4話:奇跡の診断と最大の切り札
むくり、と身体を起こした。
「……つ、ぅ……」
後頭部から側頭部にかけて、ズキリと重い鈍痛が走る。
思わず右手を伸ばして後頭部を押さえた。
(痛いな……倒れた時に、頭を少し打ったか……?)
畳の上に倒れ込み、机の角か床にぶつけた記憶がうっすらと残っている。
だが、すぐに違和感が首筋を這い上がってきた。
――痛い?
心筋梗塞で倒れたはずではなかったか。
それに、あの白い空間で出会った神とのやり取りは……夢か?
痛む頭を抱えたまま、ゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたアパートの茶色い天井ではなかった。
真新しく削り出された美しい木の梁と、塗り立ての清らかな白い漆喰天井。
鼻をくすぐるのは、畳や洗剤の匂いではなく、真新しい木材特有のすがすがしい木の香りと、日に干した清潔な亜麻のシーツの匂い、そして微かな薬草の香りだった。
「……ここは、どこだ?」
自分の口から漏れた声を聞いて、息が止まった。
聞き慣れた自分の声ではない。
変声期を過ぎたばかりのような、若々しく澄んだ少年の声。
慌てて自分の両手を見つめる。
長年の重労働や搬入作業で引き締まり、角質が硬くなっていた大人の手ではない。
まだあどけなさを残した、十代半ばの柔らかな少年の手だった。
(本当に……あの神の話通り、別の身体に入ったのか……?)
夢でも幻覚でもない。
その事実を噛み締めた瞬間、ふっと頭の奥で何かが弾けた。
――ローレンス・ド・ベルフォール。
――ベルフォール公爵家の、忌み子。
――新しくあてがわれた、この離れ。
まるで古びたスライド写真を無理やり脳内に流し込まれるように、断片的な記憶が次々と浮かんでは消えていく。神の言っていた「朧気な記憶の引き継ぎ」だ。
十六歳を目前にして命を落とした少年の記憶が、苓の意識と静かに溶け合っていく。
(ローレンス……愛称はレン、か)
深く息を吐き出し、ベッドから足を下ろそうとした、その時だった。
パッ――。
虚空に、淡い青みがかった光がふわりと灯った。
何もない空間に、見慣れた半透明のウィンドウが静かに浮かび上がっている。
「……おお」
思わず声が漏れた。
デスクトップの中央に、ぽつんと置かれた一つのテキストファイル。
マウスもキーボードもないが、『開く』と意識を向けただけで、スッと文字が展開された。
『――こちらの世界へようこそ、薬師 苓さん。私はこのアルカディア大陸が存在する世界を統括している神です。同僚からあなたの魂をお預かりし、このローレンスという少年の身体へと定着させました』
どうやら、向こうの世界の神から頼まれたという「こちらの世界の神」からの引き継ぎメッセージらしい。丁寧な時候の挨拶こそないが、要点が几帳面に箇条書きされていた。
『あなたが望まれた通り、生前愛用されていたパーソナルコンピュータのデータ、ならびに執筆・閲覧機能はすべてあなたの魂の領域へと統合してあります。思考するだけで自由に呼び出し、操作が可能です』
『なお、元の世界のインターネットへのアクセス機能については、境界を超えるための負荷として、あちらの神の取り決め通り「魔力」を消費する仕様とさせていただきました。現在のあなたの魔力量では頻繁な利用は推奨いたしませんので、計画的にご活用ください』
なるほど、検索には魔力というコストがかかるわけだ。
使い放題ではないにせよ、三十年分のローカルデータが手元にあるだけでも破格の財産だ。
そして、テキストの最後には追伸のようにこう締めくくられていた。
『追伸:
急な転生をお願いしたお詫びと感謝の印として、私から少しばかりのおまけを付与しておきました。
固有スキル【健康体】です。
軽度の疾病やケガの心配は一切ありませんので、どうぞご安心を』
「……健康体、ね」
俺は思わず眉を寄せた。
元・製薬会社勤務でドラッグストアの店長まで務めていた身からすると、なんとも曖昧で気になる表現だ。
(神の言う『軽度』ってのは、一体どのレベルまでを指すんだ……?)
