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電脳鑑定の調合師  作者: 藤咲玲


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15/29

15話:貴族怖い、王族もっと怖いと思い知るレンの帝都上

【近衛騎士団の悲鳴と肉食獣の暴走】


 王宮の西翼、白亜の石造りで固められた近衛騎士団本部の団長執務室。

 そこへ、ノックの音すら置き去りにする勢いで飛び込んできたのは、近衛騎士団副隊長のカトレア・アッシュフォードだった。


「エドワード団長! 緊急事態ですッ!」


 ドガァン、と扉を壁に激突させたカトレアの鬼気迫る形相に、書類に羽ペンを走らせていたエドワードは心底うんざりしたように顔を上げた。


「……カトレア副隊長。執務室の扉は壊すためにあるのではないと何度言えば――」


「それどころではありません! レン様の身辺に、王国の存亡を揺るがすレベルの致命的な国防上の大穴が空きました!」


「レンの……? あいつに何かあったのか!? 暗殺者か、それともまた不当な商売敵か!?」


 溺愛する弟の名を聞いた瞬間、エドワードの武人としての鋭い眼光が跳ね上がった。

 しかし、カトレアが長机の上に叩きつけたのは、暗殺予告でも不穏な報告書でもなく――ノア・ホールディングス特務販売部の真新しい名刺と、一枚の部内稟議書だった。


「これをご覧ください!」


 エドワードは怪訝そうに眉をひそめ、名刺に視線を落とした。


『ノア・ホールディングス総帥直属 特務販売部主幹 シエナ・フォン・バルツ』


「……シエナ? フォン・バルツ……? バルツ男爵家に、リリア以外にそんな娘はいたか? 遠縁の親戚か何かがレンの会社に入ったのか?」


「違います! この『シエナ』とは、先日本社に恐喝を仕掛けて自滅・破産した、あのシルフィード元公爵家の令嬢です!」


「……は? シルフィードの?」


 エドワードの思考が一時停止した。


「敵対した公爵家の令嬢が、なぜバルツ男爵家の家名を名乗っている? しかもレンの直属だと?」


「驚くのはそこだけではありません。レン様はその元令嬢の土下座を受け入れ、買い取った旧シルフィード公爵邸の自室をそのまま与え、現在一つ屋根の下で完全な同居状態にあります!」


「ぶっっっ――!?」


 エドワードは口元を手で覆い、椅子から転げ落ちそうになった。


「ど、同居ぉぉぉ!? あいつ、あの広大な公爵邸を倉庫にするでもなく自宅にした上に、敵の娘と暮らしているのか!? 正気かレンは!?」


「さらに、エレオノーラ様とリリア殿が『外聞では側室や内妻扱いされる』と猛抗議した際、レン様はこう仰ったそうです。『噂なんてそのうち飽きるでしょ?』と!」


「否定しなかったのかよッ!?」


 エドワードは両手で頭を抱え、絶叫した。鍛え上げられた近衛騎士団長の屈強な肉体が、弟の破天荒すぎる世間知らずっぷりに激しく震える。


「馬鹿かあいつは! ただでさえエレオノーラがレンを将来婿にするために、バルツ男爵家に籍を移すという曲芸みたいな手続きを踏んだばかりなんだぞ!? そのバルツの家名を、転がり込んできた元公爵令嬢が勝手に名乗って内妻気取りで同居など……エレオノーラが発狂して王都が氷河期になるぞ!」


「ええ、エレオノーラ様はすでに臨界点を突破し、昨夜は胃薬草のフルコースでレン様を3時間正座させて説教したとのことです。……ですが団長、真の危機はそこではありません」


 カトレアは一歩踏み込み、腰の軍刀の柄に手をかけた。その紫紺の瞳には、かつて戦場で一騎当千の武功を立てた時以上の、冷徹かつ狂気的な光が宿っている。


「考えてもみてください。レン様はバルツ男爵家の養子・長男。そしてシエナは『シエナ・フォン・バルツ』を自称して同じ屋敷に潜り込んだ。このまま既成事実を積み重ねられれば、レン様が新たな家名を興した際、そのまま正妻あるいは筆頭側室の座を奪われる危険性が極めて高い!」


「……いや、カトレア、お前がなぜそこまで切迫しているんだ?」


 エドワードの引きつった問いを、カトレアは完全に無視した。

 そして、名刺の横に置かれていた、分厚い羊皮紙の束――厚さ5センチはあろうかという狂気の書類をダンッと叩きつけた。


「ですから! 近衛騎士団副隊長たる私、カトレア・アッシュフォードが、即座に現場へ介入する必要があります! これを受理してください!」


 エドワードはおずおずと書類の表紙に目を走らせた。


『近衛騎士団特別警備任務申請書 兼 レン・ノア邸専属常駐護衛願(第3稿)』

 副題:『旧公爵邸最上階・レン様私室隣室への緊急配置転換、ならびに夜間身辺警護(同衾含む)の戦略的妥当性について』


「……カトレア」


「はい!」


「お前、これ……ただレンの隣の部屋に住み着きたいだけじゃないか?」


「心外です! 純粋な防衛戦略です!」


 カトレアは微塵も揺らがぬ美貌で、立て板に水のごとく持論をまくし立てた。


「あの屋敷には現在、レン様を絶対神と崇め、隙あらば外堀を埋め立てようとする危険な元令嬢が野放しになっています! レン様の無自覚かつ致命的なお人好し気質を鑑みれば、夜襲、あるいは既成事実の捏造など容易の極み! 武術・家事・大工仕事まで万能な私が隣室に陣取り、24時間体制でレン様を物理的・精神的・貞操的にガードせねばなりません!」


「お前が一番レンの貞操を狙ってるように見えるのは俺の気のせいか!?」


「断じて違います! 私はアッシュフォード侯爵家の正当な後継者の一人として、レン様の正妻に最も相応しい資質を客観的にプレゼンしているだけです! ご覧ください、この120ページに及ぶ『私を妻に迎えた際の国防・軍事・流通における相乗効果一覧表』を!」


「知るかぁぁぁッ! 誰が弟の寝首を狙う肉食獣に配置転換の許可を出すか!」


 エドワードは机の引き出しを乱暴に開け、中から常備している胃薬の小瓶を取り出した。蓋をもぎ取るように開け、粉末を一気に口へ放り込んで水で流し込む。


「胃が……胃が焼け爛れそうだ……! 外ではエレオノーラが目を血走らせ、家ではリリアが毒を吐き、職場では部下がレンの隣室を狙って暴動を起こしかけている……! あいつは一体、無自覚に何人の女の人生を狂わせれば気が済むんだ!」


「団長、胃薬を飲んでいる暇はありません。サインを! 今すぐここにサインをしていただければ、私は今夕から私物をまとめて公爵邸へ突入できます!」


「絶対に通さん! 却下だ却下! これ以上王都の火種を増やすな!」


「ならば団長、実力行使でその判子を奪うまで――」


 カトレアが静かに軍刀の鞘を鳴らした瞬間、エドワードは机を盾にして身構えた。

 近衛騎士団本部の最上階から、屈強な騎士団長の悲痛な怒号が響き渡った。


「誰か――ッ! 誰かレンを連れてこい! もっと強い胃薬を……あいつの特製胃薬を大樽で持ってこさせろォォッ!!」


 ◇


【社交界の暗部を握る元公爵令嬢】


 王都の北側、旧来の門閥貴族たちが集うロアンヌ伯爵邸の大広間。

 定期的に開かれるこの昼のサロンは、最新の流行と醜聞、そして水面下の利権取引が交錯する王都社交界の伏魔殿だった。


 豪奢なシャンデリアの下、色とりどりのドレスをまとった貴婦人たちや令嬢が、銀のトレイから菓子をつまみながらひそひそと耳打ちし合っている。その話題の中心は、数か月前に破滅したシルフィード公爵家の惨状と、王都を席巻するノア・ホールディングスの動向だった。


