22話:『不労所得を愛する大公閣下と、最初のお客様の重すぎる3大案件』
【深夜の皇女宮と肉食獣の同衾要求】
野戦病院での視察と、新設プラントの防壁構築に向けた初期指示を終えた日の夜。
元老院の干渉を排除する勅令の草案を取りまとめ、形式ばった夕食会を切り抜けたレンは、皇女宮の最奥にあるセシリアの私室へと通されていた。外縁の廊下はセシリアの選抜親衛隊によって完全に封鎖され、カトレアも護衛の任務規定に従い、扉を1枚隔てた控えの間で警戒に就いている。
室内に満ちているのは、暖炉の薪が爆ぜる爆音と、テーブルに置かれたアロマランプのほのかな香気だけだった。
「ふう……ようやく人心地がついたわ」
長椅子に腰掛けたセシリアが、首を巡らせて小さく息を吐いた。
そして何の躊躇もなく、漆黒と深紅で仕立てられた軍服の襟元に細い指を掛けた。
パチン、と金具が外れる乾いた音が静寂に響く。
続いて、胸元を固く締め上げていた金ボタンが、上から1つ、2つ、3つと外されていく。
「――っ!?」
向かいの1人掛けソファに座っていたレンの背筋が、文字通り跳ね上がった。
開かれた軍服の隙間から、引き締まりつつも豊かな起伏を描く白い肌が露わになる。汗を吸った薄いリネンの肌着がかすかに張り付き、鎖骨の優美な窪みと、その奥へと続く深々とした陰影が、暖炉の揺れる火に照らし出されていた。
前世は製薬会社の開発部とドラッグストアの現場に人生を捧げ尽くし、女性と手すら握ったことのないまま60代で過労死した男である。今世でどれほど巨大財閥の頂点に立とうと、中身の恋愛経験値は完全に初期値のゼロのままだった。
(な、ななな……何を急に寛ぎすぎているんだこの人は!? いや、軍務が終わって私室だから服を緩めるのは自然なのか? でもここは男女2人きりの密室で、しかも相手は一国の皇女で――!)
レンの視線は行き場を失い、天井のシャンデリア、暖炉の火、テーブルの木目を猛烈な速度で反復横跳びした。動悸が耳の奥で激しく鐘を打ち鳴らし、冷汗がじわりと背中を伝う。
「どうしたの、レン? ずいぶん落ち着かない様子ね」
セシリアは軍服の袖を捲り上げながら、紫紺の瞳を細めてレンの狼狽を見つめた。
その唇が、獲物を見定めた肉食獣のように、愉悦を帯びてわずかに吊り上がる。
「い、いえ! なんでもありません! ただ、その……少し肌寒くはないのかなと! 暖炉の火を足しましょうか!?」
「いいえ、むしろ少し火照っているくらいよ。……それとも何かしら。私のこの姿は、貴方の目に毒だった?」
セシリアは立ち上がると、音もなくレンの座るソファの前へと歩み寄ってきた。
上着を軽く崩しただけの姿のはずなのに、滲み出る圧迫感が昼間の軍事法廷よりも桁違いに重い。高級な香油の香りと、微かな熱気を孕んだ吐息が、レンの至近距離へと降り注ぐ。
「め、滅相もないです! ただその、目のやり場に困るというか、刺激が強すぎるというか……」
背もたれに限界まで身体を押し付けるレンを見下ろし、セシリアはフッと艶やかに喉を鳴らした。
白く滑らかな膝がソファの端にかかり、逃げ場を塞ぐようにレンの左右に手が置かれる。至近距離に迫った鎖骨と、露わになった胸元の熱が、空気を通じて直に伝わってくるようだった。
「何を今さら怯えているのかしら。忘れたわけではないでしょう? 神聖王国のあの氷の女――エレオノーラと交わした約定を」
耳元に吹きかけられる囁きは、甘く、そして抗いようのない冷徹さを帯びていた。
「『四季巡回における帝国の妃』として、私は正妃たるあの女から正式に承認を受けたのよ。秋の3ヶ月間、貴方の身柄を独占する権利は私にある。……ビジネスの共同経営者としてだけここに居るのだと、まさか本気で思っていたわけではないわよね?」
「セ、セシリア殿下、距離が……! 顔が近すぎます……!」
「セシリア、と呼びなさい。2人きりの時はそう呼ぶように言ったはずよ」
レンの手首を、セシリアの細くも軍人らしい引き締まった指先が静かに捕らえた。
逃げようにも、力づくで振り払うことなど到底できない。真っ赤に沸騰したレンの顔を、セシリアは心底から愛おしそうに、そして獰猛な独占欲を隠そうともせずにじっと見つめた。
「昼間は随分と頼もしく元老院をねじ伏せる策を授けてくれたけれど……こうして2人きりになると、途端に初心な少年に戻るのね。そういうところ、たまらなく唆られるわ」
指先がレンの手の甲から手首の内側へと滑り、速鐘を打つ脈拍をなぞる。
「……随分と早い鼓動ね、大公閣下。今夜は、南部の開発計画の続きではなく……私の夫としての義務について、じっくりお話しする必要がありそうだわ」
退路を完全に断たれた密室の中、レンの脳内PCが警告アラートを乱打していたが、その暴走を止める手立てはどこにも存在しなかった。
【薄氷の朝と独占欲の拘束】
薄絹のカーテンを透かして差し込む白光が、豪奢な天蓋付き寝台のシーツを淡く照らし出していた。
重く引き絞られたままのカーテンの隙間から零れる朝の光に、レンは微かに眉を寄せて意識を浮上させた。全身を包み込むのは、極上の羽毛布団の温もりと、昨夜の尋常ならざる精神的疲弊による鉛のような倦怠感だ。
(……朝か……)
前世の60余年の人生を含めても、これほど神経をすり減らした夜は記憶にない。
脳内PCが警告アラートを乱打し続けた昨夜の記憶が、まどろむ意識の底から鮮明に蘇ってくる。退路を塞ぐように迫ってきたセシリアの体温、耳元をかすめた甘く冷徹な囁き、そして「帝国の妃」としての既成事実を迫る強烈な圧迫感――。
結局のところ、レンが顔を真っ赤にして呼吸すらおぼつかなくなった姿を見かねたセシリアが、「これ以上追い詰めると気絶しかねないわね」とくすくす笑いながら引き下がり、寝台の端と端で夜を明かすという、奇跡的な薄氷の結末で決着したのだった。何も起きてはいない。法的な一線は越えていない。だが、同じ寝台で一晩を過ごしたという事実そのものが、すでに胃を激痛で締め付けるには十分すぎる破壊力を持っていた。
