20話:神聖なる改名のち、消滅するルーヴェン王国
ルーヴェン王国――王都、王宮最深部・円卓の間。
重厚な天蚕糸のカーテンが閉ざされた密室には、張り詰めた沈黙と、尋常ならざる熱気が渦巻いていた。
円卓の最上席に座すのは、当代のルーヴェン国王。
その両脇を固めるのは、苦渋と野心の入り混じった顔つきの王国宰相と、威厳ある面持ちで顎髭を撫でるベルフォール公爵だった。
彼らの視線が注がれているのは、円卓の中央に恭しく広げられた、純白の絹布と純金箔で縁取られた1通の巻物である。
差出人は、レムリア法皇国・法皇庁。
法皇直筆の署名と、歴代教皇にのみ許された真紅の蜜蝋印が押された、最高位の親書――いわゆる聖書簡であった。
「……信じられん」
宰相が乾いた唇を震わせ、眼鏡の位置を直しながら呟いた。
「あのレムリア法皇国が……。他国の王を『俗世の迷い子』と見下し、教皇の足元に平伏させてきたあの傲慢無比なる法皇庁が、一国の青年に宛ててここまでの文面を寄越すとは……」
親書に記されていたのは、レンの糖尿病診断基準と生活習慣改善、そして白藤錠による治療実績に対する、狂乱に近い賛辞と信仰の告白であった。
『神の御子レン様が授け給うた真理は、肉体を蝕む病魔を祓い、人の生あるべき姿を説く奇跡の光である。血液という人の目に見えぬ深淵を見通されるあのお方こそ、疑いようもなく地上に遣わされし至高の導き手であられる。よって法皇庁は、神の御子レン様が産声を上げ、その血肉を育んだ聖なる母国ルーヴェンを、全人類が巡礼すべき絶対の聖別領域と認定する』
文字通り、レンの生誕地というだけで、国そのものが聖地指定されたのだ。
「フ……ハハハ! 笑いが止まらぬな、ベルフォール公!」
国王が膝をバンと叩き、豪快に笑い声を響かせた。
だが、その瞳の奥には、猛獣のようなギラついた危機感と権力欲が宿っていた。
「ヴァレンティノ帝国は、レン殿に公爵位と無制限の支援を与え、自国の英雄として囲い込もうと必死だ。第二皇女セシリアも虎視眈々と夜襲を仕掛けていると聞く。だが、法皇国のこの親書が何を意味するか分かるか? いかに帝国が軍事力と富を誇ろうとも、レン殿が『我が国で生まれ育った』という揺るぎない歴史的事実だけは、天地が引っくり返ろうと奪うことはできんのだ!」
「御意にございます、陛下」
ベルフォール公爵が低く重々しい声で頷いた。
「我が愚息レンの才覚は、すでに一介の薬師や伯爵の枠に収まるものではございませぬ。帝国は軍事と実利で縛ろうとし、法皇国は宗教の権威で奪おうとしている。ここで我が国が旧態依然とした『ルーヴェン王国』の枠組みにとどまっていては、いずれ大国の圧力に呑み込まれ、レンは他国の象徴として完全に引き抜かれてしまいます」
「その通りだ。他国の泥棒猫どもや野心家どもに、我が国の至宝を掠め取られてたまるか!」
国王は立ち上がり、背後の壁に掲げられた巨大な大陸地図を指差した。
「帝国が軍事で覇を唱えるなら、我が国は『神聖』で大陸の頂点に君臨するまでよ! 法皇国が我が国を聖地と認めたのだ。ならば、国家の看板そのものを塗り替え、レン殿を永遠に我が国の中心に座らせる絶対の楔を打ち込む!」
宰相が恐る恐る口を開いた。
「陛下……まさか、建国以来300年続いた国号を……?」
「うむ! 古代聖語において『至高の神聖』『選ばれし恩寵の大地』を意味する言葉があるな。ベルフォール公、何と言ったか」
ベルフォール公爵は薄く笑みを浮かべ、朗々と答えた。
「――『クレイズ』にございます」
「それだ!」
国王は力強く頷き、卓上の羊皮紙に王杖を突き立てた。
「我が国は本日を以て、神の御子レン殿を生み育みし聖なる母国――『クレイズ神聖王国』へと改称する! 国内の諸侯、そして帝国や法皇国をはじめとする大陸全土へ、即座に大布告を出せ! 我が国は、レン殿の神聖なる威光を戴く唯一無二の宗主国であるとな!」
王宮の奥深くで、国家の歴史を根底から覆す決定が、レン本人の知らぬ間に電光石火の勢いで下された瞬間であった。
◇
数日後。王都、元シルフィード公爵邸――レンの自室。
下町での問診マニュアル配布と、ノア・ホールディングスでの新薬ライン立ち上げ指示を終えたレンは、久しぶりに自分の部屋の安楽椅子に深く身を沈めていた。
手元には、湯気を立てるカモミールティー。
窓の外からは、下町の穏やかな喧騒と、心地よい風が吹き込んでくる。
(ふぅ……。いろいろ大変だったけど、これでようやく落ち着いたかな)
レンは胃のあたりを優しくさすりながら、小さく息を吐いた。
エレオノーラは各国の妃たちへ講習会の指令を飛ばすのに忙しく飛び回っているし、リリアとシエナの「限定トレカ内職計画」も、厳しく釘を刺してなんとか水際で食い止めた(はずである)。
あとは、新薬のフェノールやアスピリンの製造ラインが軌道に乗るのを見守りつつ、のんびりと薬房で店長業務をこなせばいい。
「やっぱり、平和が一番だな。前世みたいに過労死するわけにはいかないし、スローライフの原点を守らないと……」
レンがほっと胸を撫で下ろし、紅茶に口をつけようとした――まさにその時だった。
ドガァァァァンッ!!