「聞いたこと? 元公爵閣下は、郊外の掘っ立て小屋のような部屋で酒浸りなんですって」

「まあ、おいたわしいこと。……でも、身から出た錆ですわね。あの傲慢なシエナ様も、今頃は下町で洗濯女にでも身をやつしているのかしら」

「平民上がりのベルフォール家の小僧にすべてを奪われて、プライドも粉々でしょうねえ」


 品のない笑い声が広間に満ちた、その時だった。


「――ノア・ホールディングス総帥直属特務販売部主幹、シエナ・フォン・バルツ様のお着きです!」


 従僕の朗々とした声が響き渡り、サロン中の視線が一斉に大扉へと注がれた。


 ざわり、と冷たい静寂が広がる。

 現れた女性は、落ちぶれた洗濯女などでは断じてなかった。


 濃紺の上質な夜空色を基調とした、完璧に仕立てられたドレス。無駄な装飾を削ぎ落とし、洗練された品格だけを際立たせたその姿は、かつて見せていたけばけばしい傲慢さとは一線を画す、凛とした美しさに満ちていた。

 そして何より、その胸元に輝いていたのは――ノア・ホールディングス総帥の直筆署名が入った銀の特務バッジ。


 背筋をすっと伸ばし、一分の隙もない優雅な歩調で広間の中央へ進み出るシエナに、貴婦人たちが息を呑む。


「……シエナ様? 本当にシエナ様なの?」

「フォン・バルツ……? あの名乗りは何ですの……?」


 困惑と動揺が走る中、かつてシエナの取り巻きであり、没落後は真っ先に陰口を叩いていた子爵夫人が、扇子で口元を隠しながら嘲笑を浮かべて歩み寄ってきた。


「まあまあ、シエナ様ではありませんか。どのようなお顔で社交界へ戻られるのかと思えば……ずいぶんと厚顔無恥なこと。『バルツ』だなんて、あのみすぼらしい元騎士爵の家名を騙って、平民の小僧の小間使いに身をやつされたのですか?」


 周囲からクスクスと意地の悪い忍び笑いが漏れる。

 並の令嬢であれば屈辱に顔を歪ませて逃げ出すような侮辱。だが、シエナは眉一つ動かさず、完璧な角度のカーテシーを返した。


「ご無沙汰しておりますわ、プレストン子爵夫人。……ところで夫人、お肌の調子が酷く乱れておいでですね。目の下の隈、粉を吹いた頬……ずいぶんと心労がおありのようで」


「なっ……!?」


 子爵夫人の笑顔がぴきりと凍りつく。シエナは静かに歩み寄り、夫人の耳元へかすかに声を落とした。


「昨年の秋、ご実家の鉱山利権の更新を巡って、王室財務局へ少々無理な裏金を融通されましたでしょう? その際の危うい手形……実はノア・ホールディングスが先週、経営難に陥った地方銀行から一括で買い取らせていただきましたの」


 夫人の顔から、サッと血の気が引いた。


「そ、それを……なぜ貴女が……!?」


「申し上げましたでしょう? 私はノア・ホールディングス総帥、レン様の直属であると」


 シエナは蠱惑的なまでに美しい営業スマイルを浮かべ、手元の黒革の手帳をわずかに開いて見せた。


「ご安心ください。我が主、レン様は極めて慈悲深く合理的なお方。いたずらに他家を破滅させるような下品な真似はなさいません。――すべては、誠実な情報共有と信頼関係次第ですわ」


 シエナは従者に目配せをし、ベルベット張りの小箱を開かせた。

 中に収められていたのは、雪のように純白の陶器に入った、ノア社特製の最上位保湿美容軟膏『ル・シエル』。


「帝国原生林の希少な生薬エキスを、レン様独自の技術で精製した至高の一品です。……ですが、これは店頭には並びません。月にわずか数十個しか生産できない、完全審査制の『特別購入枠』でございます」


 シエナはサロン中に響く凛とした声で、周囲の貴婦人たちをも見据えて告げた。


「この購入権を得られるのは、ノア・ホールディングスに『誠実な協力』をお約束いただける家のみ。たとえば……社交界の水面下で動く利権の動向や、各家が抱える不良債権の処理相談といった、有益な情報を共有してくださる方ですわ」


 サロンにいた貴婦人たちの目の色が、一瞬で変わった。


 化粧品そのものの売上など、全国に100店舗以上を展開するノア社にとっては雀の涙に過ぎない。シエナの真の狙いは金ではなく、この至高の美をエサにして「貴族たちの裏情報と弱みを自ら差し出させる情報収集網の構築」だった。


「夫人のお肌のお悩みも、実家の手形の期日も、レン様への『誠意ある情報提供』一つで、すべて円満に解決いたしますわ。……特別購入枠の審査申請、お受けいたしますか?」


 子爵夫人は額に冷や汗を滲ませ、周りの貴婦人たちからの羨望と焦燥の視線を背に受けながら、震える手で申請書を掴み取った。


「も、申し込むわ……! 我が家が持つ王宮財務局の動向、すべて貴女にお話しします……!」


 サロンが一気にざわめき立ち、他の貴婦人たちも「私にもその申請書を!」「我が家の帳簿も見ていただきたいわ!」と、先ほどまでの嘲笑を忘れてシエナの周りへ雪崩を打って群がってきた。


 かつて社交界の頂点に君臨したからこそ知る、貴族たちの見栄と弱み。

 シエナはレンの圧倒的な商品力を撒き餌にして、社交界の暗部を次々とノア・ホールディングスの手のひらへ握り込ませていく。


(見ていてくださいませ、レン様……!)


 群がる貴族たちを冷徹な笑みで見下ろしながら、シエナの胸は熱い忠誠心で満たされていた。


(貴方様が私に下さったこの命、そして『フォン・バルツ』の名……! 王都の貴族どもの喉元をすべて貴方様の支配下に置き、私が貴方様の隣に立つに相応しい女であることを、必ずや証明してみせますわ……!)


 社交界の裏情報を根こそぎ巻き上げるシエナの鮮やかすぎる暗躍。

 この特大の成果が、翌朝、エレオノーラに「あいつ、有能すぎて余計に胃が痛い……!」と頭を抱えさせ、近衛騎士団のカトレアに「情報戦までこなすなど、ますます危険な女狐!」と更なる危機感を煽ることになるとは、レンだけが知る由もなかった。


 ◇


【合法的な息の根の止め方と冷徹な撤退基準】


 旧シルフィード公爵邸の最上階。柔らかな朝の陽光が差し込む執務スペースに、革表紙の分厚いファイルが3冊、整然と並べられた。


「レン様、昨日のサロンにて収集した各門閥貴族の財務実態、および裏帳簿の照合結果でございます」


 シエナは完璧な角度で頭を下げ、そのファイルをレンの前に差し出した。

 寝癖の残る髪を手ぐしで直しながら朝の白湯を飲んでいたレンは、パラパラとページをめくり、その記載密度の異常さに目を丸くした。


「……これ、昨日1日で全部集めてきたの?」


「はい。プレストン子爵夫人を筆頭に、王宮財務局に便宜を図ってもらっている貴族家7家の帳簿の写し、ならびに賄賂の裏書手形です。ノア社の『ル・シエル』特別購入枠の審査権をエサに提示したところ、奥様方は競うようにご実家の急所を差し出してくださいましたわ」


