27話:新商業連合の労働環境改善
【新商業連合の労働環境改善と恐怖のホワイト化】
帝都中央特区の天を突くがごとき新商業連合総本部。その最深部に位置する円形大評議の間は、蝋燭の揺らめきと、仕立ての良い毛皮を纏った大商人たちの押し殺した息遣いだけに満たされていた。
円卓を囲むのは、繊維、醸造、鉱山輸送、金銀細工といった帝都の動脈を握る巨大ギルドの会頭たちだ。かつて旧座の利権を貪り、丁稚を牛馬のごとく使い潰すことで巨万の富を築き上げてきた老獪な怪物どもが、今宵は揃って青ざめた面持ちで膝を震わせている。
彼らの視線が注がれる先――上座の中央に鎮座する豪奢な黒檀の椅子には、羽ペンをくるくると指先で弄ぶ少年大公の姿があった。
レン・フォン・アルカディア。
帝都新商業連合の最高名誉会長にして、皇帝より不可侵の治外法権を賜った若き怪物。先だっては「有害重金属禁止令」の1筆で数万樽の鉛を抱えた旧白粉座を完璧に破滅させ、逆らう者を法と経済の力で跡形もなく消し去ってきた絶対捕食者である。
「皆さん、今日はお忙しい中集まってくれてありがとう。……ええと、今日は難しい利権や関税の話じゃなくてね、もっと現場の基本的な環境についての提案なんだ」
レンは手元の羊皮紙に目を落としながら、前世のドラッグストア店長時代に幾度となく本部から叩き込まれた「労働環境改善マニュアル」のトーンで口を開いた。日頃から帝都の視察に出るたび、顔色の悪い少年工や、不衛生な工房で倒れかけている職人たちの姿が気になって仕方がなかったのだ。前世の基準をそのまま押し通すつもりはないが、あまりに劣悪な現場は歩留まりを極端に下げ、労災事故の温床にしかならない。
「まず1つ目。毎朝各工房や店舗で行われている『朝礼』についてなんだけどさ。あれ、長すぎないかな?」
レンの穏やかな問いかけに、繊維ギルドを取り仕切る恰幅の良い会頭の心臓が跳ね上がった。
「……長い、でございますか……?」
「うん。報告書を見ると、社訓の唱和や主人の訓話を延々と1時間以上も続けて、その後にようやく開店準備に入っているところが多いよね。あんなの、足腰が無駄に疲れるだけだし、聞いている側も途中で頭に入らなくなっているよ。連絡事項の共有と安全確認、本日の重点目標の伝達だけなら、3分……長くても5分で十分だ。ダラダラ喋る時間は切り上げて、さっさと実務に入るか、少しでも体を休ませた方が作業効率も上がる。だから、朝礼は原則5分以内に短縮してほしいんだ」
レンとしては、単なる無駄な拘束時間の削減を提言したに過ぎなかった。
だが、豪商たちの耳には、冷酷な宣告として変換されていた。
(――朝礼を5分で切り上げろだと……!?)
(馬鹿な……! 長時間の訓話こそは、丁稚や職人どもに主人の絶対性を骨の髄まで叩き込み、逆らう意志を粉砕するための『精神統制の儀式』ぞ!)
(『ダラダラ喋るな』……つまり、我ら経営陣の権威を剥奪し、主従の忠誠心を切り崩す気だ! 逆らう奴隷を量産させ、我が商会を内部から瓦解させる大公閣下の罠か……ッ!)
