7話:監視部隊が全員ファンクラブになって帰ってきた
カラン、コロン――。
開店の鐘の音が、朝の下町の通りに澄んだ音色を響かせた。
入り口の看板を【営業中】へと裏返し、真新しいガラス扉を開け放つ。
店内には薄荷の清涼な香りとフローラルウォーターの甘やかな香気がふわりと漂い、磨き上げられた白木の商品棚には、色とりどりのポーション瓶や整然と並ぶオリジナル商品が美しく光を反射していた。
準備は万全、スタッフの士気も十分。
だが――。
「……あれ? レン様、通りを行く人たちが、みんな遠くからチラチラ見るだけで入ってきませんね……?」
店先で元気よく呼び込みをしようとスタンバイしていたサーシャが、不思議そうに首を傾げた。
通りを歩く下町の住民たち――仕事へ向かう大工や鍛冶屋の職人、朝市帰りの主婦、駆け出しの冒険者たちは、確かに足を止めてこちらを見ている。
しかし、誰も店に足を踏み入れようとはしなかった。
物珍しそうにヒソヒソと囁き合いながら、微妙に距離を取って遠巻きに眺めているのだ。
「おい、見ろよあの店……」
「なんだいありゃ、貴族街の高級店か……?」
「窓ガラスはピカピカだし、棚の木も上等そうだぜ……あんな綺麗な店、金貨何枚取られるかわかったもんじゃないぞ」
「ほら、カウンターの奥にいる店主らしき男の子を見てごらんよ。あんな尋常じゃない美少年、絶対に雲の上の貴族様だよ……平民が入ったら怒鳴り散らされるんじゃないかい?」
(……あ、やってしまった)
通りから漏れ聞こえてくる声に、俺は内心で額を押さえた。
前世のドラッグストア感覚で「清潔感・明るさ・整然とした美しさ」を追求しすぎた結果、泥と埃が日常の下町においては、あまりにも浮世離れした高級店の空気を放ってしまっていたのだ。
さらに、俺やリリアの佇まいが、下町の人々に「敷居の高さ」を強烈に意識させてしまっている。
「レン様、これは……気品がありすぎて、庶民の方々が完全に気後れして敬遠しておりますね」
「ううっ、せっかく湿布やのど飴を安く用意したのに、近づいてすらもらえないなんて……!」
リリアが冷静に分析し、カトレアがガックリと肩を落とす。
どうやってこの空気を崩そうか、俺が考えを巡らせていた――その時だった。
ゴトゴトゴトゴト……ッ!
下町の石畳には似つかわしくない、豪奢で重厚な車輪の軋む音が、通りの向こうから響いてきた。
「ひっ!? な、なんだあの一等物の馬車は……!?」
「おいおい、貴族の紋章が入った馬車が何台も連なって入ってきたぞ……!?」
遠巻きに見ていた下町の人々が、悲鳴を上げながら左右へ一斉に道を開ける。
「まずは下町の人たちに顔を覚えてもらうところからだな。最初は客足もまばらだろうし、のんびり――」
俺が言い終えるより早く、チリンチリン、と入り口のドアベルが勢いよく鳴り響いた。
「「「ごめんあそばせっ!!」」」
「……はい?」
開店と同時に店内に雪崩れ込んできたのは、平民風のフード付きマントを羽織ってはいるものの、どう見ても仕立ての良すぎる上質なシルクのドレスの裾を覗かせた三人の若い女性たちだった。
隠しきれない高貴な香水の匂いと、明らかに一般人離れした立ち居振る舞い。
(……いや、変装が雑すぎるだろ)
「あ、あら……? ここが噂の、下町の薬房ですの……じゃなくて、薬屋さんかい?」
「え、ええ! わたく……あたい、最近なんだかお肌がカサついて困っているんだよ!」
「そ、そうですわね! 下町の風を浴びて買いに来てやった……じゃなくて、買いに来たよ!」
ぎこちない下町言葉を必死に口にしながら、三人の女性はギラギラとした視線で店内を舐め回すように見渡した。
そして、カウンターの奥に立つ俺を見つけるやいなや、息を呑んで頬を紅潮させた。
「(……あ、あの方がエレオノーラ様の……!)」
「(なんて端正でお美しいお顔立ち……!)」
「(し、しかしエレオノーラ様から『レン様に色目を使ったら社交界から追放する』と厳命されているわ、落ち着きなさい!)」
ヒソヒソと交わされる不穏すぎる囁き声。どう考えても姉エレオノーラの息がかかった貴族の令嬢たちである。
俺は前世のドラッグストア仕込みの、極上の営業スマイルを浮かべた。
「いらっしゃいませ。本日は何かお探しでしょうか?」
穏やかに問いかけると、先頭に立っていた令嬢がハッとして背筋を伸ばし、ぎこちない下町言葉をかなぐり捨てて名乗りを上げた。
「わ、わたくし……クロイツァー伯爵家のセリアと申しますの。実は……その、最近どうしてもお肌の乾燥とカサつきが治まらなくて……」
セリアと名乗った令嬢は、恥ずかしそうに頬を染めながら打ち明けた。
連日の夜会や厚い化粧、そして長時間のコルセットの締め付けによる疲労が、そのまま肌の荒れとして出てしまっているようだ。
「セリア様ですね。それでしたら、詳しくはあちらの相談コーナーでお伺いいたします。どうぞこちらへ」
俺は彼女をゆったりとした相談スペースの椅子へと促した。
腰掛けたセリア様は、間近で見る俺の顔にさらに赤面しているが、俺はプロの登録販売者としての意識に切り替える。
「夜会の強いお化粧や乾燥した空気でお肌のバリア機能が乱れ、水分が逃げやすくなっている状態ですね。それでしたら、こちらの『特製化粧水』をおすすめいたします」
俺はカウンターから、蒸留した花の芳香蒸留水と高純度グリセリンを黄金比で配合した小瓶を取り出した。
「水分を補給するだけでなく、潤いを肌の内側にしっかり抱え込ませる効果がございます。……よろしければ、ここでお試しいただいてもよろしいでしょうか? 俺がお手伝いいたします」
「えっ……レ、レン様自ら……!? は、はいっ、喜んで……!」
セリア様が恐縮しながら差し出した手の甲に、俺は化粧水を数滴落とし、指先で優しく円を描くように肌へと馴染ませていった。
「擦らずに、こうして手の平の温もりで包み込むように浸透させるのがコツですよ」
「っ……あ……」
触れられた指先の心地よさと、肌にすうっと吸い込まれていく未知の感触に、セリア様が小さく吐息を漏らす。
次の瞬間。
カサついて粉を吹いていた手の甲が、まるで魔法をかけられたかのように瑞々しい艶を放ち、ぷるんと吸い付くような透明感を取り戻した。