部屋の頑丈なオーク材の扉が、蝶番ごと吹き飛ぶような凄まじい勢いで蹴破られた。
「ぶふっ!?」
吹き出す紅茶。喉を詰まらせて激しく咳き込むレンの視界に、銀光を煌めかせた鎧姿の女騎士が飛び込んできた。
近衛騎士団副隊長、カトレア・アッシュフォードである。
肩で荒い息をつき、マントを派手に翻しながら、鬼気迫る形相で部屋の中央へと踏み込んできた。
「レン様ッ!! ご無事ですか、レン様!!」
「ゲホッ! ゴホッ! カ、カトレアさん……!? 扉! 扉をノックしてっていつも言ってるのに! というか、何があったの!?」
涙目で胸を押さえるレンの前に、カトレアはドスンと大股で膝をつき、両手でレンの手を握りしめた。
その鋼の手甲の冷たさと、異様な熱気。
「一大事にございます! 王宮にて緊急の貴族院臨時総会が開かれ、今しがた、国王陛下より大陸全土を揺るがす国家最高勅令が発令されました!」
「国家最高勅令……? また帝国が攻めてきたとか、戦争の話ですか……?」
「いいえ! 我が国の改名でございます!」
「……は?」
レンの頭の上に、巨大な疑問符が浮かんだ。
カトレアは胸を張り、誇らしげに、だが事も無げにとんでもない爆弾を投下した。
「我が国の名は、本日正午を以て『ルーヴェン王国』から『クレイズ神聖王国』へと改称されました! 混同を避けるための公的文書における対外表記は【ルーヴェン王国(クレイズ神聖王国)】と定められ、すでに王都中の広場で鐘が乱打され、布告が読み上げられております!」
部屋の中の空気が、ピシリと凍りついた。
レンの思考回路が完全に停止する。
「……え? 改名……? ルーヴェン王国が……クレイズ神聖王国……? なんで?」
「決まっているではありませんか! 神の御子たるレン様が生まれた聖なる母国であることを、全世界へ永遠に知らしめるためです!」
「…………」
「古代聖語において『クレイズ』とは、至高の恩寵と神聖を意味する言葉! レムリア法皇国からレン様の生誕地として正式に聖別認定を受けた国王陛下が、帝国にレン様を奪われまいと、国号そのものをレン様の神聖に塗り替えたのです! ああ……なんと誇らしいことでしょう! 我らは今や、神の御子の直轄領の民となったのです!」
カトレアが恍惚とした表情で拳を握りしめる横で、レンの顔から急速に血の気が引いていった。
(……僕が、生まれたってだけで……?)
(僕がこの国の公爵家に生まれたって、ただそれだけの理由で……?)
(建国300年以上の歴史ある王国の名前が……消滅した……!?)
「う、嘘だろ……」
ガタガタと震え出すレンの膝。
そこへ、廊下から優雅にして威圧的なヒールの音が響いてきた。
「あら、カトレア。抜け駆けしてレンに報告するなんて、相変わらず武骨な割に手が早いですこと」
現れたのは、豪奢極まりない真紅と黄金の宮廷ドレスを纏った実姉――エレオノーラだった。
背後には、青碧の瞳を興奮に輝かせたシエナと、手帳を抱えた専属侍女のリリアが控えている。
エレオノーラは扇子をパチンと閉じると、ベッドの上のレンへ向けて、この世の春を謳歌するような極上の笑みを向けた。
「おめでとうございます、私の愛しいレン。……いえ、我がクレイズ神聖王国の若き主柱」
「あ、姉上……! これ、本当なんですか!? 国名が変わったって……!」
「ええ、本当ですわ。陛下とお父様が円卓で決断なさいましたの。ふふ……実に素晴らしい英断ですわね。これで我がベルフォール家は、ただの筆頭貴族ではなく、神の御子を輩出した『筆頭聖族』として王家と同格以上の絶対権力を手にしましたわ」
エレオノーラはレンの隣に腰を下ろし、優しくその肩を抱き寄せた。
甘い薔薇の香りが漂うが、レンの背筋には氷水のような寒気が駆け抜ける。
「見て御覧なさい、レン。これで帝国も手出しはできませんわ。帝国のフランツ三世がいかに公爵位を押し付けようと、この国そのものが貴方の神聖なる聖地なのですから。帝国が貴方を力尽くで連れ去ろうとすれば、それは即座に『聖地侵略』となり、大陸中の国家と法皇庁を敵に回す世界大戦の火種になります。……つまり、貴方は未来永劫、この私の手の届く場所から離れられなくなったということですわ」
「外堀を埋めるために国名ごと要塞化するなああああああっ!!」
レンの魂の絶叫が、豪奢な部屋に木霊した。
だが、周りの女たちには一切届いていない。
「シエナ、商工ギルドへの通達の手配はどうなっていますか?」
エレオノーラが振り返ると、シエナが一歩前に進み出て、満面の笑みで手帳を開いた。
「完璧でございます、エレオノーラ様! 国号が『ルーヴェン王国(クレイズ神聖王国)』へ刷新された記念式典に合わせ、ノア・ホールディングス公認の『聖なる建国記念木版画』を10万枚規模で刷る準備を整えました! 没落貴族のご婦人方へ内職として割り振る手配も完了し、すでに王都の市場では予約の手付金だけで金貨の山が築かれておりますわ!」
「シエナァァァッ! あんなに釘を刺したのに、しれっと内職ビジネスを国家規模にスケールアップさせてるんじゃないよ!!」
「あらレン様、これは国家の慶事に伴う正当な記念事業ですわ。失業対策と外貨獲得を兼ねた、完璧な経済政策ですもの」
シエナが悪びれもせずに微笑むと、今度は隣にいたリリアが、どこか誇らしげに胸を張って口を開いた。
「レン様……いえ、兄様。我がバルツ家にも、公認の家紋入り特製額縁の発注が貴族院から殺到しております。1枚金貨50枚の特注品、すでに初期ロットの30枚が完売いたしました。お父様が嬉し涙を流しながら、領地の借用書を暖炉で燃やしておりましたよ」
「リリアまで便乗して荒稼ぎしてんじゃねええええええっ!! あと頼むから兄様って呼ぶのをやめて! 胃が! 僕の胃が雑巾絞りになってる!!」
レンは両手でみぞおちを強く押さえ、椅子の上で丸くなった。
