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電脳鑑定の調合師  作者: 藤咲玲


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18/29

18話:亡人テロのち、生活習慣指導と白い錠剤(メトホルミン)

【仮の居城と未亡人包囲網】


 帝都オルデンブルクでのペニシリン量産プラントの目処をつけたレンは、提示した条件――「各国での生産拠点の整備」を指導・検分するため、周辺諸国への『技術指導出張』へと旅立つことになった。


 元製薬会社研究員兼エリア統括マネージャーとして、工場立ち上げの出張など慣れたものだ。


「よし。現地での滞在先だけど、作業員用の宿舎か、工場近くの清潔な宿屋を1部屋取ってくれればそれでいいからね。技術指導とタンクの滅菌チェックさえ終われば、すぐ次の国へ移動するし」


 そう言って荷物をまとめていたレンに、各国から派遣された案内役の高官たちは、何を馬鹿なと言わんばかりに揃って首を横に振った。


「滅相もございません、レン閣下! 貴方様のようなお方が宿屋などに泊まるなど、我が国の威信が許しません!」

「宿を探す必要など毛頭ございません。すでに現地には、閣下の『仮の居城』が完璧に整備されておりますゆえ!」


「……は? 仮の居城?」


 嫌な予感を抱きながら現地へ到着したレンを待ち受けていたのは、宿屋どころか、街の一等地や風光明媚な高台にそびえ立つ、豪奢極まる宮殿や大城塞だった。

 そして――その居城の最奥、主寝室の前で完璧な淑女の礼をとって出迎えたのは、各国が国家の総力を挙げて差し出してきた「妃」たちだったのである。


 ◇


 ルーヴェン王国・特務公爵公邸


「お帰りなさいませ、私の愛しいレン。旅の埃を落とす湯浴みの準備も、この後の晩餐も、そして夜の床の設えも……すべてこの姉が完璧に整えておきましたわ」


 出迎えたのは、王家の勅許による「第1王女フリオーリア降嫁」のカードを握り潰し、実質的な城の女主人として居座っていた長女エレオノーラだった。薄絹を羽織った妖艶なドレス姿で、紫紺の瞳を蕩けるように細めている。


「……あの、姉上? 僕、工場の配管と深部発酵タンクのチェックに来ただけなんですけど。このお城みたいな居城も、姉上が女主人の顔をしてここにいるのも、全部いらないよ……?」


 引きつった顔で後退るレンに、エレオノーラは一瞬で儚げに眉を伏せ、瞳にうっすらと涙を浮かべた。


「いらない、ですって……? レン、貴方は国家が定めたこの決定事項を覆し、私に初日から『未亡人になれ』と仰るのですか……!? 弟に捨てられ、主の訪れぬ城で朽ち果てろと……? そんな無慈悲なことをするくらいなら、いっそその白銀のメスで私の胸を突いてくださいまし……!」


「いや死んでないから! 勝手に未亡人にならないで!? 僕、ただの出張の技術者だからね!?」


 ◇


 レムリア法皇国・聖薬大聖堂宮


 純白の大理石とステンドグラスに囲まれた、神聖にして荘厳な「御座所」。

 香煙が立ち込める天蓋付きベッドの前で、純白の薄衣をまとった筆頭聖女が、頬を林檎のように赤らめて三つ指をついていた。


「神の御子、レン様……。主の御心を宿す貴方様をお迎えするため、この聖なる城と私の身のすべてを、神へ捧げる祈りと共に清めてお待ちしておりました」


「あの……聖女様? 僕はただ、神殿の敷地を借りてアオカビの培養テストをするだけなんですが……。こんな祈祷室付きの城も、専属の妃待遇も本当にいりませんから……」


 レンが丁重に辞退の手を振った瞬間、聖女はハッと息を呑み、胸の前で十字を切って絶望の表情を浮かべた。


「い、いらない……? ああ、神よ……! 私は御子の伴侶として法皇庁に命じられた身。初夜を迎える前に御子に拒絶されたとあっては、私は初日から『聖なる未亡人』として一生を地下の修道院で幽閉されて過ごすしかございません……! 私に死ねとおっしゃるのですか……!?」


「神の解釈が重すぎる!! だから誰も死んでないってば!!」


 ◇


 ゼノリス王国・氷嶺の大城塞


 北東の険しい山脈を望む、堅牢無比なる軍事要塞宮殿。

 暖炉に赤々と薪が爆ぜる広間で待っていたのは、白銀の式典用軽甲冑に身を包んだ、凛々しくも豊満なゼノリス王国の筆頭王女だった。


「よくぞ参られた、我が夫君たるレン殿! 出遅れの非を詫びるため、我が国の総力を挙げてこの堅牢なる城を整えた! 今宵より、我が身も領地も、すべて貴殿の好きに差配されるがよい!」