風邪や擦り傷程度なのか。それとも胃炎や骨折の手前まで含むのか。
神のような超常の存在と人間とでは、生命に対するスケール感が違いすぎる。
「……まさか、消滅以外を軽度なんて言わないよな」
思わずポロリと本音が口をついて出た。
手足をへし折られても「死んでないから軽度ですね」などと流されたら、たまったものではない。
医学的な基準値のない「神基準」ほど、信用していいのか悩ましいものはなかった。
とはいえ――前の世界で散々苦しめられた腰痛や肩こり、あの冷え切った疲労感がどこにもないのは確かだった。深呼吸をすると、澄んだ空気が肺の隅々まで満ちていく。
「まあ……ないよりは、ずっとありがたいか」
苦笑しつつテキストファイルを閉じると、視界のウィンドウには生前と寸分違わぬフォルダの群れが、整然と並んでいた。
◇
バァンッ!
静寂を破り、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「――レン様っ!?」
悲鳴のような叫び声とともに、何かがものすごい勢いでベッドへ突進してきた。
驚きのあまり思考がブレた瞬間、視界に浮かんでいた半透明のウィンドウがふっと消える。
次の瞬間、視界のすべてを覆い尽くしたのは――圧倒的な質量を誇る、布越しの柔らかい双丘だった。
「レン様! ああっ、よかった……! 息を吹き返してくださったのですね……!」
ぎゅう、と強烈な力で抱きしめられる。
鼻腔を満たすのは、甘い石鹸の香りと、温かな体温。
顔面全体に押し当てられたエプロンドレス越しの大胆な感触に、思考が一瞬で真っ白に吹き飛んだ。
(お、重い……! というか、近い……っ!)
中身は六十を越えた元・店長とはいえ、現在の身体は思春期真っ盛りの十六歳の少年だ。
危機感とはまったく別の意味で、心臓が早鐘を打ち始める。
「リ、リリア……っ! 苦し、息が……!」
もがきながら胸元を手で押し返そうとするが、十代の華奢な腕力ではびくともしない。
少年の記憶にある専属侍女――リリアの、あまりにも情熱的すぎる安堵の抱擁だった。
「リリア、退きなさい! レンが息絶え絶えではないか!」
「レン……! ああ、本当に目を覚ましたのね……っ!」
威厳に満ちた低い声と、震える女性の声が重なり、足早に二つの人影が部屋へ踏み込んできた。
リリアの腕からようやく解放され、ゴホゴホと咳き込みながら酸素を吸い込む。
間髪を入れず、今度はふわりと気品ある甘い香気とともに、細い身体が正面から抱きついてきた。
「レン、レン……! よかった……本当に、よかった……!」
ぎゅっと首筋にしがみついて涙をこぼしたのは、姉のエレオノーラだった。
その後ろでは、王国近衛騎士団長でもある長兄のエドワードが、厳しい表情をわずかに緩め、心底安堵したように息を吐いている。
先ほどのリリアの圧倒的な質量とは違い、姉の抱擁は不思議なほど心が凪いでいくような安心感があった。
温かく、どこか懐かしいような穏やかな心地よさ。
(……いや、胸の大きさの違いのせいではない、はずだ。たぶん)
思春期の身体の反応を誤魔化すように内心で小さく言い訳をしながら、俺は姉の背中にそっと手を回した。
背中に回した手のひらから、エレオノーラの華奢な体温が伝わってくる。
(……不思議な感覚だな)
脳内にある少年の記憶を辿れば、彼らは紛れもなく慕うべき『兄上』であり『姉上』だった。
だが、六十年の人生を歩んできた日本人の成人としての理性が、その感情に奇妙なズレを生じさせている。
エドワードもエレオノーラも、公爵家の重責を背負い、王位継承権を持つ立派な貴族だ。
しかし、人生の酸いも甘いも噛み分けてきた前世の視点から見れば、彼らはあまりにも若い。自分の息子や娘……下手をすれば、孫と呼んでもおかしくないほどの年齢差だ。
(兄さんと姉さん、ね……)
少年の純粋な敬愛と、大人の庇護欲のような感情が胸の中で混ざり合う。
ふと、まだ顔も見ていないこの身体の実父――ベルフォール公爵の存在が頭をよぎった。
(そういえば……公爵様にしたって、おそらく前世の俺より年下なんじゃないか?)
