23話:『「潰れてしまえと言ったんだよ」 〜近所の挨拶のつもりが新会長に祭り上げられ、受付嬢が「愛人」を名乗ってバックヤードに居座った件〜』
【旧ギルド監査役の強襲と「潰れてしまえ」の宣告】
ガラガラ、と荒々しい音を立てて店の引き戸が開け放たれた。
「おいおいおい、ずいぶんと繁盛しているじゃねえか、ナディアぁ!」
土足のまま踏み込んできたのは、上質な絹の外套を羽織った肥満体の男と、腰に棍棒を差した柄の悪い用心棒たちだった。
男は額の脂汗を拭いながら、下卑た笑みを浮かべてカウンターの中を睥睨した。
「ギ、ギルモア監査役……!」
ナディアの顔からサッと血の気が引き、カウンターを掴む指先が白く強張る。
帝都中央商業ギルドの仕入れ監査役――かつてナディアの内部告発をもみ消し、横領の濡れ衣を着せて業界から追放した張本人だった。
「よう、ギルドを叩き出された横領犯の小娘が、下町の掃き溜めで何の真似だ? ……ほう、ステロイド軟膏に、石炭酸水、アスピリンだと?」
ギルモアは店頭の棚に並ぶ瓶を勝手に手に取り、小分けの値札を見て下品に喉を鳴らした。
「公定価格そのままで小分け売りたぁ、ずいぶんと殊勝な慈善事業だなァ! だがよ、ノア・ホールディングスの特薬は、帝室と軍部が厳格に管理する統制物資だ。ギルドの正規配給枠すら奪い合いになってるってのによ……追放された無一文の小娘が、なぜこれだけの量を横流しできている?」
ギルモアはバン! と音を立てて瓶をカウンターに叩きつけた。
「どこかの工房の横領品を安く買い叩いたか、あるいは盗品だな? 犯罪者が横流しの闇物資で商売とは、いい度胸じゃねえか。おい、この店の在庫を全部差し押さえろ! 店主の小娘は衛兵所に突き出して、今度こそ一生地下牢で泥水をすすらせてやる!」
「ち、違います! これはすべて正規の――!」
ナディアが必死に叫ぼうとした、その時だった。
トントン、と穏やかな足音が調剤室の奥から響いた。
「おい、まだ中にネズミがいたのか?」
ギルモアが下品に笑いながら奥へ視線を向ける。
暖簾をくぐって現れたのは、生成りの清潔な前掛けを身につけたレンだった。
手には飲みかけのハーブティーのカップ。荒々しい暴力の気配が満ちる店内にあって、その足取りには微塵の動揺も、恐怖の欠片もなかった。
レンは奥の席で、彼らのやり取りのすべてを最初から最後まで静かに聞いていたのだ。
「誰だてめえは。この小娘のヒモか?」
ギルモアが小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
レンは男の侮蔑を完全に無視し、淡々とした、抑揚のない声で事実の確認を始めた。
「……あなたがどこの者か、所属を名乗ってもらえますか」
「ああん? なんだその態度は。……いいぜ、教えてやるよ。俺は帝都中央商業ギルドの筆頭仕入れ監査役、ギルモア様だ! この帝都で流通する生薬と資材を一手に握る、ギルドの最高幹部の1人だ!」
「帝都中央商業ギルドの筆頭仕入れ監査役、ギルモア氏ですね。……では、その地位において、今の発言と行動のすべての責任を、あなたが個人として、そしてギルドとして取れるということですね?」
レンの瞳には怒りの色すら浮かんでいなかった。
ただ事務的に、書類の不備を突くような冷たい確認だった。
ギルモアはその異様な静けさに一瞬気圧されたものの、目の前にいるのが粗末な前掛けをした年若い少年に過ぎないことを見て取り、大仰に喉を鳴らして嘲笑った。
「責任だぁ? ガキが生意気な口を利いてんじゃねえぞ! 当たり前だろ! 俺がギルドだ! 俺の言葉がこの帝都の商業の掟なんだよ!」
「当たり前、ですね。責任を取れると、ご自身で明言されましたね」
レンは手元のカップを、カウンターの端にコトリと置いた。
そして、前世の製薬会社やドラッグストアの現場でも、今世の国家間交渉でも決して見せたことのない、完全な拒絶の目をギルモアへ向けた。
「分かりました」
静かな声だった。
怒鳴ることもなく、声を張り上げることもない。
ただ、冷たく澄み切った一言が店内に落ちた。
「これより、ノア・ホールディングスおよびその関連企業、傘下の全工房・全流通網は、帝都中央商業ギルドとの一切の取引を即時停止いたします。生薬、油脂、ガラス瓶、資材の仕入れから、医薬品の配給枠に至るまで、例外なく完全凍結します」
ギルモアが呆気に取られたように目を丸くする。
「は……? ノア・ホールディングス……? な、何を寝ぼけたことを――」
男の愚鈍な言葉を遮るように、レンは吐き捨てるように言い放った。
「――潰れてしまえ」
レンが吐き捨てたその一言は、単なる1企業の契約解除ではなかった。
ヴァレンティノ帝国において皇帝に次ぐ権能を持つ世襲大公――アルカディア大公レン直々の、国家最高位の公的断罪宣告だった。
旧水路街の薄暗い路地裏。
店の斜め向かいにある寂れた靴修理屋の店先で、革を縫う手を止めた初老の男が、懐から滑らかな黒い通信魔導具を取り出していた。
隣の安酒場の軒先で粗末なエールを煽っていた商人風の男も、鋭い視線を店内に向けたまま、無言で立ち上がっている。
セシリアがレンの「下町の隠れ家」を野放しにするはずがなかった。
