26話:限定の雫と過熱する指先
【門前の肉弾強襲と純潔防衛戦】
セシリアが夜会で披露したあの幻想的な爪先を皮切りに、帝都オルデンブルクの社交界を震撼させた「ネイル」の噂は、瞬く間に全土の貴族令嬢たちへと飛び火した。
だが、どれほど彼女たちが憧れ、喉から手が出るほど欲し大公爵邸の夜会における実演どこにも売られていなかった。
それもそのはず、あの夜会でセシリアやエレオノーラに施されたネイルカラーは、レンが秘密調剤室で手作業によって組み上げた、完全な「手作りの試作品」に過ぎなかったからだ。
天然樹脂のシェラックをアルコールで丹念に溶解し、顔料やマイカの粒径を極限まで見極めながら小瓶に詰めたそれは、工業的な大量生産ラインなど影も形もない、世界に数十本しか存在しない幻の至宝。
ノア・ホールディングスが市場へ試験的に流したごくわずかな初期ロットを手に入れられた者など、帝国中を見渡しても、強大な権力や並外れた情報網を持つほんの一握りの特権階級だけであった。
そして――この「手に入らない」という圧倒的な飢餓感が、火に油を注いだ。
「ノア・ホールディングスの商館を押さえなさい! 金貨の糸目はつけません、手に入るなら何百枚でも積みなさい!」
「なぜ私の手元にあの小瓶が届かないの!? 伯爵家の私を差し置いて、あちらの侯爵令嬢が爪を彩っているなんて許せませんわ!」
帝都のサロンは連日連夜、ネイルの小瓶を巡る札束の殴り合いと、裏工作の泥沼劇へと様変わりした。
社交界の序列を覆しかねないその輝きを巡り、貴族たちの使者がノア・ホールディングスの門前に殺到し、闇市では定価の数十倍もの値がつく始末。わずか数本の試作品が、帝国貴族社会を根底から揺るがす大騒動へと発展してしまっていた。
その騒乱が、決定的な「歪み」へと舵を切ったのは、あるひとつの事実が社交界に知れ渡った瞬間だった。
「――なんですって? あのネイルを開発し、すべての流通権を握っているノア・ホールディングスの筆頭株主……最高責任者って、誰ですの?」
「アルカディア地方を下賜され、先の御前会議で陛下より直々に親任された……あの、レン・フォン・アルカディア大公閣下ですわ」
その情報が駆け巡った瞬間、色めき立っていた貴族令嬢たちの動きがピタリと止まった。
相手は、金に困った新興商人でも、権力で脅しつけられる下級貴族でもない。
死の淵にあった第四皇子ユリウスを救い、フランツ三世から無制限の支援と不可侵特権(治外法権)を与えられた、帝国最高位の『世襲大公』。さらには、あの冷徹無比な第二皇女セシリアが身辺を固め、クレイズ神聖王国の筆頭聖族である正妃エレオノーラが背後に睨みを利かせている、現帝国で最もアンタッチャブルな権力の中枢そのものだった。
「……金貨を100枚積もうが、領地の利権を差し出そうが、大公閣下に通用するはずがありませんわ……」
「財力でも家格でも、あの方に『首を縦に振らせる』ことなんて不可能です……」
金品による買収も、実家の権勢を笠に着た強談判も、すべて無力。
まともな交渉の余地が完全に塞がれたと悟った瞬間――令嬢たちの思考回路は、常軌を逸した「とんでもない方向」へと一斉にショートした。
「……でも、大公閣下は……まだ若き殿方ですわよね?」
「ええ……。噂では、下町の娘たちにも慈悲深く、物腰の柔らかい、大変にお優しい殿方だと……」
誰かがぽつりと漏らしたその呟きが、乾いた薪に落ちた火種のように、令嬢たちの瞳へ妖しい光を灯していく。
金で買えないのなら。権力で奪えないのなら。
――あの少年大公そのものを、力づくで「籠絡」してしまえばいいのではないか?
「そうですわ……! 妻、いえ、側室の座など望みません! ほんの一夜、あのお方の腕の中に滑り込み、情婦のひとりとして寵愛を勝ち取れば……!」
「あの方の手ずから、あの奇跡の筆遣いで、私の指先を紅く染めていただける……!」
「大公閣下の愛妾にさえ収まれば、ネイルどころか、今後生み出されるすべての『美の奇跡』を独占できるではありませんか……!」
論理の飛躍も甚だしかった。
だが、夜会でのセシリアの輝きに狂わされ、ステータス競争の頂点に立ちたいと願う令嬢たちの執着は、もはや倫理や家柄の体面など軽々と吹き飛ばしていた。
「今すぐ、我が家で最も豪奢で……露出の多い夜会用ドレスを仕立てなさい!」
「大公宮殿の周囲を散策なさる時間を調べ上げるのよ! 偶然を装って倒れ込み、あのお方の胸の中に飛び込むのです!」
「媚薬……いえ、最高級の魅了の香油を取り寄せなさい! いくら積んでも構わないわ!」
かくして、ネイルの買い占め競争だったはずの騒動は、一転して『帝国世襲大公レン・フォン・アルカディアの純潔を巡る、帝都令嬢たちの肉弾強襲レース』という、前代未聞の狂宴へと変貌を遂げてしまったのである。
◇
同日午後、第一特別貴族特区宮殿。
「……なぁ、カトレア。シエナ」
執務室の窓から庭園を見下ろしていたレンが、引きつった笑みを浮かべながら、背後の2人に声をかけた。
「気のせいかな? 宮殿の正門の周りに、やけに薄着で、やたらと胸元や背中を強調したドレスを着た貴族の令嬢たちが、花束や手紙を持って大群でうろついているように見えるんだけど……。あれ、何の集会?」
レンの引きつった問いかけに、書類を整理していたシエナが、氷のように冷たい声音で即答した。
「ご安心ください、レン様。ただの『発情した泥棒猫の群れ』でございます。ネイルの製作者がレン様だと突き止めた途端、金で釣れないと知った浅知恵の輩が、自らの肉体を対価にレン様の寵愛と限定ネイルをかすめ取ろうと、夜這いの順番待ちをしているだけに過ぎません」
「よ、夜這いの順番待ちぃっ!?」
「身の程知らずの羽虫どもめ、レン様の高潔なる純潔を狙うなど言語道断! ……そもそも! あの正妃殿下と第二皇女殿下が1番と2番を血眼で争っている現状、続く栄えある整理番号3番はこのカトレア・アッシュフォードのものであります! 4番のシエナ、5番のリリア、6番のナディア殿すら差し置いて、門前の割り込み部隊が土足で割り込むなど断じて許容できません! 今すぐ自分が出撃し、門前の不届き者どもを一刀両断、物理的にミンチにして排除してまいります!!」
「ツッコミどころが多すぎるよカトレアァァァッ!? なんで勝手に順番が決まってて、お前が3番を堂々と主張してるの!? シエナやリリア、ナディアまで巻き込まないでくれる!? そしてやっぱり抜刀するなァ!!」
レンは涙目になりながら、本気で柄に手をかけたカトレアのたくましい腕に全力でぶら下がった。護衛隊長のはずの女騎士が、護衛対象の寝所への突入順を大真面目に主張しながら正義面でミンチを宣告しているのだから、もはや外の令嬢たちよりもタチが悪い。
「レン様、お放しください! あの者どもの卑劣な視線、レン様の衣服を透かして値踏みするかのような破廉恥極まる眼光……断じて許容できるものではありません! 騎士として、何よりレン様の護衛として、順番を乱す害虫の駆除は急務であります!」
「害虫じゃなくて貴族の令嬢たちなんだよ! 1人でも斬ったら国際問題になるって前にも言っただろ!?」
必死の形相で制止するレンの横で、シエナが冷ややかな視線を窓の外へ投げたまま、手元の手帳にさらさらとペンを走らせた。
「カトレア様の暴力的な処理はお止めになるべきですが……私が4番に甘んじている点については、後ほどじっくり詰め寄らせていただくとして。仰る通り、あの発情した泥棒猫どもを放置しておくのは得策ではありませんね。……確認できるだけで、元老院筆頭補佐の姪、東部軍閥の侯爵令嬢、果ては帝都警備統括の息女まで混ざっております。どなたも金で手に入らないと知るや、実家のコネと自らの肉体を武器に、レン様の寝所に強行突入を企てている手合いですわ」
「シエナまでその番号受け入れてるんじゃないよ!? なんで誰も俺の貞操の心配をしてくれないの!?」
「な、なんでそんなに情報が早いの……?」
「没落する前のシルフィード家で、あの手の売名と肉弾外交の手管は嫌というほど見せつけられましたから。……レン様、いっそのこと私が表に出て、社交界のあらゆる汚聞と弱みを突きつけ、家ごと社会的に抹殺して差し上げましょうか?」
「方法が物理から精神攻撃に変わっただけじゃないか! シエナも怖いこと言うのやめて!?」
レンは額を押さえ、深々と天を仰いだ。
手元のトレイには、昨夜調合したばかりのシェラック製ネイルの小瓶が、光を浴びて無邪気に煌めいている。
(ただ、指先をちょっと綺麗にして、夜会の火種を消そうとしただけなのに……! なんで俺の純潔を巡る防衛戦に発展してるんだ……!)
