21話:『南方の呪いと白い針状結晶、鉄壁のブラックボックス』
【公爵邸の出立前夜と同衾警護の具申】
ベルフォール公爵本邸――当主執務室。
「カトレア、此度の四季巡回、お前をレンの専属護衛隊長に任ずる。帝国をはじめとする他国での身辺警護、一切の抜かりは許さんぞ」
エドワードの厳命を受け、カトレアは寸分の乱れもなく背筋を伸ばし、鋼の手甲を胸元に打ち当てた。
「はっ! エドワード団長。レン様の身の安全は、このカトレアが命に代えてもお守りいたします。我がアッシュフォード侯爵家の誇りにかけて、不敬なる輩の接近は一切許しませぬ」
実直極まる騎士の礼。名門侯爵家の気品と、軍人としての規律が同居した完璧な佇まいだった。
だが、敬礼を解いてレンへ向き直ったカトレアは、表情一つ崩さぬ真顔のまま、至極当然といった口調で言葉を続けた。
「……レン様。長旅に備え、滋養のつく携帯食と白湯の用意はすでに整えてあります。ご無理だけはなさらぬようお願いいたします。――つきましては、滞在先における夜間寝所防衛について、直属警護官として1点、緊急の具申がございます」
その前置きを聞いた瞬間、隣で腕を組んでいたエドワードの顔筋がピクリと痙攣した。
「おい、待てカトレア、貴様まさか――」
「帝国の皇女をはじめ、他国の勢力が夜間に寝所へ侵入し、政治的既成事実を強奪せんと謀る可能性は極めて高いと推測されます。不意の奇襲および毒殺を未然に防ぐため、自分はレン様と同じ寝台、至近距離にて『同衾』し、間隙なき接触防護を執るべきであると愚考いたします」
言いきった。一切の迷いもなく、至極真面目な軍事報告のトーンで。
「……またそれか貴様ぁっ!!」
エドワードは堪らず両手で顔を覆い、深く、重いため息とともに胃のあたりをぎゅっと押さえた。
日頃の近衛の定期報告のたび、この融通の利かない優秀な部下は「レン様の警護状況」の末尾に必ず「夜間における同衾警護の絶対的必要性」を真顔でねじ込んできていたのだ。その都度「却下だ」「二度と申告書に書くな」と跳ね除け、胃痛を堪えて握り潰してきたというのに、まさか公爵家の当主執務室、それもエレオノーラの目の前で平然とぶち撒けるとは思わなかった。
「貴様は……! 俺の胃壁をこれ以上削れば気が済むのか! 日頃からあれほど『公私混同甚だしい戯言を申告書に紛れ込ませるな』と叩き込んできたはずだろうが! よりにもよってこの場で持ち出すなど、軍規どころか正気沙汰とは思えんぞ!!」
上官の悲痛な叫びにも、カトレアは微動だにせず直立不動のまま胸を張る。
「滅相もございません、エドワード団長。自分はただ、アッシュフォードの武人として最も合理的かつ隙のない防衛陣形を――」
「黙りなさい、アッシュフォードの小娘」
氷点下の声が、執務室の空気を一瞬で凍りつかせた。
エレオノーラが手にしていた紅茶のカップを、音もなくソーサーへ戻した。
紫紺の瞳が細められ、底知れぬ冷酷な光がカトレアを真正面から射抜く。開かれていた扇子が、ピシャリと小さく乾いた音を立てて閉じられた。
「我が弟の寝所に、騎士風情がその身を滑り込ませようなどと……どの口が仰いましたの? 侯爵家の血筋程度で、このベルフォールの直系に手を伸ばせるとでも思いましたこと?」
「エレオノーラ様、自分は――」
「弁解は聞きませんわ。レンに近づく帝国の皇女たちも目障りですが……主の背後から平然と爪を立てようとする身内の飼い犬ほど、始末が悪いものはありません。次その無様な妄言を口にしたら、貴方の首とアッシュフォード家の領地、どちらが先に吹き飛ぶか試すことになりますわよ」
容赦のない絶対零度の恫喝に、さしものカトレアも喉を詰まらせ、青ざめた面持ちで深々と頭を垂れた。
「……申し訳ございませんでした。発言を撤回いたします」
公爵家筆頭としての圧倒的な威圧感。
レンは背筋に冷汗を流しながら、兄の胃痛と姉の殺気によってどうにか押し留められた状況に、そっと息を吐き出した。
