19話:問診デスゲームのち、神の御子トレカ量産計画
元シルフィード公爵邸――大執務室。
下町の薬房から戻ったレンは、机の上にうず高く積まれた羊皮紙の束を前に、元製薬研究員・ドラッグストア店長としての鋭い眼差しを向けていた。
部屋の隅には温かい紅茶を淹れて控えるシエナと、腕組みをして背後に立つカトレア。
そして向かいの長椅子には、優雅に脚を組み、紫紺の瞳を爛々と輝かせた実姉――エレオノーラが腰掛けている。
「……姉上。そしてシエナ、カトレア。至急、手配してほしい重要な案件があります」
レンの引き締まった声に、エレオノーラがふっと艶やかに微笑んだ。
「あら、レン。各国の居城巡りの日程決めかしら? それとも、この私との婚礼の衣装合わせのこと?」
「違います。命に関わる、極めて深刻な公衆衛生の案件です」
レンは首を横に振り、一枚の羊皮紙を机の中央へ滑らせた。
そこには、几帳面な文字で病名と詳細な項目がびっしりと書き連ねられている。
「各国に構えられた僕の『仮の居城』……そこに女主人の顔をして居座っている各国の妃たち宛てに、特務指令書を送ります。病名は――2型糖尿病」
「妃たち宛て……? 各国の王女や聖女たちに、ですの?」
エレオノーラが怪訝そうに小首を傾げた。
「そうです。彼女たちは各国の王宮や軍部、教会の中枢に直結した絶大な影響力を持っています。そして今、彼女たちの周囲にいる上流階級や、民草の職人たちの間で『魔の呪い』や『贅沢病』『原因不明の衰弱死』として片付けられてきた病態……その正体がこれです」
レンは羽ペンを取り、羊皮紙に記した診断手順書を指し示した。
「血液の中身を直接調べるような術も薬も、今の医学には存在しません。だからこそ、現場の医師や妃たちでも確実に判定できるよう、問診と観察による厳格な診断基準を策定しました。以下の『主徴』と『随伴兆候』の合致をもって、2型糖尿病と確定診断を下させます」
レンが示した羊皮紙には、明快な問診項目が記されていた。
「まず、基本となる確認事項は四つです。
一つ、異常な口渇と多飲。いくら水分を摂っても喉の渇きが癒えないか。
二つ、頻尿と多尿。特に夜間に何度も尿意で目を覚ますか。
三つ、食後の異常な傾眠。満腹になった直後、耐え難い眠気に襲われるか。
四つ、不自然な体重減少。しっかり食べているのに、不自然に痩せてきていないか。
この四つのうち、いくつ当てはまるかで、指導の厳しさと対応を明確に分けさせます」
レンは机の上の羊皮紙をトントンと指先で叩き、段階ごとの手順を語り始めた。
「まず、当てはまる項目が一つだけの場合。これはまだ初期の『予備軍』です。薬は一切出さず、生活の注意だけで対処させます。甘い飲み物をやめ、食事の最初に野菜スープを飲むこと。これだけで充分に引き返せます」
「二つ当てはまる場合は、病気が始まっている『軽度から中等度』です。この段階から、本格的な生活改善の指導に入ります。平民なら青魚と歩行、禁煙の徹底。貴族なら晩餐会の制限と運動の義務付けです。2週間から1ヶ月ほど生活を改めさせ、それでも改善が見られなければ、新薬の白藤錠を少量だけ処方します」
「三つ当てはまる場合は、すでに血管が傷つき始めている『中等度から重度』です。猶予はありません。即日、煙草と酒を禁じ、食事制限と運動を厳格に課します。生活改善の開始とほぼ同時に、白藤錠の定時服用を開始させなければ間に合いません」
そして、レンは声を一段低くした。
「四つすべてが当てはまる場合、あるいは手足の痺れや目のかすみ、傷が膿んで治らないといった補足兆候が出ている者は、『末期・血管破綻寸前』です。ある日突然、脳の血管が詰まって倒れるか、心臓が止まって死ぬ危険水域です。この段階の者には、絶対安静に近い生活管理と白藤錠の即時投与、さらに血栓を防ぐアスピリンの併用を視野に入れた厳戒態勢をとらせます」
