14話:安全な住まいとは?(自室です)
王都の一等地に構えられたノア・ホールディングス本社ビル。最上階のCEO執務室に響いたのは、革靴の踵を無遠慮に打ち鳴らす下品な足音だった。
来訪したのは、シルフィード公爵家の家紋――大樹と風を象った豪奢な銀のブローチを胸元につけた特使の男だ。シルフィード当主の腹心であることを鼻にかけ、応接用の高級ソファに深く腰を沈めると、レンが出させた茶にも口をつけず、尊大に顎をしゃくった。
「単刀直入に本題へ入らせてもらうよ、平民上がりの……おっと、元ベルフォール家の居候殿だったかな?」
薄ら笑いを浮かべながら、特使は分厚い羊皮紙の束を執務机の上に放り投げた。乾いた音が室内に響く。
「我が主、シルフィード公爵閣下からの通達だ。来月納品分より、貴社へ卸している全薬草・木材原料の価格を一律で従来の三倍に改定する」
机の反対側に座るレンは眉一つ動かさず、静かに書類へ視線を落とした。
「三倍、ですか。現在交わしている年間供給契約の条項を真っ向から無視した数字ですね。異常気象による凶作の報告も、輸送ギルドの運賃改定も聞いていませんが」
「ふん、市場の事情など関係ないわ」
特使は嘲るように鼻を鳴らし、机に身を乗り出してきた。
「ノア・ホールディングスが王国内で百店舗以上を乱立させ、あまつさえ帝国にまで薬や化粧品を流して暴利を貪っているのは周知の事実。貴様らが勝手に需要を跳ね上げたせいで、国内の相場は混乱しているのだ。供給責任を負う我が公爵家が適正な価格へ補正するのは当然の権利だろう?」
「需要増を見越した事前発注と手付金は、半年前の段階で全額支払い済みのはずです。それを一方的に破棄して三倍の値を吹っかけるのは、商取引ではなくただの恐喝ですよ」
淡々と事実を指摘するレンの態度が気に入らないのか、特使の顔にサッと不快な色が走った。苛立たしげに指先で机を叩き、本性を隠そうともせずに声を低くする。
「……口の減らない小僧だ。いいか、王国の森林と生薬利権を握っているのは誰だと思っている? 我が公爵家が出荷を止めれば、貴様の会社など一日たりとも薬を作れんのだぞ。国内外への供給が滞れば、莫大な違約金で貴様は一瞬にして破滅だ」
特使は懐からもう一枚、別の書状を取り出して見せつけるように広げた。
「だが、閣下は慈悲深いお方だ。この改定価格を元の水準に戻し、優先供給を継続してやる道も残してある」
書状の一番上に記されていたのは――『高純度抽出技術および粉末化魔導プラントの全設計図の無償譲渡』という、露骨極まりない要求だった。
「貴様が囲い込んでいる抽出の秘術を我が公爵家に差し出せ。さすれば、愚鈍な平民の商売をこれまで通り見逃してやる。……三倍の値を払って飢え死にするか、技術を差し出して公爵家の傘下で生き延びるか。賢い返答を期待しているぞ、レン殿」
部屋の隅に控えていた秘書や護衛の騎士たちが一斉に殺気を放ち、室内の空気が張り詰めたが、レンはただ静かに、冷徹な手触りの視線で特使を見つめ返していた。
◇
特使を冷ややかに追い返した直後、レンはノア・ホールディングス本社の最高機密会議室に、流通の要を担う兄と姉を招集した。
重厚な防音扉が閉ざされ、卓上に置かれた魔導遮音器が作動する。
「急に呼び出してすまない、兄さん、姉さん」
レンが切り出すと、ベルフォール家の流通・物流部門を束ねる兄が、鋭い視線のまま腕を組んで頷いた。
「いや、構わない。……シルフィード公爵家の特使が、鼻息を荒くしてこのビルに入っていくのを見た。ロクでもない用件だろうとは思っていたが」
「ええ、あの品のない馬車、うちの配送馬車をわざわざ睨みつけて通っていったのよ。本当に不愉快」
姉も眉をひそめ、不快感を隠さずに紅茶のカップを置く。レンは机の上に、先ほど特使が投げつけていった二通の書状を並べた。
「単刀直入に言います。シルフィード公爵家から、来月納品分より全生薬・木材原料の価格を従来の三倍に引き上げると通達がありました。拒否すれば出荷を全面停止する、と」
「――は? 三倍だと?」
兄が低く唸るような声を上げ、書類をひったくるように引き寄せた。
「正気か? 事前発注の手付金はすでに支払い済みのはずだ。契約の一方的な破棄どころか、完全な不法行為だぞ」
「理由は『ノア社が急拡大して国内需要を荒らしたから』だそうです。ですが、本命はこちらです」
レンがもう一枚の紙――『高純度抽出技術および粉末化魔導プラント設計図の無償譲渡』を指先でトントンと叩いた。姉がそれを覗き込み、形の良い眉を吊り上げて冷笑を浮かべる。
「なるほどね……。原料の出荷停止で首を絞めて、私たちの命綱である抽出プラントの図面をタダで巻き上げる腹づもりってわけ。絵に描いたような下衆の脅迫だわ」
「ああ。連中は、ノア社が国内百二十八店舗と帝国への輸出を抱えているから、違約金と原料ショートを恐れて泣き寝入りすると高を括っている。……国内の原料元締めである自分たちから買わなければ、うちが干上がると信じ切っているんだ」
兄が書状を机に放り投げ、レンを真っ直ぐに見据えた。
「で、レン。お前はどう出る? うちの輸送網を総動員して、王国内の小規模な薬草農家や別の商会からかき集めるか? 時間はかかるが、公爵家の目を盗んで分散調達するルートなら手配できなくはないが」
「いいえ」
レンは静かに、しかし一切の迷いなく首を横に振った。
「国内で泥仕合をする気はありません。シルフィード公爵家からの原料調達は、今この瞬間をもって完全にゼロにします。一切買いません」
その断言に、兄と姉がわずかに目を見開く。
