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電脳鑑定の調合師  作者: 藤咲玲


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5話:開店準備と姉の謀略

 結局、二人の必死の懇願に押され、今夜だけは公爵家の本邸で過ごすことになった。


「今夜だけでいい、レン! 呪いが消えたとはいえ、急激な体調の変化があるかもしれん。一晩だけ様子を見せてくれ。頼む!」

「そうですわレン! 明日の朝、何事もなければ無理に引き留めたりしませんから……! ね? だから姉上と呼んでくださるわね!?」


 あの歴戦の騎士団長と社交界の女王が、揃って拝むように頭を下げてきたのだ。これ以上突っぱねて本当にへそを曲げられても困るので、今夜の宿泊だけは妥協することにした。


 そして、豪奢なシャンデリアが照らす本館の大会食場。

 ずらりと豪勢な料理が並ぶ円卓で、父の公爵は急な政務で不在だったが、エドワード、エレオノーラ、そして俺の三人が席についていた。


 食事が中盤に差し掛かり、静寂を破るように俺は口を開いた。


「……実は、姉上に告白しなければならないことがあります」


 ピクリ、と。

 ワイングラスを傾けようとしていたエレオノーラの肩が、目に見えて跳ね上がった。


「こ……告白……?」


 エレオノーラの手が止まり、グラスの中の紅い液体がかすかに波打つ。

 その陶器のような白い頬が、みるみるうちに朱に染まっていった。


「こ、告白ですって……? そ、そんな、レン……わたくしたちは血の繋がった姉弟ですのよ? いくらレンの命が助かって、わたくしもレンを愛しているとはいえ……そ、そのような、男女の……いいえ、でもレンのまっすぐな想いを無下にするなんて……っ!」


 両手を胸の前で合わせ、激しく視線を泳がせながら早口でブツブツと呟き始める。

 思考がとんでもない方向へ全力疾走しているのが丸わかりだった。


(……いや、完全に勘違いしてるな、この人)


 隣ではエドワードが「なっ……!? レン、貴様いつの間にそんな不埒な……いや、しかしレンの純情を否定するのも……」と頭を抱えて激しく葛藤し始めている。


「違います。ものすごい勘違いをしないでください」


 俺が冷たく遮ると、エレオノーラは「えっ……?」と息を呑み、赤くなった顔のまま固まった。隣で頭を抱えていたエドワードも、間の抜けた顔でこちらを見ている。


 俺は咳払いをひとつ挟み、真剣な表情を作って二人に向き直った。


「実は、意識が戻ったあたりからの記憶が、どうにもあいまいなのです。……なにか頭の中に靄がかかっている、と表現するのが正しいでしょうか」


「記憶が……?」


 エドワードの眉がピクリと跳ね上がり、騎士の鋭い目つきに戻る。エレオノーラも赤ら顔から一転、心配そうに身を乗り出してきた。


「はい。ですから、兄上と姉上の記憶はもちろんあるのですが……いまいちピンとこないというか、たまに本当に兄弟だったか危うくなることすらあります」


 転生や前世の記憶、神との取引といった荒唐無稽な事実を隠しつつ、これまでの言動の違和感や、知識・価値観のズレをごまかすための布石だ。


 だが、その言葉を聞いた二人の反応は、俺の予想を遥かに超えていた。


「き、兄弟の記憶がピンとこない……!? わたくしたちが、レンの中で薄れているというの……!?」


 エレオノーラがこの世の終わりのような顔で両手で口元を押さえ、みるみる目に涙を溜め始める。


「馬鹿な……呪いは消え去ったはずだが、魂や記憶の領域に負荷がかかっていたというのか……!? クローデルを……いや、王宮の筆頭精神魔導士を今すぐ呼ぶべきか……!」


 エドワードまでもが椅子から立ち上がりかけ、深刻そうに顎に手を当てて唸り始めた。


(……いや、そこまで重篤に受け止められても困るんだが)


 思わぬ過剰反応に内心で冷や汗を流しながら、俺は慌てて取り成す言葉を探した。


「ち、違います姉上! そこまで深刻な話ではありません!」


 二人のあまりの取り乱しように、俺はさすがに言い過ぎたと焦って取り繕おうとした。


「あのですね……記憶が消えたというよりは、姉上のあまりの美しさや距離の近さに、頭の中の靄のせいで『姉だったか、恋人だったか』とたまに分からなくなることがある、というくらいの意味ですよ」