レンがおそるおそる横へ視線を巡らせると、すぐ隣には、シーツを胸元まで引き上げたセシリアの姿があった。
昼間の張り詰めた軍服姿とは打って変わり、肩にかかる艶やかな黒髪は無造作に乱れ、滑らかな鎖骨と白い素肌が朝の光に透けている。規則正しい寝息を立てるその横顔は、元老院や他国を睥睨する冷徹な皇女ではなく、年相応の無防備な美しさを湛えていた。
しかし、その腕はしっかりとレンの寝間着の裾を掴んだまま離そうとしない。眠りの中にすら滲み出るような、執拗なまでの独占欲の表れだった。
(……動けない……)
起こしてしまえば、昨夜の続きが始まらないとも限らない。レンは天井の装飾彫刻を見つめたまま、微動だにできず息を潜めた。
やがて、わずかに身じろぎしたセシリアのまつ毛が震え、真紅の瞳がゆっくりと開かれた。
まどろみを含んだ潤んだ視線が、至近距離にあるレンの顔を捉える。
「……おはよう、レン」
掠れた、朝独特の気だるげな声が耳朶を打った。
セシリアは掴んでいた布地を放すどころか、むしろ手繰り寄せるように身を摺り寄せ、レンの首筋に額を軽く押し当てて小さく息を漏らした。
「ずいぶん早くから起きていたのね。……まだ身体が強張っているわよ」
「セ、セシリア殿下……おはようございます。その、そろそろ起き上がらないと、本日の予定が……」
「セシリア、と呼ぶ約束でしょう」
咎めるような、それでいて甘やかな吐息が首元をくすぐり、レンの背筋を再び戦慄が駆け抜ける。
「……セシリア、様。本日は、3次拠点の設備立ち上げと、野戦病院から届くはずの経過報告の確認があります。直轄軍の工兵隊も待機しているはずです」
必死に実務の話題を盾にするレンに対し、セシリアはシーツの中で満足そうに目を細め、くすりと喉を鳴らした。
「ええ、分かっているわ。……でも、もう少しだけこうしていなさい。帝国における貴方の時間と安全は、すべて私の庇護下にあるのだから」
引き締まった腕がレンの腰へと回され、抗う間もなく引き寄せられる。
覇権国家の巨大な利権をめぐる熾烈な防諜戦の朝は、重い倦怠感と、逃げ場のない甘やかな拘束の中で静かに幕を開けていた。
【密談の白紙手形と下町の箱庭計画】
帝都オルデンブルク、金剛宮の奥深くに位置する第二皇女セシリアの私室。
マラリア特効薬『アルテミシニン』の抽出技術を完全なブラックボックスとして封印する軍事協定の調印を終え、張り詰めていた空気がようやくほどけた深夜のことだった。
卓上に置かれた魔導ランプの淡い光の中、冷えたハーブティーを一口含んだレンは、向かいに座る怜悧な妻へ向けて、心底くたびれたように息を吐き出した。
「セシリア。……業務の話はここまでにして、1つ、個人的な相談に乗ってもらえないかな」
「個人的な相談、ですか?」
セシリアが氷のように透き通った青い瞳をわずかに見張り、手元のペンを置いた。
冷徹無比な軍務卿として軍部と元老院を震え上がらせる彼女が、わずかに身を乗り出す。
「ああ。……実は、この帝都のどこかに、誰の目にも留まらないような、ごく小さな店舗を用意してほしいんだ。看板も出ているか出ていないか分からないような、下町の路地裏の古びた店を1軒」
「下町の……小さな店舗?」
「うん。正直に言うとね、この豪奢な大宮殿も、世襲大公という仰々しい肩書きも、貴族たちの探り合いも……僕にはまったく向いていないんだよ」
レンは苦笑交じりに両手を広げ、自嘲気味に肩をすくめた。
「前世――いえ、昔からそうなんだけど、僕は本来、ただのしがない薬房の店主なんだ。カウンター越しに『最近どうだい』と近所の人と世間話をして、肩こりの湿布を渡したり、腹を壊した職人に煎じ薬を作ったり、そういう泥臭い日常にこそ生きがいを感じる質でね。これ以上、国家予算だの軍事機密だのの数字ばかりと向き合っていると、本当に胃に穴が開きそうなんだ」
前世で過労死するまでドラッグストアの店頭に立ち続けた男の、骨の髄からの本音だった。
そしてレンは、セシリアの表情を伺いながら、少し申し訳なさそうに「切り札」を口にした。
「勝手な我儘だって分かっているよ。帝国の大公が下町で油を売るなんて、元老院に知れたら一大事だろうから。だから……もしこの無茶な願いを内密に通してくれるなら、交換条件として、君のお願いを何でも1つ引き受けるよ。僕にできることなら、どんな無理難題でも構わないから」
レンとしては、普段から胃痛の種を増やしてくる妃たちへの対応と同じく、「貸しを1つ作って円滑に手打ちにする」程度の、気楽なギブ・アンド・テイクのつもりだった。
だが――。
(……何でも、1つ……?)
セシリアの胸の奥で、氷のように静まり返っていた理性が、激しい歓喜の業火によって一瞬で焼き尽くされた。
目の前で力なく笑うこの少年は、大陸全土の生命線を握り、年間10数兆円の純利益を叩き出し、帝国全軍の生殺与奪すら掌握する怪物だ。エレオノーラも、法皇国の筆頭聖女も、喉から手が出るほど欲しがっている絶対の主柱。
そのレンが、他国の誰にも見せない「弱音」と「本当の望み」を、自分だけに打ち明けている。
しかも、あの『奇跡の頭脳』が提示した『何でも1つ受ける』という白紙手形。
帝国の軍事力増強どころか、国家そのものを買収できるほどの価値を持つ特大のカードが、転がり込んできたのだ。
(ああ……なんて無防備で、愛らしいお方なのでしょう……!)
セシリアの端正な美貌の内側で、怜悧な軍務卿の冷徹な計算と、狂気的な独占欲が超高速で噛み合っていく。
(元老院に知られれば一大事? ええ、当然です。だからこそ、絶対に知られてはなりません。他国の密偵やエレオノーラの手の届かない、帝都の最深部……。私の目の届く場所に、レンだけの小さな鳥籠を設えればよいのです。
その一帯を、私の特務部隊だけで完璧に包囲・偽装する。レンが下町で『しがない店主』として息抜きをしている間、夜になれば私だけが身分を隠してその店を訪れ、2人きりの時間を独占できる……!)
