24話:泥と石から始まる美の革命(※ただし正妃様の激重お仕置きつき)
オーク材の台座に、真鍮のギアボックス。帝都のガラス吹き職人に特注した肉厚の試験管が2本、対向するように金具へ収まっている。
手回し式のギア駆動遠心分離器。
魔法の術式もなければ、仰々しい魔導炉もない。あるのは、歯車比1対8の増速機構だけだ。
乳鉢に滑石と高嶺土の原石を放り、重い鉄乳棒でリズミカルに打ち砕いていく。
ゴリゴリと硬質な音を立てて小石が砕け、粗い粉末へと変わる。それを水で満たしたビーカーへ投入した。水面に浮いて毛細管現象でダマになろうとする粉をなだめるため、耳かき1杯分の純石鹸水を落とす。界面活性剤が粉体の表面張力を落とし、均一な白い懸濁液が仕上がった。
2本の試験管へ液面を揃えて注ぎ込み、対角のホルダーに固定する。天秤の釣り合いを指先で確かめたレンは、木製のクランクハンドルを握った。
手首の力だけで、一定のリズムを刻みながら回し始める。
ギリ、と真鍮の歯が噛み合う乾いた金属音が静寂を破った。
レンが滑らかに回転を早めると、内部のギアが連動し、2本の試験管は瞬く間に水平へと跳ね上がった。視界の端で白く濁った輪を描き、空気を切り裂く鋭い唸りを立てる。
視界の奥に【脳内PC】の解析画面が開き、淡い光の文字列がリアルタイムで刻まれていく。
入力回転数:75 rpm(手動クランク)
ギア比:1:8
ローター回転数:600 rpm
回転半径:100 mm
遠心加速度:40.2 G
状態:比重沈降中
手首にかかる確かな抵抗を感じながら、レンは視界の数値を一定に保つよう、無言で腕を回し続けた。
ストークスの法則が示す通り、沈降速度は粒子の大きさの2乗に比例する。重力に頼っていれば数日はかかる水簸の工程を、強制的な遠心加速度によって、わずか数分で終わらせる。
10μmを超えるザラついた粗大粒子や、混入した石英の重い破片から順に、試験管の最深部へと叩き落とされていく。
3分。
レンは緩やかにハンドルの回転を落とし、器具を静止させた。
試験管を引き抜くと、管底には濁った灰褐色の不純物が固着していた。そしてその上には、目視では粒を捉えられない、牛乳のように均一に濁った乳白色の液体が満ちている。
細いガラス管を差し込み、底の沈殿を巻き込まぬよう、上澄みの白い液体だけを別のシャーレへ吸い出していく。目の詰まったリネン布で水分を絞り、素焼きの平皿に広げて温風にかけると、指先に吸い付くように細やかな、純白の粉末が姿を現した。
間髪を入れず、薄片状の白雲母を取り出す。
すり潰して結晶を破壊しないよう、水を張った平らな2枚のガラス板の間に挟み、擦り合わせるようにして結晶の層を薄く剥離させていく。剥がれ落ちた極小のフレークを軽く遠心器にかけ、光を透かす薄片だけをすくい取った。
シルクのように滑らかなタルクとカオリン、そして上品なツヤを宿したマイカの粉末。
3つのガラス皿に並んだそれらを検分し、レンは短く息を吐いて肩の力を抜いた。
その瞬間、部屋の隅で息を殺していたエリスが、耐えきれなくなったように駆け寄ってきた。眼鏡の奥の瞳は限界まで見開かれ、唇が小刻みに震えている。
「だ、旦那様……。その白銀の粉は、一体……? 泥水のような鉱石が、なぜ一瞬でそのような光を……」
「ただの石ころと土を、比重の差で分けただけだよ。手動だから、回転数を一定に保つのに少し腕が張ったけれどね」
レンは手首を軽く回してほぐすと、すでに次の作業を見据えて小瓶を引き寄せていた。
「ベースの粉ができたから、次は色合わせだ。酸化チタンの白を敷いてから、酸化鉄の赤と黄と黒をごく微量……。つなぎにスクワランを数滴落としてプレスすれば、コンパクトファンデーションの形になる」
◇
調剤室の頑丈なオーク材の扉を閉め、内側から真鍮の閂を2重に落とす。
外の気配が完全に遮断されたことを確かめ、レンは生成りの袖を肘までまくり上げた。
誰かに見せるわけにはいかない。
面倒な騒ぎに巻き込まれず、目立たず平穏に店をやるためにも、この試作は完全に一人で完結させる必要があった。