商人たちが互いに恐怖の視線を交わし合う中、レンは気付く様子もなく2つ目の項目へと視線を移した。
「それから2つ目。これが今日一番お願いしたいことなんだけど――従業員に『月に2日の有給休暇』を与えてほしいんだ」
その一言が落ちた瞬間、会議場の空気が完全に凍結した。
数人の商人が息を呑むあまり「ヒッ」と喉を鳴らし、椅子の肘掛けを指が白くなるほど強く握りしめた。
「ゆ、有給……休暇……? 働かぬ者に、賃金を支払った上で……休ませる、と……?」
震える声で問い返したのは、鉱山輸送を取り仕切る古参の会頭だった。レンは心底当然といった顔で頷く。
「そう。無給の欠勤じゃなくて、日当を全額保証した上での公休日だよ。現状、週に半日の祈りの時間以外、年中無休で朝から晩までこき使っている工房が多すぎる。人間は機械じゃないんだから、休みなく働かせ続ければ注意力が落ちて、怪我をしたり製品に不純物が混ざったりする。月に2日、完全に実務から離れて心身をリフレッシュする時間を与えることで、残りの稼働日の生産性が劇的に上がるんだ。これ、実験データでも実証されている合理的な投資なんだよ」
レンは真面目な顔で、前世の産業衛生のロジックを説いた。
だが、商人たちの脳内では、まったく異なる恐怖の推理が猛烈な勢いで組み上がっていた。
(……有給だと!? 「休めないほど非効率な労働を強いる無能な店舗は、監査して潰す」という暗殺予告か……!?)
(そうだ……! 利益を削り、穀潰しに施しをしろという話ではない! これは帝都全土を巻き込んだ、恐怖の『粛清の合図』だ!!)
(ノア・ホールディングスが誇る神のごとき超効率と莫大な資本力、それに耐えうる体力が我が商会にあるかどうかを試しておられるのだ! もし『そんな無駄金は払えん』『休ませる余裕などない』と泣き言を漏らせば、その瞬間――『経営能力なし』と見做され、近衛兵と監察官が踏み込んできて全資産を接収、一族もろとも石切り場の牢獄へ叩き込まれるに決まっている……ッ!)
「……そして最後、3つ目」
商人たちが絶望の淵で過呼吸を起こしかけているのも露知らず、レンは手元の資料をトントンと机で整え、朗らかに締めくくった。
「作業中の『定期休憩の義務化』だ。2時間ごとに最低10分、昼にはしっかり1時間の食事休憩を取らせること。水分補給と糖分の補給を怠らせないでほしい。休憩を取らずに根性で乗り切ろうとするのは、ただの自殺行為だし、現場監督の怠慢だからね。以上3点、新商業連合の加盟店すべてで直ちに導入を進めてください。守れていない現場があったら、僕が直接指導に入りますから」
「ひっ……!!」
最後の一言――『僕が直接指導に入る』。
ただの「抜き打ちの安全衛生巡回をするぞ」という元店長としての宣言が、商人たちにとっては「法令違反を犯した店舗には、大公直属の査察官と近衛兵を送り込み、物理的・法的に処刑台へ送る」という絶対の死刑宣告として響き渡った。
「ぜ、全面賛同……! 全面賛同にございます、大公閣下ァッ!!」
耐えきれなくなった繊維ギルドの長が、椅子から滑り落ちるようにして床へ平伏した。
「我がギルド傘下800の工房、ただちに朝礼を3分で終わらせ、全職人に月2日の有給休暇を付与いたします! 定期休憩も2時間ごとに鐘を鳴らして徹底させますゆえ、何とぞ……何とぞ、我が商会への直接指導だけはご容赦をぉぉっ……!」
「わ、我が輸送組合も直ちに従います! 荷役の者どもにも上等なパンと果実水を配り、しっかり休ませてから走らせますので……っ!」
我先にと床へ額を擦り付け、涙目で忠誠を誓い始める大商人の重鎮たち。
そのあまりに異様な熱意と恐縮ぶりに、レンは心底困惑したように目を丸くし、頬をポリポリと掻いた。