(兄上も姉上も……というか、カトレアさん、兄上の定期報告でもずっとその話をしてたのか……)
エドワードが日頃から抱えていた胃痛の正体を察し、レンは兄へ同情の眼差しを向けつつ、咳払いを1つしてその場を収めた。
「……あ、あの、カトレアさん。夜間の警備は部屋の外の扉前、あるいは隣室の控えの間でお願いします。それで十分に安全は確保できますから」
「……了解いたしました、レン様。外縁より命を賭して警戒にあたります」
カトレアは悔しさを微塵も表に出さず、規律正しく一礼した。
「ふん。出立前からこれでは先が思いやられますわね」
エレオノーラは冷然とカトレアから視線を外し、レンへと言葉を向けた。
「……護衛のカトレア、外務のシエナ、侍女のリリア。陣容としてはこれで確定ですわ。ですが手綱を握るのは貴方ですわよ、レン。帝国の貴族どもだけでなく、身内の欲にも足をすくわれないよう、精々気を引き締めて行きなさい」
「はい、肝に銘じます……」
レンは深く息を吐き、机の上の書類をまとめた。
身内の張り詰めた空気とそれぞれの思惑を背負い、ノア・ホールディングスの移動中枢を乗せた馬車列は、いよいよ最初の巡回地――ヴァレンティノ帝国の帝都へ向けて出立した。
【馬車内の密議とクサリニオイ草の正体】
「レン様。帝国元老院から事前に届いていた関税協定の草案ですが、やはり第3条の裏に罠が仕込まれていましたわ」
向かいの革張りシートで、シエナが冷ややかな手つきで羊皮紙をめくっていた。
その膝元には、セシリアを通じて事前に共有されていた帝国の内部資料が、整然と積み上げられている。
「現地法人を立ち上げた際、原材料の調達を帝国の御用商人に限定させる条項が紛れ込んでいます。我が社のサプライチェーンに介入する気満々ですわね。初手で完全に叩き潰しておきます」
「助かるよ、シエナさん。そのあたりは最初から妥協ゼロで頼む」
「ええ、お任せを。……それと、こちら。セシリア殿下から非公式に相談されていた、帝国南部の『黒樹海大森林』に関する国土開拓と調査団の記録ですが」
シエナが差し出してきた1枚の報告書を、レンは受け取った。
そこには、帝国が推進する未開地開発プロジェクトの過酷な現状が記されていた。
「調査団・工兵隊の損耗率:全体の約4割が原因不明の悪性高熱により戦線離脱、または衰弱死」
「南方の未踏地域に眠る鉱物資源や新たな農地を開拓しようと、帝国は工兵や調査団を送り込んでいますが……完全に頓挫していますわ」
シエナがわずかに眉を寄せ、呆れたように息を吐く。
「現地の医官たちは『森の瘴気』だの『土地の呪い』だのと報告書を濁すばかりで、派遣された人員が次々と高熱で倒れていく。セシリア殿下も、ノア社のペニシリンがこの熱病を鎮め、開拓を前進させる奇跡にならないかとすがる思いで打診してきていましたけれど」
「……いや、ペニシリンじゃ無理だ」
レンは紙面を見つめたまま、静かに首を横に振った。
数日おきに襲う猛烈な悪寒と40度を超える高熱。貧血と脾腫。
医学を知るレンには、その正体がはっきりと見えていた。
(未開の森林や湿地に潜む、ハマダラカの媒介……単細胞の原虫が引き起こすマラリアだ)
ペニシリンは細菌の細胞壁を破壊する薬であって、原虫には逆立ちしても効かない。
もし帝国に到着して「万病の薬」と期待されているペニシリンを調査団に投与し、まったく効かずに作業員たちが倒れ続ければ、ノア社の信用に関わる。
だが、逆にこの熱病を確実に封じ込める特効薬を持ち込むことができれば、帝国が喉から手が出るほど欲している「南方の安全な開拓と資源開発」の主導権を完全にこちらが握れる。
「少し、考えたいことがある」
レンは報告書を机に置き、シートに背を預けて目を閉じた。
車輪の規則的な振動を背に受けながら、意識の奥へと沈んでいく。
(対抗手段は2つ。南米原産のキナの樹皮から取るキニーネか、ヨモギの近縁種であるクソニンジンから取るアルテミシニンだ)
当てもなくキナの木を探す時間はない。狙うべきは、道端のどこにでも生えているはずの雑草だ。