「買わないって……帝国への月間一・五トンの輸出契約はどうするの? 原料が足りなくなるわよ」
「供給元を、全面的にヴァレンティノ帝国へ切り替えます」
レンは執務机の引き出しから、大陸全体の詳細な地図を広げた。そして、帝国の広大な版図の中央に広がる、濃い緑色の領域を指し示す。
「公爵家が誇らしげに独占を主張している『岩這い苦芋』――ステロイド軟膏の主原料ですが、あれの本来の自生地は王国の森ではありません。帝国の深部に広がる、小国家が丸ごと収まる規模の巨大原生林です。王国の森に生えているものなど、あちらの群生地の端っこがわずかに零れ落ちたものに過ぎない」
地図を見つめる兄の目が、商業者としての鋭さを帯びて見開かれた。
「小国家規模の原生林……! そこに手つかずの生薬が眠っているというのか?」
「はい。あちらにとっては鬱陶しい雑草のツル植物に過ぎません。すでにセシリア皇女殿下を通じて、帝国政府への原生林伐採および生薬買い付けの特別許可申請を水面下で進めています。手に入る原料の量は王国の数十倍、価格はシルフィードの元の卸値と比べても数分の一――文字通りの桁違いの格安です」
「……勝負にならないわね」
姉が思わず息を呑み、それから獰猛な笑みを口元に浮かべた。
「でも、レン。帝国からの全面調達に切り替えたら、公爵家が『出荷停止で脅す』どころか、最初から相手にされなくなって恥をかくだけで終わっちゃうわよ? それだけで許す気?」
「まさか」
レンの瞳に、冷徹な光が宿った。
「だからこそ、流通の要である兄さんと姉さんの力が必要なんです。僕がやりたいのは、単なる自衛じゃありません。徹底的な対抗処置です」
兄が身を乗り出し、低く笑った。
「言ってみろ、レン。うちの輸送船と輜重隊をどう使いたい?」
「帝国から圧倒的な安値で原料を大量に運び込み、国内の製造ラインをフル稼働させます。そして生じた余剰原料、および廉価版の基礎生薬・薬草を、お二人の流通網を使って国内全土の薬師ギルドや末端市場へ一気に流してください。価格は、原価割れ寸前の底値です」
一瞬の静寂の後、兄が「ぶっ」と吹き出し、姉が楽しげに喉を鳴らして笑い声を上げた。
「……あはは! 最高に性格が悪いわ、レン! 市場の薬草相場が文字通り『ゴミ同然』まで暴落するじゃない!」
「ああ、痛快だな」
兄も凶悪な笑みを浮かべ、机をバンと叩いた。
「シルフィード公爵家は『三倍で買わせる』つもりで、倉庫に山ほど薬草を溜め込んでいる最中だ。そこへノア社から格安の原料が市場中に溢れ返ってみろ。公爵家の薬草を三倍どころか、元の値段で買う馬鹿すら王国内に一人もいなくなる」
「薬草は生き物です。乾燥させていても数ヶ月で劣化する。買い手を失った倉庫の山はただの腐ったゴミになり、人件費と保管料だけが公爵家に重くのしかかる。……自分たちが仕掛けた『兵糧攻め』の檻に、自分たち自身が閉じ込められることになるんです」
レンは淡々と、しかし決定的な宣告を下すように書類を片付けた。
「兄さん、姉さん。帝国の巨大原生林からの大輸送ラインの開設、そして国内市場への余剰在庫の一斉放出――受けてもらえますか?」
「愚問だな」
兄が立ち上がり、獰猛な笑みとともに右手を差し出した。
「うちの物流網の全輸送能力、今日からすべてお前の作戦に預ける。あの傲慢な公爵家に、商売の動脈を握っているのが誰なのか、骨の髄まで思い知らせてやろう」
「私もよ」
姉も優雅に立ち上がり、レンの肩をポンと叩いた。
「帝国の港から王都までの特急輸送ルート、最短日数で組み替えてあげるわ。……ふふ、シルフィードのあの偉そうな顔が絶望に染まるのが、今から楽しみで仕方ないわね」
「……ふふ、兄さん、姉さん。ただ相場を暴落させて倉庫の在庫を腐らせるだけじゃ、手ぬるいですよ」
レンは冷ややかに目を細め、机の上の書類を指先でトントンと叩いた。その声音には、普段の穏やかな商人の仮面の下に隠された、底知れない冷徹さと陰湿さが滲み出ている。
「シルフィードの特使にはね、あえて『前向きに社内で検討する』と伝えてあります。『帝国への違約金が恐ろしいので、公爵閣下の要求を呑む方向で調整している』とね」
「……は? なんでそんな嘘を吐いたのよ?」
怪訝な顔をする姉に、レンはぞっとするほど楽しげな笑みを向けた。
「欲の皮の突っ張ったあの公爵のことです。『ノア社は落ちた。次は技術も独占利益も手に入る』と確信したら、何をすると思います?」
腕を組んでいた兄が、ハッと息を呑んだ。
「……買い占めだ。『3倍で買い取らせる』ために、領民や配下の薬草ギルドを総動員して、王国内の薬草という薬草を限界まで収穫し、買い集めて倉庫に溜め込む……!」
「その通りです。僕らが『買う』と信じている間、彼らは保管料や人件費を湯水のように前借りして、自ら首に縄を巻き続ける。――そして、彼らの倉庫が破裂寸前まで膨らみ、資金繰りが限界に達した最高のタイミングで、帝国からの超格安原料を市場に一斉投下します」
レンは立ち上がり、帝国の地図の真ん中をトンと指で突いた。
「買い手がいなくなるだけじゃありません。『ノア社は原料調達先を帝国へ完全移行した』と社交界とギルドに大々的に公表し、同時に『一方的な供給停止に対する損害賠償』を王室裁判所に提訴します。違約金の支払い、倉庫の山のような不良在庫、そして崩壊した薬草相場……」
振り返ったレンの双眸には、一切の情け容赦がない。
「売られた喧嘩ですからね。買うなら、相手の店ごと更地にして買い取るのが僕の流儀です。……公爵家には、自分たちが溜め込んだあのカビ臭い薬草の山に埋もれて、破産の味をじっくり噛み締めてもらいましょう」