「ま、まああっ……!? なにこれ……肌がぐんぐん飲み込んで、ものすごくしっとりしているのに、全然ベタつかないわ……!!」
「えっ、嘘でしょセリア!? 見せて……いやだ、本当にキメが整って発光してるみたいですわ!」
「王宮御用達の高級クリームですらこんなに馴染まないのに……信じられない!」
奇跡のような即効性を目の当たりにし、後ろで見ていた令嬢たちも大騒然となる。
「……レン様……! わたくし、これ十本……いえ、買えるだけ全部いただきますわ!!」
「あ、ずるいですわセリア! わたくしもいただきます!」
「私にも塗ってくださいませ、レン様っ!」
潤いに輝く自分の肌と、微笑みかける俺の顔を交互に見つめ、令嬢たちの瞳は完全にハートマークと化していた。
エレオノーラからの「監視任務」など跡形もなく吹き飛び、彼女たちは一瞬にしてレンの熱狂的な信徒へと堕ちてしまったのである。
「レン様! こちらのお客様は、最近胃腸の疲れと不眠にお悩みだそうです!」
「はい、承りました。リリア、ハーブティーの試飲をお出しして。お客様には胃粘膜を保護する甘草由来の粉末薬をご用意しますね」
「かしこまりました、レン様」
カトレアが持ち前の明るさで客の緊張をほぐし、リリアが完璧なマナーでお茶を振る舞い、俺が的確な医薬品・スキンケアを提案する。
その見事な連携と確かな効能に、エレオノーラから送り込まれた令嬢・貴婦人たちは、監視の任務などすっかり忘れて夢中になって商品を買い漁っていった。
その後も、一時間おきに「変装した貴族の奥方」「お忍びの大商人の息女」がひっきりなしに来店し、棚に並べた初日の在庫は、夕方を待たずして見事に【完売御礼】となってしまったのである。
◇
その日の夕方。ベルフォール公爵邸の一室。
エレオノーラは、机の上にうずたかく積まれた「監視レポート」を前に、眉間を押さえて震えていた。
「……なんなのですの、この報告書は……!」
『レン様のカウンセリングが素晴らしすぎて肌の赤みが引きました。明日も買いに行きます』
『お茶を淹れてくれた侍女の手並みも完璧。あの空間は天国です』
『レン様の微笑みに浄化されました。次回の新商品も必ず買います』
「誰も監視をしておりませんわ……! 全員ただの熱狂的な常連客になって帰ってきているではありませんの……!!」
監視体制を築いたはずが、弟の規格外の接客スキルによって「社交界の令嬢たちを囲い込む巨大ファンクラブ」へと発展してしまった事実に、氷の令嬢は頭を抱えて激しく身悶えするのだった。
◇
翌朝――抜けるような青空が広がる中、店舗の入り口には【本日定休日】の木製プレートが掲げられていた。
怒涛の勢いで商品が完売した開店初日を終え、俺はこの日をあらかじめ「店休日」と決めていた。
前世のドラッグストア店長時代、無理な連勤で身も心もすり減らした経験からの鉄則だ。
特に立ち上げ直後は、売れ行きの分析や在庫の補充、何よりスタッフの体力回復と精神的なゆとりが欠かせない。
「ふあぁ……よく寝た……」
店舗の二階にある自室のベッドから起き上がり、窓を開けて深呼吸する。
朝の下町の爽やかな風が、薄荷の香りがほんのり残る部屋を通り抜けていった。
一階に降りると、すでに身支度を整えたリリアが、静かにお茶を淹れて待っていた。
「おはようございます、レン様。昨日は本当にお疲れ様でした」
「おはよう、リリア。今日はお店はお休みだから、リリアも肩の力を抜いてゆっくりしてね」
「お気遣いありがとうございます。ですが、昨日の売上集計と在庫の棚卸しはすでに終わっております」
完璧すぎる専属侍女の仕事ぶりに苦笑しつつ、俺は淹れたてのハーブティーを受け取った。
「カトレアやサーシャたちは?」
「カトレア様は裏庭で軽く素振りをなさっています。冒険者の三人には、契約通り本日は完全休養として宿へ戻っていただきました」
完璧な休日体制だ。
さて、店を開けないこの貴重な一日をどう過ごすか――。
昨日の爆買いで空っぽになった薬草やグリセリンの仕入れ・調達に充てるか。
それとも、下町の空気にもっと馴染むため、気晴らしを兼ねて市場や職人街の散策に出かけるか。
温かいお茶を一口すすりながら、俺は今日一日の予定に思いを巡らせた。
「……よし、せっかくだし、今日は一度公爵本邸へ戻ってみようか」
お茶を飲み干し、俺がそう口にすると、リリアは小さく目を丸くしてから穏やかに頷いた。
「本邸でございますか。旦那様、それにエレオノーラ様もお喜びになるかと存じます」
「うん。無事に開店できた報告もまだ直接できていなかったしね。それに――」
俺はカウンターの奥から、丁寧に小箱へ詰めた数本の小瓶と、包み紙に入れた『生薬アロマ湿布』を取り出した。
「姉上には新しく作った化粧水を、エドワード兄上には近衛騎士団の任務や訓練で疲れた体に使ってもらえるように湿布を渡そうと思ってさ。開店の挨拶とお礼も兼ねてね」
「まあ……ご家族への手土産まで。エレオノーラ様もエドワード様もお喜びになるでしょうね」
リリアがどこか意味深な笑みを浮かべた。
昨日の今日で、あの「監視レポート」を読んだ姉上がどんな精神状態になっているか、俺には知る由もなかったが――日頃の感謝を伝える良い機会なのは確かだ。
「よし、カトレアにも声をかけて、馬車を呼ぼう」
下町から馬車に揺られること三十分ほど。
庶民的な喧騒から打って変わり、静謐で威厳に満ちた貴族街の最奥――ベルフォール公爵家の広大な屋敷へと到着した。
「レン坊ちゃん! お帰りなさいませ!」
馬車を降りると、執事長をはじめとする使用人たちが出迎えてくれた。
わずか数日下町で過ごしただけだが、この豪奢な本邸の空気にはどこか懐かしさすら覚える。
「ただいま戻りました。父上やエドワード兄上、姉上はいらっしゃいますか?」
「旦那様は王宮へ登城、エドワード様は近衛騎士団の本部へ出向かれておりますが、エレオノーラ様は二階の執務室にいらっしゃいますよ」
「わかりました。兄上へのお土産は後でお渡しすることにして、まずは姉上に少し顔を出してきますね」
手土産の小箱を抱え、俺はリリアとカトレアを従えて、絨毯の敷かれた階段を上り、姉上の執務室の前へと向かった。
コン、コン――。
