16話:奇跡の白い結晶抗生剤と、2大強国の公爵争奪戦
【帝国特別叙勲と第3皇女の乱入】
ヴァレンティノ帝国皇宮、黄金と白大理石が連なる「大謁見の間」。
普段は対外戦争の勝利や皇族の成婚といった国家の大慶事でしか開かれない最高格式の舞台において、その儀式――『帝国特別叙勲・世襲伯爵位親授式』は、厳粛かつ圧倒的な重圧の中で滞りなく執り行われていた。
広間を埋め尽くすのは、帝国の最高意思決定を握る元老院の長老たち、歴戦の威容を誇る帝国軍大将たち、そして大貴族の当主たち。その全員が、壇上へと進み出た1人の少年に、畏怖と好奇、そして底知れぬ品定めの視線を注いでいる。
正装である濃紺の礼服に身を包んだレンは、背筋を伸ばして玉座へと続く赤絨毯を進み、内心で激しく胃を押さえていた。
(……なんで一商人の表敬訪問が、こんな国家行事のパレードみたいになってるんだよ……!)
1歩後ろには、完璧な格式と所作で貴族たちの視線を冷徹に跳ね返すシエナ。さらにその斜め後ろには、白銀の式典用甲冑をまとい、帝国親衛隊にすら1歩も引かない威圧感を放つカトレアが控えている。
玉座の前へと至り、レンが完璧な臣下の礼(シエナに昨晩徹底的に叩き込まれた帝国最上級プロトコル)を執ると、玉座に座す威厳の塊のような皇帝フランツ3世が、深く満足げに頷いた。
「面を上げよ、ルーヴェンの若き麒麟児、レン」
皇帝の重厚な声が広間に木霊する。
「貴殿の類まれなる叡智と技術供与は、帝国全土の医療を刷新し、数百万の臣民を病魔から救い上げた。その功績、まさに国家の至宝と呼ぶに相応しい。よって本日、我が名において、貴殿に『帝国世襲伯爵』の爵位、ならびに最高栄誉たる『双頭大鷲宝冠章』を親授する」
皇帝みずからの手で、ずっしりと重みのある純金と宝石の宝冠章がレンの首へとかけられ、世襲伯爵の記章が胸元に留められた。
「謹んで拝領いたします、皇帝陛下」
レンが滑らかに拝謁の辞を述べると、雷鳴のような拍手と賛辞が広間を埋め尽くした。
壇の脇に立つ第2皇女セシリアは、軍礼装の胸元を誇らしげに張り、その冷徹な碧眼に熱い独占欲を滲ませてレンを見つめている。
(これで、貴殿は正式に我が帝国の貴族。王国の誰も、貴殿を奪い去ることはできない……)
皇帝への拝礼を終え、元老院や大貴族たちからの祝賀を形式通りに受け流し――こうして、レンの胃を削りに削った『帝国特別叙勲・世襲伯爵位親授式』は、何事の乱れもなく無事に閉幕を迎えた。
儀礼を終えた貴族たちが歓談しながら退室を始め、皇帝が奥の私室へと引き上げた、まさにその直後のことだった。
ドガァァァンッ!!
謁見の間の重厚な巨大扉が、外の衛兵たちの制止を突き破って派手に弾け飛んだ。
静まり返りかけていた広間の空気が一瞬で凍りつく。
大扉の向こうから、王立学術院の制服を乱れさせ、旅の埃にまみれたまま肩で息をして滑り込んできたのは――ルーヴェン王国での留学を力づくで放り出し、馬車を乗り継いで不眠不休で強行帰国した第3皇女、イリス・フォン・ヴァレンティノだった。
「ぜぇ……はぁっ……! お父様ぁぁぁっ!! お姉様ぁぁぁっ!! 抜け駆けは……抜け駆けは絶対に許しませんわぁぁぁっっ!!」
「イ、イリス……!?」
広間に残っていたセシリアの眉が激しく跳ね上がり、冷徹な仮面が一瞬で崩れ去った。
「貴女、王国の学術院での留学期間中のはずでしょう!? なぜ今ここに……!」
「お姉様がレン様を呼び出して、勝手に爵位を与えて囲い込もうとしていると聞いて、黙っていられるはずがありませんわッ!」
息も絶え絶えになりながら赤絨毯を猛然と突進してきたイリスは、呆気にとられる元老院の高官たちを撥ね退ける勢いで、レンの前へと滑り込んだ。
その手には、自室から引っ張り出してきたらしい大量の王室宝飾品と、自筆の婚姻誓約書がぐしゃりと握りしめられている。
「れ、レン様ぁぁぁっ! 間に合いました……! よくぞ帝都へお越しくださいました! お姉様の冷たい策略などに騙されてはいけません! わたくしと! わたくしと今すぐ結婚して、わたくしの皇配になってくださいましぃぃぃっ!」
「ちょっ、イリス様!? 息を整えて、まず落ち着いてください!?」
レンが思わず後ずさりした瞬間、セシリアがサーベルの鞘を激しく鳴らして壇上から滑り降りてきた。
「無礼者ッ! 式典はすでに終了しました! 国家の大典の場にそのような無様な姿で乗り込んでくるとは何事ですか、イリス!」
「お姉様こそ無礼ですわ! レン様を最初に見出し、帝国へお招きしようとしたのはこのわたくしです! それを全権特使の権限を乱用して横取りするなど、泥棒猫のすることですわ!」
「なっ……ど、泥棒猫ですって!? 私は国家の最高国益とレン殿の才覚を正当に遇したまでです!」
「嘘をおっしゃい! その顔、完全にレン様を私室に連れ込む気満々の肉食獣の目ですわッ!!」
大陸最強を誇る帝国の第1・第2位継承権を持つ皇女2人が、居合わせた元老院の眼前で、1人の少年を巡って凄まじい剣幕で火花を散らし始める。
「……レン様」
シエナが冷徹な笑みを浮かべ、レンの耳元へ囁いた。
「見事な泥仕合ですわね。ですがご安心を。この程度の小娘の喚き散らし、私が完璧な礼法と社交術で両成敗にして差し上げますわ」
「待てシエナ、余計な火に油を注ぐな! ……レン様、自分に指示を! あの喚く皇女どもを武力で制圧し、レン様を抱えて屋敷へ撤退いたします!」
「カトレアさん、ここ帝国のど真ん中だから! 皇女を物理で殴ったら開戦どころか世界が終わるからやめて!?」
居合わせた帝国の重鎮たちがぽかんと口を開けて固まる中、レンは授与されたばかりの重たい宝冠章を握りしめ、天を仰いだ。
(式典が無事に終わって安心したのも束の間……帝国の皇位継承争いの中心に、燃料ごと放り込まれただけじゃないかぁぁぁっ……!!)