 シエナは誇らしげに胸を張り、琥珀色の瞳を爛々と輝かせている。

 その横でワゴンを整えていたリリアが、冷めた声で呟いた。


「相変わらず手口が裏通りの情報屋よりえげつないですね。美貌をエサに貴族の喉元を締め上げる元公爵令嬢……ノア社の対外イメージが着実に『マフィアのフロント企業』へと傾いていく音が聞こえます」


「人聞きが悪いわね、リリアさん。私はレン様が開発された至高の美を、正当な対価――我が社の防衛に必要な情報と交換しただけよ」


 バチバチと火花を散らす二人を横目に、レンはファイルのある一点を指先でトントンと叩いた。


「……面白いね。これ、王宮財務局の第3徴税監察官、ガルニエ男爵の署名だ」


 その名が出た瞬間、執務室の扉がノックもなしに開いた。

 入ってきたのは、すでに外出用の洗練されたドレスを身にまとったエレオノーラだ。


「ガルニエ? あいつの名前がどうしてそこにあるのよ、レン」


「姉さん、おはよう。ちょうどいいところに来てくれた」


 レンはファイルをエレオノーラに手渡す。エレオノーラは眉をひそめながら目を通し、すぐに表情を険しくした。


「……信じられないわね。ガルニエのやつ、シルフィード公爵家から流れていた賄賂のパイプが切れた途端、うちのノア社に対して『帝国からの原料輸入に伴う緊急関税引き上げ』と『帳簿の特別査察』を画策していたってわけ?」


「ええ。旧体制にぶら下がっていた官僚からすれば、ノア社の急成長とシルフィードの破滅は面白くないはずですから。近々、難癖をつけてノア社の物流を港で差し押さえる腹づもりだったようです」


 シエナが補足すると、エレオノーラは忌々しそうに吐き捨てた。


「あの薄汚い豚官僚め……。レン、王室へ直接手を回して、ベルフォール公爵家の名でガルニエを罷免させる? 少し時間はかかるけれど、私の権限なら財務卿へ直接圧力をかけられるわ」


「いいえ、姉さん。そんな大掛かりな政治劇をする必要はありませんよ」


 レンは白湯のカップを置くと、前世の登録販売者・店長時代に培った「法令遵守の隙間を突く」冷徹な笑みを浮かべた。


「公爵家の権力で首をすげ替えたら、『ベルフォール家が商売のために横暴を働いた』と周囲に口実を与えてしまいます。相手が『法と規則』を武器に嫌がらせをしてくるなら――こちらも『法と経済の論理』で、合法的に息の根を止めるのが筋です」


 レンは手元の白紙にペンを走らせ、3つの指示を書き殴った。


「シエナさん」


「はい、レン様!」


「この裏書手形の原本を、ガルニエ男爵が隠し口座を持っている『王都中央信託銀行』に持ち込んでください。そして――『この債権の全額回収を、即座にノア社へ支払うよう手続きしてくれ』と窓口で要求するんだ」


 シエナは一瞬目を丸くし、それから歓喜に満ちた獰猛な笑みを浮かべた。


「……なるほど! 公爵家から買い取った債権の中には、ガルニエ男爵の私設ファンドへの貸付金が含まれています。表沙汰にできない隠し資産で運用していた借金を、白日のもとで全額一括請求されたら……」


「ええ。ガルニエは即座に債務不履行で口座を凍結されます。そしてリリア」


「はい」


「ベルフォール家の法務官を通じて、王室財務局の『監察総局』へ一本の書状を届けてほしい。『ノア社は健全な納税義務を果たすため、王都中央信託銀行における不正口座の実態調査に全面的に協力する用意がある』とね」


 リリアは無表情のまま、だが満足げに目を細めた。


「承知いたしました。相手の土俵である査察を逆手に取り、監察機関に自爆スイッチを押させるわけですね。実に陰湿で素晴らしい手筈です」


「そして姉さん」


 レンはエレオノーラを見上げた。


「財務局のトップである筆頭財務卿に、ノア社から新たな提案書を一本入れてもらえますか。『帝国との直通貿易によって生じる輸入関税の一部を、王立孤児院および公共施療院への特定助成金として国庫に直接プールする新制度』の提案です」


 エレオノーラは目を見張り、それから呆れたように笑い声を漏らした。


「……恐ろしい子ね、貴方って。ガルニエという汚職官僚を社会的に抹殺する隙間に、財務卿が喉から手が出るほど欲しい『清廉な名目と莫大な税収』を差し出す気? そんなの、財務卿が飛びつかないはずがないじゃない」


「ええ。ガルニエ個人を叩くのではなく、財務局そのものにとって『ノア社を攻撃するより、ノア社と手を組む方が圧倒的に国庫が潤い、自分たちの点数になる』という構造を作ってしまうんです」


 レンは立ち上がり、完璧に整えられた3つの作戦書をそれぞれの前に滑らせた。


「売られた喧嘩を買うのは3流です。相手が喧嘩を仕掛けようと拳を振り上げた瞬間、その足元の床板を抜いて、2度と刃向かえないように飼い慣らす。……それが、ノア・ホールディングスのやり方です」


 部屋の中に、心地よい緊張感が満ちる。

 シエナは恍惚とした表情で書類を胸に抱きしめ、エレオノーラは冷徹な女傑の笑みを浮かべ、リリアは完璧な所作で一礼した。


「参りましょう、エレオノーラ様。レン様の描かれた盤上を、完璧に踏み躙って差し上げますわ」


「言われなくてもよ、シエナ。……貴女、レンの前だからって調子に乗らないことね」


 いがみ合いながらも、レンの策を実行に移すべく同時に部屋を出ていく二人の元令嬢。

 その背中を見送りながら、レンは再びソファに腰を下ろし、ふうと息をついた。


「ふう……朝から頭使ったら、急にお腹空いてきちゃったな。リリア、朝ごはんのトースト、もう一枚焼いてくれる? バター多めで」


「はいはい、ただいま。……あれだけの謀略を立て続けに指示しておいて、次の関心事が朝食のパンとは、本当にレン様というお方は……」


 リリアは呆れたように肩をすくめながらも、慣れた手つきで厨房へと向かった。


 エレオノーラとシエナの足音が廊下の向こうへ消え、執務室には穏やかな朝の静寂が戻る。

 レンはソファの背もたれに深く体を預け、バルコニーから見える王都のパノラマへと視線を投げた。遠くには王城の尖塔がそびえ、眼下にはノア・ホールディングスの青い配送馬車が規則正しく行き交っている。


(……やれやれ。財務局の嫌がらせを未然に潰す手は打ったけど、いつまでもこんな足の引っ張り合いに付き合っていられるほど、暇じゃないんだけどな)


 レンは内心で小さく息を吐いた。


 周囲の人間は――エレオノーラも、エドワードも、そして狂信的なシエナすらも――レンがこの王国で権勢を伸ばし、ベルフォール家やノア社のために覇を唱えようとしているのだと信じ込んでいる。

 だが、当のレンの胸の内には、このルーヴェン王国に対する忠誠心や愛国心など、最初からこれっぽっちも存在していなかった。


 彼の中身は、日本でドラッグストアの店長として過労死した現代人だ。

 王族や門閥貴族が代々築いてきた権力闘争など、前世で言うところの「斜陽産業にしがみつく無能な役員たちの派閥争い」にしか見えていない。


 ただ――この体をくれた元の「レン」という少年の魂、そして理不尽な貴族社会の中で自分を庇い、居場所を作ってくれたベルフォール家の家族やリリアたちに対して、最低限の礼義と恩義は果たすつもりでいる。彼らが不当に搾取されたり踏みにじられたりしないよう、力と富を貸すのはやぶさかではない。