兄は背筋をゾクッと震わせながらも、獰猛な笑みを深くした。
「……敵に回したくない弟だな、まったく。だが、最高にゾクゾクするぜ」
「ええ、気に入ったわ。徹底的に干からびさせてやりましょう、レン」
一呼吸おいて、レンは静かに話し出す。
「ただ、俺はね、この国の薬剤工房とギルドや店舗を衰退させたいわけじゃないんですよ」
レンはふっと目を細め、机の上の書類を片付けながら、酷薄なまでに美しい笑みを浮かべた。
「シルフィードの締め付けや相場の混乱で、経営が限界にきた店舗は――私たちが『救済』します」
「救済、ねぇ」
姉が面白そうに目を細め、椅子の背もたれに体を預けた。
「具体的にはどうやって助けてあげる気? ただ金を恵んでやるようなタチじゃないでしょう、あんた」
「もちろん。ノア社、あるいは兄さんと姉さんの商会から低利で融資を行い、原料の優先供給と経営ノウハウを提供して傘下に収めます。店舗の土地も建物も買い取って、職人たちもそのままの給料で雇い続ける」
レンはこともなげに、だが極めて残酷な事実を口にした。
「まぁ、店の名前が『ベルフォール公爵家店』になるだけなので、皆さん何も困らないでしょう?」
「……っ!」
兄が短く息を呑み、それから腹の底から響くような爆笑の声を漏らした。
「くく……っ、あはははは! おいおい、なんて面構えをしてやがる、レン!」
兄は膝を叩き、愉快でたまらないといった様子で身をよじらせた。
「『救済』だと? 潰れかけた工房や薬屋を買い叩くどころか、救世主面して丸ごとベルフォール家の直営店舗に看板を掛け替えさせる気か! 職人は職を失わず、借金も消えて感謝し、民衆はベルフォールの名前に安心する……! だがその実態は、国内の薬草流通と小売り網の完全な『乗っ取り』じゃねえか!」
「人聞きが悪いですよ、兄さん」
レンは穏やかな声のまま、だが氷のように冷たい目で微笑んだ。
「資本主義……いえ、商売の健全な新陳代謝です。無能で傲慢な貴族のせいで潰れそうになった店舗に、新たな資本と安定した原料、そして揺るぎない『公爵家の看板』を与えてあげるんですから、誰も不幸になっていませんよ。感謝されることはあっても、恨まれる筋合いはどこにもない」
姉も紅茶のカップをソーサーに戻し、ゾクゾクとした笑みを浮かべながらレンを見つめていた。
「シルフィード公爵家からすれば、発狂ものね。自分たちが長年かけて築き上げた王都や地方の薬屋ネットワークが、気がつけば全部『ベルフォール公爵家』の青い旗に塗り替わっていくんだもの。しかも街の人間は誰一人、シルフィードの味方をしてくれない」
「ええ。彼らが『ノア社を兵糧攻めにしてやる』と息巻いている間に、足元の土台ごとベルフォール家にすり替わっているわけです」
レンは立ち上がり、窓の外――王都の街並みの向こう、シルフィード公爵家の豪奢な屋敷がある方角を見据えた。
「売られた喧嘩です。買わないと言ったはずの店を、気がつけば街ごと買い取られている……その絶望を、あの傲慢な公爵閣下には特等席で味わってもらいましょう」
◇
シルフィード公爵家に対する報復作戦は、レンの冷徹な指揮のもと、寸分の狂いもなく実行フェーズへと移された。
第一段階:実行フェーズ(罠の起動と相場破壊)
まず行われたのは、徹底した「情報の偽装」だった。
レンは特使を通じて公爵家へ「前向きに社内調整を進めている。契約更改に向け、最大限の原料確保をお願いしたい」と甘い返答を流し続けた。
これに気を良くしたシルフィード公爵は、ノア社への出荷停止という「脅し」が完全に効いたと確信。領内の薬草採取人を総動員し、他領の生薬まで高値で先食いして買い集め、三倍の暴利を得るための在庫を倉庫限界までパンパンに膨らませていった。そのための運転資金は、王都の大手銀行や貴族間金融から法外な利息で前借りした金だった。
公爵家の倉庫が破裂寸前まで膨らみ上がったその瞬間――レンは罠の引き金を引いた。
「ノア・ホールディングス、ヴァレンティノ帝国原生林からの直接調達ルート開設」
「シルフィード公爵家による不当な価格吊り上げ要求および契約破棄に対する、王室裁判所への損害賠償請求」
二つの爆弾が社交界と商業界に同時に落とされた。
兄と姉が敷いた特急輸送網により、小国家規模の原生林から掘り出された圧倒的な品質の「岩這い苦芋」と生薬原料が、破格の低コストで王都へ雪崩れ込む。
ノア社は自社の製造ラインをフル稼働させると同時に、余剰となった基礎原料を王国内の独立系工房や街の小さな薬屋へ「特約店契約」として原価同然で供給を開始した。
街の薬師たちは歓喜し、王都の生薬相場は一夜にして大暴落。事実上の「無価値」へと転落した。
「ば、馬鹿な……!? 我が公爵家の薬草を三倍で買い取れ! 出荷してやるぞ!」
「……公爵閣下、ノア社からはその数分の一の値段で極上品が卸されています。お宅の腐りかけの薬草など、一束銅貨一枚でも誰も買いませんよ」
公爵家が抱えた莫大な薬草の山は、ただの「腐敗する巨大な負債」と化した。
さらに、原料高騰で息の根を止められかけていた市中の店舗に対し、レンは約束通りの「救済」を実施した。
経営難に陥った工房や薬屋の借金をノア社が肩代わりし、適正な給与で職人たちを雇い直し、店舗の看板を次々と架け替えていく。
王都の街並みからシルフィードの息がかかった店が消え、代わりに掲げられたのは――『ベルフォール公爵家店』の真新しい青い紋章旗。街の職人は生活を守られてレンに心から感謝し、民衆は安堵し、シルフィード公爵家だけが完全に市場から締め出された。