冷たい仮面を完璧に張り直したセシリアは、小さく喉を鳴らし、優雅に微笑んでみせた。
「……分かりましたわ、レン。そこまで切実に望まれるのであれば、妻として、全力を尽くしてご要望にお応えいたしましょう」
「本当かい!? 助かるよ、セシリア!」
「ええ。ただし、約束ですよ? 『私の願いを何でも1つ受ける』――その言質、決して違えないでいただきますわ」
「もちろんだよ。アルカディア大公の名にかけて約束する」
無邪気に安堵のため息をつくレンを見つめながら、セシリアの薄い唇が妖艶に弧を描いた。
――それから、わずか3日後。
帝都オルデンブルクの東部、大通りから何本も路地を入った職人街の片隅に、ひっそりとした佇まいの木造2階建ての町屋が用意された。
かつて老いた薬草摘みが細々と営んでいたというその建物は、適度にすすけた板壁と小さな格子窓を持ち、派手さのかけらもない。まさにレンが理想としていた「下町の目立たない薬種屋」そのものだった。
しかし、その実態は――。
『東部第7職人区、擬装配置完了。対象物件の半径200メイル圏内、皇宮特務暗殺部隊および近衛精鋭兵、計80名の平民偽装配置を完了いたしました』
『向かいの鍛冶屋には特務工作兵長を配置。隣のパン屋は帝室直属の毒見役が引き継ぎました。不審者の侵入は路地の入り口で即時無力化されます』
セシリアの手元に届けられた極秘報告書には、帝国最強の防諜網が下町の日常風景の皮を被って敷設された事実が記されていた。
【旧水路街の隠れ家と不労所得の求人票】
だが――。
当のレンは、最初からこの「セシリアの用意する店」など、露ほども当てにしていなかった。
「……まあ、そうなるよね。あのセシリアが、僕を野放しにするわけがない」
白亜の大公宮殿の自室にて、レンは苦笑しながら窓の外を眺めていた。
軍務卿であり、冷徹なリアリストであるセシリアに下町の店を頼めば、過剰な警備と監視でガチガチに固めた「箱庭」を用意されることくらい、元製薬管理職のリスク感覚を持っていれば百も承知だったのだ。
セシリアに頼んだのは、あくまで「下町で店をやりたがっている」という既成事実を公認させ、彼女の独占欲を満足させるための壮大な目くらましに過ぎない。
レンが真に頼りにしていたのは、泥水をすすり、没落の底から這い上がってきたあの少女だった。
「――レン様、お待たせいたしました」
静かに執務室の扉が開き、足音もなく入ってきたのはシエナだった。
元公爵令嬢のプライドを捨て去り、ノア・ホールディングスの特命担当としてレンの影武者兼腹心を担う彼女は、貴族のドレスではなく、目立たない平民の娘の服を身にまとっていた。
その手には、帝都の古びた羊皮紙の売買契約書が握られている。
「手配、済んだかい?」
「はい。レン様から密命をいただいたその夜のうちに、帝国軍部も元老院も、そしてセシリア殿下の特務部隊すら見向きもしない帝都最南端――『旧水路街』の最深部に、手頃な空き家を1軒、完全に足のつかない偽名で買い落としました」
シエナは冷徹な元令嬢の笑みを浮かべ、机の上に鍵を置いた。
「周囲は日雇い労働者と廃品回収業者が肩を寄せる、本物のスラム一歩手前の下町です。皇宮の防諜網の死角であり、貴族の馬車など一生入ってこない泥濘の路地裏。すでに室内には、最低限の木製カウンターと乾燥棚、基本的な蒸留器を内密に運び込ませました。……看板は、レン様のご指示通り『名もなき薬種問屋』としてあります」
レンの意図を完全に理解し、セシリアの目をかいくぐって「本物の下町」に本拠地を仕立て上げる。
かつて没落貴族の内職ビジネスを瞬時に仕切ってみせたシエナの手腕は、まさに完璧だった。
「ありがとう、シエナ。助かったよ。セシリアが用意してくれた東部の店は、表向きの『大公の息抜き場』として時々顔を出すダミーにしよう。あっちにはカトレアあたりに店番を頼んでおけば、セシリアも怪しまないはずだ」
「かしこまりました。……ですがレン様、旧水路街の治安は劣悪です。いくらお忍びとはいえ、無茶だけはなさらないでくださいね? 何かあれば、私とエドワード様が胃薬を飲むだけでは済みませんので」
「分かってるよ。僕はただ、カウンターに立って、本物の庶民の話し相手になりたいだけだからさ」
そう言いながら、レンは手元の紙にサラサラとペンを走らせ始めた。
その様子を不思議そうに見つめていたシエナが、小首をかしげて尋ねる。
「……レン様? 何をお書きになっているのですか?」
「ん? 求人票だよ」
「……はい?」
シエナの整った眉が、ピクリと跳ね上がった。
「求人票。この『名もなき薬種問屋』を任せる、店長の募集要項さ」
「て、店長……? レン様ご自身が下町の薬房の店主として、カウンターに立たれるのではないのですか?」
呆気に取られたように目を丸くするシエナに対し、レンは「何を当たり前のことを」とばかりに肩をすくめて苦笑した。
「まさか! 冗談じゃないよ。せっかく手に入れた隠れ家で、僕が朝から晩までカウンターに張り付いてワンオペ店番なんてしたら、昔の過労死寸前の生活に逆戻りじゃないか。そんなの絶対に嫌だからね」
「……え? レン様、今、何とおっしゃいました……? かろう……?」
耳慣れない不穏な響きに、シエナが怪訝そうに目を瞬かせる。
自分が転生者であることなど、この世界の誰一人として――もちろんシエナにも一度たりとも明かしたことはない。口を滑らせたことに気づいたレンは、背筋に冷や汗を流しながら、慌てて手を横に振って取り繕った。
「あ、いや! こっちの話、独り言だよ! 昔……ほら、ベルフォールにいた頃、呪詛で寝たきりになる直前まで家庭教師に詰め込まれて勉強漬けだった時のトラウマがね! ああいう息の詰まる缶詰め生活はこりごりだって意味さ!」
「……ああ、公爵家での過酷な英才教育のことですね。幼き日のレン様のお心をそれほどまでに追い詰めるとは……貴族院の教育方針も罪深いものです」
レンの必死の誤魔化しを、シエナは「公爵家三男としての過酷な幼少期」と勝手に解釈して深く同情し、納得してくれたようだった。
内心で胸を撫で下ろしながら、レンは咳払いを1つして本題へと戻した。
「そ、そうなんだよ。だからね、僕がやるのはあくまで『オーナー兼統括指導員』だよ。日々の店番、掃除、接客、簡単な薬草の調合は、信頼できる店長を1人雇って全部任せるんだ。僕はバックヤードの茶飲みスペースでハーブティーでも啜りながら、たまに帳簿を見たり、難しい相談に乗ったり、指導マニュアルを渡したりするだけでいい」
「……オ、オーナー……統括指導員……店長を、雇う……?」
シエナの紫紺の瞳が、激しく明滅した。
(な、なんてこと……! レン様は、ご自身の手で奇跡を振るうことすら『下策』とお考えなのだわ……! 自らは雲の上の絶対者として君臨し、帝都の市井に『自らの意志を継ぐ使徒』を配置して、下町の医療と民心を間接的に、完璧に掌握するおつもり……!?)
