10話:タイプだと褒めたら姉上のエンジンが限界突破しました
姿見の前に立つレンは、エレオノーラが腕利きの仕立屋に作らせた、深い濃紺の上質な正装スーツ(イブニング・タキシードスタイル)に袖を通した。
装飾過多にならず、シンプルながらも生地の光沢と体のラインが際立つ完璧な一着だ。
「……うん、やっぱりこれ一着で十分すぎるくらい見栄えがいいな」
「ええ、とてもよくお似合いですわ、お兄様。仕立ての良さもさることながら、素材の品格が違いますもの」
リリアが後ろから襟元を整え、満足げに微笑む。
「余計な小細工なんていらないね。今夜は男爵家の若き薬師として、このスーツ一丁で堂々と乗り込んで、地方展開に興味のありそうな貴族や豪商たちを一本釣りしてこよう」
「ふふ、頼もしいことですわ。では参りましょうか、お兄様」
すっきりと整った正装のレンと、可憐なドレスに身を包んだリリアの二人は、迎えの馬車へと乗り込んだ。
巨大なクリスタルのシャンデリアが眩い光を投げかける大広間。
重厚な扉が開かれ、「バルツ男爵令息、レン卿、ならびに令妹リリア嬢」と衛兵の名乗りが響いた。
いつも薬房で見せている白衣にすり鉢、あるいは下町の素朴なシャツ姿ではない。
エレオノーラが特級の仕立屋に縫わせた、深い濃紺の上質な夜会服。無駄を削ぎ落としたシルエットが、十六歳の少年のしなやかな体躯と、透き通るような白い肌を完璧に際立たせていた。
「……あれ? 誰も寄ってこないな」
レンがグラスを手に取り、周囲を見渡して小さく呟く。
「下町を馬車で埋め尽くしていた令嬢たちが一斉に突撃してくるかと思ったんだけど……拍子抜けだな」
「当然でございますわ、お兄様」
隣で腕を組むリリアが、扇子の陰でくすりと笑った。
「下町の薬房で埃とアルコールにまみれてヘラを振るっていた『しがない薬師』と、この洗練された貴公子が同一人物だと、誰が瞬時に結びつけられますの? 身なりひとつでここまで化けられると、噂の『新薬の天才薬師レン』を探している方々ほど見落としますわ」
社交界の貴族たちが探していたのは、「莫大な新薬利権を持つ、下町の元公爵子息」という名の金の卵だ。
だが、いま大広間の入り口に現れたのは、利権の匂いを微塵も感じさせない、ただただ息を呑むほどに完成された美少年だった。
しかし――別の意味で、会場の空気は一変していた。
「……ねえ、あの方、どこの御曹司かしら……?」
「名乗りはバルツ男爵家とおっしゃっていたけれど……あのような美男子、社交界で見たことがありませんわ」
「なんて涼やかな目元……それに、あの立ち居振る舞いの気品……男爵家の枠に収まる器ではありませんわね」
ざわめきが波紋のように広がる。
注がれる視線は、家の損得や利権を計算する冷徹な政略結婚の目ではない。
純粋に「極上の美少年」を品定めし、今夜の獲物として狙いを定める、貴婦人や年上の令嬢たちによる本能の狩人の目だった。
「……リリア。なんか、視線が痛いというか……さっきから妙にギラギラした目で見られてる気がするんだけど」
「ええ、利権目当ての令嬢たちよりも、ある意味でずっと危険な肉食獣の檻に放り込まれましたわね。うっかり一人でバルコニーにでも出たら、朝まで骨も残らず喰い尽くされますわよ、お兄様」
「物騒な冗談はやめてくれ……! 俺は今日、真面目にFC展開の出資者を探しに来たんだからな!」
周囲からの熱っぽい品定め(狩人の視線)を軽く受け流しつつ、レンはグラスを片手に会場を見渡した。
「……まずは、日頃お世話になっている方々へ筋を通すのが先だな。セリア様とカトレアさんにご挨拶してこよう」
「賛成ですわ、お兄様。筆頭出資者であるセリア様と、エドワード様へのプレゼンで暴走中のカトレア様を放置しては、後で何を言われるか分かりませんもの」
リリアを伴い、レンは人混みをかき分けてホールの壁際へと歩みを進めた。
そこには、華やかなドレス姿の令嬢たちに囲まれながら、誇らしげに談笑するクロイツァー伯爵令嬢セリアの姿があった。
さらにその少し離れた柱の陰には、めったに見せない優雅な夜会ドレスを完璧に着こなしつつも、鋭い眼光で周囲の警備状況とエドワードの動向を油断なく観察しているカトレアの姿もある。
「セリア様、カトレアさん。今宵はご招待いただき、ありがとうございます」
レンが柔らかく声をかけ、胸に手を当てて優雅に一礼した。
「……えっ?」
声をかけられたセリアとカトレアが、同時に振り返る。
二人は一瞬、目の前の洗練された美青年の顔をぽかんと見つめ、それから息を呑んだ。
「ま、まさか……レン様……!?」
セリアが扇子を取り落としそうになりながら目を丸くする。
いつも薬房で白衣をまとい、真剣な眼差しですり鉢やフラスコを扱っていたあの物静かな少年が、これほどまでに気品と艶やかさを放つ貴公子へと化けるなど、間近で接していた二人ですら一瞬で結びつかなかったのだ。
「レン様……その夜会服姿、見事な仕立てですわ……! いつもの白衣も素敵ですが、これほどまでに洗練されていらっしゃるとは……」
カトレアも珍しく頬を微かに染め、プロの観察眼を交えながら息を漏らした。
「驚かせてしまいましたか? 今日はリリアの付き添いも兼ねて、少しばかり正装をしてまいりました」
レンが微笑むと、その声と佇まいに、セリアを取り囲んでいた周囲の貴族令嬢たちの空気が一気に凍りついた。
(……え? いま、セリア様は『レン様』とお呼びになられた……?)
