8話:姉上の超法規的婚姻スキーム(※弟の冗談を真に受けました)
レンがクロイツァー伯爵邸を訪れたのは、ドラッグストア店長時代からの染み付いた職業倫理――すなわち「新製品モニターのアフターフォローと臨床データの収集」が目的だった。
どれほど成分に自信があっても、肌質には個人差がある。赤みやかゆみは出ていないか、保湿の持続時間は十分か、テクスチャーに不満はないか――直接顔を見てヒアリングし、今後の調合の参考にする。レンにとっては、ただそれだけの純粋な業務の一環に過ぎなかった。
だが、迎え入れるクロイツァー伯爵家にとっては、まったく別の意味を持っていた。
「れ、レン様が……ベルフォール公爵家の三男であらせられるレン様が、直々にお越しに……!?」
クロイツァー伯爵邸の応接室には、異様な緊張感が漂っていた。
応接用の最高級ソファに腰掛け、出された紅茶の香りに「いい茶葉だな」とのんびり感心しているレンの向かいには、正装で直立不動のクロイツァー伯爵夫妻。そして、完璧にドレスアップしたセリアが、頬を薔薇色に染めて座っていた。
「あの、伯爵閣下、どうぞお座りになってください。本日は事前にご連絡した通り、セリア様に納品した試作化粧水の使用感を伺いに参っただけですので……」
レンが穏やかに微笑みかけると、伯爵は「滅相もございません!」と勢いよく頭を下げた。
「我が娘セリアの酷い肌荒れを治していただいたばかりか、公爵家の御方がこのように自ら足を運んでくださるなど……! 一族を挙げて、どのような礼を尽くすべきか言葉もございません!」
(いや、ただの定期フォローなんだけどな……前世でも高額スキンケアを買ってくれた常客にはこれくらい普通にやってたし……)
貴族社会における「公爵令嬢・子息の直接訪問」がどれほど重い意味を持つか、レンは相変わらず自分の立場を都合よく忘れていた。
「それで、セリア様。お肌の調子はいかがでしょうか? 刺激感や、塗布後のつっぱりなどはございませんでしたか?」
レンが真剣な眼差しで身を乗り出すと、セリアは胸元に両手を当て、うっとりとした吐息を漏らした。その肌は、荒れていた面影など微塵もなく、白磁のように滑らかで光を弾いている。
「……信じられないほど、素晴らしいですわ。朝起きて鏡を見るたび、自分の顔ではないのではと疑ってしまうほどに……。これまで名だたる医師や高名な治癒術師にも匙を投げられていた肌が、あの方――いえ、レン様の作られた『奇跡の雫』によって、完全に蘇りました」
セリアは誇らしげに、そして熱っぽい瞳でレンを見つめる。
「昨夜の夜会でも、皆様から羨望の眼差しを向けられましたわ。『その美しさは何事か』と詰め寄る令嬢たちに、わたくし、教えて差し上げましたの。あの奇跡を手に入れたいのでしたら、下町へ足を運ぶ覚悟がおありかしら、と」
「……えっ?」
レンの動きがピタリと止まる。
「下町、ですか?」
「ええ。レン様の薬房の価値を理解もせず、ただ流行を追うような薄っぺらな方々に、安易に手渡してなるものですか。本物を求める覚悟のある者だけが、あの方の元へ辿り着くべきですわ」
セリアは満足げに微笑んでいるが、レンの背筋には冷や汗が流れた。
(ちょっと待ってくれ。うちの店、まだ看板も控えめでひっそりやってるのに……貴族令嬢たちにそんな煽り方したら、とんでもない客層が大挙して押し寄せてくるんじゃないか……!?)
しかも、セリアの熱烈な視線と、背後で「これは……もしや我が家とベルフォール公爵家との間に良縁が……!?」と目を輝かせ始めている伯爵夫妻の無言の圧力が、部屋の空気をじわじわと重くしていく。
「あ、ありがとうございます、セリア様……。お肌に合っていたようで何よりです。ええと、本日の目的は果たせましたので、私はこれで――」
これ以上の深入りは危険だと察したレンが席を立とうとした、その時だった。
「――お待ちなさいませ、レン様」
セリアがすっと立ち上がり、レンの手をそっと包み込むように握りしめた。
「わたくし、決めましたの。この命よりも大切な美しさを取り戻してくださったレン様のために、わたくしの全てをお使いいたします。社交界の隅々にまで、レン様の偉大さを知らしめてみせますわ」
(やばい、純粋なカスタマーレビューを聞きに来ただけなのに、狂信的な広報担当が爆誕してしまった……!)
