9話:奇跡のステロイド軟膏と、下町のモテ期到来(※ただし利権の罠)
翌日、いつも通りの朝を迎えた『ベルフォール薬房』の調剤室。
レンは清潔な白い作業着に袖を通し、すり鉢で薬草の粉末を丁寧に挽いていた。
カランコロン、と店のドアベルが鳴り、助手のリリアが出勤してくる。
「おはよう、リリア。今日も――」
「おはようございます、お兄様!」
パリン、とレンの手からすりこぎ棒が滑り落ち、作業台の上を転がった。
「…………は?」
レンは固まったまま、ゆっくりと首を巡らせた。
エプロンをつけたリリアは、いつも通りの快活な笑顔を浮かべながら、手際よく棚のフラスコを拭き始めている。
「あ、あの、リリア……? 今、なんて言った?」
「え? 『おはようございます、お兄様』ですが?」
「お、お兄様……!?」
「はい。今朝、父が公爵邸で正式に調印を済ませてまいりまして。レン様――いえ、お兄様は書類上、我が家の長男として籍に入られましたので」
リリアは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、レンの前に広げてみせた。
そこには公爵家の朱印と、貴族院の公印が燦然と輝く『養子縁組証明書』。
そして家族欄の最上段には、確かに『長男:レン』と墨黒々と記されている。
「なっ……な、なんで!? なんで俺がリリアの家の長男になってるんだ!?」
「エレオノーラ様が『我が家の忠臣を男爵に引き上げる名誉の証として、レンを形式上の長男として迎えなさい』と。お父様も大喜びでサインしましたよ」
レンは両手で頭を抱え、作業台に突っ伏した。
「嘘だろ……あの時の例え話、本当に実行したのかあの人……!?」
「我が家は今日から『世襲男爵家』です! お父様もお母様も、お兄様のおかげで家が代々残るって泣いて喜んでましたよ」
「いや喜ばれても困る! 俺はただのドラッグストア店長……じゃなくて、しがない下町の薬売りになりたかっただけなのに、なんで他所の家の長男になってるんだよ……!」
「あ、お兄様、今日仕入れる薬草のリストです。確認お願いしますね、お兄様」
「やめて! その『お兄様』って響き、背筋がものすごくゾワゾワするから普通に『店長』って呼んで!!」
「ええ〜、書類上は正真正銘の兄妹なんですから、慣れておいた方がいいですよ、お兄様」
楽しそうに笑うリリアの横で、レンは冷や汗を滝のように流していた。
(姉上の暴走を止めるどころか、外堀が完全にコンクリートで埋め立てられている気がする……!)
レンは額に浮き出た冷や汗を手の甲でぬぐい、リリアが差し出した羊皮紙を穴が開くほど凝視した。
「ま、待ってくれリリア。一応、念のために確認させてくれ」
「はい? なんでしょう、お兄様」
「その呼び方は一旦置いておいてくれ、心臓に悪いから……! ええとだな、俺はお前の実家に『婿養子』として入ったんじゃないよな? つまり、お前と俺が書類上結婚した……なんていう恐ろしいオチではないよな!?」
もしそうだとしたら、エレオノーラが血相を変えてこの店ごと王都を焦土に変えかねない。レンの必死な形相に、リリアはきょとんと目を丸くし、それから吹き出すように笑った。
「ふふっ、まさか! 違いますよ店長――あ、お兄様。私のお婿さんじゃありません」
リリアは証明書の該当部分を指先でトントンと叩いた。
「レン様は、我が家の『養子』――書類上の『長男』です。だから私とは法的に『兄と妹』になったんですよ。お婿さんになって私の夫になっちゃったら、我が家の跡継ぎ問題は解決しますけど……エレオノーラ様のご計画が台無しになっちゃいますから」
「……ご計画?」
レンが眉をひそめて聞き返すと、リリアは首をかしげながら、昨夜と今朝の出来事を思い返すように人差し指を顎に当てた。
「はい。エレオノーラ様、公爵邸ですごく嬉しそうに仰ってたんです。『これでレンの公爵家の籍は抜け、法的な姉弟の縛りは完全に消滅しましたわ。あとは新興男爵令息となったレンを、私の夫として公爵家へ迎え入れるだけ……』って」
「………………」
レンの思考が完全に停止した。
作業台の上で、ことんと小さなガラス器具が音を立てる。
「……リリア」
「はい、お兄様」
「俺、自分の墓穴を自力で掘り進めて、ご丁寧にコンクリートで固めて飛び込んだ感じか……?」
「さあ? でもエレオノーラ様、すっごく上機嫌で『すべてはレンが自ら授けてくれた知恵ですわ』って誇らしげでしたよ?」
リリアの無邪気な笑顔の裏で、レンの脳裏には昨日の自分の発言が走馬灯のように駆け巡っていた。
『仮にですよ? 俺がいったん別の貴族へ養子に出れば法的な血縁関係は解消されるのだから……』
「冗談の例え話のつもりだったのに……なんで全部最短ルートで実行されてるんだよぉぉぉっ!!」
頭を抱えて調剤室の床へ崩れ落ちるレンを見下ろしながら、リリアは楽しそうにパタパタと棚の掃除を再開するのだった。
エレオノーラが完璧と信じたスキームには、ひとつだけ致命的な盲点があった。
「ベルフォール公爵家の三男が籍を抜け、新興男爵家の養子(長男)となった」
この前代未聞のニュースは、あっという間に王都の貴族令嬢界隈を駆け巡った。
これまで令嬢たちにとって、レンは「雲の上の公爵子息」。いくら美貌で画期的な薬や化粧水を作れる天才とはいえ、身分差の壁が高すぎてアプローチすら躊躇われる高嶺の花だったのだ。
だが――男爵令息になったとなれば、話は根底から覆る。
「……男爵家の長男になられたですって?」
「まあ! なら、子爵家や伯爵家の私たちが求婚しても、身分的に何一つ不釣り合いではないのではなくて!?」
「あのような麗しい殿方を、しかも社交界を揺るがす化粧水の開発者を、婿に迎えられる千載一遇の好機ですわ……!」
敷居が消滅した瞬間、堰を切ったように令嬢たちの欲望が解き放たれた。
「公爵令嬢エレオノーラの夫」というゴールへ最短距離で突き進んでいるつもりのエレオノーラを完全に置き去りにして、社交界では「元公爵子息・現男爵令息レンの争奪戦」という未曾有の乱世の火蓋が切って落とされたのである。
◇
『ベルフォール薬房』の前に、朝から長蛇の列ができていた。
並んでいるのは下町の庶民ではない。豪奢なドレスを着飾り、これ見よがしに家紋入りの扇を持った貴族令嬢たちと、その従者たちである。
カランコロン、とドアベルが鳴り響く。
「レン様! 我が子爵家には広大な薬草畑がございますの! ぜひ我が家へ婿入りして、心ゆくまで研究なさってくださいませ!」
「抜け駆けはずるいですわ! 我が伯爵家なら王都一等地に三階建ての工房をご用意できます! レン様、わたくしと婚姻を結んでいただければ――」
「レン様! まずはお茶会から、いえ、今夜の晩餐会へぜひ我が家の馬車でお越しを――!」
店内に飛び交うのは、薬の注文ではなく、怒涛の求婚と好条件のプレゼン合戦だった。
「ひ、ひぃぃぃ……っ!? み、皆さん落ち着いてください! ここは薬屋であって見合い会場じゃありませんから――!」
カウンターの奥で、レンは押し寄せる令嬢たちの熱気と香水の匂いに圧死しかけていた。
(なんで公爵家の籍を抜けた途端にハードルが消滅して、こんなデスゲームみたいな争奪戦になってるんだよ……!?)
その横で、リリアが山のように積まれていく見合い写真と釣書を両手で抱えながら、目を丸くして叫ぶ。
「お、お兄様! 子爵令嬢様から金貨百枚の結納金提示です! こっちの伯爵家からは『新居に噴水付きの屋敷を贈呈』って書いてありますよ!」
「お兄様って呼ぶな! そして書類を受け取るな! 返してこい、全部返してこーーいっ!!」
レンの悲鳴が店内に木霊する中、外の馬車通りにはさらに多くの令嬢たちの馬車が押し寄せ、下町の通りを完全に封鎖しつつあった。
令嬢たちの怒号と求婚の嵐でカオスと化す店内。
カウンターの上には、持参された釣書や家門の資産目録が、まるで決裁前の公文書のようにうずたかく積まれていた。
「あ、あの! 順番に! 薬をお求めでない方は外へ――!」
レンが必死に叫んでいると、その喧騒をすり抜けるようにして、静かな足音がカウンターの前に立った。
周囲の令嬢たちがその威圧感にハッとして息を呑み、思わず道を開ける。
そこに立っていたのは、名門侯爵家の令嬢カトレアだった。
彼女は周囲の熱狂などどこ吹く風といった様子で、澄ました顔のまま、レースの手袋をはめた指先で一枚の上質な羊皮紙――家紋が燦然と押された自身の釣書を取り出した。
そして、山積みになった書類の山をリリアと一緒に整理していたレンの前に、すっと滑り込ませる。
「カ、カトレア様……!? 貴女までいったい何を……」
レンが引き攣った顔で見上げる中、カトレアは微かに口元を緩め、ポツリとこぼした。
「――私のも、その書類の束に入れておいてくださいね」
「えっ……!?」
「公爵家という高すぎる壁がなくなり、男爵家の令息になられたのですもの。侯爵家である我が家が求婚の列に並ぶことに、何一つ法的な不都合はございませんでしょう? 誰よりも一番上に、しっかりと挟んでおいていただけますこと?」
感情をあまり表に出さないカトレアの瞳の奥に、確かな独占欲の光がギラリと宿る。
(お前もかよぉぉぉぉっ……!!)
