17話:ただ工場用地と適正流通を求めただけなのに、各国の居城と正妃が競り落とされ始めました
【皇帝の誤解と覇王の虚像】
「……皇帝陛下、ならびにセシリア殿下。1つだけ、明確にしておきたい前提がございます」
皇帝の私室。深部発酵プラント化への全面バックアップと、国庫からの無制限支援を確約されたその場で、レンはあえて居住まいを正し、冷徹なまでの静けさで切り出した。
元製薬会社の研究員であり、ドラッグストアで命と向き合う現場に立ち続けた男の眼差し。
そこには、皇帝の威光や公爵位の重圧に呑まれない、確固たるプロフェッショナルの矜持があった。
「私が精製したこの『白い結晶』が、1国の軍事バランスを瞬時に崩壊させ、戦局を根底から塗り替える『究極の戦略物資』であること……その自覚は、私自身が誰よりも深く理解しております」
セシリアの碧眼が微かに細まり、皇帝フランツ3世が黙してレンの言葉を促す。
「だからこそ――これをヴァレンティノ帝国のみの独占物資として囲い込むことは、人道的な観点から断じていたしません。病原菌は国境も身分も選ばず、ただ人を蝕みます。薬を特定の1国だけの専売特許とし、他国の民が治るはずの病で手足を切り落とし、死んでいくのを座視するなど……薬を扱う者としての良心が絶対に許さない」
1国の皇帝を前にして、あまりに不遜とも取れる「独占の拒絶」。
セシリアの眉がピクリと跳ね上がりかけたが、レンは間髪を入れずに言葉を継いだ。
「ただし――他国に対しても、無条件の善意で施すつもりなど毛頭ありません」
レンは冷ややかに、徹頭徹尾「冷徹な経営者」としての仮面を貼り付けて言い放った。
「帝国は、私に伯爵位を授け、工房と資金を保証し、何より私の技術を正当に遇してくださった。それ相応の敬意と対価を払う意志のない他国に対して、なんの見返りもなくこの薬を展開する気など微塵もありません。相応の代償を払わぬ者に、この奇跡を分け与える道理はない」
(……ふう。これでよし)
レンは内心で、自らの完璧な立ち回りにほくそ笑んでいた。
(『人道的観点から他国にも売る』と言っておけば、帝国軍の完全な私兵・専属軍需工場にされるのを防げる。その上で『なんの見返りもなく他国にやる気はない』と突っぱねておけば、帝国側にも『ああ、この小僧はあくまで商人として利益を最大化したいだけなんだな』と納得させられる。要するに、面倒な政治闘争に巻き込まず、世界規模の製薬ギルドでも立ち上げて、僕は安全圏でロイヤリティ生活を送りたいだけですよ、というアピールだ!)
元ドラッグストア店長の処世術全開。
「打算のない平穏なスローライフ」を守るため、あえて強欲な拝金主義者、あるいは頑固な職人を装って見せた、完璧な防衛線のつもりだった。
だが――。
皇帝フランツ3世と、第2皇女セシリアの受け取り方は、レンの矮小な皮算用とは銀河系ほど乖離した次元に到達していた。
(……なんという男だ)
皇帝フランツ3世の背筋に、冷たい戦慄が走っていた。
(1国の皇帝の目前で『独占はさせぬ』と堂々と人道を説き、傲慢な軍事独占を牽制してみせた。だが、ただの甘い理想主義者かと思えば……『他国に見返りなく配る気はない』と即座に釘を刺し、この薬を『大陸全土を服従させる絶対の外交カード』として掌握し続ける宣言をしたのだ……!)
帝国の皇帝たる自分にすら首輪を付けさせず、かといって帝国を裏切るわけでもない。
世界中の国家を「薬を欲しければ我に跪き、相応の代償を差し出せ」と足元にひれ伏させる、絶対的な生殺与奪の権を握る神の如き冷徹さ。
そしてセシリアもまた、その艶やかな唇を微かに震わせ、狂おしいまでの熱情を瞳に宿していた。
(素晴らしいわ、レン……! 帝国の枠に収まるどころか、帝国すら自らの巨大なチェス盤の駒の1つとして扱い、大陸全土の国家を『薬の配給権』という首輪で飼い慣らす覇王の器……! これほど冷徹で、強大で、傲慢な支配者が他にいるかしら……!)