(まさか……あの方が、下町の薬房で奇跡の軟膏を調合されたという、あのベルフォール公爵家の……!?)
(嘘でしょう、あの見惚れるような極上の美男子が、噂の『新薬の天才薬師』……!?)
ひそひそとした囁きが、燎原の火のように周囲へ広がっていく。
「ただの見目麗しい男爵令息」だと思って獲物の目で見ていた貴婦人たちも、「下町の薬売り」を探して会場の隅ばかりに目を光らせていた利権目当ての令嬢たちも、次々とその正体に気づき始めていた。
会場全体の視線の質が、「獲物を狙う肉食獣の目」から「莫大な利権と至高の美貌を兼ね備えた、絶対的至宝を奪い合う眼差し」へと急速に変わり、レンを中心に張り詰めた熱気が渦巻き始めたのだった。
正体が露見した瞬間、大広間の空気が沸騰したかのようにざわめき立った。
「あの方が……レン様……!?」
「男爵家の籍に入られたから、我が家からも正式に求婚できますわ!」
「抜け駆けは許しませんわよ! 我が子爵家の持参金なら……!」
周囲を取り囲む令嬢や貴族たちの瞳に、ギラギラとした欲望の炎が宿る。
先ほどまでの「年下の美少年をからかう視線」から、「新薬の莫大な利権と至高の美男子を一族で囲い込むための殺気配りの包囲網」へと一変し、じりじりと距離を詰めてくるのだ。
(まずい……! このままじゃFCの商談どころか、物理的に押し潰されてどこかの屋敷へ連れ去られる……!)
前世のドラッグストアで初売りの福袋に押し寄せる暴徒のような客層を思い出し、レンの背筋に冷たい汗が伝った。
隣のリリアを見れば、彼女も「これは防ぎきれませんわね……」と引き攣った顔で後退りしている。
この包囲網を力づくで粉砕し、一瞬で黙らせられる絶対的な権力と威圧感を持つ存在は――会場にただ一人しかいなかった。
レンは意を決し、ホールの最奥、高位貴族たちの中心に佇んでいた銀髪の美女へと、すがるような視線を向けた。
「――エレオノーラ姉……様!」
人混みの隙間を縫って放たれた、切迫した、けれど甘く頼るような弟の呼び声。
その瞬間。
歓談の輪の中心で冷淡にグラスを傾けていたエレオノーラの肩が、ビクリと跳ね上がった。
サッと振り返った彼女の青い瞳が、群がる女狐たちに囲まれて困り果てているレンの姿を捉える。
(――我が愛しのレンが、わたくしに助けを求めていらっしゃる……!?)
エレオノーラの表情から一切の温度が消え失せ、代わりに絶対零度の殺気と、独占欲に満ちた凄まじい覇気が立ち上った。
「……身の程を弁えぬ羽虫どもが、我が至宝に群がっておりますわね」
カツン――。
鋭いヒールの音が一つ響いた瞬間、彼女の周囲の空気が凍りついた。
取り巻きの貴族たちが青ざめて一斉に道を開ける中、エレオノーラは真紅のドレスの裾を苛烈に翻し、鬼神の如き威圧感を纏って大股で歩み寄ってきたのだった。
「――元姉さま……っ!」
群がる令嬢たちの包囲網から逃れたい一心で、レンの口から咄嗟に飛び出したその呼び名。
「……え?」
その瞬間、大広間の空気がピシリと音を立てて凍りついた。
鬼神の如き威圧感で歩み寄ってきていたエレオノーラが、まるで時を止められたかのようにピタリと硬直した。
カツン、と鋭く踏み出されたはずのヒールが宙で止まり、陶器のような白い肌からサッと血の気が引いていく。
扇子を握る指先がプルプルと細かく震え、青い瞳が絶望と驚愕にカッと見開かれた。
(も、元……? いま、レンの口から……『元姉さま』と……!?)
エレオノーラの脳内で、その言葉が凄まじい反響音となって木霊していた。
確かに、レンを法的な「他人」にして自分の夫として公爵家へ迎え入れるため、リリアの実家(バルツ男爵家)へペーパー養子に出す超法規的スキームを強行したのは自分だ。
法的に言えば、二人はもう書類上の姉弟ではない。
すべては計画通り、思惑通りの完璧な筋書きだったはずなのだ。
だが――いざ弟の口から、無邪気かつ残酷に『元』などという他人行儀な前置きを突きつけられた瞬間、エレオノーラの精神に即死級のクリティカルダメージが直撃した。
(わ、わたくしは……レンにとって、もう『過去の姉』……!? 家族としての絆すら、過去形に追いやられてしまいましたの……!?)