レンの胃壁を襲う激痛は、王国のそれを遥かに超えるスケールで、激しく燃え盛るのだった。
◇
【密室の覇道と皇女の野心】
皇宮の奥深く、歴代皇帝の肖像画が睥睨する重厚な「小謁見室」。
重い防音扉が閉ざされ、室内に残されたのは、帝国の最高権力者たる皇帝フランツ3世と、第2皇女セシリアの2人だけだった。先ほどまでの大謁見の間で見せていた威厳の仮面を緩め、皇帝はマホガニーの肘掛け椅子に深く体重を預けた。
「……して、セシリア。あの少年が、我が帝国全土の医療を塗り替え、貴様をここまで狂わせた『レン』か」
「狂わせたとは人聞きが悪いわ、父上」
セシリアは軍礼装の背筋をわずかも崩さず、怜悧な碧眼を父へ向けた。
「私は極めて冷徹に、我が帝国の至高の国益を計算したまで。大謁見の間での彼の立ち振る舞いをご覧になったでしょう。あの年齢にして、元老院の狸どもや軍の猛者たちの品定めを、完璧な礼法と涼しい顔で受け流してみせました。……底が知れません」
「ふん。貴様が元老院を力技で脅してまで『世襲伯爵』を満場一致で通したのだ。よほどの化け物かと思えば……見かけはどこにでもいる無害な薬房の小僧ではないか」
「その『無害な小僧』が、ルーヴェン王国の生薬利権を牛耳っていたシルフィード公爵家を、指先1つ触れずに経済の論理だけで破滅へ追い込んだのです。しかも、我が国が長年喉から手が出るほど欲していた大量の製薬特許を、ごく自然に我が帝国の動脈へと組み込んでみせた」
セシリアはふっと、獲物を前にした肉食獣のような艶やかな笑みを唇に浮かべた。
「あの頭脳は、国家数個分の軍事力に匹敵します。王国の愚昧な官僚どもは、彼をただの『金の卵を産むガチョウ』程度にしか見ていませんが……あれはそんな矮小な器ではない。手綱を握り損ねれば、国ごと絞め殺される劇薬です」
「ゆえに、第一特別貴族特区の宮殿を宛がったか」
フランツ3世の鋭い眼光が娘を射抜いた。
「あの区画は、大公家か筆頭公爵家、あるいは皇族の降嫁先としてしか許されぬ聖域。そこに他国の民間上がりの伯爵を住まわせるなど、前代未聞の暴挙だぞ」
「最初から『伯爵』で終わらせる気など毛頭ありませんもの」
セシリアは一歩前へ進み、皇帝の机へ両手を突いた。その瞳には、隠しようもない狂気的なまでの野心が滾っている。
「まずは世襲伯爵の足枷を嵌め、帝国の旨味を骨の髄まで吸わせる。そして……彼を私の『皇配』として迎え入れ、同時に公爵へと陞爵させます。あの屋敷は、将来の公爵邸――いいえ、彼が大陸全土の流通と医療を掌握するための『大陸総監公邸』として機能させるための先行投資です」
「貴様……本気で奴を伴侶にする腹か」
「帝国を統治する私の隣に立つのに、彼以上の男が大陸のどこにいるとお思いで? 門閥貴族の無能な凡愚を娶るくらいなら、あの怪物を飼い慣らして世界を動かす方が、遥かに合理的で刺激的ですわ」
セシリアの断言に、皇帝はしばし呆気にとられたように沈黙し、やがて喉を鳴らして低く笑い出した。
「くく……相変わらず恐ろしい娘だ。だが、セシリアよ。先ほど泥まみれで飛び込んできたイリスはどうするつもりだ? あの小娘、学術院を放り出してまでレンに執着しておるぞ」
妹の名を出された瞬間、セシリアの端整な眉がピクリと跳ね上がり、冷気が漂った。
「……あの子の戯言など、適当な離宮へ押し込めて頭を冷やさせます。レン殿に必要なのは、感情論で喚き散らす小娘ではなく、彼の才覚を最大限に解き放てる盤上を用意できる――この私だけです」
「甘いな」
フランツ3世はニヤリと口角を吊り上げた。
「イリスだけではないぞ。奴の背後には、あの旧シルフィードの元令嬢と、王国の武門たるアッシュフォードの女騎士がぴったりと張り付いておった。……あれらの目を見たか? 自らの絶対神を奪われまいと、牙を剥き出しにした雌狼そのものだったぞ」
「排除するまでのことです。ここは私の庭たる帝都。いかに王国の女どもが足掻こうと、張り巡らせた蜘蛛の巣から逃げられるはずがありません」
冷徹に言い放つセシリアに、皇帝は面白そうに肩をすくめた。
「よかろう、好きに差配せよ。だが、あの少年が貴様の張った蜘蛛の巣を、涼しい顔で食い破らねばよいがな」
「ご心配なく、父上。……彼を完全に手に入れるためなら、私は帝国の法すら書き換えてみせますわ」
セシリアは完璧なカーテシーを執り、冷たい軍靴の音を響かせながら謁見室を後にした。
その瞳はすでに、黄金の檻の中で休んでいるはずのレンを、どうやって完全に逃げ場のない寝室へと追い詰めるかの計略で満ち溢れていた。
◇
【白亜の宮殿と黄金の鳥籠】
皇宮での狂乱劇から逃れるようにして、レン一行を乗せた帝室専用馬車は、厳重に警備された黒鉄の正門をくぐり抜けた。
辿り着いた先は、帝都オルデンブルクの「第一特別貴族特区」――皇宮の目と鼻の先に位置する、レンのためにあてがわれた白亜の大邸宅である。
馬車を降りたレンは、改めてその邸宅の圧倒的な威容を見上げ、どっと疲労感を滲ませた。
外観は、帝国特有の堅牢な白御影石と緻密な大理石の彫刻が融合したネオ・クラシカル様式の宮殿造り。3階建ての本館を中心に左右へと優雅な翼廊が伸び、中央のドーム状の屋根には、帝国の守護と繁栄を象徴する双頭鷲の真鍮細工が誇らしげに掲げられている。
邸宅の前面を取り囲むのは、几帳面なまでに幾何学模様に整えられた広大なフランス式庭園だった。
大理石の噴水からは、清涼な水しぶきが魔導光のプリズムを反射して虹を描き、完璧に剪定されたイチイの生垣や円錐形のトピアリーが左右対称に美しく並んでいる。車寄せから正面玄関へと続く緩やかな石畳の坂道には、埃ひとつ落ちていない。
正面エントランスの重厚なマホガニーの扉が開かれると、出迎えたのは息を呑むような大空間だった。
2階、3階まで吹き抜けになった円形の大広間。
見上げれば、天井には帝国神話の英雄たちを描いた壮大なフレスコ画が広がり、その中央からは数千個のクリスタルガラスが贅沢に連なる巨大なシャンデリアが吊り下げられている。床面には、磨き抜かれた白と黒の大理石がチェス盤のように敷き詰められ、足音を立てるのがためらわれるほどの光沢を放っていた。
奥へと続く優雅な曲線を描く大階段の手すりには、精緻な金箔の唐草模様が施され、足元には毛足の深い深紅の絨毯が音もなく敷き詰められている。
大階段の両脇には、家令のハインリヒを筆頭に、純白のエプロンと黒のドレスを纏った侍女たち、そして隙のない燕尾服を着こなした従僕たちが2列に整然と並び、深々と頭を垂れていた。
「お帰りなさいませ、レン伯爵閣下。叙勲のお慶びを心より申し上げます。主たる閣下が無事にお戻りになられ、館も喜びに満ちております」
老練なハインリヒの声が、ドーム状の高い天井に厳かに反響する。
背後には調理人や庭師まで含め、総勢40名近い使用人が完璧な規律のもとで控えていた。
広間から続くサロンや私室へと足を踏み入れれば、その設えはさらに露骨だった。
壁面を覆うのは、上質な絹織物のダマスク柄壁紙と、金泥で縁取られた名画の数々。
暖炉には帝室御用達の銘石が惜しげもなく使われ、備え付けられた革張りのソファや猫脚の執務机は、どれも大陸最高峰の職人が数年がかりで仕立てた特注品ばかりだ。棚の隅に飾られた陶磁器や銀器の1つひとつにいたるまで、帝室の厳しい鑑定をクリアした一級品で埋め尽くされている。
さらに、最上階に位置する主寝室に至っては、一般的な伯爵邸の広間がすっぽり収まるほどの空間に、最高級の羽毛を用いた天蓋付きのキングサイズベッドが鎮座し、隣接するテラスからは、遠くにそびえる帝都の城壁と白亜の皇宮が一望できるようになっていた。