第二段階:資産差し押さえと屋敷の買い取り
それから数ヶ月も経たぬうちに、結末は訪れた。
前借りした莫大な借金の返済期日、倉庫維持費、人件費、そして王室裁判所から言い渡された契約不履行に伴う巨額の違約金――すべてが一度に公爵家へ押し寄せた。
銀行団は一斉に融資を引き揚げ、公爵家の資金繰りは完全に破綻。債権者集会において、公爵家の筆頭債権者として名乗りを上げたのは、言うまでもなくレン率いるノア・ホールディングスだった。
雪がちらつく冷え込みの中、レンはベルフォール家の法務官と執行官を引き連れ、王都の一等地にそびえる豪奢なシルフィード公爵邸の門をくぐった。
広壮なエントランスホールには、公爵家の全財産に対する「差押令状」が貼り出され、呆然自失となった公爵一家が立ち尽くしていた。
「な、何かの間違いだ……! 伝統あるシルフィード公爵家が、なぜこのような平民上がりの小僧に……!」
髪を振り乱し、脂汗を流して喚く当主。
派手なドレスのまま現実を受け入れられずヒステリックに叫ぶ夫人と、父の陰に隠れて震えるだけの嫡男。令嬢だけが、蒼白な顔で唇を噛み締め、静かに運命を悟ったように俯いていた。
レンは執事から差し出された邸宅および領地の抵当権執行書類に、冷徹にサインを走らせた。
「間違いではありませんよ、公爵閣下。あなた方が抱えた負債の総額は、領地の森林伐採権およびこの王都本邸の評価額を優に超えています。本日をもって、この屋敷を含めた全資産はノア・ホールディングスが適正価格で買い取らせていただきました」
「き、貴様ぁぁっ……! 謀ったな、レン・ノアッ!」
「売られた喧嘩を、店ごと更地にして買い取っただけです。……どうぞ、身の回りの私物だけを持ってお引き取りを。名ばかりの爵位だけはお手元に残るのですから、田舎の片隅で細々と余生をお過ごしになるといい」
衛兵たちによって、喚き散らす公爵夫妻と嫡男が無慈悲に屋敷の外へと引きずり出されていく。
第三段階:家臣の選別と再雇用(振り落とし)
主を失い、静まり返った大広間に残されたのは、行き場を失って立ち尽くす数十名の家臣や使用人たちだった。
事務官、薬草管理の技師、執事、メイド、領地経営の実務を担っていた文官たち。彼らの表情には、主家の没落に伴う深い絶望と不安が張り付いている。
レンは大広間の階段の踊り場に立ち、見下ろすように冷ややかに告げた。
「さて。主を失った皆さんについてですが――私は無能な貴族の道連れにして、全員を路頭に迷わせるつもりはありません。これより個別面談を行い、再雇用の選別を実施します」
ざわり、と家臣たちの間に動揺が走る。
「ただし、全員を雇う気は毛頭ありません。誠実な仕事をしてきた者だけを残します」
レンの後ろに控えていた秘書が、分厚い調査台帳を開いた。
ノア社の情報網と、公爵家の会計帳簿から洗い出した実態記録だ。
「公爵の権勢を笠に着て下請けの採取人を脅していた者、帳簿を改ざんして中抜きをしていた者、取引先を恫喝して賄賂を貪っていた者――心当たりのある者は、今すぐここから出て行きなさい。退職金代わりに、これまで不正に私腹を肥やした分の返還請求を免除してあげます」
レンの底冷えするような言葉に、何人かの傲慢そうな上級家臣や財務官が顔を引きつらせ、逃げるように大広間を去っていった。
残ったのは、公爵の理不尽な命令に胃を痛めながらも、真面目に薬草の品質管理や帳簿の正確さに拘り続けていた実務派の文官や、現場の採取人たちを気遣っていた技師たちだった。
レンは階段を降り、震えながら書類を抱きしめていた若い薬草技師の前に立った。
「君は、公爵から『粗悪な薬草を混ぜてノア社に出荷しろ』と命じられた時、最後までそれに反対して降格処分を受けましたね」
「えっ……あ、貴方様は、それを……?」
「誠実な職人が不遇を託つ時代は終わりました。君のような人材こそ、我が社には必要です。給与は従来の二割増し、ベルフォール公爵家直属の生薬技師として採用します」
技師の目から大粒の涙がこぼれ落ち、深く、深く頭を下げた。
周囲の文官やメイドたちからも安堵の息が漏れる。
「不誠実な者は一人残らず切り捨て、泥水をすすってもらいます。ですが、誠実に汗を流してきた皆さんには、ベルフォール家の名のもとに正当な報酬と尊厳を約束しましょう」
屋敷を買い取り、腐った上層部を完全に排除し、優秀な実務部隊だけを外科手術のように自陣営へと組み込む。
シルフィードの残滓は完全に消え去り、その広大な屋敷と実務機能は、ノア・ホールディングスの新たな拠点として生まれ変わったのだった。
◇
王都の本邸を追われ、全財産を差し押さえられたシルフィード元公爵一家の転落は、社交界の残酷な見世物となった。
かつて豪奢なサロンで贅沢の限りを尽くしていた当主夫妻と嫡男は、郊外の荒れ果てた安アパートへと押し込められた。日銭を稼ぐ手段すら持たぬ元当主は昼から安酒に溺れてレンへの呪詛を喚き散らし、夫人は手持ちの安物の布地を眺めてはヒステリーを起こし、傲慢だった嫡男は外に出る勇気すらなく部屋の隅で膝を抱えて震えるだけ。一家は完全に自滅の泥沼に沈んでいた。
だが――ただ一人、令嬢だけは違っていた。
社交界にいた頃からエレオノーラに激しい対抗心を燃やし、ノア社が次々と生み出す『シルクヴェール』や高級化粧水に焦がれつつも、父親と兄の愚行に内心頭を抱えていた彼女は、冷酷なまでに現実が見えていた。
(このままあの無能どもと一緒にいたら、私も路頭に迷って野垂れ死ぬか、薄汚い裏通りの商人に借金のかたとして買いたたかれて終わりよ……!)