元公爵令嬢の脳内で壮大な権謀術数が超高速展開されているとは夢にも思わず、レンは前世の店長時代を思い出して指を立てた。
「というわけでシエナ、急募で『店長候補』を1人探してほしいんだ。条件は3つ」
レンは極めて実務的な「採用基準」を淡々と読み上げた。
「第一に、『変なプライドや我流の知識に凝り固まっていないこと』。貴族お抱えのプライドだけ高い藪医者や、怪しげな呪術を使う祈祷師は論外。こっちの教える手順や衛生マニュアルを素直に、忠実に実行できる真面目な人がいい」
「……己の我を捨て、レン様の神聖なる教えを寸分違わず教条として受け入れる、純粋な器……ですね」
「第二に、『読み書きと計算が正確にできて、清潔感があること』。薬品の取り違えは命に関わるし、帳簿の数字が合わないと困るからね。あとは接客業だから、身だしなみに気を使えて、人の話をじっくり聞ける誠実な聞き上手がいい」
「……帝国元老院の無能どもとは比較にならない、高度な実務能力と廉潔さを兼ね備えた代弁者……」
「最後に、これが一番大事なんだけど――『生活に困っていて、でも真面目にやり直したいという強い熱意がある人』。待遇はしっかり出すよ。相場の3倍の固定給に、2階の清潔な住み込み部屋つき。もちろん週休2日も各種手当も完備する。その代わり、この店を大切に守ってくれる義理堅い人がいいんだ」
ブラック労働で命を散らした前世の反省から、レンは福利厚生だけは絶対にケチる気はなかった。しっかりとした報酬と労働環境を与えれば、従業員は定着し、店を裏切らない。小売業の鉄則だ。
しかし、シエナの受け取り方は完全に臨界点を突破していた。
(住み込みの完全な庇護、平民には天文学的な破格の報酬、そして何より……神の御子の直弟子として、大陸の最先端医術を直伝される絶対の特権……! こんな条件、下町の民にとっては『泥の中から神の国へ引き上げられる救済の儀式』そのものではないですか……!)
「……承知いたしました、レン様」
シエナは深く、敬虔に頭を垂れた。その瞳には、元シルフィード家の辣腕を振るう冷徹な光が宿っている。
「帝都の最底辺から、レン様の御心に叶う『真に誠実で、泥をすすりながらも誇りを失っていない器』を、私が責任を持って選定してまいります。……決して、レン様の手を煩わせるような不届き者は近寄らせません」
「あ、うん。そこまで気負わなくていいからね? 普通に真面目な人なら誰でも歓迎だから」
レンは苦笑しながら、書き上げた募集要項をシエナに手渡した。
自分が現場で汗水垂らして働くのではなく、人に任せて自分は悠々自適に生きる。
元店長の完璧な「組織マネジメント」の歯車が、帝都の下町で静かに回り始めていた。
【元ギルド実務派ナディアと近代ドラッグストアの真髄】
翌日、旧水路街の北端にある『名もなき薬種問屋』。
改装が終わり、清潔な白漆喰とオーク材の香りが漂う店内の奥――本来なら調剤室になるはずだったバックヤードのテーブルで、レンはシエナから手渡された1枚の経歴書に目を落としていた。
「……シエナ、本当に仕事が早すぎるよ。まさか1晩で連れてくるなんて」
「レン様の直弟子となる器ですから。手ぬかりはありません」
誇らしげに胸を張るシエナの横で、レンは小さく咳払いをした。
弟子ではなく単なる雇われ店長なのだが、訂正するだけ時間の無駄だと学んでいる。
ガラリ、と引き戸が開き、控えめながらも芯のある足音が店内に響いた。
「失礼いたします。面接のお約束で伺いました、ナディアと申します」
現れたのは、レンと同年代か、あるいは1、2歳上に見える若い女性だった。
亜麻色の髪を仕事の邪魔にならないよう後ろで1つにきっちりと束ね、仕立ては古いが染み1つなく手入れされた平民のシャツとスカート。姿勢は背筋がすっきりと伸び、手入れされた指先には無駄な装飾が一切ない。何より、その鳶色の瞳には、生活に困窮している者にありがちな卑屈さや澱みがなく、澄んだ強い意志と知性が宿っていた。
(……おおっ、絵に描いたような『デキるスタッフ』のオーラだ……!)
前世のドラッグストア時代、数え切れないほどのアルバイトや中途採用の面接を担当してきたレンの「店長レーダー」が、一瞬でピンと反応した。
面接室に入ってきた瞬間の立ち居振る舞い、挨拶の声の通り方、清潔感。どれをとっても申し分ない。
「どうぞ、こちらの席へ。僕がこの店のオーナーをしている、レンです。まずは楽に座ってください」
「ありがとうございます、オーナー」
ナディアは軽く一礼し、無駄のない所作でレンの向かいの椅子に腰掛けた。
机の上に置かれた彼女の経歴書には、達筆で整然とした文字が並んでいる。
「拝見しました。帝都中央の大手商業ギルドで、資材調達と帳簿管理の責任者を務めていた……とありますね」
「はい。3年間、生薬や染料の仕入れ、倉庫の在庫回転率の管理、および店舗間の収支決算を担当しておりました」
ナディアは緊張を滲ませつつも、淀みなくハキハキと答える。
「なぜ、その大手ギルドを辞めることになったのか……聞いても構いませんか?」
「ギルドの上層部による、粗悪な生薬の横流しと帳簿の改ざんを内部告発したためです」
迷いのない、凛とした声だった。
「仕入れ原価を不正に浮かすため、湿気てカビの生えた安価な薬草を正規の良品と偽って下町の薬房へ卸す計画が進んでおりました。医薬品や生薬は、人の命を預かるものです。利益のために品質を偽ることは、商人としての誇り以前に、人間として許されないと判断し、ギルド長へ是正勧告を行いました。……結果として、私の告発は握りつぶされ、身に覚えのない横領の濡れ衣を着せられて解雇・業界から追放されました」
横で控えていたシエナが、冷徹な笑みを浮かべて補足する。
「裏は取ってあります。彼女の告発はすべて事実であり、ギルドの幹部連中が私腹を肥やすために彼女を陥れました。親族もおらず身軽ですが、ギルドからの圧力により帝都中心部での再就職を完全に妨害されていたところを、私が拾い上げました」
「なるほど……」
レンは感心するように頷いた。
真面目すぎて不正を許せず、組織の理不尽に潰された実務派。
だが、その瞳には挫折による絶望ではなく、「まだ終わっていない」「自分の力を正しく活かしたい」という強い向上心の火が消えずに燃えている。
「帳簿の管理や仕入れの実務は完璧。正義感もあって真面目。……申し分ない経歴だけど、うちが求めているのは普通の商店の店番じゃないんだ。薬種屋だからね。専門的な衛生管理や、僕が教える特殊な調剤の手順を1から覚えてもらうことになる。未経験の分野になるけれど、大丈夫かい?」
その問いに、ナディアはカッと目を見開き、身を乗り出すようにして頭を下げた。
「望むところです! 私は、自分の仕事が誰の役に立っているのか分からない帳簿の数字合わせではなく、人の命や健康に直接届く現場で、本物の技術を学びたいとずっと願っていました! どんなに厳しい修行でも、雑用でも耐えてみせます。1からすべて叩き込んでください!」
熱意、向上心、そして素直さ。
(完璧だ……! まさにこういう『仕事を任せたらバリバリ回してくれる右腕』が欲しかったんだよ……!)