「なるほど……。当てはまる数を見るだけで、誰でも患者の危なさが一目で分かるというわけですのね」
エレオノーラが感心したように頷く。
「ええ。専門的な医学知識のない医師や官吏でも、指を折って項目を数えるだけで、注意だけでいいのか、即座に薬を叩き込むべきなのかが判断できます。生活改善が主、薬は従。この原則を崩さず、段階に応じて管理させます」
執務室の空気がピリリと張り詰めた。
レンはさらに二束に分けた書類を机に叩きつけた。
「そこで、各国の妃たちに直ちに命じて、それぞれの管轄で『生活指導と薬物治療の特別講習会』を主催させてください。ただし――受講者の生活実態が違いすぎるため、貴族社会用と一般平民社会用の二つに完全に分けて開催させます」
「妃たちに講習会を開かせ、対象を分ける……ですのね」
エレオノーラが扇子をパチンと閉じ、怜悧な光を瞳に宿す。
「ええ。診断が一致した患者に対する手順は、三段階に分けます」
レンは指を立て、明快に要点を並べ立てた。
「第一段階は、生活習慣の徹底的な改善指導です。平民向けには、安価な青魚による良質な脂質の補給、野菜スープや豆類を最初に食べるベジタブルファーストの徹底、甘いシロップ水や昼のエールの禁止。そして、煙草の即時全面禁止と毎日の歩行運動です。貴族向けには、毎晩の豪奢な晩餐会と甘美な焼き菓子の制限、運動不足の解消、強い蒸留酒の節制、そして平民同様に食事の順序を徹底させます」
レンは続けて二本目の指を立てる。
「第二段階として、この生活改善を最低でも数週間実践し、本気で生き延びる意志を見せた者に対してのみ、僕が新開発した経口血糖降下薬『白藤錠』の処方を認めること」
そして、三本目の指を立てた。
「第三段階は、注意事項の徹底です。薬を飲んでいるから大丈夫だと暴飲暴食を再開する愚行の厳禁。脱水時の服用中止。そして強い酒との併用禁止。……要するに、『薬だけ寄越せ』と騒ぐ横着な貴族や富豪には、一粒たりとも薬を渡さないということです。生活改善が主であり、薬は従。妃たちには、その国の責任者としてこの診断と講習会を取り仕切ってもらいます」
レンが言い切ると、室内は水を打ったような静寂に包まれた。
カトレアが「なんと……目に見えぬ血液の異常を、問診と観察だけで炙り出すとは……」と息を呑み、シエナは「またレン様が医療の歴史を塗り替えてしまう……」と恍惚とした瞳で胸を押さえている。
そして――エレオノーラは、紫紺の瞳を爛々と燃え盛らせ、妖艶な笑みをその唇に浮かべた。
「……素晴らしいわ、レン。本当に恐ろしいお方」
「へ?」
「居城で待つ各国の泥棒猫たちに、ただ甘やかされて待つことを許さず、それぞれの国で『レン様の代理人』として問診と講習会を取り仕切る実務の首輪を嵌めるのですね……! しかも、その内容は美食に溺れる王侯貴族たちの血管と寿命の生殺与奪を握る恐るべき統治法……!」
「ち、違います!! 単に各国の拠点を動かせる権限を持ってるのが彼女たちだから、現地の公衆衛生を委託しただけです!!」
絶叫するレンの制止など、エレオノーラの耳には届いていなかった。
「ふふ……『問診で病を炙り出し、生活習慣を改善させ、レン様の妃たちが主催する講習に従う者にのみ延命の薬を分け与える』……! 従わぬ肥満貴族は、目が潰れ、足が腐り、勝手に脱落していくというわけですわね。しかも妃たちにとっては『夫であるレン様から託された重大な国務』……泣いて喜んで、死に物狂いで貴族たちを締め上げるに決まっていますわ!」
「だから締め上げの道具じゃないってば!!」