生き残る道は、ただ一つしかない。
自分たちを破滅へと追いやった元凶であり、いまやこの国の流通と製薬の生殺与奪を握る絶対的な覇者――レンの慈悲を乞うこと。
「お願いでございます、レン様……!」
かつて買い取られ、いまやノア・ホールディングスの管理下となった旧シルフィード公爵邸。
正面玄関の冷たい大理石の床に、かつて社交界の花の一角であった公爵令嬢が、粗末な黒のドレス姿で膝をついていた。
靴音を聞いた彼女は、レンが歩み出てくるなり、床に額を強く擦り付けた。
体は小刻みに震え、額からは血が滲んでいる。生き延びるために、恥も外聞もかなぐり捨てた必死の土下座だった。
「父も兄も、滅びるべくして滅びました……ですが、私には働く覚悟がございます! 社交界の人間関係や各家の台所事情ならすべて頭に入っております! 雑用でも、下女でも構いません……どうか、どうか使ってください……!」
取り乱し、床に額を打ち付け続ける令嬢。
だが、その頭上から返ってきたのは、嘲笑でも冷酷な罵倒でもなかった。
「……シエナ様。頭を上げてください」
静かで、穏やかな声だった。
シエナが恐る恐る顔を上げると、レンは冷笑を浮かべるでもなく、ただ困ったように眉を下げ、彼女の前に片膝をついていた。
レンは懐から清潔なハンカチを取り出すと、そっと彼女の手に握らせた。
「額から血が出ています。まずはそれを拭いてください。……大理石の床は冷えますから、立ち上がりましょう」
「え……?」
罵倒されるか、足蹴にされるとばかり思っていたシエナは、呆然と目を丸くした。
レンは立ち上がり、彼女が立ち上がるのを静かに待ってから、視線をまっすぐに合わせて告げた。
「あなたに土下座をさせる筋合いなど、私にはありません。……私が戦ったのは、不当な要求を突きつけてきた公爵閣下と、その利権構造です。あなた個人に恨みなど毛頭ありませんよ」
レンはふっと視線を落とし、心からの悔悟を込めて静かに言葉を継いだ。
「むしろ……巻き込んでしまい、住む場所まで奪う形になってしまったこと、申し訳なく思っています。いくら商売の正当防衛とはいえ、結果としてあなたから平穏な生活を奪ってしまったのは事実ですから」
「そ、そんな……! 悪いのは、一方的に無理難題を押し付けた父と兄です! レン様が謝られる筋合いなど……!」
シエナは慌てて首を振った。
社交界の誰もが手のひらを返し、嘲笑と蔑みの目を向けてくる中で、目の前の青年だけが、自分を一人の人間として扱い、その境遇に申し訳なさを滲ませている。その温かさが、張り詰めていたシエナの心を強く揺さぶった。
「謝罪で生活が戻るわけではありませんがね」
レンは苦笑し、手元の書類から一枚の契約書を取り出した。
「あなたが必死にアピールしてくれた能力――社交界の人間関係や、各貴族家の事情に通じているというのは、我が社にとっても非常に貴重な力です。もし、本当にノア社で働いてくださるなら、ぜひ力を貸していただきたい」
差し出された契約書には、理不尽な隷属条件などどこにもなく、一人の専門職として正当な給料と安全な住まいを保証する条項が並んでいた。
「ただし、元公爵令嬢としての特権や特別扱いはできません。仕事は相応に忙しいですし、現場で汗を流してもらうことになります。……それでも、来ていただけますか?」
シエナの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
今度は恐怖からではなく、差し伸べられた温かい救いの手に対する、震えるような感謝の涙だった。
「はい……! はい、喜んで……! 誠心誠意、お役に立ってみせます……!」
ハンカチを握りしめ、必死に頭を下げるシエナを見つめながら、レンは手元の書類を軽く整えて、ふと思い出したように口を開いた。
「ええと……確か、『シエナ』さんでしたか。自室はそのまま残してありますので、今まで通りにお使いください」
「……え?」
シエナは涙で濡れた顔を上げ、間抜けな声を漏らした。
レンはさも当然のことのように、屋敷の上層階を見上げながら続ける。
「屋敷自体の所有者は変わってしまいましたが、できる限り譲歩するつもりです。使い慣れた家具や私物もそのままにしてありますから、生活環境が急に変わって体調を崩されても困りますしね」
「あ、あの……! レン様……!? 契約書に書かれていた『安全な住まいの提供』というのは……?」
混乱のあまり目を白黒させるシエナに、レンは心底不思議そうに小首をかしげた。
「え? 安全な住まいとは? ……自室でしょ? ここ以外のどこに住むつもりだったんですか?」
「自室って……ここ、シルフィード……いえ、ノア・ホールディングスが買い取った本邸ですよ!? 私のような没落貴族の娘が、これまで通り公爵令嬢の部屋を使っていいはずが……!」
「いや、空けておいても部屋が痛むだけですし。警備の騎士も常駐していますから、不審な借金取りや怪しい連中が押し入ってくる心配もありません。あなたにとっても一番安全でしょう?」
レンは至極真っ当な理屈を述べているだけのつもりだった。
しかし、シエナにとっては雷に打たれたような衝撃だった。
敵対し、自滅したとはいえ元凶の一族である自分に対して、住み慣れた部屋をそのままあてがい、警備までつけて匿うなど、常識ではあり得ない。
「レン様……貴方という方は……」
シエナの口から、言葉にならない震えが漏れる。
あまりの規格外の度量と温情に、彼女の目から先ほどとは比べ物にならないほどの大粒の涙が、堰を切ったように溢れ出した。
「ふ、不束者ですが……! 私のこの命、ノア社とレン様のために、骨の髄まで捧げ尽くします……っ!」
「あ、いや、命までは重いので要りませんよ。普通に定時で働いてくれれば十分ですから……」
慌てて手を振るレンの前で、シエナは感動のあまりその場に崩れ落ち、再び号泣し始めたのだった。
◇
シルフィード元公爵邸の正面玄関に、豪奢な馬車が滑り込んできた。
降り立ったのは、ノア・ホールディングスの化粧品部門を統括するエレオノーラだ。
彼女は手元の書類ばさみを抱え、新しく『ノア・ホールディングス迎賓・管理棟』という控えめな銘板が掲げられた門をくぐった。
(レンのことだから、この広大な屋敷を丸ごと中央倉庫か、あるいは研究機関の分室にでも転用しているはず……)
そう思いながら玄関ホールに足を踏み入れたエレオノーラは、出迎えた執事の姿を見てぴたりと足を止めた。
かつて公爵家に仕えていたベテランの家臣が、以前と変わらぬ穏やかな礼服姿で深々と一礼してくる。
