案? なに?」
「これは君が悪いわけではなく、すべてこの赤ん坊が悪いんだが」
前置きの後、若干ためらうように暁は言った。
「物資に消臭剤も加えるように依頼しておいた方がいい」
その暁の提案の意味を理解して、リコは顔を手で覆った。
「最悪……」
リコはその日のうちにセシルに消臭剤の支給を依頼したのだった。