「エレオノーラ様……?」
固まったまま動かないエレオノーラを、周囲の令嬢たちが恐る恐る見つめる。
氷の令嬢の仮面は完全に粉砕され、彼女は胸元を両手でぎゅっと押さえたまま、今にも崩れ落ちそうなほど激しく小刻みに震えていた。
「姉上……じゃなくて、エレオノーラ様? どうかされましたか……?」
レンが心配そうに首を傾げて一歩近寄ると、エレオノーラはハッと我に返ったように潤んだ瞳を上げ、蚊の鳴くような掠れ声で呻いた。
「も……元って……元ってなぁに、レン……? わたくし、そんな悲しい呼ばれ方をするために、公爵家の権力で戸籍をロンダリングしたわけじゃありませんのに……っ!!」
「えっ……?」
会場の隅でワインを飲んでいたエドワードが「ぶふっ!?」と豪快に吹き出し、リリアは静かに両手で顔を覆って天を仰いだ。
助けを求めたはずが、弟の一撃によって最強の姉が再起不能(戦闘不能)に陥るという、前代未聞の修羅場が大広間の中央で幕を開けていた。
ショックのあまり胸を押さえてプルプルと震えているエレオノーラを見下ろしながら、レンは内心で「少し意地悪が過ぎたかな」と苦笑した。
だが――反省する気は微塵もない。
いくら将来の婚姻だの利権の囲い込みだのと大層な理屈を並べたところで、当の本人である自分に一切の相談もなく、書類一枚で勝手にバルツ男爵家へ籍を動かされたのだ。
朝起きたら見知らぬ男爵家の長男扱いに仕立て上げられ、リリアから「お兄様」と呼ばれたあの瞬間の理不尽な衝撃と徒労感を思えば、これくらいの意地悪な仕返しは当然の権利である。
レンはわずかに口角を上げ、社交界特有の慇懃無礼で完璧な貴公子スマイルを作ると、さらに追撃の一撃を放った。
「……何かご気分でもお悪いのでしょうか、エレオノーラ公爵ご令嬢様?」
「――っっっ!?」
エレオノーラはまるで胸元を不可視の矢で射抜かれたかのように大きくのけぞり、両手で顔を覆った。
「ご、ご令嬢様……っ! まるで街ですれ違った赤の他人を見るような、その冷ややかな敬称はなぁに……!? やめて、レン! わたくしをそんな冷たい目で殺さないでちょうだい……っ!」
社交界で数多の貴族を震え上がらせてきた『氷の令嬢』が、十六歳の少年の言葉責めによって完全に形無しとなって崩れ落ちかけている。
その様子を少し離れた場所から見ていたエドワードは、レンの冷ややかな目つきと口元のわずかな皮肉を見て、弟の真意を完全に察した。
(あいつ……! 相談なしに男爵家へ籍を動かされたことを、ここぞとばかりに根に持って仕返ししてやがるな)
「ぶっ、ふはっ……! げほっ、ごほっ……!!」
エドワードは手にしていたグラスを取り落としそうになりながら、盛大に吹き出した。
普段は妹の暴走に胃薬を手放せない近衛騎士団長が、太い肩を激しく震わせ、必死に笑いを噛み殺しながら口元を手で覆っている。
「エ、エドワード閣下……!? 大丈夫でございますか!?」
部下の騎士が慌てて駆け寄るが、エドワードは片手を挙げて制した。
「ああ、気にするな。……くっ、くく、レンのやつ、やりおる。あのエレオノーラを言葉一つでここまで完封するとはな」
豪快に笑いを漏らしながらも、弟の逞しい立ち回りに、エドワードの瞳には頼もしげな包容力が浮かんでいた。
「さて……あのままエレオノーラを放置しておくと、夜会の空気が完全に凍りつきそうだな。レンの奴が何を仕掛けるつもりなのか、兄貴として少し背中を押してやるか」
エドワードはグラスを給仕のトレイに置くと、重厚な足取りで弟たちの輪へと歩み寄っていった。
「おいおい、夜会の真ん中で揃って何を固まっているんだ」
重厚でよく通る声が、張り詰めた静寂を心地よく破った。
周囲の貴族たちが自然と左右へ割れる中、堂々たる体躯で歩み寄ってきたのはエドワードだった。
近衛騎士団長としての隙のない威圧感を漂わせつつも、口元にはどこか悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「エ、エドワード……兄上……っ!」
まだショックから立ち直れず、胸を押さえて小刻みに震えていたエレオノーラが、すがるように視線を向けた。
エドワードはその華奢な肩をポンと軽く叩き、「まあ落ち着け、エレオノーラ」と苦笑交じりに宥めると、レンへと向き直った。
その眼差しは、先ほどの厳格な武人のものから、包容力に満ちた温かな兄の声音へと一瞬で切り替わる。
「無理は禁物だぞ、レン。……だが、お前がいつもの白衣を脱ぎ捨てて、わざわざこんな堅苦しい場に正装で乗り込んできたんだ。ただ社交界の空気を吸いに来ただけ、というわけでもないのだろう?」
(さすが兄上、完璧なアシストだ……!)