「……こうなったら、正攻法でいくしかない」
「正攻法、でありますか?」
カトレアが訝しげに小首をかしげ、シエナも眼鏡の奥の瞳をわずかに細める。
レンは意を決し、机の上の書類立てから白紙の羊皮紙を引っ張り出した。
「ネイルは絶対に個別配布も、夜這いの対価にもしない。ノア・ホールディングスの正規ルートで『完全抽選制・数量限定販売』として公式に告知を出すんだ。転売防止の魔導刻印をつけて、身分に関係なく公平な抽選でしか手に入らない仕組みを作る」
「ふむ……公平な抽選、ですか。ですがレン様、それで納得するような殊勝な令嬢たちなら、最初からあんな露出狂のようなドレスで門前に押し寄せたりはしませんよ?」
シエナの辛辣な指摘に、レンは引きつった笑みを浮かべながら胃薬を噛み砕いた。
「納得させるんだよ、力づくで……いや、権威でさ。『大公家の公式事業につき、不正な接触や私的な便宜を図ろうとした家は、永久にノア・ホールディングス全製品の購入資格を剥奪する』って、セシリアとエレオノーラの連名で布告を出してもらう」
「……あの2人のお名前を出すのでありますか?」
カトレアが珍しく戦慄したように身震いした。
「ああ。門前の令嬢たちも、あの2頭の肉食獣の縄張りに素手で突っ込む勇気はないだろ……たぶん。……頼むから、これで少しは静かになってくれ……!」
自ら呼び寄せることになる「正妃と皇女のさらなる独占欲の嵐」にまだ気づいていないレンは、藁にもすがる思いで羽ペンを走らせるのだった。
レンの魂の叫びが、今日も豪華絢爛な宮殿の執務室に虚しく木霊する。
◇
【密室の覇権分配と二大美容拠点の決定】
第一特別貴族特区宮殿、最深部の応接室。
厚手の防音扉で外界と完全に遮断されたその部屋には、卓上に置かれた魔導灯の冷たい明かりの下、大陸の命運を左右する3名が向かい合っていた。
テーブルの中央に鎮座するのは、レンが調合したばかりのシェラック製ネイルの小瓶、そして微粒子加工を施したファンデーションの試作コンパクト。
「……というわけでさ。門前に露出度の高い令嬢たちが群がるのも、闇市で小瓶1本に金貨が100枚単位で積まれるのも、すべては僕が1人で手作業で作っているせいで、市場の需要に対して供給が完全にゼロに等しいからなんだよ」
レンは机の上に両肘をつき、心底くたびれたように深く息を吐き出した。
「このまま放置すれば、令嬢たちの暴走による治安悪化どころか、貴族同士の利権抗争や密輸、果ては毒物混入の偽物が出回って死者が出かねない。……前世――じゃなくて、過去の市場混乱の教訓から言っても、粗悪品が出回る前に正規の大量生産ラインを立ち上げて、市場を適正価格の良品で飽和させるのが唯一の解決策だ」
「大量生産、ね」
ソファに深く腰掛けたセシリアが、紫紺の瞳を細めてテーブルの上のネイルを見つめた。
軍服の上着を緩めたその佇まいには、軍務卿としての怜悧な計算と、レンを囲い込もうとする肉食獣の鋭敏な光が同居している。
「異存はないわ。むしろ、帝都の治安部隊が令嬢たちの肉弾突撃の警戒に割かれている現状は、帝国の防諜上も極めて無駄が多い。……だがレン、生産拠点をどこに置くかが問題よ。この技術がどれほどの富と権力を生み出すか、貴方自身が一番よく分かっているはずだわ」
「ええ、まったくですわね」
セシリアの言葉を遮るように、涼やかでありながら氷塊のように硬い美声が響いた。
向かいの席で扇を優雅に畳んだエレオノーラが、紫水晶の瞳をセシリアへと冷たく据え付ける。
「化粧水や軟膏にとどまらず、肌を均一に覆うファンデーション、そして指先を宝石のように飾るネイル……。これらはもはや単なる装飾品ではなく、社交界の序列を根底から塗り替える『絶対の権力装置』ですわ。そのような至宝の製造権を、帝国の独占にするなど言語道断。すべてクレイズ神聖王国の息のかかった直轄領で厳重に管理・生産すべきです」
「あら、相変わらず欲張りな正妃様ね」
セシリアが冷ややかに口角を吊り上げる。
「神聖王国にはすでに、レンが立ち上げたペニシリンの大規模培養プラントや初期の薬房利権が集中しているはずよ。これ以上の独占を許せば、大陸の経済バランスが崩壊するわ。帝国の大公として親任されたレンの新しい事業なのだから、帝国全土の工房網を使うのが筋というものよ」
「形ばかりの『秋の妃』が、よくも抜け抜けと囀ること。レンの生家であり、神の御子の生誕地たる我が神聖王国を差し置いて、後からしゃしゃり出てきた帝国軍閥に何ができますの?」
室内の空気が目に見えて凍結し、不可視の火花がバチバチと散る。
二大捕食者の視線が交錯するだけで、豪華な調度品が軋みを上げそうな重圧が部屋を満たした。
(うわあ……始まったよ……)
レンのこめかみに冷や汗が伝う。
だが、元大手ドラッグストア店長にして製薬管理職のレンにとって、この程度のサプライチェーンの縄張り争いは前世で散々くぐり抜けてきた修羅場でもあった。
「2人とも、ストップ。感情論や国家の面子で工場を建てても、現場の歩留まりが落ちて大赤字になるだけだよ」
レンは冷静に、卓上の書類立てから2枚の羊皮紙を抜き取り、2人の前に滑らせた。
そこには、ノア・ホールディングスが保有する製造リソースと、原材料の調達ルートが完璧なロジックで数値化されていた。
「最初から、1つの国ですべてを賄う気はないよ。適材適所で製造拠点を完全に分離・特化させる」
「分離、かしら?」
セシリアが眉をピクリと動かし、エレオノーラも鋭い視線を書類へ落とす。
「そう。まず、ファンデーションの大量生産拠点はクレイズ神聖王国に置く」
レンはエレオノーラを指差し、明確な理由を述べた。
「ファンデーションの主原料は、極限まで精製・分級した微粒子鉱物(カオリン、マイカ、酸化亜鉛など)と、植物油、そして蜜蝋や高級ステアリン酸だ。神聖王国にはベルフォール公爵領をはじめ、古くから化粧品や軟膏を精製してきた高精度の粉砕水車と、純度の高い植物性ワックスの供給網がすでに完成している。初期投資を抑えて最速で大量生産ラインを組むなら、王国の既存工房をアップグレードするのが最も効率的だ」
「……なるほど。理に適っていますわね」
エレオノーラは満足げに目を細め、胸を張った。
「神聖王国の格式と、我がベルフォール公爵家の威信をかけた最高品質のファンデーション……。社交界の頂点に立つに相応しい至高の逸品を、我が国から大陸全土へ配給して差し上げますわ」
一方、セシリアが不満げに紫紺の瞳を細める。
「……ファンデーションを王国に渡すというわけね。では、帝国は何を得られるのかしら?」
「もちろん、ネイルの製造拠点はここヴァレンティノ帝国に置くよ」
レンの言葉に、セシリアの表情がわずかに和らいだ。
「ネイルの主原料はシェラック――ラックカイガラムシの分泌物から精製する天然樹脂と、高純度のアルコール溶媒だ。帝国は南部の温暖な直轄領に大規模な果樹園や森林を抱えており、シェラックの採集拠点を組織化しやすい。さらに、帝都近郊には僕が買収を進めている醸造所があり、副産物として高純度アルコールの蒸留ラインを即座に確保できる」
レンはセシリアを見据え、ビジネスのロジックで釘を刺した。
「有機溶媒の扱いは火災や中毒のリスクがある。軍部の厳格な規律と工兵隊の管理能力がなければ、大規模な溶剤プラントの安全運行は不可能だ。セシリア、君の軍部統制力と帝国の重化学リソースがあって初めて、ネイルの工業化は成立するんだよ」
「……ふふ。私の実力と帝国の軍事インフラを、そこまで評価してくれているのね」
セシリアは満足そうに喉を鳴らし、妖艶な笑みを浮かべた。
肌の美を支配するファンデーションは王国へ。
そして、今まさに帝国全土の令嬢たちを狂乱させているネイルの生産利権は、帝国が一手に掌握する。
利権を二分し、互いの強みを最大限に活かす完璧な調停案だった。
「よろしいでしょう。ネイルの生産拠点および原材料の調達網は、帝国軍務卿たるこの私が全権をもって防壁を敷き、直ちに大量生産体制を構築させます」
「ええ、わたくしも異存はありませんわ。神聖王国の筆頭公爵家として、ファンデーションのラインは一分の隙もなく立ち上げてみせましょう」
二人の間に漂っていた一触即発の殺気が、巨大なビジネス協定の成立によってようやく霧散した。
胸を撫で下ろしたレンは、深く安堵の息を吐きながらカップに手を伸ばした。
(ふう……これでようやく、門前の令嬢たちも大人しくなって、適正な流通が始まるはずだ……)
だが。