東部の物々しい大部隊こそ引き払ったものの、この店舗の周囲にはセシリア直属の選抜特務部隊が、厳重な平民偽装のもとに網の目のように配置されていたのだ。
しかも、その監視網には単なる戦闘員だけではない。
レンの身辺で万が一にも商業的なトラブルや不手際が起きぬよう、皇宮財務局や帝国商務省の幹部クラス――即座に公的な認可取り消しや資産差し押さえ、全決済停止の行政権限を行使できる最高実務官吏までが、身分を隠して張り付いていた。
「……大公閣下より、帝都中央商業ギルドに対する『全取引の停止』および『完全排除』の勅命が下った」
「対象は医薬品だけではない。全物資、全資材、全金融決済、帝室・軍部・各領邦とのすべての公認取引を対象とする。……即時執行だ」
通信魔導具を通じて放たれた暗号通信は、わずか数分で帝国軍務省、皇宮財務省、商務省、そして帝都中央銀行統括部へと同時に着弾した。
そして――。
「が、ガキが偉そうに抜かすんじゃねえぞ! 潰れてしまえだと!? てめえのような身元も知れねえ小僧が、帝都中央商業ギルドを相手に何ができるってんだ!」
目の前で喚き散らすギルモアは、自らの首にすでに巨大な断頭台の刃が落ちてきていることすら気づいていなかった。
下卑た笑みを浮かべ、腰の棍棒を弄ぶ用心棒たちに合図を送ろうとした、その時だった。
ドタドタドタッ!!
路地の奥から、心臓が破裂しそうなほど激しい足音と、悲鳴のような荒い息遣いが響き渡った。
「ぎ、ギルモア様ぁぁぁっ!!」
転がり込むように店の引き戸を突き破って入ってきたのは、ギルドの本部に詰めているはずの筆頭書記官だった。
帽子は吹き飛び、仕立てのいい上着は泥にまみれ、顔は死人のように真っ白に引き攣っている。
「なんだ貴様! 取り込み中だぞ、みっともなく騒ぎ立てるな!」
「そ、それどころじゃありません! 壊滅です! 帝都中央商業ギルドは、もう終わりです……っ!」
書記官は床に両手をつき、胃の中身をぶちまけそうなほどの過呼吸で絶叫した。
「た、たった今! 皇宮商務省および財務省より、我がギルドに対する『帝国商業公認認可の即時取消』および『全業種・全取引の全面凍結令』が発令されました!」
「……は? な、何を言って……全取引の凍結だと……?」
「薬品だけじゃありません! 木材も、鉄も、穀物も、染料も、不動産も、ギルドが関わるすべての売買契約が無効化されました! さらに帝都の主要銀行12行が一斉に我がギルドの口座を全面凍結! 融資枠の全額即時回収と、手形数百枚の即時決済を叩きつけてきました!」
ギルモアの喉が、ヒュッと音を立てて狭まった。
「て、手形の……決済……? ば、馬鹿な、すべての取引を止められたら、金を動かすことすら……」
「できるわけがありません! 帝国全軍への納入契約は即時破棄、帝室御用達の看板は剥奪、入港していたギルドの商船はすべて港湾憲兵隊に拿捕されました!
それだけじゃない、全提携店、全取引問屋数万軒が一斉に暴徒化して本部に押し寄せています! 会頭は泡を吹いて卒倒し、副会頭は私財を持って逃げようとしてその場で憲兵に射殺されました! 発令からまだ1時間も経っていないのに……我がギルドは、法的に、物理的に、この帝国から完全に消滅しましたァッ!!」
「ひ、1時間……!? な、なんで……そんな……!?」
ギルモアの膝が、ガタガタと目に見えて震え始めた。
医薬品の取引停止どころの話ではない。
帝国という国家システムそのものから、存在のログを消去されたのだ。
書記官は血走った目で店内を見回し、やがてカウンターの奥で冷たく佇むレンの前掛け姿、そして背後に立つシエナとカトレアの姿を捉えた。
「あ……あ……っ」
書記官の喉から、声にならない絶望の呻きが漏れる。
帝国の行政構造と最高権力を熟知している書記官には、すべてが一瞬で理解できてしまった。
ノア・ホールディングス特命監査官のシエナ。
アッシュフォード侯爵令嬢にして、近衛副隊長のカトレア。
そして、その2人が至上の敬意を払って控える、この黒髪の少年――。
帝国全土の商業認可を一瞬で剥奪し、全銀行と軍を同時に動かして巨大組織を即死させられる権力など、この大陸にただ1人しか存在しない。
「ぎ、ギルモア様……あ、貴方は……一体、誰に……誰に向かって口を利いたのですか……!?」
書記官はその場に崩れ落ち、頭を床に激しく擦り付けた。
「あのお方が……帝国世襲大公にして、大陸の富の半分を掌握される現人神……アルカディア大公、レン閣下にあらせられるぞぉぉぉっ!!」
店の空気が、完全に凍結した。
ギルモアの顔から、1滴残らず血の気が引いていく。
手にしていた木製の生薬箱が、指先から滑り落ちて床で乾いた音を立てて砕けた。
「た、大公……? この小僧が……あの、歩く国家予算……!?」
ギルモアは引き攣った視線を、ゆっくりとレンへと向けた。
少年は何も言わない。怒鳴ることも、勝ち誇ることもない。
ただ、欠陥のある不良ゴミを焼却炉へ放り込んだ後のような、底知れぬ無機質な瞳で見下ろしている。
「あ……あ、あああ……っ!」
「――潰れてしまえと言ったんだよ」
一切の温情も、再起の余地も許さない、2度目の宣告。
ガッ!!