レンが心の中で絶叫した瞬間、店の外から、地響きのような馬車の車輪の音と、周囲の空気を一瞬で凍りつかせるほどの凄まじい殺気が押し寄せてきた。
ベルフォール公爵邸、次期当主執務室。
エドワードは机の上に置かれた、分厚い羊皮紙の綴りを前に頭を抱えていた。
その表紙には美麗な筆致でこう記されている。
『侯爵令嬢カトレア・フォン・アシュフォードをレン・フォン・バルツ男爵令息の正妻に迎えることによる、公爵家および王国経済への多角的利益に関する提案書(全五章)』
机の向かい側には、非の打ち所がない姿勢で椅子に腰掛けたカトレアがいた。
彼女は冷徹なまでの落ち着きを払い、淡々と紅茶に口をつけている。
「……カトレア嬢。君は我が騎士団・法務補佐における最も優秀な部下であり、私の右腕だ。それは認める」
エドワードはこめかみを押さえ、かすれた声で言った。
「だが、なぜ業務の合間の報告時間に、三日連続で我が弟――いや、元弟への求婚プレゼンをねじ込んでくるんだ? この書類の厚みは何だ。昨日の二倍あるぞ」
「当然の職務にございます、エドワード閣下」
カトレアは微塵も表情を崩さず、扇子で書類の項目をトントンと指し示した。
「優秀な部下を適材適所のポストへ推薦するのも、上司たる閣下の重要なる役目かと存じます。現在、レン様は男爵家の籍に入られ、法的に他家への婿入りが完全に解禁されました。王都中の有象無象の令嬢たちが群がる中、我がアシュフォード侯爵家こそが、最もレン様の研究と身の安全を保証できる最高戦力です」
「いや、部下を推薦するって……自分自身を推薦してるじゃないか!」
「はい。自己推薦です。能力、家柄、財力、レン様への理解度、どれをとっても私が最適解でございます」
淡々と、しかし一切の妥協を許さない瞳で即答され、エドワードは机の引き出しから胃薬を取り出した。
「頼むからやめてくれ……! これ以上、我が家を巻き込むな! この件はすでにエレオノーラが『レンを自分の夫として公爵家に再召喚する』という狂気のスキームで動いているんだ。お前が横からレンを奪おうとすれば、公爵家と侯爵家の間で全面戦争が勃発するぞ!」
「エレオノーラ様の手順には瑕疵がございます」
カトレアは冷ややかに言い放った。
「公爵家から一度籍を抜き、男爵家を経由して再び公爵令嬢の夫として戻すなどという露骨な戸籍ロンダリングは、貴族院や教会からの批判を招くリスクが高すぎます。それに比べ、侯爵家である我が家が男爵令息を正当な手続きで婿に迎える形であれば、誰一人として文句はつけられません。……どちらが公爵家の名誉を守れるか、閣下の聡明な頭脳であればご理解いただけるはずです」
ぐうの音も出ないほど完璧な正論だった。
正論であるがゆえに、エドワードの胃の痛みは限界突破を迎えつつあった。
「正論を言うな……! エレオノーラに正論が通じるなら、俺がこんなに胃薬を常用しているわけがないだろう……!」
「閣下がエレオノーラ様の暴走を抑えられないのであれば、私がレン様を我が侯爵領へ丁重にお連れし、公爵家の手の届かない安全圏にて生涯の研究環境を提供いたします」
カトレアはすっと立ち上がり、優雅にカーテシーを決めた。
「本日のプレゼンは以上でございます。明日は『アシュフォード家におけるレン様専用ラボ建設および防衛体制の概略』についてプレゼンいたしますので、お時間を三十分ほど確保願います、閣下」
「カトレア! 待て、カトレア――!!」
エドワードの悲痛な叫びを背に、カトレアは一切の迷いなく執務室をあとにした。
閉ざされた扉を見つめながら、エドワードは震える手で胃薬を水で流し込む。
(レン……お前、男爵家になったせいで、姉の独占欲どころか侯爵家まで巻き込んだ全面抗争の引き金を引きやがったぞ……!)
◇
ベルフォール公爵邸、エレオノーラの私室。
普段であれば優雅に紅茶を嗜んでいるはずの時間、彼女は深紅の天蓋付きベッドの横で、苛立たしげに部屋の中を往復していた。
手元のテーブルの上には、王都中の令嬢たちからレンの店へ届いたという「求婚状」や「釣書」の写しが、山のように積み上げられている。
「……何ですの、この有象無象の虫どもは……!」
エレオノーラは扇子を強く握りしめ、ギリッと奥歯を鳴らした。
レンと法的に婚姻を結ぶため、忠臣の騎士爵家を男爵へ陞爵させ、レンを一時的にペーパー養子として籍を預けさせる――そこまでは完璧だった。自画自賛したくなるほど美しいスキームだったはずなのだ。
だが、結果として何が起きたか。
公爵子息という高すぎる身分の壁が取り払われたことで、「男爵令息なら我が家でも手が届く」と勘違いした王都中の令嬢たちが、ハイエナのようにレンの薬房へ群がり始めたのだ。
「子爵家に伯爵家……果ては我が兄の懐刀であるアシュフォード侯爵家のカトレアまで、ぬけぬけと求婚の列に並んでいるですって……!?」
カトレアの名を口にした瞬間、エレオノーラの紅蓮の瞳が鋭く細められた。
あの女は手強い。エドワードの部下として公爵家の内部事情や法務手続きに精通している上、感情に流されず冷徹に外堀を埋めてくるタイプだ。現にエドワードに対し、レンを侯爵家へ婿入りさせる正当性を理路整然とプレゼンしているという情報まで入ってきている。
「レンを私ひとりのものにするための布石だったはずが、なぜ王都中の女たちに獲物を差し出すような事態になっているのですの……!」
もちろん、公爵家の権力をもって今すぐレンを自分の夫として迎え入れる手続きを進めることは可能だ。
だが、他家の令嬢たちがこれほど大々的に動いてしまっている今、あまりに拙速に公爵家へ再召喚すれば「不自然な戸籍操作」「身分ロンダリング」として貴族院や教会に嗅ぎつけられ、レンの立場を危うくしかねない。
正当な手順を踏み、誰も文句を言えない形で完璧にレンを手に入れなければならない――その自らの矜持と政治的計算が、皮肉にもエレオノーラ自身の手足を縛っていた。
「……レン。貴方という男は、どうしてこうも無自覚に私を悩ませてくれるのかしら」
エレオノーラは積み上がった求婚状の山を一瞥し、冷ややかな、けれど狂気じみた笑みを口元に浮かべた。
「いいでしょう。私の愛しい弟……いえ、未来の夫を奪おうとする泥棒猫どもに、ベルフォール公爵家の長女に弓を引くことがどれほどの罪か、骨の髄まで叩き込んであげますわ」
部屋の温度が一気に数度下がったかのような凄まじい覇気が、静まり返った私室を満たしていった。
◇
『ベルフォール薬房』の奥、地下へと続く調剤室。
店の外で繰り広げられている血で血を洗う求婚合戦や、姉や侯爵令嬢による権謀術数など露知らず、レンは一人、フラスコとビーカーが並ぶ実験机の前で腕を組んでいた。
「……セリア様に出資してもらった以上、早めに形にしたいんだがな」
レンが今、開発を目指しているのは『ステロイド外用薬(糖質コルチコイド軟膏)』だった。
前世のドラッグストア店長時代、湿疹、アトピー性皮膚炎、強いかゆみや虫刺されなど、頑固な皮膚の炎症に対して最も頼りになり、かつ正しい知識が必要だった医薬品の王道。
地球であれば、ワイルドヤムやメキシコヤムといった特定の野生芋からステロイド骨格を持つ『ジオスゲニン』を抽出し、合成の起点にするのが定石だ。
(構造や基本的な抽出フローの大枠は覚えているんだ。脱脂して、アルコール抽出して、加水分解して……)
だが、いざ細かい抽出手順や条件といった「化学合成の厳密なプロトコル」を思い出そうとすると、記憶の解像度が足りない。
「よし、脳内検索で前世の知識アーカイブを引っ張り出すか」
レンは静かに目を閉じ、転生時に授かった自身の内なる知識領域――『脳内検索』へと意識を潜らせた。
頭の中に浮かび上がる検索窓に『ステロイド外用薬 植物抽出 合成手順』と入力し、エンターを押すイメージを浮かべる。
膨大な前世の薬学データが脳裏を高速で駆け巡り、目的のページがパッと開いた。
「……ん? あれ……?」
検索結果の画面を食い入るように見つめていたレンは、思わず頭を抱えた。
「……そうか、地球に存在する特定の芋類と、この異世界に自生する植物の対応関係までは書かれていないのか……!」
完全にこちらのミスだった。
地球のワイルドヤムやメキシコヤムが、この世界のどの植物・どの魔生芋に相当するのか、脳内検索はそこまで教えてくれない。
しかも、こちらの世界の薬草には地球にはない「魔力因子」が分子レベルで絡み合っている。地球の植物名と抽出法だけが分かっても、こちらの世界の素材との照合が取れなければ、机上の空論で終わってしまうのだ。
「参ったな……。まずはこの界隈で採れる野生の芋類や根菜草を片っ端から集めて、ジオスゲニンに似たサポニン骨格を含んでいるか、一からスクリーニング(成分検査)するしかないか」
前世の知識という『正解の設計図』はあっても、現地素材の特定という地道な泥臭い検証作業が不可欠だった。
「……よし。まずは市場に出回らない苦みのある野生芋のサンプル集めからだな」
レンが白衣の袖をまくり、実験器具の配置を整え始めた、その時。
カランコロン、と調剤室の扉が開き、リリアが両手いっぱいに抱えた羊皮紙の束をドンと作業台に置いた。
「お兄様! 今日の分の求婚状と、お見合いの推薦状です! 伯爵家から五通、子爵家から八通、あとアシュフォード侯爵家のカトレア様から『明日の夕方にお茶会の席をご用意しました』って招待状が届いてますよ!」
「今はステロイド原料の芋探しで頭がいっぱいなんだ! 全部裏紙にして実験のメモ帳に使うからそこに置いといてくれ!!」
「ええっ!? 侯爵令嬢からの招待状を実験メモにする気ですかお兄様!?」
命がけの権力闘争の書類をただのメモ用紙扱いしながら、レンは異世界の未知なる素材探究へと向き直るのだった。
「……念のために聞いておくけどさ、リリア」
レンは額の冷や汗を拭いながら、目の前のリリアをじっと見つめた。
「ちなみにお前……もし書類上の『兄妹』になってなかったら、俺に婚姻届を出すとか……まさかないよな?」
「出しますけど?」
「出すのかよ!?」
リリアは手にしたフラスコを拭きながら、何を当たり前のことを、とばかりに満面の笑みで即答した。
「え、当たり前じゃないですか? 店長――あ、お兄様ほど優秀でお優しくて、しかも将来性抜群の殿方を、みすみす見逃す理由がどこにありますか? むしろ兄妹になったせいで私が妻になれなくなって、ちょっと損した気分なくらいですよ!」
「あっけらかんと恐ろしいこと言うなよ……!」
◇
レンが呆然としながら視線を落とし、意識の片隅で脳内PCのデスクトップ画面を眺めていると、画面右下にピコンと小さなポップアップが表示された。
『新着メール:1件』
差出人の欄には、見覚えのない神々しい紋章のアイコン。
開いてみると、そこにはこの世界の「神」からのメッセージが綴られていた。
『今頃PC検索とその内容が、この世界のものと異なることに気づく頃かと思ってメールしたよ。ふふ』
思わずレンは心の中で「見てたのかよ!」とツッコミを入れた。
メールは軽妙な調子で続いている。
『話はそれるが、この脳内疑似PCとは面白いね。私も結構楽しませてもらっている。神界の管理にもそのPCアプリには助けられているよ。表計算とかね。そのお礼と言っては何だが、地球のものとこちらのものの【変換機能】をプレゼントしよう。鑑定と思えばいい。脳内で使用可だ。鑑定結果に地球での何々相当の品、と表示されるからね』
読み終えた瞬間、脳内PCのタスクバーに『物質相互鑑定プラグイン』という見慣れないアイコンが新しくインストールされた。
(……神様、天界でExcel使って事務処理してるのかよ……!?)