「……クックック」
静まり返った私室に、皇帝フランツ3世の喉を鳴らすような低い笑い声が響いた。
「見事だ、レン殿。人道を掲げて我が帝国の独占を退けつつ、他国には最大の屈従と対価を要求する……その冷徹なまでの統治眼、感服した」
「……え?」
「貴殿の言う通りだ。ただ帝国のためだけに囲い込めば、他国は恐怖のあまり一致団結して我が国に叛旗を翻すやもしれん。だが、貴殿が『相応の見返りを寄越せ』と門戸を開けておくことで、他国は我が国と戦うどころか、貴殿の機嫌を取り、薬を恵んでもらうために互いに争い、貢ぎ物を競い合うことになる……!」
「……は、はい?」
皇帝は立ち上がり、満足感に満ちた笑みをレンに向けた。
「よい。貴殿のその方針、全面的に朕が保証しよう。帝国は貴殿の最大の顧客であり、最も忠実な後ろ盾としてのみ振る舞う。他国が貴殿の薬を欲して擦り寄ってきた時は……存分にその喉元を絞り上げ、我が帝国と貴殿のために尽くさせようではないか」
「貴殿が世界を跪かせるその覇道、私が軍部を率いて全力でお支えいたしますわ、レン」
セシリアがうっとりと頬を染め、最上級の忠誠を誓うように胸に手を当てる。
(ち、ちが……っ! そんなつもりで言ったんじゃないんだけどぉぉぉぉっ……!?)
「ただの商人だから無償奉仕は嫌だよ」と言っただけのつもりが、なぜか「世界中の国家を薬で調教して支配下に置く冷徹な黒幕」として解釈されてしまった事実に、レンは絶叫しそうになるのを必死に堪え、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
そして――この「他国にも門戸を開くが、相応の見返りを要求する」というレンの言葉が、後になればなるほど、ルーヴェン王国をはじめとする大陸諸国を「レン様のお情け(ペニシリン配給)に縋るため、国家の存亡を賭けて領地や姫を差し出す狂乱の貢ぎ物レース」へと叩き落とす、最悪のトリガーになっていくことを――。
この時のレンは、まだ知る由もなかった。
◇
【神の御子と筆頭聖女の親善使節】
レムリア法皇国――大聖都エリュシオン。
純白の白亜とステンドグラスが天を衝く大聖堂の深奥、「枢機卿円卓会議場」。
普段であれば神への祈りと厳粛な典礼の香煙が満ちるその神聖な空間は、いまや息の詰まるような戦慄と、剃刀のような怜悧な緊張感に支配されていた。
机上に広げられているのは、帝都オルデンブルクの司教座から、法皇庁直属の密偵網「聖眼」を通じて最優先の緊急神聖符で送られてきた特級諜報書。
「……信徒たちには『主の御業に奇跡あり』と説いておる我らだが、よもや真の奇跡が、神殿の祭壇ではなく異端の薬師のフラスコから産み落とされるとはな」
円卓の最奥、豪奢な白銀と緋色の法衣を纏った老人――レムリア法皇庁の頂点に君臨する法皇ベネディクトゥスが、低く掠れた声で呟いた。その双眸には、老獪な政治家としての光を超え、狂信的なまでの熱が宿っている。
「第4皇子の壊疽を完治させた純白の結晶。治癒魔法の限界をあっさりと飛び越え、肉体の損壊を無に帰す代物……。さらに恐るべきは、そのお方の言葉だ。『帝国のみの独占とする気はないが、他国に見返りなく渡すつもりもない』、と」
法皇の言葉に、円卓を囲む枢機卿たちが一斉に息を呑んだ。
大陸には現在、軍事と領土の覇道を突き進む「ヴァレンティノ帝国」、伝統と貴族制を重んじる「ルーヴェン王国」、そして神聖なる信仰と大陸最大の諜報・金融網を牛耳る「レムリア法皇国」の3強をはじめ、幾つかの国家が危うい均衡を保ちながらひしめき合っている。
帝国と王国以外の周辺国が、未だ「所詮は帝国のプロパガンダではないか」「一商人の誇大妄想だろう」と情報の真偽を疑い、様子見を決め込んでいるこの瞬間に――。
大陸屈指の情報収集能力を誇る法皇国だけは、その薬がもたらす「地殻変動」を正確に、かつ即座に理解していた。
「……恐らく、この男」
法皇はゆっくりと立ち上がり、天蓋のフレスコ画――主神の降臨図を見上げながら、震える両手を胸の前で固く組んだ。
「……いや、このお方は、本来ならば我が法皇国に生れ落ちる予定であった『神の御子』に違いあるまい」
厳粛な沈黙を破り、法皇の放った言葉に、円卓の枢機卿たちから息を呑む気配が漏れ、やがて異様な興奮へと変わっていく。
「主の御手を介さずして病魔を滅する奇跡の結晶など、天上の理を授かった御子でなければ生み出せるはずがないのだ。手違い、あるいは天の深謀遠慮によって王国の卑しき土に降り立たれたに過ぎん! それを、あの野蛮な帝国や強欲な王国どもが、己の軍事利権の道具として囲い込もうなどと……断じて許されざる冒涜! 必ずや、我が法皇国へお連れしなければならぬ!!」