ビジネスの決着がついた瞬間、エレオノーラとセシリアの瞳に、先ほどとは全く異なる「私的な獲物を狙う光」が灯ったことに、元店長はまだ気づいていなかった。
「……さて。国家間の取り決めはこれで決着がつきましたわね」
エレオノーラが甘く、粘つくような声音で微笑みながら立ち上がった。
「実務の話が終わったのですもの。……レン、今夜はどちらの部屋で、その至高の指先を労って差し上げるべきかしら?」
「何を言っているのかしら、エレオノーラ」
セシリアもまた、冷徹な笑みを浮かべながらレンの隣へと音もなく滑り込む。
「今は秋よ。帝国におけるレンの身柄は、この私が独占する約定のはずだわ」
◇
【古き座の謀略と鉛の永久封印庫】
帝都オルデンブルクのシンボルたる皇城の威容を間近に臨む一角、その膝元に構える重厚な石造りの商館。
そこには、歴代の皇帝や大貴族の肌を白く塗り固めてきた歴史を誇る『帝都白粉・香油統制座連合』の重鎮たちが顔を揃えていた。
部屋の空気は、彼らが富の象徴として愛用する濃厚な麝香の香りと、隠しきれない焦燥で淀んでいる。
「……聞いたか。裏通りのあの小僧の店だ」
上等な毛皮の襟巻きを着けた筆頭幹部が、分厚い手帳をテーブルに叩きつけた。
「泥だ。荷馬車が運んでいるのは、陶工が壺を焼く時に使うただの白泥と、石切り場で打ち捨てられる屑石ばかりだという。あんなゴミを粉にして固め、あろうことか『肌を傷めぬ奇跡の粉』などと騙って売りさばいているのだ!」
「愚劣な詐欺師めが。神聖王国の田舎貴族上がりが、帝都の化粧品市場を荒らしてよいはずがなかろう」
もう一人の豪商が、金貨の詰まった革袋を弄びながら嘲笑を浮かべる。
彼らにとって、美とは一握りの特権階級だけが享受する富の証。肌を純白に染め上げる鉛白の鉱山を抑え、鮮血のような唇を彩る辰砂を囲い込み、マッコウ鯨の油を一手に握ることで、何世代にもわたり巨万の富を築いてきたのだ。
「だが、放置はできん。現に、あの店の粉を塗った下町の娘どもや宮廷の女官が、見違えるような美貌を手に入れたと騒ぎ始めている。放っておけば、我が座が独占してきた鉛白の相場が崩れかねん」
「ならば話は簡単だ。息の根を止めてやればいい」
筆頭幹部が冷酷な笑みを口元に刻んだ。
「各地の鉱山主や輸入商人に、手付金として金貨をばら撒け。帝都へ入る鉛鉱石、辰砂、そして上等な油脂の類を、市場価格の3倍で先物買い占めさせるのだ。市場から化粧品の原料を完全に枯渇させてやる」
「それだけではぬるいのでは? 奴らは泥を使っているのでしょう?」
「ふん、泥すら手に入らなくしてやるまでのことよ。近郊の陶土採掘場と砕石場に手を回し、泥土の採取権と運搬用の荷馬車組合を片っ端から札束で押さえろ。原料の一粒、泥の一握りすら奴らの工房へ届けさせん。兵糧攻めにして干からびさせ、泣きついてきたところを工房の権利ごと買い叩いてやるわ」
「ははは! さすがは筆頭。あのような若造、相場の恐ろしさも知らぬまま、己の浅知恵を呪って破滅するのが関の山ですな」
シャンパングラスが打ち合わされ、鈍い金属音が室内に響く。
彼らは信じて疑っていなかった。
大陸全土に張り巡らせた己たちの古い商業網と、山のように積み上げた金貨の力があれば、新参の小僧など赤子の手をひねるように捻り潰せると。
自分たちが買い占めたものが、やがて法の一筆によって「一文の価値もない猛毒の廃棄物」へと叩き落とされる運命にあることなど、誰一人として想像すらしていなかった。
◇
数日後、同じ商館の空気は、芳醇な麝香の香りなど完全に消し飛ぶほどの脂汗と絶叫に包まれていた。
「……買い取りの打診はまだ来ないのか!? あの裏通りの小僧から、原料を売ってくれと泣きつきの手紙の一通すら届かんのかと聞いているのだ!」
筆頭幹部の怒鳴り声に、顔面を蒼白にした番頭が膝を震わせる。
「は、配下の者が見張っておりますが……店のほうは今日も通常営業でして……。客足が途絶えるどころか、帝都中のご令嬢が列をなしております……」
「馬鹿なッ! 帝都近郊の土砂も、泥土を運ぶ荷馬車組合も、我が座が法外な前金で完全に封鎖したはずだぞ!? なぜ奴らの工房に原料が届いている!?」
「そ、それが……街道の警備兵の報告によりますと、ノア・ホールディングス傘下の『ベルフォール・サプライライン』なる巨大輸送部隊が、他領の山林から直通で専用のコンテナを運び込んでいるようでして……。近郊の馬車組合など、最初から一匹たりとも使っていなかったと……」
「なっ……!?」
絶句する幹部たちを、さらに冷酷な現実が打ちのめす。
「そ、それと……先物で市場価格の3倍で買い占めた鉛鉱石と辰砂、それに高級鯨油の山ですが……」
「そ、そちらはどうなっている! 大貴族の顧客どもから注文は入っているのだろうな!?」
「い、いえ……大公閣下の無害な『固形白粉』の噂が宮廷中に広まりまして……『肌が爛れるような古い鉛白など二度と使いたくない』と、予約のキャンセルが殺到しております……! 倉庫は買い占めた鉛と油、それに使い道のないただの白泥の山で溢れかえり……各地の鉱山主や輸入商人への決済期日は明日……手形の不渡りまで、もう猶予がございません……ッ!」
ガタガタと音を立ててテーブルが揺れた。
全財産を注ぎ込み、莫大な借金まで背負って市場から買い集めた品が、誰一人として買い手のないまま、ただ維持費と利息を食い潰す巨大な負債の塊へと変わっていた。
「お、おい……どうするのだ……! このままでは我が座どころか、出資した貴族家まで連鎖倒産だぞ……!」
「泥だ……あの山積みの泥を奴らに売りつけるのだ! 原価でいい、いや半値でもいいから引き取らせろ! 金に換えなければ首が飛ぶッ!」
血走った目で喚き散らし、幹部たちが破滅の縁で縋り付こうとしたその時――。
バタン、と音を立てて商館の重厚な扉が無作法に開け放たれた。
「――皆様、そこまでですわ」
涼やかな、しかし骨の髄まで凍りつかせるような声と共に現れたのは、ノア・ホールディングス特務販売部門の腕章を巻いたシエナ・フォン・バルツだった。
背後には抜刀した近衛兵と、帝国商務省の監察官がずらりと整列している。
「な、貴様は……旧シルフィード公爵家の小娘……!? 勝手に押し入って何をしに来た!」
取り乱す幹部たちを、シエナはゴミを見るような冷ややかな眼差しで見下ろした。
その手には、皇帝の御璽が押された一枚の羊皮紙が握られている。
「大公閣下――レン様より、帝都のすべての民と貴族の健康を守るための、慈悲深き決定が下されましたのよ」
シエナは優雅に羊皮紙を広げ、朗々と読み上げた。
「『人体への重篤な蓄積毒性を鑑み、本日を以て、皮膚への塗布を目的とした鉛白、辰砂、その他有害重金属化合物の製造、販売、譲渡、および所持を帝国全土において即時全面禁止とする』」
「……は?」
「な、何を言って……」
幹部たちの思考が完全に停止した。
シエナは底冷えのする笑みを深め、容赦のないトドメの言葉を突きつける。
「レン様が仰いましたの。『こんな肌に危険な猛毒を顔に塗りたくるなんて、正気の沙汰じゃないよ。早く禁止令を出して、二度と市場に出回らないようにしなきゃ駄目だ』とね」
「ば、馬鹿な……! 全面禁止だと!? では、我が座が借金をしてまで倉庫に抱え込んだ、数万樽の鉛と水銀はどうなるのだ……!?」
「どうにもなりませんわ。ただの『違法な劇物廃棄物』ですもの」
シエナはふふ、と喉を鳴らして嘲笑った。
「売ることも、他人に譲ることも、法により一切許されません。放置すれば土壌汚染の罪で一族郎党が処刑されますわね。……ああ、でもご安心あそばせ? 慈悲深きレン様はこうも仰いましたの。『処分に困っているなら、環境汚染を防ぐためにノア社の認可プラントで無償……いえ、適正な処分手数料をいただいた上で全量引き取ってあげるよ』と」
「ぎ、ぎゃああああっ……!?」
買い占めた全財産が一瞬にして「処分費用の発生するゴミ」へと叩き落とされた瞬間、筆頭幹部は泡を吹いてその場に卒倒した。
かつて帝都の美を牛耳っていた豪商たちの泣き叫ぶ声が、冷たい石造りの商館に木霊していた。
◇
「大公閣下、この数万樽にも及ぶ鉛の山ですが……」
旧ギルドの広大な地下倉庫。
松明の煤煙が漂う中、帝国商務省の監察官が、積み上げられた鈍色の粉末樽を指差して伺うように言った。
「市場での流通を禁じられた以上、もはや一文の値打ちもないガラクタにすぎません。川に流すか、帝都の城壁の外に深い大穴でも掘って埋め捨ててしまうのが手っ取り早いかと存じますが」
周囲の役人や護衛の兵たちも、当然のように頷き合っている。