「王女様、ストップ。僕はただ、耐寒性の高い変異株の培養プラントを立ち上げに来ただけです。城の防衛力も、王女様を妃として宛がわれるのも、全部お断りします」


 レンがきっぱりと言い放った刹那、王女の腰のサーベルがチャキンと音を立てた。


「断る、だと……!? 愚弄するか、レン殿! ゼノリスの王族たる我が、婚姻の勅命を受けながら床入りすら拒まれ、初日から『生き恥を晒す未亡人』になれと言うのかッ! 武人の誇りを穢されるくらいなら、今この場で腹を召して貴殿への操を立ててみせる!!」


「なんでどこの国でも即座に未亡人ムーブに入るのぉぉぉぉっ!? 武士道精神持ち出さないで! 刃物を置いて!!」


 ◇


「……はぁ、はぁ、はぁ……」


 すべての拠点において、

「いらないよ」と断る

 ↓

「決定事項です。初日から未亡人にさせる気ですか!?」と詰め寄られる

 ↓

 命懸けの芝居と狂気に押し切られ、なぜか豪奢な主寝室に軟禁される


 ――という全く同じ地獄の様式美を叩きつけられたレンは、どの国へ行っても安眠などできるはずもなく、ベッドの隅で小さく丸まって枕を濡らすしかなかった。


(誰か……誰か僕に、ただのボロい宿屋のベッドと、何の打算もない胃薬を恵んでくれぇぇぇぇっ……!!)


 世界を救うはずの近代抗生物質プラントの展開は、レンの意図とはまったく無関係に、「大陸各地にレンの仮の居城と、既成事実を狙う未亡人予備軍の妃たちが量産される」という、悪夢のような多頭飼いハーレム包囲網へと変貌を遂げていたのだった。


【実姉の強襲と純血の論理】


 王都の一等地、かつてシルフィード公爵家が構えていた広壮な元公爵邸の自室。

 レンはふかふかのベッドへダイブし、枕に顔を埋めて長い息を吐き出した。


 帝国の黄金の鳥籠でもなく、法皇国の香煙立ち込める御座所でもなく、ゼノリスの軍事要塞でもない。自分が買い取り、気兼ねなく暮らせるこの自宅こそが、唯一の安息地だった。


「お帰りなさいませ、レン様。無事のお戻り、心より嬉しく思いますわ」


 ノックと共に現れたのは、夜空色のドレスを着こなしたシエナ――自称『シエナ・フォン・バルツ』だった。手には温かいハーブティーの湯気が揺れている。

 さらに背後からは、王都で留守を預かっていた専属侍女のリリアが、呆れたようなジト目を向けて入ってきた。


「レン様、お疲れ様です。……ですが、そんなところで伸びていてよろしいのですか?」


「リリア……頼むから休ませてくれ。どこの国へ行っても『初日から未亡人にさせる気か』って詰め寄られて、胃に穴が開きそうなんだよ……」


 涙目で白湯をすするレンに、リリアは容赦なく冷徹な現実を突きつけた。


「ですがレン様。しばらく出張を控えてこの自宅に引き籠もるのは結構ですが……たまにはあの各国の『仮の居城』を順番に回らないと、大変なことになりますよ?」


「……え? 大変って?」


「何が大変って……あの方々、放置したら『レン様に捨てられた!』と国を挙げて大騒ぎなさいますよ。王国のフリオーリア殿下が恥辱に耐えかねて出家なさるか、法皇国の聖女様が絶食なさるか、ゼノリスの王女殿下が軍を率いてレン様を奪還しに攻め込んでくるかの3択です」


「…………っ!」


 レンの背筋に、冷たい氷水が落ちた。


「いらない」と断れば未亡人になると詰め寄られ、

 逃げ帰って放置すれば「捨てられた未亡人たちの逆襲」で世界大戦が勃発する。


「……僕、ただ薬を広めたいだけの元店長なのに、なんで大陸中のヤンデレ国家要人を宥めて回る『定期巡回ルート』を組まなきゃいけないの……!?」


 頭を抱えて絶叫するレンの叫びが、豪奢な元公爵邸に虚しく木霊した、その時である。


 ノックもそこそこに、部屋の重厚な扉がバーンと勢いよく開け放たれた。


「――レン! 無事に戻ったのですわね!」


 部屋に踏み込んできたのは、豪奢な夜会用ドレスを纏い、紫紺の瞳を爛々と輝かせた実姉――エレオノーラだった。

 帝都オルデンブルクでの使節団の任務を終え、レンの帰還を察知するや否や、風のようにこの邸宅へ乗り込んできたのだ。


「あ、姉上……」


 ベッドから起き上がり、思わず引きつった顔で後ずさるレン。

 そんな彼を値踏みするように頭から爪先まで見つめた後、エレオノーラはふっと艶やかな、だが底知れぬ圧を孕んだ笑みを浮かべ、ベッドの脇に優雅に腰を下ろした。


「……さて。レン、単刀直入にお聞きしますわ。今の私は、貴方にとって『姉』かしら? それとも――?」


 試すようなその問いかけに、レンはわずかに視線を泳がせながら答えた。


「……そりゃ、立場上は姉上ですけど」


「ふふ、口ではそう言いますのね。ですがレン、世間と国家の認識は違いますのよ。今の私は、貴方にとって『王国の正妃(筆頭伴侶)』として内定・決定した立場なのですから」