「法皇猊下……!」
第1枢機卿が進み出た。
「しかし、帝国はすでに公爵位と軍部総出の後ろ盾を用意し、王国もまた第1王女の降嫁という最後の切り札を切って使節団を急派しております。いかに我が法皇庁といえど、正攻法で割り込むのは至難かと――」
「他国が俗世の利権に迷い、出遅れている『今この瞬間』こそが天の好機だ!」
法皇は机上の特級諜報書をバンと叩き、ぎらつく眼光を一同へ向けた。
「直ちに最速の親善使節団を帝都へ走らせよ! ルーヴェン王国の使節団よりも先に、何としてでもレン様へと接触するのだ。あのお方が『見返りのない国には渡さぬ』と仰られたのは、己の真価を理解せぬ俗物どもを試す神の試練に他ならん!」
法皇は手元にあった羊皮紙を引き寄せると、自らの血を混ぜた聖印の蝋を迷いなく押し当てた。
「俗世の領地や金貨などという汚れた餌では、神の御子の心は動かん。あのお方には――法皇庁直々の『名誉聖人』の至高の位階と、大陸全土の神殿網における『聖薬専売権および完全非課税特権』を授ける。さらには……我が法皇国の至宝たる『筆頭聖女』を、神の御子に生涯寄り添い侍らせる専属の神官補佐として差し出すのだ」
「ひ、筆頭聖女様を……!?」
「神の御子をお迎えするのだ、至宝の聖女を差し出すことの何が惜しいか! 帝国が武力で囲い込み、王国が王女の肉親の情で縛ろうとするならば、我が法皇国は『絶対の神性』と『全大陸の免税特権』をもって、あのお方を天上の玉座へとお迎えする! ……他国に先んじて動け! 神の御子を俗物の泥棒猫どもに奪われることこそ、我が法皇国の滅亡であると心得よ!」
他国が事態の大きさに立ちすくむ中、レムリア法皇国はレンの言葉を「神の試練」と都合よく解釈し、レンを「本来うちに生まれるはずだった神の御子」として強奪すべく、国家の威信と筆頭聖女を賭けた電撃作戦へと舵を切っていた。
帝国(公爵位+皇配狙い)、王国(公爵位+第1王女降嫁)、そして法皇国(名誉聖人+筆頭聖女降嫁)。
ただ「無償奉仕は嫌だから正当な対価を払ってね」と言っただけの元店長レンを巡り、大陸3大勢力の最高峰の切り札が、帝都オルデンブルクへ向けて凄まじい勢いで収束し始めていた。
◇
【北東の焦燥とゼノリスの参戦】
ゼノリス王国――王都ルンド。
帝国の北東、険しい山脈と冷涼な針葉樹林に抱かれたこの王国は、寒冷地特有の堅牢な鉱工業と重装騎兵を誇る大陸4強の一角であった。
しかし、その王宮の大会議室を満たしていたのは、氷雪の寒さなど比較にならないほどの、文字通り背筋が凍りつくような絶望と怒号だった。
「……1週間だぞ」
玉座に座すゼノリス国王の絞り出すような声が、冷たい石造りの広間に響き渡った。
その手には、帝都オルデンブルクから届いた最新の、そして致命的な報告書が握りしめられている。
「帝国の第4皇子が壊疽から生還し、皇帝が公爵位の直命を下してから……すでに『1週間』が経過しておるのだぞッ!!」
ドォォォンッ!!
激昂した国王が分厚い樫の木の円卓を拳で叩き割らんばかりに殴りつけた。
並み居る軍部の大将たち、宰相、情報局長が、顔面を真っ青にして平伏する。
「お、恐れながら陛下……! 当初、帝都の乱心劇は『帝国による新手の軍事欺瞞』、あるいは『治癒魔法の失敗を誤魔化すための目くらまし』との見方が強く、真偽の裏取りに慎重を期した結果でして……!」
「黙れ、無能どもがッ!!」
国王の怒声が轟く。
「慎重を期す、だと!? 我らが『本当に魔法を使わずに壊疽が治るのか』などと呑気に査問会議を重ね、机上の空論をこねくり回している間に……ルーヴェン王国は即座に筆頭公爵令嬢を特命全権大使に据え、第1王女の降嫁勅許状を携えて帝都へ疾走しておる! レムリア法皇国に至っては、すでに『本来我が国に生まれるはずだった神の御子』などと血迷った大義名分をでっち上げ、筆頭聖女と名誉聖人の位をぶら下げて電撃特使を送り込んだというではないか!!」
大陸の3大勢力――帝国、王国、法皇国。
彼らがレンの放った「見返りのない国には渡さない」という言葉を即座に呑み込み、国家の存亡を賭けた最大の切り札(皇女、王女、聖女、そして公爵位や聖人位)を盤上に叩きつけているまさにその時、ゼノリス王国だけが完全に出遅れていた。
「この薬がもたらす意味を、まだ理解できんのか!?」
国王は立ち上がり、平伏する重臣たちを鬼の形相で見下ろした。
「四肢を腐らせる病魔を無効化する薬だぞ! 寒冷地の戦場で凍傷や刃創の化膿に怯え、前線兵士の3割を壊疽で失ってきた我が国の損耗率が、他国だけ『ゼロ』になるのだぞ!? 我が重装騎兵がどれほど勇猛であろうと、傷を負えば手足を切り落とされる軍と、翌週にはピンピンして前線に戻ってくる帝国軍……どちらが勝つか、赤子でもわかるわッ!」