 だが、それも「道理が通るうち」の話だ。


(もし王宮や貴族連中が度を越して貪欲になり、僕や周りの人たちを都合のいい財布や政治の駒として縛り付けようとするなら……その時は、迷わずこの国を切り捨てるまでだ)


 レンの瞳の奥に、かつてシエナの父親を更地にした時以上の、底知れぬ冷徹な光が宿る。


 いまやノア・ホールディングスが【王国内にもたらしている税収】は、国家全体の歳入の優に3割近くに達しようとしていた。100を超える直営店舗、巨大な物流網、何万人もの雇用、そして帝国との貿易関税。

 もしレンが「撤退」を決断し、資本とノウハウ、そして製造特許をすべて引き払ってヴァレンティノ帝国や中立都市へ拠点を移せばどうなるか。


 考えるまでもない。

 王国の国庫は一夜にして干上がり、流通は麻痺し、生薬相場は再び崩壊して莫大な失業者が溢れかえる。

 この国が今こうして繁栄を謳歌できているのは、レンが「この国で商売をしてやっている」からに過ぎないのだ。


(カントリーリスクが高すぎる市場からは、資本を引き上げるのが近代ビジネスの鉄則だからね。……まあ、あんな面倒な引っ越しはしたくないし、そうならないように財務局の上層部を今のうちに手懐けておくのが一番だけど)


「レン様、お待たせいたしました。ハチミツも少し垂らしておきましたよ」


「あ、ありがとうリリア! やっぱり朝は甘いものだよね」


 銀の皿に載った焼きたてのトーストを受け取り、レンは先ほどまでの国家を揺るがす思考を綺麗さっぱり頭の隅に追いやって、幸せそうに頬張った。


 もし王国上層部が自分たちを脅かす真の地雷を踏めば、自ら敷いた経済の動脈ごと国を窒息させて去っていくだけの覚悟と冷酷さを秘めているとは、目の前で甲斐甲斐しくお茶を注ぐリリアすら、まだ気づいていなかった。


 ◇


【専用回線での打診と狂気の即答】


 ヴァレンティノ帝国との間に敷かれた超高速の専用魔導通信――最高機密ライン。


 ノア・ホールディングス本社ビルの最奥、外部の魔導盗聴を百重に遮断した密室で、レンは通信水晶の前に座っていた。


 画面の向こうに映し出されているのは、ヴァレンティノ帝国の第二皇女セシリアだ。

 契約締結から数か月。レンから渡された完璧なプレゼン資料と10年シミュレーションを武器に帝国議会と保守派貴族を完全にねじ伏せ、帝都の大規模ボトリングプラント【建設を成功させ、操業を軌道に乗せた】彼女は、いまや皇室・軍部・財界において揺るぎない権勢を誇っていた。


 軍礼装姿で執務机に向かうセシリアは、画面にレンの姿を捉えた瞬間、その怜悧な碧眼をふっと甘やかに緩めた。


「レン殿。……わざわざ緊急回線を開くとは珍しいわね。何か我が国とのライセンス供給に不都合でも起きたかしら? 帝都の新プラントは貴殿の刻印機のおかげで極めて順調に稼働しているけれど」


「いえ、帝国への粉末供給ラインも品質管理も計画通りです。セシリア殿下の手腕のおかげで、あちらの現場も盤石のようで助かっています」


 レンは紅茶を一口すすり、いたって平然とした、まるで「明日の天気が崩れたら傘を差すか」程度の軽いトーンで切り出した。


「ちょっと、将来のリスクマネジメントについての相談……というか、仮定の話なんですけどね」


「仮定の話?」


「ええ。もし万が一、このルーヴェン王国の王宮や財務局が度を越して横暴になり、我が社に対する不当な介入や理不尽な搾取をやめなかった場合……ですね。僕は情に流されて沈みゆく泥舟に付き合う気はありませんから、資本も技術も特許もすべて引き揚げて、帝国へ亡命(拠点の完全移転)することも視野に入れているんです。……ただ、他国の人間が突然押しかけても迷惑でしょうし、いざとなったら帝国側で受け入れてもらえるものなのかな、と」


 レンとしては、単なる「カントリーリスク対策のバックアッププランの確認」のつもりだった。

 前世で言えば「本国の税制や規制が厳しすぎる場合、シンガポールやドバイへ本社を移転できるか現地の担当者に打診してみた」程度のビジネスライクな感覚である。


 だが――。


 通信水晶の向こうで、セシリアの動きが完全に静止した。


「…………」


 数秒間の、死のような静寂。

 セシリアの碧眼が大きく見開かれ、それから瞳の奥に、かつて戦場で敵の本陣を捕捉した時以上の、凄まじい歓喜とギラついた野心の炎がボッと燃え上がった。


(亡命……!? レン殿が、我が帝国へ……!?)


 セシリアの心臓が早鐘を打つ。

 王国での地盤と家族がある以上、彼を帝国へ完全に引き抜くのは至難の業だと誰もが考えていたのだ。それが今、本人の口から「王国の横暴次第では国ごと捨てる」という言葉が飛び出してきた。


 セシリアは身を乗り出し、通信水晶を両手で包み込むようにして、一切の迷いなく即答した。


「速攻で貴族の爵位を差し上げます」


「……え?」


 レンが目をパチクリとさせた。あまりの即答ぶりと、文脈を無視したパワーワードに思考が追いつかない。


「いや、あの、爵位とかそういう大層なものを求めているわけではなくてですね? 単に一商人として身の安全と法人登記ができれば――」


「いいえ、商人風情として扱うなど我が帝国の沽券に関わります!」


 セシリアは立ち上がり、画面越しに迫らんばかりの熱量でまくし立てた。先ほどまでの怜悧な皇女の仮面は完全に剥ぎ取られている。


「貴殿が亡命を決断されたその瞬間、我が親衛隊の装甲飛空艇3隻を王都上空へ急行させ、貴殿とご親族、関係者を無傷で帝都へお迎えします! そして即日、父帝の勅命により帝国世襲公爵の爵位と、帝都近郊の最も肥沃な大領地、ならびに帝国全土の医療・製薬・流通を統括する『帝国最高技術総監』の官職を無条件で授与いたしましょう!」


「こ、公爵……!? いやいや、他国の平民上がりが一晩で公爵になれるわけないでしょ!?」


「なれます! 我が帝国議会が反対しようものなら、私が軍部と親衛隊を動員して全員の首根っこを押さえて賛成票を投じさせます! いまや帝国の経済と軍の衛生を支えているのは貴殿の技術。貴殿がもたらす価値は小国家3つ分に匹敵するのですから、公爵でも足りないくらいです!」


 セシリアの瞳は完全に爛々と輝き、恍惚とした笑みすら浮かべていた。


(素晴らしい……! もしレン殿が帝国へ移籍すれば、王国の経済は瞬時に干上がり、我が帝国は大陸史上最大の繁栄を手に入れる! そして公爵となったレン殿の隣に立つのは……皇女たる私しかあり得ない……!)