「ようこそお越しくださいました、エレオノーラ様。ご案内いたします」
「ええ、ご苦労様。……ところでレンはどこ? 執務室かしら、それとも会議室?」
「旦那様でしたら、ただいま私室のリビングで寛いでおられます」
「……私室?」
エレオノーラは形の良い眉をわずかにひそめた。
案内されたのは、かつてシルフィード公爵家が家族の団欒やプライベートに使っていた最上階の居住区画だった。
重厚な扉が開かれた瞬間、エレオノーラの目に飛び込んできたのは――
見晴らしの良いバルコニーから差し込む柔らかな陽光。
最高級の絨毯の上に広げられたローテーブル。
そして、部屋着同然の薄手のシャツ一枚でソファに寝転がり、焼き菓子をつまみながら帝国の流通日誌をのんびりとめくっているレンの姿だった。
「……レン?」
「あ、エレオノーラ。お疲れ様。紅茶飲む? ここの執事さんが淹れてくれるお茶、すごく香りがいいんだよ」
レンは寝返りを打つように上半身を起こし、何事もない調子で手を振った。
エレオノーラはその場に凍りつき、それから眉間を指先で強く揉んだ。
深呼吸を一つ挟み、すたすたと部屋の中央へと歩み寄る。
「……ちょっと、レン。確認なんだけど、ここはノア・ホールディングスが差し押さえて買い取った、旧シルフィード公爵邸よね?」
「うん。そうだよ」
「なんで貴方が完全に寛いで、自分の家みたいに住み着いているのよ」
「いや、自分の家みたいというか……ここ、僕の自宅にしたんだ」
「は?」
エレオノーラの喉から、貴族らしからぬ素っ頓狂な声が漏れた。
「じ、自宅!? ここを!? 王都の一等地にそびえる、部屋数が五十室以上ある元公爵邸を、貴方一人で自宅にしたっていうの!?」
「一人じゃないよ。シエナさんも自室を使ってるし、住み込みで働いてくれる家臣の人たちも部屋を使ってるよ」
「そういう問題じゃないわよ!」
レンがさらりと口にしたその名前に、エレオノーラは持っていた書類ばさみを床に落としそうになった。
「……は? いま、なんて言ったの?」
エレオノーラの動きが完全に止まる。
眉を吊り上げ、目を丸くして、聞き間違いであってくれとばかりにレンの顔を凝視した。
「え? 住み込みで働いてくれる家臣の人たちが――」
「その前よ! その前! 『シエナ』って……あの、シルフィードの公爵令嬢の、シエナのこと!?」
「うん。そうだけど」
レンは何がそんなにおかしいのかと、首をかしげながら紅茶をすする。
そのあまりに平然とした態度に、エレオノーラは口をパクパクと金魚のように開閉させた後、両手で頭を抱え込んで絶叫に近い声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! 貴方、正気なの!? なんであのシエナがここにいるのよ!?」
「いや、契約見習いとして雇ったんだよ。彼女、社交界の事情にすごく詳しいし、うちの特務販売部門で働いてもらおうと思って。」
「雇うこと自体も寝耳に水だけど、私が言ってるのはそこじゃないわ! なんで『自室を使ってる』なんて話になるのよ!? まさか……同じ屋敷に住まわせてるっていうの!?」
「え? うん。同居……になるのかな? 屋敷は広いから滅多に顔を合わせないけど」
「ど、同居ぉぉぉっ!?」
エレオノーラは悲鳴を上げてその場にへたり込みそうになった。
社交界で自分に敵意を剥き出しにし、陰口を叩き合っていたあのプライドの塊のような公爵令嬢が、自分たちの敵だったレンと同じ屋敷の屋根の下で暮らしている――。
常識を何光年も飛び越えた事態に、エレオノーラの頭の処理能力は完全に限界を突破していた。
「な、ななな……なんでそんなことになるのよ! 没落した敵の令嬢と同居なんて、社交界でどんな噂を立てられるか分かってるの!? 『レンがシルフィードの令嬢を屋敷に囲って愛人にしている』って一週間で王都中に広まるわよ!」
「ええ? そんな下世話な話になる? 彼女、着の身着のままで土下座までして職を求めてきたんだよ。せっかく頑丈で広い部屋が五十室も余ってるのに、わざわざ危険な安アパートを借りてあげる方が不自然じゃない? 余ってる自室を使ってもらう方が、警備も効くし経費も浮くし、安全で合理的でしょ」
レンは至極もっともらしい理屈を、心底不思議そうに並べる。
「あ、安全……!? 合理的……!?」
エレオノーラは怒りを通り越して眩暈を覚え、額を押さえてよろめいた。
「相手は昨日まで敵の公爵令嬢! 貴方はその家を叩き潰した張本人! その二人が一つ屋根の下で暮らすことを、世間一般では『合理的』とは言わないの! 『破滅的なスキャンダル』って言うのよ!」
「でも、シエナさん本人も『命の恩人です』って泣いて喜んでたよ?」
「喜ぶに決まってるでしょ、そんな規格外の厚遇! むしろあのプライドの塊がよく受け入れたわね!?」
エレオノーラはソファの背もたれに倒れ込み、天井を仰ぎ見た。
冷徹な経済の天才でありながら、男女の機微や貴族社会の世間体に関しては恐ろしいほど無頓着でズレているこの義弟。
「……もうダメ。胃が痛くなってきたわ……」
「エレオノーラ、顔色悪いよ? ここの執事さんが淹れてくれたハーブティー、胃痛によく効くから飲む?」
「誰のせいで痛くなったと思ってるのよ……っ!」
エレオノーラはレンを思い切り睨みつけつつも、差し出されたカップをひったくるように受け取り、深々とため息をついたのだった。
エレオノーラが苦悶の表情でハーブティーを飲み干した、まさにその時だった。
ノックの音とともに執務室の重厚な扉が静かに開いた。
「失礼いたします。エレオノーラ様、レン様。午後のお茶のおかわりをお持ちいたしました」
銀のワゴンを押して入ってきたのは、レン専属の侍女服を凛と着こなしたリリアだった。だが、彼女の後ろからもう一人、堂々たる足取りで部屋に入ってくる人影があった。
仕立てのよい上質なドレスを身にまとい、手には革張りの書類挟みを抱えたシエナである。
かつて社交界でエレオノーラに敵意を燃やし、高慢の限りを尽くしていたはずの元公爵令嬢は、ソファに座るエレオノーラには軽く会釈を流す程度にとどめ、まっすぐにレンの前へと進み出た。そして、完璧な角度で深々と頭を垂れる。
「レン様、お寛ぎのところ失礼いたします。総帥直属・特務販売部門の顧客名簿の洗い出し、および今後の挨拶回りに向けた企画書が仕上がりましたので、ご決裁をいただきたくお持ちいたしました」
エレオノーラはカップを持つ手を止め、眉をわずかにひそめた。
「ちょっと、シエナ。貴女、私を飛び越えてレンに直接書類を通す気? 化粧品部門の統括は私よ。まずは私の目を通すのが筋でしょう」