 冗談めかして場を和ませるつもりだった。

 十六歳の少年らしい軽口のつもりで放ったその言葉は――しかし、火に油を注ぐどころか、高濃度アルコールをぶち撒ける結果となった。


「………………は?」


 エレオノーラが息を呑んだまま、完全に石化した。

 陶器のような白い肌が、耳の先どころか首筋まで一瞬で真紅に染まり上がる。


「こ、こい……恋人……!? れ、レンがわたくしを……姉ではなく、女として……!? あ、頭の靄のせいとはいえ、レンの無意識がわたくしをそんな風に見ていたなんて……っ!」


 両手で真っ赤になった顔を覆い、指の隙間から潤んだ瞳でこちらをチラチラと盗み見ている。完全に許容量をオーバーして暴走モードに突入していた。


「なっ……! き、貴様レンッ! 実の姉をつかまえて何を言い出すかと思えば……!!」


 隣のエドワードがガタッと音を立てて立ち上がった。

 顔を真っ赤にして怒鳴り散らそうとするものの、弟への過保護さと、当のエレオノーラが満更でもなさそうに身悶えしている異様な光景に挟まれ、歴戦の騎士団長が完全に狼狽している。


「待って、エドワード! レンを怒鳴らないでちょうだい! レンは悪くないわ、すべてはあの忌々しい呪いの後遺症……いいえ、私の美貌のせいかしら……やだっ」


 エレオノーラは両手で真っ赤になった頬を包み込み、身をよじらせて羞恥に悶えた。

 社交界で数多の貴族たちを冷淡にあしらってきた「氷の令嬢」の面影は、もはや微塵も残っていない。ただの恋する乙女のような錯乱ぶりだった。


「やだっ、ではないだろうエレオノーラ! どこをどう解釈したらそうなるんだ!?」


 エドワードがこめかみに青筋を浮かべて叫ぶ。

 普段は冷静沈着な近衛騎士団長が、完全に振り回されて額を手で覆っていた。


「レン、お前もだ! いくら頭に靄がかかっているとはいえ、姉をつかまえて恋人などと……! だいたい、仮に姉弟でなかったとしても、身分や立場というものが……いや、そうではなくてだな!」


「エドワード、レンを責めるのはお門違いよ。わたくしがこんなにも魅惑的なのがいけないの……ああっ、罪深い姉を許して、レン……!」


「話を聞けエレオノーラ! まるで噛み合っていないぞ!」


 円卓を挟んで繰り広げられる、美男美女によるあまりにも不毛な押し問答。

 給仕のために部屋の隅に控えていたセバスチャンまでもが、静かに天を仰ぎ、見なかったことにするように視線を宙へ逸らしていた。


(……やれやれ。場を和ませるつもりが、完全に燃料を投下してしまったな)


 これ以上この話題を引っ張ると、本当に取り返しのつかない既成事実じみた妄想を固められかねない。

 俺は咳払いをひとつ挟み、できる限り真面目な声を作って割って入った。


「……あ、あの、二人とも落ち着いてください。とにかく、俺の言いたかったのはですね」


 俺の声に、二人がビクリと反応して静止する。

 エレオノーラは期待に満ちた潤んだ瞳で、エドワードはこれ以上爆弾を落とすなと祈るような顔でこちらを見つめていた。


「記憶が少し曖昧な部分があるからこそ、俺は自分の力で生活基盤を作りたいんです。本邸で何もかも与えられて守られるより、下町の薬房で実際に手を動かし、商売や薬草の調合をしながら、失われた実感を取り戻していきたいんです」


 失言のフォローをしつつ、当初の目的である「下町での自立生活の許可」へと強引に話を軌道修正した。


「それに、もし本邸にいて記憶の混乱から姉上に妙な態度を取ってしまったら、それこそ公爵家のスキャンダルになりかねませんからね」


「なっ……!?」


 エレオノーラが息を呑み、エドワードが苦虫を噛み潰したような顔で唸る。


(……いや、さすがに冗談がきつすぎたか……?)