ツッコミどころは満載だったが、渡りに船とはまさにこのことだった。
これで、手探りで何十種類もの植物を総当たりで調べる必要はなくなった。目の前にある異世界の薬草や芋類を脳内で「鑑定」にかければ、それが地球の『ワイルドヤム相当』なのか『ただの長芋相当』なのかが一発で判明するのだ。
「……助かった」
レンは胸をなでおろし、脳内の新しい鑑定アイコンを起動させた。
これで、ステロイド外用薬の開発は一気に現実的な開発フェーズへと進むことになる。
翌朝。レンはリリアを連れて、王都の中央市場へと足を運んでいた。
朝の市場は、近郊の農村から届いたばかりの新鮮な野菜や果物、仕留められたばかりの魔獣の肉などを求める人々でごった返している。威勢のいい商人たちの掛け声と、香辛料や焼きたてのパンの匂いが立ち込めていた。
レンの目的は買い出しではない。神から授かった新機能――『物質相互鑑定プラグイン』の実戦テストと、ステロイドの原料をはじめとする「この世界の植物・食べ物が地球の何に相当するのか」の徹底調査である。
「お兄様、本当に市場を回るだけでいいんですか? てっきり冒険者ギルドにでも行って、危険な山奥の薬草採取依頼でも出すのかと思ってました」
隣を歩くリリアが、買い物籠を抱えながら不思議そうに首をかしげる。
「まずは身近な市場にある食材や植物からだ。案外、普段みんなが食べているものや、逆に『苦くて食べられない』と捨てられている根菜の中に、求めているものがあるかもしれないからな」
レンはそう答えながら、目の前の八百屋の露店に並ぶ野菜へと視線を向け、脳内で『鑑定』のコマンドを起動させた。
すると、視界に映る野菜の上に、まるでスマートグラスの拡張現実(AR)のように半透明のウィンドウが次々とポップアップした。
【名称】:ポムの実
【魔力特性】:微弱(水分保持)
【地球換算相当】:トマト(高糖度品種相当)
【名称】:角つき黄芋
【魔力特性】:なし
【地球換算相当】:サツマイモ(紅はるか相当)
【名称】:青縞大根
【魔力特性】:低(消化促進効果あり)
【地球換算相当】:大根(辛味大根相当)
(……うわ、めちゃくちゃ便利だなこれ……!)
ただ地球の何に相当するかだけでなく、品種レベルの近い特性や魔力因子の有無まで一瞬で把握できる。神が「表計算アプリのお礼」と言っていただけのことはあり、恐ろしく実用的なアップデートだった。
「お兄様、あっちの露店に山から採ってきたばかりの山菜や、見たこともない形の根っこが山積みになってますよ!」
リリアが指差した先には、薬草採取人や木こりが持ち込んだらしい、泥だらけの不揃いな植物が並ぶ一角があった。
レンは期待に胸を躍らせながら、目的の「ステロイド原料(ワイルドヤムやトコロ相当の芋)」を探すべく、その露店へと歩みを進めた。
露店の隅に無造作に置かれた麻袋の中に、泥まみれでゴツゴツとした見慣れない根塊が転がっていた。
形は長芋というより、生姜や木の根を無理やり太らせたような歪な塊だ。表皮には鋭いトゲのような髭根がびっしりと生えている。
レンはすかさず、視線をその芋へと合わせて脳内鑑定を発動させた。
視界の端に、淡い光とともに詳細なウィンドウが展開される。
【名称】:岩這い苦芋
【魔力特性】:低(組織の収斂・耐寒性因子あり)
【成分特性】:高濃度ステロイドサポニン(ジオスゲニン類似配糖体)含有
【地球換算相当】:メキシコヤム/ワイルドヤム(高純度原種相当)
【備考】:非常に苦く強毒性(生食不可)。加熱・加水分解により無毒化および薬効成分の抽出が可能。
(……見つけた! まさしくこれだ!!)
レンは内心で快哉を叫んだ。
メキシコヤム相当――まさに地球のステロイド合成革命の主役となった、あの伝説的な野生芋の同等種である。
「お兄さん、そいつに何か用かい? それは山の手入れで引っこ抜いた『岩這い苦芋』ってやつでね。毒気と苦味が強すぎて豚も食わねえ厄介者さ。他の薬草のついでに置いてるだけだから、おすすめはしねえよ」
露店の店主である恰幅のいい男が、苦笑いしながら手をひらひらと振った。
「店主さん、これ、麻袋ごと全部買い取らせてもらえないか?」
「はあ!? こんなゴミ同然の芋を全部? 旦那、薬師なら知ってると思うが、煎じても魔力回復薬にも傷薬にもならねえぞ?」
「実験の触媒に使ってみたいんだ。いくらなら譲ってくれる?」
「……捨てる手間が省けるなら、麻袋ごと銅貨三枚でいいよ。持ってくだけありがたいくらいだ」
「助かる、全部もらうよ」
レンは即座に銅貨を取り出して店主に手渡した。
横で見ていたリリアが、不思議そうに麻袋を覗き込む。
「お兄様、本当にこんな苦そうな根っこが、お嬢様たちを救う特効薬になるんですか?」
「ああ。毒と薬は紙一重だからな。この苦味と毒性の元になっている成分こそが、頑固な皮膚の炎症を一瞬で鎮める『奇跡の軟膏』の心臓部になるんだ」
レンは持ち上げた麻袋の重みを確かめながら、確かな手応えに口元を緩めた。
原料は手に入った。あとは薬房のラボに戻り、脳内検索の精製プロトコルと鑑定プラグインをフル活用して、異世界の魔力因子に合わせた「抽出・変換実験」を始めるだけだ。
露店の足元に置かれた古い収穫籠の端に、ちぎれた植物のツルと特徴的なハート形の葉が引っかかっていた。
表面には独特の光沢があり、葉脈の走り方にも見覚えがある。
レンはすかさず視線を合わせ、脳内鑑定を発動させた。
【名称】:岩這い苦芋のツル葉
【魔力特性】:低(耐寒性・強靭性因子あり)
【成分特性】:高濃度ステロイドサポニン(ジオスゲニン類似配糖体)を含有する根塊の地上部
【地球換算相当】:メキシコヤム/ワイルドヤムの蔓葉
【備考】:地中深く数メートルにわたり硬い巨大根塊を形成する。自生群生地からの掘削・採取には専用の道具と筋力(または土系統魔法)が必須。
(……見つけた! メキシコヤム相当の植物だ!)