レンは意識の奥で、外部の知識へアクセスを繋いだ。
今日1回目の検索。頭の芯がわずかに熱を帯び、目当ての情報が引き出される。
――ヨモギとの違いは、細かく羽状に裂けたニンジンのような葉と、樟脳に似た強い刺激臭。
――有効成分は熱に弱く、60度以上で分解する。煮沸は厳禁。抽出には低沸点溶媒を用いるべし。
(やっぱりだ。煎じ薬じゃ熱で成分が死ぬ。沸点の低いエーテルで、温度をかけずに抽出すればいい。麻酔薬用に作ったジエチルエーテルがそのまま使える)
目を開けたレンは、座席の足元に積んであった木箱を引き寄せた。
王都を出る直前に集めさせておいた乾燥標本の中から、独特の刺激臭を放つ1枚の枯れ草を取り出す。
『クサリニオイ草』。
レンは指先でその葉に触れ、意識を集中させて鑑定を走らせた。
視界の奥でかすかに光が走り、脳内の植物データと目の前の雑草が寸分の狂いもなく重なり合う。
『対象:クサリニオイ草(神聖王国採取)』
『照合結果:地球種「クソニンジン」と一致』
『有効成分:アルテミシニン確認』
(……よし、これだ)
レンは思わず小さく息を呑んだ。
王都の河原に生えていたこの臭い雑草こそが、熱病を完封する特効薬の原木。気候の似通った帝国の荒れ地や街道沿いにも、ただの雑草としていくらでも生えているはずだ。
「……レン様? その枯れ草を熱心に見つめて、どうされたのですか?」
向かいからシエナが、整った眉を微かにひそめて尋ねてきた。
「シエナさん。さっきの調査団の報告書……セシリア殿下も頭を抱えていた例の熱病だけど、特効薬の目処が立ったよ」
シエナの碧眼がすっと細められた。
旧公爵令嬢としての鋭敏な政治的嗅覚が、即座にその言葉の重みを捉える。
「……その、手の中の悪臭を放つ雑草が、ですの?」
「そう。低温のエーテルで抽出する成分だ。ペニシリンでは絶対に治せないあの熱病を、劇的に完封できる。……帝国に着いたら、セシリア殿下や元老院に、ペニシリン以上の切り札として提示できるはずだ」
シエナの唇が、冷たく、そして美しく弧を描いた。
「素晴らしいですわ、レン様。ペニシリンの配給権だけでなく、帝国が国家事業として推進している南部開発の生殺与奪までこちらが握れます。……さっそく、契約書の条項に『南部未踏地開発における医療独占供給権』を盛り込んでおきましょう」
「あ、うん、相変わらず容赦ないねシエナさん……」
苦笑いするレンの隣で、リリアが「レン様、お薬のお時間です」と、絶妙なタイミングで胃腸薬の小瓶を差し出してくる。
外を守るカトレアの確かな警護。
車内を支えるシエナの知略とリリアの配慮。
そして手中に収めた、帝国を動かす新たな特効薬の確証。
移動する中枢を乗せた馬車は、平和裏の巡回先である覇権国家ヴァレンティノ帝国の国境へ向けて着実に進んでいた。
【野営地の天幕と純白の針状結晶】
帝国国境の手前、街道沿いに設営された使節団の天幕。
夜の冷気の中、レンは天幕の奥に即席の作業台を組み上げ、持ち込んできたガラス器具を並べていた。外ではカトレア率いる近衛が「野営地における不敬輩の排除」と称して厳重な警戒線を張り、天幕の入口にはリリアが湯冷ましを乗せた盆を手に控えている。
作業台の木箱から取り出したのは、王都の河原で採取させ、天日乾燥させておいた『クサリニオイ草』の乾燥葉だ。
「……まずは前処理からだ」
レンは乾燥した葉と花穂を乳鉢に移し、すりこぎで手早くすり潰していく。
独特の青臭さと、樟脳に似たツンと鼻を突く精油の刺激臭が幕内に広がる。細かく粉砕して表面積を広げるが、摩擦熱を持たせないよう慎重に力を加減した。アルテミシニンは熱に弱い。高温に晒せば、その薬効の中核たる過酸化構造があっけなく崩壊してしまうからだ。
「リリア、遮光したガラスフラスコと、例の溶媒を取ってくれるかい」
「はい、レン様。……この、鼻に抜けるような匂いのする液体ですね」