「レン殿、今すぐでも構いませんのよ? 王国の愚昧な官僚どもが少しでも無礼を働いたのなら、躊躇う必要はありません。今夜にでも『不愉快だ』と一言くだされば、明朝には貴殿を我が帝国の至宝としてお迎えにあがります!」


「あ、いや……! まだガルニエ男爵の件も手は打ってありますし、あくまで『いざとなったら』の最悪のケースの保険ですから! とりあえず気持ちだけ受け取っておきますね!」


 レンは引きつった笑みを浮かべ、気圧されるように慌てて通信の切断ボタンを押し込んだ。


 ブツン、と水晶の光が消え、室内には静まり返った沈黙と、レンの荒い呼吸だけが残された。


「……何だったんだ一体……? 亡命って、普通もっとこう……審査とか手続きで何ヶ月も揉めるもんじゃないの……? なんで即日公爵になってるんだよ……」


 額の冷や汗を拭うレン。


 だが、部屋の隅で無言のまま冷たいハーブティーを注いでいたリリアが、氷のような眼差しでレンを見下ろしていた。


「……レン様」


「ひっ、な、なにリリアさん……?」


「『カントリーリスクの分散』とやらを試みようとして、大陸全土を巻き込む世界大戦の開戦トリガーを笑顔でガチャガチャと弄ぶのは、本当におやめいただけませんか?」


「弄んでないよ!? 俺はただ、逃げ道の確保として現実的な選択肢を確認しただけで――」


「相手は貴方を手に入れるためなら、王国の国境を軍靴で踏み潰すことすら厭わない肉食の皇女様です。……これ以上余計な隙を見せれば、ある朝目覚めたら帝都の宮殿の天蓋付きベッドの上だった、ということになりかねませんよ」


 リリアの至極もっともな毒舌に、レンは「うっ……」と言葉を詰まらせ、手元の冷え切った紅茶を一気に煽るしかなかった。


 ◇


【帝国からの凶悪な「公式勧告令状」】


 魔導通信の水晶を慌てて切断した、わずか数日後のことだった。


 王宮の国務参事会室に、まるで爆弾でも落ちたかのような激震が走った。


「な、なんだと……!? 今なんと申した、外務卿ッ!?」


 円卓の上座で脂汗を流す宰相が、手元の分厚い羊皮紙を震える手で握り潰すように叫んだ。

 居並ぶ各省の重鎮たち――そして、ノア・ホールディングスへの嫌がらせ工作を仕掛けていた張本人である財務局のガルニエ男爵も、顔面を蒼白にして立ち尽くしている。


 外務卿が、まるで死刑宣告を下す執行人のような暗い声で告げた。


「ヴァレンティノ帝国より……皇帝直筆の親書、ならびに帝国最高軍事評議会・元老院連名による『特級親書兼公式勧告令状』が届きました。……名目は、ルーヴェン王国政府に対する『国家主権に関する重大通告』です」


「帝国からの勧告令状だと……!? いったい我が国が何をしたというのだ!」


 外務卿は唾を飲み込み、その凶悪極まりない文面を震える声で読み上げた。


「『――先般、我が帝国全土を救った製薬・衛生技術の供与、ならびに流通改革における多大なる功績を讃え、ヴァレンティノ帝国議会および元老院は、極めて異例の満場一致をもって、ノア・ホールディングスCEOレン殿に対し、帝国世襲伯爵の爵位を授与することを正式決定した』……と」


「……は? レンが……帝国の伯爵だと!?」


 宰相の顎が外れんばかりに落ちた。

 部屋中の文官たちが一斉にざわめき、エレオノーラの父であるベルフォール公爵だけが、腕を組んだまま片眉をピクリと跳ね上げる。


「ちょ、ちょっと待て! レン殿は我が国のバルツ男爵家の養子であり、ベルフォール公爵家の血筋だぞ! 他国の平民上がりに勝手に爵位を押し付けるなど、国際法上あり得ん!」


「外務卿、続きがあるのだろう。全部読みなさい」


 ベルフォール公爵の冷徹な促しに、外務卿はひいっと喉を鳴らし、最も凶悪な一節に目を落とした。


「……はい。令状の末尾には、こう明記されております。『すでに帝都における貴族籍の登録、ならびに大領地の登記は帝国法務省の手により完了している。ついては、本日以降――ルーヴェン王国政府、とりわけ王宮財務局および一部の門閥貴族が、レン伯爵ならびに関連企業に対し、不当な査察、課税、嫌がらせ、あるいは活動を阻害する一切の行為に及んだ場合、我が帝国はそれを【帝国貴族に対する主権侵害ならびに帝国への敵対行為】とみなし、即座に相応の軍事的報復措置を発動する』……と!」


「なっ……!?」


 ドガァン! とガルニエ男爵の腰が抜け、高級な執務椅子ごと床に転がり落ちた。


「ば、バカな……! 一民間企業の税務調査を画策しただけで……軍事的報復だと!? そんな無茶苦茶な言いがかりが通るはずが……!」


「通るに決まっているだろうが、この大馬鹿者がッ!!」


 宰相が机を叩き割らんばかりの勢いで立ち上がり、ガルニエを指差して怒声を轟かせた。


「相手はあの大帝国だぞ! しかも『満場一致』だと!? あの傲慢な帝国の貴族院や軍部が、他国の商人に満場一致で爵位を用意するなど前代未聞だ! つまり帝国中枢は全員、レン殿を本気で自国へ囲い込む気満々なのだ! 貴様が余計なちょっかいを出そうとしたせいで、帝国に『攻め込むための最高の口実』を先手で握られたんだよッ!」


「ひ、ひぃぃぃっ……!」


 頭を抱えて怯えるガルニエ。

 帝国からの「令状」と称したその書状は、体裁こそ公式通知だが、実態は「うちのレンに少しでも不快な思いをさせてみろ。口実ができたと喜んで貴様らの国を更地にしてレンを連れ去るぞ」という、国家総力を挙げた剥き出しの脅迫状だった。


 円卓の端で、ベルフォール公爵が冷ややかな笑みを漏らした。


「……なるほど。ガルニエ男爵、貴殿が画策していたノア社への緊急関税と特別査察の件、どうやら即座に白紙撤回せねばならんようですな。それどころか、帝国から『不当な嫌がらせの兆候あり』と見なされれば、貴殿の首一つでは帝国の怒りは収まりますまい」


「め、滅相もございません! 査察などとんでもない! ノア社は王国の至宝、我が財務局はノア社の健全な発展を全力で支援する所存でございますぅぅぅっ!」


 なりふり構わず床に額を擦り付けるガルニエの姿を、居並ぶ重鎮たちは冷え切った目で見下ろしていた。

 こうして、レンが直接動くまでもなく、帝国が放った狂気の「先手」によって、王宮財務局の包囲網は一瞬にして粉微塵に瓦解したのだった。


 ◇


【二段階の捕縛トラップと王族の恐怖】


 一方その頃、ノア・ホールディングス最上階のCEO執務室。


 帝国から届いた「伯爵位授与通知書(写し)」と、王宮がパニックに陥ったという緊急報告書を前に、レンは頭を抱えて机に突っ伏していた。


「……ねえリリア。俺、ただ『いざとなったら亡命って受け入れてもらえるのかな』って雑談しただけだよね?」


「はい。その結果、帝国が先手を打って勝手に爵位を用意し、王国政府の喉元に軍靴を突きつけて威嚇射撃をぶっ放しましたね」


 リリアは感情の抜け落ちた声で、冷めたハーブティーをレンの前にコトと置いた。


「ガルニエ男爵の嫌がらせが消し飛んだのは結構ですが……レン様。ご自身が蒔いた種とはいえ、帝国と王国のパワーバランスごと笑顔で粉砕するのは、いい加減にしていただけませんか?」