レンは内心で息を呑んだ。
地上部のツルだけでこの反応だ。地中に眠る根塊こそが、まさに求めていたステロイド原料の塊に違いない。
だが同時に、市場にその芋本体が並んでいない理由も痛いほど理解できた。
野生のヤムの根塊は岩盤や大木の根に絡みつき、深く掘り進める必要がある。一般の農家や採取人が片手間に抜けるような代物ではなく、市場に持ち込むこと自体が非現実的なのだ。
「店主さん、この籠の端についてるツル葉……これ、どこで採ってきたものか分かるかい?」
レンがツルを指差して尋ねると、恰幅のいい店主は首をかしげて籠を覗き込んだ。
「ん? ああ、そいつか。今朝方、王都北西の『黒岩峡谷』のふもとで山菜を摘んだときに紛れ込んだんだな。岩肌にびっしり張り付いてて鎌の刃が欠けそうになった厄介なツル草だよ。根っこは岩の隙間深くに埋まってて、とても人間の手じゃ掘り出せやしねえ」
「黒岩峡谷のふもとだな。ありがとう!」
場所を特定したレンは、すぐさま踵を返した。
「リリア、急ぐぞ! 冒険者ギルドへ行く!」
「えっ、はいっ!? お兄様、走ると転びますよ!」
自力で掘り出すのが無理なら、それを本職とする力自慢たちに頼めばいい。
レンはリリアの手を引いて市場を駆け抜け、すぐさま冒険者ギルドへ向かうと、黒岩峡谷に自生する『岩這い苦芋の根塊』の掘削・採取依頼を緊急で提出するのだった。
市場を飛び出したレンとリリアは、王都の大通りを抜けて冒険者ギルドの重厚な扉を押し開けた。
館内は朝の討伐依頼を終えた冒険者や、これからの仕事を探す屈強な男女で熱気と喧騒に包まれていた。
レンは迷わず依頼受付のカウンターへと進み、備え付けの羊皮紙に素早くペンを走らせる。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご依頼でしょうか?」
対応に出た受付の女性職員が、丁寧な笑みを浮かべて尋ねてきた。
「至急で素材の採取依頼を出したい。場所は王都北西、黒岩峡谷のふもとだ」
レンは書き終えた依頼書を受付へ差し出した。
【依頼内容】:『岩這い苦芋』の根塊の掘削・採取
【指定場所】:黒岩峡谷のふもと(岩肌周辺)
【対象ランク】:Eランク(駆け出し・力自慢向け)
【危険度】:極めて低(魔獣の出没報告ほぼなし)
【採取要件】:根を傷つけず、丸ごとの塊で掘り出すこと。最低三株以上。
【報酬】:銀貨五枚(状態が良い特大株には追加ボーナス銀貨二枚)
依頼書に目を通した受付嬢の目が、驚きでわずかに見開かれた。
「……あの、依頼主様。黒岩峡谷のふもとでしたら、生息する魔獣もほとんどおらず、新米冒険者の採取場として使われるような安全地帯です。Eランクの採取依頼の相場は、大体『銅貨十枚から二十枚』ほどなのですが……」
「わかっている。だが相手は岩盤の隙間深くに根を張る厄介な芋だ。掘り出すにはツルハシやスコップを使う重労働になる。だから腕っぷしに自信のある冒険者に、今すぐ最優先で動いてほしいんだ」
銀貨五枚――駆け出しのEランク冒険者であれば、数日間は宿と美味い飯に困らない破格の額だ。命の危険がない採取作業でこの実入りとなれば、掲示板に貼り出された瞬間に奪い合いになるのは間違いなかった。
「かしこまりました! それでしたら『緊急・高額案件』として、すぐに掲示板の特等席へ張り出し、待機中の冒険者へアナウンスいたしますね」
受付嬢が手際よく承認印を押し、鐘を一つ鳴らすと、フロアの視線が一斉にカウンターへと集まった。
「――黒岩峡谷ふもとでの根塊掘削! Eランク採取依頼、報酬は銀貨五枚です!」
その言葉が響き渡った瞬間、酒場スペースで安酒を飲んでいた屈強な斧使いやツルハシを背負った駆け出し冒険者たちが、我先にとカウンターへ押し寄せてきた。
「よし、これで今日の夕方には最初のサンプルが届くはずだ」
殺気立つ冒険者たちの熱気を背に、レンは満足げに頷いてギルドを後にした。
薬房のラボに戻ったレンは、作業机の前に腰を下ろし、静かに目を閉じて意識を『脳内PC』へと潜らせた。
夕方、ギルドの冒険者たちが『岩這い苦芋』を持ち帰ってくるまでに、実験手順を整理しておく必要があった。
(……検索窓に『ステロイド 植物抽出 合成手順』と入れてみるか)
だが、検索結果として画面に表示されるのは、断片的な論文の要約や一般的な解説記事ばかり。自分が今まさに知りたい「この薬房の設備でどうやって抽出・変換するか」という具体的な工程が、わかりやすくまとまっているわけではない。
(……そうだ。検索じゃなくて、AIチャットに整理してもらおう)
レンはブラウザを閉じ、脳内PCのデスクトップにある『対話型AIアシスタント』のアプリを立ち上げた。
前世でも業務マニュアルの要約やアイデア出しによく使っていたツールだ。
『植物(ワイルドヤム等の芋類)からステロイド骨格を取り出し、軟膏用の原末にするまでの抽出・合成フローを、実験室レベルの手順でわかりやすく整理して』
プロンプトを送信すると、画面にカーソルが点滅し、数秒で整然としたテキストが出力された。
脳内PCの仕様上、一度に脳裏へ転送・保持できる情報量は「低解像度の画像1枚分」ほどのコンパクトなデータ枠だったが、要点が過不足なくまとまった一覧が浮かび上がる。
【ステロイド抽出・合成フロー(実験室規模)】
1. 原料前処理:芋のチップを乾燥・粉末化。溶媒で不要な油脂を脱脂。
2. サポニン抽出:高濃度エタノールで加熱還流し、配糖体を抽出・濃縮。
3. 酸加水分解:希酸を加えて加熱。糖を切り離し『ジオスゲニン』を結晶として析出。
4. 側鎖酸化・骨格変換(マーカー分解):無水酢酸と酸化剤で側鎖を切断、ステロイド基本骨格へ変換。
5. 精製・基剤練合:結晶を高純度精製し、軟膏基剤(油脂・ワセリン等)へ均一に混和。
(よし……! これだけの情報量が一枚にまとまってくれれば十分だ)
低解像度ながらも、必要な骨子が一目で把握できる。
さらに、先ほど神から授かった『相互鑑定プラグイン』がそのテキストに反応し、画面の隅に小さなポップアップを添えた。
【異世界環境向け・変換アシスト】
※ 工程4の複雑な酸化反応は、『微細分解の魔力』と『光触媒魔石』の併用により、副反応なしで一段階変換が可能。
(工程1〜3の泥臭い抽出は地球の化学手順で進め、工程4の難所は異世界の魔力触媒でショートカットする。これなら今の設備でも確実に形にできるぞ)
やるべき段取りが完全に頭に入った。
レンは脳内PCの画面を閉じ、夕方の芋の到着に向けて、フラスコやアルコールランプの準備を始めるのだった。
◇
レンは脳内PCのAIチャット画面を確認し、ステロイドの強度と調合方針を頭の中で簡潔に整理した。
強度の分類(5段階)
I群(最強:Strongest):重度の皮膚病・足裏など角質の厚い部位用
II群(非常に強力:Very Strong):体や手足の重い炎症用
III群(強力:Strong):一般的な湿疹・皮膚炎の標準薬
IV群(穏やか:Medium):顔や首筋、子供にも安全な万能薬
V群(弱い:Weak):軽度の肌荒れ用
調合方針
原料はすべて同じ:『岩這い苦芋』から抽出する基本骨格を使用する。
強度の違いは調合の違い:抽出後の魔力触媒による構造変化(エステル化やハロゲン導入)の度合いで強弱をコントロールする。
まずはIV群(Medium)を作成:顔の赤みから一般的な皮膚炎まで幅広く安全に使える強さから調合する。
「原料の芋は同じで、触媒の反応深度を変えるだけで全段階を作り分けられるのか。まずは一番汎用性が高い『普通(Medium)』の軟膏を目指そう」
方針が固まったレンは、夕方の素材の到着を待つことにした。
夕暮れ時、薬房の裏口の扉がノックされ、依頼を受けていたEランク冒険者の大男が大きな麻袋を二つ担いでやって来た。
「旦那、頼まれてた『岩這い苦芋』を黒岩峡谷から掘り出してきたぜ! つるはし二本折れるかと思ったが、指定通り根を傷つけずに丸ごと引っこ抜いてきた」
「ありがとう、助かるよ。これは報酬と、立派な株への追加ボーナスだ」
レンが約束通りの銀貨を手渡すと、冒険者は相好を崩してギルドへと戻っていった。
作業台の上に広げられたのは、泥まみれでゴツゴツとした巨大な根塊だった。大人の腕ほどもある太さで、確かな重量感がある。
「お兄様、本当に掘り出してきてもらえたんですね! 泥を落として刻めばいいですか?」
「ああ。リリアは芋をきれいに洗って、薄くスライスしてくれ。俺は温風魔導乾燥棚と魔力連動の回転磨砕器、それと抽出用の蒸留器を立ち上げる」
「了解です!」
二人は手際よく役割分担を進めた。
きれいに洗浄された芋は細かくスライスされ、温風の魔法陣が刻まれた乾燥棚で一気に水分を飛ばされる。カラカラに乾いたチップを磨砕器に投入して魔石の力で高速回転させ、均一な微粉末へと挽き潰した。まずは溶媒を通して不要な油分とアクを洗い流す。
下処理を終えた白い粉末を大型のフラスコへ移し、高濃度エタノールを注ぎ込む。
加熱用魔導コンロに火を入れ、ガラスの蒸留管を取り付けて加熱還流を始めると、管の中に淡い琥珀色の液体がぽたぽたと滴り始めた。
(……よし、第一工程のサポニン抽出は順調だ)
沸騰するフラスコを見つめながら、レンは薬品棚から酸のボトルと、先ほど用意した『光触媒魔石』を手元に引き寄せた。
この抽出液を濃縮して酸で糖を切り離し、アグリコンを結晶として取り出す。そこへ魔力触媒を作用させれば、目的のステロイド基本骨格が完成するはずだ。
薬房のラボに立ち込めるアルコールの微かな匂いの中、異世界初となる本格的なステロイド外用薬の精製実験が本格的に幕を開けた。
抽出液の濃縮を終えたフラスコに、レンは慎重に希酸を滴下した。
加熱とともに液が白濁し、不要な糖鎖が切り離されていく。
冷却後にろ過を行うと、ろ紙の上にはキラキラとした粗結晶――アグリコン(ジオスゲニン相当)がしっかりと析出していた。
「リリア、ここからが一番大事な工程だ。フラスコを遮光カバーで覆ってくれ」
「はいっ!」
取り出した結晶を反応槽へ移し、溶媒とともに微細な光を放つ『光触媒魔石』を投入する。
レンは意識を集中させ、指先からごく微弱な風属性の分解術式を反応槽へと注ぎ込んだ。
光触媒の放つ淡い輝きとレンの魔力が混ざり合い、フラスコの中で無数の微小な光の泡が弾ける。
地球では高度な酸化・多段階合成を要する側鎖の切断と骨格変換が、異世界の触媒反応によって瞬く間に進んでいく。
数十分後、反応が収束した液を精製・再結晶化させると、ビーカーの底には雪のように純白でサラサラとした微細な結晶が美しく積もっていた。
レンはすかさず脳内PCの鑑定プラグインを発動させる。
【鑑定結果】:ヒドロコルチゾン酪酸エステル相当(高純度原末)
【強度ランク】:IV群(Medium:穏やか)
【純度】:99.2%(毒性・不純物残存なし)
(……完璧だ! 狙い通り、顔にも使えるMediumランクのステロイド原末ができた!)