「任せなさい、我が夫君! 正妃たるこの私が、筆頭の威厳を以て各国の『側室予備軍』どもへ最高位通達を叩きつけて差し上げますわ! 『レン様より下された試練である。問診で炙り出し、貴族と平民を分け、草を食ませて歩かせ、講習会を完璧に成功させよ。粗相があれば正妃の座はおろか側室の枠すら剥奪する』と!」
「頼むからマイルドに書いて! ドラッグストアの本部通達みたいに事務的に送ってぇぇぇっ!!」
レンの悲痛な叫びを背に受けながら、エレオノーラは歓喜に満ちた足取りで指令書を手に執務室を飛び出していった。
◇
エレオノーラが嵐のように去り、ようやく静けさを取り戻した執務室で、レンは深く息を吐き出して額を押さえた。
「……はぁ。また変な方向に誤解された気がするけど、背に腹は代えられないな」
レンは椅子の背もたれに体を預け、机の上に残る白紙の羊皮紙へ視線を落とした。
糖尿病への対策とメトホルミンの普及ラインは、これで妃たちを巻き込んで動き出す。だが、下町の薬房でトマスを診て痛感したのは、それだけではなかった。
(トマスさんの血管は、いつ血栓が詰まってもおかしくない状態だった。そして現場を見渡せば、粗野な外科処置で叫びながら命を落とす負傷者や、感染症による激しい下痢と脱水で死んでいく子供たちで溢れかえっている……)
ペニシリンという強力な抗生物質を手に入れた今だからこそ、医療の土台を支える他の必須医薬品を一気に整理し、優先順位をつけて揃えなければならない。
レンは羽ペンを握り直し、前世の知見とこの世界の技術水準を天秤にかけながら、思考を紙の上に走らせていった。
(まず、インスリンは……絶対にダメだ)
脳裏をよぎったその奇跡のホルモンの名を、レンは迷わず思考から除外した。
動物の膵臓から抽出する技術は知っている。だが、微量の夾雑タンパクによるアナフィラキシーショック死のリスクはあまりに高すぎる。何より、指先一つで測れる簡易血糖測定器がないこの世界でインスリンを打てば、単位のわずかな誤差で低血糖昏睡を招き、患者を即座に脳死させてしまう。現場の管理体制が追いつかない劇薬は、毒薬と同じだ。
「自己満足で患者を殺す薬を出すわけにはいかない。……今、確実に形にできて、現場の命を救えるのはこれだ」
レンのペン先が滑らかに動き、次々と薬品の名が刻まれていく。
一つは、『石炭酸』。
製鉄や燃料用に使う石炭の乾留生成物から、酸とアルカリの分別抽出で容易に得られる強力な殺菌液だ。医師の手指消毒、メスや器具の浸漬、術野への噴霧――飲む薬ではないため体内への毒性リスクを避けつつ、患部の腐敗と接触感染死を激減させられる。ペニシリンを打つ以前の、「そもそも感染させない」ための絶対的な防壁だ。
二つ目は、『アスピリン(アセチルサリチル酸)』。
ヤナギの樹皮などから採れるサリチル酸に、濃縮酢酸から作った無水酢酸を反応させてアセチル化する。熱冷ましや日常の頭痛・関節痛を抑えるだけでなく、トマスのような糖尿病患者の血管に血栓ができるのを防ぐ抗血小板薬として極めて有用だ。多少の胃荒れは、すでに量産体制にあるエドワード愛用の胃腸薬『キャベギオン軍α』と併用処方させれば完全にカバーできる。
三つ目は、『ジエチルエーテル』。
高純度エタノールに濃硫酸を加え、約百四十度で加熱蒸留して得る吸入麻酔薬だ。引火性と揮発性の管理さえ徹底すれば、これまで激痛で患者がショック死していた外科手術を、完全に無痛で行えるようになる。フェノール消毒、エーテル麻酔、そしてペニシリン――この三つが揃って初めて、この大陸に近代外科学が成立する。
そして四つ目は、『経口補水塩』。