レンは内心で快哉を叫んだ。
これで自分が店頭に縛り付けられる悪夢は回避された。この優秀なナディアに店舗オペレーションを仕込みさえすれば、自分はバックヤードで悠々とハーブティーを飲みながら、たまに帳簿を眺めるだけの「悠々自適オーナー生活」が確定する。
「よし、採用です。ナディアさん、今日から君がこの『名もなき薬種問屋』の店長だ」
「……えっ? て、店長……ですか!? 私が見習いではなく、いきなり店長を……!?」
目を白黒させるナディアに対し、レンは前世の店長スマイル全開で、分厚い手書きの冊子を机の上にトンと置いた。
「そう、店長。日常の接客、在庫管理、清掃、帳簿付けは全部君に任せる。待遇は求人票通り、一般的なギルド主任の3倍の固定給、2階の住み込み部屋は家賃・光熱費無料、完全週休2日制だ。残業が発生したら1分単位で割増手当を出すよ」
「は、はあぁっ!? し、主任の3倍……!? 完全週休2日……!? そ、そんな好条件、帝室の専属御用商人でもあり得ません……!」
「ブラック労働は僕の主義に反するからね。しっかり休んで、しっかり稼いで、誇りを持って働いてほしい。……その代わり、この店長マニュアルに書かれている衛生基準と接客手順だけは、完璧にマスターしてもらうよ」
差し出された冊子の表紙には、『名もなき薬種問屋・標準店舗オペレーションマニュアル(初版)』と記されていた。
ナディアがおそるおそるその表紙をめくると――。
『第1章:店舗衛生と交差汚染防止――手指消毒の6段階手順(石鹸による30秒スクラブ手洗い、流水洗浄、乾燥、アルコール擦式消毒)』
『第2章:接客の基本動線と傾聴技法――患者の主訴を遮らず、生活背景(食事・睡眠・排泄・労働環境)を言語化させる5つの質問』
『第3章:生薬・薬品の品質保持――先入れ先出しの徹底(FIFO法)、温湿度管理記録簿の運用基準』
そこには、この異世界のどの医学書にも、どのギルドの秘伝書にも載っていない、現代日本のドラッグストアが数十年かけて磨き上げた「極めて科学的かつ合理的な店舗運営の真理」が、恐ろしいほどの緻密さで記されていた。
「こ、これは……!? 手洗いに6つの段階……!? 薬を出す前に、患者の生活背景を聞き出す……!? この『先入れ先出し』という在庫回転の概念は一体……!?」
ナディアの身体が、感動と衝撃で小刻みに震え始めた。
数字と在庫管理のプロだったからこそ、このマニュアルに書かれている1文字1文字が、どれほど効率的で、どれほど無駄がなく、どれほど現場のミスを防ぐ「神の知恵」であるかが瞬時に理解できてしまったのだ。
(な、何というお方なの……!? 年下に見えるのに、この底知れない見識……! 商業ギルドの老獪な会頭たちすら束になっても足元に及ばない、完璧な商業と医療の融合組織論……!)
ナディアの鳶色の瞳に、崇敬と猛烈な学習意欲がメラメラと燃え盛る。
「オ、オーナー……! 素晴らしいです……! このような至高の教本を預けていただけるのなら、私、骨に刻み込む勢いで今夜中に丸暗記して完璧に実行してみせます……!」
「あ、いや、丸暗記しなくても手元に見ながらやってくれればいいからね? 無理は禁物だよ」
引くほどやる気満々な新店長の姿にレンは苦笑しつつも、これで念願のスローライフへ1歩近づいたと、心から安堵の息を吐くのだった。
【手玉に取られる軍務卿と一本化の交渉】
ナディアへの初期研修を夕方に終えたレンは、予定通り帝都の居城へと戻り、セシリアの私室の扉を自らノックした。
「セシリア、入るよ」
「……どうぞ」
扉を開けると、暖炉の火が赤々と燃える室内で、軍服の上着を脱いだセシリアがソファに腰掛けていた。卓上には赤ワインのグラスと、東部第7区の特務部隊から上がってきたであろう1枚の報告書。
部屋に漂うわずかな緊張感を察しながらも、レンは動じることなく、対面のソファへと自然な所作で腰を下ろした。
「東部の店、カトレアから報告は届いているかい?」
レンから切り出された先手の一言に、セシリアは紫紺の瞳をわずかに細めた。
「……ええ。午後に顔を出したけれど、貴方の姿は影も形もなかったわ。カトレアが仁王立ちで『レン様は調剤室で国家機密の抽出中』と大根役者のような嘘をついて私を止めようとしたけれど……部屋はもぬけの殻。私の目を盗んで、どこへ抜け出していたのかしら?」
セシリアの声音には、出し抜かれたことへの微かな苛立ちと、夫の真意を探る怜悧な知性が同居していた。
だが、レンは苦笑を浮かべつつ、卓上のポットから自分のカップへ手慣れた手つきでハーブティーを注いだ。
「カトレアには悪いことをしたよ。彼女の嘘が下手なのは百も承知だったから、君が東部の店に来たらすぐにバレるよう、最初からあそこに置いたんだ」
「……どういうことかしら?」
「セシリア。君が東部の店を用意してくれたことには、心から感謝しているよ。でも……周囲半径200メイルに帝国軍の特務部隊を80人も平民偽装させて配置するのは、さすがに過保護が過ぎる」
レンがさらりと口にした「兵力と配置の正確な数字」に、セシリアの眉がピクリと動いた。
「あの規模の殺気と防諜網が張られた区画に、下町の一般庶民が気楽に薬を買いに来られるわけがない。あそこは『帝国大公の公式な息抜き場』という名の、完璧な囮だよ。……だから僕は、シエナに頼んで旧水路街の北端に、本物の庶民が来られる清潔な実店舗を1軒、別で手配してもらった」
隠すでもなく、言い訳をするでもなく、淡々と事実とロジックを提示するレン。
セシリアはワイングラスの脚を指先でなぞりながら、ふっと冷ややかに、しかし面白そうに目を細めた。
「……すべて見抜いた上で、あの店を囮に使ったというわけね。元公爵令嬢の手引きで、私の目の届かない場所に本拠地を作るとは……ずいぶんと私を軽んじてくれたものだわ」
「軽んじてなんていないさ。君の防諜能力を誰よりも高く評価しているからこそ、こうして夜には真っ直ぐ君の元へ帰ってきて、自分から種明かしをしているんじゃないか」
レンは温かいハーブティーを一口含み、セシリアの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「それにね、セシリア。僕は君との約束を破る気も、君の目を盗んでコソコソする気もないんだ。そもそも、僕自身があの店で毎日カウンターに立つつもりすらない」
