1話:余命四年の宣告と、最後の我儘
俺の名はローレンス・ド・ベルフォール。今年で十二になる。この国の頂点に君臨する筆頭貴族、ベルフォール公爵家の末子であり、屋敷の者たちからは親しみを込めてレンと呼ばれていた。
初夏の木漏れ日が斑模様に揺れる別館の中庭で、俺はひんやりとした石造りのベンチに腰を下ろし、膝の上に広げた分厚い植物図鑑に視線を落としていた。すぐ傍らには、湯気を立てるカモミールティーの銀器を載せたワゴンと、主人の邪魔をせぬよう息を潜めて控える専属侍女の慎ましやかな姿がある。ざらりとした羊皮紙の縁を指先でなぞり、ゆっくりとページをめくれば、乾燥したインクと古い紙特有の懐かしい匂いが微風に乗って鼻腔をくすぐった。
ふと視線を上げれば、視界の先には白亜の巨壁と壮麗な彫刻で固められた豪壮な本館がそびえ立っている。王族の濃い血を引く父上を筆頭に、あちら側では常に宮廷の政治や派閥の暗闘、領地統治の打算といった生々しい喧騒が渦巻いていた。だが、俺がこうして日長一日を過ごしているこの別館の中庭は、遠くで響く小鳥のさえずりと葉擦れの音しか聞こえない、世俗から切り離された静謐な箱庭だった。
母上が病で身罷って以来、俺の一日の大半はこの場所で完結している。母上は父の正妻ではなく、下町の片隅で薬草の効能を確かめ、鉱物の組成を調べて生計を立てていた市井の学者――すなわち、ただの平民に過ぎなかった。身分差の厳しいこの王国において、平民の血を引く俺に公爵家の家督を継ぐ資格など欠片もなく、王位継承権の末席にすら名指しされることはない。周囲の貴族たちは哀れみの混じった侮蔑の眼差しを向け、陰では嘲笑っているようだったが、当の俺からすれば至極気楽な境遇だった。母上が遺してくれた手記を紐解き、日向ぼっこをしながら庭の草木を観察する穏やかな時間さえあれば、それだけで俺の小さな世界は満ち足りていたからだ。
一陣のそよ風が、膝の上のページをカサリと揺らした、その時だった。
「レン、またそんなところで本とにらめっこか?」
頭上から降ってきた快活な声に顔を上げると、そこには近衛騎士団の豪奢な軍礼服を粋に着崩した長身の青年が立っていた。腰に佩いた儀礼用の長剣をカチャリと鳴らし、陽光を浴びた金髪を揺らしながら、屈託のない笑みを浮かべて歩み寄ってくる。正妻の嫡子であり、王位継承権第4位にして王国近衛騎士団長を務める、このベルフォール公爵家の正統なる継承者――エドワード兄さまだった。
「エドワード兄さま、ちょうどいいところに来た」
俺は膝の上の図鑑をパタンと閉じ、ベンチから身を起こして兄さまの精悍な立ち姿を見上げた。
「兄さん、俺に剣術を教えてくれないか?」
「……剣術を?」
普段は部屋の隅や庭のベンチで本に没頭してばかりいる弟の口から飛び出した意外な単語に、兄さまは目を丸くし、呆気にとられたように瞬きを繰り返した。俺は居住まいを正し、胸の中で温めていた言葉を飾らずに紡ぎ出す。
「俺には王位継承権も、公爵家を継ぐ資格もない。だからいつまでも兄さんや姉さんに甘えているわけにはいかないだろ? 将来は自分の腕一本で生きていけるようになりたいんだ。できれば、兄さんのいる近衛騎士団を目指せたらと思って」
そう告げると、エドワード兄さまは一瞬だけぽかんとした顔をした後、その端正な顔いっぱいに破顔の笑みを広げた。まるで我がことのように誇らしげに胸を張り、大股で踏み込んでくる。
「いいぞ、近衛騎士団長のこの私が、基礎の基礎からみっちり叩き込んでやろう!」
兄さまが快諾し、自慢の胸板を拳で叩いた、まさにその瞬間だった。
「――絶対に許しませんことよ!」
中庭の穏やかな静寂を切り裂く、凛と張り詰めた鋭い叱責が回廊に木霊した。コツコツと硬質な靴音を小気味よく響かせ、別館のアーチをくぐって現れたのは、豪奢な青藍のドレスを翻した絶世の美女だった。
「レンに剣を持たせるなんて、一体何を考えていらっしゃるのエドワード! 万が一、その白い柔肌に傷でもついたらどう責任を取るおつもりですの!?」
鬼気迫る剣幕で兄さまを睨みつけているのは、姉のエレオノーラだった。王位継承権第5位にして、王都の貴族たちが誰も頭の上がらない社交界の中心人物。その冷徹なまでの美貌と怜悧な知性から、宮廷では『氷の令嬢』などと恐れられているが――こと俺の前では、常軌を逸した過保護を振りかざす厄介な姉へと豹変する。