レンは内心で快哉を叫び、前世のプレゼン前のような鋭く冴え渡る思考へと意識を切り替えた。
「ええ、エドワード兄さまのおっしゃる通りです」
レンがすっと背筋を伸ばし、大広間の中央で優雅に一礼する。
その涼やかな佇まいと淀みのない所作に、求婚の機を窺っていた令嬢たちや、利権の行方を注視していた各家の当主たちが、思わず息を呑んで聞き耳を立てた。
「皆様、今宵は私のような若輩者に過分なご関心をお寄せいただき、心より感謝申し上げます。……皆様が私に求めてくださっているのは、セリア様のお肌を救った特製化粧水、そして頑固な炎症を鎮める新しい軟膏の価値であると理解しております」
レンの言葉に、周囲の貴族たちがゴクリと唾を飲み込む。
誰もが「我が家へ婿入りを」「うちの専属薬師に」と声を上げようと身を乗り出した――その瞬間。
レンは前世のドラッグストア店長仕込みの、極上のビジネススマイルを浮かべて言葉を紡いだ。
「ですが――私一人が下町の工房で調合を続けていても、王都の、ましてや地方の領地で肌の痛みに苦しむすべての方々に薬を行き届かせることは到底不可能です。……そこで今宵、皆様にご提案がございます」
レンは胸元から一枚の羊皮紙を滑らかに取り出し、扇のように軽く広げて見せた。
「我が『ベルフォール薬房』の調合薬およびスキンケア製品を、皆様の領地や主要都市で独占的に取り扱っていただく『地方支部加盟制度』の募集を開始いたします」
「……ふ、ふらん……ちゃいず……?」
前代未聞の単語に、大広間のあちこちから困惑と驚きが混ざり合った囁きが漏れ出した。
「簡単な仕組みです」
レンは透き通るような美声で、理路整然と概要を解き明かしていく。
「店舗の用地確保、建物の設営、現地での販売スタッフの手配は、各領主様や大商人である皆様にお任せいたします。その代わり、本部である私の方から『高純度グリセリン』や『特製軟膏の原薬』といった中核素材を安定供給し、門外不出の調剤・接客マニュアルをすべて提供いたします」
「な……っ!?」
「さらに、ベルフォール公爵家の流通網の後押しにより、街道の安全と確実な配送を保障いたします。……つまり皆様は、自領に『王都で最も話題の最新薬房』をノーリスクで誘致でき、莫大な利益と領民の健康を同時に手に入れることができるのです」
会場が、急速にざわめきから熱狂へと変わり始めた。
貴族たちにとって、レンを強引に婿入りさせて囲い込むのは、公爵家や他家との摩擦を生む危険な賭けだった。
だが――「加盟金と店舗を用意するだけで、自領に独占的な新薬の販売権が手に入る」となれば、話は完全に別次元の超優良投資案件となる。
「の、乗りましたわ! 我がクロイツァー伯爵領の全都市に、真っ先に支部を開設させてくださいませ、レン様!」
セリアがいの一番に目を輝かせて名乗りを上げる。
「ふむ……我が侯爵領の主要街道沿いにも、即座に三店舗分の土地と人員を差し出せます。エドワード閣下、軍用物資の補給拠点としても極めて有益かと存じます」
カトレアも冷静な顔のまま、即座に手帳を開いて試算を始めた。
「レン様! 我が子爵領の鉱山街でもぜひ……!」
「我が商会に東部全域の専売権を預けていただけないでしょうか……!」
先ほどまでのドロドロとした求婚合戦は跡形もなく吹き飛び、会場は瞬く間に「新薬フランチャイズの加盟権を巡る巨大なビジネス商談会」へと塗り替えられていた。
その光景を横で見ていたエレオノーラは、ハッと我に返ったように青い瞳を輝かせた。
(……結婚ではなく、ビジネスの提携……! そうですわ! これならレンを他所の女狐に婿入りさせず、公爵家の影響力の下で手元に置いたまま、莫大な富と名声を独占できますわ……!!)
完全復活を遂げた姉が妖艶な笑みを浮かべる隣で、エドワードは太い腕を組み、感服したように深く唸った。
「……なるほどな。群がる求婚者を全員『出資者』に仕立て上げて、自分の支配下に置くか。……たいしたタマだな、レン」
兄の頼もしい呟きを背中で聞きながら、レンは手元の商談メモを広げ、押し寄せる貴族たちへ向けてさらなる営業スマイルを咲かせるのだった。
「レン様! 東部都市の物件なら今すぐにでも――!」
「我が商会なら加盟金として金貨百枚を即納いたしますわ!」
レンを取り囲む貴族や大商人たちが、熱狂の中で契約の優先権を競い合っていた、その時だった。
「――そこまでよ! 王国の貴族たちだけで、レン様を独占しようだなんてずるいわ!」
鈴を転がすような、けれど大広間の喧騒を一瞬で圧するほど凛と澄んだ声が響き渡った。
「な、なんだ……!?」
人々が驚いて振り返り、ざっと左右へ道を開ける。
現れたのは、豪奢な真紅と金糸の礼装ドレスに身を包み、プラチナブロンドの髪を揺らした美少女――ヴァレンティノ帝国第三皇女、イリス・ラ・ヴァレンティノだった。
下町の薬房で見せていた町娘の粗末なローブ姿ではない。
胸元には帝国の象徴たる双頭の鷲の宝飾が燦然と輝き、背後には抜剣こそ禁じられているものの、隙のない体幹を誇る帝国の近衛近習が二人、影のように控えている。
「て、帝国の……イリス皇女殿下……!?」
「なぜ他国の皇族が、このような夜会の中央へ……!?」
先ほどまで我先にと押し寄せていた貴族たちが、息を呑んで一斉に後ずさった。
同盟国とはいえ、大陸屈指の軍事・経済大国であるヴァレンティノ帝国の直系皇女。王国の筆頭公爵家ですら軽々しい口答えは許されない、絶対的な上位存在の降臨だった。