この時代の人々にとって、売れない不要物は「川に捨てる」か「土に埋める」のが当たり前の常識だった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、レンの表情がすっと険しさを帯びた。
「……川に流す? 大穴に埋める?」
レンの静かな、しかし底冷えのするような声音に、役人たちが息を呑む。
元ドラッグストア店長であり、現代の薬学と公衆衛生の恐ろしさを骨の髄まで知るレンにとって、それは正気の沙汰とは思えない暴論だった。
「そんなことをしたら、水に溶け出した鉛が下流の村や街の井戸水を汚染する。土に埋めたって同じだ。雨が降れば地中に染み出し、その土地の作物を食べた人や、水を飲んだ子供たちの体内に何十年も毒が蓄積し続けるんだよ。激しい腹痛、手足の麻痺、脳の障害……最悪、何千人もの命が失われる」
前世の記憶にある、重金属による公害や中毒の惨禍がレンの脳裏をよぎる。
ただのゴミを捨てるような感覚で、この世界の人間は取り返しのつかない環境破壊と健康被害を引き起こそうとしているのだ。
「す、捨てるのが……駄目なのですか……?」
監察官がおずおずと問いかける。
レンは首を横に振った。
「駄目どころの話じゃない。自然界に還す術がこの世界にはないんだ。だから、絶対に捨てちゃいけない」
「では、一体どう処分せよと……? 買い手も使い道もない重たい毒石を、このまま放置するわけにもまいりません」
困惑する一同を前に、レンは迷うことなく明確な指示を下した。
「粉末のまま置いておくのも危険だ。風に舞って吸い込んだら肺から毒が入る。――職人を集めて、これらすべての鉛を完全に溶かし、不純物を取り除いて厚みのある頑丈な『インゴット(金属塊)』に鋳直してくれ」
「インゴットに……?」
「そうだ。そして、帝都の郊外、地下水脈から遠く離れた岩盤の上に、雨風を完全に防げる頑丈な石造りの専用倉庫を一棟建てる。床には幾重にも防水の石灰を敷き詰めて、湿気を徹底的に遮断するんだ」
レンは山積みになった樽を見据え、言い切った。
「鋳直した鉛のインゴットは、すべてその倉庫の中に運び込んで整然と積み上げる。そして、頑丈な鉄扉に施錠して、二度と外へ出さない。僕たちが責任を持って、永久に保管・管理し続けるんだ」
「え……よ、永久保管、でございますか……!?」
監察官は目を丸くした。
売るためでも、使うためでもない。
ただ「大地や水を汚さず、人々の命を脅かさないためだけ」に、莫大な費用をかけて専用の石造倉庫を建て、金属塊にして未来永劫閉じ込めておく。
利益を第一とする商人や、力こそ全てと考える貴族たちには、逆立ちしても出てこない発想だった。
「……レン様」
背後に控えていたシエナが、胸元に手を当てて静かに息を呑んでいた。
己の利益のためなら他人の肌が爛れようと知ったことではないと毒を売りさばいていた旧ギルドと、利益どころか維持費を払い続けてまで未来の民の健康を守ろうとする目の前の少年。
(これが……このお方と、私どものような愚かな貴族との決定的な差……)
シエナの瞳に、もはや崇拝の域すら超えた熱い光が宿る。
「承知いたしました、レン様。ただちに信頼の置ける石工と鋳造職人を手配いたします。一欠片の粉塵も大地に触れさせぬよう、完璧なる『鉛の永久封印庫』を築いてみせましょう」
「うん、頼むよシエナ。安全第一で、作業する職人さんたちにも口と鼻を濡れ布でしっかり覆わせて、終わったら徹底的に手を洗わせてね」
レンがいつもの穏やかな口調でそう念を押す中、役人たちは「毒を大地に触れさせぬため、石の牢獄に永久に封じ込める」という大公の途方もない決断に、ただただ深く平伏するしかなかった。
◇
【毒ニスが招く病魔と美爪憲章の布告】
帝都を揺るがした有害白粉の騒動が『鉛の永久封印庫』の建造によって幕を閉じたのも束の間、ノア・ホールディングス帝都支社の応接室に、新たな悲鳴が持ち込まれていた。
「……レン様、至急ご相談したい案件がございますの」
執務机に向かうレンの前に現れたシエナは、いつになく眉根を寄せ、困惑と侮蔑が入り混じったような表情を浮かべていた。
手元の書類から顔を上げたレンが首を傾げる。
「どうしたの、シエナ? ファンデーションの製造ラインなら、近郊の陶土を使った原料調達も含めて順調そのもののはずだけど……」
「そちらではありませんわ。問題は……帝都の貴族街で爆発的な流行を見せている、あの『爪の装飾』です」
シエナが差し出した報告書には、ここ半月の間に帝都の大貴族や豪商の令嬢たちの間で起きている、奇怪な身体異変の訴えがびっしりと書き連ねられていた。
「事の発端は、宮廷の夜会で爪を鮮やかに彩る流行が始まってからですわ。赤や金で爪を染め上げるのが淑女の嗜みとされ、街の装飾屋や怪しげな油売りがこぞって参入いたしました。しかし……ここ数日、ノア薬局の相談窓口に、顔を青くした令嬢たちの侍女がひっきりなしに駆け込んで参りますの。『お嬢様の爪が白く濁り、ボロボロと崩れ落ちてきた』『指先がズキズキと痛み、悪臭すら放ち始めている』と」
「……爪の白濁に、崩壊?」
レンの表情から、いつもの穏やかな弛緩がすっと消えた。
ドラッグストアの店頭で、皮膚トラブルや水虫・真菌感染症の相談を嫌というほど受けてきた登録販売者としての直感が、即座に警鐘を鳴らす。
「その子たち、爪に何を塗っているの? どうやって手入れしてる?」
「調べさせましたところ、家具用の粗悪な天然樹脂ニスや、乾きの早い松脂と有毒な顔料を混ぜ合わせた安物ですわ。しかも、色落ちを嫌う令嬢たちは、数週間から1ヶ月以上もそのニスを爪に塗りっぱなしにし、剥がれかけると上からさらに塗り重ねているとのことです」
「……最悪の密閉湿潤環境だ」
レンは額に手を当て、深く重いため息を吐き出した。
家具用の油性ニスで爪の表面を完全に塞ぎ、呼吸も蒸散もできない状態を何週間も維持する。
手洗いや入浴で隙間から入り込んだ水分は逃げ場を失い、爪とニスの間は常にジメジメとした暗黒の温床になる。
そこへ体温が加われば、どうなるか。
「真菌だ……。白癬菌による爪水虫か、カンジダ菌の異常増殖だよ」
「しん……きん……? カビの一種、ですの……?」
シエナが戦慄したように目を丸くする。
「そう、カビ。爪の主成分であるケラチンっていう硬いタンパク質をエサにして、カビの菌糸が爪の奥深くまで根を張って食い荒らしているんだ。放置すれば爪全体が黄色や白に濁って分厚くなり、最後はボロボロと崩れて剥がれ落ちる。おまけに周囲の皮膚まで炎症を起こして、激痛でペン1本握れなくなるよ」
「ま、まさか……あのご令嬢たちの高貴な指先が、カビの巣窟になっていると……!?」
シエナの顔から血の気が引いていく。
美しく着飾り、夜会で扇子を揺らしながら優雅に微笑んでいた帝都の花々が、その指先にはびこる白癬菌に蝕まれている。貴族社会の価値観からすれば、これほど屈辱的で耐え難い醜聞はない。
「粗悪なニスそのものの毒性もさることながら、根本的な衛生観念が完全に欠落しているのが一番の問題だね……。爪は死んだ細胞の板だけど、皮膚の一部なんだ。密閉して湿気を閉じ込めたら菌の天国になるのは当たり前だよ」
「帝都の全店舗に、粗悪なニスを使ったネイルの中止を呼びかける警告文をただちに出してくれ。詳しい対策は僕がすぐに組む」
「承知いたしました。すぐに手配いたしますわ」
シエナは一礼し、早足に応接室を辞していった。
一人残されたレンは、背後の調剤棚へ向かった。棚には、ノア社が各地から買い集めて保管していた未分類の乾燥植物や油脂がずらりと並んでいる。
小瓶や麻袋へ次々に指先で触れていく。その一瞬ごとに、レンの視界の隅へ【脳内PC】と【物質相互鑑定プラグイン】の解析データが静かに立ち上がった。
【名称】:南部砂漠産 棘低木(未分類種)
【魔力特性】:微弱(乾燥耐性)
【地球換算相当】:ティーツリー(メラレウカ・テルピネン-4-オール高含有種相当)
【名称】:針葉樹林帯産 樹皮寄生地衣類
【魔力特性】:なし
【地球換算相当】:サルオガセ(ウスニン酸・天然抗真菌成分高含有相当)
【名称】:白銀樹の乾燥葉
【魔力特性】:微弱(冷涼感維持)
【地球換算相当】:ユーカリ(1,8-シネオール・浸透促進および鎮痛成分相当)
【名称】:乾燥砂漠地帯産 油料種子
【魔力特性】:なし
【地球換算相当】:ホホバ種子(液状ワックスエステル・酸化防止キャリア油相当)
(……よし、完璧だ。前世の知識通りの抗真菌処方が組めるぞ……!)