「……え? け、決定……? 僕が頼んだのは工場の用地であって、妃なんて頼んでないはずじゃ……」


 戸惑うレンに対し、エレオノーラは扇子を優雅に揺らし、王宮で繰り広げられた血みどろの政治工作と苦労話を語り始めた。


「貴方が帝都で『生産拠点を寄越せ、見返りのない国には渡さん』などと世界を相手に大見得を切るからですわ。王宮は蜂の巣をつついたような大騒ぎになりましてよ。国王陛下は本気で『第1王女フリオーリアをレンに降嫁させ、王配として繋ぎ止める』という勅命書に玉璽を押しかけましたわ。あの、社交界の男子全員が傅く『王国の白百合』を、貴方の仮の居城へ送り込むために!」


「……いや、姉上? その居城にフリオーリア殿下を差し置いて女主人の顔で居座って、『初日から未亡人にさせる気ですか』って僕に迫ってきたの、姉上本人ですよね……?」


「当然ですわ! あの泥棒猫に貴方を渡すくらいなら、私が先回りして既成事実を作って差し上げますもの! ……ですが、あの方にだけは、絶対に! 何があっても貴方を譲るわけにはいきませんの!!」


 カッと目を見開き、凄まじい迫力で詰め寄ってくるエレオノーラ。

 そして彼女は、王宮の重鎮たちを黙らせた「最大の決め手」を、恍惚とした笑みを浮かべて明かした。


「私が陛下やお父様(公爵)をねじ伏せるにあたって、決定打になったのは、なんといっても血縁関係なのよ」


「……血縁?」


「ええ。貴族院の古臭い連中も、陛下も、最初は『第1王女の降嫁こそが至高』などと抜かしておりましたわ。ですから、私は堂々と円卓の前に進み出て、満場の重鎮たちへこう問いかけて差し上げたのです。――『この大陸の歴史を覆す奇跡の頭脳と才能に対し、他家の血を混ぜて薄めるなど言語道断。王国の誇る至高のベルフォール家において、より濃い血筋を残す方が素晴らしいとは思いませんか?』と!」


「なっ……」


「いいえ、至極まっとうな理屈ですわ。近親婚は過去の歴史を振り返ってみてもあながち間違いというわけではないのよ。純血を守り、神聖なる権威を継承してきた王家の血筋を残す有力な方法であり、何より――あなたの類稀なる才能や能力を、余計な夾雑物で薄めることなく色濃く残すための唯一無二の方法でもあるのですから」


 エレオノーラは確信に満ちた瞳でレンを見つめ、蕩けるような笑みを浮かべる。


「古代王朝の神王たちも、至高の血筋を保つために兄弟姉妹で契りを交わしてきましたわ。ましてや貴方は、四肢を腐らせる壊疽をも滅する『白い結晶』を産み落とした奇跡の頭脳……! 他家の凡庸な血を混ぜてその才覚を霧散させるなど、人類史に対する冒涜です。ベルフォール公爵家の血統において、最も貴方に近く、最も優れたこの私が交わることこそが、未来永劫に渡って奇跡の系譜を色濃く残す最善手――そう陛下たちに理路整然と説き伏せて差し上げましたの!」


「……」


 呆気にとられるレンだったが、内心のどこかで、妙に冷静な思考が働いていた。


(……いや、言われてみれば、そうなんだよな……)


 レンの中身は、前世で60代まで独身のまま過労死した元ドラッグストア店長だ。

 この世界の肉体こそ公爵家の血を引いているとはいえ、魂の根底にあるのは現代日本の感覚である。しかも、エレオノーラによって戸籍上はすでにバルツ男爵家の養子として出籍させられ、法的には正真正銘の「赤の他人」になっている。


 何より――目の前で情熱的に頬を染め、紫紺の瞳を潤ませているエレオノーラは、社交界で『氷の令嬢』と恐れられる絶世の美姫だ。

 かつて初めて参加した王都の夜会で、思わず本音で「好みのタイプだ」と評してしまったほど、レンにとってはど真ん中の女性なのである。


 現代人のドライな感覚からすれば、「血縁」という言葉の実感も薄く、戸籍上も他人。おまけに自分に一途で、才色兼備の完璧な美女。他国の海千山千の王女や、裏で何を企んでいるか分からない政治的な相手を押し付けられるくらいなら、身元も性格も熟知しているエレオノーラが隣にいてくれるのは、むしろ願ったり叶ったりではないか――。


 だが、そうした感情的な好意とは別に、元企業人・店舗責任者としての「冷静なブレーキ」がキリキリと音を立てて作動した。


(……いやいや、待て待て。個人的な感情としては全然アリだし、むしろありがたいくらいだけど……世間体はどうなるんだよ!?)