ギルモアの股間から、じわりと生暖かい染みが広がり、オーク材の床へと垂れ落ちた。
自分が脅し、横領品だと決めつけ、差し押さえようとした相手。それは、ただ一言呟くだけで帝国の経済地図を瞬時に塗り替えてしまえる、正真正銘の「絶対者」だったのだ。
「閣下……! だ、大公閣下ぁぁぁっ! め、滅相もございません! 私めのような蛆虫が、滅相もない口を――!」
ギルモアは泥にまみれた靴のまま床に這いつくばり、レンの足元へ擦り寄ろうとした。
だが――。
ガッ!!
「近寄るな、汚らわしい」
店の外から音もなく踏み込んできたのは、平民の服を身にまとったセシリア配下の帝国商務局・特務統括官だった。
男は冷酷な足捌きでギルモアの顔面を床へ踏み砕くと、懐から帝室の紫の印章が捺された勅命書を突きつけた。
「帝都中央商業ギルド仕入れ監査役ギルモア。貴様を粗悪生薬の横流しによる殺人未遂、帳簿改ざん、および医薬品統制令違反の現行犯で連行する。……安心しろ、大公閣下の勅命により、貴様らの組織は今日この時をもって地上から完全に消滅した。残るは貴様ら幹部の私財全額没収と、一族郎党の終身強制労働だけだ」
「ひぎぃぃぃっ! お助けぇぇぇっ! レン閣下ぁぁぁっ!!」
豚のような絶叫を上げながら、特務官吏たちによって泥水の中を引きずり出されていくギルモア。
用心棒たちもすでに腰を抜かし、外で待機していた憲兵たちによって一瞬で縛り上げられて連行されていく。
1時間足らずで帝都最大の商業ギルドが完全消滅するという空前絶後の粛清劇が去った店内には、ただ静まり返った空気と、呆然と立ち尽くすナディアの姿だけが残されていた。
【帝都新商業連合の発足とバックヤードの平穏】
帝都中央商業ギルドの完全消滅は、帝都はおろか帝国全土の商業界を激震させた。
資材、穀物、生薬、木材――それまで旧ギルドが独占していた莫大な物流が一斉に焼き切れたのだ。だが、帝都が物不足でパニックに陥る隙など最初から存在しなかった。
「……潰れてしまえ」
レンの一言が下ったその日の夕刻。
軍務省と皇宮商務局、そしてノア・ホールディングス帝都支局が即座に連動し、電光石火の早さで『帝都新商業連合』の設立が公布されたのだ。
流通が止まれば困るのは民であり、現場だ。
前世でサプライチェーン寸断の恐ろしさを知り尽くしているレンが、旧組織を消し飛ばした後の「受け皿」を用意していないはずがなかった。
旧ギルドの隠し資産と倉庫群は即座に接収され、現場を誠実に回していた中堅職員や下町の卸問屋たちをそのまま新組織へスライド。その頭上にノア社の透明な監査システムを被せることで、腐敗した上層部だけを外科手術のように切り落とし、滞っていた血流をより綺麗にして循環させたのだ。
◇
数日後の朝。
旧水路街の『名もなき薬種問屋』の店内には、以前にも増して穏やかで活気のある空気が流れていた。
「――ナディア店長、おはようございます! 本日分の石炭酸水の小分け瓶と、乾燥ガーゼの納品に上がりました!」
店の引き戸を勢いよく開けて入ってきたのは、仕立てのいい作業着を着た若い商人だった。
その胸には、新設された『帝都新商業連合』の銀のバッジが誇らしげに輝いている。
「おはようございます。いつも早い納品をありがとうございます」
ナディアは清潔な白エプロン姿でカウンターから迎え入れ、レン直伝のチェックリストを手に手際よく検品を始めた。
「ロット番号よし、瓶の口の封蝋に破損なし。……受領書にサインをしますね」
「恐れ入ります! あ、それと新ギルドの執行部から伝言を預かっておりまして……『ナディア店長のおかげで、旧ギルドの不正帳簿の解析が完全に完了し、隠匿されていた正規の生薬流通ルートがすべて開放された。心より感謝する』とのことです!」
青年は直立不動で、ナディアに対して深々と頭を下げた。
横領の濡れ衣を着せられて業界を追われた元事務員は、いまや帝都の商業の闇を暴くきっかけを作った人物として、新ギルドの職員たちから一目置かれる存在になっていた。
「い、いえ、私などは何も……すべては、オーナーが……」
ナディアは恐縮しながら、視線を店の奥の茶飲みスペースへと向けた。
奥の席では、レンがいつものように生成りの前掛けを着け、湯気の立つカモミールティーをすすりながら、のんびりと新ギルドの発足報告書に目を落としていた。
(本当に……底が知れないお方だわ……)
ナディアはカウンターの下で、ぎゅっと自分の手を握りしめた。
ギルモアたちが踏み込んできたあの日。
現場は大混乱に陥り、怒号と悲鳴が飛び交う中で、ナディアの頭は真っ白になっていた。憲兵や特務部隊が雪崩れ込んできた瞬間のことは、恐ろしさのあまり記憶がおぼろげだ。
ただ、1つだけ鮮明に覚えているのは――目の前の年若いオーナーが放った、静かで、絶対的な宣告だった。
あの一言で軍が動き、商務局が動き、帝都最大のギルドが一瞬で解体され、あっという間に新しい連合が立ち上がった。
護衛についているカトレアが王国の名門貴族であることや、影のように控えるシエナの並外れた事務処理能力を見ても、オーナーがただの薬屋ではないことくらい痛いほど分かる。
(ノア・ホールディングスの極秘監査役か……あるいは、帝国の最上層部や軍部に絶大な影響力を持つ、とてつもない特命権限を持った貴族の御方に違いないわ……)