「……なんですって?」
予想外の言葉に、セシリアがわずかに身を乗り出す。
「僕がやりたいのは現場の過労死労働じゃない。今日、旧水路街の店に優秀な若い女性を1人、店長として正式に採用したよ。元商業ギルドで不正を告発して追放された、真面目で実務能力の高いナディアという子だ。日々の店番、接客、在庫管理はすべて彼女に任せる。僕はオーナーとして、時々ふらっと指導や帳簿のチェックに行くだけさ」
「……店長を雇い、自分は裏方に退く……?」
「そう。僕が帝都で本当にやりたいのは、下町の医療水準の底上げと、現場のリアルな課題の吸い上げなんだ。東部の店には表向きの大公として定期的に顔を出すし、君が僕の身の安全を心配して目を光らせたいなら、旧水路街の店の裏帳簿も、ナディアの身元調査結果も、すべて君に共有する」
レンは胸ポケットから1通の書類を取り出し、テーブルの上を滑らせてセシリアの前へと差し出した。
そこには、旧水路街の店舗の登記名義、ナディアの経歴書、そしてレンが書き上げたばかりの『店舗衛生・標準オペレーションマニュアル』の写しが、完璧な体裁でまとめられていた。
「最初から君を排除するつもりなんてないよ。むしろ、帝国の軍務卿である君の公認とバックアップがなければ、下町で新しい薬の流通を試すなんてリスキーなことはできない。……どうかな、セシリア。この通り、手の内はすべて明かしたよ」
最初から隠蔽などせず、セシリアの知性と独占欲を計算に入れた上で、完璧な情報開示と協調体制を提示する。
前世で巨大組織の幹部や取引先の重鎮を手玉に取ってきた、大人のビジネス交渉だった。
セシリアは差し出された書類に目を通し、やがて小さく、感嘆の息を漏らした。
「……はあ。本当に、敵わないわね、貴方には」
セシリアは書類を机に置くと、立ち上がり、ゆっくりとレンの座るソファの前へと歩み寄ってきた。
昼間の冷徹な軍務卿の顔は崩れ、紫紺の瞳には、愛おしさと底知れない執着が静かに揺らめいている。
「私の防諜網を逆手に取り、囮を立て、本拠地を別で押さえ、店長を雇って仕組み化し……その上で、すべての情報を手土産にして私の懐へ飛び込んでくる。……そんなスマートな盤面を見せつけられては、怒る隙すらないではないの」
セシリアはレンの隣に腰を下ろすと、躊躇なくその細い肩をレンの腕に預けてきた。
上着を脱いだ薄いシャツ越しに、しなやかな体温と甘い香油の香りが伝わってくる。
「……でも、レン。貴方、肝心なことを忘れていないかしら?」
「え?」
セシリアの白い指先が、レンのシャツの襟元へ音もなく伸びた。
「私への相談なしに別拠点を動かしたのは事実よ。そして……数日前、貴方は私に言ったはずだわ。『この無茶を内密に通してくれるなら、交換条件として、君のお願いを何でも1つ引き受ける』――とね」
耳元に触れる吐息が、先ほどまでのビジネスの空気を一瞬で甘やかな熱気へと塗り替えていく。
「大公の名にかけたあの約束……帳消しにするつもりはないわよね?」
レンの計算通りに盤面は美しく収まった。
だが、この肉食系皇女が最後に要求してくる「対価」だけは、どんな完璧なビジネスロジックでも相殺できそうになかった。
耳元に触れるセシリアの甘い吐息に、レンは苦笑しながらも、ブレずに盤面の総仕上げを切り出した。
「もちろん、嘘は吐かないよ。……だからこそ、無駄な2重管理はやめよう。セシリア、東部の店はすべて引き払ってほしい」
「……東部の店を?」
至近距離で見つめてくるセシリアの紫紺の瞳に、わずかな意外の色が宿る。
「ああ。あそこに80人もの特務部隊を張り付かせておくのは、帝国の貴重な防諜リソースの完全な無駄遣いだ。僕の意図が君に伝わった以上、あんな物々しい囮を残しておく意味はないよ。すべての資材と人員は原隊へ復帰させてくれ。その代わり――」
レンはセシリアの目を真っ直ぐに見据えた。
「僕の身の安全は、カトレアを旧水路街の店へ常駐させることで担保する。彼女は王国の近衛副隊長であり、アッシュフォード侯爵令嬢だ。武力も申し分なければ、外部に対する抑止力としても申し分ない。……そして何より、僕がその店で何をしているのか、君にはカトレアを通じて逐一報告が入るようにすればいい」
セシリアはしばらくレンの顔を品定めするように見つめていたが、やがてフッと満足そうに喉を鳴らした。
「なるほどね。2重管理を廃して1本化し、私への監視役としてカトレアを充てる、と。……いいでしょう。東部の擬装配置は明日未明をもって即時解除させます。ただし――」
セシリアの指先がレンの頬をなぞり、首元へと滑り落ちる。
「私の『お願い』の権利は、まだ使っていないわ。……これは、もっと相応しい夜のために取っておくことにするわね」
艶やかな予告を残し、セシリアはふわりと身体を離した。
ギリギリのところで理性を保ったまま夜間交渉を制したレンは、胸の内でそっと安堵の息を吐き、自室へと戻るのだった。
【名もなき薬種問屋の布陣】
翌朝、帝都の北端――旧水路街『名もなき薬種問屋』。
「――というわけで、カトレア。東部の店は畳んだから、今日から君にはこの店の警護兼、裏方のサポートに入ってもらうよ」
「はっ! レン様をお守りするためならば、火の中水の中、例え下町の肥溜めの底であろうと馳せ参じます!」
改装された清潔な店内で、近衛の制服から動きやすい平民風のシャツと革鎧に身を包んだカトレアが、ビシッと胸に手を当てて敬礼した。相変わらず忠誠心と武力ステータスだけが限界突破している。
そこへ、店の奥から清潔な白エプロンを身につけた新店長・ナディアが、手洗いマニュアルを復習しながら歩み出てきた。
「オーナー、おはようございます。すでに朝の清掃と手指消毒の6段階手順、店内の温湿度記録は完了しております。……そちらの方は?」
「おはよう、ナディアさん。彼女はカトレア・アッシュフォード。うちの専属警護官だ。普段は店の裏手や入り口付近で不審者の警戒に当たってもらうけど、重い生薬樽の運搬や力仕事があれば遠慮なくこき使っていいからね」
「こき使う……!? め、滅相もございません! アッシュフォード侯爵家の……王国の近衛副隊長様を人足のように使うなど、平民の私にはとても……!」