セリアの爛々と輝く瞳と、ぐっと握られた両手の圧に圧倒されつつも、レンはふと思いついて表情を改めた。ただ熱狂に流されるのではなく、この状況をうまく次のステップに活かせないだろうか。
レンは困ったように微笑みながら、柔らかく切り出した。
「そこまで応援してくださるのでしたら、ここはひとつ投資してみませんか? 次の商品の工房を立ち上げたいのです。最初は小さく始めますので、お嬢様のおこずかい程度でできるものですよ」
「……と、投資、でございますか?」
予想外の提案に、セリアがぱちくりと目を瞬かせた。
「ええ。といっても、最初から量産するための大掛かりな工場ではありません。納得のいく品質と安全性を確かめるための、試作研究をする設備です。うまくいけば、量産に入るころにしっかりと利益が出ますよ」
「ええ。とはいえ、大がかりな工場を建てて量産するためではありません。まずは納得のいく品質と安全性を確かめるための、試作研究をする設備を作りたいのです。最初から大きく広げるとリスクがありますから、お嬢様のお小遣い程度でできる規模から小さく始めます。そして研究がうまくいき、将来的に量産に入るころにしっかりと利益が出る……という仕組みです」
セリアは握っていた手を胸元に戻し、レンの言葉を反芻するように目を輝かせた。
「お小遣い程度の出資で、レン様の研究の礎になれる……。そして、その研究が実を結んだ時に、わたくしにも成果が返ってくる、と……」
「その通りです。もちろん、研究ですから狙い通りの効果が出ないリスクもありますが、セリア様には完成した試作品を誰よりも早くお試しいただく権利もお付けしますよ」
「乗りましたわ!」
セリアは迷うことなく即答し、満面の笑みを咲かせた。
「わたくしのお小遣いでレン様の『次なる奇跡』が生まれるのでしたら、喜んで出資いたします! ……それで、その新しい設備では、具体的にどのようなものを研究されるおつもりなのですか?」
「次ですか? そうですね……」
レンは少し声を潜め、人差し指を口元に当ててみせた。
「今回は化粧水で肌の表面を整え、潤いを与えるアプローチでした。ですが、貴族の方々の中には、もっと根深い肌トラブル――たとえば、強い赤みや激しいかゆみ、痛みを伴うひどい肌荒れに悩んでいる方も多いはずです」
セリアがはっと息を呑む。かつて自分自身が、社交界に出られないほど絶望していたあの辛い日々が脳裏をよぎったのだ。
「ええ……ええ、いらっしゃいますわ! わたくしのように、どの治癒術師にも匙を投げられ、部屋に閉じこもって泣いている令嬢がどれほどいることか……!」
「そうした頑固な炎症を、短期間で劇的に鎮めるための『特効薬』――植物の特定の成分から抽出する、まったく新しい軟膏の研究を進めたいと考えているんです」
レンの言葉に、セリアの瞳がカッと熱を帯びた。
「激しい炎症を一瞬で鎮める軟膏……! それは、わたくしの肌を救った化粧水以上の、真の奇跡ではございませんこと!?」
「ええ。ただ、効果が劇薬レベルで高い分、抽出の純度や配合比率を極限まで精密にコントロールしなければなりません。だからこそ、専用の器具と温度管理ができる試作環境がどうしても必要なのです」
「わかりましたわ!」
セリアは力強く頷き、背後の執事に向かって扇をピシリと向けた。
「今すぐ、わたくしの金庫から自由に動かせる金貨をすべて持ってまいりなさい! レン様の研究に、一刻の遅れも生じさせてはなりませんわ!」
「セ、セリア様、ですから『お小遣い程度』でとお伝えしたはずですが……」
レンの控えめな制止など耳に入っていない様子で、セリアは満面の笑みを浮かべ、両手を組み直した。
「ふふ、これでわたくしは、レン様の『筆頭出資者』であり『最初の治験者』……。ねえレン様、準備が整いましたら、真っ先にその工房へご案内いただけますわね?」
「では、場所と人員がご用意できましたらお知らせください」
セリアは満足そうに微笑みながら、優雅に顎を引いた。
「場所と、人員……ですか?」
レンが問い返すと、セリアは当然といった様子で扇を広げ、口元を隠す。
「ええ。出資する以上、わたくしとしても万全の環境で研究に没頭していただきたいのです。貴族街に近い安全な物件の確保はもちろん、口の堅い信頼できる下働きや警備の手配など、クロイツァー家の名においていくらでも都合をつけられますわ。レン様が下町の雑務に煩わされる必要などございませんもの」
(いやいやいや、そんな大々的に貴族を巻き込んだら、ベルフォール公爵家や他の派閥に速攻で嗅ぎつけられるだろ……!)
レンは冷や汗を流しながら、慌てて両手を振った。
「お気遣いは本当にありがたいのですが、セリア様。この研究は、まだ極秘裏に進めたい段階なんです。貴族街に工房を構えたり、人を大勢雇ったりすると、目立ちすぎて他の貴族や錬金術師ギルドに目をつけられかねません」
「あら……それは確かにそうですわね。レン様の奇跡を、無粋なハイエナたちに盗み見られては堪りませんもの」
納得したように頷くセリアに、レンはホッと息をつきつつ続けた。
「場所は、今の下町の薬房の地下か、その近辺の小さな空き家をそのまま使う予定です。人員も、まずは私と助手の二人だけで十分回せますので。セリア様のお力は、研究が形になって『いざ世に出す』というその瞬間まで、温存しておいていただけますか?」
「……ふふ、レン様ったら。焦らし上手でいらっしゃること」
セリアは楽しげに目を細め、胸の前で手を合わせた。
