28話:冬のレムリア法皇国
【四季巡回の出立と冬のレムリア法皇国へ】
帝都の地下配管工事が新商業連合の突貫作業によって順調に進み始めた頃、レンの私室に1枚の重厚な親書が届けられた。
4大国間で締結された『巡回協定』に基づく、最初の公式出張命令――。
その行き先は、大陸の南東に位置する宗教国家【レムリア法皇国】。季節は折しも、冷え込みが日増しに厳しさを増す初冬であった。
「いよいよ始まりますね、四季巡回」
荷造りの進む部屋で、シエナが分厚い羊皮紙の束を机の上に置いた。相変わらず表情1つ変えないが、その眼鏡の奥の瞳は爛々と冴え渡っている。
「こちらがレムリア法皇庁の組織図、および『聖水・聖具利権マップ』の最新版です。あわせて、法皇庁が秘密裏に抱えていると目される裏帳簿の推定資金ルートをまとめておきました。巡回医療の傍ら、現地の利権構造を綺麗に洗い出せるよう手配してあります」
「シエナ……僕が行くのはあくまで衛生環境の改善と巡回診療であって、監査や査察に行くわけじゃないんだよ?」
「ええ、表向きは。ですが、病巣を根絶するにはまず患部に流れる膿の経路を知る必要がありますので」
涼しい顔で言い放つ有能すぎる秘書に、レンは早くも胃のあたりを押さえた。法皇庁の闇を暴く気満々な彼女を連れて行くこと自体が、最大の爆弾を抱えていくようなものである。
「そういえば、ナディアとエリスの様子はどうだった?」
「帝都の店舗『名もなき薬種問屋』の留守を預かるよう、レン様から申し渡された通りに引き継ぎを完了しております。ナディアは『レン様のお留守は私が命がけで守ります!』と意気込み、エリスも『留守中の調剤管理と帝都平民街の経過観察は抜かりなくこなします』と頷いておりました。2人を残してまいりますので、こちらの店舗運営に憂いはございません」
「うん、2人でしっかり店を守ってくれるなら安心だな」
そこへ、両腕いっぱいに瓶や布袋を抱えたリリアが小走りで駆け込んできた。
「お兄様! 大変です、向こうは南東とはいえ冬の巡礼路は冷たい海風と寒波で底冷えするそうです! 道中で倒れたら1大事ですから、胃薬の特大瓶と、特注の金属湯たんぽや分厚い羊毛毛布を馬車の床下に敷き詰める勢いで詰め込みました!」
「あ、ありがとうリリア……でも、胃薬の瓶が以前の3倍くらい大きくなってないかい?」
「気のせいではありません! 書類上とはいえ私の義兄上であり、名目上は筆頭公爵位にまで上り詰めたお兄様の胃壁に穴を開けさせるわけにはまいりません!」
健気ながらも容赦なく茶化してくる義妹のツッコミに小さく苦笑していると、シエエナが思い出したように懐から1通の親書を取り出した。
「そういえばレン様、母国ルーヴェン王国の近衛騎士団長であられる実兄、エドワード様より早馬にて至急の返信が届いております」
「エドワード兄上から? 何か急用でもあったのかな」
「ええ。近衛騎士団副隊長であり、今回の専属護衛隊長に任命されたカトレア様が、上官であるエドワード様へ提出した遠征計画書に目を通されたようでして……その返答が、便箋を引き裂かんばかりの筆圧で『却下! レンがバルツ男爵家籍になったからといって、弟の寝首……いや純潔を狙うなど言語道断!』と大書されておりました」
「……カトレア、兄上にどんな申請を出したの?」
「『冬期の長距離行軍において、レン様の低体温症による消耗を防ぐため、隊長である私自身が馬車内および宿営地において常時密着し、体温低下を防ぐための【添い寝警護任務】を志願する』とのことです」