作業台の脇に据えた小型の炭火炉に火種を落とし、足元のペダル式鞴を踏み込む。
卓上に並べたのは、帝都の市場では絵の具にもならない泥や、炉底の灰として2酸化の値もつかない屑石の小山だ。
視界の奥で【物質相互鑑定プラグイン】が静かに立ち上がり、緑色のテキストを網膜に投射した。
スキャン対象:白鉛石擬き
判定結果:菱亜鉛鉱(主成分:炭酸亜鉛)
換算物質:酸化亜鉛(亜鉛華)前駆体
スキャン対象:黄朽土
判定結果:含水酸化鉄(主成分:針鉄鉱/ゲーサイト)
換算物質:イエロー酸化鉄基材
スキャン対象:吸鉄黒砂
判定結果:四酸化三鉄(主成分:磁鉄鉱)
換算物質:ブラック酸化鉄
(これだけで十分だ。有毒な鉛白や水銀朱を使わずに、無機顔料が4色揃う)
レンは作業の手順を淡々と頭の中で切り替えた。
1. 白:酸化亜鉛の乾式捕集
砕いた白鉛石擬きを耐火粘土の小型レトルトへ投入し、炭火炉の火床へ据える。鞴を踏み込み、炉内温度を900℃超まで一気に引き上げる。
管の先端から噴き出した亜鉛蒸気が外気と触れた瞬間、激しい反応とともに純白の煙へと変わった。
素焼きの冷却フードを被せ、内側に張った湿らせた極細リネン布で煙を吸着・捕集する。布の表面に、羽毛のように軽やかで消炎作用を持つ高純度の酸化亜鉛微粉末がびっしりと降り積もった。
2. 黄・赤:含水酸化鉄の分級と熱脱水
黄朽土を乳鉢で砕き、微量の純石鹸水を溶かした水へ投入してスラリー化。
手回しギア駆動の遠心分離器へ装填し、手首のストロークで40Gの遠心力を叩き込む。粗大な珪砂を底へ落とし、上澄みから1μm層の均一な黄色微粒子を素焼き皿へ回収した。
その半分を別の平皿へ移し、炉の熾火の上で350℃まで加熱する。熱によって結晶水が強制的に抜け落ち、土気色の黄色が鮮やかな赤褐色へと相転移を遂げた。
3. 黒:磁選と湿式摩擦
吸鉄黒砂を水に分散させ、棒磁石をくぐらせて黒い結晶のみを回収。平らな2枚のガラス板で挟み込み、手作業の摩擦で均一にすり潰して深い黒色顔料を得る。
これで、白・黄・赤・黒の安全な無機顔料が揃った。
4. 調色とバインダーの均一分散
アルコール布で拭き上げた乳鉢に、先ほど精製したタルク、カオリン、マイカの混合ベース粉末を入れる。
そこへ酸化亜鉛の白を加え、耳かきの先端で黄を3、赤を1、黒を0.2の比率で落とし込んだ。
乳棒の先端を押し当て、粒子をすり潰さないよう均一な円を描いてすり合わせていく。
白い粉の海に3色の微粒子が溶け込み、摩擦によって均一に分散していく。
数分後、乳鉢の中には人の素肌に最も近い、自然なオークルベージュの粉末が現れた。
スポイトを取り、分別精製しておいた海竜の肝油――スクワランオイルを、粉体全体の5%未満となるよう数滴落とす。
多すぎればペースト化し、少なすぎれば固形化しない。乳棒で丹念にほぐし、一粒一粒の粉体表面に均一な油膜をまとわせた。
5. スクリュープレスによる成形
油分を均一にまとったパウダーを、真鍮製の丸い金型皿へ山盛りにすくい入れ、平らにならして押し子をセットする。
作業台の端に据え付けられた、鋳鉄製の手動スクリュープレス機。
レンは鉄製バーを両手で握り、体重を乗せて滑らかにねじり下げた。螺旋を切った太いスクリューが回転運動を垂直方向の強大な圧力へと変換し、真鍮の押し子を狂いなく押し込んでいく。
ギリ、と金属が軋む重い手応え。
粉体の微細な隙間から空気が押し出され、粒子同士がスクワランの極薄の油膜を介して強固に噛み合っていく。
数秒間圧力を保持したあと、バーを逆回転させて押し子を引き上げた。
金型から押し出された真鍮皿の中には、一切のひび割れもなく、ベルベットのように滑らかなマットの質感を湛えた、完璧な円形の固形パウダーファンデーションが収まっていた。
「……よし。崩れもない。硬度も規格通りだ」
レンは静まり返った調剤室の中で短く息を吐き、指先でファンデーションの表面を軽くなぞった。
指の腹に、シルクのように微細で滑らかな肌色のヴェールが、薄く均一に移し取られた。