「お兄様、その真っ白な粉が、あの泥だらけの芋からできたんですか……? まるで魔法ですね」
リリアが目を丸くしてビーカーを覗き込む。
「ここからが仕上げだ。これを肌に塗れる形にする」
レンは乳鉢と軟膏板を取り出し、あらかじめ精製しておいた高純度の白ワセリン基剤を計量して乗せた。
そこへ規定量の白色結晶を少しずつ加え、軟膏ヘラを使って丁寧に、均一になるまで練り合わせていく。
ヘラが軟膏板の上を滑るリズミカルな音とともに、透明感のあったワセリンが、なめらかでツヤのある乳白色のペーストへと変わっていく。
最後に清潔なガラスの小瓶へヘラで流し込み、木製の蓋をしっかりと閉めた。
「よし……完成だ」
レンの手のひらには、手のひらサイズの小さな小瓶。
異世界の植物と地球の薬学、そして魔力触媒が融合して生まれた、世界初のステロイド軟膏第一号だった。
完成した小瓶を前に、リリアが「さっそくお嬢様にお届けしますか!?」と身を乗り出したが、レンは静かに首を横に振った。
「いや、まだだ。どんなに理論上安全だと分かっていても、人の肌に使う前にパッチテストは絶対に外せない」
「ぱっち……てすと、ですか?」
「ああ。ごく微量を皮膚の目立たない場所に塗って、かぶれやアレルギー反応が出ないかを確かめる事前テストのことだ。特に今回のお客は肌が過敏になっているご令嬢たちだからな。いきなり顔に塗らせるわけにはいかない」
レンは作業机に向かい、上質な羊皮紙とインク瓶を引き寄せた。
「それと同時に、薬の使い方を記した『薬効説明書』を作る。ステロイドは劇的に効く特効薬だが、使い方を誤ると肌が薄くなったりリバウンドを起こしたりする『諸刃の剣』だ。正しい塗り方と注意点を患者に徹底させなきゃいけない」
レンはペン先を走らせ、前世の調剤薬局で患者に渡していた服薬指導箋の要点を、異世界の容器事情(木製壺)に合わせて落とし込んでいった。
【外用軟膏・使用説明書およびパッチテスト手順】
1. 事前パッチテストの手順
腕の内側(皮膚の薄い清潔な部分)に軟膏をごく少量、米粒大ほど塗布する。
清潔な布やガーゼで保護し、24時間〜48時間放置する。
塗布部位に赤み、痒み、発疹等の異常が現れないことを確認してから、本使用(患部への塗布)へ移行すること。
2. 患部への正しい使用方法
使用目安量:清潔な人差し指の腹で、器の表面から軽くひとなですくい取った量(約0.5g)で、大人の手のひら2枚分の広さに優しく伸ばす。
強くすり込まず、患部の上に薄い膜を張るようにそっと乗せること。
使用頻度:1日1〜2回(洗顔後の清潔な肌への使用を推奨)。
3. 注意事項および禁忌
症状が治まったら漫然と長期連用せず、徐々に使用回数を減らして休薬すること。
化膿している部位(細菌・ウイルス感染部)には直接塗布しないこと。
羊皮紙を覗き込んだリリアは、感心したように目を輝かせた。
「すごい……ただ薬を渡すだけじゃなくて、こうしてテストの手順から指ですくう分量まで細かく書く薬師様なんて、王都中探してもお兄様くらいですよ」
「薬は正しく使われて初めて『良薬』になるからな。よし、まずは俺とリリアの腕の内側でパッチテストを仕掛けて、問題がなければセリア様へこの説明書と一緒に届けるとしよう」
レンは清潔な木べらで軟膏をごく少量すくい取り、自身の腕の内側へ慎重に塗り広げた。
丸一日が経過した翌日の夕刻。
レンとリリアは互いの腕の内側に巻いていたガーゼを外し、皮膚の状態を入念に確認した。
発赤や腫れ、かゆみなどの炎症反応は一切見られない。肌はしっとりと潤いを保ったまま、極めて健康な状態を保っていた。
「赤みも痒みも全くありませんね、お兄様!」
「ああ、基剤による接触皮膚炎も起きていない。安全性は確認できたな」
レンは木製の小壺に丁寧に封蝋を施し、昨日書き上げた羊皮紙の説明書を添えて革袋に収めた。
準備を整えた二人は、夕陽に染まる王都の貴族街へと向かい、セリアの屋敷の門をくぐった。
通された応接室で待つこと数分、現れたセリアは目深にベールを被り、顔を伏せたまま重い足取りでソファへと腰掛けた。肌荒れのストレスからか、その声には以前のような覇気がない。
「……レン様。本当に、あの赤みを引かせる手立てが見つかったのですか……? 宮廷薬師の調合した煎じ薬も、高級な保湿油も、何一つ効かなかったというのに……」
「ええ、お待たせいたしました、セリア様。原因となっていた強い炎症を速やかに鎮静化させる、専用の外用軟膏を調合してまいりました」
レンは机の上に、木製の小壺と一枚の羊皮紙を静かに置いた。
「ただし――これをお顔に塗っていただく前に、必ず守っていただきたい絶対条件が二つございます」
「絶対条件……ですか?」
怪訝そうに顔を上げたセリアに対し、レンは真剣な眼差しで説明書を指し示した。
「一つ目は、本日中に必ず腕の内側でパッチテストを行っていただくことです。ごく微量を皮膚の薄い部位に塗り、明日まで異常が出ないことを確認してからお顔にお使いください。貴族の皆様の肌は非常に繊細です。万が一の過敏症を防ぐための必須手順です」
「腕の内側で……試すのですね」
「はい。そして二つ目は、この説明書に記した適正な使用量と期間を厳守していただくことです。人差し指の腹で表面をひとなですくい取った分量を、擦り込まずに薄く乗せるように塗布してください。この薬は劇的な効果をもたらしますが、治った後も漫然と使い続ければ、かえって肌の防御力を損ないます」
薬の効能だけでなく、その限界や使用上のリスク、そして事前のテスト手順まで淀みなく説くレンの姿に、セリアは息を呑んだ。
これまでに訪れたどの高名な薬師も、「ただ塗れば治る」と高価な軟膏を売りつけていくだけだったからだ。
「……分かりました。レン様の仰る通り、まずは今夜、腕で試してみますわ。これほど真摯に向き合ってくださった薬師様は、あなたが初めてです」
セリアはベールの奥で小さく微笑み、大切そうに木壺と説明書を胸元に抱き寄せた。
「結果はまた明後日、必ずご報告いたしますわね」
レンは静かに一礼を返し、確信めいた手応えを胸に屋敷を後にした。
セリアにステロイド軟膏と説明書を届けてから数日後。
社交界は、ひとつの「奇跡」の話題で持ちきりになっていた。
宮廷薬師すら匙を投げ、舞踏会への出席も危ぶまれていた名門公爵令嬢セリアの顔から、あの頑固な赤みと炎症が跡形もなく消え去っていたからである。それどころか、以前にも増して白く透き通るような素肌を取り戻し、晴れやかな笑顔でサロンに復帰したのだ。
令嬢たちが「一体どこの宮廷薬師の秘薬ですの!?」と群がる中、セリアは誇らしげに告げた。
「下町に工房を構える、レン様という誠実な薬師様が調合してくださった軟膏ですわ。事前の肌テストの手順から、指ですくう分量まで……あんなにも真摯に薬と向き合ってくださる方は他にいません」
その噂は瞬く間に貴族街を駆け巡り、肌トラブルに悩む令嬢たちの耳へ届いた。
――そして、その輪の外側で、目を輝かせて聞き耳を立てている少女が一人。
プラチナブロンドの髪を揺らし、華やかなドレスをまとったその美少女の名は、イリス・ラ・ヴァレンティノ。
同盟関係にある大帝国の第三皇女であり、現在は王立学園へと留学中の高貴なる身分である。
天真爛漫で好奇心旺盛、誰からも愛される天性の人たらしである彼女だが、実は人知れず深刻な悩みを抱えていた。
季節の変わり目や乾燥する時期になると、首筋から腕にかけて原因不明の激しい痒みと湿疹が広がり、どれほど高価な帝国特産の霊薬を塗っても一向に改善しなかったのだ。