「分かりましたわ。では、場所と人員が整い、工房が始動しましたら真っ先にお知らせくださいませ。わたくし、その時を心から楽しみにしておりますわ」
こうして、レンの思惑とは裏腹に、彼はその後もしばらくクロイツァー伯爵邸――セリアのもとへ足繁く通うこととなった。
レン側の名目は、あくまで「出資者への研究進捗の定期報告」と「化粧水のアフターフォロー(肌状態の長期モニタリング)」である。
試作設備の器具の調達状況、原料となる薬草の選別、抽出温度のテスト結果などを、店長時代の業務報告のように淡々と資料にまとめて届けていただけだった。
だが――はたから見れば、まったく別の光景に見えていた。
「今日もベルフォール公爵家のレン様がいらしたわ」
「まあ……! 今週で三度目ではなくて?」
「奥様、あのご様子では……近々、正式な婚約のお話が出るのではございませんこと?」
屋敷の使用人たちは廊下の隅で顔を見合わせ、楽しげにひそひそと囁き合う。
日当たりの良いガゼボで、麗しい美貌の公爵子息と、美しさを取り戻して輝くばかりの伯爵令嬢が、二人きりで親密そうに話し込んでいる。
「失礼します、セリア様。少し触れますね」
「あ……はい、レン様……」
レンが真剣な面持ちでセリアの頬にそっと手を添え、親指の腹で肌の弾力やキメ、水分量を確かめるように優しく撫でる。
レンにとってはドラッグストア時代の肌診断そのもの――「Tゾーンの皮脂バランスと角質層の水分保持力チェック」に過ぎないのだが、触れられたセリアは耳まで真っ赤に染め上げ、うっとりと瞳を潤ませて吐息を漏らしていた。
客観的に見れば、「公爵家の美しき三男坊が、美貌の伯爵令嬢の頬を愛おしそうに撫でながら熱烈に通い詰めている」という極めてロマンチックな構図そのものだった。
「レン様、今日のお茶菓子は東方から取り寄せた干し果物を使ったタルトですの。お口に合いますかしら?」
「あ、ありがとうございます。……あ、セリア様、前回の抽出サンプルなんですが、肌への浸透速度が――」
「ふふ、レン様ったら、本当に熱心でいらっしゃること。そのような真摯な眼差しで見つめられますと、わたくし、胸が高鳴ってしまいますわ」
「……ええと、肌の話なんですが」
伯爵邸に通うたび、クロイツァー伯爵は満面の笑みで最高級の茶葉を惜しげもなく振る舞い、伯爵夫人は遠くから温かい眼差しで見守り、屋敷全体の「外堀を埋めていく空気」は日増しに濃くなっていく。
(いや、純粋なビジネスの定例ミーティングと定期検診なんだけどな……なんか屋敷全体の視線がやたらと甘いのは気のせいだろうか……?)
レンがそんな呑気な違和感を覚えながらも報告書にペンを走らせていた頃、この「ベルフォール公爵子息がクロイツァー伯爵令嬢のもとへ足繁く通い、睦まじく肌を寄せ合っている」という噂は、すでに社交界の耳ざとい令嬢たちの間へとじわじわと広がり始めていたのだった。
◇
ベルフォール公爵邸の執務室。長男のエドワードは、手元の報告書を見つめたまま、深く頭を抱えていた。
「……レンが、クロイツァー伯爵令嬢の元へ足繁く通い詰めている……だと?」
しかも噂によれば、ただ通っているだけではない。白昼堂々、ガゼボで令嬢の頬に優しく手を添え、愛おしそうに見つめ合っていたというのだ。
「あいつは何を考えているんだ……? 家を出て下町で薬草いじりを始めたと思えば、今度は他家の令嬢と熱愛の噂だと……!?」
ベルフォール公爵家の跡継ぎとして、常に冷静沈着であらねばならないエドワードだが、今回ばかりは胃のあたりがきりきりと痛み始めていた。
クロイツァー伯爵家は決して悪い家柄ではない。だが、公爵家の三男が誰の仲介も通さず、単身で令嬢の元へ通い詰め、外堀を埋めるように既成事実を作っているとなれば話は別だ。正式な求婚の使者を送るべきなのか、それとも当主である父上に報告して釘を刺すべきなのか――。
「くっ……いったい、どう対応すればいいんだ……!」
エドワードが眉間を指先で強く揉みほぐしていた、その時だった。
バァァァン――ッ!!
凄まじい轟音とともに、重厚な執務室の樫の木の扉が勢いよく蹴破られるように開け放たれた。
「――お兄様!!」
廊下から響く苛烈な足音とともに現れたのは、ベルフォール公爵家の長女、エレオノーラだった。
長い髪を鋭く揺らし、燃え盛るような紅蓮の瞳でエドワードを射抜く。その背後には、ただならぬ殺気のような威圧感が渦巻いていた。
「え、エレオノーラ……!? ノックくらいせんか!」
「そんな悠長なことを言っている場合ですか! 聞きましたわよ! あの愚弟――レンが、どこの馬の骨とも知れない伯爵令嬢に誑かされ、毎日のように頬を撫で回しているなどという破廉恥極まりない噂を!!」
エレオノーラは執務机へ大股で詰め寄ると、両手を机に叩きつけた。
「あの子は! 幼い頃から少し世間知らずで、お人好しで、放っておけば悪い虫に騙されそうな危うさがあるのです! それを……あのような小娘に好き放題弄ばせるなど、この私が絶対に許しませんわ!!」
「ま、待て、エレオノーラ! まだ事実関係を確認している最中で――」
「確認など現場を押さえれば一瞬です! 私は今すぐクロイツァー伯爵邸へ乗り込み、あの不届きな令嬢の化けの皮を剥ぎ取って、レンを連れ戻してまいりますわ!!」
「おい、待ちなさい! 騎士団を連れていくな! エレオノーラ――!!」