(理論上は無害でも、相手は異世界の鉱石と未踏の動植物油だ。接触皮膚炎やアレルギーのスクリーニングを飛ばすわけにはいかない)
指先のパウダーを自身の左前腕の内側――皮膚が最も薄く過敏な部位へと薄く塗り広げた。
その上から、清潔なガーゼ片を当て、医療用の粘着テープで密閉するように固定する。
24時間、そして48時間後の紅斑と浮腫の有無。
自らの皮膚を検体としたパッチテストの経過観察に入ったことを確認し、レンは静かに腕まくりを戻すと、作業台に残された器具の洗浄へと手を移した。
◇
朝の光が調剤室の窓から差し込む中、レンは左腕の内側に貼っていた布片を剥がした。
赤みもなければ、腫れや痒みの兆候も一切ない。24時間の皮膚接触による一次スクリーニングは陰性。処方の安全性は担保されたと判断し、レンは真鍮皿に収まったファンデーションを木製トレイの上へと移した。
トレイには、すでに前もって試作を済ませていた道具立てが並んでいる。
蒸留水とグリセリン、薬草抽出液で組んだ基礎の化粧水。同じく安全な無機顔料から色を出して固めておいた、血色感を与える赤系チークと、目元を締める陰影用のアイシャドウ。そして、極細の山羊毛を束ねた手製の化粧筆数本。
準備を整えたレンは調剤室の扉を開け、朝の清掃を終えたばかりのエリスへ声をかけた。
「エリスさん、顔を洗って奥の間へ来てくれるかい」
「――っ、は、はい……!」
エリスは持っていたハタキを取り落としかけ、顔を一瞬にして真っ赤に染め上げた。
眼鏡を押し上げながら指先をもじもじと絡ませ、どこか覚悟を決めたような、震える足取りで奥の間へとやってくる。
「あ、あの……旦那様。わ、私、このような身の上ですが……誠心誠意、お勤めを果たさせていただきます……」
蚊の鳴くような声で俯き、両手でスカートの裾をぎゅっと握りしめて緊張に固まるエリス。
だが、作業台の前に椅子を用意していたレンは、その様子を完全に意識の外へ逃し、手元のトレイに並んだ道具を点検しながら淡々と言った。
「そこに腰掛けて。光がよく当たるように、顔を少し上に向けてもらえると助かる」
「……あ、あれ? 寝台ではなく……椅子、ですか……?」
「髪が邪魔になるから、この留め具で前髪と横を上げておいて。まずは肌の調子を見るから」
拍子抜けしたように目を白黒させるエリスをそのままに、レンは椅子へ座らせ、清潔なリネン布を胸元に掛けた。
「あの、旦那様……これは、一体何をなさるので……?」
「昨日言った試作品のテストだよ。実用での密着度と、外光の下での発色を確認したい。洗顔したてだから、まずは化粧水で水分を補給して油分を整える」
レンは硝子瓶から化粧水を手のひらに取り、両手で軽く温めてから、エリスの頬へ均一に押し当てた。
ビクッと肩を跳ねさせたエリスの肌状態を指の腹で確かめながら、余分な水分を抑え、肌のキメを整えていく。
下地が整ったのを確認し、いよいよ昨晩プレス成形した真鍮皿――無毒の無機顔料とスクワランで組み上げた、あの固形パウダーファンデーションへ手を伸ばした。
「粉体を目元と頬骨の高い位置から置いていく。目を軽く閉じていて」
レンは手製の平筆にパウダーを均一に含ませ、余分な粉をトントンと払うと、エリスの肌へと滑らせ始めた。
平筆の先がエリスの頬に触れた瞬間、彼女の背筋がピンと伸びた。
レンは意に介さず、筆の腹を使って内側から外側へと滑らかにパウダーを払っていく。
40Gの遠心力で選別した2〜5μmのタルクとカオリンが、肌の微細な凹凸へ吸い付くように滑り込む。湿式摩擦で剥離させたマイカの薄片が室内光を乱反射し、毛穴の影を自然に飛ばしていく。
「動かないで。小鼻の脇と口元を押さえる」
細身の丸筆に持ち替え、皮脂の浮きやすいキワを薄く押さえ込む。
従来の鉛白のように「白い塗料を顔面に塗りたくる」感覚はどこにもない。肌本来の透け感を残したまま、くすみと色ムラだけが消え去り、陶器のようにきめ細やかな質感へと均一に整っていった。
続いてレンは、黒と黄の酸化鉄をごく淡く練り込んだ灰褐色のパウダー皿を引き寄せた。