前世でチェーン店の店長をしていた頃、エリアマネージャーから理不尽なノルマを課された時ですら、ここまで胃が痛むことはなかった。
一介の元ドラッグストア店長が背負うには、国家改名という責任の重量はあまりにも銀河系レベルで重すぎる。
「カトレア……カトレアさん……」
震える声で助けを求めるレン。カトレアはハッと表情を引き締め、力強く頷いた。
「はっ! なんでございましょう、レン様! 近衛の全権を以て、いかなるご命令にも従います!」
「……机の引き出しの奥にある……『キャベギオン軍α』の大瓶を……持ってきてくれ……。今すぐ……水なしで30錠くらい噛み砕かないと……僕の胃壁が全損する……」
「なんと! そのような重篤な症状であられたとは! お待ちください、今すぐ私が口移しで――」
「手で渡せッッ!! 普通に手のひらに乗せて渡してくれ頼むからぁぁぁぁっ!!」
王都中に鳴り響く、新国家誕生を祝う高らかな鐘の音。
広場に集まった何万もの民衆が、
「クレイズ神聖王国万歳!」
「神の御子レン様、万歳!」
と割れんばかりの歓声を上げる中、その「神の御子」当人は、机に突っ伏して緑色の胃薬をガリガリと噛み砕きながら、大粒の涙を流してスローライフの完全な崩壊を嘆くのだった。
◇
ヴァレンティノ帝国――帝都オルデンブルク、皇宮『白銀の間』。
豪奢なシャンデリアの下、長大な大理石の円卓を取り囲む元老院の長老たち、軍部の重鎮、そして帝国宰相の顔は、かつてないほどの屈辱と怒りで朱に染まっていた。
卓上には、南方の小国ルーヴェンから届いたばかりの、金箔で彩られた緊急公電が広げられている。
「……ふざけるなッ! 断じて許しがたい暴挙だ!!」
元老院議長が、白髭を激しく震わせて机を拳で叩いた。
「あのルーヴェンの田舎貴族どもが……! 我が帝国が法の手続きに則り、元老院の審議を経て丁重にレン殿の公爵陞爵を進めていたその隙を突きおった! 事もあろうに、本人の不在中に勝手に『王国最高筆頭公爵』に祭り上げ、さらに国号を『クレイズ神聖王国』へ改称したなどと……ッ!」
「軍部の面目も丸潰れですぞ!」
軍務卿が軍刀の柄を握りしめ、青筋を立てて吼える。
「ペニシリンの恩恵とユリウス殿下の命を救われた大恩を鑑み、帝国こそがレン殿を最も高く評価し、最上級の爵位で遇するはずであった! それを、小国風情が先に公爵位を授けてしまっては……今さら我が帝国が予定通り『公爵』を授与したところで、あの小国の後追いにしかならんではないか!!」
「帝国の至高性に泥を塗られたのだ!」
「大陸の覇権を握るヴァレンティノ帝国が、弱小国の二番煎じなどできるはずがなかろうッ!」
怒号と罵声が飛び交い、白銀の間は蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。
帝国の威信、元老院の誇り、そして軍部の矜持。そのすべてが、「小国に出し抜かれた」という事実によって無残に踏み躙られていたのだ。
その喧騒の中、玉座に深く腰掛けた皇帝フランツ三世は、顎杖をついたまま低く重々しい声で口を開いた。
「――静まれ」
一瞬にして、部屋の空気が凍りついた。
百戦錬磨の長老たちも、冷徹な覇気を放つ皇帝の前に平伏し、口を噤む。
「……ルーヴェン王の浅知恵よ。神聖を謳い、レン殿を生誕の聖地として囲い込もうという肚は見え透いておる。だが、軍務卿の申す通りだ。小国が筆頭公爵を名乗らせた今、我が国がただの『公爵』を授けるなど、帝国の名折れ。天下の笑い草にしかならん」
フランツ三世の鋭い双眸が、ぎらりと光を放った。
「あの小国の筆頭公爵などという児戯を、上空から完全に踏み躙る地位を用意せねばならん。……元老院よ、帝国法典の禁忌を開け。レン殿に授けるは、公爵の上――本来は帝室直系にしか許されぬ、至高の座だ」
宰相が息を呑み、震える声で問うた。
「陛下……まさか……」
「うむ。レン殿を、ヴァレンティノ帝国臣下の頂点たる『帝国世襲大公(Grand Duke)』へ格上げする」
ざわり、と広間が激しく波打った。
大公。それは皇族男子、あるいは帝国建国に寄与した伝説の血統にのみ許される、臣下としては実質的に国家の主権すら左右しうる絶対の特権階級である。
「し、しかし陛下!」
元老院の長老が進み出て、慌てて手を挙げた。
「大公位ともなれば、もはや名誉や実利の枠を完全に超え、帝室そのものの血脈に連なる地位にございます! 帝国の格式と法に鑑みれば、臣下に大公位を授けるには、皇室からの降嫁――それも、長幼の序に従って【第一皇女エレリア殿下】をお輿入れさせ、帝室の婿として迎えるのが絶対の鉄則でございますぞ!」
その言葉に、白銀の間の扉脇に控えていた1人の女性が、ふわりと艶やかな笑みを零した。
第一皇女、エレリア・ラ・ヴァレンティノである。
豪奢な金糸のドレスを纏い、黄金の巻き毛を揺らす彼女は、手にしたレンの木版画――先だって大陸中にばら撒かれ、民衆が拝み倒している神聖な後光の差す麗しい絵姿をじっと見つめ、うっとりと頬を染めていた。
「まあ……。わたくしがレン様の正妻として降嫁いたしますのね。ふふ、あのルーヴェンの田舎娘たちやセシリアには荷が重すぎると思っておりましたの。これほど麗しく、儚げで、母性本能をくすぐる類まれなる至宝……わたくしの手で、帝都の離宮に丁重にお迎えして、朝から晩まで愛でて差し上げますわ……」
第一皇女エレリアは、レンの美貌と佇まいに完全に一目惚れしており、この政略結婚に対して異様なほど乗り気だった。自ら進んで籠の鳥の飼い主になろうと、扇子の陰で舌なめずりをせんばかりの熱視線を送っている。
長老たちも「うむ、第一皇女殿下のご降嫁であれば、帝室の格式も完璧に保たれる!」と頷き合おうとした――その瞬間だった。
バァァァァァンッッ!!!!
