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変異世界の異邦人《インターステラー》  作者: IK_N
第八幕『震える舌』編
56/75

056.死の舞踏

 安曇野とエーコがヴィルヘルムスハーフェンコミューンに向かってから2日が経っていた。そろそろ到着し、ワクチンを手に入れるための行動に出ているころだろう。セシルは病室に向かいながら自分の足が重くなるのを感じていた。


「――――」


 暁の病室は他の病室とは隔離された場所にあり、周りに他の入院患者はいない。後天性細胞硬化症候群は接触感染や空気感染はしない。それなのに他と隔離されているのは当然理由があった。


 そしてその理由こそが、セシルの足を重くしている原因なのだ。


「ゔうううううゔっ――――!」


 病室の扉を開けた途端、暁のうめき声が聞こえてきた。舌を噛まないようにタオルが口に詰められている。激痛で自傷行為に至るのを防ぐために体も拘束されていたが、それを引きちぎらんばかりの勢いでもがいていた。


「もうすぐ終わる」


 病室の中にいた邑輝がセシルに声をかけた。暁は日に数回、時間は短いがひどい激痛に見舞われる。その間は絶叫を繰り返し、もがき苦しんでいた。セシルはその暁の絶叫を聞くといつも足が竦んでしまう。絶叫から連想される何かではなく、ただ絶叫によって呼び起こされる恐怖。人がまだ人でなかったときに植え付けられた根源的な恐怖がその絶叫にこびりついていた。


「ゔうう……」


 邑輝の言うとおり、暁のうめき声は少しずつ小さくなっていった。応急処置の痛み止めが効いたのだ。そうして、暁は痛みが引くと同時に眠りにつく。激痛で夜も眠れない暁にとって、安らげる時間はそこにしかなかった。


 起きている時は炎のように猛り狂って、眠ってしまえば死体のようになんの反応もなくなる。暁はその繰り返しだった。


「リコさん、代わります」

「……お願い」


 リコ、セシル、ロジェの3人で代わる代わる暁のそばにつき、その手を握って元気づけていた。正直な話、どこまで効果があるのかは分からない。暁が3人を認識できているかどうかすら怪しいのだ。


 それとは逆に、暁が確実に死に近づいていることは誰の目にも明らかだった。


「風早さん」


 セシルが語り掛けるが、当然暁は答えない。たった2日、たった2日なのに暁は別人のように消耗していた。頬はこけはじめているし、目元は涙による腫れと寝不足による隈で何十年も老けたように見える。そして体もやせ細っていた。痛みで常に体を強張らせているために、カロリーが過剰に消費されてしまうためだ。点滴は打っているが気休めにしかなっていない。


「風早さんは……助かりますよね?」


 セシルは暁を見つめたまま、邑輝に問いかける。


「ワクチンしだいだ」


 邑輝は当然、セシルが聞きたい答えはこんなことではないことは理解していた。そしてセシルも、邑輝から自分の望む答えは返ってこないだろうとわかっていた。


 それからしばらくの間、暁が眠りについている間はほとんど何もなかった。セシルもただ手を握っているだけだ。だが、その状態を暇だと思ったことはセシルは一度もなかった。いつ目覚めて、再び猛り狂うのか、そんなことを考えながら暁の表情を見ているだけで時間はあっという間に溶けていく。そうして、暁の目が見開かれ、炎の時間が訪れる。


「ゔうううううゔっ――――! ぎぃいいいぃい!」


 暁は目を見開いたと同時に体をのけぞらせた。筋肉の硬化に伴うひきつけだった。暁の体の動きがベッドにも伝わり、地震のように揺れる。


 うめき声


 抑制帯がきしむ音


 ベッドの衝突音


 その場にあるすべての音が、セシルの心拍数を上げていた。セシルはただ、祈るように暁の手首を握ることしかできない。だが、


 パキ


 そこにある騒音よりもはるかに小さな音なのに、セシルにはそれがはっきりと聞こえた。空気を伝わる音ではなく、骨に響くそれは、セシルが人生の中で耳にしたどんな音よりも絶望に近かった。


 指、指が。暁の指がベッドに転がっていた。さっきまで手についていたはずの薬指が。


 一拍置いて、セシルは絶叫した。


「邑輝先生! ゆ、指が! 風早さんの!」

「諦めるしかない」


 邑輝はセシルの肩に手を置き、諭すように言った。セシルは目を見開いて邑輝の顔を見ている。何を言っているのか、理解できていないように。


「後天性細胞硬化症候群は血液の届きにくい指先から硬化が進行し、ボロボロに崩れていく。だが、まだ死には至らない。落ち着くんだ」

「落ち着く……? でも、指が、風早さんの指は、どうなるんですか?」


 セシルの声は震えていた。


「……それは命が助かった後に、考えればいい」

「そんな」

「ゔうううううゔっ――――!」


 セシルは自分が邑輝に何を言おうとしていたか、暁のうめき声で忘れてしまった。慌てて、暁の手首を両手で包み込む。セシルはいつの間にか自分の両目が熱くなっていることに気が付いた。それがその場の音が作り出した恐怖によるものなのか、暁のこの先を思ってのものなのか、彼女自身にも分からなかった。


「おが、あ゙、さ……」


 かすれた声で暁がうめく。セシルは彼の手首を握ったまま、その汗と涙をハンカチで拭った。暁の呼びかけに真の意味で応えられないことに不甲斐なさすら感じてしまう。


 これほどの激しい「死」が目の前にあることにセシルの心は削られていったが、それでも逃げるわけにはいかなかった。それから逃げたとき、たとえ治療が成功したとしても二度と彼の前に立つことはかなわないだろうと思ったからだ。


「……」


 そこではじめて、セシルは自分自身が暁をかなり特別視していることに気がついた。それは間違いなく愛であったが、暁の望むものとは違い親愛と呼ばれる感情であった。強張る暁の腕の力を感じながら、天命を待つように目を閉じた。


 ワクチンはほとんど当初の計画通り、その2日後に横須賀コミューンへ届くことになった。


 暁は両手両足の指をすべて失っていたが、まだ命だけはつなぎ留められていた。


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