清潔な水に、純白塩、ブドウ糖、重曹を人体の浸透圧に合わせた比率で混ぜ合わせた粉末パケット。赤痢やコレラ、感染性胃腸炎で激しい下痢を起こした子供たちが、脱水ショックで命を落とすのをただ飲ませるだけで劇的に防ぎ止める。
「……よし。この布陣なら、今の設備と人手で確実に形にできる」
レンは顔を上げ、執務室に控えていたシエナとカトレアに向き直った。
「シエナ、カトレア。ノア・ホールディングスの調合工房の第2、第3ラインを直ちに押さえてください。石炭タールの分別ライン、硫酸の蒸留設備、それから乾燥粉末の小分けパッキングを行う作業場を確保します。危険な揮発性物質や強酸を扱うので、換気と防火の安全基準は僕が直々にマニュアルを作ります」
「承知いたしました。すぐに工房の手配に走りますわ」
シエナが手帳に羽ペンを走らせる。
「……レン様。この『ジエチルエーテル』というのは……布に染み込ませて吸わせるだけで、刃物で肉を裂かれても痛みを感じなくなるのですか……?」
書類を覗き込んだカトレアが、驚愕で声を震わせていた。
「ええ。意識を眠らせて、痛みを完全に遮断します。これがあれば、戦場で手足を切断する時も、兵士が激痛によるショックで死ぬことはありません」
「なんという……! 騎士団の負傷兵にとって、それはまさに神の慈悲そのものです……!」
カトレアが武人としての畏敬を込めて拳を胸に当て、シエナは深く微笑みながら書類を大切に抱きしめた。
「ペニシリンに続き、熱と血栓を抑える錠剤、痛みを消す気体、感染を防ぐ清浄の薬、そして命を繋ぐ水……。レン様、貴方は本当に、この世の苦痛そのものをすべて癒やすおつもりなのですね」
「いや、そんな大層な話じゃなくて、単に現場に絶対必要な基礎薬を揃えてるだけなんだけど……」
レンは苦笑いしながら頭を掻いた。
だが、その視線はすでに、机の上に並ぶフラスコと化学式へと真っ直ぐに向けられていた。
ペニシリンによる感染症制圧、メトホルミンによる生活習慣病の制御、そしてフェノール、アスピリン、エーテル、経口補水塩による医療基盤の確立。
元ドラッグストア店長が手掛ける総合ヘルスケア革命は、下町の薬房の片隅から、いよいよ大陸全土の医療を根本から塗り替える段階へと突入しようとしていた。
◇
元シルフィード公爵邸の大執務室を発端としたレンの「生活改善と段階的問診マニュアル」は、エレオノーラの手腕によって大陸各国の妃たちへと電光石火で叩きつけられた。
そして、その結果――レンの思惑とは全く違う次元で、彼の「神格化」は取り返しのつかない決定的な領域へと突入してしまったのである。
特に凄まじかったのが、レムリア法皇国だった。
香煙立ち込める聖薬大聖堂宮で、レンからの指令書を受け取った筆頭聖女は、羊皮紙を胸に抱いて涙を流した。
法皇庁の教皇、枢機卿、そして高位聖職者たちを集めた緊急聖務会議の壇上に立った聖女は、震える声で高らかに宣言したのだ。
「見よ、愚かなる人の子らよ! これぞ神の御子レン様が授けてくださった、命の真理の導きである!」
これまで法皇国において、大食漢の司教や太った貴族が突然手足を腐らせたり、昏睡して急死したりする現象は、悪魔の誘惑に負けた者への「神の罰」あるいは「悪霊の憑依」として扱われていた。
祈祷を捧げ、高額な聖水を浴びせ、それでも治らずに衰弱死していく人々を前に、聖職者たちはただ「信仰が足りぬ」と切り捨てるしかなかったのだ。
だが、レンの問診手順書は違った。
口渇、多尿、食後の眠気、体重減少――指を折って項目の数を数え、生活を改めさせ、白藤錠を与えた途端、死の淵にいた者たちの濁った瞳に光が戻り、止まらなかった尿意が治まり、腐りかけていた傷口が塞がり始めたのである。