 静まり返った大会食場の空気を感じながら、俺は背中にじわりと冷や汗が流れるのを覚えた。


 本邸から抜け出して自由な隠れ家を確保したい一心だったとはいえ、真面目で弟想いな二人を相手に、少々からかいの度が過ぎたかもしれない。いくら記憶の混濁をごまかすための芝居とはいえ、年頃の姉と、家門の体面を背負う兄をここまで本気で狼狽させてしまったのは、大人の立ち回りとして軽率だったと反省する。


 エレオノーラは顔を真っ赤にしたまま、指先をドレスの胸元でぎゅっと握りしめて固まっているし、エドワードに至っては、護衛の騎士たちには絶対に見せられないような複雑怪奇な表情で頭を抱えていた。


「……レン」


 やがて、エドワードが深く、重い溜め息とともに顔を上げた。

 その眉間には深くシワが刻まれているものの、先ほどまでの激昂は収まり、どうにか理性を取り戻したようだった。


「お前の言いたいことは……分かった。記憶の混濁がある中で、無理に本邸の堅苦しい環境に縛り付けるのが、必ずしも治療や療養にとって最善とは限らん、ということだな」


「え、ええ……まあ、概ねそのような意味です」


 こちらの意図を都合よく綺麗に解釈してくれた兄に、俺は少し気まずさを覚えながら小さく頷いた。


「ただしだ」


 エドワードが姿勢を正し、鋭い眼光でこちらを射抜く。近衛騎士団長としての厳格な威厳が戻っていた。


「下町での生活を認めるとしても、無条件というわけにはいかん。いくつか、絶対に守ってもらう条件がある」


「……こちらが指定する付き人をつけさせてもらおう」


 エドワードが腕を組み、有無を言わせぬ口調で告げた。


「どのような方でしょうか?」


 俺が尋ねると、エドワードは真剣な眼差しで答える。


「近衛騎士団から腕利きの者を一名、護衛兼身の回りの世話役として配属する。お前の呪いが消えたとはいえ、公爵家の血筋が下町で無防備に暮らすなど認められんからな」


「付き人でしたら、すでにリリアが付き人として同居してくれていますが」


 何の気なしにそう口にした瞬間――。


 ビクリ、と。

 向かいの席に座っていたエレオノーラの肩が、目に見えて跳ね上がった。


「…………同居?」


 エレオノーラの声の温度が、一瞬で氷点下まで急降下した。

 先ほどまでの羞恥に染まった紅潮は潮が引くように消え失せ、社交界を震え上がらせる「氷の令嬢」の冷徹な眼差しが据えられる。


「レン、今……同居、とおっしゃいましたの?」


「え、ええ。店の管理や身の回りの世話をしてくれていますし、二階の居住スペースで……」


「男女が一つ屋根の下で暮らしているということですのね……!?」


 エレオノーラがカトラリーをコトリと置き、身を乗り出した。その瞳の奥には、凄まじい執念の炎が静かに揺らめいている。


「あの娘……リリアと言いましたわね。レン付きの侍女とはいえ、成人の日を迎えたばかりの我が弟と密室で二人きり……! わたくしに隠れて、いったいどこまでレンの純潔を……いいえ、そんな不埒な真似、このエレオノーラが許すはずがありませんわ!」


「お、おいエレオノーラ、落ち着け! リリアは真面目な娘だ、滅多なことはあるまい!」


「黙っていらしてエドワード! これが落ち着いていられますこと!? 記憶に靄がかかってお姉様と恋人の区別がつかなくなっている無垢なレンに、もしあの侍女がよからぬ手練手管を使って迫っていたらどうするのです!」


(……またしてもとんでもない地雷を踏んでしまったか……?)