細い平筆の穂先で、エリスの眉の隙間を埋めるように自然な毛流れを描き足していく。元の骨格に沿って眉尻を整えるだけで、引き締まった陰影が生まれた。
「次は目元だ。軽く瞼を閉じて」
制作済みのアイシャドウパレットへ筆を運ぶ。
マイカの含有量を高めたパールベージュをアイホール全体へ薄く掃き、目元に濡れたような明るさを仕込む。さらに細筆を取り、赤色酸化鉄と黒色酸化鉄を混ぜて作った深みのあるテラコッタブラウンを、まつ毛の生え際から目尻にかけてぼかし入れた。
伏せられたエリスの瞼の上に、自然な奥行きと立体感が定着していく。
「そのまま。頬の血色を補う」
毛量を多く束ねた大きめの丸筆に、赤色酸化鉄を極微量に調合したチークパウダーを含ませる。
手の甲で余分な粉を落とし、濃度を確かめてから、エリスの頬骨の高い位置へふわりと乗せた。円を描くようにこめかみへ向けてぼかすと、肌の内側から上気したような、健康的な朱がじんわりと浮き上がった。
最後に、スクワランオイルに赤色顔料を微量練り込んだ保湿バームを指先に取り、エリスの乾いた唇の中央から薄く馴染ませた。
レンは半歩下がり、正面と左右から光の当たり方を確認した。
粉浮き、ヨレ、色ムラはない。厚塗り感のないマット肌の上に、計算された陰影と血色が完全に調和している。
「……よし。ベースの密着度、発色ともに問題ない。目を開けていいよ」
レンは胸元のリネン布を外し、道具を片付けようと手を伸ばしかけて――そのまま動きを止めた。
指示通りにおずおずと瞼を持ち上げたエリスの顔を、間近で真正面から捉えた瞬間、レンの喉から息がふっと漏れた。
いつも伏し目がちだった瞳が、自然な陰影のグラデーションに縁取られて驚くほど澄んで見える。陶器のように整った肌の質感と、頬に差した淡い上気のような朱、そして潤いを帯びた唇。
どこにでもいる控えめな侍女だったはずの彼女が、窓から差し込む朝のやわらかな光を浴びて、息を呑むほど瑞々しい気品を放っていた。
レンは片付けの手を完全に忘れ、ただただ目の前の光景に視線を奪われていた。
「……すごいな」
ぽつりと、思わず心の底から声がこぼれ落ちる。
「えっ……? だ、旦那様……?」
突然まっすぐに凝視され、エリスが戸惑うように肩を揺らした。
だがレンは瞬きもせず、夢を見るような眼差しでエリスの顔を見つめ続け、無意識のうちに言葉を重ねていた。
「綺麗だ、エリスさん。本当に……美しいよ」
「ひゃ、へっ……!?」
「大げさじゃなくて、本気で言ってる。陶器みたいに肌のキメが整って、光の当たり方ひとつとっても完璧だ。……いや、化粧の出来栄えだけの話じゃないな。君自身の顔立ちの良さが、余すところなく引き出されている。これなら……帝国じゅうを探し回ったって、今の君より美しい女性なんてどこにもいないんじゃないか?」
一切の計算も衒いもなく、心の底からうっとりと放たれた直球の賛辞。
言われたエリスは、チークパウダーの赤みなど一瞬で呑み込まれるほど、首筋から耳の先まで一気に真っ赤に沸騰させた。
眼鏡の奥の瞳をぐるぐると泳がせ、口を金魚のようにパクパクと開閉させながら、今にも椅子から滑り落ちそうなほど激しく激震している。
◇
「て、帝国じゅうで1番だなんて……そ、そんな、滅相もございませんっ、私ごときが……!」
エリスが沸騰した頭を抱えて椅子の上で身悶え、今にも煙を吹き出しそうになっていた、その時だった。
「――旦那様? 朝のお茶をお持ちし……って、ええええっ!?」
ノックの直後に奥の間の扉が開き、銀のトレイを手にしたナディアが足を踏み入れた。
だが、次の瞬間、彼女の目はカッと見開かれ、トレイの上のカップがガチャガチャと甲高い音を立てる。
その背後から、静かに続いて入ってきたシエナもまた、視線を向けたままぴたりと足を止めた。
いつもは氷のように冷徹な元暗殺者の琥珀色の瞳が、微かに揺らぎ、信じられないものを見るように見開かれている。
2人の視線の先には、窓からの光を浴びて、信じられないほど瑞々しく発光するような美貌を晒しているエリス。そして、彼女のすぐ間近に立ち、うっとりと見惚れたままの手つきで佇むレンの姿。