貴族の家格に詳しい元商業ギルドのナディアは、カトレアの正体を知るや否や顔を真っ青にして直立不動になった。
しかし、当のカトレアは腕を組み、不敵な笑みを浮かべて胸を張る。
「構わん、ナディアとやら! 私はレン様の側室の座を狙う筆頭候補であり、この城を守る最強の盾だ! 雑用だろうと大工仕事だろうと、レン様の事業を支えるためならば喜んで粉骨砕身しよう! 力仕事はすべて私に任せるがいい!」
「せ、側室の座……!?」
ナディアの目が丸くなり、すかさずレンが額を押さえて深いため息をついた。
「はいはい、カトレアの冗談は聞き流していいからね。彼女、腕っぷしは大陸随一だけど思考回路が脳筋だから。……さあ、無駄話はここまでにして、今日はいよいよ開店初日の最終確認だ」
「は、はいっ!」
ナディアは一瞬でビジネスモードへと表情を引き締め、手元のメモ帳を構えた。
レンが指導し、ナディアが実務を回し、カトレアが物理で守り、シエナが裏から睨みを利かせる。
帝国元老院も他国の密偵も気づかない、帝都の路地裏の一角で、元ドラッグストア店長による完全委任型店舗の看板が、いよいよ静かに掲げられようとしていた。
【魂の洗礼と最初のお客様の問診】
「は、はいっ!」とメモ帳を構えて店内チェックへ小走りに向かったナディアと、その背後を「うむ、万全の警備体制を敷くぞ」と意味もなく勇ましく追っていくカトレア。
2人が店頭へ出たのを見届けたレンは、奥の茶飲みスペースのテーブル席を指差し、ずっと壁際で控えていたシエナに声をかけた。
「シエナ、ちょっとそこに座って」
「……はい?」
シエナはわけがわからないといった風に、小首をかしげた。
元公爵令嬢として、そしてノア・ホールディングスの契約見習い・影の補佐官として、主人が立っている横で自分だけ椅子に腰掛けるなど、礼法上あり得ないことだったからだ。
しかし、レンは何も言わず、湯気の立つ陶器のポットを傾けた。
手慣れた無駄のない所作で、乾燥させたカモミールとミントをブレンドした琥珀色のお茶を2つのカップへと注ぎ分ける。清涼感と優しい甘みを湛えた湯気が、ふわっと2人の間に立ち上った。
レンはそのうちの1杯を、シエナの前のテーブルにコトリと置いた。
「いいじゃないか。たまにはくつろいで、一緒にお茶でも飲もうよ」
「れ、レン様自らお茶を……!? め、滅相もございません! 私ごとき契約見習いが、筆頭株主にして大公閣下の手ずから淹れられたお茶をいただくなど、不敬にも程が――」
シエナは顔を真っ青にして激しく手を振ったが、レンはすでに自分の分のカップを手に取り、ふうふうと息を吹きかけて一口啜っていた。
「はい、座った座った。ここは宮殿でもなければ、公爵家の謁見室でもないんだからさ。肩書きなんて全部関係ないよ。……それに、この店の手配からナディアさんのスカウトまで、一番泥をかぶって動いてくれたのはシエナじゃないか」
レンは穏やかに目を細め、前世の「優秀なスタッフを労う店長」の顔で笑いかけた。
「君はいつも気を張りすぎだよ。セシリアの牽制も、帝都の裏社会の根回しも、完璧にやってくれて本当に助かっている。でも、無理して倒れられたら元も子もないからね。ほら、冷めないうちに飲んで。胃に優しいブレンドにしてあるから」
「あ…………」
シエナの紫紺の瞳が、大粒の涙を湛えて激しく揺らぎ始めた。
(まただ……またこのお方は、こうして当たり前のように……)
かつて実家が破滅し、大理石の床に額を擦り付けて命乞いをした自分。
誰もが没落貴族の娘として見下し、使い捨ての道具として扱おうとする中で、この少年だけは「安全な住まい」を与え、対等な人間として接し、あまつさえ今、帝国の最高権力者の座にいながら、ただの一介の部下に手ずからお茶を淹れて労っている。
冷徹な元令嬢の仮面が、温かい湯気の向こうで音を立てて崩壊していく。
「あ、ありがとうございます……レン様……っ!」
シエナはおずおずと椅子に腰を下ろすと、震える両手で恐る恐るカップを持ち上げた。
琥珀色の液体を口に含むと、ミントの爽快感とカモミールの柔らかな甘みが、張り詰めていた神経を優しく解きほぐしていく。
(ああ……なんて温かくて、慈悲深いお味……。このお茶は、ただの薬草茶ではないわ。神の御子が私に与えてくださった、魂の洗礼……! 私はこの命、この魂の最後の1滴まで、レン様のためだけに使い尽くすと誓う……!)
感動のあまり、シエナの目からポロポロと涙がこぼれ落ち、カップの縁を濡らした。
「えっ、ちょ、シエナ!? なんで泣いてるの!? 熱すぎた!? それとも味が口に合わなかった!?」
「い、いいえ……っ! 美味しゅうございます……! 生まれてこの方、これほど温かく、尊いお茶をいただいたことはございません……っ!」
「そ、そう? ならいいんだけど……そんな大袈裟に泣くほどのもんじゃないよ……?」
単に「よく働く部下に1杯おごった」だけのつもりの元店長と、
「神の恩寵に情緒を完全に粉砕された」狂信の右腕。
2人の決定的な認識のズレを乗せたまま、下町の静かな朝の時間は、湯気と共に穏やかに流れていくのだった。
【重すぎる3大案件と魂のカウンセリング】
涙ぐむシエナに清潔な手拭いを差し出しながら、レンはふと思いついたようにポンと手を打った。
「あ、そうだ。ちょうどいいや。シエナ、この店の『最初のお客さん』になってもらえないかな?」
「……えっ? 私が、最初のお客様……ですか?」
シエナは涙を拭い、濡れた紫紺の瞳を瞬かせた。
「そう。まだ開店前だし、いきなり本番のお客さんを迎える前に、ナディアさんにも問診の流れを見せておきたいんだ。……というわけで、さっそくカウンセリングを始めます。シエナさん、最近、何か困ったことはないかい? 体の不調でも、普段の悩み事でも、何でもいいんだよ」
レンはカウンター用の木製スツールを引き寄せ、腰を下ろした。
柔らかな笑みを浮かべ、相手の目線に合わせてわずかに身を乗り出す。前世で「相談しやすい薬局の店長」として近隣の住民から絶大な信頼を集めていた、プロの傾聴姿勢だった。
(普段の悩み事……!? レン様自らが、この私のためだけに、その至高の御耳を傾けてくださるというの……!?)