 レンは眉をひそめ、至近距離に迫るエレオノーラへ向けて現実的な懸念を口にした。


「……あのさ、姉上。姉上の言う歴史上の理屈や、僕への気持ちは……まあ、嬉しいというか、ありがたいとは思いますよ。正直、他国の得体の知れない相手よりはずっと心強いですし」


「あら……! ふふ、嬉しいですわ」


「でも! それはあくまで僕たち2人の感情的な話であって、世間体はどうするんですか!? いくら戸籍上は男爵家に出籍して他人になったとはいえ、昨日まで実の姉弟として育ってきたのは王国中が知ってる事実ですよ!? 社交界の貴族たちや市井の民草から『ベルフォール公爵令嬢が元実弟を囲い込んだ』だの『実の姉弟で婚姻関係を結んだ』だの、後ろ指を指されてスキャンダルまみれになるのは目に見えてます!」


 前世でチェーン店の店長としてコンプライアンスや世間の評判に神経をすり減らしてきたレンにとって、「社会的な外聞」や「世間体」の悪さは胃潰瘍を引き起こしかねない大問題だった。


「僕ひとりが叩かれるならまだしも、姉上自身の評判に傷がつきますし、何より公爵家全体の対面だってガタ落ちでしょう!? ただでさえ『第1王女殿下を差し置いて実姉が居座った』なんて言われたら、王家を軽視した傲慢貴族として社交界から総スカンを食らうんじゃないですか!?」


 必死になって常識的な世間体を訴えかけるレン。

 だが、そんな弟の懸念に対し、エレオノーラはふっと艶やかな笑みを深くし、まるで物分かりの悪い子供を宥めるように優しくその頬に手を添えた。


「まあ、レン……貴方、そんな些細な世間体を気にしていたのですか? 愛らしいこと」


「さ、些細!?」


「ええ、極めて些細ですわ。だって――この大陸のルールを決めるのは、いつの時代も『圧倒的な勝者』なのですから」


 エレオノーラの紫紺の瞳が、ゾッとするほど怜悧な輝きを放った。


「貴方が生み出した『ペニシリン』の前に、世界中の国家が膝を屈しているのです。その絶対の利権と命の綱を握る貴方とベルフォール公爵家に対し、一体どこの誰が面と向かって『世間体が悪い』などと口を挟めるというのかしら? 陰口を叩く者がいれば、その領地への配給を後回しにするだけで、翌朝には満面の笑みで『至高の愛の形です』と手のひらを返して祝福しに来ますわ」


「やってることが完全に悪徳カルテルなんだよなぁ……!」


「それに、貴方はすでに男爵家の長男。法的手続きは完璧です。王宮の重鎮たちには私が『王家の血統史』と『才能の純血保持』という大義名分を叩き込み、すでに認めさせました。表向きは『国家の至宝たる才覚を保持するための神聖なる婚姻』として貴族院に布告させますわ。世間など、見栄えの良い神話と圧倒的な権力でいくらでも黙らせられるものなのよ」


 完璧な論理と政治力で世間体すら力技でねじ伏せる気満々の実姉に、レンは心底圧倒されながらも、どこか諦めにも似た心地よい脱力感を覚えていた。


(……この人、本当に敵に回したら一番恐ろしいけど……味方で、しかも自分に全振りしてくれてるなら……これほど頼もしい盾もないのかもしれないな……)


 紫紺の瞳に見つめられ、甘い香りに包まれながら、レンの世間体への抵抗感は、音を立ててゆっくりと溶解していくのだった。


【近衛執務室の胃痛と側室志願】


 エレオノーラの甘く重い包囲網から命からがら抜け出したレンは、その足で王宮の近衛騎士団本部へと向かっていた。


 向かう先は、王都で唯一、筋肉と常識のバランスが取れている(はずの)実兄・エドワードの執務室である。


 コンコン、と控えめに扉を叩く。


「入れ」


 中から返ってきたのは、鍛錬後特有の野太く、だが心なしか疲労の滲む声だった。

 レンが恐る恐る扉を開けると、そこには書類の山を前にして額に手を当て、机の引き出しから取り出した『キャベギオン軍α』を水で流し込もうとしているエドワードの姿があった。


「……兄上」


「ん? ……おお、レンか! 帝都から戻っていたのか!」


 エドワードはパッと顔を輝かせ、分厚い胸板を揺らして立ち上がった。

 しかし、その屈強な体躯とは裏腹に、目の下にはうっすらと隈が浮かび、胃のあたりを無意識に庇うような姿勢をとっている。


「無事で何よりだ。……いや、本当に無事でよかった。数日前、鍛錬の最中に突然、万力で胃袋を雑巾絞りにされるような激痛が走ってな……お前が帝都で他国の怪物どもに八つ裂きにでもされているんじゃないかと、本気で心配したんだぞ」