ナディアの認識では、レンは「帝国のトップに恐ろしいほど顔が利く、途方もない大物」だった。
まさか目の前で暢気にお茶をすすっている少年が、国家そのものを動かす「アルカディア大公本人」だとは、平民である彼女の想像の枠をさすがに超えていたのだ。
だが、どれほど雲の上の権力と繋がっていようと、ナディアにとってのレンは――絶望の底から自分を救い出してくれた、世界でただ1人の恩人であり、敬愛する店のオーナーだった。
「ふむ……旧ギルドの不良債権は相殺完了。中間マージンをカットしたから、下町への卸値が1割下がったか。……うん、いい再建だね」
レンは満足そうにハーブティーを一口含んだ。
そこへ、納品の手続きを終えたナディアが、引き締まった表情で歩み寄ってきた。
「オーナー」
「ん? なに、ナディアさん」
「改めて、お礼を申し上げます。私の汚名を晴らしてくださっただけでなく、帝都の流通を正常に戻すために上層部へ働きかけてくださって……。オーナーのお力添えがなければ、私は今頃どうなっていたか分かりません」
深々と頭を下げるナディアに、レンはあっけらかんと手を振った。
「大袈裟だよナディアさん。僕はただ、うちの仕入れが止まったら困るから、知り合いの伝手を使って『あいつら邪魔だから何とかして』って頼んだだけさ。経営上のリスクを排除しただけだよ」
「……知り合いの伝手、ですか」
(帝都最大のギルドを1時間で消滅させて新組織を作る『伝手』なんて、この大陸のどこを探しても普通はありません……!)
ナディアは内心で激しくツッコミを入れつつも、その底知れなさをあえて追及することはしなかった。
詮索するのは無粋だ。彼が「しがない薬屋のオーナー」としてこの店にいたいのであれば、自分はその意を汲み、全力でこの場所を守るのが雇われ店長としての務めだからだ。
「それよりナディアさん、これで仕入れの心配も嫌がらせの心配もなくなった。今日からは余計なことに頭を悩ませず、現場の接客とお客さんの健康相談に集中できるよ。……店長、この店を頼んだよ」
「……っ! はい! 命に代えましても、オーナーの大切なこの店を、私が守り抜いてみせます!」
ナディアの鳶色の瞳に、熱い忠誠と決意の光が宿る。
(よしよし、これで本当に僕がカウンターに立たなくて済むぞ!)
元店長のレンは、念願の「現場を優秀な部下に任せてバックヤードでお茶を啜るスローライフ」が完全に盤石になったことを確信し、心底晴れやかな笑顔でお茶のおかわりを注ぐのだった。
【近所の挨拶から恐怖の最高名誉会長へ】
旧ギルドが灰燼に帰し、電光石火で立ち上げられた『帝都新商業連合』。
その第1回設立総会および議場開会式が、帝都中央区の旧ギルド大公堂にて執り行われることとなった。
レンは普段の生成りの前掛けこそ外したものの、いたって地味な平民用の青いウールの上着に身を包み、馬車で会場へと向かっていた。
(……まあ、僕の一言で前のギルドを消し飛ばしちゃった手前、新しい組織の立ち上がりに『仕入れでお世話になります、よろしくね』くらいは顔を出しておくのが、元小売店長としての仁義ってもんだよね)
レンの認識は、あくまで「近所にできた新しい総合問屋の開所式に、商店街の個人店主が手土産を持って顔を出す」程度のものだった。
ナディアの仕入れが今後スムーズにいくよう、新ギルドの現場担当者に軽く愛想を振りまき、ついでに「小分け用のガラス瓶の納品ロットを少し増やしてほしい」と要望を伝えてさっさと帰る。所要時間は15分、帰ったらゆっくり冷たいハーブティーでも飲もう――そう考えていた。
だが、大公堂の正面玄関に馬車が着いた瞬間から、レンの計画は音を立てて狂い始めていた。
「――っ! お、お見えになられたぞ!!」
「道を開けろ! 貴賓扉を全開にしろ!!」
馬車を降りた瞬間、純白の礼装に身を包んだ皇宮近衛兵と商務省の高官たちが、地面に額がめり込むほどの勢いで最敬礼を取った。
出迎えの列の先頭には、見覚えのある冷徹な銀髪――特務監査役のシエナが、完璧な礼法で控えている。
「お待ち申し上げておりました、レン様。……いえ、本日の議場におかれましては、相応しき呼び名でお呼びすべきでしょうか」
「いや、シエナ。僕はただ、新ギルドの理事長さんか誰かに『仕入れよろしくね』って挨拶に来ただけだから。目立ちたくないし、奥の末席で適当に頭下げて帰るよ」
「……ふふ、相変わらずご謙虚であらせられますね」
シエナはなぜか深い慈愛に満ちた笑みを浮かべ、レンを大公堂の中央大扉へと案内した。
嫌な予感がする。背筋に冷たい汗がツーと流れるのを覚えながら、巨大な両開き扉が開け放たれると――。
『総員、起立――――ッ!!』
号令1閃。
ドォォォン!! と地鳴りのような音が響き渡った。
豪奢な大議場を埋め尽くしていたのは、帝都の主要銀行12行の頭取、帝国全土の大商社・流通問屋の会頭、各ギルドの幹部、そして帝国商務省の最高幹部官吏たち――文字通り帝国の経済を動かすトップ数百名だった。
その全員が、一糸乱れぬ直立不動の姿勢で、壇上へ続く赤絨毯を歩むレンを凝視していた。
(えっ……? なんでこんな重鎮たちが勢揃いしてるの……? ここ、中小小売店の集まりじゃないの……?)