「ひ、ヒィッ……!」
「しかもその薬師は『見返りのない国には渡さん』と言い放ったのだ! 出遅れた我らは、このままでは『帝国の軍門に降るか』『戦わずして他国の後塵を拝して滅びるか』の二者択一を突きつけられるのだぞ!!」
1週間の初動の遅れ。
国際政治と軍事のチェス盤において、それは致命的すぎるチェックメイトの一手になりかねなかった。
「宰相! 我がゼノリス王国が、奴らに対抗してレン殿に差し出せる最大の切り札は何だ! 鉱山か!? 鉄の専売権か!? それとも王家の血か!?」
矢継ぎ早に問い詰められた宰相は、脂汗を滝のように流しながら、震える声で絞り出した。
「こ、鉱山や鉄利権の完全無税譲渡は当然として……! 帝国にはセシリア皇女、王国にはフリオーリア第1王女、法皇国には筆頭聖女がおります! 凡庸な条件では、出遅れた我が国にレン殿が振り向くはずもございません! ……我がゼノリス王国が誇る『氷雪の至宝』――王室筆頭王女、あるいは我が国随一の武名を持つ女将軍クラスの血縁を、名代として即座に差し出す覚悟が必要かと……!」
「惜しむな! すべて出せッ!!」
国王は躊躇なく叫んだ。
「王家の威信も、国庫の鉱山利権も、後からいくらでも取り返せる! だが、あの薬師の機嫌を損ね、我が国だけ『ペニシリン配給の対象外』と見捨てられた瞬間、我が国の防衛線は紙屑のように崩壊するのだ! 最速の魔導伝令馬を仕立てよ! 親善使節団を今すぐ編成し、昼夜兼行で帝都オルデンブルクへ走らせろッ!!」
「は、ははぁっ!!」
怒号と悲鳴が飛び交うゼノリス王宮。
完全に初動を見誤り、1週間の遅れにパニックを起こした北東の大国が、プライドをかなぐり捨てて「レン様争奪戦」へと血相を変えて参戦を決めた瞬間だった。
帝国が囲い込み、王国が奪還を狙い、法皇国が神格化して強奪を企み、そして出遅れたゼノリス王国が破れかぶれの貢ぎ物合戦に突入する――。
帝都の1角で、エール醸造所のタンクを水洗いしながら「よしよし、これで静かにプラントの準備ができるぞ」と胸を撫で下ろしているレンの頭上に、大陸全土を揺るがす4重の巨大な台風の目が、完全に収束しつつあった。
◇
【名もなき国の使者と秒速の門前払い】
ルーヴェン王国の西方に位置する、とある王国。
大陸の勢力図において一応は国家としての体裁を保っているものの、レンはその国の名を呼ぶことすら億劫そうに、
「ああ……あの『名もなき国』ね」
と、露骨な蔑称交じりの半眼で切り捨てていた。
なぜそこまで頑なに雑な扱いを受けるのか、その真の理由はレン自身にもよく分かっていない。おそらくは――この世界の理や設定を頭の中で構築・考察していた際、作者(創造主)の逆鱗に触れるか強烈な不興を買ってしまい、「設定を詰める価値すらない、どうでもいい国」として適当に放り出された因果が、レンの無意識の言動に滲み出ているとしか思えなかった。
だが、そんな「名もなき国」の首脳陣とて、馬鹿ではない。
帝国の第4皇子が壊疽から生還し、皇帝が公爵位の直命を下し、さらには「見返りのない他国に渡す気はない」というレンの言葉が大陸中を震撼させている事実は、遅ればせながら彼らの耳にも届いていた。
国家の滅亡を恐れたその国は、慌てて王族の高官を使者として仕立て上げ、レンが逗留する帝都第一特別貴族特区の白亜の宮殿へと送り込んできたのだ。
◇
白亜の大邸宅、1階の応接広間。
その使者は、いかにも尊大な金糸の外套を羽織り、顎を突き出して尊大に言い放った。
「我が国は、伝統ある西方の名門国家である! 帝国やルーヴェン王国のような無粋な新興の争いとは一線を画す高潔なる国だ! その我が国が、直々にそなたの精製した『白い結晶』を買い上げてやると言っているのだ! 直ちにその製法を我が国へ献上し、我が国の王宮専属薬師として忠誠を誓う栄誉を受け取るがよい!」
居合わせた家令のハインリヒが眉をひそめ、背後に控えるシエナが冷やかな殺気を瞳に宿し、カトレアの手が腰の大剣へと伸びかけた、まさにその時――。
奥のサロンから、作業着代わりの地味なローブを羽織り、手拭いで手を拭きながら現れたレンは、使者をチラリと1瞥した。
そして、間髪を入れずにこう吐き捨てた。
「……は? そんなの俺の知ったことか。門前払いだ。今すぐ追い返して」
「な、ななな……何を無礼なッ!? 我が国の威光を何と心得る! 貴様のような1介の平民薬師が、我が国の使者に向かって――」