シエナは顔を上げ、かつてのような感情的な敵対心ではなく、冷徹なまでの営業スマイルでエレオノーラを見つめ返した。
「恐れ入ります、エレオノーラ様。ですが私の契約は、レン総帥と直接結んだ『特命契約見習い』でございます。私が忠誠を誓い、指示を仰ぐべき唯一無二の上司はレン様ただお一人。エレオノーラ様の化粧品部門とはあくまで『案件ごとの業務提携・連携』という認識でおりますので」
一切の揺らぎがない、徹底したレン至上主義の態度。
エレオノーラは冷ややかな眼差しで、シエナがテーブルに置いた書類挟みに手を伸ばした。
「……随分と言ってくれるじゃない。どれ、見せてもらうわ」
エレオノーラがページをめくると、社交界の各貴族家の勢力図、金回り、夫人の好みまでが驚くほど緻密に記されている。仕事の出来栄え自体には文句のつけようがない。だが――その末尾に添えられた挨拶状の雛形に視線が落ちた瞬間、エレオノーラの指先がピタリと止まった。
室内の空気が、目に見えて凍りついていく。
「……シエナ。この名前の表記は何の冗談かしら」
エレオノーラの声から、完全に温度が消え去った。
机の上に広げられた紙には、流麗な飾り文字でこう記されていた。
『ノア・ホールディングス総帥直属 特務販売部主幹 シエナ・フォン・バルツ』
エレオノーラの背後に、氷柱のような殺気が立ち上る。
「シルフィードの家名を捨てたのは結構よ。けれど、なぜ『バルツ』なの? 貴女、自分が何を名乗っているのか分かっていて?」
「当然でございます、エレオノーラ様」
シエナは胸元に手を当て、寸分の怯みもなく、陶酔すら滲む真剣な瞳で言い放った。
「泥沼の絶望から私を拾い上げ、住まう場所まで与えてくださった我が唯一の主、レン様が現在身を寄せておられる尊き家名です。無姓のままでは大貴族のサロンで門前払いを食らいますが、レン様と同じ『バルツ』の誇りを背負ってこそ、レン様のために最大の成果を上げられます。いずれレン様が新たな家名を興された折には喜んで改姓いたしますが、それまではこの名でお仕えする所存です」
その流れるような弁舌を、ワゴンから新しいティーカップを取り出していたリリアが、背中で聞いていた。
カチャ、と陶器の鳴る音がやけに鋭く響く。
リリアは無言のまま、湯気を立てる新しい紅茶をエレオノーラとレンの前に置いた。それから優雅に向き直ると、感情を完全に削ぎ落とした涼やかな瞳で、シエナの顔を真正面から見据えた。
「……恐れ入ります。お茶を淹れるだけの身で口を挟む無礼をお許しください」
リリアの声は、どこまでも平坦で、どこまでも冷徹だった。
「聞こえてしまったのですが……我が実家の家名が、昨日まで敵対していた元公爵令嬢のお口から、随分と軽々しく連呼されているようですが。これは一体どういう新手の嫌がらせでしょうか」
リリア・フォン・バルツ。
レンのおかげで騎士爵から世襲男爵へと陞爵した、正真正銘、本物の「バルツ男爵令嬢」である。
シエナはリリアの射るような視線を受け止めながらも、ふっと優雅に微笑んでみせた。
「嫌がらせだなんて心外ね、リリアさん。私はレン様にお仕えするために、最も合理的で効果的な手段を選んでいるだけよ。本物の男爵令嬢である貴女なら、貴族社会で『名無し』がいかに無力か、よく分かっているはずでしょう?」
「ええ、よく存じております。ですが、我が家の家名を勝手に騙る図々しさまでは理解いたしかねます。恥という概念をどこかのゴミ溜めに落としてこられたようですね。私が拾い直して差し上げましょうか?」
「ふふ、恥を捨てたからこそ、私はレン様の慈悲に辿り着けたのよ。レン様の専属侍女という立場に甘んじてお茶を淹れているだけの貴女には、この必死さは理解できないかもしれないけれど」
「あら、契約見習いの分際で随分と舌が回るようになりましたね。その薄っぺらい忠誠心ごと、薬草用の大釜で一度煮沸消毒いたしましょうか?」
バチバチと青白い火花が散る。
本物の男爵令嬢と、自称・男爵令嬢。
そしてその横で、エレオノーラが凄まじい冷気を放ちながら企画書を握り潰しにかかっている。自分の部下にすらならず、レンの直属を盾にして同じ家名へ潜り込んできたのだから当然だった。
部屋中の温度が氷点下まで落ち込む中、レンだけがホッと息をつきながら紅茶を一口すすり、心底不思議そうに首を傾げた。
「あの……リリア、シエナさん? なんで二人ともそんなにピリピリしてるの? シエナさんが仕事で『バルツ』って名乗った方が営業しやすいなら、通称名みたいなものだし、名前なんて減るもんじゃないからいいんじゃないかなって思ってたんだけど……」
「「「よくありません!!!」」」
エレオノーラとリリア、二人の怒号が完璧に重なり、執務室の窓ガラスをビリビリと震わせた。
ビクッと肩を跳ね上げてカップを取り落としそうになるレンを、エレオノーラが氷の眼差しで射抜く。
「レン、貴方ね……! 貴族社会で男爵家の籍にいる貴男と同じ屋敷に住む未婚の女が、直属の部下として同じ家名を名乗る。それが周囲からどう見えるか、本当に分かって言ってるの!?」
「え? 『親戚総出で手堅く営業を頑張ってるアットホームな商会だな』って思われるんじゃないの?」
「『レン総帥が元公爵令嬢を囲い込み、事実上の側室にして内妻扱いしている』としか見えません!!!」
リリアが容赦のない辛辣さで現実を叩きつける。
「あ、愛人……!? 側室……!?」
初めて突きつけられた世間の解釈に、レンは目を白黒させて完全に固まった。
その横で、シエナだけが頬をほんのりと染め、嬉しそうに書類を胸に抱きしめて瞳を輝かせているのだった。
「あ、愛人……!? 側室……!?」
前世を含めて交際歴ゼロ、平穏で打算のない結婚を夢見ていたレンは、思わぬ爆弾ワードを叩きつけられて完全に硬直した。
だが、その斜め前で書類を抱きしめていたシエナは違った。
「……側室。内妻……」
シエナはポッと頬を薔薇色に染め、夢見るように両手を胸の前で組み替えた。
「なんとまぁ……素晴らしい響きでしょう……!」
「「素晴らしいわけがないでしょうが!!!」」
エレオノーラとリリアの怒声が再びハモったが、シエナの耳には届いていなかった。かつて社交界の頂点を競い合っていた誇り高き令嬢の瞳は、いまや完全に熱を帯び、うっとりと潤んでいる。
(レン様の側室……! 没落した私に住まいを与え、人権を認め、あまつさえ一つ屋根の下で暮らしながら同じ家名を名乗ることを許してくださった……。これ以上ない栄誉、これ以上ない幸福ではありませんか……!)