「あ、それ……多分僕のせいです」


 レンは乾いた笑いを浮かべながら、エドワードの向かいの革張りの椅子へと力なく腰掛けた。

 そして、すがるような目で実兄を見つめ、両手で自分の鳩尾(みぞおち)を強く押さえた。


「……兄上。単刀直入に言います。最近、僕も胃がキリキリ痛むんです。もう、夜も眠れないくらいに」


「な、なんだと……!? あの固有スキル『健康体』を持つお前が、胃痛だと!?」


 エドワードが驚愕に目を見開く。

 レンは涙目で、ここ数日間に自分の身に降りかかった理不尽の数々を吐露した。


「帝都で工場の用地と適正流通の話をしただけなのに、各国から『仮の居城』と『妃』を押し付けられ……断れば『初日から未亡人になれと言うのか』と詰め寄られ……命からがら逃げ帰ったら、今度は姉上が『近親婚は歴史的にも純血保持のためにも正しい』とかいうトンデモ血統論で王宮を論破して、僕の正妃の座に着任してたんですよ……! 世間体も外聞も全部力技でねじ伏せる気満々で……もう僕の胃壁が持ちません! 兄上、頼みますからなんとかしてください……!」


 元製薬研究員、元ドラッグストア店長の誇りもかなぐり捨てた、実兄への魂の懇願。


 エドワードは深いため息をつき、深く同情するようにレンの肩に大きな手を置いた。


「すまぬ、レン……。あのエレオノーラを止められる人間など、この大陸広しといえど存在せんのだ。親父殿ですら、あいつが円卓で血統論をぶち上げた時、泡を吹いて卒倒しかけたんだぞ……。俺にできることといえば、お前が作ったこの胃薬を一緒に飲むことくらいで――」


 バァンッ!!


 執務室の頑丈なオーク材の扉が、凄まじい勢いで蹴破らんばかりに開け放たれた。


「――失礼いたします、エドワード団長! ならびに……ああ、やはりいらっしゃいましたか、レン様!」


 銀光を放つ近衛の鎧を完璧に着こなし、マントを颯爽と翻して踏み込んできたのは、侯爵令嬢にして近衛騎士団副隊長――カトレア・アッシュフォードだった。


「カトレア!? ノックぐらいせんか!」

 エドワードが怒鳴るが、カトレアは上官の叱責などそよ風程度にしか受け止めていない。

 その真っ直ぐすぎる凛々しい瞳をギラつかせ、レンとエドワードの間にズカズカと割り込んできた。


「団長、軟弱な泣き言など言っている場合ではありません! 私は先ほどから扉の外で、レン様の悲痛なるお悩みをすべて拝聴しておりました!」


 カトレアはレンの前に膝をつき、胸当ての上から拳を当てて騎士の礼をとった。

 そして、鍛え上げられた美貌に異様な決意を宿し、とんでもない爆弾発言を堂々と言い放ったのである。


「レン様! エレオノーラ様の独占欲と、各国の王女や聖女たちの包囲網にお悩みであれば、このカトレア・アッシュフォードがその身を盾にしてお守りいたします! もはや正妻の座などという贅沢は申しません! この際ですから、私は側室で構いません!!」


「……は?」


 レンの思考がピシリと音を立てて停止した。

 隣ではエドワードが「ぶっ!?」と吹き出し、盛大に咳き込んでいる。


「ちょ、ちょっと待ってカトレアさん!? 今なんて言った!?」


「ですから、側室でいいと申し上げました!」


 カトレアは何の恥じらいもなく、むしろ誇らしげに胸を張って言い切った。


「エレオノーラ様が『至高の血筋を残す正妃』として君臨されるというのなら、武門の家柄であるアッシュフォード侯爵家の娘たる私は、レン様の実務と夜警を支える『武断派の側室』として身を捧げます! 家事、大工仕事、敵の暗殺者の迎撃、さらにはエレオノーラ様が暴走された際の物理的な時間稼ぎまで、側室たるこの私がすべて引き受けましょう!」


「お前は何をぬけぬけとほざいているんだカトレアァァァッ!!」


 エドワードが机を叩き割らんばかりの勢いで立ち上がり、自らの副官へ向けて怒声を上げた。


「『この際だから側室でいい』だと!? 我が近衛騎士団の副隊長であり、天下のアッシュフォード侯爵家の令嬢が、白昼堂々と上官の執務室で愛人枠の立候補をするな! 大体、問題の解決に全くなっておらん! 火に油を注いでどうする!!」


「いいえ団長、これは極めて戦略的な布陣です! 外敵(帝国・法皇国・ゼノリス)を防ぎつつ、内部(エレオノーラ様)の圧力を分散させるには、信頼できる近衛の武力がレン様の最も身近な寝所――すなわち側室の枠に収まるのが最も合理的なのです!」