 今度はリリアへの過剰な嫉妬と警戒心が大爆発し、収拾がつかなくなっていた。


「わかりました、わかりました! リリアには通いに変えてもらいますから、どうか落ち着いてください……!」


 これ以上エレオノーラを刺激して下町の店自体を差し押さえられてはたまらない。俺は両手を挙げて降伏の意を示し、慌てて条件を飲んだ。


 俺の即答を聞いて、エレオノーラはふうと胸を撫で下ろし、ようやく満足げに背もたれへ身体を預けた。


「よろしい。分別があってこその可愛いレンですわ。……で、エドワード。あなたの話の続きですけれど?」


「あ、ああ……」


「で、兄上。その護衛の騎士兼世話役というのは、どのような方なんです?」


 俺が話の矛先をエドワードへ戻すと――その瞬間、兄の額から冷たい汗がどっと噴き出した。


 歴戦の近衛騎士団長が、なぜか居心地悪そうに視線を泳がせ、喉を小さく鳴らす。


「あ、いや……そのだな。護衛だけでなく身の回りの世話役も兼任させるとなると、やはり……じょ、女性の騎士がいいかな、と……」


「…………は?」


 エレオノーラが即座に反応した。

 先ほどリリアの件で収まりかけた氷点下の冷気が、何倍にも膨れ上がってエドワードへと向けられる。


「エドワード? 今、なんと仰いましたの? わたくしの聞き間違いかしら。『女性』の騎士……?」


「ま、待てエレオノーラ! 誤解するな! 男所帯の下町店舗に屈強な男の騎士を常駐させたら目立って商売の邪魔になるだろう!? それに、料理や掃除などの家事全般の補佐も任せるなら、手先の器用な女性騎士の方が適任だと判断しただけで……っ!」


「侍女の同居すら許されない状況で、よりによって武器を扱える血気盛んな女騎士をレンの懐に潜り込ませようなどと……! 貴方、まさか近衛の部下にレンをあてがおうという魂胆ではありませんでしょうね!?」


「なっ……! 滅相もない! 私はただ、レンの安全と生活環境を両立させようとだな……!」


 今度はエドワードがエレオノーラの苛烈な追及に晒され、必死にしどろもどろな弁明を始めていた。


(……やれやれ。うちの兄姉は、揃いも揃って何を考えているんだか)


 冷や汗を流しながらタジタジになる近衛騎士団長と、目を光らせて尋問する社交界の女王。

 豪勢なディナーの席は、もはや完全にベルフォール家の内紛裁判と化していた。


(……仕方ない、ここは兄上に助け舟を出すしかないか)


 このまま放置すれば、二人の言い争いで夜が明けてしまいそうだ。俺はわざとらしく困ったように肩をすくめ、エレオノーラに向き直った。


「姉上。これは俺の命がかかった人選ですよ? そんなに女性騎士が嫌なら、リリアに守ってもらうしかありませんね。ただ、彼女は武術の気配すら悟れない素人ですから……何かあったらすぐ気付けるように、同じ部屋の同じベッドで添い寝でもして警戒してもらわないといけませんが」


「なっ……添い寝っ!? だ、駄目に決まっておりますでしょう!!」


 エレオノーラが悲鳴のような声を上げて身を乗り出した。顔を真っ赤に染めながら、鬼気迫る形相で両手を激しく横に振る。


「だ、大体リリアのような華奢な娘が、屈強な暴漢からレンを守れるはずがありませんわ! レンを危険に晒すくらいなら……ぐぬぬ……百歩譲って、近衛の女騎士を認めます……!」


 見事に術中にハマってくれた。

 完全にトドメを刺されたエレオノーラは、悔しそうにハンカチの端を噛み締めて席に沈み込んだ。


「ふぅ……す、すまないレン、助かった……」


 エドワードが胸を撫で下ろし、こっそりと俺に感謝の視線を送ってくる。歴戦の騎士団長が、実の姉の剣幕にここまで追い詰められる姿はなかなかに新鮮だった。


「で、兄上。その推薦したい女性騎士というのは、一体どのような方なんですか?」


 俺が改めて問いかけると、エドワードは居住まいを正し、ようやく騎士団長らしい引き締まった表情を取り戻した。


「……推薦したいのは、近衛騎士団のカトレア・アッシュフォードだ」


 エドワードが告げた名前に、俺は聞き覚えのない響きを感じて首を傾げた。


「カトレア……さんですか?」


「ああ。名門アシュフォード侯爵家の令嬢でありながら、武芸の道を志して私の直属の副隊長を務めている。剣の腕はもちろん、魔力感知や気配察知の能力は近衛でも指折りの実力者だ。暴漢や刺客程度なら一人で片付けられる」