「姉上、レンです。お店が無事に開店できたので、ご挨拶に伺いました」
扉越しに声をかける。
すると――室内から、何かが激しく倒れるような「ガタタンッ!!」という盛大な物音が響いてきた。
「ガタタンッ!!」という凄まじい物音の直後、勢いよく扉が開かれた。
「レン……っ!!」
飛び出してきたエレオノーラは、いつも完璧に整えられている銀髪を微かに乱し、青い瞳を潤ませながら俺の肩をぎゅっと掴んだ。
社交界で『氷の令嬢』と恐れられている冷徹な才媛の面影はどこにもない。
「あ、姉上、急に押しかけてすみません――」
俺がそう呼びかけた瞬間、姉上はピタリと動きを止め、すっと冷ややかな無表情を作った。
そのまま何も言わず、じっと俺を見つめてくる。
「……姉上?」
「……勘違いですわよ、レン」
「はい?」
首を傾げる俺に対し、姉上は何食わぬ顔で扇子を広げ、妖艶に微笑んでみせた。
「わたくしのことは『エレオノーラ』と名前で呼んでいたじゃありませんの。……恋人同士ですもの、当然ですわ」
「……」
背後でリリアが小さくため息をつき、カトレアが「また始まった……」と天井を仰ぐ気配がした。
「姉上、戯れないでください。俺が目を覚ました時、真っ先に『あなたがわたくしの可愛い弟、ローレンスですわ』と教えてくれたのは姉上自身ですよ」
「くっ……! あの時のわたくしの迂闊さを呪いますわ……!」
扇子の陰でギリッと奥歯を噛み締めるエレオノーラ。
「いくら記憶が混濁しているといっても、抜け落ちているのは昔の記憶だけですからね。ここ数週間のことはしっかり覚えていますよ」
「……ちっ」
公爵令嬢にあるまじき見事な舌打ちが聞こえた気がしたが、俺はあえて聞こえなかったふりをした。
「姉上、こちらを持ってきたんですよ」
俺は苦笑しながら、抱えていた小箱と包みを姉上へと差し出した。
「店の開店準備を手伝ってくれたお礼と、挨拶の手土産。この小箱に入っているのが、俺が新しく調合した『特製化粧水』だ。姉上はそのままでも十分に美しいけれど、毎日領地や社交界のために頑張ってくれているからね。これを使うと、もっとリラックスできるし、姉上の美しさにさらに磨きがかかるよ」
「ま、まあ……っ!? れ、レンが……わたくしのために……っ!?」
日頃の労苦へのさりげない気遣いと、淀みない賛辞が直撃し、姉上の表情は一瞬で真っ赤に染まり上がった。
受け取った小箱をまるで神の遺物でも扱うかのように両手で胸元に抱きしめ、潤んだ青い瞳を激しく揺らしている。
「嬉しいですわ、レン……! ええ、ええ、毎日朝晩、一滴たりとも無駄にせず使わせていただきますわ……! ああ、でも使うのがもったいないくらいですこと……家宝として額縁に入れて飾るべきかしら……?」
「いや、使ってくれ。薬や化粧水は使ってこそ意味があるんだから」
すかさずツッコミを入れつつ、俺はもうひとつの包みを持ち上げた。
「そしてこっちの包みは、エドワード兄上へのお土産の『生薬アロマ湿布』。薄荷の精油と生薬を練り込んだ貼り薬で、筋肉の疲労や痛みを和らげる効果があるんだ。近衛騎士団の任務や訓練で体を酷使しているって聞いたからさ」
「エドワードへのお土産まで……」
包みを見た姉上は、ふっと表情を和らげ、どこか呆れたように、けれど慈しむように小さく微笑んだ。
「あの人ったら、近衛騎士団長としての激務に加えて、レンが下町で困っていないか心配で夜遅くまで見回りの配置を練り直したりしていましたのよ。体が痛むほど無理をしている自覚がない人ですから……レンからの湿布と聞けば、泣いて喜んで早速背中に貼るに違いありませんわ」
「そうなんだ。兄上にも喜んでもらえるといいな」
「ええ、本当に心優しい弟を持って、わたくしたちは幸せ者ですわね」
姉上は誇らしげに目を細めると、大切そうに化粧水の小箱を執務机の上に置いた。
「ええ、本当に心優しい弟を持って、わたくしたちは幸せ者ですわね」
姉上は誇らしげに目を細めると、大切そうに化粧水の小箱を執務机の上に置いた。
――よし、機嫌は最高潮に良い。手土産の受けも抜群だ。
俺は心の中で小さく拳を握り、いよいよ本題を切り出すことにした。
「……それでね、姉上。実は今日ここへ来たのは、開店の挨拶と手土産を渡すだけじゃなくて……姉上にひとつ、お願い……というか、おねだりに上がった次第なんだ」
「おねだり……!?」
その単語が耳に入った瞬間、姉上の青い瞳が爛々と輝いた。
胸の前で両手をぎゅっと組み、期待に満ちた熱い眼差しで身を乗り出してくる。
「まあ、まあ……っ! レンからのおねだりですって!? なんですの、何が欲しいの!? 王都の一等地の別荘かしら、それとも南の島の領地? 大陸中のあらゆる宝飾品や、王宮の魔導図書館に眠る禁呪の魔導書だって、このエレオノーラがすべて手に入れて差し上げますわ! さあ、遠慮なさらず何でも言ってごらんなさい!」
(……いや、スケールが大きすぎるし、後半に不穏なものが混ざってるな……)
相変わらずの過剰な前のめりっぷりに内心で苦笑しつつ、俺は両手を小さく振って落ち着かせた。
「そんな大げさなものじゃないよ。……実は、化粧水や傷薬に使う『ワセリン』っていう新しい素材が大量に必要なんだ。材料についてはもう目処が立っているんだけど、精製やろ過の作業が一人じゃとても追いつかなくてね。専用の工房を作りたいんだよ。そのための場所と、作業してくれる人員の手配をお願いできるかな」
「……わせりん、ですの?」
姉上は小首を傾げ、耳慣れない単語を口の中で転がすように呟いた。
「聞いたことのない名前ですわね。宮廷魔導士の薬草学でも、貴族街の高級香油商でも、そのような素材は耳にしたことがありませんけれど……一体どのようなものですの?」
「天然の油から不純物を極限まで取り除いた、肌や傷口を保護するための純粋な保湿基剤なんだ。これがあると、傷薬の効き目を長持ちさせたり、肌の潤いを閉じ込める最高品質の軟膏が作れるんだよ」
「まあ……! 肌を保護し、薬効を閉じ込める油……! 先ほどいただいた素晴らしいお化粧水の効果を、さらに高めるための素材ということですのね」
未知の素材ではあるものの、手渡された化粧水の確かな品質を目の当たりにしている姉上は、その価値を即座に飲み込んでくれたようだった。
