020.ツァラトゥストラはかく語りき
勝利を確信したベティに、不可解な出来事が起こった。自分を含めた3人が黒い真四角の空間に突然転移したのだ。一拍おいて、それが話にだけ聞いていたセシル・ブリュネの《パニック・ルーム》だということに考えが及ぶ。
「へえ、役立たずな能力だって聞いてたけど、こんな使い方あるんだね」
「……」
「私を逃がさないつもり?」
「ええ、そうです」
「そっかあ」
ベティは手に持っていたペットボトルをセシルに見せる。当然さっきまでそんなものをベティは持っていなかった。彼女のような薄着であれば、隠していても目立ってしまうだろう。
「これ285ml入りだけどさ、この程度でも大人を簡単に倒せちゃうんだよね」
「……なるほど『ミミック』ですね。姿を変えるだけではなく、物を見せなくすることまでできるんですか」
「その通り。さっきのは背中に仕込んでたんだよね。おかげでびちょびちょ」
くるりと後ろを向いてベティは背中を見せる。濡れたシャツに潰れたペットボトルが透けていた。
「その能力、フリークスの能力も遮断しちゃうんだねぇ。ちょっと厄介だね。荒っぽい真似しちゃおうかな?」
「《パニック・ルーム》は私の意志でなければ解除できませんよ。たとえ私が気絶してもそのままです」
「……殺したら?」
「さあ? わかりません。《パニック・ルーム》を発動したまま死んだことがないですから」
「そりゃそうか」
問答の後、ベティはその視線をセシルから暁に変えた。
「じゃあ、こっちをどうにかするしかないね」
「あ、がぁ!?」
「風早さんっ!」
ベティの足元に転がっている暁が苦しみはじめる。《アビス》で体の水分を操作されたのだ。
「どうする? さっさと解除してくれればこれ以上苦しめなくて済むよ? 私もあんまり気分良くないしさ……」
「くっ……」
セシルにあぶら汗が浮かぶ。《パニック・ルーム》を解除すれば、ベティによって彼は連れ去られてしまうだろう。しかし、解除しなければ暁はこのまま痛めつけられるのは目に見えている。前にもこんなことがあったな、と意外にもセシルは冷静に考えていた。
そんなセシルの耳に、暁の声が聞こえてくる。
「か、かい、じょ、して……」
「ほらほら、彼も解除してってさ、どうするの?」
暁のその言葉を聞いて、セシルは決意した。
「分かりました、解除しましょう」
「そう来なくっちゃ!」
ベティは念のためにペットボトルを開けて、解除時に待ち伏せしているかも知れない防衛隊への対策を取った。もっとも、ベティが脱水症状にした隊員たちは自分で水分を摂取できる状態にない。2人が水を与えた隊員にしても回復までには30分はかかるだろう。
それに対し、3人が戦いはじめて5分も経っていない。それでも自分が想定していない事態が発生するかもしれないと考え、準備はしておく。彼女の作戦の成功は目の前まで迫っていた。
《パニック・ルーム》が解除されたら、《アビス》の能力で暁を運び、闇夜に紛れて防衛隊本部から離脱する。そう、それだけの単純な作業しかベティには残っていない。残っていないはずだった。
「……え?」
《パニック・ルーム》が解除された時、ベティを迎えたのは闇夜ではなく、ほぼ頂点に到達しようかという太陽の輝きと、完全装備で銃を構えた防衛隊員たちだった。
「なんでっ!?」
バンッ! バンッ!
容赦のない発砲。しかし、あらかじめ準備していた水を使って、どうにか凌ぐ。水に取り込まれた弾の形状からして対人用の麻酔銃のようだ。それを確認したベティの目の前に、何かが投げ込まれる。爆弾と認識し、とっさに自身と暁を水で覆った。
カッ!
だが、それから放たれたのは強力な光と音。閃光弾だ。水の防御では光と音の刺激は防げない。ベティは一瞬で視覚と聴覚を奪われた。かろうじて意識だけは繋ぎとめたが、もはやまともに攻撃も防御もできる状態では無くなっていた。
バンッ!
そこに間髪入れず麻酔銃が撃ち込まれる。今度こそ、その針がベティの体に突き刺さった。本来であればのたうち回るほどの痛みがあるはずだが、すぐに体が弛緩しはじめ、同時に強烈な眠気が彼女を襲う。
「あ、う……」
ベティは急速に薄れていく意識の中で、なぜこんなことになってしまったのかと自分に問いかける。《パニック・ルーム》が発動してから、解除されるまではどう長く見積もっても2分程度しか経っていなかったはずだ。しかしその間に外は夜から昼に変わっていた。何が自分の感覚を狂わせたのか? 結論が出ないままベティの考えは霧散していく。彼女はばたりとその場に倒れこみ、動かなくなった。
「がっはぁ……ッ!」
ベティの支配から解放された暁が、よろめきながらも立ち上がろうとする。それを急いで駆け寄ったセシルが支えた。
「ほんとに成功するなんて……。風早さんが倒れたときはもしかして失敗したのかと思いました」
「まあ、ぶっつけ本番だったが、なんとか、なったな……」
息も絶え絶えの暁はセシルの支えを受けてやっとの思いで立ち上がる。そこに防衛隊員たちも駆け寄ってきた。
「無事ですか!」
「はい。そちらも無事だったようですね」
「はい。おかげさまで」
駆け寄ったのは詰め所で暁たちが水を与えた隊員だった。もう体調は万全のようだ。
「気づいていただけたようで安心しました」
なぜ真夜中から一瞬で昼間になったのか、そのからくりはこうだ。アインシュタインの一般相対性理論によると、重力が強いほど時間の進みは遅れていく。セシルが《パニック・ルーム》を発動した後、暁は苦しみながらも《インターステラー》で高重力の状態を作り出していたのである。
暁の作り出した時間の遅れは約400倍。《パニック・ルーム》内の時間が2分過ぎる頃には、その外で800分……つまり13時間強経過する。数分その空間にいれば夜に入っても出てくるときには昼になってしまうのだ。
本来は急速に動きはじめる星や太陽を見ることで気づけるその変化に、《パニック・ルーム》に入っていたベティは気づくことができなかった。これこそが暁が即興で考えついたハメ技、『仙夢迷宮へご案内』である。
「俺1人の力だけじゃ無理だった。セシルさん、あなたと俺の相性は、能力面でもバツグンみたいだ」
「……ええ。そうですね」
驚くべきことに暁は、この期に及んでセシルとの関係をあきらめてはいなかった。だが、セシルもそんな暁に対して、笑顔で答える。
なんだか、とっても、非常にいい雰囲気。