白銀の間の重厚な扉が、凄まじい衝撃音と共に蹴り破られた。
「寝言は寝てからほざけ、化石どもがああああああっっ!!」
轟音と共に突入してきたのは、白銀の軍服に身を包み、腰にサーベルを佩いた第二皇女――セシリア・ラ・ヴァレンティノだった。
その碧眼には、軍部の大将軍すら縮み上がるほどの凶悪な殺気と、燃え盛る執念の炎が宿っている。
「セ、セシリア殿下!? ここは元老院の最高機密会議ですぞ!」
狼狽する宰相を一瞥することもなく、セシリアは大股で円卓へと踏み込み、腰の軍刀を鞘ごと大理石の机へ叩きつけた。ガギィィン!と鋭い金属音が響き渡る。
「ふざけるなッ! レンを最初に見出し、ペニシリンの独占契約をまとめ、帝都へ連れてきてユリウスの命を救わせたのはこの私だ!! あの時、奥の離宮で紅茶をすすって高みの見物を決め込んでいた姉上が、どの面下げてレンの正妻に名乗りを上げているのだ!!」
セシリアは第一皇女エレリアを指差し、鬼気迫る形相で吼えた。
「レンの功績も、あの恐るべき才能の重さも何一つ理解しておらぬくせに、出回った似顔絵の顔が良いからと後から手柄を横取りしようなど……万死に値するぞッ! レン大公の隣に立つ資格があるのは、血と汗を流して前線を駆けずり回った私ただ一人だ!!」
「な、なんですって……!? 無礼な、長幼の序を弁えなさい、セシリア!」
エレリアが眉を吊り上げて立ち上がるが、セシリアの放つ戦場帰りの覇気は、宮廷育ちの長女の威圧など微塵も寄せ付けない。
「長幼の序だと!? 国家の至宝を繋ぎ止める戦いに、生まれた順番など関係あるか! 大公位の授与に伴う婚姻の権利、このセシリアが力尽くで奪い取る! 文句があるなら貴様ら全員、私の私兵団で叩き伏せてやるぞッ!!」
「ひ、ひぃぃっ!?」
元老院の長老たちが、冷徹なはずの第二皇女の狂気的な暴走に悲鳴を上げて後退る。
セシリアはそのまま玉座のフランツ三世に向き直り、床に片膝をついて深々と頭を下げた。
「父上! 我が帝国がクレイズ神聖王国の筆頭公爵を叩き潰すには、形式だけの婚姻では足りませぬ! この私を全権特使として任じ、大公の証書と王冠を携えてルーヴェンへ乗り込ませてください! あの泥棒猫の巣窟から、レンを帝国の『大公』として強奪……いえ、奪還してまいります!!」
フランツ三世は、長女と次女の凄まじい鍔迫り合いを見下ろし、口元をわずかに歪めた。
「……よかろう。レン殿を繋ぎ止める執念、貴様が最も勝っておる。全権特使の権限と、大公位の親任状を授ける。即刻、出立せよ」
「ははっ! ありがたき幸せ!」
セシリアは猛禽のような笑みを浮かべ、マントを翻して部屋を飛び出していった。
背後で第一皇女エレリアが「キーッ! わたくしのレン様を奪う気ですのねセシリアッ!」と爪を噛んで悔しがる声を、セシリアは完全に無視して廊下を疾走する。
その頃――。
皇宮の西翼、豪奢な自室のベッドの上で、1人の少女が枕に顔を埋めて大号泣していた。
第三皇女、イリス・ラ・ヴァレンティノである。
「うわああああんっ! ひどいよぉぉぉっ!!」
レンに最初にアトピーを治してもらい、恋心を抱いて学園留学を放り出して帰国したイリスだったが、事態のスケールは彼女の想像を遥かに超えていた。
「公爵飛び越えて『大公様』になっちゃうなんて聞いてないよぉ……! そんなの、帝国の法律上、第一皇女か第二皇女のお姉様しかお嫁さんになれないじゃん……! 第三皇女の私なんて、完全に蚊帳の外だよぉぉぉっ!!」
ベッドの上のクッションをボカボカと殴りつけ、イリスは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら叫んだ。
「せっかくレン様のお肌ツルツル軟膏で可愛くなったのに……! お姉様たちの殺し合いに割り込む隙間なんてミリもないよぉぉっ! レン様ぁぁぁっ! 助けてレン様ぁぁぁぁっ!!」
大国のメンツ、皇女たちのドロ沼の争い、そして完全に弾き飛ばされた第三皇女の悲鳴。
帝都オルデンブルクの狂乱は、すべて一点――ルーヴェン王都にいる1人の少年に向けて収束しようとしていた。
◇
数日後。クレイズ神聖王国・王都、元シルフィード公爵邸――レンの自室。
「……うぅぅ……」
レンは机に突っ伏し、シクシクと涙を流していた。
その手には、緑色の錠剤がぎっしり詰まった『キャベギオン軍α』の大瓶。
胃の激痛は、国名が「クレイズ神聖王国」へ改称されてからというもの、一秒たりとも治まる気配を見せていなかった。
(なんで……なんで僕がちょっと問診マニュアルを作っただけで、国名が消滅するの……? なんで街中のみんなが僕の絵に青魚を供えて拝んでるの……? スローライフって何……? 前世の僕、何か前世で世界を滅ぼすような大罪でも犯したの……?)