「エ、エリス……!? 嘘でしょ、あなた本当にエリスなの……!?」
ナディアはトレイを作業台の端に放り出すように置くと、弾かれたようにエリスへ駆け寄った。
至近距離からエリスの顔を覗き込み、目を丸くして息を呑む。
「な、何これ……! 貴族の奥様たちみたいな気持ち悪い白塗りじゃなくて、お肌が……お肌が吸い付くみたいに透き通ってて、すっごく綺麗……! えっ、唇もぷるぷるだし、おめめもすっごく大きくなってる……! す、すごい、こんなの見たことないっ!」
大興奮のナディアは、くるりとレンに向き直ると、両手を胸の前で強く組み合わせて詰め寄った。その瞳は完全に獲物を見つけた猫のように輝いている。
「だ、旦那様っ! ずるいです、エリスだけなんてずるすぎますっ! 私にも! 私にもそのお化粧、してくださいっ! お願いですから、私のお顔も可愛くしてくださいぃっ!」
「あ、いや、ナディア。これはまだ試作品のテストでだな――」
「テストなら私も協力します! なんなら今すぐ顔を洗ってきますからっ!」
必死にすがるナディアの勢いにレンがたじろいでいると、背後からスウッと室内の気温が数度下がったかのような、冷ややかな気配が立ち込めた。
レンが思わず首を巡らせると、そこには腕を組み、冷たい笑みを浮かべたシエナが立っていた。
「……へえ。帝国じゅうで1番、ですか」
感情を押し殺した、やけに低く滑らかな声。
だが、その鋭い視線はエリスの顔と、レンの持っていた化粧筆を交互に射抜くように睨みつけている。
いつも無表情を崩さないシエナの眉間には、隠しようもない深いシワが刻まれ、その瞳の奥には青白い嫉妬の炎がはっきりと揺らめいていた。
「ずいぶんと……熱心な『研究』をなさっていたのですね、旦那様」
「シ、シエナ……?」
「エリスばかりを密室に呼び出し、そのような甘い言葉まで囁いて……。私には一度も、そんな顔を見せてくださったことはありませんのに」
ツンとそっぽを向いたシエナの口元が、微かに不満げに尖る。
彼女の放つ無言の重圧に、エリスは赤面したまま完全に縮こまり、レンは額に一筋の冷汗を流すしかなかった。
◇
ナディアの猛烈なアピールと、背後から冷たい圧をかけてくるシエナの無言の視線に屈したレンは、結局その日のうちに2人分の肌色に合わせた顔料を急遽調合し、フルメイクを施す羽目になった。
そして迎えた、翌朝のことである。
普段と変わらぬ時間に薬舗の開き戸が開け放たれ、朝の営業が始まった。
しかし、店先の通りを行き交う街の人々の様子は、明らかに普段と違っていた。
「……おい、見ろよ、あの店」
「なんだ? いつもの偏屈な薬屋だろ……って、えっ?」
通りを歩いていた若い職人が、店頭で箒を手に掃き掃除をしているエリスの姿を視界に捉え、履物を石畳に引っ掛けて盛大につまずいた。
眼鏡を外し、前髪をすっきりと流したエリスは、朝の光を浴びて陶器のように透き通った肌を輝かせていた。伏し目がちに石畳を掃く横顔には、貴族の深窓の令嬢すら霞むような瑞々しい気品と、清楚な色香が滲み出ている。
「な、なんだあの娘……!? あんな綺麗な子、あそこにいたか!?」
「いや、待て、中! 中を見ろ!」
カウンターの内側では、ナディアが薬草の小瓶を棚へ並べ替えていた。
こちらはエリスとは対照的に、ほんのりと上気したような血色感のある桃色のチークに、うるおいを湛えた唇。大きな瞳が自然な陰影でさらに際立ち、愛嬌と眩しいほどの愛らしさを全開にして客を待っている。
そして、そのさらに奥――店の帳簿をつけているシエナが、ふと冷やかな視線を通りへ投げかけた。
きりりと整えられた眉の下で、深みのあるテラコッタブラウンのグラデーションに彩られた切れ長の瞳が怜悧に光る。陶磁器のようなマット肌と引き締まった表情が相まって、まるで氷雪の女神か、近寄る者を凍てつかせる絶世の女騎士のような圧倒的な美貌を放っていた。
通りを行く男も女も、足を止めてぽかんと口を開けたまま、薬舗の店先を凝視している。
「おいおい……あの店、何か変だぞ……?」
