3話:午前一時のブルーライト
私の前世の名前は、薬師 苓。
六十を幾つか越えた、しがない男だった。
若い頃から製薬会社の開発部で薬作りに携わり、定年を迎えてからは、大手ドラッグストアの店長として現場に立っていた。
もっとも――「店長」という聞こえのいい肩書の実態は、過酷そのものだった。
朝八時半、開店前の搬入作業。
トラックから届くのは、何十箱もの2リットルペットボトルや粉末洗剤の山だ。
ギシギシと軋む腰を手で押さえながら、一人で黙々と荷下ろしをこなす。
(定年後にやる筋トレにしちゃ、ちと度が過ぎてるな……)
苦笑いすら浮かばない。
ようやく店を開けたと思えば、お決まりのように学生バイトからの急な欠勤連絡が入る。
「店長、今日熱が出ちゃって……」
「……わかった、お大事にね」
ため息を飲み込んで、自らレジに立つ。
合間には客からの「これ、どれが一番効くの?」という相談に笑顔で答え、期限切れのクーポンを突きつけて怒鳴る客にはひたすら頭を下げる。
休憩?
そんなものは、冷え切ったコンビニおにぎりをバックヤードで立ったまま五分で胃に流し込めば御の字だ。
十四時間近く店舗を駆け回り、夜十時半の閉店後、売上金と帳簿の数字を合わせ終える。
その頃にはもう、指先一つ動かすのもしんどいほど身体は限界を迎えていた。
だが――そんな私にも、誰にも邪魔されない時間があった。
カチャリ。
鍵を回してドアを開けると、冷え切った廊下に蛍光灯の白い光が落ちる。
靴を脱ぎ、重い鞄を上がり框に放り出した。
足の裏からふくらはぎにかけて、鉛を流し込まれたような鈍い痛みが這い上がってくる。
腕時計の針は、すでに深夜の一時を回っていた。
「……ふう。今日も一日、なんとか持ったか」
洗面所で手を洗い、鏡を見る。
白髪の混じった頭に、深く刻まれた目元の皺。
胸元の『店長・登録販売者 薬師 苓』の名札を外し、棚の上に置いた。
この狭いアパートのドアを閉めた瞬間、その肩書は役目を終える。
やかんを火にかけ、熱いほうじ茶を淹れる。
湯呑みを片手に書斎机へ向かい、デスクトップパソコンの電源を入れた。
低く唸るファンの音とともに、モニタが暗闇に青白い光を広げる。
画面の片隅には、整然と並ぶ無数のフォルダ。
Windows 95を触り始めた若き日から今日まで、約三十年。
書き殴った小説のプロットや読書メモだけではない。
昭和や平成の頃に買い集め、夜な夜なスキャンして残してきた、DIY、農業、サバイバル、電気回路、民間薬草といった実用雑誌の膨大なデータ。
そして何より、開発部時代から積み上げてきた薬学の考察録や専門資料の数々。
現役の頃は、昼間の開発会議や学会の議論を自室に持ち帰り、自分なりの理論構築や議論のまとめを深夜まで書き留めることに没頭していた。
公の学術論文や日本薬局方の基準、生薬の抽出プロセスに関するデータと自らの考察が折り重なり、いつしか一人の人間が持ち歩くにはあまりに巨大な「知の体系」が出来上がっていたのだ。
一度も捨てることなく、新しいハードディスクへと移し替え続けてきたそれらは、私の半生そのものだった。
湯呑みから立ち上る湯気を眺めながら、椅子に深く背中を預ける。
身体は芯から疲れ切っているはずなのに、キーボードに手を置くと、不思議と指先だけが熱を取り戻していく。
「さて……続きを書くとするか」
カタ、と静かな部屋に打鍵音が響く。
画面に映る文字列を追っていた、その時だった。
――ドクン。
心臓が、不気味な音を立てて跳ねた。
「……っ?」
息が止まる。
次の瞬間、胸の奥を巨大な万力で握り潰されたような、強烈な激痛が突き抜けた。
「が、あ……っ!」
湯呑みが床に落ち、陶器の割れる甲高い音と熱い茶の匂いが広がる。
呼吸ができない。肺に空気が入ってこない。
冷や汗が一気に噴き出し、視界が急速に狭まっていく。
(まずい、これは……心臓か……?)