「え、あ……うん。そんなに感動して受け入れてくれるなら嬉しいよ。みんな、従業員の健康管理の大切さをよく分かってくれてるみたいで安心したな」
(……帝国の商人って、もっと強欲で頑固かと思ってたけど、意外と現場のホワイト化に理解があるんだな。前世のブラック企業の社長たちより、ずっと話が通じるじゃないか)
大公の爽やかな笑顔を見上げながら、商人たちは「生きた心地がしない」と脂汗の海に沈んでいた。
そして、会合が散会した直後――大商人たちの狂乱の生存競争が幕を開けた。
「おい、聞いたか! 醸造ギルドの奴ら、全従業員に『肉とチーズ入りの温かいスープと焼きたて白パン』の昼食を無償支給すると言い出したぞ!」
「なんですと!? 貴様、大公閣下の足切りラインに遅れをとる気か! 我が繊維商会は、全職人に肌触りの良い上質な綿の作業着と替えのシャツを2着ずつ現物支給だ! 一切の費用は商会持ちにしろ!」
「輸送組合の荷役どもにも防寒外套を配れ! 水分補給の柑橘水に砂糖をたっぷり溶かしておけ! 少しでも従業員の顔色が悪ければ、大公閣下の『直接指導』という名の処刑刃が我が首に飛んでくるのだぞッ!!」
粛清の恐怖に憑りつかれた商人たちは、己の命と商館を守るため、競い合うようにして労働環境のホワイト化を推し進めた。
朝礼は一瞬で終わり、2時間ごとに鐘が鳴って菓子と茶が振る舞われ、月2日の有給休暇には満額の手当が握らされ、昼には仕立ての良い制服を着た丁稚たちが、温かい肉料理に舌鼓を打つ――。
数日後、街の様子を見回ったレンは、かつてないほど生き生きとした笑顔で働く従業員たちと、なぜか死人のようにやつれ果てた顔で「大公閣下、現場の衛生と福祉は完璧でございます!」とすがりついてくる商人たちを見比べ、深々と首を傾げるのだった。
◇
【受付嬢エリスの公金申請と専任愛人宣言】
帝都中央特区の新商業連合総本部から、旧水路街の路地裏にある『名もなき薬種問屋』へ――。
連日の「ホワイト改革」によって商人たちを震え上がらせ、結果として街の労働者たちから「守護神」と拝まれるようになってしまったレンは、店舗奥の作業机で深々と息を吐き出していた。
「……ふう。とりあえず各ギルドの報告を見る限り、現場は無理なく回っているみたいだな。これなら僕が直接出張る必要もない」
元ドラッグストア店長として、従業員が健康的に笑顔で働いている職場ほどミスの少ない場所はない。ようやくこれで下町の隠れ家でゆっくりお茶が飲めると胸を撫で下ろした、その時だった。
コン、コン、と寸分の狂いもない正確なリズムで引き戸がノックされた。
「旦那様、失礼いたします。旦那様の専任愛人として、至急ご決裁いただきたい書類をお持ちいたしました」
鈴の音のように澄んだ、だが妙に甘い響きを帯びた声。
現れたのは、新連合の支給制服を隙なく着こなしたエリスだった。艶やかな亜麻色の髪をきっちりとまとめ、銀縁眼鏡の奥から、熱っぽく潤んだ瞳でレンをじっと見つめている。その腕には、革張りの分厚いバインダーが恭しく抱えられていた。
「エリスさん……? 君、新連合の受付窓口にいる時間じゃないのかい? なんで受付嬢が、わざわざ下町まで書類を持って走ってきてるんだ……」
「本部の受付など、他の者に任せておけばよいのです。すでに旦那様の愛人として囲われております私の本分は、旦那様の御側でお世話を尽くすことでございますから」
エリスはすでに公認の立場を得ていると微塵も疑わず、流れるような優雅な所作で机の傍らへ膝をついた。そしてバインダーを開き、羽ペンを差し出してくる。
「こちらでございます。内容をご確認の上、ご承認のサインをお願い申し上げます」