エドワードの必死の制止などどこ吹く風、エレオノーラはカツカツと苛烈なヒールの音を響かせ、嵐のように執務室を飛び出していったのだった。
「おい、待ちなさい! 騎士団を連れていくな! エレオノーラ――!!」
エドワードの必死の制止に、エレオノーラは扉の前でピタリと足を止めた。
ギリッと奥歯を噛み締め、肩を激しく上下させながら振り返る。
「……そうですわね。他家の屋敷へいきなり乗り込んで騒ぎを大きくすれば、公爵家の名に傷がつくだけでなく、あの愚弟がますます立場を悪くするだけですわ」
冷徹な理性を辛うじて取り戻したエレオノーラは、鋭い眼光をギラリと光らせた。
「まずは当事者――あのレン本人を締め上げて、事の真相を一から十まで吐かせるのが先決ですわね」
翻された豪奢なドレスの裾が、苛烈な怒気を孕んで鋭く翻る。
エレオノーラはそのまま踵を返し、足早に執務室をあとにした。
背後でエドワードが「頼むから穏便に頼むぞ……」と胃を押さえながら呻く声が聞こえたが、今の彼女の耳には一切届いていなかった。
その日の夕暮れ時。
王都の喧騒から少し外れた下町の一角に佇む『ベルフォール薬房』の前に、一台の豪奢な馬車が滑り込んだ。
カツ、カツ、カツ――。
石畳を鋭く鳴らすヒールの音とともに、エレオノーラは店の木製扉へと歩み寄る。護衛の騎士たちを手で制して外に待機させると、彼女は遠慮も躊躇もなく、乱暴に扉を押し開けた。
カランコロン、と場違いなほど軽やかなドアベルの音が響き渡る。
「レン!!」
凛とした、しかし確かな怒りを孕んだ氷のような美声が店内に轟いた。
奥の作業台では、白い作業着を羽織ったレンが、蒸留器とすり鉢を並べて何やら真剣にメモを取っていたところだった。
突然の怒声にびくりと肩を跳ねさせ、顔を上げる。
「えっ……あ、姉上? どうされたんですか、そんな怖い顔をして……」
「どうされたんですか、ではありませんわ!」
エレオノーラは大股で作業台へと詰め寄り、バァンと音を立てて机に両手を叩きつけた。
至近距離から弟を見下ろすその紅蓮の瞳には、凄まじい気迫が宿っている。
「単刀直入に伺います。貴方、クロイツァー伯爵令嬢の元へ足繁く通い、白昼堂々その頬に手を添えて睦言を交わしているというのは本当ですの!?」
「へ? 睦言……?」
「とぼけないでちょうだい! すでに社交界の耳ざとい者たちの間で、まことしやかに噂が広まり始めていますわ。公爵家の三男ともあろう者が、誰の仲介も通さず、他家の令嬢の屋敷へ単身で通い詰めるなど……! いったい何のつもりです!? 言い訳があるなら、今すぐこの場で一から十まで説明なさい!」
至近距離から鋭い視線で射抜かれながらも、レンは持っていたガラス棒を作業台に置き、心底困惑したように息をついた。
「言い訳も何も……ただの仕事ですよ、姉上」
「し、仕事ですって……!? どこに令嬢の頬を愛おしそうに撫で回す仕事がありますの!」
「撫で回してないですって。触診です、触診」
レンは平然とした顔で、手元の作業日誌のような分厚いノートをペラペラとめくり、エレオノーラの前に差し出した。そこには、日付ごとに細かく記録された肌の水分量、キメの状態、皮脂バランスの推移データがびっしりと書き込まれている。
「セリア様は、私が調合した化粧水の効果を検証するためのモニター(臨床データ提供者)なんです。以前ひどい肌荒れに悩んでいらしたのを化粧水で治療したご縁で、経過観察を兼ねて肌のバリア機能の回復度合いを定期的に診せていただいていたんですよ。頬に触れたのも、角質層の弾力と乾燥具合を確かめるためです」
「も、モニター……? 経過観察……?」
専門用語の羅列と几帳面に記録されたデータ群を前に、エレオノーラは思わず目を瞬かせた。しかし、すぐに眉を吊り上げて詰め寄る。
「だとしても、頻繁に通い詰める理由にはなりませんわ! 使用人を遣わせれば済む話でしょう!」
「それだけじゃありません。セリア様は、私の新しい研究の出資者でもあるんです」
「……は? 出資者……?」
「ええ。次に開発しようとしている薬の試作研究をするために、小さく専用の設備を立ち上げたいと考えていまして。セリア様が私の研究を高く評価してくださり、初期費用をポケットマネーから出資してくださることになったんです。ですから、定例の進捗報告を兼ねて伺っていただけですよ」
レンにとってはドラッグストア店長時代のアフターフォローと事業報告の感覚そのものだった。
悪気のない澄んだ瞳でそう説明され、エレオノーラは毒気を抜かれたようにぽかんと口を開けた。
「――それは、私でもいいのではなくて?」
静まり返った店内に、エレオノーラの低く、どこか底冷えするような声が響いた。
「えっ?」
きょとんとするレンに対し、エレオノーラは腕を組み、冷徹な令嬢の顔を取り戻しながら一歩踏み込む。その紅蓮の瞳には、圧倒的な独占欲と自負がギラリと宿っていた。
「出資者、そして効果を確かめるためのモニター……。その二つが必要であるなら、なぜ私に真っ先に相談しなかったのです?」
「いや、姉上はお忙しいでしょうし、わざわざ公爵家の公金を動かすような規模でもないので……」
「お小遣い程度と仰いましたわね? 私の個人資産と人脈を甘く見ないでいただきたいわ。伯爵家の小娘が出せる程度の金貨など、私のドレス一枚分にも満ちません。研究設備であれ機材であれ、私が望めば最高級のものを明日中――いえ、今夜中にでも王都の一等地に揃えてみせますわ」
(スケールが大きすぎて怖い……!)