レンが呆然と立ち尽くしていると、商務局の特務統括官が恭しく1歩進み出て、議場全体に響き渡る声で朗読を始めた。
「――帝都の悪しき腐敗を瞬時に一掃し、民と商人のための新たなる経済秩序を賜りし至高の御方! ノア・ホールディングス筆頭株主、ヴァレンティノ帝国世襲大公……アルカディア大公レン閣下による、新商業連合開会のご挨拶であります!」
ワァァァァァッ!! と耳を聾するほどの拍手と歓声が議場を揺るがした。
「ち、ちょっとシエナ……話が全然違うんだけど!?」
「さあレン様、壇上の中央演台へ。帝国の商人は皆、貴方様の御言葉に飢えております」
シエナに背中を優雅に押され、引き攣った笑顔のまま壇上へと上がらざるを得なくなるレン。
頭取たちも、大商人たちも、まるで救世主を見るような熱い眼差しでレンを見上げている。彼らにとってレンは、「前の腐ったギルドを1時間で地上から消滅させた、大陸最強の経済覇王」なのだ。生半可な態度は取れない。
(う、うわあ……完全に逃げ場がない……! もういいや、前世の朝礼で言ってたような無難な『小売の基本』だけ言って、速攻で降りよう……!)
レンはコホンと小さく咳払いをし、マイク代わりの拡声魔導具の前に立った。
「えー……本日はお招きいただき、ありがとうございます。『名もなき薬種問屋』のレンです」
議場が水を打ったように静まり返る。
(ご自身の絶大な身分をあえて隠し、路地裏の店主を名乗られるとは……! 我らに驕りを捨てるよう無言で釘を刺しておられるのだ……!)と、最前列の銀行頭取たちがゴクリと唾を呑み込んだ。
レンは早く帰ってお茶を飲みたい一心で、当たり前のことをサラサラと言葉にした。
「ええと……前のギルドは色々と問題がありましたが、商売というものは、お客様第一であり、現場で働く人たちと健全な信頼関係を築くことが何より大切です。滞りのない物流、適正な価格、そして嘘のない帳簿。当たり前のことを当たり前にやる……それができなければ、この連合は繁栄しません。現場の皆さん、無理のない範囲で、しっかり業務に励んでください。以上です」
時間にしてわずか30秒。
「コンプラを守って、無理せずみんなで頑張ろう」という、元ドラッグストア店長の常識的でホワイト極まりない挨拶だった。
レンは「よし、言いたいことは言った!」とばかりにペコリと頭を下げ、足早に演台を降りようとした。
だが――。
議場を満たしたのは、歓声ではなかった。
骨の髄まで凍りついた数百人の男たちの、息が止まるような戦慄と沈黙だった。
(ひ……っ、ひいいいいいっ……!!)
(な、なんて恐ろしい御方だ……!!)
最前列に並ぶ主要銀行の頭取たち、帝都の経済を牛耳る大商人たちの額から、ボタボタと滝のような脂汗が床へ滴り落ちていた。
彼らの耳には、レンの言葉がこう聞こえていたのだ。
『前のギルドは色々と問題がありましたが』
――(前任者がどうやって跡形もなく消滅したか、貴様らも見ていただろう?)
『お客様第一、現場と信頼、滞りのない物流、適正な価格、嘘のない帳簿』
――(不正、中抜き、カルテル、粉飾……旧ギルドがやった真似を1つでも犯してみろ)
『それができなければ、この連合は繁栄しません』
――(中途半端な仕事しやがったら、貴様らも丸ごと叩き潰すぞ)
『無理のない範囲で、しっかり業務に励んでください』
――(分かったな? 言い訳など一切許さんぞ)
直前に、帝都最大のギルドをたった一言『潰れてしまえ』で物理的・法的に地上から消し去った怪物が、平然とした顔で放った言葉なのだ。
言葉の端々に散りばめられた「当たり前のこと」という要求が、商人たちにとっては「一分の妥協も許さぬ絶対零度の絶対命令」にしか聞こえなかった。
誰1人として逆らえるはずがなかった。
中途半端な真似をすれば、次は自分の一族郎党が消される。
「「「は、ははぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」」」
ドォォォォォン!! と地響きを立てて、帝都中央銀行の筆頭頭取を皮切りに、数百人の大商人・高官たちが一斉に赤絨毯の上へ五体投地した。
「アルカディア大公閣下!! 肝に、魂の髄まで刻み込みました!!」
「仰る通りにございます! もはや私腹を肥やすことなど露ほども考えず、一分の隙もない物流と帳簿を徹底いたします!!」
(えっ……? なんでみんな床に額を擦り付けてるの……!?)