「……医学的に見て低体温症の防止対策自体はありがたいし完全に正しいんだけど、添い寝のほうは即座に却下されて本当によかったよ……」
カトレアの迷いのない武人肌の暴走を想像し、レンの胃がキュッと引き攣った。添い寝警護などされた日には、寒さで凍える前に緊張と心労で心停止しかねない。自身も胃薬を手放せない身でありながら、遠く離れた母国から弟の純潔を死守してくれた実兄に、レンは心の中で深く感謝した。
◇
翌朝。冷たい朝霧が立ち込める帝都の城門前に、法皇国へ向かう遠征用の魔導馬車が静かに停車していた。
白銀の甲冑を凛々しく鳴らしながら、馬車の脇に直立したカトレアが、悔しげに眉をひそめてレンを出迎える。
「……おはようございます、レン様。エドワード団長の石頭め、極寒の行軍における体温保持の重要性をまるで理解していません。ですがご安心を。不測の事態があれば、いかなる軍規を犯してでも私がこの身を盾として、いえ、湯たんぽとなってお守りします」
「い、いや、カトレア。湯たんぽも毛布も山ほど積み込んだから、本当に大丈夫だからね……?」
レンが引きつった笑いを返しながら馬車に乗り込もうとした、その時だった。
「あら、ご出発のご挨拶に間に合ってよかったですわ」
澄み渡るような、しかし触れれば指先が凍りつきそうな美声が響き渡った。
カトレアが瞬時に身構え、近衛兵たちが一斉に直立不動の敬礼をとる。
城門の影から現れたのは、豪奢な毛皮の外套を羽織った帝国皇女セシリアだった。
彼女は侍女たちを下がらせると、レンの乗る馬車のステップへと優雅に歩み寄ってくる。その唇には完璧な淑女の笑みが浮かんでいたが、紫紺の瞳の奥は絶対零度の冷気を放っていた。
「セシリア様……わざわざお見送りに?」
「ええ、もちろんですわ。帝都の水道網をあざやかに手中に収め、息つく暇もなく今度は法皇庁の懐へと潜り込む……相変わらず、感服するほどの手際ですこと」
(……手中に収めてないし、ただの配管交換の繋ぎでろ過器を置いただけなんだけど!)
心の中で必死に弁明するレンをよそに、セシリアはふわりと馬車の窓枠に手をかけ、レンの耳元へ顔を寄せた。
「レムリア法皇国には、あの純潔を売り物にする聖女ソフィアや、海千山千の聖職者たちが手ぐすねを引いて待っていますわ。……レン様。もし向こうの女たちに籠絡されて、我が帝国を蔑ろにするような真似をなさいましたら――」
セシリアは扇子をパチンと閉じ、極上の、しかし凍てつくような笑みを深めた。
「――わたくし、帝国の全軍を率いて、冬の山脈を越えて法皇国に攻め込みますので。その首を洗って待っていてくださいましね?」
「っ……!? ひ、平気です、ただの医療指導ですから! 浮気も侵攻も絶対にありませんので!!」
レンの悲鳴のような返答に、セシリアは満足そうに微笑むと、優雅に身を引いた。
「では、道中のご無事を祈っておりますわ。……行ってらっしゃいませ、わたくしの愛しい大公様」
馬車の扉が閉まり、車輪がゴトゴトと重い音を立てて動き出す。
帝都の街並みが遠ざかる窓の外を眺めながら、レンはさっそくリリアが詰め込んでくれた特大瓶の蓋を開け、胃薬を一気に喉へと流し込んだ。
冬の寒風が吹き荒ぶレムリア法皇国への旅路は、早くも前途多難を極めていた。
◇
【国家最高儀礼の出迎えと二頭体制の思惑】
白亜の大聖堂が冬の鈍い陽光に照らされるレムリア法皇国の聖都エリュシオン。
神聖なる大門が開かれると同時に、鳴り響いたのは国家最高儀礼を告げる銀のトランペットの重厚な斉奏だった。
整列した数百名もの神聖近衛兵が純白の長槍を一斉に掲げ、敷き詰められた真紅の絨毯の先――大聖堂の正面階段には、法皇国の二大頂点その人が威儀を正して立っていた。