「ふむ……武術の腕は確かなようですね。ですが、侯爵令嬢ともあろう高貴な方が、下町の店番や世話役など引き受けてくれるのですか?」


「それがあいつは変わっていてな。武門の侯爵家で育ち、遠征や野営にばかり明け暮れてきた男勝りだ。生活魔法の扱いにも長けていて、料理や掃除、大工仕事といった家事全般を完璧にこなす。それに……性格が非常に明るく、人懐こい。堅苦しい身分や儀礼を嫌い、現場の空気をからっと明るくするような気さくな娘だ。お前の下町の店に置いても、余計な貴族風を吹かせることなく、自然に溶け込めるはずだ」


「なるほど……護衛としても世話役としても、申し分なさそうですね」


「ただ……少々やっかいな事情もあってな。武芸一筋で社交界を毛嫌いしてきたせいで、実家のアシュフォード侯爵から『いい加減に近衛を辞めて、然るべき名門へ嫁げ』と見合いの猛圧力をかけられているらしい。本人も実家のうるさい干渉から逃れたがっていてな、下町での長期任務なら喜んで飛びつくだろう」


 その言葉を聞いて、俺はこの世界の貴族社会の力関係を思い浮かべながら、客観的な懸念として率直に呟いた。


「実家からの見合い攻勢から逃れるため、ですか。……となると、公爵家の血筋である俺を隠れ蓑にして、『レン様と既成事実を作って結婚します』なんて強引な手段に打って出る可能性も、警戒しておかなければなりませんね」


 ――ビクリッ、と。


 向かいの席で、エレオノーラがこの日一番の跳躍を見せて肩を震わせた。


「…………なっ……!?」


 エレオノーラの手からフォークがカランと滑り落ち、皿の上で甲高い音を立てる。

 先ほどまでの赤面も吹き飛び、その陶器のような白い顔が、恐ろしいほどの怒りと戦慄で真っ青に染まり上がった。


「きょ、強引な手段……っ!? アシュフォードの女狐め、我がベルフォール公爵家の至宝である無垢な弟を、実家の圧力から逃れるためのダシに……いいえ、あわよくば婿に奪い取ろうなどと企んでいるのではなくて!? エドワード! 貴方、レンをそんな飢えた侯爵令嬢の檻に放り込むつもりでしたの!?」


「お、落ち着けエレオノーラ! レン、お前も物騒な推測を口にするな! あいつはそんな狡猾な手を弄するような娘では……いや、アシュフォードの親父殿が『相手が公爵家なら文句はない』と暴走する可能性は否定できんが……っ!」


「否定できんじゃありませんわよ! アシュフォード家といえば王国有数の武門、あんな猪武者の一族にレンが攫われたらどう責任を取るおつもりですの!? いいえ、絶対に許しません! そのカトレアという女騎士の首筋に、レンに色目を遣ったら即座に爆発する呪具のチョーカーでも嵌めさせて――」


「姉上、それは完全に犯罪ですからやめてください」


 俺が冷静に突っ込むと、エドワードも滝のような冷や汗を流しながら「そうだエレオノーラ、落ち着け! 公爵家の令嬢が他国の暗黒街の拷問具を持ち出すな!」と必死に宥めに入った。


(……やれやれ。客観的な事情を口にしただけなのに、またしても特大の燃料を投下してしまったな)