「お、おいエレオノーラ、落ち着け。レンが自分から自立のために騎士団を目指したいと言い出したんだぞ? 男として素晴らしい心意気じゃないか」
「自立など不要ですわ! レンが働いて生計を立てる必要などこれっぽっちもありません! 我が公爵家で一生大切に、何不自由なく養っていけばよいだけの話でしょう!」
姉さんはエドワード兄さまをピシャリと一喝すると、目にも留まらぬ速さでクルリと俺の方へ向き直った。その瞬間、氷雪の覇気を纏っていた般若のような表情は一瞬で融解し、蕩けるような甘い笑みへと様変わりする。
「大丈夫ですわよ、レン。将来のことなど何も心配いりません。わたくしが一生、あなたを美味しくて甘いお菓子と温かな毛布で包んで守り抜いてさしあげますからね」
流れるような所作で俺の両手をぎゅっと包み込むと、微かに香る薔薇の匂いとともに、陶器のような白い顔を息が触れ合うほどの至近距離まで寄せてくる。正直なところ、俺はこの姉の過剰なスキンシップと過保護な行動が少し苦手だった。愛されているのは痛いほど伝わってくるのだが、いかんせん距離感が近すぎるし、こちらの都合はお構いなしだ。このままだと一生屋敷の奥で飼い殺しにされてしまいかねない。
「あ、ありがとう、エレオノーラ姉さん……。でも、手、ちょっと痛いかな……」
俺が苦笑いしながら身を引こうとすると、姉さんはハッとして手を緩め、今度は心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「まあ! ごめんなさいレン、痛かったかしら? やはりあなたの肌はシルクのように繊細ですわ。ほらご覧なさいエドワード、こんなにも儚い子に剣を握らせるだなんて、正気の沙汰とは思えませんことよ!」
「いや、今のはお前の握力がおかしかっただけだろう……」
兄さまが肩をすくめ、心底呆れたように深い溜め息をついた。
だいたいいつも、我が家の日常はこんな調子だった。血の繋がらない弟である俺を、兄さまは一人前の男として鍛え上げようとし、姉さんは壊れやすいガラス細工のように守り囲い込もうとする。妾腹の子ゆえに陰口を叩く周囲の貴族たちからすれば信じられない光景だろうが、ベルフォール家の別館は、いつだってこの二人の騒がしくも温かなやり取りで満たされていた。継承権のない俺にとって、この過保護すぎる兄と姉は、窮屈な宮廷の悪意から俺を遮断してくれる最大の盾であり、何よりもありがたい本物の家族だった。
それに対し、家長たる父上はと言うと――。ベルフォール公爵家の現当主であり、国王陛下の血を引く重鎮として、普段は王宮の政務や軍事の差配で多忙を極めている。威厳に満ちた鉄仮面のような表情を崩さず、周囲の貴族たちからは恐れられている父上だが、俺に対して冷遇するようなことは一切なかった。平民であった母上を心から深く愛していた父上は、その面影を色濃く残す俺のことを、不器用ながらも静かに気にかけてくれている。王国の厳格な法がある以上、俺に爵位や領地を継がせることは叶わないが、この別館で俺が母上の蔵書を読み漁り、何不自由なく穏やかに暮らせているのは、他ならぬ父上の確固たる庇護があってこそだった。
――そんな、温かく満ち足りた日常が、これからもずっと続いていくのだとばかり信じ込んでいた。
「……っ!?」
前触れは、何ひとつとしてなかった。胸の最深部を、冷え切った巨大な万力で一息に締め上げられたような、激烈な激痛が突き抜けた。ドクン、と心臓が異常な軋みを上げて跳ね上がり、両肺からあらゆる酸素が一瞬で強奪される。
「う……くっ……」
「レン……?」
突然胸元を掻きむしって足を止めた俺の異変に、真っ先に気づいたのはエレオノーラ姉さんだった。
「……息が……少し、息苦し……っ」
掠れた声で弁明しようとした瞬間、両膝から急速に力が抜け落ちた。視界がぐらりと傾ぎ、抗う間もなく、ひんやりとした石畳の上にバタリと崩れ落ちる。
「レン!?」
「レン様っ!?」
背後で控えていた専属侍女の悲鳴が上がり、駆け寄ってきた華奢な腕が俺の体を必死に抱きとめた。ガシャン、とワゴンが倒れ、銀のポットと陶器のティーカップが無惨な音を立てて砕け散る。
「おい、しっかりしろレン! 誰か、医師を呼べ! 早くしろ!!」