世俗と政治の頂点である教皇(聖皇)と、霊的・信仰の頂点に君臨する筆頭聖女ソフィア。さらにはその後背に第2階位たる枢機卿団の長老たちが居並び、『本来我が国に生まれるはずだった神の御子』たる名誉聖人レンを、国家の威信を総動員した最大の礼を尽くして出迎える。
「ようこそおいでくださいました、名誉聖人レン閣下。四季巡回協定に基づき、尊き奇跡の手腕をお持ちの貴方様をこのエリュシオンの地にお迎えできましたこと、神に仕える者一同、至上の光栄に存じます」
教皇が深々と頭を垂れ、その隣で純白の聖衣を纏ったソフィアもまた、透き通るような美貌をわずかに強張らせながら、優雅極まりない礼を執った。
「光の神の御名において、貴方様を心より歓迎申し上げます、名誉聖人レン様」
帝国や神聖王国との激しい外交戦の末、全土免税と筆頭聖女の専従を提示してようやく自国への招聘を取り付けた法皇庁の首脳陣である。その歓待の熱意と畏敬は本物であり、表面上は何ひとつ非の打ち所のない、完璧な国家儀礼であった。
だが――その完璧な儀礼の奥底で、教皇と枢機卿たちの眼差しには、冷え切った計算が潜んでいた。
(……帝国を手玉に取り、神聖王国を平伏させた若き怪物か。この男の歓心を買い、神託の座を磐石とできるか、あるいは機嫌を損ねて破滅を招くか……すべてはソフィア、貴様の接待ひとつにかかっているぞ)
教皇派と枢機卿団は、レンを熱烈に求める一方で、その接待と接遇の全責任を筆頭聖女ソフィアひとりに押し付ける策謀をすでに完了させていた。成功すれば自らの外交的功績とし、もし失敗してレンの怒りを買えば、すべての責をソフィアに被せて「神の御心を損ねた偽りの聖女」として大地下修道院へ永久幽閉する腹積もりなのだ。
その冷酷な政治的重圧を一身に背負わされているソフィアの指先は、祈りの姿勢のまま、白く微かに震えていた。
「あ、ありがとうございます。四季巡回協定に基づき、衛生環境の改善に尽力させていただきます」
国家元首みずからの重々しすぎる出迎えに愛想笑いを浮かべて頭を下げ、ソフィアの案内で迎賓館へ向かおうと中庭の回廊を横切ったときだった。
――ピチャリ、と冷たい水音が響く。
氷の張る中庭の噴水脇で、粗末な灰色の修道服を着た少女たちが数人、凍りつくような冷水に素手を突っ込んで、山のような布巾や食器を洗い続けていた。
その手元を見た瞬間、レンは思わず足を止めた。
指先から手の甲にかけて赤黒く腫れ上がり、関節のあちこちがぱっくりとひび割れて血が滲んでいる。凍傷寸前の重度なしもやけと、洗剤代わりの強い灰汁に負けた激しいあかぎれだ。少女の1人が痛みに耐えかねて小さく息を呑み、震える手で血を拭っていた。
「……あれは?」
「下級の見習い修道女たちにございます」
ソフィアは痛ましげな色をわずかに瞳に宿しながらも、教団の伝統に従い静かに答えた。
「魂を清めるための日々の勤行にございます。肉体の苦痛を通して神への献身を示すのが教義の基本。あのようなひび割れも、信仰の証という名誉の印とされております」
(勲章なわけがあるか……! 単なる重度の皮膚炎と凍瘡じゃないか)
前世のドラッグストア時代、冬場になると水仕事で手を真っ赤にして駆け込んできた主婦や調理師たちの姿が脳裏をよぎる。あの痛ましさを「信仰の証」で片付けられては、薬師としての良心が悲鳴を上げる。
(なんとかして治してあげないと……。必要なのは、痛む亀裂を塞いで血行を促す【ヘパリン類似物質】と、硬化した角質を柔軟にする【高濃度尿素】の2段構えだ)