「俺が粉砕したんじゃないよ! 帝国の皇女様がフットワーク軽すぎるんだよ……!」


 レンが必死に弁明する横で、机の上に置かれた魔導通信機からは、王宮の騒乱を聞きつけて怒り狂ったエレオノーラからの緊急連絡を告げる赤い魔導光が、激しく明滅を繰り返していた。


 ◇


 帝国特使の装甲飛空艇が去った直後、重厚な執務机の上には、紫の魔導封蝋が施された豪奢な書状の束――帝国皇帝の勅許状と、セシリア第二皇女からの親筆添え状が広げられていた。


 その机を囲んでいるのは、異様な殺気と緊張感を漂わせる3人の女性だった。


 王宮での大騒乱を聞きつけて血相を変えて駆け込んできたエレオノーラ。

 サロンでの情報収集から戻り、【事態の急変に目を光らせる】シエナ。

 そして、冷えた胃薬草茶を静かにトレイに載せて控えるリリア。


 部屋の温度が目に見えて数度下がったような空気の中、レンは机の上の「世襲伯爵授与令状」を指先でつまみ、どこかホッとしたように息を吐いた。


「……まあ、でもさ。あの通信のとき、セシリア殿下は『即日公爵を差し上げます』なんて物騒なこと言ってたけど……やっぱり公爵は無理だったんだな。伯爵で落ち着いてくれて、正直ちょっと安心したよ」


 その能天気な一言が落ちた瞬間だった。


 ピキッ、とエレオノーラの握る扇子に亀裂が入った。

 シエナの琥珀色の瞳がすっと細まり、リリアが深く、底冷えのするようなため息をつく。


「……レン。貴方、本当に何も分かっていないのね」


 エレオノーラが額に青筋を浮かべ、震える声で書類を指差した。


「公爵にならなくて安心ですって!? あのヴァレンティノ帝国よ!? 皇族の分家か、建国以来の武勲を誇る大武門にしか許されない『公爵』の位が、他国の民間に一足飛びで下りるはずがないでしょう! この『世襲伯爵』が何を意味しているのか、少しはその頭で計算しなさい!」


「え? 計算って……地方領主の上位くらいじゃないの?」


 きょとんとするレンに、今度はシエナが一歩前に踏み出した。かつて公爵令嬢として帝国の貴族制度の裏表まで叩き込まれていた彼女の瞳には、冷徹な焦燥が宿っている。


「レン様、恐れながら申し上げます。帝国の貴族院および元老院は、伝統と格式に異常な誇りを持つ排他的な怪物たちの巣窟です。他国の平民上がりに爵位を与えるなど、本来であれば10年議論しても結論が出ません。それを……『満場一致』で通したと書かれておりますわ」


 シエナはセシリアの添え状を指先でなぞり、ギリと奥歯を噛み締めた。


「つまりこれは妥協の産物などではありません。軍部と親衛隊の武力を背負ったセシリア殿下が、反対派の首根っこを力技でねじ伏せ、現行の帝国法において『平民・外国人に即座に授与できる、理論上の限界最高位』を限度額いっぱいまで叩きつけてきたのです。これ以上を求めれば法改正が必要になる……そのギリギリの極限を攻めておりますわ」


「そ、そうなの……?」


 目を白黒させるレンの前に、リリアが無言で冷たい茶をコトと置いた。

 その瞳は完全に座っている。


「さらに最悪なのは、その先でございますよ、レン様」


「先……?」


「ええ。セシリア殿下の真の狙いは、貴方を帝国へ囲い込み、ご自身の『生涯の伴侶(夫)』とすること。……最初から最高位の公爵を与えてしまっては、いざ婚姻を結んだ際に、貴方を皇族へと引き上げるための政治的な『陞爵の余地』がなくなってしまうではありませんか」


 リリアは感情の抜け落ちた声で、セシリアの冷徹なシナリオを暴き立てた。


「まずは『世襲伯爵』という破格の身分で外堀を埋めて帝国へ連行し、王国の手出しを封じる。そして婚姻と同時に、国家的な慶事として『公爵』へ格上げする……2段階の完全捕縛トラップです。貴方が警戒して逃げ出さないよう『伯爵なら飲めるだろう』と絶妙に手加減されたことすら、あの皇女の手のひらの上ですよ」


「に、2段階トラップ……!?」


 レンの背筋を冷たい汗がツーと伝った。

 ただの「カントリーリスク対策の打診」のつもりが、帝国の法制度の限界と将来の婚姻手続きまで完璧に逆算された、外堀も内堀も埋め尽くす包囲網だったのだ。


「……聞いたかしら、シエナ」


 エレオノーラが冷酷な笑みを浮かべ、横のシエナを見据えた。


「貴女が『フォン・バルツ』を名乗ってレンの隣室に居座り、サロンで小銭と情報を稼いでいる間に……海の向こうからは、国家予算と世襲爵位を引っさげた巨大な肉食獣が、レンごと国を丸呑みにしに来ているのよ」


「ええ、重々承知しておりますわ、エレオノーラ様」


 シエナもまた、引く気など微塵もない不敵な笑みを返した。


「ですが、レン様が本当に望んでおられるのは、他国の皇女に首輪をつけられて操り人形になることではありません。このノア・ホールディングスの主として、自由と利益を謳歌されることですわ。……帝国の横暴からレン様をお守りするためなら、社交界の闇を総動員してでも防衛陣地になってみせます」


「あら、口だけは達者ね。……レン、分かっているわね?」


 エレオノーラがレンの両肩をガシッと掴み、逃げ場を塞ぐように顔を近づけた。


「亡命なんて寝言は二度と許さないわ。王宮の財務局もガルニエも、私のベルフォール公爵家がすべて叩き潰して更地にしてあげる。だから貴方は――絶対に、この国から1歩も出たら駄目よ」


「は、はい……」


「お兄様、お茶が冷めますよ。胃の粘膜が悲鳴を上げる前に、どうぞお飲み干しください」


 背後からリリアの冷ややかな声が突き刺さり、左右からは公爵令嬢二人の執念に満ちた視線が注がれる。

「公爵じゃなくてよかった」と胸を撫で下ろしていたレンは、手元の豪華な令状を見つめながら、己が踏み抜いた地雷の凄まじい深さに、ただただ青ざめるしかなかった。


 両肩を掴むエレオノーラの指先には、骨がきしむほどの力が籠もっていた。


 間近に迫る美貌の瞳は完全に据わっており、そこから立ち上る凄まじい執念のオーラに、レンは喉の奥で「ひっ」と小さな悲鳴を飲み込んだ。


(貴族、怖い……!!)


 前世の現代日本で言えば、理不尽な理由で店舗に怒鳴り込んでくるクレーマーなど可愛いものだ。

 あちらはせいぜい「店長を出せ」と騒ぐ程度だが、この世界の門閥貴族は違う。気に入らない相手がいれば一族ごと社会的に消し炭にし、自分の欲しい獲物(レン)を囲い込むためなら法も常識もねじ曲げて突進してくる。


 現に、今まさに右隣で冷徹な営業スマイルを浮かべているシエナがそうだ。

 かつては傲慢の限りを尽くし、家が更地になれば即座に土下座で寝返り、今や社交界の裏帳簿を武器に貴族たちの喉元を締め上げている。その彼女が、「レン様をお守りするためなら社交界の闇を総動員します」などと、忠誠心という名の極太の首輪を構えて微笑んでいるのだ。


 そして――さらにその上を行くのが、海の向こうの王族だった。


(……いや、王族はもっと怖い!! なんだよあの皇女様!!)