「イリス様……?」
レンが思わず目を瞬かせると、イリスは先ほどまでの威厳ある皇女の表情から一転、花が咲いたような眩しい笑顔を浮かべてレンへと駆け寄ってきた。
「レン様! 約束通り、会いに来たわ!」
ぎゅっとレンの両手を迷いなく取り、至近距離から紫水晶のような瞳を爛々と輝かせる。
数日前まで全身を苛んでいた頑固な湿疹や赤みは跡形もなく消え去り、その素肌は陶器のように白く滑らかに光を弾いていた。
「……っ!?」
周囲の令嬢たちが息を呑む。
セリアだけでなく、あの帝国の皇女までがレンの薬によって救われ、手籠め……もとい心服しているという事実が、目の前に突きつけられたのだ。
「イリス様、お肌の調子はよろしいようですね。ですが、ここは夜会の席ですし、皆様との商談の最中でして……」
レンが少し困ったように苦笑いを浮かべると、イリスは「ふふん」と誇らしげに胸を張った。
「その商談の話よ! 王国の領地がどうとか、金貨数十枚程度のケチくさいお話なんて、ぜーんぶ後回しにしてちょうだい!」
イリスは背後の従者へ指をパチンと鳴らし、豪奢な革張りのバインダーを受け取ると、レンの胸元へと突き出した。
「我がヴァレンティノ帝国全土における、レン様の薬房の『国家特許独占ライセンス契約』を結びましょ!」
「こ、国家特許……!?」
レンが目を丸くし、周囲の貴族たちから悲鳴のようなざわめきが上がった。
「帝国の帝都をはじめとする主要十都市の一等地に、すべて国費でレン様専用の巨大薬房と研究所を建設します! 建設費も人員の手配も、帝国の国庫から無制限で拠出させるわ! レン様には、帝国全土での売上に対する莫大なロイヤリティと……ふふっ、私の『帝国宮廷特別顧問薬師』の地位を差し上げます!」
一地方のフランチャイズどころではない。
国家予算を丸ごと投入した、大陸規模のメガフランチャイズ展開。
桁が二つも三つも違う破格すぎる提案に、大広間にいた貴族や商人たちは完全に言葉を失い、顎が外れんばかりに固まっていた。
「さあ、レン様! この契約書にサインして、私と一緒に帝国へ行きましょう? 帝国のすべての富と、そして……私の全力の愛で、レン様を一生大切にしてあげるわ!」
皇女みずからの公開プロポーズを兼ねた国家契約。
イリスが上目遣いに熱烈な視線を注ぎ、レンの手を引こうとした――その瞬間。
「――お戯れが過ぎますわ、イリス皇女殿下」
絶対零度の冷気が、大広間の床を這うように広がった。
カツン、と鋭いヒールの音と共に割り込んできたのは、氷の笑みを浮かべたエレオノーラだった。
公爵家の威光を背負い、皇女の前に立ちはだかると、扇子をパチンと鳴らして射抜くような視線を向ける。
「レンは我が王国の……いいえ、このベルフォール公爵家の至宝ですわ。他国の皇女殿下が、いくら金を積もうと国外へ連れ去ることなど、断じてこのわたくしが許可いたしませんことよ」
「あら、エレオノーラ様? レン様はもう公爵家の籍を抜けて、ご自身の意志で自由にお店を営まれていると伺いましたけれど? 邪魔立てなさる権利がおありかしら?」
「ふふ、権利ならいくらでも作れますわ。レンの薬の原料供給および流通は、我が公爵家が完全に独占管理しておりますもの。帝国の力をもってしても、我が家の許可なく一滴の原薬も国外へは持ち出させませんわ」
バチバチと視線が交錯し、火花どころか雷撃が散りそうな美姫二人の睨み合い。
その背後では、エドワードが「おいおい、帝国の皇女と全面衝突する気かあいつは……」と額を押さえて胃薬を探し始め、カトレアは「帝国へのライセンス供与における安全保障上の懸念事項」を手帳に猛スピードで書き殴っていた。
(……やれやれ。商談どころか、今度は国際問題の火薬庫に火が点きそうだな)
レンは内心で冷や汗を流しながらも、手元の商談メモをしっかりと握り直し、この国家規模の熱狂をどう手玉に取るか、ドラッグストア店長の怜悧な頭脳をフル回転させるのだった。
「イリス皇女様、もし帝国への移住が大前提であり、お断りした場合、どうなりますか?」
レンがそう切り出した瞬間、大広間の空気がピシリと凍りついた。
周囲の貴族たちは「帝国の皇女に面と向かって断る前提の話をするなんて……!」と息を呑み、エドワードは腰の剣帯にそっと手を添え、エレオノーラは冷徹な眼光で扇子を握り直す。
しかし――当のイリスは怒るどころか、優雅に紫水晶の瞳を細めてみせた。
「どうなるかって? うーん、そうね……」
イリスは扇子を軽く胸元に当て、静かに微笑んだ。
「政治的な嫌がらせをしたり、帝国軍を動かして脅したり……なんて無粋なことはいたしませんわ。私、そういう野蛮で下品なやり方は好みませんもの」
ほっと胸をなでおろしかけた王国貴族たち。
だが、レンは引き攣ることもなく、前世の店舗運営者としての冷静な視線で言葉を返した。
「恐れ入ります。ですが、大帝国での性急な展開となれば、私ひとりの工房では到底まかないきれない供給過多と、厳格な品質管理の破綻を招きます。今の規模のまま海を渡れば、間違いなく製品の質が落ち、ブランドの信用を損ねてしまいますから。まずはこの王国内で足元を固め、安定した供給体制と品質基準を確立するのが先決です」
レンが穏やかに、しかし筋の通ったビジネスの論理を告げると、大広間に静けさが戻った。