迎賓館の宿舎に到着するや否や、レンはすぐさま振り返り、専属案内役であるソフィアに声をかけた。
「ソフィア様、急で申し訳ないのですが、大聖堂の厨房や食肉の解体場、それから厩舎へ案内していただけませんか? 調合に必要な素材を分けていただきたいんです」
「……え? ちゅ、厨房と解体場、それに厩舎でございますか……?」
『神の御子』からの最初の要望が、祈祷室や歓談の広間ではなく、最も血生臭く汚れるはずの解体場と厩舎であったことに、ソフィアは目を丸くして息を呑んだ。
「は、はい……! 御子様が望まれるのであれば、直ちにご案内いたしますが……あの、一体何をお探しなのでございましょうか……?」
「あの子たちのあかぎれとしもやけを治すための薬を作るんです。豚の軟骨と、羊の油、それに家畜の新鮮な尿が必要なんです」
「ぶ、豚の喉骨と羊の脂……それに家畜のお、お小水でございますか……!? そ、そのような不浄の極みのようなものを集めて、一体何を……!?」
清廉な筆頭聖女の顔を真っ青にさせながらも、レンは手早く案内された厨房裏の解体場と厩舎へ向かった。山積みの骨や脂へ視線を走らせ、視界の端に【物質相互鑑定プラグイン】のインターフェースを立ち上げる。
【名称】:月白豚の喉骨
【魔力特性】:極小(柔軟性保持)
【地球換算相当】:豚気管軟骨(高純度ムコ多糖・コンドロイチン硫酸原料相当)
【名称】:白綿羊の毛脂
【魔力特性】:微弱(撥水・皮膜形成)
【地球換算相当】:精製ラノリン(高密着軟膏基剤相当)
「よし、原料は揃った」
レンは意識を集中させ、脳内PCのアーカイブを展開した。
(――脳内PC起動。アーカイブより『小規模設備における動物軟骨からのムコ多糖抽出および硫酸化エステル化プロトコル』を呼び出し)
視界に精密な手順書が展開される。軟骨を弱アルカリで加水分解してムコ多糖を抽出し、硫酸基を導入してヘパリン類似物質へと変換する精密な温度・pHデータだ。
さらに、厩舎で採取した家畜の新鮮な尿から、硝酸塩沈殿法を用いて不純物と臭気を完全に除去した結晶――高純度の尿素を精製。精製ラノリンと植物油を絶妙な比率で乳化させ、2種類の軟膏を調合した。
「完成だ」
机の上に並んだのは、淡いピンク色のガラス瓶と、乳白色の陶器壺。
「あ、あの……名誉聖人レン様。この2つのお薬は、一体どのように使い分けるのでございましょうか……?」
不浄の残渣から信じがたい手際で生まれた純白と淡桃色の軟膏を前に、ソフィアが恐る恐る、しかし目を輝かせて尋ねてきた。レンは実物を示しながら丁寧に説明する。
「ピンクの瓶は『ヘパリン類似物質軟膏』です。皮膚の奥深くまで水分を引き込み、血行を促進して傷の修復を早めます。ぱっくり割れて血が出ている亀裂にはこれを塗ります。
そして白い壺は『高濃度尿素軟膏』。硬くガサガサに肥厚した角質を柔らかく溶かす薬です。ただし、傷口に塗ると激痛が走りますから、亀裂が塞がった後や、ひび割れていない硬い皮膚にだけ塗るよう指導してください」
「傷を塞ぐお薬と、固くなった皮膚を和らげるお薬の2段構えにございますね……。不浄の泥土からこのような清らかな妙薬を紡ぎ出されるとは……」
その傍らで、神聖魔法すら使わずに獣の残渣と排泄物から奇跡の軟膏が生み出された光景を目の当たりにしたソフィアは、胸の前で手を組み、小刻みに震えていた。
(……神聖魔法の癒やしすら拒むような過酷なあかぎれに対し、不浄の残渣から命を潤す至高の妙薬を錬成なされた……? これが、これが『神の御子』の御業……奇跡そのものにございます……!)