ドン引きするレンをよそに、頭取が両手で震えながら、金箔と宝石で飾られた重厚な任命書を差し出した。
その目は、逆らえば即死するという極限の恐怖と、この絶対者についていくしかないという狂気じみた忠誠で血走っていた。
「どうか……どうか我らをお見捨てにならないでください! 我ら新商業連合の全加盟員、全会一致の命乞い……いえ、総意として――!」
頭取が喉も裂けんばかりに絶叫した。
「我が『帝都新商業連合』の『最高名誉会長』に、レン閣下をお迎えいたしたく存じます!!」
『万雷の平伏をもって、新連合会長様をお迎えせよ――――ッ!!』
「「「新連合会長様!! どうかご慈悲を! 我らをお導きください、新連合会長様ぁぁぁっ!!」」」
数百人の大商人たちによる、もはや悲鳴にも似た「新連合会長様コール」が議場を揺るがす。
「は……? え? 会長……? 僕が……!?」
目を白黒させるレンの隣で、シエナが冷徹に、しかしどこか満足げに耳元で囁いた。
「お見事なご演説でした、新連合会長様。あえて声を荒らげず、前組織の粛清を暗に匂わせながら完全な規律を叩き込むその手腕……。商人たちもこれで2度と不正など企てないでしょう。帝都の全流通網は、完全に貴方様の恐怖と敬意によって掌握されました」
「い、いや……僕、ただ『無理せず頑張ってね』って言っただけなんだけど……!? なんでみんな半泣きで僕を会長に祭り上げてるの……!?」
ただの近所の挨拶のつもりが、「逆らえば即座に組織ごと消滅させる最恐の独裁会長」として君臨することになってしまった元店長。
鳴り止まない絶叫のようなコールを背中に浴びながら、レンは心の中で(また仕事と責任が増えた……! 誰か早く僕を解放してお茶を飲ませてくれ……!)と、激しい胃痛に襲われて天を仰ぐのだった。
【受付嬢エリスの誤解と甘美なる囲い込み宣言】
議場の狂乱と「新連合会長様!」の絶叫コールからどうにか抜け出したレンは、逃げるように大公堂の1階エントランスへと降りてきていた。
(危なかった……! あのままあそこにいたら、わけのわからない署名や就任宣誓書にサインさせられるところだったよ……! 早く帰ろう、1刻も早く下町に帰ってお茶を淹れよう)
レンは胃を押さえながら早足で出口へ向かおうとしたが、ふと正面受付のカウンターが目に入り、足を止めた。
そこに座っていたのは、艶やかな亜麻色の髪をきっちりとまとめ、理知的な眼鏡をかけた若い女性――受付嬢のエリスだった。
彼女は旧商業ギルド時代から受付を任されていたが、不正や利権に一切手を染めず、膨大な規約と書類を完璧に捌く実務能力の高さゆえに、新連合でもそのまま継続雇用された極めて優秀な人材だった。
(あ、そうだ。あの受付の人、旧ギルドの時もナディアさんの書類を嫌な顔1つせず迅速に処理してくれてた人だ。下町の薬屋をやっていく以上、これからの納品申請や窓口手続きでお世話になるのは確実だし……一言挨拶しておくのが、大人のマナーだよね)
レンは元店長の処世術として、極めてフラットかつ誠実に、受付カウンターへと歩み寄った。
一方、カウンターの内側にいたエリスは、心臓が口から飛び出しそうなほどの緊張で指先を震わせていた。
(な、なんで……!? 議場で帝都の重鎮たちを五体投地させたばかりの、あの大公閣下が……新連合の最高権力者様が、なぜわざわざ平民の受付なんかに……!?)
ギルドが消滅したあの日、エリスは現場で目撃していた。
あの傲慢を極めていたギルモア監査役が失禁し、泣き叫びながら連行されていった光景を。そして、それをただ一言で引き起こしたのが、目の前に立つこの穏やかな少年であることを。
恐怖で呼吸すら止まりそうになるエリスの前で、レンは前掛け姿の時と同じ、人当たりのいい柔らかな笑みを浮かべた。
「お仕事中、すみません」
「ひっ……! は、はいっ! め、滅相もございません! 新連……い、いえ、レン閣下! な、何か不備がございましたでしょうか……!?」
直立不動で凍りつくエリスに、レンは首を振って優しく声をかけた。
「いえいえ、文句なんてとんでもない。旧ギルドの時から、あなたがいつも窓口で迅速かつ正確に処理してくれていたのを見ていましたから。新しい組織になっても、あなたがこうして残ってくれて本当に助かります」
「え……?」
エリスが呆然と目を見張る。
(見られていた……? あの大公閣下が、名もなき平民の受付嬢に過ぎない私の仕事を……ずっと前から見ておられた……!?)