「セバスチャン! 腕利きの専属医を今すぐここへ集めなさい!」
頭上を叩き割るような兄さまの怒号と、金切り声を上げる姉さんの叫びが中庭に反響する。駆けつけた初老の執事長が蒼白な顔で回廊へと走り去っていく地鳴りのような足音と、俺を抱きしめる侍女の震える体温を頼りに、俺の意識は急速に底なしの暗闇へと沈んでいった。
◇
ふと意識の表層に浮上した時、背中に触れたのは冷たい石畳ではなく、吸い付くような上質なシーツの沈み込みだった。鉛を流し込まれたようにまぶたが重く、指先ひとつ動かすことすら億劫だ。だが、重苦しい薄闇の向こう側から、押し殺したような複数の囁き声が途切れ途切れに鼓膜を揺らした。それは兄や姉の声ではなく、公爵家に仕える筆頭宮廷医たちが交わす、戦慄を押し殺した密談だった。
「……信じられん。これは本当に、あの……」
「ああ、間違いない。胸元から鎖骨、そして首筋へと広がりつつある、この黒い幾何学模様……ただの皮膚病や外毒の類などでは断じてない」
震えを帯びた医師の囁きに、もう一人の年老いた医師が、重く沈んだ声で言葉を継ぐ。
「皮膚の表面に留まっておらぬ。魔力脈と血脈そのものに黒い根を深く張り巡らせておるのだ。まるで意志を持つ生き物のように、脈動を打つたびに紋様が広がっておる……」
「まさか、王家の秘史に伝わる『あの呪詛』だというのか……? なぜ、この若さで、よりによってこの少年に発現するなど……」
胸の奥底で、じくじくと燻り続ける鈍い熱。俺はおぼろげな意識の淵でその生々しい告白を聞き流しながら、自分の幼い肉体に決定的な破滅の刻印が刻まれたのだと、冷徹に悟り始めていた。
◇
発作のような窒息感が引き、ようやく寝台から起き上がれるようになった数日後の夜。本館の最奥にある重厚な食堂には、父上、エドワード兄さま、エレオノーラ姉さん、そして俺の四人が車座のように集まっていた。父上の一言によって給仕の使用人たちはことごとく退室させられていたが、俺の背後には、ただ一人、専属侍女だけが銀のトレイを抱えて直立することを許されていた。銀の燭台が照らし出す長テーブルには、湯気を失った豪奢な料理が冷え切ったまま並べられ、誰一人としてフォークに手を伸ばそうとはしない。息の詰まるような沈黙を破ったのは、上座に腰を下ろした父上の低く太い声だった。
「――レン。体調はどうだ」
「はい、父上。もう胸の苦しみはありません」
気丈に答えると、父上は肺腑の空気をすべて吐き出すように深い溜め息を漏らし、組んだ両手の上に顎を乗せて俺を射抜くように見据えた。その双眸には、百戦錬磨の将たる威厳とともに、愛する息子を前にした父親としての隠しようのない苦渋の色が滲んでいた。
「お前の胸元に現れたあの黒い紋様について、説明せねばならん」
エドワード兄さまが食卓の下で拳をギリリと握りしめ、エレオノーラ姉さんは血が滲むほど強く下唇を噛みしめている。二人はすでにすべての事情を知らされているらしく、その双貌は病的なまでに青ざめていた。
「あれは病ではない。我がベルフォール家……王家の血筋に連なる者に、数代に一度だけ突然変異のように発現する【先々代の呪詛】だ」
「呪詛……ですか?」
「かつて王家と公爵家が戦火の中で受けた、強大な古代の呪詛の澱だ。血脈の底に眠り続けていたその毒が、なぜか今代、最も魔力脈が繊細であったお前の身に宿ってしまった。……あの紋様はお前の魔力と生命力を喰らいながら、徐々に全身へと侵食していく。王宮の筆頭魔導士も最高位の聖職者も総動員して手を尽くしたが、現代のいかなる聖魔法でも、この呪いを解く術は見つからなかった」
父上は重苦しい沈黙を挟むと、痛恨の面持ちで非情な宣告を下した。
「この呪詛の侵食速度は極めて正確だ。紋様がお前の成長とともに血管と魔力脈を伝って広がり、心臓と脳を完全に覆い尽くした時、宿主の生命活動は停止する。……記録によれば、発症した者が生き長らえられるのは、長く見積もってもあと四年。お前が十六歳を迎える年が、限界だ」
「じゅう、ろく……」
乾いた唇から、掠れた呟きが自然と零れ落ちた。今年で十二歳になる俺にとって、それは即ち、己の生涯に残された時間がわずか四百日余りの塊――たった四年分しかないという冷徹な死刑宣告だった。
――ガシャンッ!!