「うるさいな。どこの馬の骨かも分からない『名もなき国』の相手をしてる暇はないんだよ。こっちは醸造所の配管洗浄と滅菌で忙しいんだ。カトレア、門の外までポイしてきて」
「ハッ! 了解いたしました、レン様!」
「き、貴様ぁぁぁっ! 後悔するぞ! 我が国の誇りを傷つけた報い――ぎゃあああっ!?」
喚き散らす使者は、カトレアの無慈悲な怪力によって襟首根っこを掴まれ、まるでゴミ袋のように引きずられて豪奢なエントランスの鉄門の外へと派手に放り投げられた。
「……レン様、よろしかったのですか?」
シエナが呆気にとられたように扇子をパチンと閉じ、首を傾げる。
「一応は西方の国ですし、外交上の火種になりかねませんが……」
「いいんだよ、シエナ。あんな作者の設定ノートの隅っこで『その他・有象無象』って雑に書かれてそうな国、気にするだけ脳のメモリの無駄遣いだから」
「……さくしゃ? めもり……? よく分かりませんが、レン様がそう仰るなら、滅ぼす価値もない路傍の石ということで処理しておきますわ」
他国が「皇女」「王女」「聖女」「公爵位」という国家の屋台骨を差し出して必死に媚びを売る中、上から目線の傲慢さだけで突撃してきた「名もなき国」の使者は、レンの冷淡極まる「俺の知ったことか」の一言で、秒速で路地裏へと蹴り飛ばされたのだった。
◇
【正門前の激突と3大国の包囲】
帝都オルデンブルク――第1特別貴族特区。
白亜の大邸宅を取り囲むフランス式庭園の正面ゲート前は、平穏な静寂など塵芥のごとく消え失せ、大陸史に類を見ない異様な熱気と火薬の匂いに包まれていた。
レンが買収した醸造所から戻り、「よし、配管の滅菌は終わったし、少し休もう」とサロンで白湯を口に含んだ、まさにその瞬間である。
邸宅の老家令ハインリヒが、普段の完璧なポーカーフェイスをかなぐり捨て、額に冷や汗を滲ませて執務室へと滑り込んできた。
「レ、レン伯爵閣下……! 大変でございます! 帝都の西門、南門、そして北東門をほぼ同時に突破した各国の特使団が、今まさに当館の正門前に雪崩れ込んでまいりました!」
「……は? 各国の特使?」
レンが目を丸くした直後、敷地の外からけたたましい鐘の音と軍馬の嘶き、そして怒号が響き渡った。
◇
正門前――。
1番乗りを果たしたのは、純白と黄金の法衣を翻し、最速の神聖伝令馬を乗り潰して帝都へ滑り込んできたレムリア法皇国の親善使節団だった。
「主の御手を介さずして病魔を滅する奇跡の御業……! 我が法皇国において、あのお方は『本来我が国に生れ落ちる予定であった神の御子』と認定されました! 法皇猊下の親書を携え、至宝たる筆頭聖女様を伴い、お迎えに上がったのです! 門をお開けなさい!」
緋色の帯を巻いた大司教が、息を切らしながらも狂信的なまでの熱弁を振るい、羊皮紙を天に掲げる。
その背後には、清廉な白絹のベールを纏い、祈るように両手を胸の前で組んだ筆頭聖女の姿があった。
「神の御子ですって!? 寝言は聖堂の地下で祈りながらおっしゃいな、この生臭坊主ども!!」
ドガァァァンッ!!
法皇国の言葉を切り裂くようにして、砂煙を巻き上げて割り込んできたのは、漆黒の馬車とルーヴェン王国近衛騎士団の精鋭小隊だった。
ほんの数十秒の差。
車輪を軋ませて急停車した馬車から、乱れ一つない夜会用ドレスの裾を激しく翻して降り立ったのは、ルーヴェン王国特命全権大使――ベルフォール公爵家長女、エレオノーラ。
「エレオノーラ様、止まって! まだ馬車が完全に止まっておりません……!」
青ざめた顔で追いすがる侍女リリアの制止も意に介さず、エレオノーラは紫紺の瞳を爛々と燃え盛らせ、法皇庁の大司教を冷徹に射すくめた。
「我がルーヴェン王国の至宝たるレンを、勝手に『うちの神の御子』などと横取りしようなど片腹痛いですわ! レンは我が王国の臣民! そして――国王陛下直々の勅許により、『王国公爵位』、『要衝の大直轄領』、さらには王国の白百合たる『第1王女フリオーリア殿下の降嫁』という国家最高の誠意をもって、我が手で迎えに戻るのです! どきなさい!」
「なっ……第1王女の降嫁だと!? 俗世の血縁で神の御子を縛るなど言語道断!」
「黙りなさい! そもそもレンの隣に立つのは、姉であり将来の正妻たるこの私ですわ! フリオーリア殿下の降嫁状など、帝国からレンを引き剥がすための外輪に過ぎません! 私のレンを、どこの馬の骨とも知れぬ聖女などに触れさせてたまるものですか!!」
「エレオノーラ様、本音が! 本音が完全に漏れております!!」
リリアの悲鳴が響き渡る中、法皇庁とルーヴェン王国が一触即発の睨み合いとなった――まさにその数瞬後。
ズズゥゥゥンッ……!!