 レンは手元の「世襲伯爵授与令状」を視線だけで凝視し、背筋を凍らせた。


「いざとなったら受け入れてもらえるか」と軽くカントリーリスクの相談をしただけで、議会を武力で脅して満場一致を勝ち取り、法的に与えられる極限の爵位を勝手に押し付け、あまつさえ「レンに手を出したら軍事報復する」と他国の喉元に銃口を突きつけてくる。


 貴族が「裏工作と権力」で囲い込んでくるプレッシャーなら、王族のそれは「国家権力と軍隊」を丸ごと動員してくる問答無用の物理制圧だ。しかもリリアの読み通りなら、その先に「婚姻による公爵への格上げ」という外堀埋め立て工事まで完了しているという。


「……レン? 聞いているの? 返事はどうしたのかしら?」


「は、はい……! 聞いてます、エレオノーラ姉さん……! 亡命とか、もう2度と言いませんから……!」


 ガタガタと震えながら頷くと、エレオノーラはようやく満足したようにふっと表情を緩め、レンの肩をポンポンと優しく叩いた。その変わり身の早さがまた恐ろしい。


「よろしい。分かればいいのよ、レン」


「ふふ、賢明なご判断でございますわ、レン様。帝国の鉄格子に閉じ込められるより、私どもの手元で存分に腕を振るっていただく方が、レン様にとっても遥かに有益ですもの」


 シエナがうっとりと手を合わせ、リリアがすかさず冷めた声で横槍を入れる。


「シエナ様、その『私ども』の中に我が物顔でご自身を含めるのはおやめください。レン様、冷めきった胃薬草茶をどうぞ。貴方のその軽はずみな危機管理能力のおかげで、この部屋の全員の胃壁が限界を迎えております」


「あ、ありがとうリリア……いただきます……」


 差し出された苦い薬草茶を一気に煽りながら、レンは心の底から天を仰いだ。


 不労所得でスローライフ。

 現場作業を人に任せて、下町の薬房でのんびりハーブでも育てて暮らす――。


 そんなささやかな現代人の夢は、王国の狂乱貴族たちと、帝国の肉食王族たちの繰り広げる国家規模の包囲網の前に、跡形もなく粉砕されていた。


 逃げ出そうとすれば帝国軍に拉致され、留まれば公爵令嬢たちの愛憎渦巻く圧力鍋に放り込まれる。

 権力者たちの常識外れなスケールと執念の深さに、ただの元ドラッグストア店長だった少年の魂は、ただただ震え上がるばかりだった。


 ◇


【帝国乗り込みの随行員選定】


 帝国からの「世襲伯爵授与令状」という名の外交的威嚇射撃と、王宮のパニックが一段落した数日後。


 ノア・ホールディングス最上階のCEO執務室に、重苦しい空気が漂っていた。


「……行かないわけには、いかないよな」


 机の上に広げられた「帝国世襲伯爵位記」と、セシリア皇女からの親筆状を前に、レンは深くため息をついた。


「相手はあの大帝国。しかも皇帝の勅許状と元老院の満場一致の議決まで揃えて、白昼堂々と王都に親衛隊を乗り込ませてきたんだ。『手紙だけ受け取って放置』なんて前回の3ヶ月放置プレイみたいな真似をもう一度やったら、次は本当に装甲艦隊で王都を包囲されかねない」


 前世の感覚で言えば、「超大口取引先の会長と筆頭株主から、役員就任の祝賀パーティーへの出席要請が特別社用機付きで届いた」ようなものだ。無視などできるはずがない。


「一度帝国へ出向き、皇帝陛下への拝謁とセシリア殿下への御礼を済ませる必要がある。……ただし、受爵を完全に承諾して居座るのではなく、『王国での事業継続と両国の架け橋としての兼任』という形に軟着陸させる。これが今回の出張のゴールだ」


 レンが方針を示すと、執務室に詰めていた面々の目の色が一瞬で変わった。


「帝国へ乗り込む以上、問題は『お供(随行員)』の選定ね」


 エレオノーラが腕を組み、冷徹な視線を室内へ走らせた。


「まず、私が行くべきね。ベルフォール公爵家の名代として同行すれば、帝国側も下手な軟禁や身柄拘束はできないわ。王位継承権を持つ私の存在そのものが最大の外交的抑止力になる」


「駄目です、姉さん」


 レンは即座に首を横に振った。


「姉さんが王都を空けたら、財務局の残党処理や『助成金・新税収スキーム』の法制化が完全にストップしてしまいます。それに、公爵家の筆頭跡取り候補である姉さんが帝国へ同行したら、それこそ『ベルフォール家ごと帝国へ寝返るのか』と王宮中枢が真の恐慌状態に陥りますよ」


「うっ……そ、それはそうだけど……!」


 正論で返され、エレオノーラが悔しそうに唇を噛む。その横から、静かにティーカップを置いたリリアが口を開いた。


「ならば、私が専属侍女として――」


「いいえ、リリアさん。帝国の元老院や皇宮の格式を甘く見てはいけませんわ」


 凛とした声で遮り、一歩前へ進み出たのはシエナだった。その佇まいは、下町の侍女でも一商人の手先でもない。かつて王国の頂点に君臨した「旧シルフィード公爵令嬢」としての威厳と気品に満ち満ちていた。


「帝国において、レン様は今や『世襲伯爵』として迎えられる立場です。その筆頭補佐・名代として隣に立つ者が、平民上がりや男爵家の侍女であっては、帝国の傲慢な貴族院の連中に格好の侮りを受けます。格式の差は、そのまま外交上の致命的な隙になりましてよ」


 シエナは琥珀色の瞳を誇らしげに輝かせ、レンに完璧なカーテシーを捧げた。


「私であれば、血統・家柄・礼法、そして帝国貴族院の各派閥が用いる裏の外交儀礼に至るまで完璧に熟知しております。皇帝陛下やセシリア殿下との謁見の場において、レン様の品格を微塵も損なうことなく、帝国の女狐どもの慇懃無礼な罠をすべて礼法と舌戦で叩き伏せてみせましょう」


 圧倒的な説得力だった。

 これにはエレオノーラも腕を組み、渋々ながらも頷かざるを得ない。


「……悔しいけれど、シエナの言う通りね。相手は大陸随一の格式を誇るヴァレンティノ帝国。レンを立てつつ貴族院の狸どもを牽制するには、元公爵令嬢としてのシエナの『格』が一番の防壁になるわ」


「ええ。それに王都のノア・ホールディングス本社と工房の防衛、そして『連動魔導刻印機』の暗号管理は、最も信頼できるリリアに王都で握っていてもらいたいんだ」


 レンがそう告げると、リリアはわずかに悔しそうな気配を滲ませつつも、冷静に一礼した。


「……承知いたしました。留守中の本社機能と店舗網の防衛、ならびにエドワード様の『ベルフォール・アイアン製薬』の監査は私が引き受けます。シエナ様、レン様の身だしなみと格式の維持、くれぐれも粗相のないように」


「ええ、任せてちょうだい。私の命に代えても、レン様を完璧な『若き覇王』として帝都へ君臨させて差し上げますわ」


「いや、覇王じゃなくて普通に商談して帰ってくるだけだからね!?」


 レンが慌ててツッコミを入れたその時だった。


 バァンッ!!