レンはそんなエリスの内心の動揺に気づくはずもなく、「下町の個人商店主」として、今後とも円滑に伝票を通してもらいたい一心で、丁寧に頭を下げた。
「僕も下町で細々と店をやっていますから、これからは手続きや申請でしょっちゅう窓口に来ることになると思います。――これからも、よろしくお願いしますね」
そう言って、レンはふわりと屈託のない少年の笑顔を向けた。
「近所の個人商店主が、問屋の窓口担当者と良好な人間関係を築くための社交辞令」――レンにとっては、前世から染み付いたただのビジネスマナーだった。
「じゃあ、現場の業務、無理のないように頑張ってくださいね」
ペコリと軽く会釈し、レンは「よし、義理は果たした!」とばかりに足早に大公堂を去っていった。
だが。
残された受付カウンターで、エリスは完全に魂を撃ち抜かれたように立ち尽くしていた。
「あ……あ、あ……」
カアァァァァッ! と、白い肌が一瞬で林檎のように真っ赤に染まる。
耳たぶまで熱湯を注がれたように熱くなり、ドクドクと警鐘のように鳴り響く自分の心臓の音がフロア中に聞こえるのではないかと思えるほどだった。
エリスの頭の中で、先ほどのレンの言葉が、艶やかで絶対的な響きを伴って何度もリフレインしていた。
『あなたがいつも正確に処理してくれていたのを、見ていました』
――(お前の優秀さも、健気さも、ずっと前からすべて俺の掌の上だった)
『あなたが残ってくれて、本当に助かります』
――(他の有象無象はどうでもいい。お前は必要だから、逃げられたら困るところだったんだ)
『これからはしょっちゅう窓口に来る。……これからも、よろしくお願いしますね』
――(もう逃げられると思うな。これからは俺だけのために働き、俺だけの女になれ)
(「これからもよろしく」って……! そ、それって……!!)
旧ギルドが解体された際、自分のような下っ端まで解雇されるのではないかと怯えていた。
だが、そうではなかったのだ。
あの若き絶対者は、腐った巨悪を粉砕するついでに、自分という存在を見出し、自らの手の届く場所に囲い込んだのだ。
「――愛人宣言!!!!」
エリスは両手で真っ赤になった頬を押さえ、その場にへなへなと座り込んだ。
足に力が入らない。
帝都の覇王から、数千人の前ではなく、たった2人きりの至近距離で囁かれた、甘美で逆らいようのない独占宣告。
「ど、どうしましょう……! 私……あんな途方もないお方に、目をつけられて……囲われてしまわれたの……!?」
眼鏡の奥の瞳を潤ませ、胸の前で名札をぎゅっと抱きしめるエリス。
彼女の忠誠心と乙女心は、もはや後戻りできないレベルで臨界点を突破していた。
一方その頃。
馬車に乗り込んだレンは、ようやく解放された安堵から深く息を吐き出していた。
「ふう……! 受付の人にもちゃんと挨拶できたし、これで下町の仕入れ手続きもバッチリだ。ナディアさんも喜んでくれるだろうな。さあ、帰って美味しいお茶を飲もう!」
自分が無自覚にまた1人、組織の重要拠点の心臓部に「絶対の忠誠を誓う狂信的ヒロイン」を完璧に配置・陥落させてしまったことなど、元店長は夢にも思っていなかった。
【鉄壁の警備網を突破した「愛人」という名の通行手形】
「ふう、やっぱり我が家――じゃないや、自分の店のバックヤードが1番落ち着くね」
馬車を降り、下町の心地よい生活音に包まれながら、レンは『名もなき薬種問屋』の引き戸をからりと開けた。
新商業連合の開会式で浴びた、大商人たちの脂汗と悲鳴のような歓声で擦り減った精神を、ナディアの淹れてくれるハーブティーで癒やす気満々だった。
「ナディアさん、ただいま。開会式の挨拶、無難に終わらせてき――」
のんびりとした声をかけながら土間を上がったレンは、その場でピタリと動きを止めた。
「……え?」
カウンターの中に、見慣れたナディアの姿があった。
ここまではいい。問題は、そのすぐ隣だった。
新連合の支給制服に身を包み、理知的な眼鏡をきらりと光らせ、両手をへその前で揃えた完璧な立ち姿の女性。
さっきまで帝都中央区の大公堂、あの巨大な受付カウンターの奥にいたはずの――受付嬢のエリスが、なぜかそこに立っていた。
しかも、その眼鏡の奥の潤んだ瞳が、じっと熱っぽくレンを射抜いて離さない。
カアッと頬を朱に染めながら、まるで忠犬、いや、獲物を狙う肉食獣のように甘やかな光を帯びた視線が、痛いほどレンに突き刺さってくる。
「お、おかえりなさいませ、オーナー……」
ナディアはといえば、引き攣った笑顔のまま、どこか遠い目をしてレンを出迎えた。その手元の台帳を持つ指先が、微かにプルプルと震えている。
「あ、ああ、ただいま……。ええと、エリス……さん? どうしてここに?」
レンが恐る恐る尋ねると、エリスはピンと背筋を伸ばし、艶やかな唇をほころばせた。
「はい。新連合会長室付・専任秘書兼、下町特命連絡員として、直ちに着任いたしました」
「専任……? いや、受付の仕事は……?」
「私の代わりなど、替えの利く書類処理要員に任せておけばよいのです。ですが、会長様――いえ、旦那様の御側にお仕えすることは、私にしかできない専任事項でございますので」
(だ、旦那様……!?)