リリアが両手で差し出してきたのは、褐色のガラス瓶。中に入っているのは、以前麻酔薬として合成し、密閉保管してあった低沸点有機溶媒――ジエチルエーテルだ。
「そう。沸点が35度しかない。体温程度のぬるま湯でも揮発するから、火気は絶対に厳禁だ」
「承知いたしました。明かりはすべて蓄光石と遠くの油灯のみにしてございます」
手際よく動くリリアに頷き、レンは粉末状にしたクサリニオイ草を丸底フラスコへ漏斗で流し込み、そこへジエチルエーテルを注ぎ入れた。
緑色の粉末が、澄んだエーテルに浸される。
フラスコをゆっくりと旋回させると、葉に含まれる脂溶性の成分が溶け出し、透明だった液体がみるみるうちに濃い黄緑色へと染まっていった。
「前世の中国で、屠呦呦博士がノーベル賞を獲った歴史的なブレイクスルーと同じだ……。水でいくら煎じても熱で壊れる。だが、この極めて低い温度で揮発するエーテルを使えば、熱を一切かけずに有効成分だけを引っ張り出せる」
数十分の浸出の後、ガラス漏斗にろ紙をセットし、不溶性の繊維質を漉し落とす。
フラスコの底に残ったのは、不純物を含んだ濃緑色のエーテル抽出液だ。
「ここからが分離工程だ」
レンは抽出液を分液漏斗に移し、そこへ薄い炭酸水素ナトリウム水溶液を少量注ぎ入れた。
分液漏斗の栓を押さえ、手首を返して数回、優しく上下に反転させる。内部に溜まるエーテルの蒸気圧を抜くため、時折コックを上に向けて「プシュッ」と内圧を逃がす。
「酸性の不要な色素や樹脂分をアルカリ水溶液側に移行させて切り捨てる。……よし、分離した」
静置すると、比重の違いによって液が綺麗に上下2層に分かれた。
下層の濁った水相をコックからビーカーへ抜き取り、上層に残ったエーテル層だけを別のフラスコへと回収する。
残るは、濃縮と再結晶化。
レンは浅い平底のガラスバットにエーテル溶液を薄く注ぎ、人肌程度のぬるま湯を張った金盥の上に浮かべた。
わずか30数度。ぬるま湯の熱だけで、エーテルがシュワシュワと微細な泡を立てて気化していく。揮発したガスが天幕の外へ抜けるよう、幕の裾を開けて風を通す。
溶媒が蒸発するにつれ、バットの底に残った油状のエキスが急激に濃縮されていく。
そこへ、あらかじめ冷やしておいた極少量の高純度アルコールを垂らし、ガラス棒の先でバットの内壁をチチチ……と細かく擦った。
「核を作って、一気に冷やす……」
氷水を入れた冷盤の上にバットを移す。
温度の急降下とともに、薄黄色の液体の中で分子が秩序正しく整列を始めた。
キラリと、光が走る。
ガラス棒で刺激した箇所を起点に、液の底から純白の結晶が放射状に伸びていく。
まるで冬の朝、窓ガラスにびっしりと張り付く霜の結晶のように――雪のように白い、極めて微細な針状結晶がバットの底一面を埋め尽くしていった。
「……できた」
レンはガラス棒を置き、息を吐いた。
バットの底に析出した純白の針状結晶。
熱分解を完全に回避し、低温抽出と再結晶によって限界まで純度を高めた、抗マラリア特効成分――高純度アルテミシニン結晶の完成だった。
「レン様、この雪のような粉が……?」
覗き込んだリリアが、目を丸くして息を呑む。
ただの河原の悪臭を放つ雑草から、こんなにも無垢で清廉な結晶が生まれるとは想像もつかなかったのだろう。
「うん。これを乳糖や澱粉と混ぜて精密に粉末で分包するか、カプセルに詰めて経口投与する。……これで、帝国の南方を蝕む熱病は完全に制圧できる」
レンは薬さじを取り、出来上がったばかりの針状結晶を慎重に遮光小瓶へと移し替えた。
この小さな結晶の山が、やがて帝国の元老院と軍部を跪かせる絶対の切り札になる。
瓶の蓋をキュッと締め、レンは確信に満ちた笑みを零した。
【皇女セシリアとの密談と南方の利権】
「……レン。貴方って人は、本当に私の心臓に悪すぎるわ」
セシリアは軍服の上着を脱いで椅子の背に掛け、深いため息とともにソファへ身を沈めた。テーブルには極上の赤ワインと、レンのために用意された薬草茶のポットが置かれている。大広間で見せていた冷徹な皇女の仮面は剥がれ、呆れたような素顔が覗いていた。