そこへ、部屋の扉がノックもなしに静かに開いた。
入ってきたのは、手帳を抱えた専属侍女のリリアだった。いつも通りの澄ました無表情……ではなく、どこか哀れむような、生暖かい目をレンに向けている。
「レン様。いえ、神の御子にしてクレイズ神聖王国の若き主柱様」
「リリア……頼むからその呼び方をやめて……。もうライフはゼロなんだ……」
「そんなこと言っていられませんよ。帝国の国境警備隊から、緊急の早馬が王都へ飛び込んできました。我が国の国家改名と筆頭公爵の報を受け、激怒したヴァレンティノ帝国が、メンツを取り戻すために国家最高勅令を発令したそうです」
レンの背筋に、冷たい氷柱が突き刺さった。
恐る恐る、脂汗を流しながら顔を上げる。
「て、帝国が……? ま、まさか、戦争……!?」
「いいえ。戦争よりも恐ろしい事態です」
リリアは手帳のページを淡々とめくり、宣告した。
「帝国は、我が国の『筆頭公爵』に対抗するため、レン様に臣下最高位たる【帝国世襲大公】の爵位を授与することを電撃決定いたしました。さらに、大公位授与に伴う婚姻の権利を巡って皇女様方が皇宮で血で血を洗う内乱を起こし、第一皇女様を武力でねじ伏せた第二皇女セシリア殿下が、自ら全権特使として大公の王冠を手に、軍団を率いてこの王都へ疾走中とのことです」
レンの視界が、真っ白に明滅した。
大公。
王国の公爵の上を行く、帝国の、大公。
「……たい……こう……?」
「はい。ちなみにセシリア殿下は『クレイズ神聖王国などという生ぬるい鳥籠ごと、レンを帝都へ力尽くで連れ去る』と息巻いているそうです。それに対し、エレオノーラ様は『帝国の泥棒猫が大公の冠を盾に攻め込んできたわ! 全軍、聖地防衛の配置につけ!』と叫んで近衛騎士団を総動員し、迎撃態勢を整えておりますよ」
「うわあああああああああああああっっっ!!!!」
レンは椅子から転げ落ち、床を転がりながら頭を抱えて絶叫した。
「張り合わないでえええええっ!! 公爵でも死にそうなのに、なんで大国のメンツのために大公に格上げされてるの!? なんで姉上と皇女が僕を挟んで世界大戦の準備を始めてるのぉぉぉぉっ!!」
「無駄ですよ、レン様。外堀は埋まるどころか、もはや大陸間弾道ミサイル級の要塞戦に突入いたしました。諦めて、キャベギオン軍αをあと50錠ほど胃に流し込んでください」
「胃薬で防げる次元を遥かに超えてるんだよおおおおおっっ!!」
元ドラッグストア店長・レン。
小国の神聖筆頭公爵にして、大帝国の世襲大公。
2大国家のプライドと、狂気の令嬢たちによる愛憎の挟み撃ちに遭い、少年の胃壁はついに原子レベルで崩壊の危機を迎えるのだった。
◇
クレイズ神聖王国・王都、ベルフォール公爵本邸――奥の間。
重厚な防音扉に閉ざされた1室には、ベルフォール家の首脳陣が集結していた。
上座に構えるは、威厳に満ちた当主ベルフォール公爵。その隣には、腕組みをして筋肉を強張らせながら、すでに胃薬の粉末を水なしで飲み込んでいる次男エドワード。そして対面には、真紅のドレスを優雅に広げ、紫紺の瞳に氷刃のような光を宿した長女エレオノーラ。
その3人の前に、レンは両手で『キャベギオン軍α』の大瓶を握りしめ、顔面を蒼白にして正座していた。
「……お父様、兄上、姉上。腹を割って話がしたいです」
レンの悲痛な絞り出すような声に、公爵がゆっくりと顎髭を撫でた。
「申してみよ、レン。帝国のセシリア皇女が『大公の親任状』を手に近衛兵を率いて国境を突破した報は届いておる。我が国が『クレイズ神聖王国』の看板を掲げ、お前を最高筆頭公爵に据えたことに対する、覇権国家としての意趣返しだな」
「意趣返しどころの話じゃありませんよ! 大公ですよ、大公! 帝室直系にしか許されない爵位を背負わされて、セシリア様が僕を帝都へ連行しようと疾走してきてるんです! もう、これ以上逃げ回るのは無理です……!」
レンは頭を抱え、脂汗を垂らしながら机に両手をついた。
母国では国名が変わるほどの「筆頭公爵」にして生誕の聖地。
帝国では他国の公爵を踏み躙るために創設された「世襲大公」。
法皇国では教義を塗り替えた「生きた神の御子」。
そしてゼノリス王国などでは、鉱山利権と王女を積んだ「未亡人包囲網」の主。
「各国での既成事実がここまで固まってしまった以上……もう、すべての就任を認めざるを得ないのは分かっています。これ以上突っぱねたら、本当に僕の身柄を巡って大陸規模の世界大戦が起きます」
「ほう……。ようやく腹を括ったか、我が弟よ」
エレオノーラが扇子をパチンと鳴らし、妖艶に微笑んだ。
「ならば話は早いですわね。帝国の泥棒猫が持ってきた大公の冠など、形だけ倉庫の肥やしにしておけばよいのです。貴方は我がクレイズ神聖王国の筆頭公爵にして、神の御子。この私という正妃の膝枕の上で、生涯王都から一歩も出ずに暮らせばよろしいのよ」
「絶対ダメです!! それこそが僕が一番恐れている破滅の道です!!」