「……なるほど。管理リスクと品質保証、ですか。非常に合理的で、ぐうの音も出ない正論ですわね」
イリスはふっと優雅に微笑み、視線を細めた。声を荒らげることもなく、その立ち振る舞いは完璧な大国の皇女そのものだったが、纏う空気の密度が一段階引き締まる。
「分かりましたわ。手に入らない人材に無理を通すのは、帝国の流儀ではありませんもの。移住のお話は一度白紙に戻しましょう」
大広間の空気がわずかに緩みかけたが、イリスは優雅に扇を広げ、そのまま静かに言葉を継いだ。
「ですが、レン様。帝国としても、これほど有用なお薬の存在を知りながら手ぶらで引き下がるわけにはまいりませんの。我が国の国益と、私自身の面目のためにも」
イリスは扇越しに、理知的な視線をレンへと向ける。
「移住を辞退なさる代わりに、その『フランチャイズ』――帝国全土における第一期エリアの優先交渉権を、我が皇室に確約していただけませんこと? 王国内での供給体制が整い次第、最優先で帝国へラインを繋いでいただく。これならば、レン様の仰る品質管理の筋も通りますし、我が国も納得いたしますわ」
笑顔を絶やさず、しかし確実に国家としての利権を確保しにくるイリス。
レンは背筋を伸ばし、一分の隙もない営業用の礼を返した。
「恐れ入ります、イリス皇女殿下。我がノア薬房としても、帝国皇室という最高峰のパートナーとの提携は願ってもない名誉です。王国内での実績が固まり次第、最優先で正規の契約交渉に入らせていただきます」
「ええ、期待しておりますわ。……ただし、契約の際は我が国の基準に合わせた厳しい審査をさせていただきますから、覚悟しておいてくださいね?」
そう言って試すように微笑むイリスに対し、レンは前世で叩き込まれた店舗運営者のプライドを宿した、極上のビジネススマイルで切り返した。
「ええ、望むところです。――ただし同時に、帝国側が我がノア薬房の厳格な品質基準と運用マニュアルを満たしていただけるかどうかも、本部として厳しく審査させていただきますが」
「……ふふっ。大帝国を相手に『審査してあげる』とは、随分と大きく出ましたわね」
「相手がどなたであれ、マニュアルと品質基準を妥協した瞬間に看板は死にますので」
一歩も引かず、対等なビジネスパートナーとして主導権を握り返すレンの眼差しに、イリスは驚き、やがて値踏みするような愉悦の笑みを浮かべて小さく頷いた。
「いい度胸ですわ、店長様。……その自信に見合うものか、楽しみに待たせていただきます」
イリスが優雅な仕草で一歩下がり、レンに道を譲ると、夜会場の貴族たちは息を呑んで立ち尽くしていた。他国の皇女の政治的圧力をいなし、完全に自らの土俵へと引き込んだレンの規格外な手腕に、会場全体が静まり返る。
(……な、なんですの、あの落ち着きは……! 帝国の皇女を相手に、一歩も怯まず手玉に取るなんて……!)
エレオノーラは扇子の陰でプルプルと唇を震わせ、レンが自分の手の届かない領域へ駆け上がっていくような焦燥感と興奮に胸を締め付けられていた。
「さて、皆様」
レンは手元の羊皮紙を軽く掲げ、取り囲む貴族や大商人たちへ向けて、淀みない声を通わせた。
「お待たせいたしました。それでは、王国内の各都市における『ノア薬房・第一期加盟店』の具体的な募集要項と条件について、ご説明させていただきます」
帝国外圧の危機を最高のプレゼンに変え、王国全土を巻き込むフランチャイズ商談会が、今度こそ本格的な幕を開けたのだった。
◇
「お待たせいたしました。それでは、王国内の各都市における『ノア薬房・第一期加盟店』の具体的な募集要項についてご説明いたします」
レンが羊皮紙を広げると、夜会場を取り囲む貴族や豪商たちが一斉に身を乗り出した。先ほど帝国の皇女を相手に主導権を握りきった少年の言葉に、もはや疑念を差し挟む者など一人もいない。
「まず、皆様が最も懸念されているであろう『秘伝の調合技術』についてです」
レンは胸元から、手のひらサイズの小さな革袋を取り出し、卓上に置いた。
「我がノア薬房の特効薬――その製造レシピを他家に開示することは一切ありません」
「なっ……!?」
「それではどうやって各領地で薬を作るというのだ!」
ざわめく貴族たちを手で制し、レンは涼しい顔で微笑んだ。
「ご安心ください。皆様にお渡しするのは、この『特製濃縮ベース粉末』です」
レンは小袋を指先でトントンと叩く。
「薬効の中核をなす抽出・調合はすべて我が本部工房で完結させ、極限まで濃縮・乾燥させた粉末として密閉出荷いたします。加盟店の皆様が現場で行う作業は極めてシンプル――『現地の指定蒸留水、または軟膏基剤に、規定の分量で溶き混ぜて瓶詰めする』。これだけです」
「……な、なんだと?」
最前列で聞いていた中堅領主が目を見張った。
「液体のまま輸送すれば馬車何十台分もの重量になり、日持ちもせず、輸送中の変質リスクを抱えます。ですがこの粉末化により、体積と輸送コストは十分の一以下、保管期限は三倍以上に跳ね上がります。専門の調合師を雇う必要もありません。我が本部が発行する『希釈マニュアル』通りに作業員を動かせば、どこの領地でも下町の本店と寸分違わぬ最高品質の薬が完成します」
理路整然とした物流と品質管理のロジックに、会場の商人貴族たちが息を呑む。
(門外不出の秘伝を守ったまま、現場の手間とコストを削ぎ落とし、品質の均一化を図る……! なんという合理的な仕組みだ!)