「変どころの騒ぎかよ! 絶世の美女が……それも毛色の違うとんでもない上玉が、3人も並んでるんだぞ!?」
「貴族のお屋敷の専属侍女だってあんなレベル見たことねえぞ! 一体どうなっちまったんだ!?」
噂は瞬く間に帝都の路地を駆け巡った。
『裏通りのしがない薬屋に、傾国の美女が3人揃って店番をしている』
『いや、あれは精霊か何かが化けているに違いない』
『貴族の愛妾たちが揃って隠れ住んでいるんじゃないか』
尾ひれのついた珍妙な噂が広がるのに、半日もかからなかった。
いつものように静かに調剤室へ籠もり、目立たず平穏に暮らすはずだったレンの薬舗の前に、尋常ではないざわめきと人垣ができあがりつつあった。
◇
噂がクレイズ神聖王国のベルフォール公爵邸、その最深部にある執務室へと届いたのは、それから2週間後のことだった。
『帝国帝都の裏通りにある薬屋に、神の祝福を受けたかのような、肌の透き通る絶世の美女が3人も揃っている』
『鉛白で爛れる貴族の女たちを嘲笑うかのような、あり得ざる美貌を誇る店番たち――』
社交界で『氷の令嬢』と恐れられるベルフォール公爵家長女、エレオノーラは、密偵からもたらされた報告書に冷やかな視線を落としていた。
現在、最愛の実弟であり夫でもあるレンは、帝国において大公位に就いている。第二皇女セシリアがレンを囲い込み、帝国の後ろ盾として機能させている現状も、すべてはエレオノーラが計算ずくで手打ちにし、公認してやっている盤上の駒に過ぎない。王国が『クレイズ神聖王国』へと改称し、レンが筆頭聖族となった今、近親婚の法をねじ伏せて正妃の座を確定させたエレオノーラの地位はすでに盤石だった。
だが、報告書をめくるエレオノーラの指先が、ぴたりと止まった。
「……裏通りの薬屋に、絶世の美女が3人、ね」
貴族たちの間で広まる下世話な噂話など、普段のエレオノーラなら一瞥して暖炉へ放り込むような内容だ。
しかし、その詳細を読み進めるうちに、エレオノーラの怜悧な唇が、かすかに、しかし昏く歪んだ。
肌に害のない、泥や石から作られた未知の化粧。
そして、身近な女たちを帝都1の美女へと仕立て上げる、神業のような調合の手腕。
さらには、その恩恵を浴びているのが――あの抜け目なくバルツの姓を騙ったシエナに、新しく雇い入れたはずの店長、そして素性も知れぬ受付上がりの小娘だと知れば、答えは1つしかなかった。
「……ふふ。ふふふふ……」
静まり返った執務室に、鈴を転がすような、しかし底知れぬ狂気と独占欲を孕んだ艶やかな笑い声が響いた。
「間違いないわ。そんな常識外れの真似を平然とやってのけるのは……世界中で、私の愛しいレンだけ」
エレオノーラは執務机に置かれた、帝国巡行のための正妃親任状へ愛おしそうに爪を滑らせた。
その怜悧な紫水晶の瞳の奥で、常軌を逸した情念の炎が静かに揺らめく。
公認して帝国に大公として据えてやり、四季巡回の一環として多少の自由を許してやっていたはずの夫が。まさか自分のあずかり知らぬところで、下町の女たちの肌にその手で直に化粧を施し、帝都中を騒がせるほどの美女に仕立て上げていたとは。
「私の可愛い弟……私の大切な旦那様。帝国の政務から目を離して、一体どんな顔をして、その手で女たちの頬を丹念に撫でてあげたのかしら……?」
エレオノーラは立ち上がり、背後に控える護衛と従者たちを、氷のように冷徹な眼差しで見据えた。
「帝国への巡行使節団の出発を前倒しします。準備を急ぎなさい」
手元の報告書を優雅に折りたたみ、エレオノーラは美しくも底知れない笑みを浮かべて帝都の方角を見つめた。
「待っていなさい、レン。今すぐあなたの妻が、正妻として堂々と……あなたのその素晴らしいお仕事の成果を、この目で確かめに行ってあげるからね」
◇
「レン。これ――直ちに帝国のラインへ回し、大量生産体制を敷くべきです」
調剤室の長椅子に優雅に腰掛けたセシリアは、真鍮枠の手鏡を鋭い視線で見つめながら、迷うことなくそう言い放った。
彼女の肌には、すでにレンの手によってテスト用のパウダーが薄く施されている。