生活に必要なインフラも、最新鋭の魔導技術で固められている。
各部屋には温度を一定に保つ魔導空調機構が壁内に埋め込まれ、バスルームには常に適温の湯が湧き出る魔導温水循環器が完備されていた。下町の質素な薬房や、王国の旧式な屋敷とはまるで別次元の、帝国の富と技術の粋を集めた「極上の空間」がそこにあった。
「……はぁ」
レンはふかふかのサロンのソファに深く体を沈め、首元に食い込んでいた重たい宝冠章を机の上にコトと置いた。
「すごいな、本当に……。でもさ、これ、どこをどう見ても一介の地方伯爵に宛がう規模じゃないよね? 一族郎党で住んでも部屋が余るよ」
その呟きに、隣で慣れた手つきでドレスの裾を払ったシエナが、琥珀色の瞳を細めて冷ややかに微笑んだ。
「当然でございますわ、レン様。この広壮な館、隙のない人員配置、そして皇宮を眼下に望むこの眺望……。ここは最初から、帝国の中枢で国政を左右する『公爵』、あるいは皇室から降嫁された皇女とその伴侶を迎えるために維持されてきた特別宮殿のひとつですわ」
シエナは窓辺へ歩み寄り、帝都の街並みを見下ろしながら扇子を胸元で弄んだ。
「セシリア殿下は、レン様をただの客分として泊める気など毛頭ございませんのよ。この豪奢極まる生活水準にレン様の目を慣れさせ、帝国の権勢の心地よさを骨の髄まで染み込ませた上で、逃げ道を塞ぐ……まさに『黄金の鳥籠』ですわね」
「黄金の鳥籠って……贅沢すぎて逆に落ち着かないよ。下町の薬房の裏庭で薬草干してる方が、よっぽど肩が凝らなくていいのに……」
頭を抱えるレンの横で、部屋の隅々、カーテンの裏から暖炉の煙突の奥まで入念に点検していたカトレアが、鋭い足音を響かせて戻ってきた。
「レン様! 屋敷の構造を粗方把握いたしました!」
白銀の甲冑をガチャリと鳴らし、カトレアは真剣そのものの面持ちで報告を上げる。
「抜け穴や隠し扉の類はございませんが、主寝室への動線が広すぎます! 帝国の皇女ども――特に先ほど乱入してきたイリス殿下のような猪突猛進型が夜間に窓から強襲してきた場合、迎撃にコンマ数秒の遅れが生じる恐れがあります! やはり自分は、今夜からレン様のベッドの足元、あるいは同一の毛布内にて抜剣待機すべきかと愚考いたします!」
「愚考どころか完全な変態の思考回路ね、カトレア」
シエナが冷たく切り捨てる。
「レン様の寝室の鍵は私が預かりますわ。夜間の体調管理や、帝国貴族からの書状の精査など、主人の側近くに控えるべきは筆頭補佐たる私の役目。武骨な騎士がガチャガチャと金属音を立てていては、レン様がお休みになれませんもの」
「貴様、どさくさに紛れてレン様の寝室に居座る気だな!? 不敬であるぞ、元令嬢!」
「あら、主人の安眠を守るための至極真っ当な業務分担ですわ」
豪華絢爛なサロンの中で、早くも火花を散らし始める元公爵令嬢と女騎士。
そして、部屋の扉の外からは、主人の帰還を祝う豪華な晩餐の準備が整ったことを知らせる、ハインリヒの慇懃なノックの音が響いていた。
息の詰まる式典を終えてもなお、レンの心を休ませてくれるような穏やかなスローライフの気配は、この壮麗すぎる帝国の宮殿のどこを探しても見当たらなかった。
◇
【夜更けの急襲と重すぎる包囲網】
第一特別貴族特区にそびえる白亜の宮殿――その2階、帝都の夜景を一望できるテラス付きの応接室。
シエナとカトレアがハインリヒに案内されて別室で館の構造や警備の確認に回っている、ほんのわずかな隙だった。
コン、コン。
規則正しい、軍靴の踵を思わせる硬質なノックが2度。
返事をする間もなく音もなく開いた扉から入ってきたのは、夜会用のドレスではなく、身体の線を際立たせる濃紺の帝国軍礼装に身を包んだ第2皇女セシリアだった。
「お寛ぎのところ、すまないわね。レン殿」
従者も連れず、単身で乗り込んできた帝国の最高権力者に、ソファで白湯を飲んでいたレンは思わず飛び起きそうになった。
「せ、セシリア殿下……!? 護衛もなしに、どうしてここに? というか、アポなしで部屋に入ってくるのはちょっと……」
「我が帝国の迎賓館であり、貴殿に下賜した邸宅よ。皇女である私が訪れるのに、誰の許可がいるというのかしら?」
セシリアはふっと唇の端を吊り上げると、レンの正面――ガラスの円卓を挟んだ向かいの革張りソファへ、流れるような所作で腰を下ろした。
組まれた長い脚と、すらりと伸びた軍礼装の背筋。間近で放たれる圧倒的な気品と美貌の圧に、レンは無意識に背もたれへ身体を引いた。
「式典では見事だったわ、レン殿。元老院の頑物どもや軍部の猛者たちが、貴殿の完璧な所作と涼しい佇まいにどれほど肝を冷やしたか。……ふふ、見惚れてしまったわ」
「は、はあ……シエナに昨晩からみっちり叩き込まれましたから。それより殿下、この屋敷と『世襲伯爵』のことなんですけど」
レンは机の上の重たい宝冠章に視線を落とし、胃のあたりをそっと手で押さえた。
「話が大きすぎます。僕はただ、前回の通信で『いざという時のリスクヘッジ』として亡命の可否を軽く相談しただけですよ? それなのに、即座に伯爵位を押し付けて王国に軍事報復の通告を出すわ、大公や筆頭公爵しか住めないような宮殿をあてがうわ……外堀を埋めるにしても、ショベルカーどころか戦略兵器で更地にしてくるのは勘弁してください」
率直な苦情に、セシリアは悪びれる様子もなく、むしろ愛おしい獲物を眺めるように目を細めた。
「国家の至宝を迎え入れるのに、中途半端な手心を加える愚者がどこにいるのかしら? 貴殿がもたらした医療と物流の改革は、我が帝国にとってすでに軍団数個分以上の価値がある。それに……貴殿が『王国の横暴次第では国を捨てる』と口にした以上、私としては全力で受け入れ態勢を整えるのが最高の誠意というものよ」
「だからって、この屋敷はやりすぎでしょう……。シエナから聞きましたよ。ここ、将来の公爵か皇配のための物件だって」
レンが半眼でジト目を向けると、セシリアは怜悧な碧眼をスッと細め、ゆっくりと身を乗り出してきた。
机を挟んで、2人の距離が急激に縮まる。
セシリアのまとう、冷涼でいてどこか甘い香水と火薬の匂いが、レンの鼻腔をくすぐった。
「……気づいていたのね。さすがだわ」
囁くような、だが抗いようのない威圧感を孕んだ声音。
「ええ、その通りよ。私は貴殿を、ただの『客分の伯爵』で終わらせる気など最初から毛頭ないわ。この屋敷は、将来貴殿が帝国全土――いいえ、大陸全土の産業と医療を統べるための『大陸総監公邸』として誂えたものよ」
「た、大陸総監公邸……!?」
「そして、その公邸の主たる貴殿の隣に立つのは……この私よ、レン殿」
セシリアの手がスッと伸び、机の上に置かれたレンの手の上へ、躊躇いもなく重ねられた。
手袋越しではない、吸い付くように滑らかで、それでいて軍人らしい芯の通った強い体温が伝わってくる。
「……っ!」
「ルーヴェン王国の矮小な器に、いつまでも縛られている必要はないわ。貴殿のその類まれなる頭脳と才覚を、あの無能な官僚や愚鈍な貴族どもの嫉妬に晒すなど耐え難い冒涜よ。我が帝国なら、貴殿の望む設備、資金、人材、そして絶対の安全……そのすべてを無制限に差し出せる」
セシリアの瞳の奥に、ギラつくような執念と、レン個人に対する狂おしいほどの独占欲が渦巻いている。
「私と共に帝国を、この世界を動かしましょう、レン。貴殿が望むなら、邪魔な元老院も王国の連中も、私の手で綺麗に片付けて差し上げるわ」
(王族、怖っっっっっっっっ!!!!)