「屁理屈をこくな! お前の個人的な欲望がだだ漏れなんだよ!!」


 怒鳴り散らす筋肉の上官と、大真面目な顔で側室のプレゼンを続ける脳筋の女騎士。

 2人の間で激しい火花が散るのを眺めながら、レンは両手で顔を覆い、机の上に突っ伏した。


「……兄上」


「な、なんだレン!?」


「……『キャベギオン軍α』、もう1瓶もらえますか……? 今度は、1回に10錠くらい飲まないと……僕の胃が消滅しそうです……」


 助けを求めて駆け込んだ先で、さらに逃げ場のない包囲網が強化されただけだったという現実に、レンの胃壁はついに限界突破の悲鳴を上げるのだった。


【下町の薬房と職人への生活習慣指導】


 王都の下町。

 立ち並ぶ庶民の長屋と石畳の路地の角に佇む、木造2階建ての質素な店舗。

 ノア・ホールディングスという大陸規模の巨大企業が産声を上げた原点であり、レンにとって唯一、政治も権力闘争も届かない聖域――『下町の薬房』である。


「……ふぅ。やっぱり、ここが一番落ち着く……」


 白衣代わりの地味な麻のエプロンを身につけ、カウンターを雑巾で拭き清める。

 棚には自生薬草の乾燥束やガラス瓶が整然と並び、ほのかにハッカと薬草の清涼な香りが漂っていた。

 公爵位の押し付け合いも、命懸けの未亡人アピールも、ここでは無縁だ。


 カランコロン、と入り口の素朴な真鍮ベルが澄んだ音を鳴らした。


「いらっしゃいませ」


 反射的に元ドラッグストア店長の営業スマイルを浮かべたレンの前に現れたのは、豪奢な貴族でも、殺気立った女騎士でもなかった。

 丸っこい体型に擦り切れた革前掛けを締め、脂汗をハンカチで拭いながら入ってきた中年の男――近所で木工工房を営んでいる職人の親方、トマスだった。


「よう、レンの坊主……いや、今は男爵家の若旦那だったか? ちょっと身体の相談に乗ってほしくてな」


「トマスさん。ここでは昔通り『レン』でいいですよ。どうしました? 顔色が少し優れませんね」


 カウンター越しに向かい合うと、レンの観察眼が静かに起動した。

 荒い息遣い。首筋や腕の皮膚の黒ずみ。足元を見れば、革靴の隙間から覗く足首がパンパンに浮腫んでいる。


「いやぁ、ここ数ヶ月、どうにも身体が重くてな。やたらと喉が渇いて、1日中エールや甘い麦湯をがぶ飲みしちまうんだ。そのくせ小便の回数ばかり増えて、夜もろくに眠れねぇ。手足の先がピリピリ痺れるし、体重も急に落ちてきやがった。……これ、何かの呪いじゃねぇだろうな?」


 不安そうに眉を寄せるトマスに、レンは穏やかに頷きながら、手元の羊皮紙に羽ペンを走らせた。


「呪いなんかじゃありませんよ。……トマスさん、いくつか質問させてください。普段の食事って、どんなものを食べていますか?」


「食事ぃ? そりゃあ、職人だからな! 朝から白パンを山ほど食って、昼は脂身たっぷりの豚の塩漬けと干し肉。喉が渇いたら甘い果実シロップ水で流し込んで、夜は仲間とエールをしこたま飲む! 野菜? あんな青臭い草、ウサギのエサじゃねぇんだから食ってられるか!」


 豪快に笑いながら、トマスは無意識に腰の革ポーチから使い込まれた木製パイプを取り出し、刻み煙草の葉を詰めようとした。

 その指先、そして染みついた紫煙の匂いに、レンの双眸がスッと細まる。


(この肥満体型、豚の脂身と塩漬け肉のドカ食い、甘いシロップ水のがぶ飲み……高血糖だけじゃない、中性脂肪もコレステロールも限界突破している。それに加えて、日常的な喫煙習慣まであるのか……!)


 高血糖で傷ついた血管壁に、高脂血症の脂がへばりつき、そこへ煙草の煙で血管を急激に締め上げれば何が起きるか。

 ドラッグストアの現場で数多くの症例と健康相談に向き合い、自らも過酷な労働環境の末に心筋梗塞で命を落とした前世の記憶を持つレンには、その恐ろしさが痛いほど理解できていた。