不穏すぎる単語が耳に飛び込んできて、レンの背筋を冷たい汗がツーと流れた。
これ以上カウンター前で話していては、表の通りを歩く下町の住人や買い物客に変な噂を立てられかねない。
「と、とりあえず奥へ行こうか……」
レンはそそくさと調剤室の奥、いつもの茶飲みスペースへと足を早めた。
だが、事態は収まるどころか悪化する一方だった。
背後から、コツ、コツと規則正しいパンプスの足音が、当然のような顔をしてピッタリと追従してくる。
奥の部屋に入り、レンが振り返ると――エリスはすでに給湯用の棚の前に立ち、手慣れた所作で陶器のカップを用意し始めていた。
「旦那様、本日はカモミールとレモングラスのブレンドでよろしいでしょうか? 式典でお疲れのご様子でしたので、鎮静効果の高い配合にいたしました」
「あ、ありがとう……じゃなくて! エリスさん、ちょっと待って!?」
レンは慌てて両手を振って制止した。
そして、部屋の隅の影――音もなく天井裏や壁際から気配を消して控えているはずの「存在」を思い出し、ハッと息を呑んだ。
この店には、セシリアが配置した帝国軍務省直属の特務部隊、そして商務局の護衛官たちが、平民に擬装して2重3重の監視・防衛網を敷いているはずなのだ。
大公閣下の身辺警護である。怪しい者が一歩でも敷居を跨ごうとすれば、路地の角で音もなく締め落とされるか、即座に身柄を拘束される鉄壁のセキュリティだ。
それなのに、なぜ彼女は手ぶらで、何のお咎めもなく、ここまでフリーパスで入ってこられているのか。
「エリスさん……君、どうやって店の外の警備網を突破してきたの……? あそこ、普通に通れるような場所じゃないはずなんだけど……」
レンの切実な問いに、エリスは不思議そうに小首を傾げた。
そして、眼鏡のブリッジを人差し指でクイッと押し上げると、一片の曇りもない凛とした声で、誇らしげに言い放った。
「突破、などという乱暴な真似はいたしておりません。路地の角にいらした目つきの鋭い憲兵の方々と、軒先に潜んでいた商務局の特務統括官の方に、『大公閣下の愛人でございます』とはっきり申し上げましたもので」
「ぶふっ――――ッッ!!!!」
レンは口に含みかけていた白湯を盛大に吹き出した。
「な、ななな……なっ……!?!? な、なんて言ったの今!?」
「はい? ですから、『大公閣下より直々に囲い込みの宣言を賜りました、公認の愛人でございます。旦那様のお世話のために参上いたしました』と、身分証を添えて堂々と申し上げましたが?」
エリスは至って真面目な顔で、事も無げに繰り返した。
「そういたしましたら、統括官の方が『な、なるほど……! 閣下自らの御指名か!』と深く得心されたご様子で、直ちに直通パスを発行してくださり、最敬礼でこの部屋まで案内していただいた次第です」
「得心するなァァァッッ!! なんだそのガバガバすぎる合言葉はァッ!!」
レンは頭を抱えて絶叫した。
帝国屈指の精鋭特務部隊が、よりにもよって『大公の愛人』というパワーワード1発で全面降伏し、レッドカーペットを敷いて通してしまっている。
セシリア配下の連中からすれば、「大公閣下が下町で囲った新しい女」など、絶対に粗相があってはならない最重要VIP扱いになるに決まっているのだ。
「あ、あの……エリスさん? 僕、君に『愛人になってくれ』なんて一言も言ってないよね!?」
「まあ、旦那様ったら、まだ照れていらっしゃるのですか?」
エリスは潤んだ瞳でレンを甘く見つめ、胸の前で両手を組んでうっとりと身を寄せた。
「あの議場の後、わざわざ私のカウンターまでいらして仰ったではありませんか。『他の有象無象はどうでもいい、お前が必要だから逃げられたら困る』『これからは俺のためだけに働き、俺だけの女になれ』と……! あれほどの情熱的な囲い込み宣言をいただきながら、お傍に侍らない女がこの大陸のどこにおりましょうか!」
「言ってない!! 一文字もそんなこと言ってないからね!? 脳内変換の魔改造が過ぎるよ!!」
元店長の悲痛なツッコミは、完全に恋の熱病と忠誠心で思考停止した受付嬢の耳には届かない。
カチャリ、と静かにハーブティーのカップがレンの前に置かれた。
エリスは満足そうに微笑み、一歩下がって恭しく頭を下げた。
「旦那様、これからは店外の納品伝票の処理も、新連合本部との折衝も、そしてこの部屋での身の回りのお世話も、すべてこのエリスにお任せくださいませ」
(お茶を飲んでのんびりスローライフを送るはずだったのに……! なんで新ギルドの心臓部から、1番優秀で1番ヤバい爆弾がバックヤードに常駐しちゃってるの……!?)
立ち込めるカモミールの芳醇な香りとは裏腹に、レンの胃袋は過去最大のキリキリとした激痛に見舞われるのだった。