皇女としての気品と威厳を損なうことなく、それでいて長旅と政務による睡眠不足の陰りを完全に拭い去り、陶器のように滑らかな透明感が宿っていた。幼少より帝室の最高級白粉や東方の秘薬を目にしてきた彼女だからこそ、この粉体が秘める経済的・政治的価値を瞬時に弾き出していた。
「何を言い出すんだ、セシリア様。これはただの試作品だし、設備もこの部屋にある手回しの遠心分離器とスクリュープレス機だけだ。手作業でちまちま鉱物を分級しただけで、ラインに乗せるようなものじゃない」
レンは棚の試薬瓶を並べ替えながら、心底から嫌そうに首を横に振った。
前世のドラッグストア店長時代、新商品の拡販や欠品対応でどれほどすり減ったか。帝都で大公に祭り上げられた今、目指すべきはあくまで「優秀な店長に現場を任せ、たまに帳簿を見るだけの平穏な不労所得生活」である。これ以上の大量生産など、自ら過労死の穴に飛び込むようなものだった。
しかし、セシリアは手鏡を卓上にカツンと置くと、冷やかな、だが底知れぬ野心を湛えた笑みを浮かべてレンを見据えた。
「戯言を仰らないで。貴族の夜会をその目で見たことがあるでしょう? 女たちは肌を爛れさせ、歯を失い、死に至ると知りながら鉛白を塗りたくっているのです。そこに『肌を害さず、それどころか保護し、素肌そのものを息を呑むほどの美へ昇華させる粉』が投下されれば、何が起こるかお分かりでしょう?」
「……凄まじい争奪戦になるだろうね」
「争奪戦などという生易しいものではありません。帝都中の貴婦人、元老院の妻妾、果ては帝室の皇族に至るまで、ありとあらゆる女たちが財産と影響力のすべてを投げ打ってひれ伏します。これは単なる化粧品ではありませんのよ。貴族社会の社交界、ひいては帝国の裏の権力構造を完全に掌握できる『絶対の支配兵器』です」
セシリアの紫紺の瞳が、怜悧な統治者としての光を放つ。
「下町で泥棒猫たちに施して噂を立てている場合ではありません。ノア・ホールディングスの第2調合ライン、あるいは帝国があなたに献上したプラントの一部を即座に改装なさい。製造工程を東西南北の工房へ分断し、最終成形のみを親衛隊で封鎖してブラックボックス化すれば、技術流出を防ぎながら数万単位で月産できるはずです」
「だから、なんでそんな物騒な規模に広げるんだ……。俺はただ、毒で肌を壊す人がいなくなればいいと思って、手近な石ころから安全なものを試作しただけで――」
「その『手近な石ころ』から国家を揺るがす奇跡を平然と錬成するのが、あなたという男でしょうに」
頭痛をこらえようと額を押さえるレンに対し、セシリアは逃げ道を塞ぐように甘く、抗いがたい圧力を込めて距離を詰めた。
「あの敬愛するお姉様に、ただの浮気心や下町での道楽だと誤解されたくはないでしょう? 『これは帝国の全貴族を無力化し、神聖王国とのパワーバランスを掌握するための国家規模の戦略的事業なのだ』と……公式の調印文書を突きつけられる形にしておいた方が、あなたの胃にとっても安全だとは思いませんこと?」
「うっ……」
エレオノーラの名を出された瞬間、レンの背筋に冷たい戦慄が走った。
手元の胃薬(キャベギオン軍α)の瓶が視界の端でカタカタと揺れるのを、レンはどうすることもできずに見つめるしかなかった。
◇
神聖王国の旗を掲げた白亜と金の特使団馬車が、帝都オルデンブルクの第1特別貴族特区――レンにあてがわれた豪奢な大宮殿の正面へと滑り込んだ。
予定を大幅に前倒しして帝都へ乗り込んできたクレイズ神聖王国全権特使にして、レンの最愛の実姉であり正妃。
馬車の扉が従者によって開かれると、周囲の空気が一瞬で凍てつくような絶対零度の気品をまとって、エレオノーラがその姿を現した。
出迎えたのは、胃を押さえながら引きつった笑みを浮かべるレンと、護衛として直立するカトレア。
そして、その後ろに控える「噂の元凶」たち――エリス、ナディア、シエナの3人だった。
エレオノーラの紫水晶の瞳が、すっと3人へ向けられる。
社交界の『氷の令嬢』と恐れられた彼女の眼力は、わずか一瞥でその異常性を正確に見抜いていた。
(……何なの、これは……?)