「トマスさん。……その煙草は、今すぐ仕舞ってください」


「あ? なんだ坊主、仕事の合間の1服くらい――」


「質問に答えてください。昼飯を腹いっぱい食べた後、耐えられないくらい強烈な眠気に襲われませんか? 金づちを握ったまま意識が飛びそうになるくらいの」


「う……! な、なんで分かるんだ!? まさにそれだ。昼飯の後、急激に頭がボォーッとして立ち眩みみてぇになるんだよ」


「それから、手足の小さな擦り傷がなかなか塞がらなかったり、時々、片方の手足に力が入らなくなったり、ろれつが回りにくくなる瞬間はありませんか?」


「……! き、傷は確かに治らねぇ。手足の痺れも……たまに指先から感覚が消える時があるが……まさか、これって……」


 トマスの顔から血の気が引いていく。

 レンはカウンターに羽ペンを置き、かつてなく真剣な眼差しで職人の目を射抜いた。


「トマスさん。はっきり言いますが、このままの生活を続けていたら、いずれ目が霞んで見えなくなったり、足先が腐って切り落とすことになります。……それどころか、ある日突然、脳の血管が詰まって半身不随になるか、心臓が止まって命を落としますよ」


「な、脳の血管……!? し、死ぬ……!?」


「脅しじゃありません。トマスさんの身体は今、糖と脂で血液が泥水のように濁り切って、血管という配管がボロボロに傷んでいるんです。そこへ煙草を吸い込めば、煙の成分で弱った血管が一気に縮み上がって、ドロドロの血が詰まります。脳梗塞や心筋梗塞の引き金を、自分で毎日引き続けているようなものなんです」


「ひ、ヒィッ……! お、おいレン、どうすりゃいいんだ!? 何とかしてくれよ!」


 パニックになりかけたトマスに対し、レンは指を3本立て、冷徹かつ明確に告げた。


「薬に頼る前に、まずは生活の徹底的な改善です。第1に――『煙草は今日から即刻、1本たりとも禁止』です」


「き、禁煙!? 勘弁してくれ、仕事の集中が切れちまう……!」


「命と煙草、どっちが大事ですか? 脳の血管が詰まって手が動かなくなったら、木工の仕事どころか一生寝たきりですよ」


 レンの容赦ない言葉に、トマスはぐうの音も出ずにパイプを握りしめたまま俯いた。


「第2に、食事の改善です。脂身だらけの豚肉や干し肉を減らしてください。その代わり、市場で安く手に入る『青魚』……イワシやサバの類を毎日のように食べてください」


「魚ぁ? そんなんで力が出るのかよ……」


「出ます。肉の脂と違って、青魚の脂は血管の詰まりを予防し、ドロドロの血液をサラサラに戻してくれる良質な油なんです。焼き魚でも、野菜と煮付けてもいい。肉を我慢する代わりに、魚はお腹いっぱい食べて構いません」


「血の……掃除……」


「そして第3に、食べる順番です。甘いシロップ水と昼のエールは水かお茶に変える。そして食事の時は、キャベツや蕪の野菜スープを『一番最初』に丼1杯食べるんです。その次に青魚。大好きな白パンは今の半分に減らして、最後に食べる」


「草が最初、次に魚、パンは最後……」


「そうです。繊維で壁を作れば、急激な眠気も防げます。工房の仕事とは別に、朝夕に少し早足で街を歩いてください。……いいですね? 煙草を捨てて、魚を食って、野菜から食べる。2週間、徹底して試してください。2週間後に、またここで様子を見ます」


 レンの鬼気迫る、だが命を本気で救おうとする気迫に押され、トマスは震える手でパイプを深く鞄の底へと押し込んだ。


「わ、分かった……! 死にたくねぇ! 今日から煙草もエールもやめて、魚買って草から食うよ……!」


 脱兎の勢いで薬房を飛び出していくトマスを見送り、レンは深く息を吐き出した。


 不摂生を放置したツケがいかに恐ろしいか、そして血管の病がどれほど前触れなく命を奪うかを知る専門家として、見過ごすわけにはいかなかった。


 トマスが生活改善で持ち直してくれることを願いつつ、レンは奥の調合室へ向かい、『白藤擬き(シラフジモドキ)』からメトホルミン(ビグアナイド薬)を精製するためのフラスコに火を点けたのだった。


【白藤の結晶とメトホルミンの精製】


 調合室の炭火が、静かに赤く爆ぜる。


 レンは麻のエプロンの袖をまくり、作業台に向かっていた。

 棚から下ろしたのは、先ほど選別した乾燥薬草『白藤擬き(シラフジモドキ)』の束。マメ科特有の青く苦い香りが、部屋の空気に満ちていく。


(メトホルミンの祖先となる天然成分は、フレンチ・ライラックに含まれる『ガレギン』……グアニジン誘導体だ。だが、植物の粗抽出液のままでは毒性が強すぎて胃腸障害や心機能への負担が大きい。余分なアルカロイドや夾雑物を除き、安定した塩酸塩の結晶として取り出す必要がある)


 レンは生薬を乳鉢で細かく粉砕し、高純度エタノールを注いで常温浸漬。さらに湯煎による穏やかな加温抽出をかける。

 フラスコの中で抽出液が深い琥珀色へと変わっていくのを見届けながら、弱酸性の溶液による中和、分液漏斗を用いた不純脂質の除去、そして濃縮乾固と再結晶化――前世の製薬開発部で幾度となく繰り返した、基礎的だが極めて緻密な有機分離の工程を、淀みない手つきで進めていく。