レンは椅子をガタッと鳴らして叫んだ。
「1国に肩入れして引き籠もるのが、一番危険なんです! もし僕がこの国に完全に定住したらどうなりますか!? 帝国は『大公位を侮辱された』と激怒してペニシリン原料の供給を止めるかもしれないし、法皇国は『御子様を俗世の小国に不当拘束された』と聖戦の十字軍を差し向けてきます! 僕が生き残る道はただ一つ……【完全なる全方位・等距離外交】だけです!」
レンの必死の訴えに、エドワードが「うむ……」と太い腕を組み、唸り声を上げた。
「一理あるな。武人としての視点から見ても、レンの身柄という大陸最強の戦略兵器を我が国が独占すれば、他国は間違いなく包囲網を敷いて攻め滅ぼしにくる。生殺与奪を握る新薬の源泉だからこそ、どの国にも偏らぬ中立の姿勢を見せねば、我が国の国防が保たん」
「兄上、話が早くて助かります! そこで僕が考えた落としどころは――【巡回滞在制】です。各国に用意された居城に、一定期間ごとに順番に滞在し、それぞれの国で登城して顔を立てる。これならどの国も面目を保てますし、戦争の口実を潰せます!」
レンは身を乗り出し、机の上に羊皮紙を広げた。
だが――次の瞬間、レンの眉間がぎゅっと険しく引き攣った。
「……ただ、問題がありまして。この巡回スケジュールが、絶望的に綺麗に割れないんです」
「割れぬ……? どういうことだ?」
公爵が怪訝そうに眉を寄せる。
「1年は12ヶ月です。当初は、季節の変わり目ごとに『3ヶ月ずつ滞在』して回れば、ちょうど4カ所で綺麗に回せると思ったんです。ところが――!」
レンは頭を抱え、羽ペンを机に叩きつけるように置いた。
「帝国の地位が重すぎるんです!! 相手は大陸覇権のヴァレンティノ帝国、しかも爵位は最高位の『大公』ですよ!? 小国の公爵や他国の居城と全く同じ『3ヶ月ポッキリ』で済ませたら、あの元老院と皇帝陛下が『大公たるレン殿が、なぜ我が帝国と他国を同列に扱うのだ!』と絶対にメンツを潰されてブチ切れます! 帝国の比重は、どうしても他国より多く配分しなきゃいけないんです!」
「なるほどな……」
エドワードが顎を撫でる。
「帝国を優先して『半年(6ヶ月)』滞在させるとしよう。……そうすると、残りは6ヶ月しかない。母国である我が国、法皇国、ゼノリスの3カ所で割ると、2ヶ月ずつか」
「そうすると今度は、姉上や国王陛下、それに法皇庁が納得しないでしょう!?」
レンが叫ぶと、案の定、エレオノーラが扇子の隙間から紫紺の瞳をギラリと光らせた。
「当たり前ですわ。我が国は貴方の生まれた聖なる母国であり、この私が正妃として待つ地ですのよ? 帝国の泥棒猫が半年(6ヶ月)のさばる横で、我が国がたったの2ヶ月!? そのような屈辱、私が許すはずがありませんわ。帝国が半年(6ヶ月)なら、我が国も半年(6ヶ月)ですわね!」
「それじゃ12ヶ月全部使い切って、法皇国とゼノリスがゼロヶ月になるだろおおおおっ!!」
レンの悲痛なツッコミが室内に木霊した。
1年という数字の制約が、あまりにも無慈悲に立ちはだかっていた。
「帝国を4ヶ月にして、我が国を3ヶ月、法皇国を3ヶ月、ゼノリスを2ヶ月……? いや、ゼノリスの王女が『なぜ我が国だけ2ヶ月なのですか!』と鉄鉱石を投げつけてくる! じゃあ全カ国を均等に2ヶ月ずつにして、残りの余った4ヶ月を帝国と我が国で分け合うか……? いや、移動の日数や悪天候の足止めを考慮したら、日数が中途半端すぎて端数が出る! 計算が! どう割り振っても誰かのメンツが死んで破滅するんだよおおおおっ!!」
机の上に並ぶ各国の国旗と、割り切れない数字の山。
前世でドラッグストアのシフト表を作成し、パートとアルバイトの希望休の板挟みで頭を抱えていた頃の地獄が、国家元首クラスの規模になってレンの脳髄を直撃していた。
「……おい、エドワード」
公爵が静かに次男を呼んだ。
「はっ、父上。……レン、受け取れ」
エドワードが無言で差し出したのは、先ほど自分が飲んでいた『キャベギオン軍α』の携帯用小瓶だった。
レンは震える手でそれを奪い取ると、蓋を開けて5錠ほど一気に口へ放り込み、ガリガリと噛み砕いた。苦味とメントールの清涼感が、焼け爛れた胃壁を辛うじて冷却していく。
「……とにかく、セシリア様が到着する前に、この『国家間シフト表』の原案をまとめなきゃいけないんです……! 帝国のメンツを立てつつ、母国と他国を怒らせず、かつ僕が過労死しない移動スケジュールを……誰か……誰か数学的に割り切れる完璧な暦を教えてくれぇぇぇっ……!!」
大公の王冠を振りかざして突進してくる第二皇女の馬蹄の音が、王都の城門へと刻一刻と迫っていた。
◇
「……はっ! そうだ、季節だ!!」
レンはガバッと顔を上げ、手にした羽ペンを宙に突き上げた。
その瞳には、前世で店舗の冷暖房費と季節商品の棚替えに頭を悩ませていたドラッグストア店長としての閃きが宿っていた。