「まさか、四季巡回で帝都に戻ってきた初日に、南方の熱病を完封する新薬まで持参するなんて。元老院の古狸たちも、軍部の強硬派も、完全に鼻面を引っ張られて手も足も出なくなっていたわよ」
「シエナさんから、帝国の開拓事業が熱病で完全に停滞していると事前に聞いていたからね。ペニシリンだけだと『大森林の熱病を治せないなら特権は不要』と足元を見てきたり、プラントの軍事接収を画策してくる連中が出るのは目に見えていた。だから、帝国が今一番喉から手が出るほど欲しいカードを切らせてもらったよ」
レンが薬草茶を口にすると、セシリアはワイングラスを揺らしながら、形の良い唇を微かに尖らせた。
「おかげで父上は大喜びよ。『あの男を絶対に神聖王国へ帰すな。手段を選ばず帝国の皇室に囲い込め』って、謁見の直後に耳元で釘を刺されたわ」
「……殿下、物騒な冗談はやめてください」
「冗談に見えるかしら?」
セシリアは身を乗り出し、真紅の瞳を妖しく細めて距離を詰めてきた。
「南方の資源開発を独占できるとなれば、帝国の国力は跳ね上がる。その主導権を握る貴方を、みすみす他国へ返したくないと思うのは当然でしょう? 神聖王国ではエレオノーラが正妃の座に居座り、向こうの王家は第一王女の降嫁まで画策している。それに比べて、私は貴方と交わした四季巡回の約束を律儀に守って、こうして帝都でじっと待っていたのよ? 少しは報われてもいいと思わない?」
「そ、それは……セシリア殿下にはいつも感謝してますし、プラントの管理も頭が上がらないですけど……」
たじろぐレンの様子に、セシリアはくすりと満足そうに笑った。
「ふふ、からかいすぎたかしら。……でも、本当に助かったわ、レン。これで、帝国内における私の発言権も完全に盤石になる。南部の開発権と新薬の供給ルートは、元老院を通さず私の直轄領とノア・ホールディングスで完全に掌握するわ」
「ありがとう、セシリア殿下。これで帝国側の足場は完全に固まる」
【3区画の地理的分断と鉄壁の工程管理】
私室の執務机に1枚の羊皮紙を広げ、レンは携帯用のインク壺に羽ペンの先を浸した。
「セシリア殿下、アルテミシニンの量産にあたって帝国内に構築すべき抽出ラインの設計図と運用規定です。この工程管理と防壁の敷設は、殿下の直轄軍に一任したいと考えています」
「ええ、聞かせて。元老院息のかかった製薬工房や、外部の錬金術ギルドに横槍を入れさせないための絶対の手札が必要よ」
セシリアが身を乗り出し、机上の羊皮紙を覗き込む。レンの走らせるペン先が、迷いのない筆致で3つの独立した区画を描き出していった。
「まず大前提として、アルテミシニンは熱に極めて弱い構造をしています。これまでの伝統的な煎じ薬のように、大釜で煮沸する設備は一切使えません。必要なのは、徹底した『低温密閉抽出』と『減圧濃縮・再結晶』の2段階です」
レンはペン先で、一番左に描いた第一の区画をコツコツと叩いた。
「ここは原料の前処理と冷浸抽出を行う場所です。直轄領の遊休地や河原に自生しているクサリニオイ草を大量に集積し、日陰で送風乾燥させた後、低速粉砕機で細断します。摩擦熱すら天敵ですから」
「熱を持たせない工夫ね。抽出槽はどうするの?」
「銅や鉄の溶出を防ぐため、内面に錫引き加工、またはガラスライニングを施した密閉タンクを使います。そこへ、ペニシリン製造の副産物や蒸留設備から回した高純度ジエチルエーテルを注ぎ込み、常温・密閉のままで成分を浸出させるんです」
「……エーテルですって?」
セシリアの眉がわずかに動いた。軍人として、その物質の危険性を熟知している顔だ。
「揮発性が極めて高く、火花1つで大爆発を起こす揮発油よ。現場の安全管理はどうするつもり?」
「完全火気厳禁の徹底です。照明は採光窓と蓄光石のみに限定し、水力駆動の大型ファンで常に換気を回します。……そして、この危険性そのものが、部外者を遠ざける最良の盾になります」