「どれどれ……」
レンは首を傾げながら羊皮紙へと視線を落とした。
旧ギルド時代から数万枚の書類を捌いてきたプロが作成しただけあって、見た目は非の打ち所がない。公的文書の書式、関連条文の引用、連合の通達番号まで、完璧な仕立てである。
『件名:新商業連合受付窓口職員における特殊守秘義務の付帯ならびに専任生活扶助費の計上に関する件』
「……ずいぶんと堅苦しい名目だな。要するに、受付の特別手当の申請かい?」
「いいえ。旦那様の愛人として日夜尽くしております私への、当然受給されるべき正当な手当の申請でございますわ」
エリスは涼しい顔で、白い指先をすっと条文へと滑らせた。
「現在、新連合の商人たちは旦那様のご意向を必死に探ろうとしております。すでに旦那様の特別な寵愛を受けていると知れ渡れば、私への接触や懐柔工作は苛烈を極めましょう。ですから、最高名誉会長の愛妾としての品位と安全を保つため――」
エリスは眼鏡のブリッジをクイッと指先で押し上げ、何ひとつ恥じることなく、胸を張って言い放った。
「第3条。『愛人としての責務を果たすため、対象職員を旦那様の私邸に終身同居させ、夜間の身の回りのお世話を担当させること』。および第4条。『愛妾としての生活費、衣装代、高級化粧品代を、すべて公爵家の経費から【専任生活扶助費】として一括支給すること』を明文化いたしました。すでに旦那様の女である以上、この程度の手当をいただくのは組織運営上、至極当然の権利でございます」
「…………」
レンは固まった。
手元の書類を2度見し、それから目の前で誇らしげに微笑む受付嬢を見上げた。
「……エリスさん」
「はい、旦那様」
「これ、要するに『私はもうレンの愛人なんだから、生活費と衣装代を全部公費で落として養いなさい』って書類だよね?」
「あら、ご理解が早くて助かりますわ」
エリスはうっとりと頬を染め、両手を胸の前で組んで身を乗り出してきた。
「ええ! 旦那様からいただいたあのご寵愛を思えば、形ばかりの受付の給与など受け取っている場合ではありませんもの。愛人にふさわしい維持費を予算化していただくのは当然の手順でございます。これさえあれば、セシリア様やエレオノーラ様に対しても『私こそが公式に認められた愛人である』と胸を張って示せますわ!」
「できるわけがないだろ!!」
レンの絶叫のようなツッコミが響き渡り、突き返されたバインダーが机の上でバタンと跳ねた。
有能すぎる受付嬢の暴走に頭を抱えながら、元店長は(胃薬の調合をもう1種類増やそう……)と、心底から疲れ果てた溜息を深く吐き出すのだった。
◇
【第三皇女イリスの暴走弁当と栄養指導】
バタン、と小気味よい音を立てて引き戸が勢いよく開け放たれた。
「――レン様! お姉様たちばかり特別扱いなんて、わたくし絶対に許せませんことよ!」
旧水路街の路地裏に佇む薬房の静寂を切り裂き、絢爛な真紅のドレスの裾を翻して突入してきたのは、ヴァレンティノ帝国第三皇女イリスその人だった。
お忍び用のフード付き外套を無造作に放り投げ、胸を大きく波打たせながら仁王立ちする。セシリアやエレオノーラに出遅れまいと、護衛の制止を力ずくで振り切って単身乗り込んできたのだ。
「イリス皇女……!? な、なんでこんな掃き溜めの店に……」
カウンターの奥で新連合の伝票を整理していたエリスが眼鏡を押し上げ、即座に敵意を剥き出しにする。だが、イリスはそんな受付嬢を一瞥すら与えず、奥の作業机で薬草の配合記録を整理していたレンへと猪突猛進した。
「レン様! わたくし、帝室の厨房を半日占拠して、そこの女狐たちには真似できない至高の品を仕上げてまいりましたの! さあ、お受け取りあそばせ!」
ドンッ!!