(下町の薬師、レン様……! 厳しい宮廷薬師たちの薬でも治らなかったセリア様の肌を、たった数日で綺麗にしちゃうなんて……)
他国の皇女という、王国の公爵家ですら手出しできない絶対的な立場にあるイリス。
堅苦しい護衛や社交界のしがらみを何よりも嫌う彼女は、ドレスの裾をキュッと握りしめ、楽しげに悪戯っぽく微笑んだ。
「決めたわ。お城の退屈な講義を抜け出して、その『レン様』の薬房へ直接行ってみましょ!」
その日の午後。
護衛の目を鮮やかに撒き、身軽な町娘の服に着替えたイリスは、好奇心と微かな痒みを抱えながら、下町にあるレンの小さな薬房を目指して駆け出していくのだった。
確かに、飛び込んできた客に対して第一声から決め打ちで「皮膚のトラブルでお困りですね」「いきなり薬は売れません」と突き放すのは、接客としても不自然で唐突でした。
まずは普通の店主として来店を迎え、イリスが「セリア様と同じ薬をちょうだい!」と薬の指名買いを要求してくるのを受け止めた上で、薬師として問診と診察の必要性を説明するという自然な会話の流れに修正しました。
薬房の木製ドアに取り付けられた鈴が、カランと軽快な音を立てた。
飛び込んできたのは、粗末な町娘風のローブを羽織りつつも、隠しきれない気品と輝くようなプラチナブロンドの髪を覗かせた少女だった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥からレンが穏やかに声をかけると、少女――イリスは勢いよくカウンターへ詰め寄り、身を乗り出した。
「ここね! セリア様のお顔の赤みを綺麗に治した薬師様のお店って!」
「ええ、セリア様の軟膏はこちらで調合したものですが……」
「やっぱり! お願い、私にもセリア様と同じあの軟膏を分けてちょうだい! お金ならいくらでも払えるわ!」
イリスが革の巾着を取り出して差し出そうとするのを、レンは柔らかく手で制した。
「お待ちください。……お困りのところ申し訳ありませんが、誰かが使って効いたからといって、同じ薬をそのままお渡しすることはできないんです」
「えっ……? どうして? 私もお肌のことでずっと悩んでて……」
怪訝そうに眉をひそめるイリスに、レンは目線を合わせ、落ち着いたトーンで説明した。
「皮膚の病気や肌荒れは、人によって原因が全く異なります。アレルギーなのか、乾燥なのか、それとも菌の感染なのか……原因が違えば、使うべき薬も真逆になります。合わない薬を塗ると、治るどころか余計に悪化してしまう危険があるんですよ」
「あ……」
「ですから、まずはどのような症状でお悩みなのか、お話を聞かせていただけますか? 患部の状態も実際に拝見させてほしいんです」
薬を売りつけるのではなく、自分の身体を本気で心配して順序を説くレンの眼差し。
間近で見る彼の涼やかで整った横顔と誠実な声に、イリスは思わず見惚れ、胸の奥がトクンと跳ねた。
「……うん。わかったわ。診てくれる?」
「はい。では奥の診察スペースへどうぞ」
レンはイリスを奥の椅子へと案内し、羊皮紙のカルテを広げて丁寧な問診を始めた。
奥の診察スペースへ案内し、レンは羊皮紙のカルテとペンを用意した。
「それでは、症状について教えていただけますか。いつ頃から、お体のどの部分に赤みや痒みが出ていますか?」
レンが穏やかに尋ねると、イリスは少し困ったように眉尻を下げ、指先を首筋から胸元、そして腰のあたりへと滑らせた。
「えっとね、季節の変わり目にすごく痒くなるの。腕の内側とか首筋もなんだけど……一番ひどいのは、この胸の谷間のあたりと、お腹から太ももの付け根にかけて、それとお尻の横あたりで……」
「…………」
ペン先を走らせようとしていたレンの手が、ピタリと止まった。
思考が一瞬、完全にフリーズする。
(……待て。場所が、男の俺にホイホイ見せていい部位じゃないぞ……!?)
セリアのときは顔の赤みだったため、純粋な医療行為として自然に視診が行えた。
だが、この少女が口にしたのは、未婚の女性――ましてや平民の服を着ていても明らかに育ちの良さが滲み出ている年頃の少女が、殿方に晒していい場所では決してない。
異世界とはいえ、この国の倫理観や貴族の貞操観念は地球の中世〜近世に近い。
不用意に「では服を脱いで見せてください」などと言おうものなら、破廉恥極まりない変態薬師として衛兵に突き出されても文句は言えない案件だった。
レンが冷や汗を流しながら固まっていると、イリスは彼の葛藤に気づく様子もなく、天真爛漫にブラウスのリボンへと手を伸ばした。
「ここなの。いま見せるわね?」
「まっ、待ってください! ストップです!」
レンは慌てて手のひらを突き出して制止した。
その必死な様子に、イリスはきょとんと目を丸くする。
「え? どうして? 患部を見ないと原因が分からないんでしょう?」
「そうですが! そうですけれど……! いくら診察とはいえ、女性が殿方の前で軽々しく肌を晒してはいけません。特にその……服の下のデリケートな部位は」
「ふふっ、レン様ってすっごく真面目なのね」
顔をわずかに赤らめながらも必死に倫理観を守ろうとするレンの純情な反応に、イリスはくすりと悪戯っぽく微笑んだ。その端正な顔立ちが困惑で染まる様子が、彼女にはひどく魅力的に映ったのだ。
「でも、見てもらわないと治らないわ。どうすればいいの?」
「……リリア!」
レンは調合室の奥へ向かって、すがるように妹の名を呼んだ。
「リリア、ちょっと来てくれ! 患部の確認とスケッチを頼みたい!」
女性同士であれば問題はない。
同性のリリアにカーテンの奥で患部の状態を確認・記録させ、自分は問診と触診可能な腕の内側だけで総合判断を下す――レンは急速に思考を回転させ、薬師としての尊厳と患者のプライバシーを守るための防衛策を組み立てるのだった。
「はいはーい! お任せください、お兄様!」
奥から元気よく駆け出してきたリリアに事情を説明し、診察台の周りを遮光カーテンでしっかりと仕切った。
レンはカーテンの外で待機し、リリアに羊皮紙と木炭を手渡す。
「リリア、赤みの広がり方、ブツブツの形、ジュクジュクした浸出液があるかどうかをよく見て、位置と様子をメモしてきてくれ」
「わかりました! ばっちりスケッチしてきますね!」
カーテンの向こうから、衣擦れの音と「わあ、お肌まっ白ですね!」「ふふ、くすぐったいわ」といった和やかな声が聞こえてくる。
待つこと数分、カーテンが勢いよく開いた。
「お兄様、描けました! 完璧です!」
自信満々の笑顔で差し出された羊皮紙を、レンは意気揚々と受け取った。
そして――二度見した。
(………………なんだこれは)
そこに描かれていたのは、丸い頭に棒のような手足が生えた、いわゆる典型的な『棒人間』。
しかも、胴体とおぼしき丸い風船のようなパーツのあちこちに、幼稚園児が力いっぱいクレヨンで描いたようなグルグル巻きの渦巻きと、無数のトゲトゲした謎のウニ状の物体がびっしりと散りばめられていた。
独特の味と力強さはある。ヘタウマの極致と言えなくもない。
だが、医学的な臨床スケッチとしては情報量が絶望的にゼロだった。
「どうですかお兄様! このグルグルが痒いところで、トゲトゲが痛痒いところです!」
胸を張るリリアの横で、服を整えて出てきたイリスが羊皮紙を覗き込み、ぷっと噴き出した。
「あははっ! 可愛い! この絵、なんだか味があってすっごく好きだわ!」
「ありがとうございます、お客様!」
(いや、喜んでる場合じゃない……! これじゃ重症度の判定どころか、発疹の種類すら判別不能だ……!)