内心の驚愕を、エレオノーラは鉄壁のポーカーフェイスで完全に押し殺した。
噂通り、いや、噂を遥かに超えている。
白壁のように顔を覆い隠す醜悪な鉛白などではない。
毛穴の1つ、くすみの1つも見当たらない陶器のようなキメの細かさ。それでいて、透き通るような素肌の息遣いと、内側から自然に上気したかのような上品な血色、光の反射を計算し尽くした陰影。
身分の高くない下町の娘や、没落したはずのシエナが、社交界の頂点に君臨する大貴族の正妻たちすら一瞬で霞ませるほどの美貌を放っているのだ。
(これが……泥と石から作られた、レンの新しい『化粧』……!)
肌を侵食し、やがて死に至らしめる鉛白の毒性を、エレオノーラは貴族社会の暗部として熟知している。
それを完全に克服し、素肌そのものを神の祝福のごとく輝かせるこの粉が、世の女性たちにとってどれほどの価値を持つか。
――神聖王国にも、直ちに持ち帰って普及させるべきか?
冷徹な政治家としての頭脳が、瞬時に損得を弾き出す。
これを神聖王国で独占配給すれば、国内外の貴族階級の生殺与奪の権を完全に掌握できる。帝国のセシリアに利権を渡すくらいなら、神聖王国主導で大陸全土を牛耳るべきだ。
だが――。
次の瞬間、エレオノーラの脳裏を別の、遥かに強烈な感情が塗りつぶした。
(……いいえ。駄目よ)
エレオノーラは、伏し目がちに自分を恐れる3人の娘たちの肌を、静かに、だが底知れぬ熱量で見据えた。
(こんな奇跡のような美を、他の女たちにやすやすと分け与えてなるものですか。……ましてや、レンが直に筆を取り、その手で施したというのなら尚更よ)
神聖王国への普及など2の次。
国家の利権よりも、貴族たちの肌の健康よりも、何よりも優先されるべき絶対の真理。
(最低限……私だけは。レンの正妃であり、レンが世界で最も愛しているはずの私だけが、この化粧を施されなければならないわ)
目の前で他の女たちがこれほどの輝きを放ち、あろうことかレンに「綺麗だ」と褒めそやされたという事実が、エレオノーラのプライドと独占欲を激しく逆撫でしていた。
自分こそがレンの隣に立つ唯一無2の存在であり、レンの創り出す最高の奇跡を身に纏う資格がある。
エレオノーラは氷のような冷徹な笑みを浮かべ、優雅に歩み寄ると、震えるレンの前に立った。
そして、その怜悧な指先を、最愛の弟であり夫である少年の頬へと、そっと甘やかに這わせた。
「……ただいま、私の愛しいレン。長旅で少し肌が疲れてしまったの。お部屋で2人きり、ゆっくりとお話を聞かせて……私の顔も、あなたのその手で、丁寧に整えてくださるかしら?」
鈴を転がすような美声の裏に潜む、絶対に逃げられない底知れぬ情念。
レンの喉から、ひゅっと乾いた悲鳴が漏れ出しかけていた。