「それに、モニターですって?」
エレオノーラはすっと顎を上げ、自らの陶器のような白い首筋から頬へと指先を滑らせた。
「肌の経過観察とやらなら、私の肌をいくらでも差し出します。朝でも夜でも、毎日ここで貴方に触診させてあげますわ。……伯爵令嬢などに触れる必要など、これっぽっちもございませんでしょう?」
「い、いや、姉上のお肌は元からトラブルが少なくて綺麗すぎるので、重度の肌荒れに対する臨床データとしては参考になりにくいというか……」
「荒らせばよろしいのですか?」
「物騒なこと言わないでください!!」
一切の迷いなく自らの美肌を犠牲にしようとする姉の迫力に、レンは思わず頭を抱えて叫んだ。
「はあ……。そもそも姉上は、なぜ私の身の回りのことに対してそこまで過剰に反応なさるのですか?」
レンは心底困り果てたようにため息をつき、首を横に振った。
「まさか嫉妬だなんて冗談はよしてくださいよ。……それに、姉上ご自身も、私と結婚する気なんて毛頭ないでしょうに」
世間一般の常識と家族関係に照らし合わせれば、あまりに当然の正論だった。
姉弟の間に婚姻などあり得ないし、年頃の公爵令嬢が弟の仕事や交友関係にここまで目くじらを立てる理由など本来なら存在しない。
だが――。
その言葉を耳にした瞬間、エレオノーラの表情からふっと温度が消えた。
紅蓮の瞳がすっと細められ、静まり返った店内に、カツンと冷たいヒールの音が一つ響く。
「……冗談? 結婚する気が、ない?」
低く落ちついた、けれど芯の通った氷のような美声が落ちる。
エレオノーラはゆっくりと作業台の端に手を掛け、レンの顔へと静かに顔を寄せた。
「貴方は……本当に私の気持ちを何も分かっていないのね、レン」
「え……?」
「私が、貴方以外の誰かの元へ嫁ぐとでも思っていたのですか? 幼い頃からずっと見守り、誰よりも慈しんできた貴方を差し置いて、どこの誰とも知れぬ男の妻になるなど……この私が認めるはずがございませんでしょう」
一切の揺らぎがない、重く鋭い瞳がレンを射抜く。
「この国の法が兄弟姉妹の婚姻を認めていないというなら、そんな法など私が貴族院を動かして書き換えさせてみせますわ。血統保全の特例勅許を取り付けるための法整備など、公爵家の力と私の手腕をもってすれば造作もないことです」
「ちょ、ちょっと待ってください姉上、本気で何を言い出して――」
「本気ですわ」
エレオノーラは冷や汗を流すレンの言葉を容赦なく遮ると、薄く笑みを浮かべ、艶やかな指先でレンの顎をそっと持ち上げた。
「法が整い、貴方が正式に私の伴侶となったその暁には……『姉上』などという他人行儀な呼び方は二度と許しません。――堂々と私の名を呼びなさい。『エレオノーラ』とね」
「法整備だなんて大げさなことはよしてください。……だいたい、仮にですよ? 俺がいったん別の貴族へ養子に出れば法的な血縁関係は解消されるのだから、法整備も何もないですよ」
あまりに荒唐無稽な国家レベルの力技を止めようと、レンは前世の法律知識や貴族社会の抜け道を思い出して、苦笑じみた冗談のつもりで口にした。
「あ、あの……もちろん例えばの話ですよ? そんなことする気は毛頭――」
言いかけたレンの言葉が、ふっと喉の奥で止まった。
エレオノーラが、ピタリと動きを止めていた。
持ち上げていたレンの顎からすっと指を離し、信じられないものを見るかのように、その紅蓮の瞳をカッと大きく見開いている。
「…………え? あ、姉上……? どうしたんですか……?」
レンが冷や汗を浮かべながら恐る恐る問いかける。
エレオノーラは口元に手を当て、わなわなと肩を震わせ始めた。怒っているのではない。その白い頬はみるみるうちに朱に染まり、瞳にはこれまでに見たこともないほどの強烈な歓喜と熱情が渦巻いていた。
(……養子縁組による、法的な血縁の形式的解消……!)
エレオノーラの頭の中で、雷鳴が轟くかのように高速で策謀のピースが組み合わさっていく。
貴族院を動かしての特例法制定などという途方もない年月と労力のかかる政治工作など不要。
公爵家の息がかかった息絶え絶えの弱小貴族を一つ買い叩き、そこにレンを書類上一瞬だけ養子として籍を移させ、しかるのちにベルフォール公爵家の長女である自分の「婿養子」として迎え入れる――!
(完璧……! 完璧ですわ……!! なぜそんな簡単な抜け道に気づかなかったのかしら……!!)