 頭を抱える騎士団長と、物騒な迎撃プランを早口で練り始めた氷の令嬢。

 豪奢なディナーの席は、もはや収拾のつかない大混乱へと突入していた。


 ◇


 翌朝。

 本邸での大騒動と監視の目をなんとか掻い潜り、俺は無事に下町の薬房へと戻って清々しい朝を迎えていた。


 朝日が差し込む店内で、棚に並ぶ乾燥薬草の整理をしていたその時――。


 カランコロン、と澄んだドアベルの音が響いた。


「おはようございますっ! レン様、本日付でこちらへ配属となりました、カトレアと申します!」


 扉を開けて入ってきたのは、手入れの行き届いた軽装鎧に身を包んだ、快活そうなショートボブの女性だった。

 人懐こい大きな瞳を輝かせ、満面の笑みでビシッと見事な騎士の敬礼を決めている。


「近衛騎士団より、レン様の専属護衛兼身の回りのお世話役として参上いたしました! カトレア・アッシュフォード、本日より粉骨砕身お仕えいたしますっ!」


 明るく通る声と、からっとした爽やかな佇まい。

 昨晩エドワードが言っていた通りの、誰からも好かれそうな快活な空気が全身から溢れ出ていた。


「初めまして、カトレアさん。レンです。昨晩、兄上から話は聞いていますよ。どうぞよろしくお願いします」


「はいっ、よろしくお願いいたします、レン様!」


 俺が会釈を返すと、カトレアはパッと表情を綻ばせ、親しみやすい笑みを浮かべた。


「あの堅物のエドワード団長から『とにかく弟に怪我ひとつさせるな』と耳にタコができるほど厳命されて参りました! 護衛はもちろん、お料理や掃除、買い出しなど何でも申し付けくださいね!」


 屈託のない笑顔で胸を張る彼女。

 昨晩、姉上が「手段を選ばず既成事実を作りにくる飢えた女豹」などと警戒していた姿とは程遠い、実にからっとした気さくな人物だった。


(……ほんと、よくできた人間っているものだな)


 店内に差し込む朝日の中、元気よく挨拶を終えてさっそく「まずは何をいたしましょうかっ!」と腕まくりをするカトレアを見つめながら、俺は思わず内心で感心していた。


 ふと、前世の記憶が頭をかすめる。

 日本で登録販売者として大手ドラッグストアの現場に立っていた頃のことだ。


 発注や品出し、医薬品の接客に追われる多忙な日々に限って、「すみません、今日急用が入って〜」と平然とシフトをドタキャンしてくるアルバイトの顔が脳裏をよぎる。あの時の穴埋めに奔走した胃の痛むような徒労感を思い出せば、彼女のこの責任感とフットワークの軽さはまぶしいほどだった。


(……あのドタキャン常習犯のバイト連中に、カトレアの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらいだよ)


 喉元まで出かかったぼやきをぐっと呑み込み、俺は苦笑いを浮かべながらカトレアに向き直った。


「カトレアさん、意気込みは嬉しいですが、そんなに肩肘を張らなくて大丈夫ですよ。まずは店の案内と、普段の生活リズムについてすり合わせをしましょうか」


「はいっ、何でも仰ってください!」


 人懐こい笑顔で頷く彼女を連れて、俺は薬房の奥へと足を進めた。


「ここが、薬剤販売の店……舗……」


 俺が案内しながら口を開いたものの、最後の語尾は急速に尻すぼみになっていった。


 視界に広がるのは、見事なまでに何もないガランとした空間だ。

 商品はおろか、薬棚もカウンターもない。隅に古びた木箱が二つ三つ転がっているだけで、床にはうっすらと埃が積もり、風が吹き抜ければ虚しい木鳴りが響くばかり。お世辞にも「店舗」と呼べる代物ではなく、ただの空き物件そのものだった。


 カトレアが大きな目をぱちくりとさせながら、何もない部屋をぽかんと見渡している。その無垢な視線が痛い。


「……に、する予定の空間だよ」


 俺は頬を引きつらせながら、苦し紛れに言葉を付け足してごまかした。


「なるほど! ゼロからの立ち上げ、完全な新規オープン準備中というわけですね!」


 カトレアは呆れるどころか、ポンと手を打って人懐こい満面の笑みを咲かせた。


「何もないということは、ここから自由にレイアウトを作れるということです! まずは床の掃き掃除と水拭きからですね! 什器の手配や木工の組み立てまで、何でも任せてくださいっ! 遠征時の野営地設営で大工仕事もお手の物ですから!」


 腕まくりをしてやる気満々な彼女のポジティブさに、俺は内心で胸を撫で下ろし、ありがたくその勢いに乗っかることにした。


 ◇


「さて……まずは商品棚に接客用のカウンター、奥には調剤室の区画を作って、作業机やテーブルを用意しないとな」


 空っぽの空間を見渡しながら、俺は頭の中で前世のドラッグストアや調剤薬局の動線を思い描き、レイアウトを組み立てていく。


 客が商品を見やすい陳列棚の配置、防犯と接客を兼ねたカウンターの位置、そして清潔を保ちながら調合に集中できる半個室の調剤ブース。前世の登録販売者としての現場経験が、ここに来て存分に活きてくる。