レンはこめかみを押さえ、深呼吸をひとつ挟んだ。
「……リリア、協力ありがとう。よし、あとは腕の内側の皮膚を確認させてもらうよ。腕なら露出しても問題ないし、全身の皮膚炎のタイプを推測できる」
気を取り直したレンは、イリスに腕を出してもらい、露出可能な腕の内側の発疹を視認しながら、指先で優しく触診を行った。
カサつき、わずかな熱感、苔癬化の兆候――。
リリアの超前衛的な棒人間アートと、腕の実測データを脳内PCで照合・補正し、レンは確かな診断へと辿り着くのだった。
レンはリリアの前衛的なスケッチをそっとカルテに挟み込み、意識をそっと『脳内PC』へと切り替えた。
(……腕の内側の実測データと、リリアの絵が示した発生箇所、そしてイリスの訴えを統合して検索にかけるか)
脳内の対話型AIアシスタントに、把握できたパラメータを順に入力していく。
好発部位(発生箇所):肘の内側、首筋、デコルテ(胸元)、腹部、大腿付け根(鼠径部)、臀部外側
色味・皮疹形態:淡紅色〜紅斑(赤み)、細かな丘疹、一部に軽度の落屑と乾燥による線状の引っ掻き痕
自覚症状:温熱刺激(入浴後)や乾燥、ウール等の摩擦による強い掻痒感。季節変動あり
プロンプトを送信すると、脳内の仮想モニターに即座に診断候補と疾患特徴のサジェストが展開された。
【AI照合結果:皮膚病態の判定】
主診断候補:アトピー性皮膚炎(軽症〜中等症)を伴う皮脂欠乏性湿疹
病態メカニズム:
皮膚バリア機能(角質細胞間脂質)の低下による乾燥
衣服の摩擦や汗・温熱刺激による過敏な炎症反応
屈曲部(肘の内側・首・鼠径部)を中心とした左右対称性の湿疹
鑑別ポイント(除外項目):
白癬(真菌感染)特有の環状紅斑・堤防状隆起はなし
細菌感染による膿疱・黄色浸出液はなし
(よし、感染症じゃなく、純粋なアレルギー素因と乾燥によるバリア破壊型の湿疹だ)
画面を高速でスクロールさせながら、レンは処方プランを確定させていく。
【推奨される処方方針】
急性炎症部位(赤み・痒みの強い部分):
IV群(Medium:ヒドロコルチゾン酪酸エステル相当)の外用により、炎症と痒みの連鎖を早期に遮断。
全身の乾燥・寛解部位:
高純度精製ワセリン(プロペト相当)によるバリア機能の物理的補強・保湿。
AIが弾き出した明確な診断根拠と処方設計が、レンの頭の中にすっきりと収まった。
意識を現実の診察室へ戻すと、レンは心配そうにこちらを見つめるイリスに向き直り、穏やかな笑みを浮かべた。
「お待たせしました。症状の原因が分かりましたよ」
「本当……!? 私のお肌、治るの?」
「ええ。肌本来の潤いを守るバリアが弱まっていて、乾燥や服の擦れでアレルギー性の炎症が起きている状態です。今起きている赤みと痒みを一気に鎮める『炎症止めの軟膏』と、皮膚を保護する『保湿用の油膏』の二つを正しく使い分ければ、綺麗に治まります」
的確で迷いのないレンの説明に、イリスの瞳がぱあっと希望の光で輝いた。
レンは調合台から二つの小さな木製容器を取り出し、診察机の上に並べた。
一つは白ワセリンのみを詰めた保湿用の容器。もう一つは、今回精製した『IV群(Medium)』のステロイド軟膏が入った容器だ。
「イリス様、お渡しするお薬はこの二種類です。この二つは役割がまったく違いますので、塗り分けの順番とルールをしっかり守ってください」
レンは羊皮紙に図を描きながら、丁寧に説明を始めた。
「まず、こちらの透明感のある油膏が【保護・保湿剤】です。肌の水分が逃げないようフタをする役割を持っています。お風呂上がりなど、肌が清潔で少し湿り気のあるうちに、痒みのない場所も含めて乾燥が気になる部分全体へ広めに塗ってください」
「全体に……ね。こっちの白い方の軟膏は?」
イリスがもう一つの容器を指差す。
「そちらが【抗炎症軟膏】――今起きている強い赤みと痒みを一気に鎮めるための特効薬です。こちらは赤みやブツブツが出ている患部だけに、ピンポイントで薄く乗せるように塗ります」
「広く塗っちゃダメなの?」
「はい。健康な皮膚や、ただカサついているだけの場所にまで塗る必要はありません。順序としては、『まず全体に保湿剤を塗り、その上から赤みのある部分だけに抗炎症軟膏をちょんと重ねる』。これが基本です」
レンの明快で論理的な指導に、イリスは感心したように何度も頷いた。
「そして――使用前の一番大事なお約束です。今から腕の内側でパッチテストを行います」
「パッチテスト……さっき言ってた、お肌に合うか確かめる試験ね」
「その通りです。イリス様、左腕をお借りできますか?」
「ええ、どうぞ!」
イリスが袖をまくって差し出した腕は、透き通るように白く、ほっそりとしていた。
レンは清潔な木べらを取り、ステロイド軟膏をごく微量――米粒の半分ほどの量をすくい取ると、イリスの手首から少し上がった柔らかな皮膚の上へとそっと乗せた。
触れた瞬間、レンの指先のわずかな温もりが伝わり、イリスの肩が小さく跳ねる。
レンは至って真剣な表情で、軟膏を直径一センチほどの円状に薄く伸ばした。
「……冷たくて、気持ちいい……」
「刺激感やピリピリした痛みはありませんか?」
「うん、全然平気。むしろスーッとして落ち着く感じがするわ」
「よかったです。ですが、本当の反応が出るまでには時間がかかります」
レンは上から清潔な通気性のある保護布を当て、肌に優しい粘着テープで固定した。
「このまま丸一日――明日のこの時間まで剥がさずに過ごしてください。入浴時も強く擦らないよう気をつけていただき、もし途中で強い痒みや赤みが出たらすぐに水で洗い流してくださいね。明日、何の異常もなければ、先ほど説明した手順でお体への使用を始めましょう」
「わかったわ! レン様の言う通りにする」
処置を終えた腕を見つめながら、イリスは花が咲いたような眩しい笑顔をレンに向けた。
「こんなに丁寧に診てくれた薬師様、帝国の宮廷にもいなかったわ。レン様、ありがとう! 明日また結果を見せに来るわね!」
皇女としての身分をすっかり忘れ、一人の少女としてレンに全幅の信頼を寄せるイリス。
その無邪気で熱のこもった眼差しに、レンは少し気恥ずかしさを覚えつつも、薬師としてしっかりと一礼を返すのだった。
約束の刻限を少し過ぎた頃、薬房のドアベルが勢いよく鳴り響いた。
「レン様! 言われた通り、一日ちゃんと我慢して過ごしたわ!」
飛び込んできたイリスは、昨日と同じ町娘のローブ姿ながら、待ちきれないといった様子で足早に診察カウンターへと歩み寄ってきた。
「いらっしゃいませ、イリス様。かゆみや違和感で途中で剥がしたりはしませんでしたか?」
「全然! お風呂のときも濡らさないように気をつけて、ずーっとそのままにしておいたの」
「素晴らしい心がけです。では、さっそく確認させていただきますね」
レンはイリスを診察台へ促し、腕に貼られた保護布の端を慎重につまんでゆっくりと剥がした。
露出したテスト部位の皮膚を、レンは指先で軽く触れながら入念に観察する。
赤みや腫れ、細かな発疹などのアレルギー反応は一切見られない。軟膏を塗った部分は刺激を受けるどころか、むしろ周囲のカサついた肌よりもなめらかに落ち着いていた。
「……うん、発赤も湿疹の兆候もありませんね。接触皮膚炎の心配はありません。陰性――パッチテストは完全なクリアです」
「本当!? じゃあ、今日から体にも塗っていいのね!」
イリスがぱあっと表情を明るくし、嬉しそうに両手を合わせた。
「はい。昨日お渡しした手順通り、今日から本格的な治療を始めましょう。もう一度だけ大切なポイントをおさらいしますね」
レンは木製の二つの容器――保湿用の白ワセリンと、抗炎症用のステロイド軟膏をイリスの前に並べた。
「まず、お風呂上がりなどの清潔な肌に、こちらの透明な保湿剤を全身へ広めに塗ってください。乾燥を防いで肌のバリアを整えます。その上で、赤みや痒みのある患部にだけ、この白い軟膏を指先で薄く、優しく乗せるように重ねます」
「広く塗りすぎず、悪くなってるところだけにちょこん、ね!」
「その通りです。しっかりと使い分ければ、数日で強い痒みと赤みは引いていくはずです。ただし、良くなったからといって一気にやめたり、逆に何週間もだらだら塗り続けたりせず、肌が落ち着いたら保湿剤だけのお手入れに切り替えていきます」
「うん、レン様の言う通りにちゃんとお手入れするわ! ……ねえ、もし使い方が分からなくなったり、お肌が綺麗になったら、またここに来てもいい?」
上目遣いに尋ねてくるイリスの瞳には、治療への期待だけでなく、レンへの純粋な好意が隠しきれずに滲んでいた。
「もちろんです。経過を診るのも薬師の大事な役目ですから、いつでもいらしてください」
「約束よ! ふふっ、今日からのお手入れがすっごく楽しみ!」
イリスは二つの木製容器を大切そうに胸に抱きしめ、満面の笑みを浮かべて薬房を後にした。
その足取りを見送りながら、レンは手応えを噛み締めつつ、次なる患者への準備へと意識を戻すのだった。
処方を始めてからわずか三日後の午後。
薬房の扉が「カランカランッ!」と普段の倍以上の勢いで跳ね上がり、突風のような勢いでイリスが飛び込んできた。
「レン様ーーっ!! 見て、見てちょうだい!!」
「い、イリス様!? お落ち着いてくださ……」
レンがカウンターから声をかける間もなく、イリスは診察スペースへ駆け寄ると、纏っていた町娘風のローブを一気に脱ぎ捨てた。
そして、あろうことか――。
「あんなに真っ赤でガサガサだったのに、痒みも赤みもぜーんぶ消えたの! ほら、ここも、ここも、こんなにツルツルなのよ!」
天真爛漫な歓喜の叫びとともに、イリスはブラウスのボタンを上から勢いよく外し、胸元を大胆に左右へ押し広げた。さらにはスカートの裾を躊躇なくたくし上げ、太ももの付け根から下腹部にかけての滑らかな素肌を惜しげもなく露わにしたのだ。
(ぶっ……!?!?)
レンの視界に飛び込んできたのは、三日前まで引っ掻き傷と赤いブツブツに覆われていたはずの肌が、まるで生まれ変わったかのように白く透き通り、瑞々しい弾力を取り戻した光景。
――そして、未婚の皇女が殿方に決して見せてはならない、眩しすぎる柔肌と下着の境界線だった。
「うわあああっ!? ま、待った! 服を着てくださいイリス様!!」
レンは凄まじい反射神経で両手で顔を覆い、指の隙間すら固く閉ざして真後ろを向いた。
心臓が破裂しそうな勢いで鐘のように鳴り響き、耳の先まで一瞬で沸騰したように真っ赤に染まる。
「え? どうして? せっかくレン様が治してくれたんだから、ちゃんと綺麗になった成果を見てもらおうと思って……あ、お腹の横も見たい? こっちも全然痒くないの!」
「見なくていいです! いや薬師としては確認したいですが、倫理的にダメです!! 頼むからボタンを留めてスカートを下ろしてください!!」
「ふふっ、レン様ったら耳まで真っ赤。本当に可愛いんだから」
レンの取り乱しように、イリスは恥じらうどころか、ますます嬉しそうに目を細めてくすくす笑っている。
肌の激しい苦痛から解放された解放感と、大好きなレンに自分の綺麗な姿を見せられた喜びで、彼女のテンションは完全にタガが外れていた。
「お兄様、ただいま戻りまし……って、きゃあああああっ!? な、何をやっているんですかイリス様ーーっ!!」
ちょうど買い出しから戻ってきたリリアが悲鳴を上げ、買い物籠を放り出してイリスに飛びつき、大慌てでブラウスのボタンを留め直した。
「リリアちゃん、見て! レン様のお薬、本当にすごいのよ! 一晩で痒みが消えて、二日目には赤みが引いて、もう跡形もないの!」
「す、すごいのは分かりましたから! でも殿方の前で脱いだらダメです! お兄様の純情が爆発して死んじゃいます!!」
リリアに服を整えられながらも、イリスは満足そうに微笑み、後ろを向いたままのレンの背中にそっと寄り添った。
「……本当にありがとう、レン様。ずっとずっと悩んでて、誰も治せなかったのに……レン様は私の救世主だわ」
背中に伝わる少女の温もりと、どこまでも純粋で熱い感謝の言葉に、レンは顔を覆ったまま、ようやく深く長い息を吐き出すのだった。
リリアの必死の介抱によってブラウスのボタンがすべて留め直され、スカートの裾が整えられた頃、薬房はようやく平静を取り戻した。
レンは冷たい水で濡らした手ぬぐいで顔を冷やし、ようやく赤みを引かせながら診察用の椅子へと腰を下ろした。
「……本当に、心臓に悪すぎます。いくら完治したのが嬉しくても、肌を晒すのは同性の前だけにしてください」
「もう、レン様ったら堅いんだから。でも、恥ずかしがるレン様もすっごく素敵だったわ」
いたずらっぽく微笑むイリスは、お茶を出してくれたリリアに礼を言うと、ふっと少し真剣な面持ちへと表情を切り替えた。
その立ち振る舞いには、町娘のローブでは覆い隠せない、凛とした気品が自然と滲み出ている。
「からかうのはこれくらいにして……レン様。ちゃんとお礼と、私の本当の身分をお話ししなきゃね」
イリスは首元に下げていた細い金鎖を引き出し、服の下から豪奢な紋章が刻まれたペンダントを取り出して机の上に置いた。
金と真紅のエナメルで描かれているのは、双頭の鷲を戴く大帝国の国章――。
「私の本名は、イリス・ラ・ヴァレンティノ。ヴァレンティノ帝国の第三皇女よ。今は王立学園に留学中なんだけど、今日は護衛を撒いてお忍びで来ていたの」
「て、帝国の……皇女殿下……!?」
リリアがお茶のポットを取り落としそうになって固まり、レンも内心で息を呑んだ。
(セリア様の公爵家どころじゃない……他国のトップクラスの皇族か……!)