レンの脳内で、けたたましい非常警報が鳴り響いた。
言葉の端々から漂う「逆らったら国ごと更地にする」レベルの重すぎる愛と野心。前世で見てきたどんなモンスターカスタマーも、この女傑の足元にすら及ばない。
「あ、あの……セシリア殿下? お気持ち……というか、過大すぎるご評価は大変光栄なんですけど……」
レンは冷汗を滝のように流しながら、なんとか引きつった愛想笑いを浮かべ、重ねられた手を穏便に引き抜こうと試みた。
「僕、別に世界を動かしたいとか覇王になりたいとか、そういう野望はこれっぽっちもないんです。打算や損得勘定なしで、美味しいパン食べて、ハーブ育てて、たまに薬を調合して……一緒にいて心が休まるような穏やかな生活がしたいだけでして……」
「まあ、可愛らしいこと」
セシリアは手を離すどころか、指を絡めるようにしてさらに力を込めた。まったく動じない。
「その『穏やかな生活』を完全に保証できる力を持つのは、大陸広しといえど、帝国の頂点に立つ私だけよ。貴殿のそのささやかな望みすら、私がすべて叶えて差し上げるわ。……だから、観念なさい」
逃げ場のない甘やかな包囲網。
レンがいよいよ「胃が……胃薬を……!」と助けを呼びそうになった、その時だった。
「――そこまでですわ、セシリア殿下」
冷気を纏った鋭い声と共に、応接室の扉が音もなく開かれた。
夜空色のドレスを完璧に着こなしたシエナが、扇子を手元でパチンと鳴らし、氷のような微笑を浮かべて立っていた。その真後ろには、抜剣一歩手前で紫紺の瞳を血走らせたカトレアが、殺気満々で仁王立ちしている。
「主人の私室に夜間、単身で押し入るとは……帝国皇族の礼法も、ずいぶんと敷居が低くなりましたのね?」
「レン様! ご無事ですかッ! その帝国の雌狐から即座に身を引き剥がし、安全地帯へ隔離いたします!」
一瞬で修羅場と化した応接室。
セシリアはレンの手を名残惜しそうに離すと、冷徹な仮面を取り戻し、ゆっくりと立ち上がってシエナたちを見据えた。
帝国の夜は、まだ始まったばかりだった。
◇
【青カビの変異株と奇跡の種菌】
白亜の宮殿の2階、外界から遮断されたレンの私室兼執務室。
シエナとカトレアが邸内の警備と格式の確認に奔走している間、レンは1人、静かに執務机に向かっていた。
(……フレミングのアオカビから抗生物質を抽出し、臨床で効くこと自体は薬学の常識だ。いまさら実験室で基礎研究をなぞる必要はない)
元製薬会社の研究員として、レンの頭の中にはペニシリンの作用機序も、合成阻害のメカニズムも、大まかな量産の全体像もすでに叩き込まれている。
だが、研究室のフラスコレベルと、国家や前線の需要を満たす工業プラントとでは話が全く違う。
(問題はスケールアップだ。深部発酵に必要な溶存酸素濃度、撹拌速度、培地の窒素源比率……そのあたりの実務データだけ、ローカルの記録から引っ張り出すか)
レンは【電脳接続】を走らせ、数テラバイトに及ぶ個人アーカイブから、かつて保存していた発酵工学の専門テキストをピンポイントで呼び出した。
『D:\archive\実用_資料\発酵工学_深部培養実務パラメーター.txt』
(通気量は0.5〜1.0 vvm、至適温度は24〜25℃、pHは中性付近を維持。培地は炭素源にラクトースかデキストリン、そして窒素・成長因子源としてのCSL(トウモロコシ浸漬廃液)の添加が必須……よし、数値の桁は頭に入った)
理論とパラメーターの確認は数秒で終わった。
巨大タンクを一から鍛造すれば年単位の時間がかかるが、帝都にはエールを造る醸造所がいくらでもある。経営難の醸造所を一軒丸ごと買い取り、タンクとボイラー、配管を徹底的に滅菌・魔導清掃すれば、即座に数万リットル級の通気撹拌培養プラントへと転用できる。
(あとは、この世界の素材で『高力価菌株』と『CSLの代用』を確定させるだけだ)
机の上に並べた帝都の農産物や酒粕のサンプルへ、レンは【物質相互鑑定プラグイン】を向けた。
『――物質相互鑑定結果――』
・【穀物発酵残渣液】 = 『アミノ酸・乳酸・ビタミンB群含有:CSL合致率94%』
・【月光瓜果皮の青緑色付着菌】 = 『ペニシリウム・クリソゲナム高力価変異株相当』
(完璧だ。培地の組成も種菌も、この世界のもので完全に代替できる)
外部ネットワークの検索枠を1回も使うことなく、元研究員としての知見と手元のデータ照合だけで、工業化の全工程が一本のラインに繋がった。
買収した醸造所のタンクで月光瓜の変異菌株を深部培養し、仕上げの抽出・結晶化は王都本社の「連動魔導刻印機」のフィルターを通す。これで純度99%以上の注射用抗生物質が量産体制に入る。
セシリアがレンを「無害な金の卵」として檻に囲い込もうとした時、レンの手元には「帝国全軍の兵士の命を握る、世界で唯一の抗生物質プラント」が完成していることになる。
「さて……まずは帝都の不動産屋から、買い叩けそうな醸造所のリストを取り寄せるか」
レンは机の上のサンプルを片付け、次の一手へ向けて静かに立ち上がった。
帝都の豪奢な第一特別貴族特区から、馬車で30分ほど下った職人街の裏手。
レンが目をつけたのは、後継者不足で半年前に操業を停止していた、薬酒の蒸留工房だった。
数千リットル級の巨大タンクが並ぶ本番用の醸造所を買い叩く前に、まずは数リットルから数十リットル単位で培養テストを行える「実験場(パイロット環境)」の確保が最優先だ。
「……うん、悪くないな。小型の銅製蒸留器に、熱湯配管と攪拌羽根付きの小樽が3つ。床も石張りで水洗いが効く」
埃を被った作業台を指でなぞりながら、レンは満足げに頷いた。
前世の製薬会社でも、いきなりプラントの本番ラインを回すような真似は絶対にしない。ラボスケールでのフラスコ培養から、ベンチスケール、パイロットスケールへと段階を踏んでパラメーターを詰めていくのが研究者の常識だ。
「レン様、不動産屋との賃貸契約の手続き、完了いたしましたわ」
外回りを終えたシエナが、書類を手に戻ってきた。
その背後には、周囲の不審者を片っ端から威嚇して睨み倒しているカトレアが控えている。
「契約名義はノア・ホールディングス帝都支店開発室の仮契約として処理させました。これで帝国の元老院やセシリア殿下の密偵にも、ただの『新商品開発のための下請け工房探し』にしか見えませんわ」
「助かるよ、シエナ。カトレアも周囲の警戒ありがとう」
「お任せください! 帝国の親衛隊だろうが虫一匹だろうが、レン様の実験場へは通しません!」
「よし、場所は押さえた。……次は本命の『種菌』を確保しに行くよ」
白衣代わりに軽装のローブを羽織り直したレンは、2人を伴って帝都最大の青果市場へと足を向けた。
◇
帝都オルデンブルクの中央市場は、熱気と匂いに満ちていた。
寒冷地特有の根菜や保存肉が並ぶ中、レンの目指す一角は――帝国北部から魔導保冷便で届く、高級果物の集積所だった。
「いらっしゃい! 旦那、いい『月光瓜』が入ってるよ! 貴族の夜会じゃ引っ張りだこの極上品だ!」
木箱に敷き詰められた麦わらの上に、青白く淡い発光を放つ丸い果実が整然と並んでいた。
皮の表面には美しい網目模様が走り、微量な魔力を帯びているのが見て取れる。贈答用の完熟品は、銀貨数枚は下らない高級品だ。
だが、レンが足を止めたのは、その華やかな陳列棚の足元――隅に乱雑に積まれた、廃棄用の木箱の前だった。
「店主さん。そっちの、皮が傷んでジュクジュクに崩れかけてるやつ……あれを箱ごと譲ってくれないかな?」
店主が目を丸くし、それからレンの身なりを見て呆れたように笑った。
「あんた、身なりは良さそうなのに物好きだな。そいつは熟れすぎて腐り落ちたクズ瓜だぜ? 表面に青カビがビッシリ生えちまって、豚の餌にもなりゃしねえ」
木箱の底に転がる、茶色く変色した月光瓜。
そのひび割れた果皮の裂け目に、ビロードのようにびっしりと繁殖していたのは――青緑色の粉を吹いた、鮮やかなカビのコロニーだった。
レンは素知らぬ顔でしゃがみ込み、視線だけで【物質相互鑑定プラグイン】を走らせた。
『――対象:月光瓜果皮の青緑色糸状菌――』
『判定:ペニシリウム属・高力価変異株』
『ペニシリン産生能:良好。原種比420倍の抗生物質分泌を確認』
(……見つけた。まさにこれだ)
市場の片隅で捨て値で転がっている、ただの「腐ったメロン」。