地響きのような重い蹄の音が、石畳を揺らした。
「どけぇぇぇぇッ!! 道をあけろッ!!」
北東の山脈を不眠不休で越え、馬の口から泡を吹かせながら文字通りの「僅差」で滑り込んできたのは、白銀と毛皮を纏ったゼノリス王国の重装使節団だった。
1週間の初動の遅れを取り戻すため、補給も睡眠もかなぐり捨てて帝都へ突進してきたゼノリスの特使――筋骨隆々の老将軍が、血走った眼で馬から飛び降りる。
「はぁ……はぁっ……! ま、間に合ったか……!? 門はまだ開いておらんな!?」
「ぜ、ゼノリス王国……!? 北東の頑固者どもが、なぜこのような場に……!」
大司教が息を呑み、エレオノーラが忌々しそうに眉を吊り上げる。
老将軍は肩で息をしながら、懐から凍りついた封蝋の親書を乱暴に引き抜き、掲げた。
「我がゼノリス王国は、レン殿の『見返りのない国には渡さぬ』という至高の言葉を真摯に受け止めた! 出遅れの非は認める! だが我が国は引かん! 我が国随一の『大鉄鉱山の無税採掘権』、ならびに『王室の至宝たる筆頭王女』の婚儀の約定を積んできた! ペニシリンの配給枠、我が国を外すことだけは断じてならんッ!!」
「鉄鉱山に王女ですって!? 後からノコノコやってきてオークションの真似事をするんじゃありませんわ、北の熊どもが!」
「貴様らこそ、神の御業を私物化する不届き者どもめが!」
「我が国の存亡がかかっておるのだ、邪魔立てするならこの場で叩き伏せるまで!」
正門前で、法皇国の神官騎士団、王国の近衛騎士団、そしてゼノリスの重装騎兵が、互いに抜剣一歩手前の殺気を放ちながら怒号を交錯させる。
そこに――。
ガシャンッ!!
屋敷の正門の閂が内側から外され、重厚な鉄門がゆっくりと開いた。
殺気立っていた3大国の使節団が一斉に言葉を失い、門の奥へと視線を注ぐ。
現れたのは、白銀の甲冑に手をかけたカトレア、冷ややかに扇子を広げたシエナ、そして――。
頭を抱え、今にもその場にうずくまりそうなほど顔色を悪くした、当の本人・レンの姿だった。
「……あのさ」
レンの乾いた、胃痛の滲む声が、静まり返った広場にぽつりと落ちた。
「みんな、ちょっと落ち着いてくれるかな……? うち、ただのエール醸造所を改装したばかりの町医者みたいなものなんだけど……なんで門の前で、世界大戦の前哨戦が始まってるの……?」
3大国の至宝(聖女・王女・公爵令嬢)と、国家の屋台骨(聖人位・公爵位・大鉱山)をぶら下げた特使たちが、一斉にギラついた眼光をレンへと向けた。
◇
【実務の要件と狂乱の競り落とし】
第一特別貴族特区、白亜の宮殿――大応接室。
大陸全土の命運を左右する要人たちが一堂に会したその広間は、文字通り一触即発の重圧に満ちていた。
長大な大理石の円卓。
上座に座るレンの左手には、神聖な白絹のベールを纏ったレムリア法皇国の筆頭聖女と、朱色の法衣を正した大司教。
正面には、冷徹な仮面の下で紫紺の瞳を爛々と燃え盛らせるルーヴェン王国特命全権大使・エレオノーラと、胃痛で蒼白な顔のリリア。
そして右手には、毛皮と鋼鉄の正装をまとったゼノリス王国の老将軍が、分厚い拳を机に置いて息を荒らげている。
レンの背後には、抜剣こそ控えているものの全身から凄まじい威圧感を放つカトレアと、冷ややかに扇子を揺らして全員の動向を観察するシエナが控えていた。
老家令ハインリヒと侍女たちが、息を詰まらせながら全員に茶を配り終え、深々と一礼して退室する。
重厚な扉が閉じられ、カチャリとカップが擦れ合う微かな音だけが響いた。
静寂が支配する中、全員の視線が、円卓の中央に置かれた純白の結晶――ペニシリンの小瓶と、それを前に座る少年に一点集中していた。
レンは一度、深く、長いため息をついた。
こめかみを指先で軽く揉みほぐし、胃のあたりをそっと抑えてから、背筋を伸ばす。
元製薬会社の研究員であり、百戦錬磨のクレーマーや無理難題を押し通そうとする取引先を相手にしてきた元ドラッグストア店長としての「仕事の顔」が、スッと張り付いた。
「……さて。全員、お茶を飲んで少しは頭が冷えましたか」
レンの静かな、だが通る声が室内の空気を引き締めた。
「まず、門前で剣を抜き合おうとしたことについては、一切の不問にします。ですが――ここから先、僕の言葉を遮ったり、個人的な感情や国威を振りかざして怒鳴り散らす方がいれば、その時点で即刻退室していただきます。当然、お話しする権利もその場で消滅します」