「ふふっ、可愛いレンのお願いですもの。場所と人手の手配くらい、お安い御用ですわ」
姉上は頼もしげに微笑み、執務机の上へと視線を向けた。
「どのような場所や人員が望ましいのか、レンの希望を詳しく聞かせてくださるかしら?」
「町の中心部は避けたいんだ。精製作業で独特の匂いも出るし、火も使うからね。製造規模はこれからの売れ行き次第だけど、立ち上げの今は十人ほど作業員がいれば十分かな。ただ、人気が出て需要が増えた時にはすぐに拡張できるような場所がいいんだ」
俺が条件を挙げると、姉上は「なるほど」と頷き、執務机に置かれた王都周辺の地図に指を滑らせた。
「火の元や匂いの配慮、そして将来の拡張性ですわね。……ふふっ、それなら心当たりがいくつかありますわ」
姉上は頼もしげに目を細め、地図の数箇所をトントンと指先で軽く叩いてみせた。
「条件に合いそうな公爵家の所有地をピックアップしてみますわね。人員についても、口が堅くて真面目に働いてくれる者たちを厳選して手配いたしましょう」
「ありがとう、エレオノーラ」
上目遣いで、首を少しだけ傾げながら、俺はとびきり甘やかな笑みを浮かべて見せた。
十六歳の美少年の容姿と、この姉に対する最大の特効薬が何であるかを、俺は前世の経験も動員して完全に理解し、計算づくで使いこなしていた。
「――っ……!!」
効果は劇的だった。
エレオノーラは両手で口元を覆い、息を呑んだままバタンと執務机の上に突っ伏した。
銀髪を激しく揺らしながら、耳の先まで真っ赤にして身悶えている。
「あ……あああ……っ! な、名前で……名前で呼ばれましたわ……! しかも、あんなにも愛らしく……っ! もう、土地でも鉱山でも国家予算でも、望むものを何でも差し上げてしまいますわ……!!」
完全にノックアウトされた姉上を見下ろしながら、俺は内心でほくそ笑んだ。
自分の容姿の良さとその使いどころをきっちり把握したレンのあざとい一撃は、社交界の氷の令嬢の理性をいとも容易く消し炭にしてしまったようだった。
◇
一方その頃――王都の社交界は、未曾有の大騒動に見舞われていた。
発端となったのは、とある貴族の夜会に姿を現したクロイツァー伯爵令嬢、セリアだった。
連日の夜会と厚化粧で肌荒れに悩み、粉を吹いた肌を隠すように扇子で顔を覆っていたはずの彼女が、その夜は扇子を閉じ、堂々とホールの中央に立っていたのだ。
その肌艶は、遠目からでも一目で分かるほどに激変していた。
まるで朝露を浴びた花びらのように瑞々しく、内側から発光しているかのような透明感と、ぷるんと吸い付くような潤い。
「ま、まあ……っ! セリア様、そのお肌……一体どうなさったの!?」
「あんなに荒れていたはずなのに、まるで生まれたての赤子のようなキメの細かさですわ……!」
「どのような秘薬をお使いになられたの!? 宮廷の筆頭魔導士の特製香油ですら、ここまでの変化はあり得ませんわよ!」
瞬く間に令嬢や貴婦人たちがセリアを取り囲み、夜会の会場は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
美と若さを何よりも重んじる貴族社会の女性たちにとって、セリアの劇的な変貌は、まさに奇跡そのものに見えていた。
「ふふっ……教えたいのは山々なのですけれど、あの方のお店はまだ下町で慎ましく開かれたばかりでしてよ」
殺到する令嬢たちを前に、セリアは潤いに満ちた頬に手を添え、誇らしげに、そして意味深に微笑んでみせる。
「あの奇跡の雫……『特製化粧水』を手に入れたいのでしたら、下町へ足を運ぶ覚悟がおありかしら?」
セリアのその一言は、美に飢えた貴族女性たちの欲望に、特大の火薬樽を投げ込む結果となったのだった。
セリアの言葉が社交界を駆け巡った翌日以降、下町の小さな薬房は、もはや「知る人ぞ知る隠れ家」ではいられなくなっていた。
朝早くから店の前の石畳には、家紋入りの豪奢な馬車が何台も列をなし、下町には似つかわしくない上質なドレス姿の貴婦人や令嬢たちが、われ先にと押し寄せる。
「あのセリア様の肌艶をこの目で見ましたの! 私にもあの『特製化粧水』を分けてくださいまし!」
「どのような対価でも支払いますわ! 金貨十枚……いえ、五十枚でも!」
棚に並べた化粧水や保湿軟膏、生薬湿布は、並べたそばから飛ぶように売れ、店の評判はまさにうなぎ上りに跳ね上がっていった。
そして、商品の圧倒的な効能とともに、社交界の話題を独占したのが――店主であるレンその人だった。
「ベルフォール公爵家の三男様が、下町で薬房を開かれているそうですわ」
「余命わずかと噂されていたあのご令息が……? まさか、あんなにも神々しく美しい方だったなんて」
「丁寧で優しいカウンセリングに、触れられただけで心がとろけてしまいそうでした……!」
かつては「病弱で短命」「公爵家の離れでひっそりと療養している」として、王侯貴族たちから気にも留められていなかった存在。
それが今や、奇跡の新薬を生み出す類まれなる頭脳と、社交界中を魅了する美貌を兼ね備えた「ベルフォール家の隠された至宝」として、王都の貴族たちの注目の的へと躍り出たのである。
「ねえ、あの方……婚約者はいらっしゃるのかしら? まだ決まっていないのなら、今すぐにでも我が家から正式に申し込みますわ!」
「ちょっと、抜け駆けはずるいですわよ! 我が侯爵家だって黙ってはいませんわ!」
「ふふっ、何を仰るの。今のわたくしとなら、次期当主ですのよ? 公爵家の三男様のお相手として、これ以上の釣り合いがありまして?」
夜会のあちこちで、我こそはと名乗りを上げる令嬢や、優秀な婿候補に目を光らせる貴族たちの間で、レンを巡る熾烈な婚姻レースの火蓋が切られようとしていた。
これまでは「短命の三男」として政略結婚の選択肢にすら入っていなかった少年が、いまや莫大な富と名声を生み出す「金の卵」であり、誰もが喉から手が出るほど欲しい至高の美男子へと一変したのだ。
――だが。
そんな社交界の熱狂的な動きを、冷徹な双眸で見据えている影があった。
「……身の程知らずな羽虫どもが、一斉に湧いてきましたわね」
ベルフォール公爵邸の執務室。