「内装の目処が立ったら、次は商品の発注だな。薬草や基剤、保存用の遮光瓶にラベル……仕入れルートの確保も急がないと」


 俺が指折り数えながら呟くと、横で聞いていたカトレアが感心したように目を輝かせた。


「さすがレン様、段取りが完璧ですね! 什器なら下町の大工ギルドに腕利きの知り合いがいますから、すぐに使い勝手のいい木材で見積もりを取ってこられますよ! それに薬草や素材の発注なら、騎士団御用達の卸問屋や冒険者ギルドの買い取り所にも顔が利きます!」


「本当に助かるよ、カトレアさん。騎士としての腕前だけでなく、そこまで顔が広くて頼りになるとは思わなかった。初日から君に来てもらえて本当に心強いよ」


 俺が手放しでべた褒めしていると――。


 チクチクチク、と。

 突如として真後ろから、背中を貫通しそうなほどの冷ややかなジト目の視線が突き刺さってきた。


 慌てて振り返ると、そこにはいつの間にか店の入り口から音もなく入ってきていたリリアが立っていた。

 腕を組み、口元をへの字に曲げ、半眼でこちらをじっと見つめている。


「……おはようございます、レン様。朝からずいぶんと楽しそうですね」


「あ、おはよう、リリア」


「ええ、おはようございます。……私と違い、大変優秀な方のようで何よりでございますね」


 トゲをたっぷり含んだ皮肉が、すうっと乾いた店内に響き渡った。

 普段の甲斐甲斐しい侍女の笑顔はどこへやら、自分以外の女性に主がデレデレと賛辞を送っていたのがよほど面白くなかったらしい。


「あ、あなたは……レン様の専属侍女のリリアさんですね! お噂はエドワード団長から伺っております! 近衛騎士団より配属されましたカトレア・アッシュフォードです、よろしくお願いしますっ!」


 カトレアはリリアの放つ不穏なオーラに全く気づいていないのか、満面の笑顔で元気いっぱいに頭を下げた。


 その裏表のない快活さに、リリアは毒気を抜かれたように一瞬眉をピクリと動かしたものの、すぐにまた俺の方へと冷ややかな視線を戻してきたのだった。


「リリア、開店準備だよ。まずは床と窓の掃除を頼めるかい?」


 俺が気まずさを紛らわせるように声をかけると、リリアはツンと顎を少し持ち上げ、冷ややかな視線を向けてきた。


「あら、レンさま。ここは本邸の皆様の目を欺くための、名目上の薬局ではなかったのですか?」


 痛いところを突いてくる。

 確かに最初は、本邸から抜け出して自由な時間を確保するための「言い訳」として借りた物件だった。


「いや……最初はそうだったんだけどね。せっかくなら本当に店として機能させた方が、本邸へのカモフラージュとしても完璧だし、何より薬草の調合や研究の実験場としても都合がいいんだ」


「まあ、そうおっしゃるなら従いますけれど……」


 リリアはため息をひとつ漏らし、エプロンの紐をキュッと結び直した。


「ですがレン様、掃除や雑務ならこのリリアにお任せください。いくら騎士様が力持ちで顔が広かろうと、レン様のお好みに合わせた居心地の良い空間づくりでは、絶対に負けませんから」


 チラリとカトレアを意識しながらバケツとモップを手にするリリア。


「はいっ! では私は重い荷物の移動と、高いところの埃払いを担当しますね! リリアさん、よろしくお願いします!」


 カトレアは嫌味を全く意に介さず、腕まくりをして元気いっぱいに掃き掃除を始めた。


 火花を散らす侍女と、天然で突き進む護衛騎士。

 二人の奇妙なコンビネーションのもと、空っぽだった薬房の開店準備が本格的に動き出した。


 ◇


 カラカラと窓ガラスが拭き上げられ、埃の舞っていた部屋がみるみるうちに清潔な空間へと生まれ変わっていく。


「ふふっ、リリアさん、床がピカピカですよ! さすがレン様の専属侍女さんですね!」

「あら、カトレア様こそ。あんな高所の梁の埃を軽々と……騎士様というのは実に便利ですこと」

「えへへ、褒められちゃいました!」


 最初は火花を散らしていたはずの二人は、作業が進むにつれて奇妙な連帯感が芽生えたのか、なんだかんだと楽しげに談笑しながら手を動かしている。


「二人とも、ありがとう。見違えるほど綺麗になったよ」


 俺が労いの言葉をかけながら笑顔を向けると、リリアは少し誇らしげに胸を張り、カトレアは満面の笑みで「お任せください!」と応じた。男一人に美少女二人、はたから見れば実に和気藹々とした、微笑ましい光景である。