だがこれこそが、かつて地球で歴史を塗り替えたペニシリウム・クリソゲナムと同様、この世界の医療と戦争の歴史を根底から覆す「奇跡の種菌」そのものだった。
「おじさん、知らないのかい? これがすごくうまいんだよ」
レンがさらりと、いかにも悪戯っぽく笑いながら言い放った瞬間だった。
「……は、はぁぁぁっ!?」
八百屋の店主の目が、零れ落ちそうなほど丸くなった。
同時に、背後に控えていた二人の美女がそれぞれ別のベクトルで凍りつく。
「れ、レン様……!? 青カビでぐずぐずに腐った瓜を食すなど、いくら何でも正気ではありませんわ! 帝国の貴族院に毒を盛られる前に、自ら腹を下して倒れるおつもりですの!?」
シエナが血相を変えて扇子を取り落としかけ、横からはカトレアが鬼気迫る形相で腰の剣を握りしめた。
「レン様! いけません! そのような呪われた汚物を口にされるくらいなら、私が代わりに食して毒見を……ッ!」
「二人ともストップ! 冗談、冗談だから! 本当に食べるわけないでしょ!?」
慌てて両手を振って二人を制止するレンに、店主は引きつった顔で頬を掻いた。
「お、脅かすなよ若旦那……。貴族のボンボンがどんな珍味を食ってるのか知らねえが、さすがに腐った瓜を喜んで食う奴は帝都中を探してもいねえよ」
「あはは、そうだよね。……まあ、食べるっていうのは半分冗談だけど、この青カビと熟れきった果汁は、特定の薬酒を発酵させるための最高の発酵種になるんだよ。うちの工房でちょっと新しい調合を試したくてね」
レンは悪びれずに言ってのけ、懐から銀貨を数枚取り出して店主の手のひらに握らせた。
「金貨1枚とまではいかないけど、銀貨5枚。この廃棄箱ごと、樽に詰めて工房まで運んでもらってもいいかな?」
「銀貨5枚!? 捨てる手間のほうが高くつくゴミにそんな大金を……! ああ、運ぶとも! なんなら奥の倉庫にある、昨日出た傷みもののルナ・メロンも全部まとめて樽に詰めて届けてやるよ!」
「本当? 助かるよ、ありがとうおじさん」
満面の笑みで即答する店主に工房の住所を伝え、レンは手元の1つだけ、青緑色のカビがびっしりと繁殖した月光瓜を自ら布に包んで抱え上げた。
市場の雑踏を抜け、職人街の実験工房へと戻る道すがら、シエナが疑わしげな眼差しをレンの手元に向けて囁く。
「……レン様。先ほどの『薬酒の発酵種』というのも、世間向けのカムフラージュですわね? あの青カビに、本当は何があるのですか?」
「さすがシエナ、察しがいいね」
レンは布越しに青カビの胞子を確かめながら、元製薬会社の研究員としての冷徹な光を瞳に宿した。
「あれはね、目に見えない小さな『戦士』なんだ。人間の体に巣食って傷口を腐らせたり、高熱を出させて命を奪う悪質なバイ菌どもを、片っ端から溶かして殺してくれる……世界最強の特効薬を生み出す母体だよ」
「……傷口を、溶かす……?」
カトレアが戦士としての本能で反応し、息を呑んだ。
「それって……戦場で負傷した兵が、傷口から熱を持って壊疽を起こし、手足を切り落とすしかなくなる、あの『腐れ熱』を止められるということですか……!?」
「止められるどころじゃないよ。注射一本、あるいは粉薬を数回飲むだけで、数日で綺麗に菌を殺し尽くして傷を塞げるようになる」
レンの淡々とした言葉に、シエナの肌にゾワリと鳥肌が立った。
元公爵令嬢として、帝国の軍事力と政治を熟知している彼女だからこそ、その意味の恐ろしさが瞬時に理解できたのだ。
「そんなものが実用化されたら……戦争の常識が、兵站の損耗率が、文字通り根底から覆りますわ……。セシリア殿下率いる帝国軍が、喉から手が出るどころか、血眼になって奪い合いになる代物です」
「だからこそ、ここでこっそり作るのさ。帝国の工務省やセシリア殿下に悟られる前にね」
レンは人通りの少ない路地に入り、借り受けたばかりの小さな蒸留工房の木扉に鍵を差し込んだ。
「さあ、入ろう。まずはこの月光瓜から青カビの菌株を分離して、試験培養だ。前世の知識とこの世界の素材が、どれだけ噛み合ってくれるか……腕の見せ所だな」
埃っぽい工房の空気を切り裂くように、レンの「ペニシリン抽出実験」が、いま第1歩を踏み出した。
【奇跡の結晶と致命的な医療過誤】
職人街の片隅にある小さな実験工房の奥。
煮沸消毒を終えたガラス器具や銅製の冷却管が並ぶ作業台の上で、レンの「培養・抽出実験」――コードネーム『ペニシリン抽出実験』は、極めて順調かつハイペースで最終工程を迎えていた。
「通気撹拌、溶存酸素の維持、そして魔導刻印による温度管理……よし、フラスコ内の雑菌混入はゼロ。培地中の有効成分濃度、推定ピークに到達」
元製薬会社研究員としての精密な手さばきで、レンは月光瓜の青カビ変異株と穀物残渣液から抽出した培養液を、特製の多孔質吸着フィルターへと流し込んだ。
酸とアルカリで液性を調整し、溶媒抽出によって不純物を徹底的に分離。最後に減圧蒸留の要領で水分を飛ばす。
琥珀色の液体が滴り落ちた平皿の底に、わずか数グラム――。
雪のように白く、微かに淡い魔力をまとった極小の針状結晶が、静かに析出していた。
「……できた」
レンは息を呑み、ピンセットでその結晶をすくい上げて小瓶に封入した。
異世界における近代医学の夜明け。
化膿止め、壊疽の特効薬、そして帝国全軍の損耗率をゼロに近づける奇跡の抗生物質――『ペニシリン試作第1号』の完成だった。
「お見事ですわ、レン様……! これが、先ほど仰っていた『傷口を腐らせる病魔を殺す薬』……」
息を潜めて見守っていたシエナが、陶酔したように琥珀色の瞳を輝かせ、小瓶を見つめた。
カトレアもまた、腰の大剣を握り直しながら、武人としてその結晶が持つ計り知れない軍事的重みに戦慄していた。
「このわずかな白い粉が、何万人もの負傷兵の手足と命を繋ぐ……。レン様、これはもはや神の奇跡そのものです」
「いや、ただの生化学と発酵工学の産物だよ。……よし、あとはこの試作第1号を使って、小動物での溶菌・安全性テストを――」
レンが安堵の息をつき、小瓶を胸ポケットに収めようとした、まさにその時だった。
工房の前にけたたましい軍馬の蹄音が響き渡った。
木扉を荒々しく押し開けて飛び込んできたのは、息を切らし、顔面を蒼白にした帝国軍の高官たちだった。
「レン伯爵閣下はおられるかッ! 頼む、至急軍の医務院へ同行願いたい!」
カトレアが即座に間に入り、シエナが冷徹な視線で軍人たちを射すくめる。
「ここはノア社の研究工房ですわ。いかに軍部といえど、伯爵位を持つレン様へそのような無礼な押し掛けは――」
「形式を言っている場合ではないのだ!」
将校はシエナの言葉を遮り、喉を震わせながら必死に懇願した。
「セシリア殿下、イリス殿下の実弟君にあたる――皇太子候補の一角、第4皇子ユリウス殿下が……軍の模擬戦で重傷を負われた!」
ユリウス・フォン・ヴァレンティノ。
皇族でありながら現場叩き上げを旨とし、現在は帝国軍の幼年士官学校および軍部特務隊で実戦訓練を積んでいる最年少の皇子だった。
「模擬戦の最中、刃こぼれした軍刀が誤って殿下の前腕から肘にかけて深く食い込んだ。急ぎ治癒術士を呼び、さらに以前、ノア社から買い上げて軍の重鎮用に秘匿されていた『奇跡の万能消炎剤(ステロイド軟膏)』を傷口へ大量に塗りたくったのだが……!」
将校のその一言を聞いた瞬間、レンの目がスッと冷たく細まった。
「……ちょっと待ってください。刀で切った深い生傷に、いきなりステロイド軟膏を直接塗りたくったんですか?」
「そ、そうだ! あれは以前、軍の高官たちの酷い皮膚炎や腫れを一晩で鎮めた奇跡の神薬! 殿下の傷の腫れも即座に引くはずだと軍医が判断し、傷口を塞ぐ前にたっぷりと……!」
「なんてことしやがる……!」
レンは思わず、現代の元製薬会社研究員・ドラッグストア店長としての地金を剥き出しにして舌打ちした。
ステロイド外用薬は強力な「抗炎症作用・免疫抑制作用」を持つ薬だ。アレルギーや湿疹、自己免疫による炎症を力技で抑え込むのには絶大な効果を発揮するが、「現在進行形で細菌が入り込んでいる感染創・開放創」に塗るなど、医療事故以外の何物でもない。
傷口から侵入した雑菌を退治しようと集まってきた白血球や生体免疫を、ステロイドの免疫抑制作用が完全に眠らせてしまうのだ。結果として菌は何の抵抗も受けずに爆発的に増殖し、傷口の組織を猛烈な勢いで腐らせていく。
「案内してください。急ぎます!」
「は、はっ……!」