レンは迷いのない手つきで必要な素材を作業台へ引き出し、乳鉢と小型の抽出器具を並べた。
まずは爪にこびりついた毒ニスを安全に溶かす溶剤だ。無理に削り落とそうとすれば皮膚を傷つけ、そこから菌が体内に侵入してしまう。レンは棚の奥から、ノア醸造プラントの発酵副産物から精製させていた『発酵酢酸エステル』を取り出し、専用の除光リムーバーとして小瓶に小分けした。
続けて、手早く地衣類の粉末から有効成分を濃縮し、ティーツリーと同等の殺菌油、白銀樹の精油、そして酸化に強い植物油を均一に練り合わせていく。乳鉢の中で混ざり合った琥珀色の液体が、清涼感のある香りを立ち上らせた。
爪の奥深くに巣食う菌の細胞膜を破壊する成分と殺菌油を、肌馴染みのいいホホバ油類似の油脂に溶かし込んだ特製の『薬用ネイルトリートメントオイル』だ。白銀樹の成分が熱感と痛みを抑えつつ、硬い爪の奥深くまで有効成分を浸透させる。
「これで攻め手と守り手の両方が揃ったな……」
◇
レンが調剤を終え、道具を片付け始めた、まさにその時だった。
バァン! と音を立てて診察室の扉が勢いよく押し開けられた。
「れ、レン様ぁ……っ! お願いです、助けてくださいませ……っ!」
涙で化粧を崩し、両手を布で固く包んだレジーナ・フォン・プレッテンベルクが、息を切らしながら滑り込んできた。帝国屈指の格式を誇るプレッテンベルク伯爵家の令嬢であり、普段の勝ち気で華やかな面影は微塵もなく、その瞳はすがるような絶望に揺れている。
「レジーナ様!? どうしたの、そんなに慌てて……」
レンが立ち上がると、レジーナはおずおずと、震える手から幾重にも巻かれた絹のハンカチを解いた。
露わになった彼女の指先を見て、レンは微かに息を呑む。
宮廷の夜会で誰もが羨むはずの白く細い指先――その先端にある爪は、鮮やかな赤ニスの下で濁った灰色に変色し、根元からはボロボロと白い粉を吹いて浮き上がっていた。爪の縁の肉は赤く腫れ上がり、かすかな刺激臭すら漂っている。
「これ……っ、夜会のために塗った最新のニスを、落とすのがもったいなくて3週間もそのままにしておりましたの……! そうしたら昨夜からズキズキと疼いて、今朝見たらこんな……爪が剥がれて、腐ってしまいそうですわ! 私、もうお嫁に行けません……っ!」
ポロポロと大粒の涙をこぼすレジーナに、レンは努めて穏やかな声で語りかけた。
「大丈夫だよ、腐ったわけじゃない。――ちょっと診せてね」
レンはレジーナを椅子に座らせ、その指先にそっと触れた。念のために【物質相互鑑定プラグイン】を通して爪の状態を再確認する。
視界に映し出されたのは、やはり予想通りの光景だった。密閉された高湿度環境のなか、爪のケラチン層深くに菌糸を張り巡らせる白癬菌と、周囲の皮膚を侵食するカンジダ属真菌。
(……典型的な爪白癬とカンジダ性爪周囲炎の併発だ。だが、薬ならたった今作ったばかりのものがある)
「レジーナ様、まずはこの爪に張り付いている毒ニスを全部落とすよ。無理に爪で削っちゃ駄目だ、皮膚を傷つけて菌が血管に入り込むからね」
レンは作業台から、調合したばかりの『発酵酢酸エステル』のリムーバーを取り出し、清潔な脱脂綿にたっぷりと含ませてレジーナの爪にそっと押し当てた。
家具用ニスのように硬化していた松脂が、ふわりと心地よい果実臭を漂わせながら、見る見るうちに綿へと溶け出していった。
「あ……っ、痛くない……! あんなに擦っても落ちなかったニスが、綺麗に……?」
「ニスを溶かす専用の溶剤だからね。これで密閉状態は解けた。――次は、奥に巣食ったカビの退治だ」
レンは手元に出来上がったばかりの『薬用ネイルトリートメントオイル』の琥珀色の小瓶を手に取った。
硬い爪にも素早く浸透し、菌の細胞膜合成を阻害して息の根を止める、特製の抗真菌オイルだ。
細い刷毛を使い、レンはその琥珀色の薬液をレジーナの病的な爪と、赤く腫れた甘皮の隙間へと丁寧に塗り広げていく。
「……すっごく、スーッとして……ズキズキする熱が引いていきますわ……」
「白銀樹の油が爪の奥まで殺菌成分を届けてくれている証拠だよ。朝と夜、手をしっかり洗って乾かした後に、この刷毛で毎日塗り込むこと。数ヶ月かけて健康な爪が生え変わるまで、絶対に色のつくニスは塗っちゃ駄目だよ」
「は、はいっ……! 言われた通りにいたしますわ……っ!」
安堵のあまり胸を押さえてへたり込むレジーナを見て、レンは手元の薬瓶と除光液のボトルを見つめ、決意を新たにした。
「レジーナ様1人だけの問題じゃない。帝都中のご令嬢が同じ目に遭っているんだ」
レンは即座に製造ラインへの発注指示書をまとめ上げた。この専用除光リムーバーと薬用ネイルトリートメントオイルを大至急量産ラインに乗せ、帝都のノア薬局全店舗で一斉にリリースする。
美の代償として指先を蝕まれていた帝都の淑女たちへ、ノア・ホールディングスによる本格的な「爪の救済」が幕を開けた。
◇
帝都のノア薬局全店舗の店頭に、白とエメラルドグリーンを基調とした真新しい陳列棚が設置されたのは、レジーナが駆け込んできたわずか3日後のことだった。
並べられたのは、琥珀色に透き通る『薬用ネイルトリートメントオイル』と、ほのかな果実香を放つ『専用除光リムーバー』の小瓶。
そしてその中央には、金文字で刻まれたレンの言葉――通称『ノア薬局・美爪憲章』が掲げられていた。
「美しさは健康な土台があってこそ。落とすケアを怠る者に、色を纏う資格はありません」
その一文は、粗悪なニスによる爪の激痛と白濁に怯え、夜会の招待状を前に泣き濡れていた帝都中の令嬢たちの胸を激しく撃ち抜いた。
「……落とすケアを、怠る者に……」
「なんて厳格で、気高い教えなのかしら……!」
元ドラッグストア店長として「メイクよりクレンジング」「保湿よりまず落とすこと」を徹底させたいだけの現実的かつ実利的な忠告だったのだが、貴族社会の受け止め方はまったく異なっていた。
有害白粉の鉛毒から帝都を救い、奇跡の陶器肌をもたらした『美の最高権威』レン・アルカディアが下した、美を追求する者への「絶対的な戒律」として解釈されたのだ。
「色を塗り重ねて隠すのは、ただの浅ましいごまかしに過ぎなかったのですわ!」
「まずはこの神聖な油で土台を清め、健康な爪を取り戻すことこそが、真の淑女の務め……!」
店頭には、侍女を従えた令嬢たちが我先にと殺到した。
酢酸エステルによる除光リムーバーによって、爪を痛めつけずにこびりついた毒ニスがみるみる溶け落ちると、各店舗のカウンターからは感嘆と安堵の吐息が漏れ出した。
続けて処方された薬用トリートメントオイルを刷毛で塗り込めば、ティーツリーの爽快な殺菌力とユーカリの冷涼感が患部のズキズキとした熱をたちまち鎮めていく。
「痛みが……引いていくわ!」
「ボロボロだった爪に、しっとりとした潤いが戻ってまいります……!」
数週間後、最初に治療を受けたレジーナ・フォン・プレッテンベルクが、清潔に整えられた健康的な素爪に薄くトリートメントオイルを輝かせ、誇らしげに宮廷のサロンへ姿を現した。
「見てご覧なさい。無理に毒ニスで塗り固めた爪など、もはや流行遅れの野蛮な悪趣味ですわ。レン様の教えに従い、隅々まで手入れの行き届いた清潔な素爪こそが、今もっとも気高い美の証なのです」
レジーナの誇らしげな宣言は決定打となった。
帝都の社交界において、「爪を派手に染めること」よりも「爪の衛生と健康を完璧に保つこと」が最上位のステータスへと一変したのだ。
さらにその影響は指先だけにとどまらなかった。
「美しさは健康な土台があってこそ」「落とすケアを怠るな」というレンの戒律は、洗顔や肌の保湿、髪の清掃にいたるまで、貴族女性たちの衛生観念全般へ波及していく。ただ上から塗りたくるだけだった中世的な化粧文化は音を立てて崩れ去り、帝国全土のスキンケア意識は不可逆的に、一段階上の水準へと引き上げられたのだった。
◇
【天上界の美貌と大公邸の悶絶】
「……レン様、帝都全域で『美爪憲章』の浸透が進む今こそ、決定的な一手を打つべきですわ」
旧水路街にある『名もなき薬種問屋』の奥、清潔に整理された帳簿と生薬サンプルが並ぶバックヤードで、ナディアが凛とした鳶色の瞳をレンに向けた。亜麻色の髪をきっちりと束ねた彼女の手元には、新商業連合と各店舗から吸い上げられた販売データが克明に記されている。
「ノア薬局の安全なクレンジングや除光液、薬用ネイルオイルの売れ行きは爆発的です。ですが、現場のお客様……特に若いご令嬢やその侍女たちの間では、『落とす重要性は理解したが、では具体的にどう塗れば肌や爪を傷めずに美しさを維持できるのか』という技術的な迷いが生じています。知識だけではなく、生きた実践の手本が求められているのです」
「ナディアの言う通りですわ、レン様」
ナディアの隣で、新連合の端正な制服を着こなしたエリスが理知的な眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。その瞳の奥には、秘書としての鋭い計算と、レンへの熱烈な信奉がぎらりと同居している。
「現在、宮廷の夜会は『健康的な素肌と手入れされた爪』こそが最高のステータスという認識に塗り替わりつつあります。レン様はノア薬局や帝国の最上層部とも極めて太いパイプをお持ちです。ならば、その製品の開発元であり流通の要であるレン様ご自身が、陶土ファンデーションと薬用ネイルの完璧な調和をその身で体現し、直々に指導を行うのが最も効果的かつ無駄のない宣伝・啓発になりますわ。今宵開かれる大公爵邸の夜会こそ、その絶好の舞台です」
執務机で伝票を確認していたレンは、エリスの言葉にぽかんと口を開けた。
「……え? 手本を見せるって……僕が? 僕が化粧するの?」
「当然ですわ!」
エリスが即座に踏み込み、机の上にずらりと並べたのは、近郊の良質な陶土から精製された超微粒子のファンデーション、肌色を自然に整えるコントロールパウダー、そして琥珀色の薬用ネイルトリートメントオイルと艶出しの保護膜だった。
「レン様は普段から誰もが息を呑むほどの端正な貴公子然としたお顔立ちです。ですが、夜会の強い照明下でも決して崩れず、かつ毛穴を塞がずに呼吸させる正しいパフの使い方、そして血色を損なわずに爪先を保護する極薄のトップコート塗布技術……これらを完璧に見せつけられる存在は、製品を熟知しているレン様をおいて他におりません!」