シエナの胸の奥で、再び猛烈な熱波が吹き荒れた。
神の御子による個人的な問診。この世のどの国王も、皇帝すらも受けることの叶わない絶対の特権だ。
シエナは背筋をピンと伸ばし、カップを机に置くと、極めて真剣な面持ちで口を開いた。
「……はい。実は、夜も眠れぬほどの深刻な悩みが、3点ほどございます」
「おお、3点も。遠慮なく言ってごらん。睡眠不足は万病の元だからね」
レンがメモ用紙とペンを構える。
(肩こりかな? 目の疲れかな? それとも帝都に来て環境が変わったことによる軽度の胃腸炎かな?)などと呑気に予想していたレンに対し、シエナの口から飛び出したのは、国家を揺るがす特大の案件だった。
「第一に、セシリア殿下の夜間侵入に対する迎撃体制の限界です」
「……はい?」
レンのペンの先が、ピタリと止まった。
「殿下は軍務卿の権限を乱用し、夜半を過ぎるとレン様の私室へ単身で強行突入を試みてこられます。現在は私とカトレアの交代制で辛うじて水際阻止しておりますが、先夜のようにレン様がご自身で扉を開けてしまわれては、防壁が内側から崩壊いたします。早急に、私室の扉に3重の暗号魔導錠を設置し、レン様の寝台の周囲に結界を張るべきかと」
「ちょ、ちょっと待って? それ、健康相談じゃなくて単なるうちの治安問題じゃない……?」
レンの引き攣ったツッコミを、シエナは冷徹な元令嬢の眼差しで受け流し、さらに指を2本立てた。
「第二に、クレイズ神聖王国に残してきたエレオノーラ様からの定時連絡の頻度です」
「あ、姉上……?」
「はい。神聖伝令鳥による親書が、1日に5通届いております。『レンは野菜を食べているか』『セシリアという泥棒猫はどの距離まで近づいたか』『私の似顔絵版画を毎朝拝んでいるか』など、1通あたりの羊皮紙の長さが3メイルを超えており、返信の暗号化と解読作業だけで私の睡眠時間が削られております。……いっそのこと、姉上宛てには『レン様は元気にキャベギオン軍αを服用中』という定型文の木版画を作成し、自動返信プロトコルを構築すべきではないかと」
「姉上の愛が物理的に重い……! いや、それは僕からも手紙で注意しておくから……!」
レンのこめかみにツーツーと冷や汗が伝う。
そしてシエナは、最も深刻そうに眉をひそめ、胸元をぎゅっと押さえて3点目を切り出した。
「そして……第三の悩みが、最も深刻でございます、レン様」
「な、何だい……? これ以上、何があるっていうの……?」
「ここ数日、レン様のお姿を拝見するたびに、胸が締め付けられるように熱くなり、動悸が止まらなくなるのです」
「――えっ!?」
シエナは頬をほんのりと朱に染め、すがるような瞳でレンを見つめた。
「朝、レン様がおはようと微笑んでくださるだけで脈拍が跳ね上がり、先ほど手ずからお茶を淹れていただいた瞬間などは、息が止まるかと思いました。……これは、帝都の瘴気による未知の心疾患なのでしょうか? それとも、神の御子の神聖なる魔力にあてられたことによる、霊的な変異なのでしょうか……!?」
真剣そのものの表情で「未知の病」の治療法を求めてくるシエナ。
レンは目をパチクリとさせ、思わずまじまじと彼女の顔を見つめた。
そして、照れ臭そうにぽりぽりと頬を掻きながら、包み隠さず口を開いた。
「……えーと、シエナ。それって、はっきり言って恋煩いだよね?」
「……こ、こい……わずらい……?」
シエナが雷に打たれたように固まる。
「うん。ひょっとして、僕に好意を持ってくれているのかなって。……まあ、僕も前世――じゃなくて、昔からそういう色恋の経験はあまりないから、正しいアドバイスができるかどうかはよく分からないんだけどね」
レンは少し困ったように笑いながら、湯気の立つお茶のカップに視線を落とした。
「でもさ、1人で胸の中に溜め込んで悶々としているから息が苦しくなるんじゃないかな。ほら、カトレアを見てごらんよ。『側室の座を狙う!』って、自分の理想や欲望をあけすけに口に出しているでしょ? あそこまで極端じゃなくてもさ、思っていることを素直に口に出してしまえばいいんじゃないの。その方がずっと気分が楽になると思うよ」
レンとしては、普段から真面目すぎて自分を押し殺しがちな元令嬢への、親身で飾らないアドバイスのつもりだった。
だが――。
言われたシエナの脳内では、とてつもない地殻変動が起きていた。
(れ、レン様が……私の胸の動悸を『好意』と見抜き、受け止めてくださった……!? しかも『思っていることを口に出してしまえばいい』……!? それはつまり……『私への思慕を隠さず、堂々と側室の名乗りを上げなさい』という、神の御子直々の許し……事実上の求婚承諾の儀……!?)
「あ……あああ……っ!」
シエナの顔が、耳の先まで一瞬で真っ赤に沸騰した。
元公爵令嬢としての矜持も、冷徹な事務方の仮面も完全に融解し、湯気が出そうなほど真っ赤な顔を手で覆って身悶えする。
「お、仰せの通りに……! 私めのような没落の身でありながら、レン様への不敬なる慕情を……これからは、カトレア殿に負けぬ熱量で、白日の下に叫ばせていただきます……! レン様、一生涯お仕え……いえ、お慕い申し上げます……っ!」
「えっ!? いや、そこまで重く受け止めなくてもいいんだけど!? 気分転換の話だよ!?」
そこへ、店の奥からメモ帳を抱えたナディアが、感銘を受けたように目を輝かせて戻ってきた。
「素晴らしいです、オーナー! 患者が心の奥底に無自覚に抑圧していた感情を、一切の偏見なく的確に言語化し、解放へと導く対話術……! 形式的な問診票では絶対に辿り着けない、魂のカウンセリングですね!」
「ち、違うんだナディアさん! 今のは単なる人生相談っていうか、雑談だから! メモを取らないで!?」
慌てて手を振るレンと、感涙にむせぶシエナ、そして熱心に筆を走らせるナディア。
開店を控えた『名もなき薬種問屋』のバックヤードは、朝から早くも波乱の熱気に包まれていた。