「悪魔の呪いなどではない! 人の不摂生を見通し、日々の糧の摂り方を正し、野の草から万病を癒やす奇跡の霊薬を顕現せしめた……! 血液という人の目に見えぬ領域をも神の瞳で見通されるあのお方こそ、疑いようもなく預言に謳われし『絶対なる神の御子』に他ならない!」
教皇をはじめとする法皇庁の重鎮たちは、全員が床に額を擦り付けて号泣した。
これにより、レムリア法皇国においてレンは「名誉ある薬師」などという生ぬるい立ち位置ではなく、教義そのものを書き換える生きた現人神として公式に認定されてしまったのだ。
さらに、その余波は帝国、ゼノリス王国、そしてルーヴェン王国を含む全土へと狂乱のように波及した。
「神の御子のお姿を、一目だけでも拝みたい……!」
「我が家の居室に、病魔を退散させる守り神としてお姿をお祀りしたい!」
熱狂した民衆と貴族たちの凄まじい要望に応えるため、各国では宮廷絵師たちが総動員され、レンの「公式肖像画」や「木版刷りの似顔絵」が大量に製作される事態となった。
だが、レン本人は出張先でも王都でも部屋に引き籠もりがちで、まともに肖像画のモデルなど務めるはずがない。
結果として、エレオノーラが監修した「いささか美化され、神聖な後光が差している麗しい若き賢者」の絵姿が、版画刷りとなって大陸中へ飛ぶように流通した。
各国の街角、神殿の祭壇、貴族の館の広間には、レンの似顔絵が丁重に掲げられた。
病を患う平民たちはその絵の前に青魚と野菜スープを供えて平伏し、
「御子様、どうか我が血管をお守りください」
「煙草を断ちますので、脳の詰まりをお許しください」
と、涙ながらに祈りを捧げる始末。
貴族たちに至っては、豪華な金箔の額縁に収められたレンの似顔絵を一目拝むためだけに、長蛇の列を作って何時間も並び、絵の前で深々と頭を垂れてから、青ざめた顔で晩餐会の砂糖菓子を遠ざけるという奇妙な礼拝風景が各地で日常と化した。
「……ねえ、リリア」
王都の自宅の窓から、遠くの広場で自分の似顔絵が掲げられた屋台に群がり、熱心に手を合わせている群衆を眺めながら、レンは引きつった顔で白湯をすすった。
「はい、レン様。なんでございましょう?」
「あの広場にある、妙にキラキラした僕の絵……なんでみんな、あんなものに向かって拝んでるの? 僕、まだ生きてるよね? なんで街のど真ん中で生前葬みたいなことになってるの?」
「生前葬ではありませんよ、レン様。皆様、レン様の似顔絵を拝むことで『健康への誓い』を立て、病魔を祓おうとしているのです。法皇国からは『神の御子の御影画』として正式に聖遺物指定されたそうですし、一枚銀貨5枚で飛ぶように売れているそうですよ」
「……肖像権の侵害どころの騒ぎじゃないんだけどぉぉぉっ……!!」
頭を抱え、机に突っ伏して絶叫するレン。
自室の窓から外を覗けば、王都の広場に掲げられた自分の似顔絵の前に、青魚と野菜スープを抱えた群衆が列をなし、まるで病魔退散の神仏でも拝むかのように深々と頭を垂れているのが見えていた。
そのレンの背中に向けて、お茶の片付けをしていたバルツ男爵令嬢――専属侍女のリリアが、ふと歩み寄ってきた。
いつもならば「往生際が悪いです、レン様」「大人しく拝まれてください」と、冷ややかなジト目で辛辣なツッコミを入れてくるはずの彼女である。
だが、その時――背後から聞こえてきたのは、普段の澄ました声ではなかった。
どこか猫撫で声のような、背筋がゾワゾワと泡立つほど甘くねっとりとした響きだった。
「……ねえ、兄様?」
ピキッ、とレンの思考が音を立てて凍りついた。
突っ伏したまま、首筋から背中にかけて、嫌な冷や汗が一気に噴き出してくる。
(……あ、兄様……!? 今、この子……なんて呼んだ……!?)