重厚なオーク材の机が悲鳴を上げた。
置かれたのは、純銀の彫刻が施された3段重ねの巨大な特製重箱だ。イリスは勝ち誇った笑みを浮かべ、バッと蓋を取り払った。
その瞬間、立ち込めたのは暴力的なまでの濃厚な匂いだった。
一番上の段には、ラードと蜜で黄金色に照り輝く極厚豚バラ肉の甘辛煮が隙間なく敷き詰められている。2段目は、牛脂でカリカリに揚げた鳥モモ肉のフリットが山を築き、その上から特濃チーズソースと練乳入りのマヨネーズが惜しげもなくぶち撒けられていた。そして3段目には、バターを練り込んだ白米の上に、黒砂糖で煮詰めたドライフルーツとナッツが地層のように盛られている。
「名付けて『皇女の純情・全力給仕重』ですわ! レン様の細いお身体を心配するわたくしの、ありったけの愛を詰め込みましたの!」
「あ、愛……? これ、茶色い塊しか見えないんだけど……」
「殿方に力をつけていただくには、肉と脂と甘みこそが至高! さあ、冷めないうちに召し上がれ!」
グイグイと銀のフォークを握らされ、レンは引き攣った笑みのまま豚バラ肉をひとかけら口に運んだ。
咀嚼した瞬間、脳が痺れるような強烈な糖分と、喉を焼き尽くす高密度の油脂が胃壁へと雪崩れ込んでくる。
「……っ!? うっ、ぐ……」
レンは即座に喉元を押さえ、机の下で激しく胃をさすった。
胸焼けどころの話ではない。前世のドラッグストア店長時代、生活習慣病予備軍の健康指導で散々目にしてきた「一発で血管が詰まる悪魔の配合」そのものだった。
「レン様!? ど、どうなさいましたの!? 美味しすぎて言葉が出ませんの!?」
「イリス皇女……ちょっとそこに座りなさい」
レンの瞳から光が消えた。
ドラッグストアで栄養指導を行っていた頃の「容赦のない薬剤師モード」が完全に起動していた。立ち上がると、生薬の調合比率を書き留めるために壁へ立てかけてあった、木枠付きの特大黒板をガラガラと引きずり出し、粉受けから白亜のチョークを無機質な手つきで握りしめた。
「え、れ、レン様……? 一体なにを……」
カツッ、カツッ、カツッ!
凄まじいスピードで黒板の上に白い粉を散らしながら、円グラフと棒グラフが叩きつけられていく。
「まず、成人男性の1日の推奨摂取カロリーは約2200キロカロリーです。それに対して、今君が持ってきたこの特製弁当の総熱量を概算してみましょう」
レンは豚バラ煮を指した。
「豚バラ肉のラード煮込み。脂質120グラム、糖質80グラム。これだけで約1400キロカロリー」
続けて2段目の揚げ物をチョークの先で叩く。
「牛脂揚げ鳥モモ肉の特濃チーズソースがけ。脂質95グラム、タンパク質45グラム。これで約1050キロカロリー」
最後に3段目のバターライスを激しく丸で囲んだ。
「バター練り込み白米の黒砂糖煮添え。炭水化物190グラム、脂質40グラム。約1100キロカロリー。合計――約3550キロカロリーです」
「さ、さんぜんごひゃく……!?」
イリスが息を呑んだ。レンは眼鏡の奥の目を据わらせ、黒板に大きく3つのアルファベットを書き殴った。
「三大栄養素のバランス、いわゆるPFCバランスの理想比率は、タンパク質(P)が15%、脂質(F)が25%、炭水化物(C)が60%前後です! なのに君のこれは何ですか! 脂質が全体の半分以上、PFC比率で見れば【P:10 / F:65 / C:25】! 一食で成人男性の2日分の脂質をぶち込む気ですか! 愛じゃなくてただの動脈硬化促進トラップだよ!!」
「ひっ……! わ、わたくしの愛の重さが……数字(3550キロカロリー)で可視化されてしまいましたわ……!?」
イリスはその場にへたり込み、両手で顔を覆って真っ青になった。
純粋な好意が、冷徹な生化学と統計データによって完全粉砕されたのだ。
「もういい、見かねたよ。奥の調理場を使うから、君もついてきなさい」
「えっ……? わ、わたくしも、ですの……?」
レンは重箱を端へ退けると、薬房の奥にある調理場へとイリスを引っ張っていった。