薬の開発に携わってきた知識が、冷徹に自分の病態を告げていた。
急性心筋梗塞、あるいは致死性の不整脈。一刻を争う事態だ。
救急車を、呼ばなければ。
携帯電話に手を伸ばそうとするが、指先がピクリとも動かない。
全身の力が抜け、椅子から滑り落ちるように畳の上へ倒れ込んだ。
視界の端で、パソコンのモニタが青白い光を放ち続けている。
三十年間、積み上げてきた私のデータ。私の生きた証。
(……ああ、せめて……書き終えたかったな……)
薄れゆく意識の中、ブルーライトの残像だけが網膜に焼き付き――
そして、私の世界は完全に暗転した。
◇
「……ん」
ふと、感覚が戻ってきた。
痛みが消えている。胸を締め付けていたあの強烈な苦痛も、鉛のように重かった四肢の疲労感も、嘘のように消え失せていた。
ゆっくりと、まぶたを持ち上げる。
視界を埋め尽くしたのは、濃密な白だった。
上も下も、果てすらも見当たらない。どこまでが床でどこからが天井なのか、輪郭の溶け去った乳白色の静寂が、ただ無限に広がっている。
光が射しているわけでもないのに薄暗さはなく、影ひとつ落ちないその場所は、まるで世界の端の余白に取り残されたかのようだった。
自分の身体を見下ろすと、六十を過ぎた見慣れた自分の手がそこにある。
「目覚めましたか」
静かな声が、波紋のように空間を震わせた。
振り返ると、そこに一人の人物が立っていた。
年齢も性別すらも曖昧に見える、どこか浮世離れした佇まいの存在。
「ここは……?」
「まあ、世間一般で言うところの『虚無の世界』といった場所ですよ。私は――そうですね、人間風に名乗るなら『神』とでも呼んでいただきましょうか」
自称、神。
唐突な言葉に眉をひそめかけた私に、その人物は何でもないことのように告げた。
「単刀直入に言いましょう。あなたは死にましたね。病名は確か――心筋梗塞です」
「……そうか。やっぱりな」
倒れる瞬間のあの胸の激痛を思い出せば、納得するしかない。
長年の過酷な労働と不摂生が、ついに限界を迎えたのだ。呆気ない幕引きだった。
神と名乗る人物は、こちらの諦念を見透かしたように、小さく肩をすくめて言葉を続けた。
「そこで、少々相談――というか、お願いがありましてね。あなたがいたのとは違う別の世界……いわゆる『異世界』という場所があるのですが」
「……異世界?」
「ええ。そこである一人の少年が、たまたまあなたと同じこの瞬間に、命を落とそうとしていまして。どうでしょう、その空いてしまう器にあなたの魂を移して、もう一度第二の人生を生きてみてはくれませんか?」
「……第二の人生、ね」
六十を過ぎてぽっくり逝った老いぼれに、ずいぶんと景気のいい話だ。
胡散臭さを拭いきれず、私は眉間に皺を寄せた。
「タダでそんな美味い話を持ちかけてくるわけもないだろう。なぜその少年なんだ? 何か裏があるんじゃないのか」
「おや、察しがいいですね。さすがは修羅場をくぐってきた元店長さんだ」
神はくすりと笑い、どこか困ったように首を傾げた。
「実を言うと、あちらの世界の同業者――つまり向こうを管理している神から、泣きつかれましてね。『このまま死なせるにはあまりに不憫な少年がいる。空いてしまうその器を使って、代わりに生きてくれる者はいないか』と頼み込まれてしまったんですよ」
「不憫な少年……?」
「ええ。本来であれば、その少年は穏やかに天寿を全うするはずでした。ですが――不運なことに、ある悪意に満ちた『呪い』をかけられてしまいましてね。十六歳という若さで、肉体の限界を迎え、魂は力尽きて今まさに旅立とうとしているのです」
「……助からないのか、その少年は」
「残念ながら、彼自身の魂は呪詛に削り取られ、もう現世を維持する力が残っていません。間もなく完全に息を引き取ります。……ですが、主を失って間もないその肉体に、外の世界からやってきたあなたの魂を定着させれば、彼の遺した器を甦らせることができる」
「器の再利用、ってわけか」