恐る恐る顔を上げると、そこにはいつもの仏頂面ではなく、両手を胸の前で合わせ、琥珀色の瞳を異様な熱っぽさでギラギラと輝かせたリリアの姿があった。
顔の筋肉が引きつり、レンの頬を汗がツーと伝い落ちる。
「り、リリア……? どうしたの、急に。熱でもあるの? 変な薬草でも煎じて飲んだ……?」
「失礼ですね、至って正気ですよ、兄・様。エレオノーラ様の手回しとはいえ、レン様は我がバルツ男爵家に籍を置かれた身。戸籍の上では、私にとって正真正銘の義理のお兄様ですもの。そうお呼びして何の後ろめたさがありましょうか」
「い、いや、書類上のペーパー養子ってだけだし、普段そんな呼び方一度もしたことないじゃん! 頼むからいつもの辛辣なジト目に戻って! すごく不吉で怖いんだけど!!」
怯えるレンに対し、リリアはふふっと口元を歪め、胸に秘めていた策略をさらさらと語り始めた。
「さっき街で売られていたあの安物の版画ですら、銀貨5枚で即完売だったんですよ? ……なら、こういうのはどうでしょう。私が兄様の麗しい絵姿を直筆で何枚か描き下ろして、その隅に我が『バルツ男爵家』の正式な家紋の刻印を入れるんです。『神の御子レン様が身を置く、選ばれしバルツ男爵家・公認の限定御影画』……これなら、箔も付きますし、王都の裕福な貴族や豪商たちなら金貨50枚でも喜んで買い取りますよ」
「き、金貨50枚!? 男爵家の家紋を入れただけでそんな値段になるわけないだろ! 完全にブランドを悪用したボッタクリだよ!」
レンが頭を抱えて叫んだ、その時である。
執務机の反対側から、手帳と羽ペンを手にしたシエナが、かつてなく真剣な眼差しで身を乗り出してきた。
旧シルフィード公爵家の令嬢として生まれ、一度は家が完全に没落して多額の借金に苦しんだ経験を持つシエナの青碧の瞳は、リリアよりも遥かに切実で、現実的な錬金術の光を宿していた。
「いいえ、リリア。金貨50枚の一点物も悪くありませんが……一度没落を経験した身から言わせていただければ、真に堅実で莫大な利益を生むのは『薄利多売の大量生産』ですわ」
「えっ、シエナ……?」
シエナは羽ペンを走らせ、羊皮紙の上に恐ろしいほど緻密な内職の収支計画を書き殴り始めた。
「木版画です。レン様の絵姿に、さらっと直筆サインを入れた特製カードを版画で大量に刷り上げるのです。サインの数さえ増やせば希少価値がついて高値で安定して捌けますし、何より――これなら、王都で貧窮にあえぐ没落貴族たちの『内職』にちょうどいいのではありませんこと?」
「ぼ、没落貴族の内職……!?」
「ええ。誇りばかり高くて力仕事ができない没落貴族の令嬢やご婦人方に、レン様の木版画を刷らせてサインの検品をさせるのです。彼女たちに日銭が入って生活が救われ、我がノア・ホールディングスには莫大なマージンが入り、市場にはレン様のありがたいカードが溢れて全員が幸せになりますわ! かつての我が家のような困窮者を救うための、素晴らしい慈善事業です!」
「没落貴族救済という大義名分を盾にした、地獄のアイドル内職ビジネスだよそれぇぇぇぇっ!!」
レンは机をバンと叩いて立ち上がり、魂の底から絶叫した。
「一方は義妹面して公認家紋で金貨50枚をぼったくろうとするし、もう一方は没落貴族を工員にして僕のサイン入りトレカを大量生産しようとするし! やめて! 神の御子として拝まれるだけでも胃に大穴が開きそうなのに、これ以上身内総出でグッズ転売ビジネスを拡大しないでくれぇぇぇっ!!」
「あら、とても素晴らしい内職だと思いますけれど。ほら兄様、動かないでください。まずはリリアが描く限定原画のポーズをとってくださいな」
「誰がポーズをとるか! キャベギオン軍α! 誰か僕にキャベギオン軍αを丸ごと一瓶持ってきてくれぇぇぇぇっ!!」
下町での生活指導と新薬開発を無事に終えたはずのレンを待っていたのは、身内の令嬢たちによる容赦なき「神の御子グッズ販売計画」という新たな包囲網だった。
元ドラッグストア店長の胃壁は、またしても限界突破の悲鳴を上げ続けるのだった。