「そして、この超高濃度の粉末を各領地へ安全かつ迅速に送り届ける大動脈として――」
レンは優雅に振り返り、扇子を握りしめていたエレオノーラへ向けて恭しく一礼した。
「ベルフォール公爵家が誇る王国屈指の特急輸送網、ならびにアシュフォード侯爵家の厳重な街道警備網を、本部の指定物流ルートとして独占契約させていただく予定です」
「……っ!」
エレオノーラが扇子の陰でハッと息を呑み、頬を紅潮させた。
(レン……! 他国や他家に靡くどころか、最初から我が公爵家の物流を『生命線』として組み込んでいたのね……!)
自分たちを蚊帳の外に置くどころか、ビジネスの最重要インフラとして頼られている。エレオノーラは優越感と歓喜に胸を震わせ、勝ち誇ったように胸を張った。
レンは再び群衆へと向き直り、極上のビジネススマイルで条件を突きつける。
「第一期の加盟条件は以下の三点です。
一、初期加盟金およびエリア独占権料の一括納入。
二、本部指定の『濃縮粉末』の定期発注、ならびに売上に応じた一定比率のロイヤリティ支払い。
三、本部査察官による定期的な衛生・品質監査の受け入れ――もし希釈比率をごまかすなどマニュアル違反が発覚した場合は、即座に粉末の供給を停止し、違約金を申し受けます」
「ぐっ……」
貴族たちの間に唸り声が漏れた。
甘い汁だけを吸おうとする手抜きや横暴を一切許さない、鉄壁の契約縛り。
しかし、その条件を飲んで『粉末』さえ手に入れれば、領内の医療・軍事レベルは跳ね上がり、莫大な利益が約束されるのだ。
「募集枠は、各都市一領主につき一店舗のみ。早い者勝ちではありません。資金力、領内の治安、そしてマニュアルを遵守できる管理体制を備えた家から、本部が厳正に選考いたします」
レンがそう締めくくった瞬間、貴族たちの目の色が変わった。
「ノア殿! 我が領地の商業都市なら、今すぐ第一級の店舗用地を用意できる!」
「加盟金は言い値で払おう! まずは我が家と仮契約を……!」
殺到する貴族たちの熱狂を背に受けながら、レンは満足そうに手元の羊皮紙を整えた。
前世のフランチャイズモデルをこの異世界に叩き込む、最初の一手が完璧に決まった瞬間だった。
夜会の喧騒が少し落ち着いた合間、レンはエレオノーラのもとへと歩み寄り、悪戯っぽく微笑んでみせた。
「姉上、すみません勝手にあのようなことを言って。……あ、元でしたね。ふふ」
その軽口を聞いた瞬間、エレオノーラはピキリと美貌を硬直させ、持っていた扇子をバチンと音を立てて閉じた。
「……誰が『元』ですの、レン?」
冷気すら漂うような超低音のウィスパーボイス。
紫の瞳を据わらせ、じりじりと距離を詰めてくるエレオノーラの気迫に、周囲の貴族たちがサッと潮が引くように後退していく。
「籍の上でどう処理されていようと、わたくしが貴方の『唯一の姉』である事実は、過去・現在・未来永劫、神に誓って変わりませんわ。それとも何かしかしら? あの他国の泥棒猫の甘言に当てられて、育ての姉を捨てる気になられたとでも?」
「いえ、滅相もありません。ビジネスの最重要インフラとして、公爵家の流通網を世界一頼りにしておりますよ」
レンが営業用の完璧な笑顔でサラリとかわすと、エレオノーラは「むぅ……」と喉を鳴らした。
(頼りにしている……世界一……! わたくしを……!)
内心の歓喜で頬が緩みそうになるのを必死に扇子で隠し、エレオノーラはツンと顎をそらしてみせる。
「……ふん。分かればよろしいのです。公爵家の輸送網をタダ同然で使わせてあげますから、精々わたくしのためにしっかり稼ぎなさいな。ただし――」
エレオノーラはスッと目を細め、レンの耳元へ顔を近づけて低く囁いた。
「あの帝国女に卸す粉末には、下剤でも混ぜておきなさい。……これは公爵令嬢としての『業務命令』ですわ」
「品質基準違反で即刻フランチャイズ契約解除になりますので、丁重にお断りします」
レンの平然とした即答に、エレオノーラは「ちっ」と淑女にあるまじき舌打ちを漏らすのだった。
「兄上、何ぼさっとしているんです。嫁候補選びたい放題ですよ」
レンがニヤリとからかうように声をかけると、エドワードはギョッとして太い眉を跳ね上げた。
「ば、バカを言え! お前が帝国の皇女を手玉に取り、王国の名だたる領主たちを狂乱させた直後に、色恋の話などできるか!」
「何を仰っているんですか。我が薬房の独占物流を握るベルフォール公爵家の次期当主ともなれば、夜会場中の令嬢やその親御さんたちから見れば、今もっとも価値の高い超優良物件ですよ。ほら、あちらからも熱い視線が注がれています」
「う、うぐ……っ」
レンが指差した先には、確かにエドワードを値踏みしつつ好機を窺う貴族令嬢たちの群れがあった。武骨な剣士であるエドワードは、戦場よりも居心地が悪そうに首筋を掻く。
そのすぐ背後――。
(……なんですって?)
エレオノーラが扇子で口元を隠したまま、地獄耳を研ぎ澄まして二人の会話に全神経を集中させていた。
(お兄様の嫁選び……? 待ちなさい、お兄様がどこかの有力貴族の令嬢と早々に結婚して公爵家の跡継ぎと政略上の責務をすべて背負ってくだされば……わたくしは政略結婚の縛りから完全に解放されて、レンを堂々とわたくしの『婿』として公爵家に迎え入れられるということですわね……!?)