 ――だが。

 そんな薬房の様子を、通りの向かいにあるカフェテラスの物陰から、じっと凝視する一つの影があった。


 つばの広い豪奢なつば広帽を目深に被り、大きなサングラスで素顔を隠した長身の美女――エレオノーラである。


「ぐ、ぐぬぬぬぬ……っ!」


 エレオノーラは両手でシルクのハンカチをギリギリと力任せに噛み締め、奥歯を激しく鳴らしていた。

 サングラスの奥の瞳からは、怨嗟と嫉妬が入り混じった凄まじい眼光が放たれている。


(なんなのですの、あの空間は……! 我が愛しのレンを取り囲む、小悪魔侍女と筋肉女騎士! あんな屈託のない笑顔でレンを惑わすだなんて……! しかもレンったら、鼻の下を伸ばしてデレデレと二人を愛でているように見えますわ……!!)


 実際にはただの作業の労いなのだが、重度のブラコンフィルターを通した彼女の目には、レンが二人の女を侍らせて鼻の下を伸ばしているようにしか見えていなかった。


「おのれ……エドワードのやつ、『あいつは任務に忠実だ』などと言っておきながら、完全にレンの懐に入り込んでいるではありませんの! やはりあの女騎士の首に、近寄ったら爆発するチョーカーをつけておくべきでしたわ……!」


 ぐぬぬぬ、と身悶えしながらテーブルの上のティーカップの取っ手を握り潰さんばかりに力を込める「氷の令嬢」。

 その全身から立ち上るあまりの冷気に、カフェの給仕係が怯えて遠巻きに震えていることにも、本人は全く気づいていなかった。


「……はっ!」


 その時、嫉妬の炎に身を焦がしていたエレオノーラの脳裏に、一つの完璧な名案が閃いた。

 サングラスの奥で、氷の令嬢の双眸が妖しくギラリと輝く。


(そうですわ……! わたくし一人で見張る必要などありませんわ!)


 社交界の頂点に君臨するベルフォール公爵家の威光と、自身が築き上げてきた広大無辺な貴族ネットワーク。

 これをフル活用すれば、懇意にしている令嬢、懇親の深い貴婦人、さらには息のかかった大商家の娘たちまで――人員ならいくらでも動員できる。


(あの方々に事情を話し……いえ、『下町にとびきり素晴らしい薬房ができた』と紹介して、毎日、毎時、交代で買い物客として送り込めばいいのですわ!)


 開店から閉店まで、絶え間なく自分の息のかかった「顧客」で店を埋め尽くす。

 そうすれば、レンの日常の様子や体調の報告がリアルタイムで手に入るだけでなく――あの小悪魔侍女や筋肉女騎士がレンに色目を使った瞬間、即座に社交界の包囲網によって牽制・阻止することができる。


(ふふ……ふふふふっ。顧客としてレンの売上に貢献しつつ、害虫を寄せ付けない鉄壁の布陣……! これぞまさに、死角なき完全監視体制の完了ですわ……!)


 カフェのテラス席で、サングラスの美女が邪悪かつご満悦の笑みを浮かべて扇子を広げた。

 その背後から立ち上る凄まじい覇気と執念に、カフェの給仕係や周囲の客たちは恐怖で青ざめ、誰も近づくことができずにいた。


 一方、そんな姉の恐るべき包囲網計画など露知らず。


「よし、床も窓も片付いたな! 二人ともお疲れ様」

「はいっ、レン様! あとは什器と商品を揃えれば完璧ですね!」

「ふふ、これで最初のお客様をお迎えする準備は万全ですね」


 レン、リリア、カトレアの三人は、爽快な汗を拭いながら満足げに笑い合っていた。

 まさか自分たちの薬房が、開店初日から「姉の手先となった高貴な客たちによる毎時間ごとの波状来店」に晒されることになるとは、夢にも思わずに――。



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