静まり返っていた食堂に、鼓膜を劈くような甲高い金属音と陶器の破砕音が炸裂した。俺の背後で給仕をしていた専属侍女が、あまりの衝撃に指先の感覚を失い、銀のトレイごと熱いスープ皿を絨毯の上へ叩き落としてしまったのだ。
「あ……も、申し訳ございません……っ!」
飛び散った磁器の破片と飛び散る褐色のスープ。普段ならば完璧な作法を誇る彼女が、主人の前であることも忘れ、床にへたり込んで顔を手で覆い、ボロボロと大粒の涙を零して肩を震わせていた。
「そんな馬鹿な話があるか!」
その破砕音に弾かれたように、エドワード兄さまが椅子を蹴立てて立ち上がり、拳で分厚いマホガニーの卓を激しく打ち据えた。
「国中の名医や大司教をすべて集めれば、何か手立てはあるはずです! レンを十六で死なせるなど、断じて認めん!」
「エドワードの言う通りですわ、お父様!」
エレオノーラ姉さんもまた、青褪めた顔を憤怒と絶望に歪めながら食卓へ身を乗り出し、激しい剣幕で父上へと詰め寄った。
「我が公爵家の財力とコネクションをすべて注ぎ込めば、大陸中の秘薬や古代の遺物だって手に入ります! わたくしが、わたくしが絶対にレンを救ってみせますわ!」
床にへたり込んで嗚咽を漏らす少女と、愛する弟の理不尽な運命に怒号を上げる兄と姉。取り乱し、叫び、運命を呪う家族たちの痛切な姿を前に、父上はただ重く目を伏せ、苦渋に満ちた沈黙を保つことしかできなかった。
◇
あの過酷な宣告が下されてから、数日の月日が流れた。公爵家の屋敷を取り巻く空気は、あの日を境に完全に変貌していた。父上は王立図書館の禁書庫や魔導研究所へ昼夜を問わず早馬を走らせ、エレオノーラ姉さんは社交界のあらゆる人脈を脅迫に近い勢いで総動員し、世界中の秘薬や古代呪術の解法を血眼になって掻き集めている。専属侍女の少女も、赤く腫らした瞳のまま、片時も俺の傍を離れまいと献身的に身の回りの世話を焼き続けていた。家族が俺のために文字通り命を削って奔走してくれている現実は、痛いほど胸に染み入っていた。
だが――周囲の切迫した狂乱とは裏腹に、当事者である俺の精神は、奇妙なほど冷徹に研ぎ澄まされていた。十六歳まで、あと四年。最初の数日は暗闇に呑まれかけたが、母上の遺品である草木の押し花や手記のページをめくっているうちに、ある澄み切った確信が胸の奥底で確固たる輪郭を結び始めていた。
(……このまま豪壮な屋敷の天蓋付きベッドの上で、いつ起こるかも知れない奇跡に縋り、ただ怯えながら死を待つような余生だけは、死んでも御免だ)
俺は意を決してベッドを抜け出すと、重厚な本館を渡り、近衛騎士団長たる兄の私室兼執務室へと足を向けた。黒漆塗りの樫の扉を静かにノックすると、室内から疲労を色濃く滲ませた、だが聞き慣れた重い声が返ってきた。
「入れ」
ノブを回して足を踏み入れると、机の上にうずたかく積まれた書類の山に埋もれるようにして、エドワード兄さまが両手で眉間を強く揉みほぐしていた。連日の不眠不休の調査が祟っているのだろう、その精悍な顔立ちには土気色が差し、目の下には黒々とした隈が張り付いている。
「レン……? どうした、体の具合はいいのか? 部屋で安静にしていなくて大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ、兄さん。今は痛みもないから」
俺は静かに歩みを進め、書類の散乱する執務机の正面にすっきりと背筋を伸ばして立った。エドワード兄さまは痛ましげに俺を見つめ、掠れた声で自分に言い聞かせるように呟いた。
「すまない、レン。騎士団の人脈を使って各地の聖職者や魔導士に当たっているが、まだ有効な手立てが見つからなくてな……だが諦めるな。絶対に兄さんがお前の呪いを解く方法を見つけ出してやる」