レンは作業台から器具箱を引っ掴み、胸ポケットの小瓶――できたばかりのペニシリン試作第1号の存在を確かめると、シエナとカトレアを引き連れて軍の馬車へと飛び乗った。
◇
【猛毒と化した神薬と救命の弾丸】
帝国軍医務院、最高警戒レベルの特別病棟。
病室の扉を開けた瞬間、生々しい異臭が鼻腔を突いた。肉が腐敗し始めた特有の甘酸っぱい悪臭。
ベッドの上には、まだ幼さの残る14〜15歳の少年――第4皇子ユリウスが、全身を激しい悪寒に震わせながら横たわっていた。
「う……熱い……痛い、腕が……っ」
荒い息を吐き、意識は朦朧としている。
露わになった右腕は、切創の周囲が赤黒くパンパンに腫れ上がり、傷口からは濁った膿が滲み出ていた。
「レン殿……!」
部屋の隅には、先ほど駆けつけたばかりのセシリアが立っていた。
いつもの冷徹な仮面は完全に剥がれ落ち、軍礼装の拳を固く握りしめ、青ざめた唇を震わせている。
「ユリウスが……私の愚かな弟が……。軍医どもが万全を尽くしたと言うのに、熱は上がり続け、傷口が腐り落ちていく……。治癒魔法も、体内の熱を抑えるだけで傷の腐敗には弾かれて通らないのよ……!」
駆け寄ったレンは、軍医たちが慌てて差し出してきたカルテを一瞥し、患部を観察した。
【物質相互鑑定プラグイン】を視線だけで走らせるまでもない。典型的な、傷口へのステロイド誤用による「重篤な細菌性続発感染(蜂窩織炎および初期のガス壊疽様病態)」だ。
「セシリア殿下、下がってください。それから軍医の方々、今すぐ患部を生理食塩水――無菌の薄い塩水で徹底的に洗い流してください! 表面に残っている軟膏の基剤を1ミリグラムも残さず洗い落とすんです!」
「な、何を馬鹿な! あれは貴殿が王国から持ち込んだ高価な神薬だぞ!? 洗い流すなど――」
「黙って言う通りにしろッ!!」
レンの怒号が病室の空気を叩き切った。
普段の温和で事なかれ主義な青年とは別人の、命の現場で修羅場をくぐってきた研究者の鋭利な眼光に、年配の軍医長が息を呑んで後退る。
「あの軟膏は、体の免疫が暴走した時だけ使う『ブレーキ』だ! 刃物でついた汚い生傷に塗ったら、侵入したバイ菌を倒すための兵隊(免疫)を全滅させて、傷口を菌のバイキング会場にしてるのと同じなんだよ! 薬の性質も理解せずに、ただ効き目が強いからと盲信して塗りたくるなんて、医療じゃなくてただの毒殺未遂だ!」
容赦のない痛烈な糾弾に、軍医たちが震え上がりながら一斉に患部の洗浄作業へと取り掛かる。
「あ、あの軟膏が……毒……?」
セシリアが呆然と呟く。帝国軍が喉から手が出るほど欲しがり、万能の特効薬と崇めていた薬の「裏の顔」を突きつけられ、言葉を失っていた。
「薬は使い方を誤れば毒になる。現場に何度も注意書きを添えたはずです」
レンは冷徹に言い放ちながら、持参した器具箱を開けた。
取り出したのは、ガラス製の注射器、蒸留水、そして――胸ポケットから出したばかりの、純白の結晶が入った小瓶。
(培養・抽出を終えたばかりの、ペニシリン試作第1号……。動物実験のステップを飛ばして、いきなり皇族への人体投与になるが……迷っている時間はない。このまま放置すれば数時間で敗血症ショックを起こして死ぬ)
レンは無菌処理した結晶を正確に計量し、注射用の蒸留水に手早く溶解させた。
濁りのない、透き通った薬液がシリンジの中へと吸い上げられていく。
「レン殿……それは、一体何なのだ……?」
セシリアが震える声で問う。
レンは針先の空気を抜き、ユリウスの細い腕の静脈を見据えた。
「ステロイドが体の免疫を眠らせてしまったのなら、外から直接、増えすぎたバイ菌どもを皆殺しにする『弾丸』を撃ち込むだけです」
注射器のプランジャーを最後まで押し込み、レンは静かに針を抜いた。
止血綿で刺入部を軽く圧迫しながら、レンはすぐさま振り返り、立ち尽くす軍医たちへ矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「薬は入れました。ですが、体内に巣食った菌が完全に死滅するまでには数時間かかります。今夜が峠です。軍医の方々、総出で殿下の体を物理的に冷却してください」
「りょ、冷却……? 解熱の魔導具を使うのか?」
「ダメです。魔力による強制解熱は心臓と血管に過度な負担をかけます。氷嚢と冷水で絞った濡れタオルを用意してください。首の両脇、脇の下、そして太ももの付け根――太い血管が通っている箇所に氷を当てて熱を逃がすんです。それと、脱水を防ぐための経口補水塩……なければ薄い食塩水に少しのブドウ糖を混ぜたものを、スプーンで少しずつ喉へ流し込んでください」
「は、はっ……直ちに!」
レンの迷いのない現場指揮に、さっきまで混乱しきっていた軍医たちが我に返り、一斉に氷と布、水の手配へと走り出した。
セシリアは軍礼装の袖を自らまくり上げると、運ばれてきた氷嚢を受け取り、痛ましい弟の首元へとそっとあてがった。
その横顔には、帝国を統べる冷徹な皇女の面影はなく、ただ弟の命を案じる一人の姉の苦悩が張り付いている。
「レン殿……ユリウスは、助かるのか……?」
絞り出すようなセシリアの問いに、レンはユリウスの脈を取りながら、努めて冷静に事実だけを告げた。
「薬は確実に効き始めています。菌の細胞壁を壊し、これ以上の増殖を止めるはずです。あとは、殿下自身の体力と、この数時間の物理冷却でどれだけ高熱のダメージを抑え込めるかです」
シエナが無言でレンの背後に歩み寄り、冷たい水で濡らしたタオルを手渡す。
カトレアは病室の扉の前に立ち、軍部の高官や部外者がこれ以上踏み込んで処置を乱さないよう、無言の威圧感で部屋全体を外界から遮断した。
夜の帳が下りるにつれ、病室は氷と濡れタオルの交換、そして荒い息を吐く少年の唸り声だけが響く張り詰めた空間となった。
レンもその場を離れず、一定時間ごとにユリウスの腫れ上がった患部を観察し、体温と脈拍の変動を細かく確認し続けた。
――投与から3時間後。
「……あ」
額の汗を拭っていたセシリアが、息を呑んで声を漏らした。
あれほど激しく全身を揺らしていたユリウスの悪寒と震えが、潮が引くように収まり始めていた。
肩で息をしていた呼吸は徐々に整い、苦悶に歪んでいた表情が、深い眠りのそれへと変わりつつある。
「熱の上昇が止まった……? 脈の異常な頻脈も、落ち着いてきています……!」
軍医の一人が震える指先で手首の脈を測り、信じられないものを見る目で呟いた。
「菌の暴走にブレーキがかかりましたね」
レンは静かに息を吐き、冷たいタオルを取り替えた。
「ですが、ここからが本格的な掃除の時間です。朝まで油断せずに冷やし続けてください」
◇
【劇的な回復と帝国の激震】
翌朝――。
東の空が白み始め、病室のステンドグラスから柔らかな朝の光が差し込んできた。
寝台の傍らの椅子に腰掛け、一睡もせずに見守っていたセシリアの肩が、微かな衣擦れの音にピクリと跳ね上がった。
「……う……ん……」
小さく、掠れた少年の声。
「ユリウス……!?」
セシリアが弾かれたように身を乗り出す。
ベッドの上で、第4皇子ユリウスの瞼がゆっくりと持ち上がり、焦点の合わなかった紫紺の瞳が、姉の姿を捉えた。
「……あ、ねうえ……?」
「ユリウス! 気がついたのね……!」
「僕……訓練で……腕を……?」
ユリウスはおずおずと、自らの右腕に視線を落とした。
その腕を見て、張り詰めていた病室の軍医たちから、どよめきと感嘆の息が漏れた。
昨夜まで赤黒くパンパンに張り裂けそうだった前腕の腫脹が、明らかに引いていた。
濁った膿の浸出は完全に止まり、熱を持って毒々しく鬱血していた皮膚には、本来の健康的な血色が戻り始めている。
軍医長が震える手で少年の額に触れ、それから計測器を確認した。
「……下がっている……! 昨晩の40度近い猛烈な高熱が、平熱に近い37度台まで落ちている……!」
「傷口の腐敗も完全に止まっているぞ……! 壊疽の兆候が消え、新しい皮膚の組織が息を吹き返している……!」
軍医たちが互いに顔を見合わせ、ある者は膝から崩れ落ち、ある者は神の奇跡を讃えるように胸の前で手を組んだ。
昨夜の時点では「腕の切断、最悪は今朝までの命」と匙を投げていた重篤な感染症が、1晩で完全に鎮圧されていた。
「痛く……ない……。昨日は焼けるように熱かったのに、腕の痛みが、すっかり消えています……」
不思議そうに自らの指先を動かしてみせるユリウスの姿に、セシリアは溢れそうになる涙を必死に堪え、その額に優しく自らの額を押し当てた。
