2話:届かない贈り物と、16歳の朝
木漏れ日が柔らかく降り注ぐ、この小さな店の裏庭。
私――リリアは、銀のトレイに載せたハーブティーの湯気越しに、ベンチに腰掛けるレン様の横顔をそっと見つめていました。
膝の上に分厚い植物図鑑を広げ、真剣な眼差しで羊皮紙のページを追うレン様。
その白く透き通るような横顔は、亡くなられた奥様――下町の学者で、いつも穏やかに微笑んでいたあのお方の面影を、痛いほど色濃く宿していました。
騎士爵家の娘である私が、ベルフォール公爵家でレン様の専属侍女を任されてから数年。
あの壮麗な公爵邸ではなく、街の喧騒がかすかに届くこの場所にふたりで店を構えることになるなんて、少し前までは想像もしていませんでした。
すべての始まりは――あの日、レン様がエドワード様の執務室へ向かわれたこと。
余命四年の宣告を受け、屋敷中が絶望と混乱に包まれる中、レン様だけは静かに、けれど揺るぎない決意を胸に秘めていらっしゃいました。
兄であるエドワード様に「残された命の時間を、自由に生きて使い切りたい」と告げ、自立の事業という名目で店舗の権利と商業許可を取り付けたあの一夜。
そして、その決意を知った私が、専属侍女としてどこまでもお供すると誓ったあの日。
エレオノーラ様の大反対や父君の複雑な沈黙を、エドワード様が間に入ってどうにか説き伏せ、私たちはこうして公爵邸を離れ、念願だった街の一角にこの小さなお店を開くことができたのです。
ですが――。
冬のレン様といえば、特に薬剤のことをするでもなく、ただのんびりと過ごす日々が続いていました。
表通りに面したこの薬房には、一般的なお店のような商品棚も、客を迎えるカウンターもありません。あるのは、上質なベッドと書斎机、並べられた古書、そして厳選されたわずかな調合器具だけ。
全くと言っていいほど何もない空間に、毎日こうして庭でのんびりと図鑑を眺めているお姿。
公爵邸を出る時のあのご決意はどこへ行ったのか、専属侍女の私でさえ、レン様にはやる気がないのではないかとさえ思ってしまうほどでした。
「ごめんね、リリア。……これは建前なんだよ」
申し訳なさそうに、けれど悪戯っぽく微笑むその瞳には、かつて公爵邸で見たことのない、楽しげな光が宿っていました。
……建前。
その言葉を聞いた瞬間、私はハッと息を呑み、次の瞬間には深いため息が零れそうになりました。
私の決意を返してほしいくらいです。
あの夜、余命を知ったレン様がどれほどの覚悟でエドワード様に頭を下げたのか。そして私がどれほどの覚悟を胸に、生涯をかけてこのお方にお仕えしようと誓って公爵邸を出てきたのか。
それなのに、当のご本人は最初からすべてを計算づくで、この何もない空間でのんびりと日向ぼっこを決め込んでいたというのでしょうか。
「……建前、とおっしゃいますと?」
私はこめかみを軽く押さえたい衝動をぐっと堪え、手にしたトレイを抱え直しながら、努めて冷静な声で問い返しました。
「ほら、ああでも言わないと俺を外に出してはくれなかっただろ」
レン様はティーカップを口元へ運び、ふうと白い息を吹きかけながら、悪びれる様子もなくそう言いました。
「『残された命で自立の事業を興したい』なんて殊勝なことを言わなきゃ、エドワード兄さんも父上も、絶対に公爵邸から出してくれなかった。ただ外で静かに暮らしたいって言ったって、療養用の別荘に軟禁されるのがオチだったからね」
事も無げに言ってのける主人の姿に、私は頭を抱えたくなりました。
つまり、あの夜の悲壮感漂う直談判も、兄君を説き伏せた熱意も、すべてはこの「誰にも邪魔されない自由な隠れ家」を手に入れるための大芝居だったというわけです。
「……私の、あの涙と覚悟を本当にお返しいただきたいです」
じとっとした視線で睨むと、レン様は「本当にごめん」と困ったように笑い、広げていた植物図鑑をそっと閉じました。
「でも、完全に嘘ってわけでもないんだ。……表向きはしがない薬房のふりをしながら、ここでやりたいことがちゃんとある」
「さて、街にでも出てみようか。リリアも一緒にどうだい。庶民のふりでもしようよ。男女2人だから、恋人ってことでどうだい?」
そう言って、レン様はベンチから身軽に立ち上がり、悪戯っぽく片目を細めてみせました。
貴族の仕立てた上質な服ではなく、下町の青年が着るような飾りのないシャツと革のベスト。公爵邸にいた頃の張り詰めた空気はすっかり抜け落ち、どこからどう見ても、ただの人の良さそうな若者です。