息子や娘世代の若者に「兄上」「姉上」と呼び、年下の男を「父上」と仰ぐことになるのか。
奇妙な居心地の悪さと可笑しさが込み上げ、俺は姉の背を軽く叩きながら、内心で苦笑いを漏らした。
「れ、レン、どうしたの……!? 急に倒れたって知らせがあったから、驚いて駆けつけたのよ?」
エレオノーラは俺から身体を離すと、潤んだ瞳で顔を覗き込んできた。その表情には、純粋な心配と動揺が色濃く滲んでいる。
今日はレンの十六歳の誕生日だ。
成人を迎える弟の呪いの発動の恐れがあるため、知らせなどなくとも二人はもともとこの離れへ訪れる予定だったはずだ。だが、予定していた時間よりもあまりに早すぎる凶報に、いても立ってもいられず飛び出してきたのだろう。
腕に残る姉の温もりと、青ざめた兄の視線を受け止めながら、俺はどう答えるべきか思考を巡らせた。
「……エレオノーラ姉上、エドワード兄上。ご心配をおかけして、すみません。もう大丈夫です」
少年の声のトーンを崩さないよう注意深く息を整え、努めて穏やかな笑みを浮かべてみせた。
十六歳の誕生日――成人の日。
この身体に刻まれた記憶が、二人がここまで取り乱している本当の理由を告げていた。
ただの誕生日祝いではない。レンにかけられた『呪い』が発動し、命を落とす危険が最も高いとされていたのが、まさにこの成人の節目だったのだ。
知らせがなくとも二人が駆けつける手筈だったのは、その瞬間を見守り、最悪の事態から弟を救うためだったのだろう。それが予定より早く「倒れた」と聞かされれば、呪いが前倒しで命を奪いにきたと青ざめるのも無理はない。
「……本当に、身体のどこにも異常はないのか?」
エドワードが眉根を寄せ、鋭い眼差しで俺の顔色をつぶさに検分するように見つめてくる。
騎士団長としての怜悧な観察眼の奥に、弟を失いかけた恐怖が張り詰めているのが痛いほど伝わってきた。
「はい。少し立ちくらみがしただけで、呪いの兆候のような苦しみはありません。……むしろ、以前より身体が軽いくらいです」
神のおまけスキル【健康体】のおかげか、実際に倦怠感も頭痛も綺麗に消え去っていた。
(……本当に、呪いが消えているのか……? 神様様だな……)
胸の奥にあったはずの重苦しい感覚は、跡形もなく消え失せている。
だが――そんな俺の内心の確信など、二人に伝わるはずもなかった。
俺の「立ちくらみ程度だ」という言葉を聞いて、エレオノーラはかえって青ざめ、目を見開いた。
「そんな……っ! 誤魔化さないでちょうだい、レン! 立ちくらみだなんて……今日がどんな日か分かっているのでしょう!? あの呪いは……十六歳を迎えたら命を奪うって、そう宣告されていたのよ!?」
理由の分からない事態への混乱と、弟が自分たちを安心させるために無理をしているのではないかという恐怖で、エレオノーラは俺の両手をきつく握りしめたまま震えている。
「エレオノーラ、下がっていろ」
背後からエドワード兄さまが、張り詰めた低い声で割って入った。
その瞳には、弟の気休めを許さない、切迫した色が宿っている。
「……レン。お前の言葉を疑うわけではないが、立ちくらみで済むような呪いではないことは百も承知のはずだ。……服を脱げ。胸元の紋様を確かめさせてもらう」
エドワードの切迫した声に促され、俺はシャツのボタンに手をかけた。
幼い頃からレンの身体を蝕み、心臓と脳を覆い尽くして命を奪うはずだった【先々代の呪詛】。
胸元から首筋にかけて禍々しく這い回っていたはずの、あの黒い幾何学模様だ。