「よかった……本当によかったわ、ユリウス……」
震える声で弟を抱きしめた後、セシリアはゆっくりと立ち上がった。
そして、部屋の隅で静かに片付けをしていたレンの前へと歩み寄る。
その碧眼には、先ほどまでの脆い姉の顔はなく――だが、以前のような傲慢な肉食獣の笑みでもない。
世界を救う力を目の当たりにした者特有の、底知れぬ畏怖と、狂おしいまでの崇敬が宿っていた。
「……レン殿」
セシリアは軍礼装の背筋を正し、帝国第2皇女としての最上級の礼節をもって、レンの前に深く頭を垂れた。
「貴殿の叡智が、我が弟の命を……帝国の未来を救ってくれた。万言の感謝を捧げても、到底足りないわ」
「いえ、間に合ってよかったです。……ただ、ステロイドの誤用については、軍の全医療班に通達を出して徹底的に再教育してください。薬は使い方一つで命を救いもすれば、あっさりと奪いもしますから」
レンがさらりと告げると、セシリアはゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥で、ギラリと猛烈な光が灯るのをレンは見逃さなかった。
(……あ、これ、まずい目だ)
前世の研究職時代、画期的な新薬のデータを前にして目の色を変えた役員たちと同じ――いや、それ以上に危険な「国家を動かす権力者の目」だった。
治癒魔法でも救えず、手足を切り落とすしかなかった戦場の壊疽や化膿熱を、たった一晩で無力化する奇跡の薬。
帝国軍が喉から手が出るほど欲しがっていた「死なない軍隊」を現実のものにする、究極の戦略物資の誕生。
「……ええ、軍医どもには骨の髄まで叩き込ませるわ。それと……レン殿」
セシリアは1歩、レンへと踏み込み、その耳元へ甘く、だが抗いようのない熱を孕んだ声で囁いた。
「昨晩、貴殿がユリウスの血に注ぎ込んだあの『奇跡の白い結晶』……。あれが何であるか、後でたっぷりと、2人きりで聞かせてくださるかしら?」
「――セシリア殿下、話は後です。ユリウス殿下の体内で菌の増殖は止まりましたが、完全に叩き切るには血中濃度を維持するための【追加投与分の薬剤】が絶対に必要です。今ここで投与を中断すれば、生き残った菌が耐性を得てぶり返します。急ぎ工房へ戻り、追加分の精製に入ります!」
レンは真面目そのものの医療者としての表情(プロの仮面)を一切崩さず、矢継ぎ早にそう言い切った。
「な、追加の薬剤ですって……!?」
「ええ。一刻を争います。シエナ、カトレア、行くよ!」
「は、はっ!」
「直ちに!」
セシリアが何かを言いかけるよりも早く、レンは器具箱を引っ掴むと、脱兎のごとく病室を後にした。
背後から追い縋ろうとした軍医たちの呼び止めも、カトレアの威圧感ある殿とシエナの冷徹な一瞥でシャットアウトさせ、軍が用意していた馬車へと飛び乗る。
「……ふぅぅぅぅーーーっっっ!!」
馬車の扉が閉まり、車輪が石畳を激しく叩き始めた瞬間、レンは座席に崩れ落ちるように深く沈み込み、激痛の走る胃を押さえた。
「レン様、見事な脱出劇でしたわね」
向かいに腰掛けたシエナが、扇子の陰からくすりと笑みを漏らす。
「見事も何も、半分は本気だよ……! 抗生物質は途中でやめたら耐性菌が生まれるリスクがあるのは事実だけど、あのままあの部屋に残ってたら、セシリア殿下に骨の髄まで問い詰められて逃げられなくなるところだった……!」
「ですがレン様、これで決定打となりました」
シエナの琥珀色の瞳が、冷徹な軍師の輝きを帯びる。
「第4皇子の命を救ったという揺るぎない事実。そして、その奇跡を起こせる薬の現物と製造技術を握っているのは、世界でレン様ただ一人……。帝国の軍部も、あのセシリア殿下すらも、もはやレン様を軽々しく扱うことなど不可能ですわ」
「ああ。……だからこそ、急がなきゃいけない」
レンは背筋を伸ばし、窓の外を流れる帝都の街並みを見据えた。
試作第1号によるユリウスの劇的な回復は、ペニシリンの絶大な効果を証明したと同時に、帝国の頂点にその存在を知らしめてしまった。
数ミリグラムの試験製造で誤魔化せる段階は、完全に終わったのだ。
「工房へ戻ったら、残っている月光瓜の抽出液からユリウス殿下の追加投与分を最優先で仕上げる。……そして、それが終わったらすぐに、エール醸造所の買収と深部発酵プラントへの改装を進めるよ」
実験室レベルの「小瓶」から、国家を動かす「巨大タンク」へ。
帝国の巨大な蜘蛛の巣を食い破るためのタイムリミットが、いま本格的に動き出そうとしていた。
【完治の代償と揺れる帝都】
あれから1週間。
職人街の裏手にある仮設工房の作業台で、レンは深く息を吐き出し、ようやく椅子の背もたれに体重を預けた。
連日の追加投与と、軍医たちへの無菌ガーゼ交換の指導、そして傷口の経過観察。
ペニシリンの投与サイクル(ワンクール)をきっちり完遂した結果、ユリウスの右腕の腫れや膿は跡形もなく消え去っていた。赤黒く鬱血していた皮膚は瑞々しい桜色を取り戻し、深く裂けていた切創の縁も綺麗な肉芽が盛り上がって完全に塞がっている。今朝の回診では、少年の手でしっかりとレンの手を握り返せるほどに筋肉の機能も回復していた。
「……よし。これでほぼ完治、完全回復と見ていいな」
敗血症ショックや腕の切断はおろか、後遺症の麻痺すら残さない。
元製薬会社研究員として、異世界での「ファースト・イン・ヒューマン(初の人体投与)」という極限の綱渡りを無事に渡りきった達成感に、レンの肩からようやく重たい荷が下りた。
「お茶を淹れましたわ、レン様。1週間、本当にお疲れ様でした」
シエナが湯気の立つカップを差し出し、労うように微笑む。
護衛として昼夜を問わず目を光らせていたカトレアも、腰の大剣を休め、心底ほっとしたように胸を撫で下ろしていた。
レンたちにとっては、これでようやく一息つき、本命である「醸造所の買収と深部発酵プラント化」へ腰を据えて取り掛かれる……はずのタイミングだった。
だが――。
工房の窓の外、帝都の街並みから伝わってくる空気は、レンの穏やかな安堵とは完全に真逆の、凄まじい大パニックに包まれていた。
「……何だか、外がやけに騒がしいね? 軍の伝令馬車が朝から何十台も通り過ぎていくけど」
レンがカップに口をつけながら首を傾げると、シエナが冷徹な苦笑を浮かべ、広げたばかりの帝都の速報紙と貴族院の連絡文書をトントンと指先で叩いた。
「レン様。ご自身が成し遂げたことの余波を、少しは自覚なさいませ。……いま、帝都中――いいえ、ヴァレンティノ帝国全土の医療界、軍部、そして元老院が、文字通り蜂の巣をつついたような大騒乱に陥っておりますわ」
事態は、レンの想像を遥かに超える規模で大炎上していた。
帝国全軍が喉から手が出るほど欲しがり、高官たちへ優先配備されていたはずの「奇跡の万能消炎剤(ステロイド軟膏)」。
軍医たちが絶対の信頼を寄せていたその神薬が、刃物による切創という最も頻度の高い戦傷に対して「免疫を殺し、傷を腐らせて命を奪う猛毒の引き金になりかけた」という戦慄の事実。
軍の最高機密として伏せられるはずだったこの医療過誤は、ユリウスの命が危うくなったことで皇宮や元老院、果ては各方面軍の将軍たちの耳にまで瞬く間に筒抜けとなっていた。
「自分たちが信じていた神薬は毒だったのか」「前線の負傷兵に塗ったら全員死ぬのか」と、軍の医務局は怒号と糾弾の嵐に晒され、前線の備蓄庫からはステロイド軟膏の使用凍結命令が飛び交う大混乱。
そして――その絶望の淵から、死にかけた第4皇子の腕と命を、たった1週間で何事もなかったかのように完璧に繋ぎ止めてみせた「純白の結晶」。
治癒魔法の最高峰でも救えず、壊疽として腕を切り落とすしかなかった不治の病魔を、針一本の薬液で根こそぎ消し去った謎の特効薬。
『神薬の暴走を鎮め、死の淵から第4皇子を引きずり戻した、真の奇跡の結晶』
『ルーヴェンから来た若き世襲伯爵は、人外の領域で病を統べる薬神の御子か』
軍部は「その薬を今すぐ我が軍団へ寄越せ」と血眼になり、元老院の長老たちは利権の匂いを嗅ぎつけて狂乱し、治癒術士ギルドの重鎮たちは既存の魔法医療が根底から覆された事実に泡を吹いて卒倒していた。
「……ええと」
手元のカップを握ったまま、レンの頬が引きつる。
「僕、ただ普通に『感染創にステロイド塗っちゃダメだよ』って怒って、手持ちの化膿止めを打っただけなんだけど……」