レンは口元を微かに緩め、ペン先を中央の第二区画へと滑らせた。
「抽出を終えた液はフィルターで濾過し、炭酸水素ナトリウムの弱アルカリ水溶液を加えて撹拌します。ガラス張りの分液槽で静置すれば、不要な葉緑素や樹脂分を含んだ濁った水相が下層に沈み、有効成分を含んだ澄んだエーテル層だけが上層に残る。下層の廃液を抜き捨てれば、不純物の分離は完了です」
「そして、その上澄みを最後に固めるわけね」
「はい。第三区画の再結晶化室です。浅いジャケット付きのバットに上澄みを移し、35度から40度の温水を外周に循環させて溶媒だけを穏やかに揮発・回収します。濃縮された粗エキスに冷エタノールを滴下し、地下氷室の冷水で急冷しながら微小な振動を与えれば――あの高純度な針状結晶が析出します」
セシリアは腕を組み、緻密な工程図をじっと見つめていたが、ふと真剣な眼差しをレンに向けた。
「……手順を聞く限り、ペニシリンのあの巨大な深部発酵プラントに比べれば、設備そのものは驚くほど簡素に見えるわね。腕利きの錬金術師が見れば、真似できるのではないかしら」
「その通りです。だからこそ、この製法は徹底的にブラックボックス化しなければなりません」
レンはペンの腹で、羊皮紙の上に描かれた3つの区画の間に、深く太い境界線を引いた。
「製法の手順が漏れれば、技術の拙い錬金術師でも『草をエーテルに浸して乾かせばいい』という核心に気付いてしまう。それを防ぐために、拠点の地理的分断と、中間体の偽装を行います」
「具体的には?」
「草を集めて砕く『1次拠点』、エーテル抽出を行う『2次拠点』、そして結晶を取り出す『3次拠点』を、物理的に数キロ以上離します。作業員は各区画の専属とし、拠点間の行き来や接触は一切禁止。1次拠点の作業員には『ただの防虫香の原料を作っている』とだけ思い込ませておけばいい」
「なるほどね。持ち出される液体や粉末の正体を分からなくするわけね」
「さらに、エーテルやアルコールなどの溶媒には、あらかじめノア社の直轄管理下で無害な着色料や特有の匂いを混ぜ込み、『第1溶剤』『分離液甲』といった管理番号だけで呼ばせます。現場の調合員には、自分たちが何を扱っているのか、その化学名すら教えません」
レンの淡々とした、しかし冷徹なまでの情報防壁の設計に、セシリアは思わず息を呑み、やがて獰猛な笑みを浮かべた。
「そして最も重要な結晶化の最終区画には、私の直属親衛隊と、ノア社から送り込まれた宣誓済みの技術者だけを配置する……そういうことね?」
「はい。万が一元老院や軍本部の監査が入っても、『引火性高圧ガスを用いた危険作業区域』として立ち入りを法的に拒絶できる布告を、殿下の名で出していただきたいのです」
「完璧よ、レン」
セシリアは満足そうに喉を鳴らし、机の上の羽ペンを取り上げた。
「要するに、外から見れば『怪しげな青草を砕いている場所』『悪臭のする廃液を捨てている場所』『白い粉を袋に詰めている場所』がバラバラに点在しているようにしか見えず、その中枢だけが私の槍で固められている構図になるわけね」
「ええ。これなら仮にどこか1箇所から情報が漏洩したところで、全体像と抽出の最大の急所――『絶対に熱を加えてはならない』という1点には、永久に辿り着けません」
「任せて。直轄領の警備連隊から、最も口の堅い部隊を予定地に配置するわ。元老院の息がかかった商業ギルドの嗅ぎ回りも、軍の防諜規定を盾にして片っ端から叩き潰してあげる」
セシリアは羊皮紙の末尾に、流麗な筆致で自らの署名と皇女の血判印を迷いなく刻み込んだ。
「明朝の野戦病院での結果を狼煙にするわ。父上が勅令を下した瞬間、この防壁の敷設と拠点の接収を同時に開始する。……帝国の南方を救う光は、すべて私たちの手のひらの上から配給してあげるわ」
レンの緻密な薬学知識と、セシリアの冷徹な統治権力。
利権強奪を狙う帝国元老院を完全に締め出すための鉄壁の歯車が、静かに噛み合わさった。