 ガラス漏斗に敷いた綿布の上に、キラリと白銀の粉末が析出した。


「……よし。結晶化に成功したな」


 レンは『物質相互鑑定プラグイン』を作動させ、析出した白い微細な結晶の分子構造と純度を照合する。


 ――鑑定結果:『ジメチルビグアナイド塩酸塩(メトホルミン相当物)』

 純度:98.2%。重篤な植物毒素の混入なし。


「よし……不純物はきっちり落ちている」


 レンは安堵の息をつき、それを微細なデンプン粉末と混ぜ合わせ、小さな丸薬成型機で1粒ずつ押し固めていく。

 出来上がったのは、指先にちょこんと乗る小さな白い錠剤。

 インスリンのように注射器も低温保管もいらず、単独投与であれば重篤な低血糖発作を起こすリスクが極めて低い、現代でも2型糖尿病治療の屋台骨を支え続ける奇跡の経口薬――『メトホルミン』のプロトタイプだった。


 だが、レンはそこで作業を終えなかった。

 棚から取り出した羊皮紙を広げ、羽ペンにインクを浸すと、元ドラッグストア店長・登録販売者としての几帳面かつ厳格な筆致で、『服用上の絶対注意事項(添付文書)』を書き連ねていく。


『白藤錠(仮称 / メトホルミン)服用上の絶対遵守事項』


 ・生活改善が主、薬は従

 本薬は過食や不摂生を帳消しにする魔法の免罪符ではない。食事の順番(野菜・青魚・主食の順)の徹底、および毎日の歩行運動を怠る者に本薬を処方することはない。


 ・脱水厳禁・多量の水分補給

 下痢や発熱時、過度の発汗時は直ちに服用を中止すること。体内の水分が枯渇した状態で服用を続けると、極めて稀ながら『乳酸アシドーシス(血液の異常な酸性化)』による重篤な昏睡を引き起こす危険がある。


 ・過度の飲酒との併用禁止

 本薬の服用期間中、エールや強い蒸留酒を浴びるように飲む行為を厳禁とする。肝臓での代謝異常を招き、命に関わる急変を招く。


 ・腎機能・肝機能に不安のある者の服用禁止

 老廃物の排泄が滞っている衰弱者への投与は不可。


「……よし。これくらい釘を刺しておかないと、薬を飲んでるからってまた脂身とエールをドカ食いする奴が絶対に出てくるからな」


 インクを砂で乾かしながら、レンはふとペンを止め、調合室の窓から広がる王都の街並みを見下ろした。


(待てよ……?)


 レンの脳裏に、王都の現状と貴族街の光景が次々と浮かんできた。


 平民の職人であるトマスですら、白パンに豚の脂身、甘い果実シロップ水にエールという偏食で、あそこまで典型的な2型糖尿病の症状に陥っていたのだ。

 では――毎日が宴会で、白い小麦粉と砂糖をふんだんに使った焼き菓子を貪り、運動など馬車任せで一切せず、葡萄酒と脂ぎった肉料理で腹を満たしている王侯貴族たちはどうだ?


「……山ほどいるぞ、これ」


 レンは背筋に冷たいものが走るのを覚えた。

 肥満、足の浮腫み、食後の異常な眠気、視力の低下、原因不明の手足の痺れ――「贅沢病」や「魔の呪い」として片付けられ、わけも分からず血管を詰まらせて突然死していく富裕層や貴族が、この大陸全土にどれほど溢れかえっているか。


(トマスさん1人を救って終わり、という話じゃない。この世界には、2型糖尿病の概念そのものが存在しないんだ。放置すれば、何万人という人間が脳梗塞や心不全、足の壊疽で倒れていく……)


 ペニシリンのような感染症の特効薬とはまた違う。

 これは、社会が豊かになればなるほど確実に増え続ける、慢性的な「血管の病」だ。


(……大量生産のラインを、早急に構築する必要があるな)


 幸い、原料となる『白藤擬き』は牧草地や荒れ地にいくらでも自生している。

 ペニシリンのように巨大な深部発酵タンクや無菌管理までは必要なく、既存のノア・ホールディングスの抽出工房と打錠ラインを応用すれば、月産数万〜数十万錠規模のサプライチェーンを立ち上げることは十分に可能だ。


(また事業規模が膨らむな……)


 レンは胃のあたりを軽く押さえ、小さく苦笑いを浮かべた。

 だが、その瞳には、元製薬研究員として、そしてドラッグストアで人々の健康を守り続けてきた男としての静かな使命感が宿っていた。


「ま、トマスさんの2週間後の経過を見てからだな。まずは目の前の1人からだ」


 レンは完成した小瓶を棚の奥へと大切に仕舞い込み、再び下町の薬房のカウンターへと戻っていった。


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