「ありがとう、兄さん。でもね、今日はそのことで相談に来たわけじゃないんだ」
俺は揺らぐことのない瞳で兄さまの視線を受け止め、心に秘めていた唯一の願いを告げた。
「俺に残された、これからの四年の……『命の使い方』について、相談に乗ってほしいんだ」
「……命の使い方、だと?」
兄さまは訝しげに太い眉をひそめ、握りしめていた羽ペンをコトリと羊皮紙の上に置いた。俺は深く肺腑を満たすように息を吸い込み、魂の底から絞り出すように言葉を重ねる。
「母上は、市井の路地裏で薬草や鉱物を調べ、自分の知恵と腕一本で生きることを何より誇りにしていた人だった。俺もずっと、母上の遺してくれた手記を道標にして育ってきた。……自分が十六歳までしか生きられないと知った時、最初に湧き上がったのは、屋敷の奥で生かされるだけの無力な存在として人生を終えたくない、という強い拒絶だったんだ」
「レン……しかし、お前の体はいつ発作が起きるかもわからないんだぞ」
「だからこそだよ、兄さん。ただ怯えて死を待つくらいなら、残された命の時間を、自分の足で、自由に生きて使い切りたいんだ。俺は――王都の下町に出て、店を開きたい」
「店を……?」
突拍子もない弟の申し出に、兄さまは目を剥いた。
「ああ。母上が遺してくれた薬草や鉱物の知識を活かして、調薬や素材を扱う小さな店を持ちたいんだ。もちろん、公爵家の名前を使って好き勝手に出ていくわけにはいかない。だから名目上は『将来の自立に向けた事業の立ち上げ』という形にして、採算や体裁を整えたい。そのために、兄さんに協力してほしいんだ」
俺は机の端に両手をしっかりとつき、真っ直ぐに兄さまの瞳を覗き込んだ。
「父上やエレオノーラ姉さんにいきなり話せば、絶対に全力で止められる。だからまず、兄さんに俺の覚悟を聞いてほしかった。名目上の店舗の手配や手続きについて、兄さんの力を貸してくれないか?」
エドワード兄さまは、机の上に置かれた俺の両手と、そこに宿る揺るぎない覚悟の光を交互に見つめ、そのまま深々とした沈黙の淵へと沈んでいった。
執務室を満たすのは、壁掛け時計がカチリ、カチリと刻む乾いた秒針の音と、窓の遥か下から微かに届く近衛兵たちの練兵の号令だけだ。兄さまの眉間に刻まれた縦じわは深さを増し、その分厚い胸板が、内に渦巻く苦悶を抑えつけるように大きく上下している。
「……本気なのか、レン」
やがて絞り出された声は、低く、痛切な色を帯びていた。
「お前が言っているのは、ただの子供の我儘じゃないぞ。いつ命の火が消えるかも知れぬ身体を抱えながら、公爵家の絶対的な庇護を自ら脱ぎ捨て、あの猥雑で薄汚れた下町へ飛び込むということだ。屋敷にいれば、大陸中から集めた最高級の滋養薬も、常駐する腕利きの宮廷医の治療も受けられる。だが市井に降りれば、ひとたび発作が起きた瞬間に、誰の看取りもなく命を落とす危険すらあるんだぞ」
「わかってるよ、兄さん」
俺は怯むことなく、静かに、だが鋼のように硬い意志を込めて頷いた。
「でも、天蓋付きのベッドの上で天井の木目を数えながら、あと何日、あと何時間って怯えて過ごす毎日は……俺にとって、生きているとは言えないんだ。母上が愛したあの下町で、母上が遺してくれた知識を使って、誰かの役に立ちながら自分の力で一日一日を噛み締めたい。それが、俺の最初で最後の……命を懸けた我儘なんだ」
「っ……」
兄さまが苦渋に満ちた表情で奥歯を噛み締めた。近衛騎士団長として何百もの歴戦の兵を統率し、冷徹な軍略を叩き込まれてきたはずの青年が、今にも溢れ出しそうな涙を必死に堪えるように拳を震わせている。
「……お前は、強いな。本当に……誰よりも強いよ、レン」