「そう冷たい言い方をしないでください。呪いは少年の魂そのものを標的に編まれた術式です。異質なあなたの魂が定着した時点で、術式は対象を見失って霧散します。……彼が志半ばで手放さざるを得なかった『生きる時間』を、あなたが代わりに引き継いで使ってくれませんか、という話ですよ」
「なるほどな……。つまり、呪いの心配は要らないというわけだ」
「そういうことです。とはいえ、急な話で別の世界へ丸腰で行ってくれというのも無茶な相談でしょう。そこで、こちらの世界の神と向こうの神から、あなたに一つ――望む力を授けようと思うのです」
「望む力、と言われてもな……」
私は眉をひそめ、腕を組んだ。
剣を振るったこともなければ、魔法とやらを使ったこともない六十過ぎの男だ。派手な破壊力や万能の力をポンと提示されたところで、実感が湧くはずもない。
それよりも――私の胸をかすめたのは、あの冷え切った自室の光景だった。
「……私の部屋にある、パソコンのことなんだが」
「パソコン、ですか?」
「ああ。倒れる直前まで、小説を書いていたんだ。若い頃からの構想を詰め込んだ、まだ執筆途中の原稿が残っている。それだけじゃない。三十年間かけて買い集め、スキャンして移し替えてきた実用書のデータや、開発部時代から積み上げてきた薬学の考察録……。私の半生そのものが、あのハードディスクの中に詰まっているんだ」
一度失えば二度と戻らない、私だけのアーカイブ。
死ぬ間際、網膜に焼き付いたあの青白い光を思い出し、私はため息混じりに零した。
「せめてあれを……全部手元に置いておけたらと思うんだがな。続きも書きたいし、向こうで生きていくにしても、あの知識があれば少しは役に立つ」
神は小さく苦笑し、やんわりと手を振った。
「気持ちは分かりますが、機械としてのパソコンそのものを異世界へ持ち込むことはできませんよ。コンセントもインターネットもありませんし、仮に小説を書き上げたところで、元の世界のネットにアップロードすることは不可能ですからね」
「……そうか」
「――ですが、まあ。せっかくの望みですし、少し形を変えて叶えるとしましょう。そのパソコンの内容と機能については、あちらの世界の神に頼んで、あなたの魂そのものに定着させてもらうとしますよ。画面やキーボードがなくても、意識するだけで自由にフォルダを展開し、閲覧や執筆ができるようにね」
「意識するだけで……? そんなことができるのか」
「神の権能ですから、そのくらいはお安い御用です。そして――元の世界のインターネットにアクセスする機能ですが」
神は悪戯っぽく片目を細め、人差し指を軽く立てた。
「実機のパソコンがない以上、こちらもあなたの意識上で操作できるように構築する……これはこちらの世界の管理者である私の役目ですね。ただし、無尽蔵に使い放題というわけにはいきませんよ。世界の境界を越えて情報を引っ張ってくる以上、それ相応の『代価』が必要になります」
「代価、か。具体的にはどういうものだ?」
「それはあちらの世界のルール――魔力なのか、あるいは別のリソースなのか、向こうの神が設定するはずです。タダで無限検索とはいきませんが、いざという時の切り札にはなるでしょう」
神は満足げに頷くと、両手をパンと打ち鳴らした。
「さあ、商談成立です。少年の身体が完全に冷え切ってしまう前に、お急ぎください。……薬師 苓さん、二度目の人生、せいぜい楽しんでみてくださいね」
パチン、と指を鳴らす甲高い音が、白い静寂に響き渡った。
瞬間、足元の乳白色の空間が急速に溶け出し、視界がまばゆい光の渦に呑み込まれていく。
全身を引っ張られるような浮遊感に包まれ、急速に遠のいていく感覚。
薄れゆく意識の中、どこか呑気な神の声が、最後に頭の奥へ滑り込んできた。
『――そうそう、大事なことを言い忘れていました。あちらの少年の記憶も、多少は引き継がれますからね。まあ、一度息を引き取った後の脳ですから、多少朧気なものにはなるでしょうが……それじゃ、いってらっしゃい』
(おい、そんな重要なことを最後に……っ)
文句を返す暇もなく、私の意識は完全に漆黒の底へと落ちていった。