「シエナ、貴女ね……! 隠す気すら失せたわけ!?」
エレオノーラが扇子をへし折らんばかりの力で握りしめ、青筋を浮かべてシエナを睨みつける。
一方のリリアも、ワゴンに置かれたティースプーンを指先で微かに軋ませながら、絶対零度の冷笑を浮かべた。
「頭の薬草がずいぶんと深く根を張ってしまったようですね。側室などと浮かれる前に、まずは契約見習いとして庭の草むしりからやり直してはいかがですか?」
「ふふ、なんと仰られようと構いませんわ。私を拾い、この立場を認めてくださったのは他ならぬレン総帥ご自身ですもの」
エレオノーラとリリアからの猛烈な殺気を浴びながらも、シエナは至福の笑みを浮かべてびくともしない。
そんな修羅場の中心で、レンはようやく我を取り戻し、ポリポリと気まずそうに頬をかいた。
前世でドラッグストアの店長をしていた頃、近隣の競合店やパート同士の根も葉もない噂話をいくつも聞き流してきた経験が、ここでも悪手となって顔を出す。
「いやぁ……二人とも、そんなに怒らなくてもさ。世間の噂なんて、せいぜい最初の二、三週間くらいのものだよ。『人の噂も七十五日』って言うし、そのうちみんな飽きるでしょ?」
部屋の空気が、ピシリと完全に凍りついた。
エレオノーラがゆっくりと顔を覆い、今度こそ深々と、魂の抜けたような溜息を吐き出す。
リリアは無表情のまま、冷め切ったハーブティーのカップを乱暴に回収した。
「……レン様。貴族社会の社交界におけるスキャンダルは、一度火がついたら子々孫々の代まで格好の酒の肴にされるものだと、何度申し上げればご理解いただけるのでしょうか」
「そのうちみんな飽きるでしょ?」
レンが何気なく放ったその言葉は、エレオノーラとリリアを絶望の淵に突き落としたが――シエナにとっては、まったく別の意味を持って鼓膜に響いていた。
(……否定、なさらなかった……?)
シエナの瞳が、雷に打たれたように大きく見開かれた。
レンは「そんな事実はない」「彼女はただの部下だ」と慌てて否定するでもなく、気色ばんで関係を清算しようとするでもなく、ただ「噂などそのうち飽きられる」と、まるで二人で噂の嵐をやり過ごすことが既定路線であるかのように、事も無げに受け流してみせたのだ。
「レン様……っ!」
シエナの胸に、かつてないほどの熱い感情が奔流となって押し寄せた。
目頭がじわりと熱くなり、大粒の涙が琥珀色の瞳から零れ落ちる。
「私の立場や世間の目をすべて呑み込んだ上で、噂ごときに揺らぐことなく、私を側に置いてくださると仰るのですね……! なんという度量……なんという深き慈悲……!」
「えっ? いや、そういう深い意味じゃなくて、ただの世間話の類というか――」
「分かっております、レン様! 言葉にせずとも、その広大無辺な御心、このシエナ・フォン・バルツ、しかと受け止めました……っ!」
レンの困惑した弁明など、感極まったシエナの耳には微塵も入っていなかった。
シエナは胸元で企画書をぎゅっと抱きしめ、頬を紅潮させながら、その場に崩れ落ちるように優雅な礼をとった。
「この命、この身に宿る知恵の最後の一滴まで、レン様とノア・ホールディングスに捧げ尽くします! 側室だろうと、内妻だろうと、あるいは日陰の猟犬だろうと……レン様が私に下さる居場所であるならば、私は喜んでその泥を被り、盾となり剣となりましょう……!」
「……もうダメだわ。完全に手遅れよ」
エレオノーラは冷え切った紅茶のカップを見つめたまま、力なく呟いた。
美貌の顔には濃い影が落ち、眉間を指先で強く揉みほぐしている。
一方のリリアは、ワゴンに積まれた銀のポットを静かに掴み直すと、感情の消え失せた瞳でレンをじっと見据えた。
「レン様」
「は、はい、リリアさん……」
「その無自覚な天然タラシ気質、一度頭部を切開して脳内に詰まった薬草ごと摘出いたしましょうか? ご安心ください、麻酔草の調合ならレン様からしっかり教わっておりますので」
「リリア!? 目が全然笑ってないよ!?」
「当たり前です。今夜の夕食は、胃薬草のフルコースに決定いたしました。エレオノーラ様と私の分も合わせて、レン様ご自身で責任を持ってお作りください」
狂信のあまり涙を拭うシエナと、殺気立つエレオノーラとリリア。
完全に温度の異なる女たちの視線に挟まれ、レンは前世を含めても味わったことのない凄まじい悪寒に、背筋を震わせるしかなかった。