ボタンを三つほど外し、襟元を左右に押し広げる。
「……っ!?」
覗き込んだエドワードとエレオノーラが、同時に息を呑んだ。
そこに刻まれていたはずの黒い紋様は――完全に消え去ってはいなかった。
しかし、かつて血管のように浮き彫りになり、脈打つたびに黒々とした禍々しさを放っていた線は、まるで洗い流された墨のように薄くかすれ、輪郭すらおぼろげな灰色の影へと退行していた。
まるで、宿主という標的を見失った術式が、急速に色を失って風化していくかのように。
「……消え、かけている……?」
エレオノーラが震える指先を伸ばし、触れることすら躊躇うように息を詰めた。
「そんな馬鹿な……。数代に渡り、現代のいかなる聖魔法をもってしても解く術のなかった王家の呪詛だぞ……」
エドワードが眉根を寄せ、信じられないものを見る目でその胸元を凝視している。
騎士団長としての冷静さを保とうとしながらも、その瞳には隠しきれない驚愕と動揺が渦巻いていた。
完全に消え去ってはいない。
だが、確実にその力を失い、霧散しかけている事実が、目の前に示されていた。
「消えかけているからといって、安心はできん」
エドワードが硬い表情のまま、俺のシャツの襟元をそっと整え直した。
「王宮の筆頭魔導士すら匙を投げた古代の呪詛だ。表面上薄くなっただけで、魔力脈の深部に根を残している可能性も否定できない。……すぐに本邸へ戻るぞ」
「ええ、エドワードの言う通りですわ」
エレオノーラもきりりと表情を引き締め、いつもの社交界の重鎮らしい怜悧な眼差しを取り戻していた。
「本邸には公爵家の主治医団が控えています。すぐに馬車を手配させますわ。セバスチャンに連絡を!」
「リリア、レンの着替えと身の回りのものをまとめろ。馬車は私の近衛騎兵を使わせる。一刻も早く本邸の医療室へ運ぶ」
「は、はいっ! ただちに!」
エドワードの的確な指示を受け、リリアが弾かれたように部屋を飛び出していく。
(……やれやれ。静かに暮らすはずの隠れ家から、初日で本邸へ逆戻りか)
二人のただならぬ剣幕に圧倒されながら、俺は内心で小さく息を吐いた。
とはいえ、前世で薬学や医療の現場にいた身としても、身体の内部を専門家に詳しく検分してもらうこと自体は合理的だ。神の言う「呪いの霧散」と「健康体」が、この世界の医学や魔導診断でどう映るのかは確かめておいて損はない。
「レン、立てるかしら? 無理をしては駄目よ」
「大丈夫だよ、エレオノーラ姉さん。自分で歩けるよ」
差し伸べられたエレオノーラの手を借り、ベッドから立ち上がる。
十代の身体の軽さを実感しながら、俺はエドワードとエレオノーラに付き添われ、迎えの馬車が待つ表通りへと足を進めた。
◇
舗装された王都の大通りを、公爵家の紋章が刻まれた豪奢な馬車が駆けていく。
車窓の向こうには、下町の素朴な街並みから、次第に豪奢な貴族街の白亜の建築群へと景色が移り変わっていった。
やがて馬車は、見上げるほど巨大な鉄柵の正門をくぐり抜け、広大な敷地を誇るベルフォール公爵家の本邸へと滑り込んだ。
馬車が止まると同時に、扉が恭しく開かれる。
「エドワード様、エレオノーラ様、そしてレン様……! ご無事で何よりでございます」
出迎えたのは、初老の執事長セバスチャンだった。
その背後には、すでに連絡を受けて待機していた複数の白衣姿の男たち――公爵家の主治医団が、重々しい医療器具を抱えて控えている。
「セバスチャン、父上への報告は後だ。まずはレンを医療室へ。筆頭主治医のドクトル・クローデルに、魔力脈と血脈の完全な再診を命じる」