「な、姉上……? 顔色がすごいことになってますけど、大丈夫ですか……?」
気味の悪さにレンがじりじりと後ずさる中、エレオノーラはハッと我に返ったように艶やかな笑みを浮かべ、両手でレンの手をぎゅっと強く包み込んだ。
「――素晴らしいわ、レン」
「……は?」
「貴方って本当に……昔から私の想像を遥かに超える策士ですのね。そこまで具体的に、私と結ばれるための筋道を考えていてくださったなんて……!」
「ちがっ、違います!! ただの一般論の例え話です!!」
レンの悲痛な叫びなど、すでに薔薇色の未来を確信したエレオノーラの耳には微塵も届いていなかった。
◇
ベルフォール公爵邸の東翼にある、長男エドワードの執務室。
山積みの領地経営書類と格闘していたエドワードは、突然ノックもそこそこに勢いよく開かれた扉に、ビクッと肩を跳ねさせた。
「お兄様! 素晴らしい朗報ですわ!」
優雅なドレスの裾を翻し、上機嫌で入ってきたのはエレオノーラだった。
その整った美貌には、普段の冷徹さとは打って変わった、獲物を前にした肉食獣のような艶やかな光が宿っている。
エドワードは嫌な予感しかせず、机の引き出しの胃薬にそっと手を伸ばした。
「……エレオノーラか。レンの店へ様子を見に行ったはずだが、その顔は何だ。あいつに何かあったのか?」
「何かどころではありませんわ。レンが……私の愛しい弟が、自ら私との未来を切り拓く『神授の知恵』を授けてくれたのです!」
「神授の……知恵?」
「ええ。私たちが結ばれるための、最も合理的で完璧なスキームですわ」
エドワードの動きがピタリと止まる。持っていた羽根ペン先からインクの雫がポトリと落ちた。
「……結ばれる? 待て、お前とレンは実の姉弟だぞ。貴族院の法でも教会法でも婚姻など認められるわけが――」
「ですから、その法を迂回するのです」
エレオノーラは執務机の前に堂々と立つと、指を一本立てて不敵に微笑んだ。
「我が公爵家の権限で、領内の忠臣である騎士爵家――レンの店で助手を務めているリリアの実家を、『世襲の男爵位』へと陞爵させます。永続貴族への引き上げと手厚い経済支援。騎士家にとっては喉から手が出るほど欲しい家門最大の栄誉ですわ」
「……一代貴族の騎士爵から世襲男爵か。確かに我が公爵家の権限なら可能だが、なぜ急にリリアの実家を引き上げる?」
「見返りとして、レンを書類上一時的にあちらの養子として籍を預からせるためです」
エドワードの目が点になった。
「は……? 養子……?」
「お分かりになりませんの? レンがリリアの家に入れば、法的な血縁関係は完全に解消されます。そして籍が抜けたレンを、新興男爵家の令息として我がベルフォール公爵家に婿入り――いえ、私の夫として迎え入れれば、何一つ法を侵すことなく、堂々とレンと婚姻できますわ!」
執務室に、恐ろしいほどの静寂が落ちた。
エドワードは両手で顔を覆い、深く、長いため息をついた。
「……お前、本気で言っているのか?」
「大真面目ですわ。現に今、クロイツァー伯爵家の小娘がレンの才能に目をつけて擦り寄ってきているのです。あの子の化粧水や新薬が生み出す莫大な利権と、何よりあの子自身を他所の女に奪われるなど断じて許せません」
「いや、筋は通っている……通っているのが余計に恐ろしいんだが……! だが、当主の承認はどうするんだ? 領内貴族の叙任も養子縁組も、父上の決済なしに通るわけがないだろう」
エドワードが至極真っ当な正論で押し止めようとした、その瞬間。
エレオノーラはふっと微笑を深め、エドワードの机に両手をついて身を乗り出した。至近距離から放たれる紅蓮の瞳の絶対的な威圧感に、兄の背筋が凍りつく。
「――ですからお兄様。今から父上のところへ、私と一緒に説得に行っていただきますわよ?」
「なっ……な、なんで俺が……!?」
「領地の次期当主であるお兄様が『領内の結束と新薬利権の囲い込みのために極めて有益な策だ』と太鼓判を押せば、父上も無下に却下はできませんもの。……まさか、愛する弟が他家に奪われて路頭に迷うのを、長男である貴方が見殺しになさるおつもりではないでしょうね?」
完璧な笑顔の裏に潜む「断ったらどうなるか分かっているわね?」という無言の脅迫。
エドワードは引き出しから胃薬を一粒取り出し、水もなしに喉へと放り込んだ。
「……分かった、行くよ。行けばいいんだろ……!」
「うふふ、話が早くて助かりますわ、お兄様」
◇
ベルフォール公爵邸の最奥。
重厚な黒檀の扉を開けると、煙草の煙と古い羊皮紙の匂いが漂っていた。
執務机の奥で書類に目を通していた男――ベルフォール公爵家現当主、アルベルトが、鋭い眼光を上げて入室してきた娘と息子を見据える。
「……エレオノーラに、エドワードか。揃ってこの時間に来るとは珍しいな」
歴戦の武将としても名を馳せたアルベルトの威圧感は、ただ座っているだけでも並の貴族なら竦み上がるほどだ。
だが、エレオノーラは涼やかな笑みを浮かべ、優雅にカーテシーを決めた。
その後ろで、長男のエドワードがすでに胃を押さえながら死んだような目をしている。
「父上、公爵領の統治と我が家の将来に関わる、極めて有益なご提案がございます」
「ほう? 言ってみろ」
エレオノーラは淀みなく、冷徹な政治家の声音で切り出した。
「我が領の騎士爵家――レンの店で助手を務めているリリアの実家ですが、代々の忠義と功績を鑑み、公爵家の権限をもって『世襲の男爵位』へと陞爵させてはいかがでしょう」