◇
翌日の夕刻。冷え込みが一段と厳しくなった中庭で、昼間の見習い修道女たちが集められていた。
「さあ、手を出して。痛む傷口にはこのピンクの軟膏を優しくすり込むんだ。絶対に強く擦っちゃ駄目だよ」
レン自ら、凍えて震える少女たちの手を取り、丁寧に軟膏を塗り広げていく。
塗られた瞬間、ヘパリン類似物質の強力な血行促進作用と保水力により、冷え切っていた指先へじんわりと温かい血が巡り始めた。ジンジンとした刺すような痛みが引き、突っ張っていた皮膚が吸い付くような潤いを取り戻していく。
「あ……温かい……? 血が、止まって……痛くないです……!」
少女の大きな瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「嘘みたい……! 毎年冬になると指が割れて、夜も痛くて眠れなかったのに……手のひらが、まるでお日様に包まれているみたい……!」
「聖女様の神聖魔法ですら、こんなにすぐに痛みが消えることはありませんでした……!」
中庭にいた数10人の修道女たちが、両手を胸の前で握りしめ、次々とレンの前にひざまずいていく。
「神の御遣い様です……! 私たちの苦痛を救ってくださった!」
「聖なる御手だわ……! 名誉聖人レン様、私たちの真の救世主様……!」
熱烈な信仰と感謝の眼差しが一斉にレンへと注がれる。遠巻きにその様子を監視していた枢機卿団の側近たちが、顔色を変えて息を呑んでいた。
(……なんという御業かしら。神聖魔法の癒やしすら容易ではない過酷なあかぎれを、得体の知れぬ軟膏ひとつであっさりと治癒せしめるとは……!)
(これが、他国が血道を上げて奪い合った『神の御子』の真の力……人知を超えた奇跡そのものなの……!)
ひれ伏す修道女たちと、戦慄の面持ちでこちらを凝視する聖職者たちの視線に挟まれ、レンは胃のあたりをギュッと押さえた。
(いや、ただの保湿と血行促進なんだけど……! どうしてこの国の人は、ちょっとあかぎれを治しただけでそんな教祖様を見るような目で拝んでくるんだ……!?)
夕闇迫る大聖堂に響き渡る修道女たちの讃美歌のような感謝の声を聞きながら、レンは懐の胃薬の瓶へそっと指を伸ばした。
◇
【使い捨てカイロの配布と下級修道女の狂信化】
修道女たちの手がみるみる潤いを取り戻した翌朝、レンは再び宿舎の作業台に向かっていた。
(軟膏であかぎれの傷口や角質を治しても、そもそも手先や身体の末端が極寒に晒され続ければ、血管が収縮して何度でもしもやけをぶり返す。根本的に冷えを防ぐ手段が必要だ)
レンは作業台に肘をつき、意識を集中させた。
(――脳内PC起動。アーカイブより『酸化発熱反応を利用した携帯型発熱体(使い捨てカイロ)の配合比および小規模製造プロセス』を呼び出し)
視界に精密な化学反応式と調合データが展開される。
鉄が空気中の酸素と結合して錆びる(酸化する)際に放出する熱エネルギーを利用した仕組みだ。自然放置ではゆっくり進む酸化を、食塩水を触媒にして急速に進め、活性炭で酸素を取り込み、保水剤で水分を一定供給して発熱を数時間持続させる。
「ソフィア様、神聖近衛兵の武具工房や法皇庁の工房から、鉄を研いだ際に出る粉末と活性炭、それに多孔質の軽石の粉を分けてもらえないでしょうか」
「ぶ、武具工房の研ぎ粉と、炭焼き小屋の炭でございますか……? 名誉聖人レン様、今度は一体何をなさるおつもりで……?」
軟膏の奇跡に圧倒されたばかりのソフィアは、もはや疑うことなく直ちに武具工房へ手配を飛ばした。運び込まれてきた素材を、レンは【物質相互鑑定プラグイン】で選別していく。