大司教が息を呑み、ゼノリスの老将軍が喉を鳴らし、エレオノーラがわずかに眉を寄せたが、誰一人として口を開かない。
レンが持つ「奇跡の結晶」の配給権――その絶対的な生殺与奪のカードを前に、3大国の重鎮たちが完全に呑まれていた。
レンは机の上の小瓶に視線を落とし、淡々と切り出した。
「単刀直入に言います。皆さんが血相を変えて持ってきた『公爵位』も、『名誉聖人』も、『大鉱山』も……果ては『王女や聖女の降嫁』という話も、僕個人としては、今この場ですべて保留、あるいは辞退させていただきます」
「なっ……!?」
大司教が椅子から腰を浮かせかけたが、カトレアの鋭い一瞥に射すくめられ、慌てて押し黙った。
「勘違いしないでいただきたいのですが」
レンは平然と続けた。
「僕は、特定の国家に飼い殺されるつもりはありません。帝国にもすでに『独占はさせないが、相応の見返りのない国に渡す気もない』と明言しています。……僕が求めているのは、政治的な地位でも、神輿として崇められることでも、政略結婚の鎖でもないんです」
レンは円卓の使節たちを1人ひとり、冷徹なまでの光を宿した瞳で見据えた。
「僕がこの薬――『ペニシリン』を提供する条件は、極めて単純かつ現実的な『実務』の話です」
レンは淡々と指を3本立て、元製薬研究員・ドラッグストア店長としての実務要件を冷徹に並べ立てた。
「第1に、『生産拠点の提供』。この薬は大量の清浄な水、安定した発酵設備、そして徹底した衛生管理ができる区画が不可欠です。各国内で迅速にラインを立ち上げるための土地や施設を、最優先で無償貸与・整備していただくこと」
「第2に、『適正価格での普及』。これは富裕層や貴族が買い占めて投機対象にするための嗜好品ではありません。末端の民草や平民の負傷者にも行き渡るよう、ノア・ホールディングスが定める上限価格を厳守し、暴利を貪らないこと」
「そして第3に――『軍備のみの運用の禁止』。負傷兵の治療に使うのは認めますが、軍部がすべてを接収し、前線部隊の継戦能力向上『だけ』を目的にストックすることは断じて認めません。市井の病院や救護院にも同等以上の比率で供給すること。これを破った国には、即座に原薬の供給を停止します」
レンは言い切り、ふうと息をついた。
(よし……! これで完璧だ。要するに『工場建てる場所を用立てて、ぼったくらず、民間の医療にもちゃんと回してね』という、至極真っ当な医薬品ライセンス契約のガイドラインだ。これで国家の政略結婚だの、公爵位だのという大仰な話から、実務ベースの経済取引に引き戻せたはず!)
レンは内心で激しくガッツポーズをし、胸を撫で下ろしていた。
――だが。
円卓を囲む各国の使節たちの脳内では、レンの言葉が異次元のフィルターを通して再翻訳され、凄まじい熱量で暴走を始めていた。
(……な、なんという深謀遠慮だ……!)
レムリア法皇国の大司教は、その背筋に走る戦慄に息を呑んでいた。
『生産拠点の提供』――それは即ち、神の御子が俗世に降臨され、鎮座するための『聖なる居城(神殿)』を差し出せという神託に他ならない。しかも軍事利用を禁じ、民を救えと宣うその慈愛……やはりこの御方は、天上の主が遣わした真の救世主!
(居城だけでは足りぬ! 神の御子が我が法皇国に根を下ろし、その聖なる血を後世に残していただくための『正妃』――我が国の至宝たる筆頭聖女様を、何が何でも御子の褥へ送り込まねばならん……!!)
筆頭聖女もまた、頬を朱に染め、敬虔な祈りを込めた潤んだ瞳でレンを凝視していた。
一方、正面に座るエレオノーラは、扇子の下で紫紺の瞳をギラつかせていた。
(……ふふ、さすがは私のレン。ルーヴェン王国の矮小な貴族どもが金儲けや戦争のために薬を買い占めることを見越し、あらかじめ釘を刺すとは見事な手腕ですわ。そして『生産拠点』……! これは王国に対し、レンが王都で新たな覇権を握るための『公爵領の広壮な居城』を要求している証拠!)
エレオノーラの手が、机の下で白紙の婚姻誓約書を強く握りしめる。
(フリオーリア殿下の降嫁など、城を建てるためのただの飾り! レンがその居城で真に愛で、生活を共にする伴侶(妃)は……姉であり、レンの全てを理解するこの私しかあり得ませんわ……! 帝国の女狐にも、法皇国の生臭聖女にも、レンの寝所の一角すら踏み入らせてなるものですか!)