アルベルトはわずかに眉を動かした。
「一代限りの騎士爵を、永続貴族の男爵にか。……悪くない手だな。領内の忠臣への引き締めにもなるし、名分も立つ。だが、その見返りに何を求める?」
「書類上、レンをあちらの養子として一時的に籍を預かってもらいます」
アルベルトの羽根ペンがピタリと止まった。
背後でエドワードが「うっ……」と呻き声を漏らし、さらに深く胃を押さえる。
「……レンを、養子に? あいつを他家にやる理由がどこにある」
「レンが開発した化粧水や新薬は、すでに社交界の一部で莫大な利権を生み出しつつあります。現に、クロイツァー伯爵家の娘などが嗅ぎつけて出資話を持ちかけている始末。このままでは、あの子の才能も利権も他家に掠め取られますわ」
エレオノーラは一歩踏み込み、理路整然と畳みかけた。
「そこで、リリアの家門を男爵に引き上げる恩賞と引き換えに、レンの籍を形式上あちらに移します。そして――法的な実の姉弟関係を解消した上で、私がレンを夫として迎え入れるのです」
執務室の空気が完全に凍りついた。
アルベルトは持っていた羽根ペンを静かに机へ置き、額に手を当てて深く息を吐いた。
「……おい、エドワード」
「は、はい、父上……」
「お前はこれを聞いていたのか」
「先ほど、私の部屋に突撃されて聞かされました……。法的なスキームとしては、完璧に穴がございません……」
エドワードの声は完全に乾いていた。
アルベルトは再び顔を上げ、燃えるような紅蓮の瞳で父を見つめ返す娘をじっと見据えた。
「筋は通っている。リリアの家は家門永続の悲願が叶って我が家に一生逆らえんし、レンの利権も公爵家で完全に囲い込める。……だがな、エレオノーラ」
「何でしょう、父上」
「お前が言っているのは要するに、『レンを他所の女に取られたくないから、公爵家の爵位授与権限をフル活用して戸籍をロンダリングし、強引に我が物にしたい』ということだな?」
核心を突かれたエレオノーラは、微塵も動じず、誇らしげに微笑んだ。
「何か不都合がございまして? 家門は潤い、忠臣は報われ、私はレンを手に入れられる。誰も損をしない、レン自身が授けてくれた完璧な知恵ですわ」
(あいつ、姉に何を吹き込んだんだ……!)
歴戦の公爵アルベルトの額に、ツッと冷や汗が伝った。
目の前の娘から放たれる狂気じみた覇気に圧倒されながら、公爵は天を仰ぎ、深く、深くため息をついた。
「……印鑑はどこだ、エドワード。胃薬も一緒に持ってこい」
「引き出しの左奥です、父上。胃薬は……もう半分しか残っていませんが」
エドワードが慣れた手つきで父の机の上に公爵家の印鑑と、自身の懐から取り出した陶器の薬瓶を並べた。
アルベルトは深くため息を吐き出しながら、エレオノーラが差し出した書類――リリアの実家を世襲男爵へ引き上げる叙任状と、レンの養子縁組手続きの事前承認書――に視線を落とす。
「リリアの父親……確か名はバルツだったな。実直な男だ。長年、領境の警備で血を流してきた家系でもある。男爵への引き上げ自体は、他の領内貴族たちも納得するだろう」
アルベルトは印鑑を手に取り、朱肉をつけながら娘を鋭く見据えた。
「だがエレオノーラ。レン本人はこの件を何と言っている」
「『お姉様が自由になれるなら、養子縁組という道もある』と、自らこの解決策を提案してくれましたわ」
「……あいつが言ったのは本当にそういう意味なのか?」
「ええ、私の目を真っ直ぐに見つめてそう仰いました。間違いありません」
淀みなく、確信に満ちた笑みを浮かべるエレオノーラに、エドワードが横から小声でツッコミを入れる。
「絶対に別の意味で言ってるだろ……『俺に構わずどこかの家に養子にでも行ってくれ』的なニュアンスを都合よく解釈したんじゃないのか……」
「何か仰いました、お兄様?」
「いえ、何も。完璧な姉弟の絆ですね」
エドワードが目を逸らすのを見届け、アルベルトは諦めたように重厚な認印を書類の末尾へと押し込んだ。
乾いた硬い音が執務室に響く。
「これで手続きの第一段階は承認した。……バルツへの打診はどうするつもりだ」
「今夜、私が直接リリアを呼び出しますわ」
エレオノーラは朱の印影が刻まれた書類を胸に抱き、紅蓮の瞳を爛々と輝かせた。
「あの娘を通じて、実家の父親へ公爵家からの『破格の提案』を伝えさせます。断る理由など、どこにもございませんもの」
その日の夜遅く。王都の外れにあるリリアの実家――古びているが手入れの行き届いた騎士爵邸の居間に、張り詰めた沈黙が流れていた。
質素な木製テーブルの中央には、ベルフォール公爵家の正式な紋章が刻印された親書が置かれている。
リリアの父であり、騎士爵家の当主であるバルツは、何度も瞬きを繰り返しながら手紙を読み返していた。歴戦の騎士として顔に刻まれた傷痕が、困惑のあまりピクピクと痙攣している。
「……おい、リリア。もう一度聞くが、お前、公爵令嬢様にどんな幻覚魔法をかけたんだ?」
「かけてません! 薬房の片付けをしてたら突然黒塗りの馬車で拉致……いえ、公爵邸にお招きされて、エレオノーラ様から直接この手紙を預かったんです!」
リリアはまだ心臓のバクバクが収まらない様子で、両手をぶんぶんと振った。
横でお茶を淹れていた母親のサーシャも、震える手でティーカップをソーサーに落としそうになっている。