「ちょ、ちょっと待って、僕は男だし、ただの薬種問屋の主だよ!? 人前に立ってメイクの実演なんて――」
「レン様」
ナディアが一歩前に出て、澄んだ瞳でレンを真っ直ぐに見据えた。その声音には、かつて大手ギルドで現場の不正と戦い抜いた生粋の実務派ならではの、揺るぎない説得力がこもっていた。
「現場を預かる者として申し上げます。お客様は、机上の講釈ではなく『本物の美しさと正しさ』に動かされるのです。有害白粉の代替品を見出し、毒ニスから令嬢たちの指先を救う処方を卸してくださったレン様が自ら示してくだされば、それは帝都のすべての女性にとって生涯揺るがない衛生の指標となります。……どうか、ご決断を」
「いや、決断って言われてもさ――」
「問答無用ですわ、レン様! さあ、お掛けになって!」
「エリス、そちらの髪留めを取って。前髪を上げます。私がベースの保湿を整えますので、エリスはパウダーの準備を」
「了解いたしました、店長。任せてくださいまし、元より至高の美貌をお持ちのレン様を、天上界の領域まで磨き上げてみせますわ……っ!」
「わ、わっ、ちょっと二人とも!? 近い、近いよエリス! ナディアも手際が良すぎるって――!」
抗議の声も虚しく、レンはあっという間に椅子へと押し倒され、二人の卓越した連携プレイによって拘束された。
ナディアの手指衛生マニュアル通りに消毒された清潔な指先が、レンの頬へ手早く保湿化粧水を馴染ませていく。続いてエリスが、パフに均一に含ませた陶土パウダーを、余分な粉を手の甲で払ってから、レンの額、鼻筋、頬へとリズミカルに滑らせていく。擦らず、押し込まず、肌のキメに沿って極薄のヴェールを纏わせるプロの手際だ。
さらに指先には、薬用ネイルオイルで甘皮を整えた上から、爪の呼吸を妨げない天然多糖類ベースの透明保護コートが、細い刷毛で手際よく均一に塗布されていった。
作業が完了し、手鏡を突きつけられたレンは、絶句した。
「……な、何これ……」
鏡の中に映っていたのは、言葉を失うほどの圧倒的な美男子だった。
元より並の貴族をはるかに凌駕する端正で気品ある顔立ちを誇っていたレンだが、正しいスキンケアと陶土の微粒子による極薄のヴェールを纏ったことで、その造形の完成度が極限まで研ぎ澄まされていた。
光を柔らかく拡散する陶器のような肌は、不自然な白粉の仮面感など微塵もなく、まるで内側から光を放つ白磁の彫像のように透き通っている。そして手元を見れば、手入れの行き届いた清潔な指先が、露に濡れた桜貝のように上品な光沢を湛えていた。
「完璧どころの騒ぎではありませんわ……っ! 元から完成されていた美貌に磨きがかかり、もはや歩く神話の域です……! ああ、これぞ私が生涯をお捧げするお方……!」
エリスが眼鏡の奥の瞳を陶酔に染めて両手を組む。
「素晴らしい仕上がりです、レン様。これぞ『健康な土台に宿る真の美』。これ以上説得力のある姿はありません」
ナディアもまた、職務を完璧に遂行した達成感に鳶色の瞳を輝かせて深く頷いた。
「いや、素晴らしいって言われても……僕、この顔で貴族の夜会に行くの……!?」
「ええ、馬車はすでに正面に回してありますわ!」
「帝国上層部との大切な夜会です。正しい美の直接指導――帝都の貴族たちに、とくと教えて差し上げてくださいませ!」
有無を言わさぬ二人の完璧なサポートに背中を押され、レンは悲鳴を飲み込みながら、夜会の会場へと強制連行されるのだった。
◇
大公爵邸の大広間は、シャンデリアの豪奢な光と、着飾った貴族たちのさざめきに包まれていた。
その中央に据えられた特別席では、クレイズ神聖王国公爵家長女にしてレンの実姉、そしてその正妻であるエレオノーラと、帝国の第二皇女セシリアが並んで腰掛けていた。二人の視線は、夜会の主役であるはずの青年が姿を見せない入口の扉へと、落ち着かなげに向けられている。
「……レンは、少し遅れるとお伺いしておりますけれど」
エレオノーラが扇を胸元で弄びながら、微かに眉をひそめた。最愛の弟であり夫であるレンの身を案じるあまり、社交界で『氷の令嬢』と恐れられるその面影はなりを潜め、隠しきれない焦燥が滲み出ている。
「ええ。旧水路街の店舗の視察と、新たな流通の調整に追われていると聞いているわ。あの方の勤勉さには本当に頭が下がるけれど……たまにはご自身の身体も労ってほしいものね」
セシリアは手にした扇を優雅に揺らしながら、怜悧な双眸にレンへの深い執着と憂いを滲ませて静かに息を吐いた。
二人の心はいついかなる時もレンという唯一無二の存在で満たされており、周囲の着飾った貴族の男たちなど、路傍の石ころほどにも視界に入っていなかった。
その時、広間の大扉が厳かに押し開かれ、従者の朗々とした声が響き渡った。
「――アルカディア大公閣下、ご入場!」
喧騒が一瞬で静まり返り、広間にいる全員の視線が一斉に扉へと注がれる。
そこへ、一人の青年が静かに歩み出た。
「っ……!?」
その瞬間、広間を埋め尽くす貴族たちの息が止まった。
特別席のエレオノーラとセシリアに至っては、椅子から身を乗り出しかけたまま、完全に言葉を失って硬直した。
そこに現れたのは、この世の被造物とは思えないほどの美貌を放つ貴公子だった。
元より並み居る貴族を凌駕する端正な顔立ちを、今宵は薄く均一に纏わせた陶土の微粒子が極限まで引き立てている。光を柔らかく乱反射する肌は毛穴の一つすら見当たらず、内側から発光しているかのような白磁の輝きを放っていた。
さらに、過剰な原色のニスを排した指先は、手入れの行き届いた清潔な桜貝のように、上品で露に濡れたような光沢を帯びている。
健康的で、一切の無駄がなく、あまりにも神々しい――「真の美」が形をとって歩いているかのようだった。
「あ……あ、あ……」
エレオノーラの喉から、かすれた吐息が漏れた。
どんな美辞麗句にも眉一つ動かさなかった彼女の心が、激しく警鐘を乱れ打っている。
(な、何という……何という美しさ……! 神の御手が直接創り上げた彫像ですら、これほどの清浄な気品は宿せませんわ……っ!)
隣のセシリアもまた、手元の扇子を取り落としそうになりながら、冷徹な仮面を崩して頬を朱に染め、微かに震えていた。
(嘘でしょう……? この帝国に、これほどまでに気高く、息を呑むような美男子が存在していたというの……? あのお肌の陶器のような滑らかさ、指先の端正な艶めき……。軍の統率や帝国の権力闘争など、すべて吹き飛んでしまいそうなほどの引力だわ……っ)
二人の視線は、強烈な磁石に引き寄せられるようにその青年の一挙手一投足に釘付けになった。
彼が軽く会釈を返しただけで、周囲の令嬢たちがバタバタと扇子を落として卒倒しかけている。それすらも当然と思えるほどの、圧倒的な破壊力だった。
だが――次の瞬間。
エレオノーラとセシリアの脳裏に、冷水を浴びせられたような激しい罪悪感が突き刺さった。
(――い、いけませんわっ!!)
エレオノーラは両手で自らの胸元をぎゅっと掻きむしり、内なる衝動を必死で押し殺した。
(何を考えているのです、わたくしは……! わたくしには最愛の弟にして夫であるレンがいるというのに! 姉として、そして妻としてレンに生涯の愛を捧げると誓ったわたくしが、見ず知らずの男の美貌に目を奪われるなど……っ! レンへの許されざる不貞、姉としても妻としても万死に値する裏切りですわ……! 神よ、浅ましいわたくしをお許しください……っ!)
セシリアもまた、奥歯を強く噛み締め、扇の親骨を握りしめながら猛烈な自己嫌悪と葛藤に悶絶していた。
(正気を取り戻しなさい、セシリア……! あの男がどれほど美しかろうと、私の愛する夫はレン様ただ一人よ! レン様が日夜、帝国の民と経済のために心血を注いでいらっしゃるというのに、名代か何かで現れたどこの馬の骨とも知れない美男子に目を奪われるなんて……! 私としたことが、これではレン様への不実、精神的な背徳になってしまうじゃないの……っ!)
二人は顔を真っ赤にし、冷や汗を流しながら、必死に青年の姿から視線を逸らそうとした。
しかし、逸らそうとすればするほど、青年の優雅な立ち居振る舞いや、発光するような白い肌、上品に光る指先が網膜に焼き付いて離れない。
「……エレオノーラ様、あ、あの方は一体どなたかしら……」
「わ、わかりませんわ、セシリア様……っ! で、ですが、私たちはあの方を見てはなりません! 弟であり夫であるレンへの不貞になってしまいますわ……っ!」
「ええ、その通りね……! 見ては駄目よ、私は絶対にあの美しい……いえ、あんな男になど、決して見惚れたりしないわ……っ!」
二人が必死の形相で身悶え、自らの純情と罪悪感の板挟みになって悶絶していることなど露知らず。
当の本人であるレンは、ナディアとエリスに施された完璧すぎる化粧と水性ネイルに身を包まれながら、大広間の特別席に座る見知った二人の姿を認めるや否や、迷うことなく歩調を速めた。
周囲を取り囲む貴族たちの熱っぽい視線や息を呑む気配など、まるで気にしていない。元ドラッグストア店長としての感覚からすれば、「妻たちを見つけたから挨拶に行こう」というごく自然な行動に過ぎなかった。だが、群衆をモーゼの海割りのごとく掻き分けながら、白磁の陶器肌を輝かせた絶世の美男子が一直線に向かってくる光景は、二人にとって破滅的な猛威そのものだった。
「ひっ……! な、なぜこちらへいらっしゃるの……!?」
エレオノーラは扇の親骨が軋むほど強く握りしめ、座席の背もたれへ背中を押し付けた。
歩み寄る青年の足音が近づくたび、心臓が早鐘のように跳ね上がる。
(来ないで、近寄らないでくださる!? この上至近距離であのような神話を具現化したような美顔を見せられたら、わたくしの理性など粉々に砕け散ってしまいますわ! レン、レン許して頂戴! わたくしはあなたの姉であり妻ですのに、見知らぬ殿方の接近に胸を高鳴らせるなど……っ! ああっ、レンへの不貞ですわ、万死に値しますわ……っ!)
隣のセシリアもまた、怜悧な仮面をかなぐり捨て、扇子で口元を覆いながら青ざめた顔に朱を差していた。
(冗談でしょう……? 一直線に向かってくるというの……!? 軍の陣形を崩すより容易く、私の平常心を蹂躙してくるなんて……! 駄目よセシリア、目を逸らしなさい! 私の夫はレン様ただ一人! どこの馬の骨かもわからない男の流し目に籠絡されるなど、帝国皇女としての誇りが許さない……! けれど、あの近づくたびに増す圧倒的な造形の暴力は何なの……っ!)