机の上に積み上がった、他家からの大量の「釣書(見合いの申し込み)」と夜会の招待状を見下ろしながら、エレオノーラは冷気すら漂う笑みを浮かべて扇子を握り潰さんばかりに力を込めた。
「次期当主ですって? 我がベルフォール家の至宝たるレンを、そんな浅ましい打算で手に入れられるとでも思っているのかしら……」
氷の令嬢の背後から立ち上る凄まじい威圧感に、部屋の隅に控えていたセバスチャンが静かに冷や汗を流す。
「エレオノーラ様、いかがなさいますか。中には筆頭侯爵家や、王家の連枝からの打診も含まれておりますが……」
「すべて『当主不在につき保留』として突き返しなさい。……いいえ、わたくしが直々に社交界へ出て、あの図々しい女たちを一人残らず叩き潰して差し上げますわ」
妖しく目を細めたエレオノーラは、弟の自由と「純潔」を守るため、社交界の女狐たちを迎え撃つ鉄壁の防衛戦を張り巡らせる決意を固めるのだった。
その社交界の熱狂的な噂は、当然のように下町の薬房にいる俺の耳にも届くことになった。
情報源は、言うまでもなく専属侍女のリリアだ。
「……というわけでレン様、現在社交界では、侯爵家や伯爵家の令嬢方による『レン様争奪戦』が凄まじいことになっているそうです」
カウンターの奥で薬品の在庫帳をつけながら、リリアはどこか楽しげに、けれど瞳の奥を爛々と輝かせながら報告してきた。
何しろ、リリアはこの手の話題が大好物なのだ。
おまけに彼女自身、没落しかけた下級貴族の娘であり、いずれはお家復興のために優秀な婿養子を迎えて跡取りを立てねばならない運命を背負っている。貴族社会の婚姻事情や跡継ぎ問題に、人一倍敏感に聞き耳を立てるのも頷けるというものだった。
「どこどこの令嬢は『今のわたくしとなら次期当主ですのよ』と豪語していたり、王家の血を引くお家からも打診が来ているとか。レン様、一躍社交界の最重要手配犯……失礼、最重要婿候補ですわね」
「手配犯ってなんだよ……」
俺は作業の手を止め、思わず深いため息をついた。
「……もっとも、結婚そのものに興味がないわけじゃないんだけどね」
ぽつりとこぼした俺の言葉に、帳簿をめくっていたリリアの手がピタリと止まった。
「あら……? レン様、今なんと仰いましたの?」
「いや、なんでもないよ」
俺は慌てて調合用のガラス棒を動かし、手元のビーカーに視線を落とした。
言えるわけがない。
前世の俺は、朝から晩までドラッグストアの激務に追われ、シフトの穴埋めと売上ノルマに忙殺されるだけの男だった。浮いた話など一度たりともなく、気づけば交際経験ゼロのまま過労で倒れて生涯を終えていたのだ。
だからこそ――「お嫁さん」という存在には、人一倍強い憧れがあった。
家に帰れば「おかえりなさい、お疲れ様」と温かい笑顔で迎えてくれる人がいて、他愛のない話をしながら一緒にご飯を食べる。
そんな、前世では手に入らなかったささやかで温かな家庭への憧れが、心の奥底にはずっと燻り続けていた。
けれど、貴族の家同士の思惑が絡み合う政略結婚や、新薬の利権目当ての打算的な婚姻は、俺が夢見ていた「お嫁さん」とはまるで違う。
「……レン様?」
不意に、すぐ横からじっと覗き込んでくる気配がした。
顔を上げると、リリアが帳簿を閉じて顎に指を添え、探るような目でこちらを見つめている。
「レン様にも、そのような殿方らしい純情な一面がおありでしたのね。……ふふっ、どのような女性がお好みなのですか? 家柄や持参金ではなく、レン様ご自身の理想のタイプというものを、ぜひ専属侍女として把握しておきたいのですが」
「リリア、完全に面白がってるだろ……」
身を乗り出して聞き耳を立てるリリアの好奇心全開の笑顔に、俺は手元の薬液を混ぜながら、小さく苦笑いを浮かべるしかなかった。
「……もういいよ、この件は兄さまに相談してみるよ。姉さまに相談しても無理そうなのは明らかだしね」
これ以上リリアにからかわれても敵わないと、俺は両手を上げて降参するように息を吐いた。
エレオノーラ姉上に「結婚」や「お嫁さん」なんて話題を振ったら最後、どんな修羅場になるか想像するだけで恐ろしい。「レンに嫁など不要ですわ!」「わたくしが一生お世話いたします!」と暴走するか、見合い相手候補の令嬢たちを物理的・政治的に消し去りかねない。
その点、エドワード兄上なら近衛騎士団の長として酸いも甘いも噛み分けているし、男同士、現実的で頼りになるアドバイスをくれるはずだ。
「兄上に……ですか」
リリアはくすりと悪戯っぽく笑い、胸の前で指を組んだ。
「確かにエドワード様でしたら、エレオノーラ様のように取り乱して王都を火の海にすることはなさそうですわね。……ただ、あの屈強な近衛騎士団長様が、最愛の弟の結婚話にどこまで冷静でいられるかは見ものですけれど」
「兄上をなんだと思ってるんだよ……」
苦笑しつつも、手土産の湿布を渡すついでに、近いうちに兄上の元を訪ねてみようと心に決めるのだった。
一方、その日の夕刻――ベルフォール公爵邸の執務室。
「……エレオノーラ様、下町の薬房より定例の報告が上がってまいりました」
影のように音もなく現れた公爵家の密偵が、一枚の報告書を差し出す。
書類仕事の手を止めたエレオノーラは、優雅に指先でそれを受け取ると、視線を滑らせた。
そこには、下町でのレンの様子、薬品の売れ行き、そして――リリアとの間で交わされた会話のすべてが克明に記録されていた。
『……もういいよ、この件は兄さまに相談してみるよ。姉さまに相談しても無理そうなのは明らかだしね』
その一文を読んだ瞬間。
――ピキッ。
エレオノーラの手元で、上質な万年筆が真っ二つにへし折れた。
「……え?」
執務室の空気が一瞬にして凍りつき、控えていたセバスチャンが静かに息を呑む。
エレオノーラはへし折れた万年筆を机に置き、震える手で報告書を握りしめ直した。
その青い瞳は驚愕と絶望、そして底知れぬ激震に揺れ動いている。
「れ、レンが……お嫁さん……? 結婚……? そ、そのような……まだ十六の幼子ですのよ……!? 早すぎますわ! あと五十年は早すぎますわ!!」
「エレオノーラ様、貴族男子の十六歳は一般的な婚約適齢期でございます」