「政治的な日数や爵位の重さで割ろうとするから角が立つんです! 気候ですよ、気候! 人間の体調管理と公衆衛生の観点から、四季に合わせてきっちり3ヶ月ずつ【季節巡回】にすればいいんです!」
レンは羊皮紙の上に勢いよく大陸の地図を描き殴り、春夏秋冬の矢印を書き込んでいく。
「まず、冬の3ヶ月は南方の【レムリア法皇国】! あそこは年中温暖で冬でも過ごしやすい。寒波で弱る高齢者や巡礼者の公衆衛生指導を名目にすれば、法皇庁も『神の御子が冬の寒さから救いに来てくださった』と涙を流して納得します!」
「ふむ……確かに理に適っておるな。冬の南下は王族の避寒としても大義名分が立つ」
ベルフォール公爵が深く頷く。
「そして、灼熱の夏の3ヶ月は、北東の冷涼な山岳地帯【ゼノリス王国】です! あそこは夏でも涼しく、鉱山の粉塵や熱中症の予防指導という名目で滞在する。酷暑を避けて北国で過ごすのは医学的にも完璧です!」
「なるほど……。南で避寒、北で避暑か。医学的な理由を盾にされれば、ゼノリスの猛将どもも文句は言えまい」
エドワードも腕を組みながら感心したように息を吐く。
「そして――残る春と秋の3ヶ月ずつを、【ヴァレンティノ帝国】と、ここ【クレイズ神聖王国】で綺麗に分け合います!」
レンは机をバンと叩き、エレオノーラと公爵へ身を乗り出した。
「帝国のセシリア様にはこう言います。『大公たる僕が直々に帝都に3ヶ月も腰を据えて政務と医療を見るのだから、これで充分にメンツは立ちますよね?』と! そして姉上や国王陛下にもこう言います。『帝国と同等の3ヶ月間、この生まれ故郷である聖地に滞在するのだから、何の不満もありませんよね?』と!」
レンは両腕を広げ、半ば開き直ったように叫んだ。
「これ以上文句を言うなら、僕は駄々をこねます! 『大公の仕事も聖地の主も、人間が1年中あちこち引きずり回されてこなせる限界を超えてる! 3ヶ月ずつ綺麗に季節で分けるのが嫌なら、僕はどこにも行かずに下町の薬房の地下室に引き籠もって絶対に出てきません!!』って、全力でストライキを起こしてやりますからね!!」
かつてないほど強気(※ただし本質はただの駄々)に出たレンの剣幕に、奥の間がしんと静まり返った。
エドワードがぽかんと口を開け、ベルフォール公爵は「ほう……」と髭を撫でる。
そして、対面に座るエレオノーラは――扇子の隙間から、うっとりとした狂気の光を紫紺の瞳に宿していた。
「まあ……。駄々をこねて閉じ籠もると脅すレンも、なんて愛らしいのかしら……」
「姉上、話を聞いて!?」
「いいでしょう。我が国と帝国が『春と秋の等分』という点、少々泥棒猫に塩を送るようで業腹ではありますが……貴方の体が壊れては元も子もありませんものね。それに、我が国に滞在する3ヶ月の間、一歩も屋敷から出さずに濃厚に愛でればよいだけのことですわ」
「一歩も出さないのは困るけど……! でも、これで筋は通りますよね!?」
レンが安堵の息を吐きかけた、その時だった。
コン、コン、と控えめながらも張り詰めたノックの音が響き、奥の間の重厚な扉が開かれた。
入ってきた家令が、青ざめた顔で深々と頭を下げる。
「閣下、レン様。……ヴァレンティノ帝国より、全権特使団が到着いたしました」
室内の空気が、一瞬で凍りついた。
「正面玄関前に、帝室親衛隊の白銀騎兵50騎が整列しております。率いているのは第二皇女セシリア殿下……すでに勅使としての身分証と、帝国元老院の全権委任状を提示され、レン様への緊急謁見を要求されております」
正規の外交手続きを寸分の狂いもなく踏み、逃げ場のない格式を以て正面から乗り込んできたのだ。
「……来たか」
ベルフォール公爵が低く呟き、立ち上がる。
エレオノーラは冷然とした笑みを浮かべ、扇子をパチンと閉じた。
「レン、その『季節巡回案』の羊皮紙をお持ちなさい。帝国の大公位などという重荷、その3ヶ月の枠の中にきっちり押し込めて差し上げますわ」
レンは震える指先で羊皮紙を握りしめ、ポケットの中の『キャベギオン軍α』の小瓶を確かめながら、帝国の全権特使が待つ応接間へと向かうのだった。
◇
元シルフィード公爵邸――大応接間。
白銀の軍服を隙なく着こなした第二皇女セシリアは、背筋を刃のように伸ばして上座の長椅子に腰掛けていた。その背後には抜剣こそ禁じられているものの、寸分の隙もなく控える帝室親衛隊の将校たち。卓上には、皇帝フランツ三世の親書と、黄金に輝く大公冠の納められた豪奢なベルベットの小箱が鎮座している。
対面には、真紅のドレスを優雅に広げたエレオノーラ。
その横で、レンは小さく身を縮め、膝の上で握りしめた『四季巡回案』の羊皮紙が汗で湿っていくのを感じていた。
「単刀直入に用件を切り出そう」
セシリアが冷徹な碧眼をレンへ向け、威厳に満ちた声で口を開いた。