二人が極限の葛藤と罪悪感の濁流に呑まれ、冷や汗を流しながら身悶えする中、ついに青年は特別席の目前で足を止めた。
ふわりと、白銀樹の清涼な香りと、柑橘に似た上品な果実の香が鼻腔をくすぐる。
「え……?」
「……な、何なの……?」
二人が息を呑んで凍りつく前で、青年は無言で周囲の視線も気にせず、ただいつも通りの足取りでエレオノーラの正面に立つと、床に片膝をついた。
そして、ナディアたちに整えられたばかりの自らの指先を確かめるように掲げながら、座席で硬直しているエレオノーラの右手を迷わず持ち上げる。
光の加減で爪先が露に濡れた桜貝のように艶めくのを間近で見せるようにして、そのままごく自然な動作で、エレオノーラの手の甲へと唇を寄せ、軽く落とした。
――チュッ、と微かな衣擦れの音とともに響いた、軽い接触音。
至近距離に迫る、毛穴一つない白磁の陶器肌。神話の彫像のような造形美。
そして、手の甲に触れた唇の確かな熱と感触。
見知らぬ絶世の美男子から突如として捧げられた、あまりにも美しく熱烈な求愛の口づけ。至近距離から浴びせられた美貌の破壊力と、最愛の弟であり夫であるレン以外の男に心を奪われ、唇を許してしまったという許されざる背徳感の濁流が、一瞬にしてエレオノーラの許容量を完全に突破した。
「……………………っ!?」
エレオノーラは声にならないあえぎを漏らし、瞳の焦点を完全に喪失した。
そのまま白目を剥き、ぐらりと後ろへ傾いで椅子の背もたれから崩れ落ちてしまった。
◇
【無自覚な美の猛毒と狂乱のドミノ倒し】
白目を剥いて椅子の背もたれから崩れ落ちたエレオノーラの身体を、レンは反射的に腕を伸ばしてしっかりと受け止めた。
「わっ……!? え、エレオノーラ姉さん!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
床に倒れ込む寸前でその細い腰を抱きかかえ、自分の膝の上へ滑り込ませるようにして上半身を抱き留める。華奢な身体がぐったりと脱力し、ドレスの裾が床に広がった。
「え、ちょっと待って、どうしたの急に!? 貧血!? 過呼吸……!?」
慌てふためいたレンは、抱きかかえたままエレオノーラの額や首筋に触れようと手を伸ばす。手入れされたばかりの艶やかな指先が、エレオノーラの乱れた前髪を優しく払った。
その一連の光景を真横で目撃していたセシリアの胸中に、激しい感情の嵐が吹き荒れた。
「っ…………」
セシリアは手にした扇を、親骨が折れんばかりの力で胸元に押し当てた。
目の前で、自分以外の女――それも「正妻」としてレンを囲い込もうと激しく火花を散らしてきた最大のライバルが、あの息を呑むような絶世の美青年の腕の中にすっぽりと収まり、慈しむように抱き留められている。
(なんなのよ、それ……ずるいじゃないの……っ!)
胸の奥を灼くような、ドロリとした烈しい嫉妬。
私だって触れたい。あんな白磁の肌をした美青年に優しく抱きとめられて、乱れた前髪を払われてみたい――そんな、レン以外の男に対して抱くはずのなかった情けない羨望が、喉元までせり上がってくる。
だが、それと同時に、セシリアのプライドと理性がギリギリのところで悲鳴を上げた。
自分だって今、夫であるレンへの忠節と目の前の美貌の暴力との板挟みになり、心臓を張り裂けそうにしながら必死で踏みとどまっているのだ。それなのに、あれほど「レンへの愛」を叫び、自分を牽制し続けてきたあの女が、手を取られて口づけを落とされただけで一瞬で白目を剥いて落ちてしまうなんて。
(……嘘でしょう、エレオノーラ様。わたくしをあれほど威嚇しておきながら、この程度の男の求愛で陥落してしまうわけ……!?)
羨ましくて狂いそうな嫉妬と、夫を巡る好敵手があまりにも無防備に他の男の美貌に屈してしまったことへの激しい憤りと落胆。そして、自分も一歩間違えれば同じように腰を抜かしていたという、背筋が凍るような同族嫌悪。
様々な感情が綯い交ぜになり、セシリアは顔を真っ赤に染めながら、自らの動揺を隠すように唇を尖らせて睨みつけた。
「……みっともないわね、エレオノーラ様。あれだけレン様、レン様と騒ぎ立てておきながら、見知らぬ男の美貌に当てられてあっさり卒倒するなんて……。正妻の座が泣いているんじゃないかしら」
吐き捨てた言葉は冷ややかだったが、その手元の扇子は小刻みに震え、視線はレンの美しい横顔とエレオノーラを抱くその腕へ、強烈な未練と羨望を宿したまま吸い寄せられていた。
「みっともないとか言ってる場合じゃないよ! セシリア様、突っ立ってないで手伝って!」
焦りきったレンが、エレオノーラの首筋を支えながら顔を上げ、すがるような目でセシリアを見上げた。
「ベルトかコルセット緩めたいんだけど、僕が人前でやるわけにいかないでしょ!? 気道確保と足元少し高くしたいから、そっちのクッション取って!」
「……え?」
至近距離から浴びせられた、あまりにも聞き慣れた切迫した早口。
そして、他国の皇女であり自らの妻でもある自分を「手伝って」と当たり前のように巻き込んでくる、極めて実務的で遠慮のないドラッグストア店長のノリ。
セシリアの思考が、唐突に停止した。
(……この声、この喋り方……それに、この人を身内扱いする遠慮のなさ……)
セシリアのサファイアの双眸が大きく見開かれる。
目の前で焦りまくっている絶世の美青年――陶土の極薄ヴェールで毛穴一つなく整えられた肌、濡れた桜貝のように上品に光る爪先、そして神話の彫像のような輪郭。
そのすべてのヴェールを一枚剥ぎ取った奥にある本質が、一瞬で彼女の頭の中でカチリと音を立てて噛み合った。
「……あ、なた……」
セシリアの扇子が、カランと音を立てて床に滑り落ちた。
怜悧冷徹な帝国第二皇女の仮面が、音を立てて粉々に砕け散る。
「あなた……レン、なの……!?」
「え? そうだけど……何言ってるの? さっきからずっと僕だけど!?」
レンは心底不思議そうに眉を八の字に曲げ、ぐったりと脱力したエレオノーラを抱き直した。
「それより早く! 姉さん、白目剥いて完全に意識飛んじゃってるから! 急激な血圧低下か迷走神経反射かもしれない、早く横に寝かせないと!」
「っ…………!!」
レンのその一言で、セシリアの脳内メモリは完全にオーバーヒートを起こした。
(レン様……!? この神話の美神そのもののような、息を呑むほどの美男子が……私の夫であるレン様だったというわけ……!?)
直前までの猛烈な葛藤が、走馬灯のように頭を駆け巡る。
『レン様への不貞だわ』と必死で目を逸らし、心臓を早鐘のように打ち鳴らしながら悶絶していた相手。見知らぬ男に心を奪われそうになって激しい自己嫌悪に苛まれ、先に倒れたエレオノーラに「男の美貌に落ちた」と嫉妬と当て擦りをぶつけていた、その対象。
そのすべてが――最初から、他ならぬ自分自身の愛する夫その人だった。
「わ、わたくしは……私は……っ!」
エレオノーラは他の男に落ちたのではなく、夫であるレンのあまりの破壊力に正面から撃ち抜かれて昇天しただけだったのだ。
そして自分はといえば、夫本人を相手に「レン様への不実」と悶え、あまつさえ夫の目の前で「見知らぬ男の美貌に当てられて」などと口走ってしまった。
猛烈な羞恥と、遅れてやってきた「我が夫がこの世のものとは思えないほど美しい」という事実の衝撃が、二重の津波となってセシリアを襲う。
「セシリア様!? ちょっと、セシリア様まで顔真っ赤にしてどうしたの!? もしかして広間の空気が悪いの!? 換気して、誰か窓開けて!!」
必死に叫ぶレンの狼狽顔すら、白磁の陶器肌に彩られて恐ろしいほどの破壊力を放っている。
セシリアの膝がガクガクと震え、冷徹な女傑の視界がグラリと揺らぎ始めた。
◇
大広間の騒乱から逃れるように運び込まれた貴賓用控室の天蓋付きベッドには、エレオノーラとセシリアの二人が並んで横たえられていた。
セシリアは激しい羞恥と動揺で過呼吸寸前のままシーツを握りしめて息を整えており、その隣でエレオノーラが微かに睫毛を震わせる。
「う……ん……」
長い溜め息とともに、エレオノーラの紫紺の瞳がゆっくりと開かれた。
ぼんやりとした視界が焦点を結び始め、豪奢な天井の天蓋と、ベッドサイドに腰掛けて心配そうにこちらを覗き込んでいる人影を捉える。
「……あ、やっと起きたね」
安堵したような、柔らかな声音。
至近距離にあったのは、陶土の微粒子パウダーを薄く纏い、光を柔らかく乱反射させて白磁のように発光する、息を呑むほどに整った青年の美顔だった。神話の彫像すら色褪せるほどの神々しい美貌が、極上の笑みを浮かべて自分を見つめている。
「っ……あ……」
直前の記憶――大広間で見たあの「見知らぬ絶世の美男子」の姿が鮮烈に蘇り、エレオノーラの喉が引きつった。
(ま、またこの殿方が……!? い、いけませんわ、わたくしはレンの妻……っ! これ以上このお方のお顔を拝見したら、本当にレンへの不貞に……っ!)