「かしこまりました。すでに診察室の魔導診断器は起動させております。レン様、こちらへどうぞ」
セバスチャンの先導のもと、俺は本館の奥深くにある重厚な医療室へと足を踏み入れた。
部屋の中央に据えられた診察台の周りには、淡い青光を放つ魔導具や調薬器具が整然と並んでいる。
白髪交じりの筆頭主治医クローデルが、眼鏡の奥の鋭い瞳で俺を迎え入れた。
「レン様、どうぞ診察台へお掛けください。……四年前、あの呪詛が発現して以来の精密診断となります。些細な違和感も見逃しはいたしません」
クローデルが魔導診断用の水晶玉を手に取り、静かに魔力を練り始めた。
部屋の隅では、腕を組んだエドワードと、祈るように両手を握りしめたエレオノーラが、固唾を呑んでその様子を見守っている。
◇
静まり返った医療室に、水晶玉の放つ淡い燐光がゆらめいた。
クローデルが静かに詠唱を紡ぎ、青白く発光する水晶を俺の胸元へと近づけていく。
ひやりとした魔力の波動が肌をなで、体内へと浸透していく感覚があった。
(……なるほど。これがこの世界の医療か)
前世のレントゲンやMRI、心電図の検査を思い出しながら、俺は診察台の上で静かに息を整えた。
体内の魔力脈を透視し、異物や呪詛の痕跡を探る技術なのだろう。
水晶の光は青から緑へ、そして澄み切った白色へと色を変えていく。
刻一刻と表情を変える光を凝視しながら、クローデルの眉間の皺がみるみる深くなっていった。
「……信じられん」
ぽつりと、老医師の口から掠れた声が漏れた。
「ドクトル、どうなのだ」
待ちきれないといった様子で、エドワードが一歩踏み出す。
部屋の隅に控えるエレオノーラも、息を詰めて身を乗り出していた。
「……エドワード様、エレオノーラ様。奇跡……としか申し上げようがございません」
クローデルは震える手で水晶を下ろし、信じられないものを見たように何度も首を横に振った。
「四年前、レン様の心臓と魔力脈を締め上げていたあの禍々しい呪詛の根が……完全に消失しております。胸元に残る紋様のかすれは、呪いの残滓が皮膚表面にわずかに残っているだけのもの。それも数日と経たずに垢となって剥がれ落ちるでしょう」
「本当に……呪いが、完全に消えたというのか?」
エドワードの声がわずかに震えている。
「はい。それどころか、魔力脈の流れも極めて清廉。内臓諸器官にも一切の損傷や衰弱は見られません。……医学的には、これ以上なく健やかな少年の身体そのものでございます」
「ああ……っ!」
医師の断言を聞いた瞬間、エレオノーラが口元を両手で覆い、その場にへたり込んだ。
社交界で「氷の令嬢」と恐れられる怜悧な美女の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。
「よかった……本当によかった……! レン……!」
駆け寄ってきたエレオノーラが、診察台の俺を再び強く抱きしめた。
震える肩と、首筋に落ちる温かい涙。
その隣では、普段は感情を表に出さないエドワードが、大きく天井を仰ぎ、噛みしめるように深く、長い息を吐き出していた。
「……よく生き抜いてくれた、レン」
兄の手が、俺の頭に力強く置かれる。
(……やれやれ)
二人の純粋な愛情と安堵の重みに気圧されながら、俺は内心で神の言葉を思い出していた。
『少年の器に異質な魂が定着した時点で、呪詛は対象を失い霧散する』。
その通りになったわけだが、この家族にとっては、まさに神の奇跡そのものに見えているのだろう。