だが、レンは必要以上にへりくだることもなく、静かに姿勢を正して頭を下げた。
「これは……高貴な方とは露知らず、無礼な対応をお許しください、皇女殿下」
「やめて、レン様! 今まで通り『イリス』でいいわ。私を救ってくれたのは、帝国の権力でもお金でもなくて、レン様の腕と誠実さなんだから」
イリスは身を乗り出し、レンの両手をぎゅっと握りしめた。その紫水晶のような瞳は、熱烈な輝きを帯びている。
「ねえ、レン様。単刀直入に言うわ――私の専属薬師として、帝国へ来てくれないかしら?」
「……専属薬師、ですか」
「ええ! 帝国の宮廷薬師長以上の待遇を約束するわ。研究費も素材も、レン様が望むものは国を挙げてすべて用意させる。王国の貴族たちがどんなに邪魔をしようと、帝国の皇族である私が全力であなたを守るわ。それに……」
イリスは頬をほんのりと桜色に染め、上目遣いにレンを見つめた。
「ずっと私のそばで、私だけのお肌と体を……診ていてほしいの」
直球すぎるスカウトと、露骨な好意のアプローチに、横で見ていたリリアが「ひゃあ……!」と口元を押さえて目を白黒させている。
王国の大貴族すら手を出せない「帝国皇女」という最大の切り札を持つ少女からの、破格の求婚じみたスカウト。
レンは差し出された温かい手を見つめながら、薬師としての自分の立ち位置と、今後の工房の在り方に思いを巡らせるのだった。
レンは握られたイリスの温かい手を、優しく、しかし確固とした意志を込めてそっと押し戻した。
「身に余る光栄なお話です、イリス様。……ですが、俺はこの下町の薬房で、まだやるべきことがあります」
「やるべきこと……?」
「はい。今は帝国へ行くことはできません」
レンはそれ以上、言葉を重ねなかった。
「……そっか。やっぱりレン様は、私が思った通りの素敵な薬師様ね」
あっさりと断られたにもかかわらず、イリスは不快がるどころか、権力に一切靡かないレンの高潔さにますます惚れ直したように瞳を潤ませて微笑んだ。
「いいわ。今すぐ来てくれないなら、私がここに通い詰めるだけよ。……覚悟しておいてね、レン様?」
茶目っ気たっぷりにウインクを残し、イリスは上機嫌で薬房を後にしていった。
バタンと扉が閉まり、薬房の中にようやく静寂が戻る。
(………………)
レンはすっと真顔になり、机の上の書類立てへと視線を移した。
そこには、セリアの肌荒れが完治して社交界で話題になって以来、貴族や豪商の家から連日のように届けられている『釣書』や『縁談の申し入れ』の手紙が、分厚い束となって積み上がっていた。
(……他国についていくわけないだろう! こんな千載一遇のチャンスを棒に振ってどうする! この手紙の山は全部本物だぞ……!)
前世では研究室のフラスコと薬局の調剤棚だけが友達で、恋人いない歴イコール年齢のまま過労死したレンである。
それが異世界へ転生し、画期的な新薬をひとつ当てただけで、名家のご令嬢たちからの見合いや求婚の申し込みが引きも切らない状態になっているのだ。
(もしかして……俺、ついに念願のお嫁さんをもらえるんじゃないか……!? 朝起きたら「あなた、ご飯できたわよ」って言ってもらえる生活が、もう目と鼻の先まで来てる……!)
男としての淡い期待と妄想が限界突破し、レンの口元はだらしなく緩みきっていた。頭の中はすでに新婚生活のシミュレーションでお花畑状態である。
「……お兄様」
背後から、絶対零度の冷徹な声が突き刺さった。
ビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、リリアが両手を腰に当て、完全にゴミを見るようなジト目でレンと手紙の山を交互に見据えていた。
「あの手紙の山を見て『ついに僕にも可愛いお嫁さんが……!』とか盛大に勘違いしてますね?」
「な、ななな何を言っているんだリリア! 俺は断じてそんな不埒な――」
「お兄様、目を覚ましてください。貴族の皆さんが欲しがっているのはお兄様の愛じゃなくて、『ステロイド軟膏の独占販売権』と『金の卵を産む薬師の囲い込み』です。完全に蜜の罠ですよ?」
「ご、ごほっ! ぐ……! い、いや、中には純粋に俺という人間を愛してくれる心優しいご令嬢だっているかもしれないだろ!?」
「手紙の追伸を読んでみてください。『つきましては我が領地へ工房を移転し、製法を当家専属に……』って全員書いてあります! 純情を弄ばれて骨までしゃぶられるのがオチです!」
ぐうの音も出ない正論をマシンガンのように叩き込まれ、レンは真っ赤になった顔を両手で覆った。
「うっ……! わ、分かった、分かったから! 調合台の掃除に戻るからもうその冷たい目で見るのはやめてくれ!」
痛いところを的確に抉られた元研究員は、哀愁を漂わせながら、激しく乳鉢を磨き始めるのだった。
◇
原料の下処理を終えたレンは、作業机の端に置かれた豪奢な招待状の束へ、ふと視線を落とした。
セリアの赤ら顔を治し、帝国の皇女イリスの肌トラブルまで解決したことで、今やレン宛てには連日、貴族たちの主催する夜会やサロンへの招待状が届いていた。
(……社交界、か)
レンの胸の奥で、前世からのコンプレックスと男としての野望が静かに蠢いた。
前世では白衣を着てフラスコとキーボードを叩き続けるだけの、華やかさとは完全に無縁な人生だった。
金曜の夜といえば、コンビニ弁当を食べながら終電まで残業するか、学術論文を読むか。合コンに誘われることもなく、女性とドレスを着て踊る世界など、画面の向こうのファンタジーでしかなかったのだ。
(だが、今の俺は平民の薬師とはいえ、公爵家令嬢と帝国皇女を顧客に持つ注目の的……! 仕立てのいい礼服を着て、あの煌びやかなシャンデリアの下へ行けば、俺だって――)
頭の中に、前世では絶対に叶わなかった「華やかな社交界の輪の中心で、優雅に微笑む自分」の姿が浮かび上がる。
「リリア」
「はい、なんでしょうお兄様?」
「俺も……そろそろ社交界というものに顔を出してみてもいいんじゃないかと思うんだ」
レンはできるだけ冷静かつビジネス然とした口調を取り繕いながら、招待状の山から金箔押しの手紙を一枚指先でつまみ上げた。
「薬師としての販路拡大と、上流階級の健康ニーズのリサーチだ。人脈を広げておくことは、この薬房の将来にとっても決してマイナスにはならないだろう?」
「………………」
リリアは持っていた薬草用のハサミを机に置き、じとーっとした冷ややかな視線をレンに向けた。
「お兄様」
「な、なんだ」
「口では『ニーズのリサーチ』とか言ってますけど、本音は『綺麗なドレスを着た貴族のご令嬢たちとお近づきになりたい』ですよね? 顔に『モテたい』って書いてありますよ」
「ぶっ……!? な、何を根拠のない言いがかりを! 俺は純粋にマーケティングの一環として――」
「さっきから鏡の前で、前髪を整えながら会釈の練習をしてたの、全部見えてましたからね」
痛恨の一撃を食らい、レンは言葉を失って口をパクパクとさせた。
「だ、だが! 招待状が来ているのは事実だし、一度くらい貴族の夜会とやらを見ておくのも経験として悪くないはずだ!」
「まあ、セリア様やイリス様の顔を立てる意味でも、挨拶くらいは必要かもしれませんけど……。いいですかお兄様、社交界の夜会は化け物の巣窟ですからね? お酒に釣られて変な契約書にサインさせられたり、ハニートラップに引っかかったりしないでくださいよ!」
「子供扱いするな! 俺だって前世は立派な社会人……いや、大人なんだからな!」
リリアに小言を浴びせられながらも、レンの心はすでに、未知なる華やかな社交界デビューへの期待で激しく高鳴っていた。