必死に身を竦め、レンへの罪悪感でパニックを起こしかけたその瞬間。
「急に倒れるから本当に焦ったよ。貧血じゃなくて良かった」
青年はそう言って慈しむように目を細めると、身を乗り出して、エレオノーラの滑らかな頬へとチュッと軽く唇を寄せた。
至近距離から注ぎ込まれる、甘い体温と柔らかな感触。
見知らぬ絶世の美男子から突如として頬へ落とされた、あまりにも甘やかで情熱的な口づけ。至近距離から浴びせられた美貌の熱気と、最愛の夫であるレンを裏切り、見知らぬ男の唇を頬に受けてしまったという耐え難い背徳感の津波が、覚醒したばかりのエレオノーラの脳を容赦なく焼き切った。
「ひ……っ、あ……っ……!!」
エレオノーラは引きつった悲鳴すら上げられないまま、瞳の焦点を完全に失った。
そのまま白目を剥き、首がガクンと横に折れて再びベッドへ崩れ落ちた。
「わっ!? ちょっと、エレオノーラ姉さん!? また白目剥いてる!! なんで!?」
レンが慌てふためいてベッドの上でオロオロと両手を振る横で、一部始終を間近で見せつけられたセシリアは、布団を顎まで引き上げながら引きつった笑みを浮かべて震えていた。
「エレオノーラ姉さん……!? 息はある、脈も正常……でもなんでまた白目剥いちゃうの……!?」
白目を剥いて完全に沈黙したエレオノーラのおでこをペタペタと触りながら、レンは心底困惑した様子で頭を抱えた。
そして、ベッドの隣側で布団を顎まで引き上げ、小刻みに震えているもう一人の妻の姿に気づく。
「あ、セシリア! よかった、起きたんだね」
レンは安堵の息を漏らし、膝立ちのままベッドの上をにじり寄って、セシリアの方へと顔を向けた。
心配そうに覗き込んでくるその顔は、陶土の極薄ヴェールによって毛穴一つなく整えられ、白磁のように淡く発光している。神話の美神がそのまま顕現したかのような至高の造形美が、至近距離から真っ直ぐに注がれた。
「ひっ……!」
その途轍もない美の暴力が自分へと迫ってきた瞬間、セシリアは喉の奥で小さな悲鳴を呑み込み、咄嗟に布団を鼻先まで引き上げて身を仰け反らせた。
「お、お願い……っ、近づかないで……!」
怜悧な帝国第二皇女とは思えない、上ずった懇願の声が布団越しに漏れる。
サファイアの瞳を潤ませ、耳の先端まで真っ赤に染め上げながら、セシリアは必死に顔を背けた。
「これ以上は無理よ……! 私の理性が、耐えきれそうにないわ……っ!」
「レン、待ちなさい! ……待ちなさいったら!」
布団の端を握りしめて真っ赤になっていたセシリアに、手練れの侍女たちを呼ぶよう厳命され、二人の介抱を完全に任せる形となったレンは、ひとり大広間へと戻らざるを得なかった。
大広間へ足を踏み入れた瞬間、再びざわめきが波のように引いていく。
何百人もの貴族たちが息を呑み、白磁の陶器肌を淡く発光させたレンの一挙手一投足に、熱病に浮かされたような熱い視線を注いでいた。
(……みんな、やっぱり僕の顔と爪をじっと見てる。いま街でも宮廷でもファンデーションとネイルが大流行してるから、みんな興味津々なんだろうな)
元ドラッグストア店長としての職業魂が、レンの背中を押した。
流行が過熱している時ほど、間違った使い方による肌荒れや爪のトラブルが多発する。せっかくの美容品で悲しむ人を出さないためにも、開発者として正しい知識を周知しなければならない。
レンは壇上へと上がり、よく通る穏やかな声で広間へ呼びかけた。
「皆さん、先ほどからお見苦しいところをお見せして申し訳ありません。……現在、皆さんの間でも広く親しまれている『ファンデーション』と『ネイルコート』について、少しだけ大切なお話をさせてください。大流行している今だからこそ、正しい扱い方と注意点を知っていただきたいのです」
すでに日頃から愛用している令嬢たちは、息を呑み、壇上のレンを食い入るように見つめた。
「流行に伴って、落とし残しによる肌荒れや、無理に剥がして自爪を傷めてしまう事例が増えています。一番重要なのは、無理に擦らないことと、日々の保湿です。……言葉だけでは伝わりにくいと思いますので、少し実演を交えて説明させてください」
レンは壇を降り、最前列にいた侯爵家の令嬢の前へと歩み寄った。
「失礼しますね。例えば、粉体を重ねすぎた部分を馴染ませる時は、こうして指の腹で優しく滑らせるように――」
レンは手袋を外したばかりの清潔な指先で、令嬢の頬へそっと触れ、パウダーの馴染ませ方を実演しようとした。
間近に迫る、神話の彫像のような至高の美貌。
ふわりと漂う清涼な白銀樹の香り。
そして、濡れた桜貝のように上品に光る指先が、自分の肌に触れた瞬間――
「あ……っ、あぁ……っ……!」
令嬢の瞳の焦点が瞬時に吹き飛んだ。
そのまま白目を剥き、扇子を取り落としてドサリと絨毯の上に卒倒した。
「えっ!? ち、ちょっと大丈夫ですか!?」
レンは慌てて膝をつき、倒れ込んだ侯爵令嬢の肩を支えて頭を打たないよう受け止めた。
「誰か、給仕さん! この方を静かなソファへ運んで、首元を緩めてあげてください! お水もお願いします!」
近くにいた従者と侍女たちが血相を変えて駆け寄り、気を失った令嬢を抱き起こして運んでいく。その様子を見送ってほっと息を吐いたレンは、近くで呆然と立ち尽くしていた隣の伯爵令嬢へと向き直った。
「すみません、驚かせてしまいましたね。……ええと、爪のケアについても同じことが言えるんです。コート剤を落とす時、無理に削ったり剥がしたりせず――」
レンは説明を続けようと、その伯爵令嬢の手をそっと取り、指先を掲げた。
「こうして爪の根元から先端に向けて、優しく――」
間近で至高の美男子に指先を絡め取られ、慈しむように見つめられた伯爵令嬢は、息を吸い込むことすら忘れて硬直した。
「ひ……っ、れ、れん……さま……っ!」
次の瞬間、ボトリと全身の力が抜け、そのまま白目を剥いて前のめりに倒れ伏した。
「うわっ!? ちょ、どうして二人続けて倒れるの!? 貧血!? 会場の酸素が足りないの!?」
レンは慌てふためき、何が起きているのか完全に分からなくなって右往左往した。
しかし、異変はそれで終わらなかった。
絶世の美貌を誇る大公閣下が、至近距離で令嬢たちに優しく触れ、耳元で語りかけ、そして触れられた者が次々と昇天するように気を失っていく――その狂乱と破壊の光景を間近で目撃した周囲の令嬢たちに、猛烈な過呼吸と興奮の連鎖が走った。
「まあ……っ! あんな、あんな至近距離で触れられるなんて……っ!」
「レン様の手指……あのお肌……神よ……っ!」
「わたくしも……あの方に……っ、あ……っ!」
ドサリ、バタリ、と鈍い音が立て続けに響く。
レンが触れてもいないはずの周囲の令嬢たちが、倒れた令嬢の姿とレンの放つ圧倒的な美の圧に当てられ、ドミノ倒しのように次々と白目を剥いて床に崩れ落ちていった。
「ええっ!? なんで!? 触ってない人まで倒れてるんだけど!? 集団ヒステリー!? それとも何かの毒!? 誰か、窓を全部開けて! 水と気付け薬を持ってきて!!」
大広間のあちこちで貴族令嬢たちがバタバタと意識を失っていく中、自分自身が振りまいている「無自覚な美の猛毒」に全く気づいていないレンだけが、青ざめた顔で広間を駆け回り、必死に救護を叫び続けていた。
◇
その夜の大混乱は、帝都の歴史に類を見ない珍事として、社交界の記録に深く刻まれることとなった。
――通称『夜会令嬢集団昏倒事件』。
大公爵邸の華やかな夜会において、高位貴族の令嬢たちが次々と白目を剥いて卒倒し、最終的には広間の半数近い淑女が絨毯の上へ倒れ伏した前代未聞の怪事である。
現場で必死に救護を叫び、換気と気付け薬の手配に奔走していたレン本人は、「会場の二酸化炭素濃度が上がったことによる集団過呼吸、あるいは密閉空間特有のパニック反応」と大真面目に結論づけていた。
だが、当事者である令嬢たちや、現場で生き残った貴族たちの間で広まった認識は、まったく別の方向へと暴走していた。
「……見たか、あの大公閣下の御姿を」
「ええ……。触れられた令嬢はおろか、視界に収めただけの者まで、魂を奪われたかのように崩れ落ちていきましたわ……」
あの日、白磁の陶器肌を淡く発光させ、神話の美神そのものの造形で壇上に立ったレン・フォン・アルカディア。
至高の美貌が放つあまりの破壊力に、社交界では尾ひれのついた恐るべき噂が瞬く間に囁かれるようになった。
『レン大公を、決して直視してはならない』
目を合わせただけで理性の防壁が焼き切れ、意識を失って卒倒してしまう。
彼の放つ美は、もはや人の身が耐えられる限界を超えた「生ける概念兵器」であり、不用意に注視することは自ら精神の死を選ぶに等しい――と。
「大公閣下が通りかかる際は、扇で視界を遮るか、深く頭を垂れて足元だけを見つめなさい」
「決して目を合わせては駄目よ。あの方の瞳を直視した瞬間、二度と社交界の日常には戻れなくなりますわ……」
貴族家のサロンでは、年長の貴婦人たちが若き令嬢たちへ、まことしやかにそう厳命するようになった。
かつては「隙あらば肉弾戦で寝所に突入してやる」と息巻いていた猛者たちですら、「直視すれば即死(失神)」という生々しい怪談の前には恐れをなし、レンの前に出ると一斉に視線を逸らして直立不動になるという奇妙な緊張感が漂い始める。
当のレンはといえば、街を歩くたび、宮廷ですれ違うたびに貴族たちがサッと目を伏せ、壁際に張り付いて道を譲る姿を見て、
(……やっぱり、あの夜会で僕が実演した『正しいスキンケア』の講義が厳しすぎたのかな……。みんなに説教くさい奴だって煙たがられてる気がする……)
と、見当違いの反省を深めながら、一人胃薬をポリポリと噛み砕くのだった。