ひとしきり涙を拭ったエレオノーラが、ふと顔を上げ、きりりとした表情でエドワードを見据えた。
「エドワード。……レンが完全に健康体であると分かった以上、もうあんな下町の危険な場所で一人暮らしをさせる理由はありませんわね」
「……あ」
思わず俺の口から間抜けな声が漏れた。
「ええ、その通りだ」
エドワードが即座に深く頷く。
「元より、あの下町の薬房は『余命わずかな弟に、最期の自由を』という特例で父上を説得したものだ。呪いが消え去った今、公爵家の直系男子をあのような警備も手薄な市井に放置しておくわけにはいかん。……レン、今日限りであの店は引き払い、本邸へ戻る手筈を整える」
「ちょ、ちょっと待ってください、兄上、姉上……っ!」
話があまりに急展開すぎて、俺は慌ててベッドの上で手を挙げた。
せっかく手に入れた、誰にも邪魔されずに自室のPCデータを開き、前世の続きの執筆や研究に没頭できる「自由な隠れ家」。
十六歳の成人の朝、呪いから解放された瞬間に――わずか一日で強制退去の危機が訪れていた。
「そんなことをしたら、もう兄上、姉上とは呼びませんよ」
言っていて自分でも情けなくなるような手だったが、この年頃の甘えなら許されるだろうという打算があった。
その言葉が発せられた瞬間、医療室の空気がピシリと凍りついた。
「…………えっ?」
エレオノーラが鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。
社交界で恐れられる『氷の令嬢』の仮面は完全に剥がれ落ち、信じられないものを見るように瞳を激しく揺らしていた。
「な、なんですって……? 呼んでくれない……? レンの口から『姉上』という響きが、二度と聞けなくなる……!?」
「お、おいレン、いくらなんでもそれは横暴というものだぞ……っ!」
歴戦の近衛騎士団長であるエドワードまでもが、明らかな動揺を見せて狼狽している。
どうやら二人にとって、末弟からの無邪気な敬愛と呼び名は、何物にも代えがたい精神的支柱だったらしい。効き目は抜群、いや、効きすぎて若干の罪悪感が胸をチクリと刺すほどだった。
「俺はずっと、母さんのように薬草や鉱物を扱うお店を、自分の力で経営したいと思って準備してきたんです。呪いが消えたからといって、はいそうですかと本邸の鳥籠に戻されるくらいなら……本気で口を利いてあげませんからね」
ぷいと横を向き、わざとらしく唇を尖らせてみせる。
十六歳の少年という立場を最大限に利用した、渾身の反抗期アピールだ。
「ぐっ……! れ、レンが……あんなに素直で可愛らしかったレンが、反抗期に……!?」
エレオノーラは胸を押さえてよろめき、まるで致命傷を負ったかのようにエドワードの腕にしがみついた。
「エドワード、どうしましょう……! 呼んでくれないなんて耐えられませんわ! それに、グレて他国の怪しい男たちとつるみ始めたりしたら……わたくし、王都を焼き払ってしまうかもしれません!」
「お、落ち着けエレオノーラ! 焼き払うのはまずい! ……くっ、レンめ、あんな切り札を隠し持っていたとは……」
エドワードは額に手を当て、苦渋に満ちた表情で唸り声を上げた。
力ずくで連れ戻すことは容易い。だが、それをすれば弟の心が完全に離れ、「兄上」と呼んですらもらえなくなる。騎士団長としての武力も、社交界の権謀術数も、末弟の『もう呼んであげない』という駄々一つによって完全に封殺されていた。
(……よし、効いてるな)
内心でひっそりと安堵の息を吐き出しながら、俺は二人の出方をじっと窺った。