「それが帝国の常識を天変地異レベルで叩き壊したのですわ」
シエナが楽しげに目を細めた。
「皇帝陛下は至急の拝謁を命じ、セシリア殿下の執務室には各方面軍からの嘆願書が山のように積み上がり、門前には面会を求める大貴族の使者が列をなしております。……レン様。この帝都において、貴方の存在はもはやただの『新進気鋭の商人』などではありませんわ」
「完全に、帝国の生殺与奪を握る『劇薬そのもの』になっちゃったわけね……」
レンは乾いた笑いを漏らし、冷めかけた茶を一気に飲み干した。
胃の奥が再びズキリと疼き始めるのを感じながら、レンは思考を切り替える。
(パニックになってるなら、好都合だ。軍も元老院も混乱して上を下への大騒ぎ……こっちの手元を正確に監視できる奴は1人もいない)
「シエナ、不動産屋との話はどうなってる?」
「ふふ、抜かりありませんわ。狙っていた川沿いのエール醸造所、経営難のオーナーが軍の騒乱による暴落を恐れ、言い値で即時売却に応じるとのことです」
「よし。帝都中が大騒ぎしている間に、一気にプラントを押さえるよ」
外の狂乱を他所に、レンの冷徹な知性が、次なる一手へと静かに動き出していた。
【皇帝の親心と公爵叙任の勅命】
皇帝フランツ3世の私室。
大謁見の間の冷徹な支配者としての仮面は、そこにはなかった。
豪奢な肘掛け椅子から身を起こした皇帝は、歩み寄ると、レンの前にまっすぐに立った。セシリアが息を呑む中、大陸最強の覇道を敷く帝国の君主が、ただ1人の父親として、レンに向かって深く腰を折ったのだ。
「……感謝する、レン殿。1人の父親として、心から礼を言わせてほしい」
低く、わずかに震える声だった。
「あの夜、ユリウスの腫れ上がった腕と、死人のように冷たくなっていく肌を見たとき……朕は我が子の命を諦めかけていた。歴代の宮廷治癒術士たちが匙を投げ、壊疽として腕を切り落とすか、今朝までもたぬと告げられたのだ。それを……貴殿はたった1筋の薬液と、1週間の看病で、あの子に再び剣を握れる未来を返してくれた」
顔を上げた皇帝の双眸には、政治的な打算や駆け引きの色は微塵もなかった。
そこにあったのは、肉親を死の淵から救い出された親としての純粋な驚愕と、底知れぬ畏怖だった。
「信じられん……。あれほどの劇的な効き目を誇る薬が、この世に存在したとはな。神の奇跡と呼ぶことすら生ぬるい。あの白い結晶は、人知を超えた領域のものだ」
皇帝は感慨深げに息を吐き出すと、傍らに立つ娘――セシリアへ視線を向けた。
「セシリア。以前、貴様が第一特別貴族特区の公爵邸をこの者に宛がった際、朕は過剰な先行投資ではないかと難色を示したな」
「……はい、父上」
「前言を撤回する。過剰どころか、極めて妥当、いや……まだ足りぬほどだ」
皇帝は再びレンに向き直り、その双眸に真剣な熱を宿らせた。
「あの屋敷ですら、貴殿が成し遂げた功績の前では些末な器に過ぎん。死の病魔を屠り、帝国の未来そのものである皇子を救い上げた知を、いつまでも『一介の伯爵』などに留め置いておくことこそ、我が帝国にとって最大の損失であり、恥辱だ」
そう言い切った皇帝は、レンへ向けていた視線を、傍らに控えるセシリアと宮内卿へと鋭く転じた。
言葉だけで終わらせる気など、最初から毛頭なかったのだ。
「宮内卿。直ちに元老院へ勅令を回せ。レン殿への『公爵位』叙任、ならびに名実ともに帝国の重鎮たるに相応しい特権の付与について、至急その手続きを進めよ」
「……っ、父上!」
セシリアの碧眼が見開かれ、控えていた宮内卿が息を呑んで平伏する。
「し、しかし陛下! レン伯爵は叙勲を受けたばかり。民間出身の他国籍者を即座に公爵へと陞爵させるなど、元老院の頑物どもが猛反発いたします!」
「我が子の命を救い、帝国全軍の命脈を握る者を厚遇して何が反発か! 愚図る老害どもには『異論があるなら我が子の命を救ってから申せ』と朕が叩き伏せる。反対など一切許さん」
迷いの欠片もない断行。
息子の命を救われた父親としての情と、これほどの怪物を逃してなるものかという統治者の本能が、帝国の法すら力技でねじ伏せにかかっていた。
そして皇帝は、愕然とするレンに向き直り、その肩にどっしりと重厚な手を置いた。
「手続きには少々時間を取らせるが、貴殿が名実ともに帝国の頂に立つことはすでに決定事項だ。それまでの間、貴殿の望む環境、望む素材、望む工房……帝国の総力を挙げて全てを保証しよう。必要な設備や資金は国庫から無尽蔵に拠出させる。帝国軍の立ち入りも、元老院の詮索も、我が名において一切を遮断する。……存分に腕を振るえ、我が恩人よ」
(ま、待ってくれ……! 本当に公爵の話が進んじゃってるじゃないかぁぁぁっ……!!)
レンの内心の悲鳴などどこ吹く風で、皇帝の言葉に伴う巨大な国家機構が、レンを「帝国の公爵」へと押し上げるべく凄まじい勢いで動き始めていた。
◇
【王国の焦燥と2大強国の公爵争奪戦】
ルーヴェン王国――王宮、深奥の円卓の間。
重い扉が閉ざされ、室内にいるのは国王、宰相、そして筆頭貴族であるベルフォール公爵の3名のみ。国家最高幹部による極秘会談の空気は、張り詰めた糸のように張り裂けそうだった。
玉座に浅く腰掛けた国王は、机上に散らばる帝都からの諜報文書を見つめたまま、重苦しく口を開いた。
「……ベルフォール公。四肢を腐らせる死の病魔を、治癒魔法も介さずに1週間で消し去ったという。しかも帝国の皇帝フランツは、我が国の男爵籍にあるレンを、自国の公爵へ押し上げる手続きを直命で開始した。……この意味は、貴殿も痛いほど解っておろう」
国王の眼差しには、冷徹な焦燥と底知れぬ危機感が滲んでいた。
「負傷兵が感染症で命を落とさぬとなれば、帝国軍は実質的な損耗ゼロの軍団へと変貌する。大陸の軍事均衡は一夜にして瓦解した。……ただ『連れ戻せ』などという口先の手紙や外交辞令で動くほど、情勢が甘くないことなど余とて百も承知だ。いまやレンは、帝国が国家の命運を賭けて囲い込もうとしている至宝中の至宝なのだからな」
傍らに控える宰相が、血の気の引いた顔で唾を飲み込み、震える指先で書類を揃えた。
「帝国が公爵位という最高位の椅子を用意し、不可侵の特権と国庫のバックアップを惜しみなく注ぎ込んでいる以上……王国側もまた、それに匹敵する『破格の代償』を差し出さねば、彼を呼び戻す交渉の席にすら着けません」
ベルフォール公爵は腕を組み、微動だにせず王を見据えた。低く、地を這うような声が返る。
「……では陛下。王国は何を差し出すおつもりか。我が息子レンは、すでに名目上はバルツ男爵家の籍にあり、ノア・ホールディングスの巨万の富を動かす身。今さら領地無しの名誉伯爵程度を積んだところで、鼻先で笑われるのが落ちですぞ」
「無論だ」
国王は身を起こし、机の上に置かれた白紙の勅許状へ視線を落とした。
「帝国が公爵位を用意するならば、王国もレンを『王国筆頭公爵家の一角』――あるいは新たな世襲公爵として即座に陞爵させる。さらに、王家直轄領の中で最も実り豊かで街道の要衝たる大領地を下賜し、内政・徴税の自治権を完全に委ねよう」
「陛下……! 1介の元3男に、公爵位と直轄領を……!?」
宰相が息を呑んだが、国王はそれを鋭い一瞥で制した。
「それだけではない。レンを我が王国へ繋ぎ止める最も強固な楔……王家との血縁だ。我がルーヴェン王国の至宝――第1王女フリオーリアを降嫁させ、将来の王配、あるいは王位継承権の補佐として国政の頂に据える。そこまで踏み込まねば、帝国の皇帝とセシリア皇女の魔の手から彼を引き剥がすことなど到底叶わん」
王国を挙げての公爵位の付与、豊かな直轄領、そして王族の降嫁。
国家の屋台骨を揺るがすほどの破格の条件が、レン1人を引き戻すための対価として提示された。
ベルフォール公爵は静かに目を細め、深く息を吐き出した。
「……承知いたしました。そこまでの覚悟をお示しいただけるならば、わしも動かねばなりますまい。使節団の正使には、我が長女エレオノーラを据えます。あ奴ならば、帝国が張り巡らせた策動を力づくで食い破り、レンに王国の意志を直接叩きつけるでしょう」
「頼むぞ、ベルフォール公。一刻を争う。帝国の公爵叙任の手続きが完了する前に、帝都へ乗り込み、王国の総力を挙げたこの勅許をレンの前に突きつけるのだ」
国家の覇権を揺るがす薬師の身柄を巡り、帝国と王国の最高権力が、それぞれ「公爵位」という最大の切り札を盤上に叩きつけ合おうとしていた。