「黙りなさいセバスチャン! 問題はそこではありませんことよ!」
エレオノーラは立ち上がり、ドレスの裾を翻しながら部屋の中を落ち着きなく往復し始めた。
「なぜ……なぜエドワードなのです!? 人生の重大事である婚姻の相談を、なぜあのような筋肉と剣しか能のない男にするのですの!? この完璧な姉であるわたくしを差し置いて……! 『姉さまには無理そう』ですって……!? わたくしが、レンの相談を無碍にするとでも思われておりますの!?」
「おそらく、無碍にするのではなく、暴走して相手を全滅させると思われたのではないかと……」
「失礼な! わたくしは至って冷静ですわ!」
机をバンと叩いたエレオノーラの顔は、およそ冷静とは程遠い紅潮と殺気に満ちていた。
だが次の瞬間、彼女はハッと何かに気づいたように動きを止め、妖しく目を細めた。
「……いいえ、待ちなさい。レンの好みは『打算や損得勘定がなく、一緒にいて心が休まる穏やかな人』……」
エレオノーラはスッと自らの胸元に手を当て、フッと冷徹な微笑を浮かべた。
「……完全に、わたくしのことですわね?」
「え」
「打算など一切なく、純粋な愛だけでレンを見守り、完璧な教養と美貌で心を癒やす……これ以上の適任がどこにおりまして? ええ、ええ、わたくしがレンのお嫁さんになればすべて丸く収まりますわ!」
「エレオノーラ様、実の姉弟でございます」
「法の改変などベルフォール家の総力を挙げれば造作もありませんわ! ……いえ、まずはエドワードですわね」
扇子をパチンと鋭く鳴らし、エレオノーラは氷のような冷笑を浮かべた。
「あのような無骨な男に、レンの純情な相談を汚させるわけにはいきません。……近衛騎士団の執務室に、先回りして待ち伏せいたしますわよ!」
やる気満々で執務室の模様替えを指示するエドワード。
だが、この頼れる近衛騎士団長には、致命的すぎる落とし穴があった。
――エドワード自身、女性との交際経験などこれっぽっちもないのである。
幼少期から剣術と軍略に青春のすべてを捧げ、十代半ばで近衛騎士団に入隊。以来、血と汗と泥にまみれながら任務に明け暮れ、気づけば二十代半ばにして団長へ上り詰めた絵に描いたような生粋の武人。
その精悍な容貌と高い家柄ゆえに社交界の令嬢たちから幾度となく熱烈な視線を送られてきたものの、「任務の邪魔だ」「軟弱な真似をしている暇はない」とすべて一刀両断に切り捨ててきた結果、女性の手すらまともに握ったことがないという有様だった。
つまり、レンの「将来のお嫁さん相談」において、これ以上相談相手に不向きな男は王国中を探してもいなかったのである。
「……ふむ。まずは男としての覚悟を説き、どんな外敵からも嫁を守り抜けるだけの体幹を鍛え直させるべきか……? いや、まずは素振りのメニューから見直すか……?」
腕組みをして唸るエドワードの口から漏れ出ているのは、恋愛相談とは完全に別次元の脳筋理論ばかり。
恋愛経験ゼロの元社畜が、恋愛経験ゼロの筋肉団長へ、よりにもよって結婚の相談を持ちかける――。
そんな前途多難すぎる兄弟の密談が始まる前に、王宮の廊下にはカツカツと鋭いハイヒールの足音が響き渡り、ドアノブへと冷徹な手がかけられようとしていた。
――バァァァンッ!!
雷鳴のような轟音と共に、頑丈な執務室の樫の扉が勢いよく蹴破らんばかりに押し開かれた。
「エドワードッ!!」
室内の気温が一気に氷点下まで叩き落とされたかのような、凄まじい冷気と威圧感。
豪奢なドレスの裾を翻し、鬼神の如き形相で踏み込んできたのは、他ならぬエレオノーラだった。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
反射的に腰の長剣の柄に手をかけたエドワードだったが、乱入者の顔を見るなり目を丸くした。
「エ、エレオノーラ……!? なぜ貴様が王宮の、それも近衛騎士団の執務室にいる!」
「しらばっくれるおつもりですの!? すべて筒抜けですわよ! レンが貴方に……よりにもよって、この脳みそまで筋肉でできているような男に、結婚の相談を持ちかけようとしているなどと……っ!」
エレオノーラは扇子をエドワードの鼻先に突きつけ、青い瞳から青白い炎を立ち上らせながら詰め寄った。
「だいたい、貴方自身が生涯一度たりとも女性とまともにお付き合いしたことのない、筋金入りの恋愛音痴ではありませんの! そんな枯れ木のような男に、我が愛しのレンの純真な相談を受ける資格など万に一つもありませんわ!!」
「ぐ、ぐぬっ……!? な、何を根拠にそのような言いがかりを……! 俺には近衛騎士団長としての威厳と、男としての人生経験が……!」
「黙りなさい! 剣と素振りしか頭にない男が『人生経験』などと笑わせないでくださる!? 貴方に相談させたら最後、レンの結婚条件に『腕立て伏せ毎日千回』だの『外敵を両断できる体幹』だのをねじ込むに決まっておりますわ!」
「うぐっ……!!」
先ほど自分が考えていた筋トレメニューを完璧に言い当てられ、エドワードは言葉に詰まって後退りした。
「レンに必要なのは、打算がなく、心安らぐ最高の伴侶……! つまり、このエレオノーラただ一人ですの! 貴方が余計な入れ知恵をしてレンの純情を歪めるなど、この姉が決して許しませんことよ!!」
「待て! 姉弟で結婚などできるわけがなかろうが! 貴様こそ頭を冷やせ!!」
「法の改変ならすでに手続きの下調べを終えておりますわ!!」
「何を調べてるんだ貴様はーーっ!?」
王宮の最奥で繰り広げられる公爵家の長女と次男の怒号の応酬に、部屋の隅に控えていたカトレアは、ただただ静かに敬礼の姿勢のまま固まるしかなかった。
怒号と罵声が飛び交った王宮の執務室での激論は、およそ一時間におよんだ。
「貴様にレンの繊細な恋心を導けるわけがない!」
「貴様のような暴走機関車に弟の将来を委ねられるか!」
互いに一歩も引かない泥沼の舌戦の末、セバスチャンの冷徹な仲裁とカトレアの胃痛を伴う立ち会いのもと、ようやくひとつの妥協案――というか停戦協定が結ばれた。
曰く、『レンの結婚相談は、兄妹三人揃った場で行うこと』。
どちらか単独での抜け駆けや洗脳を絶対に許さないための、苦肉の策である。