食材棚から取り出したのは、新鮮な鶏むね肉、採れたてのブロッコリーと人参、トマト、そして大麦を混ぜた雑穀米だった。
「料理はね、食べる人の身体と明日のコンディションを思いやって作るものなんだ。ほら、鶏肉の皮は脂質が高いから全部剥ぐ。包丁を握って、一口大の削ぎ切りにしてごらん」
「こ、こうですの……? わたくし、帝室の厨房では指示しか出したことが……あ、皮が綺麗に剥がれましたわ!」
「うん、筋を断ち切るように刃を入れてね。野菜はスチーマーで軽く蒸す。ビタミンを壊さないように加熱は短時間だ。味付けは塩を控えめにして、ハーブとレモン果汁で風味を立たせる」
レンが手際よく調味料を合わせ、イリスがおっかなびっくり蒸し器の蓋を開ける。
湯気とともに立ち上ったのは、油脂の重苦しい臭いではなく、爽やかな柑橘と青々とした野菜の清々しい香りだった。
曲げわっぱの木箱に、ふっくらと蒸し上がった白い鶏肉、鮮やかな緑と赤の蒸し野菜、そして香ばしい雑穀米が美しく詰められていく。
「はい、完成。『高タンパク・低脂質の彩り蒸し鶏弁当』。推定熱量は約580キロカロリー、PFCバランスは完璧な黄金比率だ」
テーブルの上に並べられたのは、先ほどの茶色い山とは正反対の、目にも鮮やかなヘルシー弁当だった。
イリスは木箱を見つめ、それから自らの両手とレンの顔を交互に見比べた。
その頬が、みるみるうちに林檎のように真っ赤に染まり上がっていく。
「こ、これは……レン様とわたくしの……『初めての共同作業』によるお弁当……!?」
「いや、ただの栄養改善の調理実習だけど……」
「いただきますわっ!!」
レンの冷静な訂正など耳に入らないイリスは、フォークを掴むや否や、蒸し鶏とブロッコリーを口いっぱいに頬張った。
「――っ! や、柔らかい……! レモンの酸味とハーブの香りで、脂っこさがまったくないのに、噛むほどにお肉の旨味が溢れてきますわ! 雑穀のプチプチした食感もたまりません!」
「よく噛んで食べてね。満腹中枢を刺激するのも大事だから」
「美味しいですわ、レン様! わたくし、これなら毎日でも作って差し上げられます!」
狂喜乱舞したイリスは、皇女の優雅な作法も忘れ、あっという間に580キロカロリーの弁当を米粒1つ残さず完食してしまった。
「ふう……満腹ですのに、お腹がちっとも重くありませんわ。身体の内側から清らかな力が満ちてくるようです……!」
満足そうにお腹をさするイリスの背後で、エリスが事務用バインダーを抱えたまま、冷ややかな視線で呟いた。
「手作り弁当の押し付けによる胃袋の強襲作戦は、大公閣下の論理的カロリー砲によってあえなく頓挫……。自らヘルシー弁当を平らげて満足して帰るなど、皇女殿下も実に安上がりな女狐ですわね」
「なにか言いましたかしら、そこの地味な受付嬢!?」
「いいえ、何も。ただ、旦那様に余計な負担をおかけしないよう、次は事前に栄養成分表を提出なさることをお勧めしたまででございます」
火花を散らす2人を横目に、レンは(よし、これでうちの店の胃薬の出番は減ったな)と、胸を撫で下ろしながら冷めたハーブティーを一息に飲み干すのだった。
◇
【帝都の重力式多層ろ過浄水塔と水道インフラ掌握】
乾留してくれ。無数の微細な孔を持つ高純度の『活性炭』ができる」
「活性炭……木炭のようなものですか?」
「木炭の吸着性能を極限まで高めたものだ。それから、粒の大きさを揃えた砂と小石を用意する。上から順に細かい砂、粗い砂、小石、そしてヤシ殻活性炭を層状に敷き詰めた『重力式多層ろ過浄水塔』を作るんだ。井戸の脇に設置し、汲み上げた水を上から流し込む。砂利が濁りや細菌を絡め取り、活性炭が嫌な臭いと有機物、そして鉛を強力に吸着する」
「魔法の触媒も魔石も使わずに、ただの砂と炭の層で水を清めるのですか……?」