【名称】:黒鋼の研ぎ粉
【魔力特性】:なし
【地球換算相当】:還元鉄粉(微細粒子相当)
【名称】:多孔質軽石粉
【魔力特性】:微弱(保水性)
【地球換算相当】:バーミキュライト/多孔質ケイ酸塩(保水剤相当)
「完璧だ。鍛冶屋が刃物を研ぐときに出る鉄の粉末に、ヤシ殻活性炭、そしてこの保水用の軽石粉を混ぜる」
レンは天秤を使って鉄粉、活性炭、軽石粉を脳内PCの配合比通りに正確に調合した。そこに、少量の塩を溶かした塩水を霧吹きで均一に吹き付け、素早く通気性のある目の細かい麻布の小袋へ詰めていく。
「れ、レン様……袋が、見る間に温かくなってまいりました……!? 火も、魔石の輝きすら宿っていないのに……!」
息を呑んで見つめるソフィアの目の前で、レンは蜜蝋を分厚く塗って空気を通さないように加工した油紙の密閉袋へ、素早く小袋を滑り込ませて口を固く閉じた。
「空気――酸素に触れると鉄が錆びて熱を出すんです。だから、使う直前までこうして蜜蝋の袋で空気を遮断しておきます。使うときは外袋を破って、軽く揉んでポケットや懐に入れるだけです。半日くらいは優しい温もりが続きますよ」
「鉄が錆びる熱……!? 神の定めた自然の理をそのまま熱源に変えるなど……またしても人の智恵を超えた御業にございます……」
ソフィアが畏敬に打たれて立ち尽くす間に、レンは手際よく数10個の「携帯発熱袋」を作り上げた。
◇
その日の昼下がり、再び冷え込む中庭の洗い場に、レンは自作のカイロを抱えて現れた。
「みんな、水仕事の合間や祈祷のときに、これを使ってみてほしい」
レンは外側の蜜蝋紙をピリリと破き、中の麻布の袋を軽く振って、凍える手で洗濯物を絞っていた見習い修道女の1人に手渡した。
「え……? あ、あの、これは……?」
恐る恐る小さな布袋を受け取った少女は、目を見開いて硬直した。
「……あ、あったかい……!?」
じわり、と袋の中から染み出してくる、焚き火でも湯たんぽでもない、じんわりとした柔らかな温熱。冷え切って感覚のなくなっていた指先に、心地よい温もりが一気に広がっていく。
「火も熾きていないのに、袋そのものがぽかぽか温かいです……! 魔法の道具ですか……!?」
「魔法じゃないよ。懐やポケットに入れておけば、指先や腰を温めて身体が冷えるのを防げる。水仕事の合間に手を温めるのに使ってね」
あっという間に修道女たちの間にカイロが配られ、中庭が歓喜とどよめきに包まれた。
「信じられない……! 懐に入れているだけで、冷たい石畳のお祈りも全然寒くありません!」
「お日様の光をそのまま布に閉じ込めたみたい……!」
「軟膏で手を癒やしてくださっただけでなく、凍える私たちに天上の熱まで分け与えてくださるなんて……!」
少女たちは温かい布袋を両手で包み込み、涙ぐみながらレンに向かって深々と礼拝の姿勢をとった。
「やはりあのお方は、光の神が遣わした真の使徒様だわ……!」
「名誉聖人レン様……! 神の御遣いであるあなた様に、私たちのこの身も心も、すべてを捧げます……!」
「ええ、どうか私たちをお側仕えにして、煮るなり焼くなりお好きになさってください……!」
ただの鉄粉の酸化熱を「天上の熱」と崇め奉られたばかりか、うら若き修道女たちが頬を紅潮させ、恍惚とした表情で「身も心も捧げる」と詰め寄ってくる異様な光景に、レンは引きつった顔で後退りした。
(いやいやいや! ただの鉄の酸化熱だから! 身も心も捧げなくていいし、お側仕えもいらないから! そんな目で迫られたら、帝都のセシリア様や母国の姉上にどんな目に遭わされるか分かったもんじゃない……!)