「……ふん、いいでしょう。貴方がレンに筋肉信仰を植え付けないよう、わたくしが横で厳しく監視して差し上げますわ」
「それはこちらの台詞だ。貴様が公爵家の権力で婚姻届を偽造しないよう、俺が目を光らせてやる」
火花を散らしながら、エレオノーラとエドワードは連れ立って王宮を後にした。
――そして、数刻後の下町。
日が傾き始め、一般の客足が落ち着いた『ベルフォール薬房』の前に、公爵家の豪奢な馬車と、近衛騎士団の護衛騎兵がズラリと乗り付けた。
ガラガラと店の扉が開き、長身の美丈夫と、完璧なドレス姿の絶世の美女が並んで足を踏み入れてくる。
「レン、店じまいのところすまないな。入るぞ」
「ごきげんよう、愛しのレン。姉が来て差し上げましたわ」
カウンターの奥で薬草を整理していた俺は、揃って現れた二人の顔を見て、手にしていた薬匙をポトリと落とした。
「えっ……あ、兄上!? それに姉上まで……どうして二人揃ってうちの店に?」
背後で空気を察したリリアが、さっと音もなく裏口の休憩室へと退避していくのが見える。
ぎこちない笑顔を浮かべつつも並んで椅子に腰掛けた兄と姉は、真剣そのものの眼差しで、俺をまっすぐに見据えてきたのだった。
「……ええと、二人ともそんな真剣な顔をして、一体どうしたの?」
ただならぬ気迫を放つ二人に気圧されながら、俺はおずおずとハーブティーを差し出した。
エドワード兄上はコホンとわざとらしく咳払いをし、太い腕を組んで前のめりになる。
「レン、単刀直入に言う。……お前が将来の伴侶、つまり嫁を求めているという話を聞いた」
「ぶふっ!?」
俺は思わず吹き出しそうになった。なぜその話がもう筒抜けになっているのか。
動揺する俺をよそに、兄上は筋骨隆々の胸をドンと叩き、人生の先輩面で重々しく口を開いた。
「いいか、レン。男が家庭を持つ上で何より大事なのは『圧倒的な防衛力』だ!」
「……はい?」
「伴侶を守る覚悟、そしていざという時に山賊や魔獣を素手で叩き伏せる基礎体力! 打算のない穏やかな家庭を築くためにも、まずは毎朝の素振り五百回と、体幹を鍛えるランニングから始めるべきだ。嫁候補の家柄など二の次! 共にダンベルを握り、背中を預け合える剛の者こそが最高の妻となる!」
(交際経験ゼロの筋肉理論が炸裂してる……!)
恋愛相談どころか新兵の入隊面接のようなアドバイスに俺が引き攣った笑いを浮かべていると――。
「――お黙りなさい、この筋肉達磨」
バチンッ! と鋭い音を立ててエレオノーラ姉上の扇子が兄上の腕を叩いた。
姉上は蔑むような冷たい流し目を兄上に向けた後、俺の方へ向き直ると、一瞬でとろけるような甘い聖母の微笑みへと切り替えた。
「レン、あのような野蛮人の世迷言に耳を貸してはなりませんわ。……結婚において最も重要なのは『絶対的な庇護と、至高の癒やし』ですのよ」
「ひ、庇護と癒やし……?」
「ええ。レンが求めているのは『打算や損得勘定がなく、一緒にいて心が休まる穏やかな人』なのでしょう? 世の有象無象の女たちは皆、レンの美貌と新薬の利権に群がる浅ましい羽虫ばかり……そんな女たちを寄せ付けず、広大な屋敷でレンを何不自由なく養い、朝から晩まで溢れんばかりの愛で包み込んで差し上げられる存在……」
姉上はうっとりと頬に手を当て、ぐいっと顔を近づけてきた。
「身近に心当たりがございませんこと? 公爵家の財力と権力を持ち、レンのすべてを肯定し、誰よりもレンを愛している完璧な女性が……そう、例えば目の前にいるこのわたくしのような!」
「姉上、それ完全に自分のプレゼンになってるよ!!」
脳筋の極論をぶちかます兄と、職権乱用で自ら立候補してくる姉。
二人の極端すぎるアドバイス(?)を浴びせられ、俺は頭を抱えて深いため息をつくしかなかった。
「さあレン、はっきりさせよう! 外敵を粉砕し背中を預け合える剛の者か!」
「それとも、圧倒的な財力と無償の愛で永遠に貴方を甘やかす、このエレオノーラか!」
二つの熱烈すぎる視線が、真正面から俺に突き刺さった。
腕組みをして仁王立ちになり、男らしい(?)決断を迫るエドワード兄上。
両手を胸の前で組み、青い瞳をとろけさせて詰め寄ってくるエレオノーラ姉上。
極端な二者択一を迫られ、俺は額に冷や汗をだくだくと流しながらじりじりと後退りした。
「え、ええと……どちらが良いかって言われても……」
「どちらだ、レン! 男なら迷わず選べ!」
「レン、愛する姉の手をお取りなさい!」
右からは筋肉の圧、左からは愛の重圧。
逃げ場のないカウンターの隅に追い詰められ、俺は限界寸前の頭をフル回転させた。どちらか一方に軍配を上げれば、この場で公爵邸の跡継ぎ問題どころではない血の雨が降る。
「……ど、どちらも素晴らしい意見だと思うよ! 身を守る体力も大事だし、穏やかに癒やしてくれる存在も大切だしね!」
精一杯の営業スマイルを浮かべ、前世のクレーム対応仕込みの玉虫色な回答を繰り出してみる。しかし――。
「「誤魔化すな!!」」
完璧に息の合った声で一喝され、カウンターがガタッと揺れた。
「俺の肉体鍛錬プランか!」
「わたくしとの永久庇護生活か!」
「「今ここで、どちらが良いか決めなさい(決めろ)!!」」
猛烈な気迫でさらに一歩踏み込んでくる二人。
その光景を、裏口のカーテンの隙間から覗いていたリリアが、「うわぁ……」とドン引きの表情で手を合わせ、静かに俺の冥福を祈っていた。
絶体絶命の包囲網の中、俺はスッと表情を整え、困ったような、それでいてどこか切なげな「至高の美少年フェイス」を作って姉上を見つめた。
「姉上……。確かに姉上は、社交界でも誰もが羨む美貌と気品を兼ね備えていて、聡明で……俺にとってもまさに理想そのものの女性です」
「――っ! れ、レン……っ!」
エレオノーラ姉上の青い瞳が見る見るうちに潤み、頬が一気に朱に染まる。完璧な効果だ。しかし、ここからが本番である。
俺は少しだけ眉を下げ、記憶を辿るように首を傾げてうそぶいてみせた。
「でも……俺たち、実の血を分けた『姉弟』ですよね? ……療養中だった頃の記憶はまだ少し曖昧ですけれど、姉上ご自身も、昔から『わたくしたちは誇り高きベルフォール家の姉弟ですわ』って、優しく言ってくださっていたではありませんか」