公爵家の権力と財力でレンを囲い込み、一生逃げられないようにする――その完璧な外堀埋めのルートが見えた瞬間、エレオノーラの紫の瞳がギラリと怪しい歓喜に輝いた。
扇子の陰で恐ろしい勢いで計算を弾き終えたエレオノーラは、スッと二人の背後へ音もなく詰め寄り、獲物を狙う鷹のような眼光で言い放った。
「その通りですわ、お兄様! 何を躊躇っていらっしゃいますの! レンが選り取り見取りと言っているのですから、今夜中に令嬢のどなたかと婚約を成立させなさい! 不足ならわたくしが後ろから蹴り飛ばして令嬢の前に突き出して差し上げますわ!」
「うわっ!? え、エレオノーラ!?」
突然背後から物騒極まりない圧力をかけられ、エドワードが情けない声を上げて飛び退く。
「け、蹴るな! なんだその無理やりな縁談の勧め方は! そもそもなぜお前がそこまで必死になるんだ!」
「決まっているでしょう! お兄様がさっさと正妻を迎えて跡継ぎの義務を果たしてくだされば、わたくしは他家へ嫁ぐ必要が完全になくなり、レンを公爵家の婿にもらえるからですわ!」
「お前、自分の欲望のために実の兄を売る気か……!?」
一切の羞恥もためらいもなく自らの野望をぶちまけるエレオノーラに、エドワードは引き攣った顔で頭を抱えた。
レンは、熱い視線を真っ直ぐ向けてくる義姉の圧倒的な美貌から、すっと視線を逸らす。
正直に言って、エレオノーラの容姿も、自分へ向けてくる一途すぎる熱量も、男としてはど真ん中のストライクだ。下手に気を緩めれば一瞬で絆されてしまいそうな破壊力がある。
(……顔もスタイルも完璧で、こんなこと言われて揺らがない男がいるわけないだろ。だが、ここで折れたら一生この人の手のひらで飼い殺される……!)
前世の社畜時代に培った鋼の自制心を総動員し、レンはわざとらしく小首を傾げてみせた。
「姉上、公爵家の権力を私利私欲のために使うのはやめてください。……それに、確かに姉上はめちゃくちゃタイプではありますけど、僕たちって兄弟ですよね? たしか……あれ? 籍を抜けたから他人でしたっけ? まぁ、どっちにしても婿入りの話は却下ですが」
「なっ……! ま、ま待ちなさいレン、今さらりと物凄い破壊力の告白を挟みませんでしたこと!?」
「タイプ」と明言されたエレオノーラは一瞬で顔を林檎のように真っ赤に染め上げ、扇子を取り落としそうになりながら狼狽える。
「エ、エドワード! 今の聞いた!? レンがわたくしをタイプだと……! さあ早く結婚なさいエドワード! 姉の言うことを聞いて今すぐ! 一秒でも早くですわ!!」
「おいおいおい! 人の話を都合のいい部分だけ抽出して弟に無茶振りするな!! くそっ、胃薬……胃薬はどこだ……!」
エドワードが悲鳴を上げて懐の胃薬をまさぐった、その瞬間だった。
完全に沸騰したエレオノーラの思考回路は、もはや「弟の結婚相手を選ぶ」というプロセスすら省略しにかかる。
「ええい、ぐずぐずと選んでいる暇などありませんわ! ちょうどそこにいる貴女、ちょっといらっしゃい!」
「ひゃっ!?」
エレオノーラは扇子を握り直すや否や、遠巻きに様子を伺っていた令嬢たちの群れへ電光石火の勢いで踏み込み、最前列にいた小柄な令嬢の手首をガシッと掴み取った。
そのまま一切の躊躇なく、引きずられるように連れてこられた哀れな令嬢をエドワードの目の前へ突き出す。
「ほら! この娘と結婚なさい!!」
「「「はあぁぁぁぁっ!?」」」
大広間にエドワードの絶叫、令嬢の悲鳴、そしてレンの素っ頓狂な声が同時に木霊した。
「な、何を血迷っているんだ姉さん!! 無作為に引っ張ってきた初対面の令嬢を差し出して『結婚しろ』なんて奴があるか!!」
「細かいことは後ですわ! 顔立ちも良し、育ちも良さそう、何より今ここにいる! 条件は揃っていますわ! さあ、今すぐここで愛を誓って婚約の儀を交わしなさい!」
「無茶苦茶言うな! 相手の家柄も名前も知らんわ!!」
エドワードが引き攣った顔で後退り、掴まれた令嬢は突然の公爵令嬢からの超展開と、目の前にそびえ立つ屈強な近衛騎士団長の威圧感に目を白黒させ、今にも泡を吹いて倒れそうだ。
「あ、あの……わ、私、ハイネル男爵家の……その……っ」
「ほら名乗ってくださったわ! 男爵家なら何の問題もありませんわね、さあエドワード、男らしく受け入れなさい!」
「受け入れられるかァッ! 男爵令嬢殿が気絶しかけてるだろうが!!」
エドワードが必死に胃を押さえながら叫ぶ横で、レンはこめかみを押さえて深々と天を仰いだ。
「……姉上。無理やり拉致して婚姻を迫るのは、公爵家の権力濫用どころか完全に王国の刑法違反です。令嬢の手を放してあげてください」
「レンに婿入りしてもらうためなら、わたくしは法すら超越してみせますわ!!」
紫の瞳を爛々と輝かせて堂々と無法宣言を叩きつける姉と、必死に令嬢を救出しようと取り乱す筋肉騎士団長の兄。
大公爵家の跡継ぎたちが繰り広げる前代未聞の修羅場に、夜会場の貴族たちは恐怖と混乱で完全に静まり返るのだった。