 執務室の大扉が勢いよく弾け飛び、白銀の甲冑をまとった美貌の女騎士が滑り込んできた。


「武力面の護衛、近衛騎士団副隊長カトレア・アッシュフォードにお任せあれッ!!」


「ゲェッ!? カトレア!?」


 エレオノーラが素っ頓狂な声を上げた。

 仁王立ちするカトレアの腰には、抜き身に近い大剣が提げられている。


「帝国の親衛隊が軍靴をチラつかせてレン様を狙っていると聞き、馳せ参じました! エドワード団長には『帝国最新軍備の視察および国家特務要人の警護』として、胃薬のボトルを積んで出張許可の決裁を力尽くで奪い取ってまいりました!」


「兄上、また胃薬に釣られたの!?」


 頭を抱えるレンをよそに、カトレアは爛々と目を輝かせて胸を張った。


「侯爵家の武門の誇りにかけて、帝国親衛隊だろうと元老院の刺客だろうと、レン様の御身に指一本触れさせはしません! 昼の護衛から夜間の同衾警護まで、万全の態勢でお守りいたします!」


「後半の破廉恥な任務は不敬罪で斬首よ」とエレオノーラが冷たく睨みつけるが、戦力としては申し分ない。


 こうして、帝国訪問の陣容が確定した。


 団長(CEO): レン・ノア(名目:帝国世襲伯爵受爵挨拶 兼 ライセンス技術総監)


 筆頭補佐(外交・格式): シエナ・フォン・バルツ(旧シルフィード公爵令嬢としての格式と社交界対策)


 筆頭護衛(武力): カトレア・アッシュフォード(近衛副隊長・侯爵令嬢・対帝国親衛隊の物理抑止力)


 王都本隊防衛: リリア・フォン・バルツ(本社留守番・刻印機暗号管理・国内統括)


「よし……出立は2週間後だ。シエナ、帝国皇宮のプロトコルの確認を。カトレア、選抜護衛隊の手配を頼む」


「かしこまりました、レン様!」


 元公爵令嬢の格式と、一騎当千の武力を従え、レンは帝国の本拠地へと乗り込む準備を整えるのだった。


 ◇


【帝都上陸と陞爵前提の白亜の檻】


 ヴァレンティノ帝国の帝都オルデンブルク。


 空を突く白亜の城壁と、幾重にも張り巡らされた巨大な魔導運河が交差する大陸随一の大都会。その上空を、漆黒の帝国親衛隊装甲飛空艇が静かに滑空し、帝都中枢の「第一特別貴族特区」へと高度を下げていった。


 やがて着陸デッキを降り、帝国皇室が用意した豪奢な馬車に揺られること十数分。

 馬車が巨大な黒鉄の正門をくぐり抜けた瞬間、車窓から外を覗き込んでいたレンは、目を疑って二度見した。


「……え、ちょっと待て。ここ、どこ?」


 目の前に広がっていたのは、広大などころではない白亜の大庭園と、中央にそびえ立つ壮麗な宮殿風の大邸宅だった。

 左右に広がる噴水庭園には、帝国特有の剪定が施された美しいトピアリーが並び、エントランスへと続く大理石の階段には、完璧に身だしなみを整えた執事長を先頭に、数十名ものメイドや従僕たちが整然と整列して深々と頭を下げている。


「お迎えにあがりました、ノア伯爵閣下。これより閣下にお仕えいたします、帝都邸専属家令のハインリヒと申します。使用人一同、閣下のお越しを首を長くしてお待ち申し上げておりました」


 老練な家令が、一分の隙もない臣下の礼を執る。

 すでに屋敷の管理体制から、調理人、侍女、庭師、護衛に至るまで、帝国皇室の息のかかった最上級の人員が完璧に配備されていた。


 馬車を降りたレンは、引きつった笑みを浮かべながら周囲を見渡した。


「あ、あのさ、シエナ……」


「何でございましょう、レン様」


 豪奢な夜空色のドレスを纏い、元公爵令嬢としての隙のない優雅な足取りで降り立ったシエナに、レンはひそひそと耳打ちした。


「俺、手紙で『世襲伯爵』になったって聞いたんだけどさ……帝国の伯爵って、みんなこんな【皇宮の目と鼻の先】みたいな超一等地に、宮殿みたいな屋敷を持ってるものなの? さっき通ってきた通り、皇宮の正門から馬車で5分もかからなかったよね?」


「ふふ、ご冗談を」


 シエナは扇子の陰でくすりと嘲笑を漏らし、琥珀色の瞳を細めた。


「帝都の第一特別貴族特区――ここは帝国の黎明期から皇室を支えてきた大武門、あるいは皇族の直系分家たる『大公・筆頭公爵家』のみに屋敷を構えることが許された、帝国の最高聖域ですわ。通常の伯爵ごときが足を踏み入れることすら許されませんし、仮に金貨を山と積もうが、土地の購入権すら下りません」


「……じゃあ、なんで俺がここにいるわけ!?」


「決まっているではありませんか」


 シエナは屋敷の威容を見上げ、底知れぬ笑みを浮かべた。


「セシリア殿下にとって、レン様の『世襲伯爵』など、所詮は婚姻と同時に【上書きされる、通過儀礼にすぎない仮免許】に過ぎないということですわ。最初から将来の『帝国公爵(あるいは皇族入り)』への陞爵を前提として、この立地と屋敷が用意されているのです。手に入れた獲物を、わざわざ遠くの伯爵街へ逃がすはずがありませんもの」


「陞爵前提の物件……!? 賃貸契約のノリで国家最高位の不動産を先渡ししてくるのやめてくれない!?」


 頭を抱えるレンの後ろで、ガシャン! と鋭い金属音が響いた。


「……なるほど。帝国の女狐め、最初からレン様を逃がさぬよう、物理的にも皇宮の膝元へ檻を作っていたわけだな」


 腰の大剣の柄に手をかけたまま、白銀の甲冑を纏ったカトレアが、殺気を含んだ美貌で屋敷を睨みつけていた。


「ハインリヒとやら。私はレン様の専属警護官、近衛騎士団副隊長カトレア・アッシュフォードだ。この屋敷の警備計画書、ならびにレン様の寝室に隣接する部屋の鍵を今すぐ提出しろ。帝国の不審者が夜間に紛れ込まぬよう、私が同衾……ゴホン、間近で万全の警護体制を敷く」


「は、はあ……? カトレア様、警備の件は承知いたしましたが、同衾というのは……」


 百戦錬磨の帝国家令が思わず気圧されてたじろぐ。


「カトレア、初対面の家令を物理で脅すのはやめなさい。それと、どさくさに紛れてレンの部屋の鍵を奪おうとするのも却下よ」


 シエナが冷徹に制止しつつ、レンの腕にそっと自らの手を絡ませた。


「さあ、参りましょう、レン様。いかに帝国の皇女殿下が巧妙な檻を用意しようと、私が隣に控えている限り、レン様を【都合のいい飾り物同然の公爵になど、させはいたしませんわ】。……まずは長旅のお疲れを癒すため、最上級の部屋へご案内させます」


「シエナ、貴様、どさくさに紛れて腕を組むな! 離れろ!」


「あら、主人の名代として格式を保つための正当なエスコートですわ。野蛮な武官には理解できませんこと?」


 エントランスで早くも火花を散らし始めるシエナとカトレア。

 そして、彼らを「未来の公爵閣下とその側近たち」として恭しく迎え入れる帝国の使用人一同。


「……伯爵って、もっとこう……田舎の領地でのんびり税金数えたりする身分じゃなかったっけ……」


 レンは壮麗な大広間のシャンデリアを見上げ、胃のあたりをそっと押さえながら、遥か遠くへ消え去っていく「スローライフ」の幻影に涙するのだった。

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