「あ、あなた……これ、本物なの? 我が家が『世襲の男爵』に陞爵ですって……? 領地も現在の三倍に加増、しかも公爵家直属の永続貴族として遇するって書いてあるわよ……!?」
「ああ、印章も筆跡も間違いなくアルベルト公爵閣下のものだ。……だが、条件が理解不能すぎる」
バルツは頭を抱え、書類の条項を指でなぞった。
「『見返りとして、ベルフォール公爵家三男レンを、書類上一時的に貴家の養子として籍を預かること』……これだけだぞ? 借金の肩代わりでも領地経営の利権譲渡でもなく、ただレン様をペーパー養子にするだけで、我が家が代々続く男爵家になれるだと!?」
「お父様、レン様は今、下町の薬房で新しい薬や化粧水を作っていて……エレオノーラ様は、それを他家の貴族に奪われないための『形式的な保護策』だと仰っていました」
「保護策にしたって破格すぎるだろうが! 我が家にとっては先祖代々の悲願が一瞬で叶うどころか、公爵家から巨大な金塊を無条件で投げつけられたようなものだぞ!」
バルツは椅子から立ち上がり、狭い居間を右往左往し始めた。
「断る理由が万に一つもない……! ないが、あまりに話が美味すぎて、後でとんでもない裏の対価を要求されるんじゃないかと騎士の本能が警鐘を鳴らしている……!」
「エレオノーラ様は『リリア、貴方の家にとっても最高の栄誉でしょう? 断る理由などありませんわね?』って、満面の笑みでおっしゃってました……目が全然笑ってませんでしたけど……」
リリアが引き攣った笑みを浮かべると、バルツはゴクリと唾を飲み込み、机の上の書類を両手で押し戴いた。
「……受けるしかない。というか、これを断ったら別の意味で我が家が消し飛ばされる。明日一番で公爵邸へ出頭し、閣下に拝眉の儀と受諾の返答をお伝えする」
バルツが決断を下したその時、リリアはふと、今日のエレオノーラの様子を思い出していた。
(エレオノーラ様、レン様の籍をうちに移す話をしてる時……なんだか凄く嬉しそうだったな。「これで障害はすべて消え去りますわ」って呟いてたけど、障害ってなんのことだったんだろ……?)
翌朝、一番の正装である騎士甲冑とマントに身を包んだバルツは、リリアを伴ってベルフォール公爵邸の門をくぐった。
通されたのは、普段の下級貴族なら足を踏み入れることすら許されない当主の大会議室。
上座には当主アルベルト公爵、その隣に次期当主のエドワード、そして冷ややかながらも獲物を待つような笑みをたたえたエレオノーラが座していた。
バルツは絨毯に膝をつき、深々と頭を垂れる。
「ベルフォール公爵閣下。昨晩は過分なる親書を賜り、身に余る光栄に存じます」
「面を上げよ、バルツ」
アルベルトの重厚な声が響く。バルツが顔を上げると、公爵は机の上の羊皮紙に視線を落とした。
「手紙の内容は読んだな。我が公爵家の権限において、貴殿を世襲男爵へと陞爵させる。それに伴い、東部領境の管理地を加増し、公爵家直属の永続貴族として遇する。……我が家への長年の忠勤に報いるための正当な沙汰だ」
「ははっ……! 勿体なきお言葉、我が一族の生涯の誉れにございます。……ですが、不躾ながら一つだけ確認をお許しください。対価として示された『レン様の養子受け入れ』の儀……本当にそれだけでよろしいのでございましょうか?」
バルツの問いに、エレオノーラが扇を口元に当ててすっと割り込んだ。
「ええ、バルツ卿。レンは現在、我が公爵家の庇護を離れて市井で画期的な薬や化粧水の開発を行っております。しかし、その才能に目をつけた他領の貴族……特にクロイツァー伯爵家などが、強引にあの子を取り込もうと暗躍しているのです」
「なんと……レン様がそのような政治の標的に……」
「我が公爵家としても、レンの才能を他家に奪われるわけにはまいりません。そこで、我が家に最も忠実な貴家に一度レンの籍を預かっていただき、外敵からの干渉を完全に遮断したいのです。……貴家にとっても、公爵家にとっても利がある。極めて合理的な一手でしょう?」
エレオノーラの淀みない説明に、横に座るエドワードが「(なお、最大の目的は手元に囲い込んでの近親婚回避スキームだがな……)」と心の中で呟きながら、静かに胃薬を指で弄んでいる。
アルベルトが重々しく頷き、会話を引き取った。
「うむ。レンの身元を一時的に貴家へ移すが、生活や研究の拠点は今まで通りだ。貴家に余計な財政負担は一切かけん。書類上の手続きと、我が公爵家の意向に従うこと……それだけが条件だ」
バルツの胸中の疑問と不安は、公爵自身の言葉によって完全に払拭された。
「他家の魔の手から公爵子息と新薬の利権を守るための、書類上の隠れ蓑」。騎士としてこれ以上わかりやすく、大義名分のある任務はない。
「我が家門を救い、引き上げてくださる閣下と公爵家のためであれば、このバルツ、喜んでレン様を我が籍にお迎えいたします! いかような手続きにも全力で協力いたす所存です!」
バルツが力強く承諾の言葉を述べると、エレオノーラの瞳が妖しくギラリと輝いた。
「よくぞ決断してくださいましたわ、バルツ卿。……これで、すべての障害は取り除かれました」
「は……? 障害、でございますか?」
「いえ、こちらの話ですわ。では早速、戸籍の移行と陞爵の正式な調印に移りましょう」
満面の笑みを浮かべるエレオノーラと、深々と礼を捧げるバルツ。
その後ろで、リリアだけが「(……お父様、完全にエレオノーラ様の手の平の上で転がされてる気がする……)」と、得体の知れない寒気に小さく身震いしていた。