「……こ、恋人、ですか!?」
私は手にしていたトレイを危うく落としそうになり、慌てて両腕で抱え直しました。侍女としての冷静さも、その一言で一気に吹き飛んでしまいます。
騎士爵の娘として、そして何よりレン様の専属侍女として仕えてきた私にとって、「庶民のふり」だけでも十分な難題だというのに、恋人同士の真似事だなんて。
「な、何を言い出すのかと思えば……! 公爵家のご子息と専属侍女が街中で恋人のふりなんて、万が一にも本邸の方々に見つかったら、一体どんなお叱りを受けるか……!」
「大丈夫だって。こんなところで兄さんたちが見張ってるわけもないし、それにさ、下町で若い男と女が肩を並べて歩いてたら、どう見たってそういう関係に見えるだろ? そのほうが自然だよ」
事も無げに笑うレン様の瞳には、かつて公爵邸の暗がりで見せていた諦念など微塵もなく、生まれて初めて手に入れた自由を楽しむ少年の無邪気さだけが宿っていました。
病のことも、重い身分も、すべて屋敷に脱ぎ捨ててきたかのようなその横顔。
……本当に、私のあの悲壮な覚悟を返してほしい。
そう呆れてみせる一方で、私の胸の奥は、先ほどからトクンと落ち着かない音を立てていました。
恋人のふり、だなんて。
頭では「ただの言い訳」「下町に紛れるための冗談」だと分かっているはずなのに、いざ面と向かって言われると、意識しないようにすればするほど顔に熱が集まっていくのが分かります。
レン様にとっては他愛のない思いつきに過ぎないのでしょう。けれど、ずっとお側で仕えてきた私にとって、それはあまりにも刺激が強すぎる言葉でした。
急激に跳ね上がった鼓動を悟られないよう、私はぎゅっとトレイを胸元で抱きしめ、必死に平静を装って呼吸を整えました。
「……分かりました。ですが、あまり目立つような真似はなさらないでくださいね」
私は赤くなりそうな頬をごまかすように早口で告げると、トレイを片付けて上着を羽織り、レン様のお供として店を出ました。
そうして街へと繰り出した私たち。
初めて足を踏み入れた下町の通りは、行き交う人々や呼び込みの声で活気に満ちていました。珍しい装飾品や日用品が並ぶ雑貨屋を通り過ぎ、あちこちの露店からは食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきます。
初めての庶民の街歩きとなれば、物珍しさに目を奪われたり、美味しそうな匂いに足を止めたりするものだと思っていました。
ですが、レン様はそうした賑やかな店並みには目もくれず、いい匂いが立ち込める露店を前にしても、立ち止まる気配すら微塵も見せません。
「……あの、レン様。何か召し上がらないのですか? あちらにも珍しそうな品を並べた店がありますけれど」
「あの店は、さすがに敷居が高いかな。ちょっと物騒だしね。それに屋台は……衛生面で少し心配だよ」
周囲に聞こえないよう声を潜め、レン様は困ったように肩をすくめました。
「確か、公爵邸御用達の商会がこの先にあったよね」
「……それでは、お屋敷にいらした頃と何も変わりませんけれど」
庶民の暮らしを体験しに来たはずなのに、結局頼るのが馴染みの高級商会では意味がない。私がジト目を向けると、レン様は「いやいや」と苦笑しながら人差し指を立てました。
「安心をお金で買うのも立派な庶民の知恵だよ。それに、まずは勝手知ったる場所で相場と流通を確かめたいんだ」
「はあ……そうでございますか」
整った理屈を並べられては返す言葉もなく、私は形のいい溜め息をひとつ零すしかありませんでした。
結局のところ、このお方はどこまで行っても貴族育ちの若君なのです。どれほど庶民の身なりを真似てみせても、染み付いた価値観まではそう簡単に抜け落ちるものではないらしい。
「ほら、ため息をつくと幸せが逃げちゃうよ、リリア」
「誰のせいで逃げていると思っているのですか」
涼しい顔で歩調を速めるレン様の背中を、私は小走りで追いかけました。
呆れて文句を言いつつも、前を行くその華奢な背中を見つめていると、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えます。
明日――明日は、レン様の十六歳の誕生日。
本来なら公爵邸で盛大な祝宴が開かれ、多くの貴族たちから賛辞と贈り物を浴びせられていたはずの特別な日。けれどレン様はそれらすべてを捨て、こうして下町の雑踏の中を、ただの少年として歩いている。