遠くの回廊から「今度は魔力なしで無尽蔵の熱源を生み出す神器をばら撒き、下級修道女たちの身も心も根こそぎ収奪した……!?」と青ざめて手帳を震わせるシエナの冷徹な観察視線を受けながら、レンの胃は冷え切るどころかキリキリと熱く痛み始めていた。
◇
【筆頭聖女ソフィアの三つ指と地下幽閉の危機】
狂乱と化した中庭から命からがら脱出し、レンは案内された迎賓館の最奥――神聖なる御座所へと逃げ帰った。
「はあ、はあ……死ぬかと思った。親切心で配っただけなのに、どうして全員が教祖様を崇めるような目で迫ってくるんだ……」
自室の寝台へ倒れ込み、大きく息を吐き出す。シエナはさっそく法皇庁の物資流通帳簿を洗うため別室へ向かい、リリアとカトレアは宿舎周囲の警護と夕食の手配に回っている。
ようやく静寂が訪れたと胸をなでおろした、その時だった。
――コン、コン。
控えめだが、どこか切迫したノックの音が扉を叩いた。
「はい、どなたですか?」
「……ソフィアにございます。名誉聖人レン様、夜の御勤めのご挨拶に伺いました」
透き通るような美しい声に応え、レンが「どうぞ」と声をかける。
静かに開いた扉から滑り込んできたのは、純白の聖衣をまとい、清廉な白絹のベールを頭から被った筆頭聖女ソフィアその人であった。
彼女は音もなく部屋の中へ入ると、背後の扉を完全に閉め、ためらいなく内鍵をカチャリと下ろした。
「……えっ? ソフィア様、鍵を?」
レンが目を丸くした瞬間、ソフィアは床へ両膝をつき、そのまま深々と絨毯へ両手をついた。完璧なまでに美しい、三つ指の平伏姿勢である。
「ソ、ソフィア様!? なにをなさっているんですか、頭を上げてください!」
法皇国の頂点に君臨するはずの至宝たる聖女の平伏に、レンは飛び起きて慌てふためいた。しかし、ソフィアは頭を上げない。白絹のベール越しに見えるその肩は、小刻みに震えていた。
「名誉聖人レン様……我が身の至らなさ、伏してお詫び申し上げます。ですが、何卒……何卒、私をお見捨てにならないでくださいませ……!」
「お、お見捨てって、一体何のことですか……!?」
「すでにご存知のはずでございます……! 貴方様がこの国へお求めになられた『神の恩恵を広げるための生産拠点』……。法皇庁はそれを、貴方様をお迎えするための『聖なる居城(御座所)』、そして神官補佐という名の『正妃の差し出し』と受け止め、このソフィアを貴方様の専属として差し出すことを決定いたしました」
(……は!? 僕はただ、石鹸や軟膏を大量生産するための『工場用地』を適正な価格で貸してほしいって申請しただけなんだけど!?)
レンの頭に激痛が走る。第17話で各国が狂乱の外交戦を繰り広げた際の「居城と妃の差し出し合い」の悪夢が、ここレムリアでも寸分違わず進行していたのだ。
「あ、あの! 僕はそんな居城も正妃も求めていませんし、ただ工場を建てて薬品を安く配りたいだけで――」
「それでは、私をお断りになられるのでございますね……!?」
レンの弁明を遮り、ソフィアが勢いよく顔を跳ね上げた。
露わになったその美貌は、悲壮感と絶望に染まりきり、大きな碧眼から大粒の涙が零れ落ちていた。
「もし、神の御子であられる貴方様に初日から拒絶されたとなれば……! 教皇猊下や枢機卿団は、即座に『神の御心を損ねた偽りの聖女』として私を糾弾いたします! 私はその日のうちに地位を剥奪され、未婚のまま『聖なる未亡人』の烙印を押され、光の届かぬ【大地下修道院】の地下牢へ一生幽閉される定めにございます……!!」
「だ、大地下修道院……!? 一生幽閉!?」
「はい……! 枢機卿団の長老たちは、最初から私を失脚させる罠として、貴方様の接待全権を私ひとりに押し付けたのでございます……! 貴方様に首を縦に振っていただけぬ限り、私の命脈は今夜ここで尽き果てます……!」
ソフィアは必死の形相で膝立ちになり、レンのズボンの裾を両手でぎゅっと握りしめて縋り付いてきた。
「ですからどうか……! この清廉なソフィア、身も心も、生涯をかけて貴方様に捧げます……! 私を貴方様のお側仕えとして、お納めくださいませ……!」
聖女の尊厳をかなぐり捨て、涙ながらに生き残りをかけて迫りくる絶世の美女。
そのあまりの切迫感と、帝都でセシリアから囁かれた『首を洗って待っていてくださいましね?』という絶対零度の宣告が脳裏を同時に駆け巡り、レンは両手で自らの頭を抱え込んだ。
(……拒絶したらこの人は一生地下牢で、受け入れたら帝国のセシリア様が冬山を越えて大軍で攻め込んでくる!? なんで工場の土地を借りようとしただけで、世界規模の外交地獄と胃痛に挟まれなきゃいけないんだ……!!)
冬の海風が冷たく吹き抜ける大聖堂の奥で、レンの手は、すがる思いで懐の胃薬の特大瓶を強く強く握りしめていた。