「レン。我が帝国は、貴殿の功績とユリウスの命を救われた大恩に対し、臣下最高位たる『帝国世襲大公』の親任状を発令した。小国がどれほど神聖を謳い、筆頭公爵と祭り上げようと、帝国の大公位はそのすべてを凌駕する至高の座だ。……荷をまとめよ。我が軍が貴殿を帝都オルデンブルクの大公宮へと丁重にお迎えする」
外交儀礼の仮面を被りながらも、逃げ場を一切残さない強硬な連行要求。
レンの胃がキュッと音を立てて悲鳴を上げた、その瞬間だった。
「あら。相変わらず、帝国の外交官はお口がお達者ですこと」
パチン、と扇子を閉じる乾いた音が、張り詰めた応接間に響き渡った。
エレオノーラが艶やかに口元を歪め、冷え切った紫紺の瞳でセシリアを見据える。
「遠路はるばる、他国の聖地までご苦労様、セシリア殿下。ですが……随分と焦っておいでですわね? まるで、今すぐレンを帝都へ連れ去らねば、自らの立場が危ういとでも告白しているかのようですわ」
セシリアの眉が、わずかにピクリと跳ねた。
「……何が言いたい、ベルフォール家の令嬢よ」
「単刀直入に申し上げますわ」
エレオノーラは扇子の先で、卓上の大公冠を小馬鹿にするように指し示した。
「帝国の慣例と格式において、臣下に『大公位』を授ける際の婚姻相手……長幼の序に従えば、本来は第一皇女エレリア殿下が降嫁されるのが筋。……その噂、遠く離れたこの王都の私の耳にすら届いておりますのよ?」
セシリアの碧眼が、一瞬で鋭い殺気を帯びた。
親衛隊の将校たちの息が止まり、室内の温度が目に見えて数度下がる。
「宮廷の奥で優雅に茶を啜っていただけの姉上など、レンの隣に立つ資格はない。前線で汗を流し、レンの価値を誰よりも理解しているのは私だ」
「ええ、その通りでしょうね。貴女が血相を変えて先陣を切り、武力をちらつかせて元老院をねじ伏せ、この親任状をもぎ取ってきたことくらい、手に取るように分かりますわ」
エレオノーラはふっと皮肉げに喉を鳴らすと、背もたれにゆったりと身を預けた。
「ですが、それが帝国内の規律を乱す暴挙であることも事実。……どうかしら、セシリア殿下? ここでレンの『妻』の座を巡って我が国と正面衝突し、成果ゼロで帝都へ引き返せば……手ぐすね引いて待っている第一皇女派の重鎮たちに、格好の失脚の口実を与えることになりますわよ?」
「……私を脅す気か?」
「取引を持ちかけて差し上げているのです」
エレオノーラは冷然と言い放ち、隣のレンの背中をトンと押した。
レンはビクッと肩を跳ねさせながら、恐る恐る手元の羊皮紙を卓上の中央へと滑らせた。
「レンの提案です。……人間としての体調管理と公衆衛生の観点から導き出された、四季に合わせた【3ヶ月ごとの季節巡回案】。冬は南方の法皇国、夏は冷涼なゼノリス。そして春と秋の3ヶ月ずつを、帝国と我が国で対等に分け合う」
セシリアが羊皮紙を一瞥し、不快そうに鼻を鳴らした。
「対等だと? 帝国とこの小国が同じ3ヶ月など、帝国の至高性が許さん。レンは大公なのだぞ」
「大公であると同時に、レンはこの国の生まれ故郷の主であり、神の御子ですのよ。帝国のメンツを立てて3ヶ月も帝都に腰を据えさせるのです、これ以上の譲歩がどこにありましょう」
エレオノーラは身を乗り出し、セシリアの目を真っ向から射抜いた。
「貴女がこのレンの提案を丸呑みし、季節巡回の盟約に調印するならば――正妃たるこの私が、貴女をレンの【帝国の妃】として公式に承認して差し上げます」
「……なに?」
セシリアの目が、初めてわずかに瞠られた。
「私が認めるのです。神聖王国の筆頭公爵家、そしてレンの正妃たる私の承認があれば、帝国内の長幼の序などという戯言は吹き飛びますわ。『レン殿自身が、そして現地の正妃が、第二皇女セシリアを唯一の伴侶として指名し受諾した』という既成事実を手土産に帝都へ凱旋できる。……第一皇女殿下に決定打を叩き込める唯一の切符ですことよ?」
張り詰めた沈黙が、応接間を支配した。
セシリアの頭の中で、冷徹な損得勘定が高速で回転しているのが見て取れる。
レンを完全に独占して帝都へ連れ帰ることは、もはやこの国の防衛線とレン本人の拒絶を考えれば不可能に近い。だが、この条件を呑めば――「帝国大公の正妻」としての絶対的な地位を確立し、姉エレリアの野心を完全に粉砕した上で、1年のうち3ヶ月間は帝都でレンを独占できる。
セシリアはゆっくりと息を吐き出し、軍手で覆われた指先を卓上に置いた。
「……3ヶ月か」
「ええ。春か秋か、どちらの3ヶ月を帝国のものにするかは、貴女に選ばせて差し上げますわ」
2人の狂気の令嬢の間で、レンの身柄とスケジュールが極めて実務的に、そして恐ろしい精度で切り分けられていく。
蚊帳の外に置かれたレンは、青ざめた顔で胸ポケットの『キャベギオン軍α』を握りしめ、
(僕の意思はどこ……? でも、とりあえず世界大戦だけは回避できた……のか……?)
と、ただただ神に祈るような思いで2人の視線の火花を見守るのだった。