「物理的な網目と、化学的な吸着の力だよ。もちろん、活性炭の吸着量には限界があるから、これは何年も使い続けられる万能の道具じゃない。だが、配管工事が終わるまでの数週間を凌ぐ繋ぎとしては12分に機能する。フィルターの砂を定期的に洗浄し、活性炭を取り替えるメンテナンス要員を新商業連合から配置してくれ」
「すべて理解いたしました。費用はレン様の個人特許口座より引き落とし、直ちに職人ギルドと商工会を動員いたします」
シエナは深く一礼すると、風のように去っていった。
◇
数日後。
平民街の中央井戸の脇に突如として組み上げられた、巨大な木製の円筒塔――レンが考案した多層ろ過浄水塔の周囲を、不安げな住民たちが遠巻きに取り囲んでいた。
その足元ではすでに、新商業連合が雇い入れた土木作業員たちがツルハシを振るい、老朽化した鉛配管を掘り出すための集中工事が始まっている。
「おい、本当にあんな筒を通すだけで、あの臭くて腹を壊す水が飲めるようになるのか?」
「魔導士様のお祈りもなしに、砂と炭を詰めただけだろ……」
ざわめく住人たちの前で、帝都工務局の役人と老技師が、半信半疑の面持ちで濁水入りの桶を塔の天辺へと注ぎ込んだ。
コトコト、と内部の砂礫を水が伝い落ちる静かな音が響く。
そして数10秒後――塔の最下部に設けられた真鍮の蛇口から、トボトボと水が流れ落ちた。
「っ……!?」
受け皿のガラス杯に溜まったその水は、底までくっきりと透き通る、一点の曇りもない清流だった。鼻をつく下水臭も、金属のような異臭も完全に消え失せている。
技師長がおそるおそる指を浸し、恐る恐る舌先へ運んだ。
「な……甘い……! 水が、まるで雪解け水のように澄んでおる……!」
「嘘だろ!? 見ろ、あの濁り水が、水晶みたいに綺麗になってるぞ!」
「病が消えた! 昨日まで腹を抱えて寝込んでいたうちの倅が、この水を1杯飲んだだけで起き上がったんだ!」
どっと地鳴りのような歓声が爆発し、広場を埋め尽くした下町の住人たちが一斉に地面へ膝をついた。
「神の御業だ……! 泥水を甘露に変える奇跡だ!」
「レン様! アルカディア大公レン様万歳!!」
「奇跡の薬師様が、俺たち見捨てられた平民に命の水を恵んでくださったぞ!」
工務局の役人までもが「我らが数10年放置してきた難題を、配管工事の目処ごとわずか数日で……」と涙を流してひれ伏している。
遠巻きにその光景を眺めていたレンは、人混みの影でひっそりとこめかみを押さえていた。
(いや、ただの活性炭の吸着と砂のろ過なんだけど……。水が甘く感じるのは雑味が消えただけで、息子の腹痛が治ったのも下水の細菌を口にしなくなったからだし、奇跡でもなんでもない。何より、これは配管工事が終わるまでのただの時間稼ぎなんだから、早く穴掘りを進めてくれよ……!)
群衆の熱狂的な讃美が広場に木霊する中、レンの背筋にツンと凍りつくような視線が突き刺さった。
振り返ると、路地の角に停まった豪奢な黒塗りの馬車の窓から、帝国皇女セシリアが扇子で口元を隠し、冷徹な紫紺の瞳でこちらを見下ろしていた。
(……帝都の役所すら匙を投げていた地下配管の腐食を、たった1滴の試薬で瞬時に特定してみせるなんて)
セシリアは扇子を握る指先に、無意識に力を込めていた。
(その上、わずか数日で応急の浄水設備をばら撒いて民衆の胃袋と命を完全に掌握し、工務局を巻き込んで帝都の地下配管(血管)を自前の規格で塗り替えさせ始めている……。1滴の血も流さず、武力の1片も見せず、ただ『親切な施し』の顔をしたまま帝都の心臓部を無血開城させる気ね。……底知れない男だわ)
セシリアの鋭利すぎる視線に気づいたレンは、慌てて目を逸らし、懐から胃薬の包みを取り出して喉へ流し込んだ。
(……なんだろう、セシリア様がものすごく怖い目でこっちを見てる。勝手に道路を掘り返して工事を始めたから、後で帝国議会から怒られたりするのかな……)
胃の痛みに顔をしかめるレンの耳に、住民たちの「聖なる水をもたらした御子!」という熱狂的な合唱が、どこまでも高く響き渡っていた。