「う……ぐっ……!?」
クリティカルヒットだった。
かつて病弱だった弟を純粋に慈しみ、姉としての矜持を語っていたであろう過去の自分の発言(という名の捏造混じりの誘導)を突きつけられ、エレオノーラ姉上は胸を押さえて激しくよろめいた。
「そ、それは……確かに昔のわたくしはそう申しましたけれど……! で、でもそれはレンがあまりにも儚げで、姉として守らねばと……! あ、あああ……っ! 自らの過去の言葉が、レンとの将来を阻む刃となって跳ね返ってきますわ……っ!!」
「フッ……! 見苦しいぞエレオノーラ! レンの言う通りだ、血縁の壁はどうあがいても越えられん!」
姉上が悶絶している隙に、エドワード兄上が勝ち誇ったような笑みを浮かべて前に出た。
「となればレン、残る答えは一つだな? 明日から俺と共に、外敵を粉砕できる肉体を手に入れるための特訓を――」
「あ、兄上。先日お願いしていた、近衛騎士団の皆様向けの『特製生薬アロマ湿布』の試作品が完成したんです。激務でお疲れの兄上に、一番に使っていただきたくて」
「な……っ!?」
俺がカウンターの下から手際よく木箱を取り出して差し出すと、エドワード兄上は目を丸くし、それからプルプルと震え出した。
「お、俺のために……特注の湿布を……? そんな……弟の愛が詰まった至高の品を……! うおおっ……レン、お前という奴は……っ!」
筋骨隆々の騎士団長は木箱を抱きしめ、目頭を押さえて男泣きを始めた。
姉には「思い出と血縁の鎖」、兄には「手作りの労いアイテム」。
完璧な各個撃破により、一触即発だった修羅場は、一瞬にして二人の悶絶空間へと塗り替えられたのだった。
「あ、それから姉上。本邸に届いているという『縁談の申し込みの手紙』、後で受け取りにまいりますね」
ふと思い出したように、俺はとびきり無邪気で爽やかな笑顔を浮かべて付け加えた。
どんな令嬢たちから手紙が届いているのか、世間勉強と社交界の力関係の把握も兼ねて、一度自分の目で確認しておきたかったのだ。
だが――その一言が落ちた瞬間。
店内の空気が、先ほどとは比べ物にならないほどの絶対零度へと凍りついた。
「…………え?」
過去の記憶への悶絶から一瞬で我に返ったエレオノーラ姉上の顔から、一切の表情が抜け落ちる。
青い瞳に宿ったのは、先ほどまでの熱烈な愛嬌など微塵もない、社交界の猛者たちを恐怖で震え上がらせる「氷の令嬢」そのものの底冷えする光だった。
「受け取りに……? レンが、あの浅ましい女狐たちの手紙を……直々に、ご覧になるおつもりですの……?」
「う、うん。どんな方たちなのか、一応知っておいた方がいいかなって――」
「なりませぬッ!!」
バァァァンッ! と机を両手で叩き、姉上が身を乗り出してきた。
「あのような薄汚い打算に満ちたパピルスなど、レンの清らかな瞳に映す価値すらありませんわ! 読むだけでレンの純真な心が汚れてしまいます! すべて! 一枚残らず! このわたくしの手で灰燼に帰して差し上げますことよ!!」
「ちょ、ちょっと姉上!? 他家からの大事な手紙を燃やしちゃダメでしょ!?」
「燃やすどころか、差出人の家門ごと社交界から抹消してやりたいくらいですわ!!」
「エレオノーラ、待て! レンに近づく羽虫どもを排除するという点においてのみ、今回は貴様に完全同意する!」
木箱を抱きしめて泣いていたエドワード兄上までもが、鋭い眼光を取り戻して立ち上がった。
「レン、安心しろ。不純な動機で弟に近づこうとする不届き者どもは、この近衛騎士団長が全力で追い払ってやる。見合いの手紙など、文字通り一枚たりともお前の元へは通さん!」
「兄上まで何を言い出してるの!?」
先ほどまで「筋肉か庇護か」で殺し合っていたはずの二人が、『レンの純潔と手紙の徹底隠滅』という共通目的のもと、恐ろしいほどの結束を見せ始めていた。
店内の隅で、リリアが「あーあ……」と呆れ顔で頭を抱えている。
どうやら、自分の元に届いた縁談の手紙を自分の目で確認できる日は、当分――いや、永遠に訪れそうになかった。
「わかりました。それなら……姉上と兄上から、それぞれ候補を『一人ずつ』選んでくださいますか?」
これ以上手紙の原本を要求しても燃やされるだけだと悟った俺は、妥協案としてそう提案してみた。
信頼する(?)二人が客観的に見て「これなら」と太鼓判を押す相手なら、少しはまともな候補が出てくるかもしれない、という淡い期待を込めて。
だが、その言葉を聞いた二人は、まるで極秘の軍事機密を託されたかのように顔を見合わせ、それから凄まじい眼光で頷き合った。
「……なるほど。レンの純潔を守りつつ、最も安全で無害な相手を、このわたくしが厳選せよということですわね」
「うむ。弟の隣に立つにふさわしい、心身ともに鍛え抜かれた至高の候補を、この俺が責任を持って見定めてみせよう」
思惑は完全にズレている気がするが、ともかく二人はそれぞれ「最高の一人」を選出することに合意した。
「よし、レン。では明日、本邸にてそれぞれの選んだ候補を発表する。首を長くして待っているがいい!」
「ええ、楽しみに待っていてくださいましね、レン。貴方に相応しい『完璧な候補』をご用意いたしますわ……!」
嵐のような気迫を残し、エドワード兄上は特製湿布を大事そうに抱え、エレオノーラ姉上は邪悪……いや、妖しい笑みを浮かべながら、揃って薬房を後にしていった。
カランコロン、とドアベルが鳴り、ようやく静寂が戻った店内。
奥の部屋からひょっこりと顔を出したリリアが、どこか哀れむような生温かい視線を向けてきた。
「レン様、本当によろしいのですか? あの極端すぎるお二方に候補を選ばせたら、とんでもない怪物か、あるいは奇想天外な人物を連れてこられる予感しかしませんけれど……」
「……うっ。確かに嫌な予感はするけど、これ以上手紙のことで揉めて公爵邸を火の海にされるよりはマシだよ」
「まあ、明日の本邸での面談が今から楽しみですわね。帳簿を早めに終わらせて、特等席で見物させていただきます」
「リリアは本当に楽しそうで何よりだよ……」
苦笑いを浮かべつつも、俺は明日待ち受けているであろう「兄と姉の推薦候補」に、一抹の不安を拭いきれないでいた。