兄さまは勢いよく立ち上がると、机越しに身を乗り出し、俺の肩をその骨太な掌で力強く鷲掴みにした。上質な革手袋越しに、兄の熱い体温と痛烈な想いが直に伝わってくる。
「分かった。お前のその覚悟、このエドワード・ド・ベルフォールが男として、兄として受け止めよう。下町の中でも治安の安定した区画に、騎士団の息がかかった確かな物件を押さえてやる。商業ギルドへの登録も、店舗の開業手続きも、私の個人名義を使って裏からすべて手筈を整えてやる」
「兄さん……! ありがとう!」
「礼を言うのはまだ早い」
兄さまは厳しい眼差しを崩さぬまま、俺の目を射抜くように釘を刺した。
「条件が二つある。一つは、専属侍女をお前の護衛兼世話係として必ず同行させることだ。あいつの公爵家への忠誠心と細やかな観察眼があれば、お前の身体の僅かな異変にも誰より早く気づけるはずだ。そして、もう一つ――」
兄さまは言葉を切り、喉仏を上下させた。その精悍な顔立ちに、先ほどまでの重苦しい苦悩とは全く異質な、冷や汗がどっと滲み出る。
「……父上への説得は私が命懸けで引き受けてやる。だが、エレオノーラには……お前自身の口から話せ。あいつを納得させられんようでは、下町へ出るなど天地がひっくり返っても不可能だぞ」
その名を耳にした瞬間、俺の背筋にもツツツと冷たい悪寒が駆け抜けた。
「……やっぱり、姉さんには話さないと駄目だよね」
「当たり前だ! 黙って下町へ出奔などしてみろ、あの『氷の令嬢』が狂乱して、近衛騎士団を総動員して下町の区画ごと焼き払いかねんぞ……!」
兄さまが本気で戦慄したように両肩をすくめた、まさにその刹那だった。
カチャリ、と重厚なドアノブが無機質な金属音を立てて回った。
「――まあ。お取り込み中のところ、失礼いたしますわ」
鈴を転がすような美しく涼やかな美声とともに、豪奢な青藍のドレスの裾を揺らして部屋へ滑り込んできたのは、噂をすれば影の当人――エレオノーラ姉さんその人だった。
その両腕には、王宮の禁書庫から持ち出してきたとおぼしき、埃を被った分厚い羊皮紙の古文書が何冊も抱えられている。目の下には兄さまと同じ濃い隈が刻まれていたが、その紫水晶の瞳には、愛する弟を呪いから救い出すための執念が爛々と燃え盛っていた。
「レン、こんなところで何をしていますの? 身体を休めていなければいけませんのに……エドワード、あなたまたレンを連れ回して無茶をさせているのではありませんでしょうね?」
絶対零度の冷気を帯びた眼光が兄さまを貫く。兄さまは「ひっ」と情けない悲鳴を喉の奥で漏らし、騎士団長にあるまじき素早さで一歩後退りして露骨に視線を逸らした。
俺は覚悟を決め、すっと息を吸い込んで姉さんの正面へと歩み出た。
「違うんだ、エレオノーラ姉さん。俺が自分の意志で、兄さんに相談に来たんだ」
「レンが……? 相談、ですの?」
姉さんは訝しげに細い眉を寄せ、抱えていた古文書の山を近くの革張りソファへと無造作に置くと、いつもの蕩けるような笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「まあ、何かしら? わたくしに言えない相談など、この家に存在するはずがありませんのに。さあ、なんでもおっしゃいな。あなたが望むものなら、王位であろうと海の果ての財宝であろうと、わたくしがすべて手に入れて差し上げますわ」
そう言って優しく差し伸べられた姉さんの華奢な手を、俺は両手でそっと包み込むようにして受け止めた。その温もりと、弟を想う途方もない愛情の重みを全身で受け止めながら、俺は迷うことなく、真っ直ぐに姉さんの瞳を見つめて告げた。
「姉さん。俺に――下町で、自分の店を持たせてほしいんだ」