十六歳。あの日告げられた『余命四年』の、最後の刻限が目前に迫っている。
そんな私の胸中を知ってか知らずか、レン様はふと足を止め、重厚な石造りの建物を指差しました。
「着いたよ、リリア。ここだ」
見上げれば、公爵家の紋章を見慣れた者ならば一目でそれと分かる、小さな金のレリーフが掲げられていました。
ベルフォール公爵家御用達の看板を掲げるだけあって、店構えは落ち着いた気品を漂わせています。
薬草や調合器具の相場を見るのだろうと、私はてっきり薬剤の並ぶ棚へ案内されるものだと思っていました。
けれど、レン様が迷わず足を向けたのは――色とりどりの宝石や繊細な細工が施された、女性向けの装身具が並ぶ一角でした。
「……あの、レン様? 薬剤の流通をお調べになるのでは?」
「ん? ああ、それも大事だけどね。……ほら、明日はリリアの誕生日だろ?」
「……レン様。私の誕生日は、半年先ですよ」
私が静かに告げると、レン様は一瞬だけ足を止め、それから困ったように笑って視線を逸らしました。
「……そうだっけ。でも、買える時に買っておかないとね」
冗談めかしたその言葉が、痛いほど胸に突き刺さります。
明日、レン様は十六歳になる。
けれど、明日を迎えたその時に、その先の未来が確約されているわけではない。いつ発作が起き、いつ命の灯火が消えてしまうのか、誰にも分からないのです。
だからレン様は、自分が生きている今この瞬間に、半年先の私への贈り物を遺そうとしている。
――そんなこと、絶対に許さない。
「半年先です。今は要りません。誕生日にいただきます」
溢れそうになる涙を必死に呑み込み、私は逃げようとするレン様の瞳をまっすぐに見据えました。
私の頑なな態度と視線を受け止め、レン様は目を見張り、言葉を失ったように立ち尽くしました。
やがて、困ったような、けれどどこか救われたような、かすかな笑みがその唇元に零れます。
「……手厳しいな、リリアは」
そう呟いて視線を落としたレン様は、小さく息を吐き出すと、伸ばしかけていた手をそっと引っ込めました。
「分かったよ。じゃあ、半年後までお預けだね」
「はい。約束ですからね」
決して折れない私の声に、レン様は優しく目を細め、静かに頷いてみせました。
その夜は眠れませんでした。
静まり返った薬房の二階、割り当てられた自分の部屋のベッドに横たわっても、目を閉じれば昼間のレン様の横顔が鮮明に蘇ってきます。
明日、生きている保証がないから。
半年先、自分がこの世にいないかもしれないから。
そう悟っているからこそ見せた、あのはかなげな微笑みと、引っ込められた手のひら。
(……絶対に、死なせたりしません)
暗がりの中、シーツを握りしめた指先にぎゅっと力を込めます。
あの残酷な宣告になど屈しません。明日も、半年後も、その先の十年も二十年も。
どれほど過酷な運命が立ち塞がろうとも、私はこの命を懸けてレン様をお守りし、その命を繋ぎ止めてみせる。
窓の向こうの夜空が、わずかに白み始めていました。
――今日から、レン様の十六歳が始まる。
朝の光が差し込む一階の居間。
朝食の準備を整え、お茶を淹れていた私の耳に、階段を降りてくる微かな足音が届きました。
「おはよう、リリア――」
いつもの穏やかな声。
十六歳の誕生日を迎えたレン様が、微笑みながら私へと歩み寄る。
その、わずか数歩の瞬間でした。
ふっとレン様の身体からすべての力が抜け、まるで糸の切れた操り人形のように、その場へ崩れ落ちたのは。
床に倒れ伏す鈍い音。
手にしたティーポットを取り落とし、陶器の割れる甲高い音が静寂を切り裂きました。
「……レン様……!?」
声が震え、息が止まりました。
駆け寄って抱き起こすと、レン様はぐったりと私の腕の中で脱力していました。
昨日、あのお方が胸の奥で恐れていたこと。
明日以降、生きている保証などないという過酷な現実が、十六歳の朝、容赦なく襲いかかったのです。
胸元に耳を当てると、トクン、トクンと、頼りなくも確かな鼓動が刻まれている。唇から漏れる息は細く、熱を帯びた肌が急速に青ざめていく。
「レン様! レン様、しっかりしてください……! レン様――っ!!」
いくら名前を呼んでも、微かに眉をひそめるだけで、目を開けてはくれません。
必死に主人を抱きしめる私の叫びが、朝の静かな店内に響き渡りました。