そして、出遅れていたゼノリス王国の老将軍は、武人特有の極端な思考回路で額に青筋を浮かべていた。
(……『生活の基盤となる拠点を寄越せ』だと!? 当然だ、レン殿ほどの軍神の如き才覚を招くのだ、掘立小屋のような工房で済むはずがない! 北東の山脈を一望できる堅牢無比なる大城塞……いや、王都の離宮を丸ごと明け渡す必要がある! さらに『軍部だけの独占を禁ずる』とは、民を慈しむ名君の器……!!)
老将軍の拳が小刻みに震える。
(出遅れた我が国が他国を出し抜くには、並の拠点では足りん! 王国最強の防衛拠点を居城として進呈し、さらに我がゼノリス王室が誇る至宝――筆頭王女を『妃』として献上し、名実ともにレン殿を我が国の共同統治者として迎え入れる覚悟を示さねば、この争奪戦には勝てんッ……!!)
「……あの、みなさん?」
誰も口を開かず、ただ机の下で凄まじい闘志と勘違いを煮えたぎらせている使節たちに、レンがおずおずと声をかけた。
「僕が言った条件……理解していただけましたか? あくまで『工場の用地確保』と『適正な医療流通』の話であって、大層な政治取引をする気はないんですが……」
「ええ、痛いほど理解いたしましたわ、レン様」
エレオノーラが完璧な、だが狂気を孕んだ艶やかな笑みを浮かべて頷いた。
「我がルーヴェン王国は、貴方の『生活の基盤』となる最高の環境を、文字通り国を挙げてご用意いたします」
「我が法皇国も、神の御子の『御座所』と、御身を夜ごと癒やす『至高の伴侶』を捧げる準備は整っております」
大司教が恍惚とした表情で胸に手を当てる。
「我がゼノリス王国とて引かん! 居城も、妃も、持てる全てを賭けてレン殿を迎え入れるぞッ!」
老将軍が机を叩いて吠えた。
(……え? 居城? 伴侶? 妃……??)
「ただの工場と流通管理の話」をしたはずなのに、なぜか各国が「レンのための豪奢な居城の献上」と「正妃の座を賭けた姫君・聖女の差し出しレース」へと舵を切って裏で暴走を始めている気配を察知し、レンの胃袋は音を立てて悲鳴を上げたのだった。
(あ、兄上……っ! 頼むから助けてください兄上ぇぇぇぇっ……!!)
「工場建設のための土地」と「まともな流通」の話をしたはずなのに、なぜか各国の使節たちの瞳には「神の居城」と「夜ごとの正妃」の炎が狂おしく燃え盛っている。
言葉の通じない怪物たちに四方を囲まれたレンは、引きつった愛想笑いを顔面に貼り付けたまま、心の中で王都にいる唯一常識的な肉親へ向けて魂の絶叫を上げていた。
◇
【遠方で悶絶する兄の胃袋】
その頃――遥か遠く、ルーヴェン王国・王都。
近衛騎士団の鍛錬場では、日課の合同演習を終えた団長エドワードが、汗を拭いながら部下たちに訓示を垂れているところだった。
「よし、本日の訓練はここまでだ! 各員、武器の手入れを怠るなよ。帝国との緊張が高まっている今、我ら近衛が隙を見せるわけには――」
「ハックショォォォォンッ!!!」
鍛錬場中に響き渡る、雷鳴のような豪快なくしゃみ。
「だ、団長!? 大丈夫ですか、風邪でも……?」
副官が慌てて駆け寄る。
だが、次の瞬間、エドワードは鍛錬着の上から自らの鳩尾を鷲掴みにし、その屈強な巨体をくの字に折り曲げて膝から崩れ落ちた。
「ぐ、ぐぁ……ッ!?」
「だ、団長ぉぉぉぉっ!?」
胃の腑を直接万力で締め上げられたかのような、かつて戦場で受けたどんな刺創よりも鋭く、ねじれるような激痛。
「ま、またか……! な、なんだ……この胸騒ぎと、内臓を雑巾絞りにされるような底知れぬ悪寒は……ッ!?」
エドワードは脂汗を顎からポタポタと滴らせながら、震える手で腰の革ポーチを探った。
取り出したのは、レンが帝都へ旅立つ前に「念のため、持っておいてくださいね」と手渡してくれた、ノア社特製の胃腸薬『キャベギオン軍α』の携帯ボトル。
震える指で蓋を弾き飛ばし、小粒の錠剤を3錠、水もなしに喉の奥へと放り込んで噛み砕く。
口内に広がる独特の苦味と爽快感に耐えながら、エドワードは荒い息の下で、帝都オルデンブルクのある東の空を睨みつけた。
「レン……! お前、帝都で一体何を仕出かしているんだ……!? なぜ帝国へ向かったエレオノーラだけでなく、法皇国やゼノリスの影までが……俺の胃袋を直接すり潰しに来ているような感覚がするんだぁぁぁっ……!!」
己の筋肉すら裏切る理不尽な内臓の激痛に悶絶しながら、遠く離れた長兄エドワードは、まだ見ぬ帝都の修羅場に戦慄するしかなかった。




