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電脳鑑定の調合師  作者: 藤咲玲


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13話:下町の定食屋から始まる食の革命(と姉様への爆弾発言)

 王都の中心街から少し外れた、活気ある下町の裏通り。

 巨大な本社ビルでの喧騒から逃れるように、レンはリリアを伴って庶民的な大衆食堂『跳ねウサギ亭』の暖簾をくぐっていた。


 木の温もりと油の香ばしい匂いが漂う店内。

 昼時を少し過ぎた時間帯で、仕事終わりの職人や商人たちがまばらに座っている。


「ふぅ……やっぱり、こういう肩肘張らない大衆食堂の空気は落ち着くなぁ」


 レンはラフな平服の袖を軽くまくり、木の椅子に腰を下ろした。


「お兄様、ノア・ホールディングスCEOともあろうお方が、このような飾り気のない大衆食堂でよろしいのですか? 専属シェフのいる本社の最上階レストランなら、最高級のステーキをご用意できますのに」


 隣に座るリリアが、呆れたように、けれどどこか楽しげに小首を傾げる。


「いいんだよ。ずっとこういう気取らない定食が食べたかったんだ。おばちゃん、日替わりの煮込み肉と焼き魚の定食を二つ!」


「あいよ! すぐ出るよ!」


 威勢のいい声とともに運ばれてきたのは、厚切りの豚肉と根菜を煮込んだスープ、こんがりと焼き上げられた白身魚、そしてふっくらとした麦飯のセットだった。湯気が立ち上り、見た目は実に食欲をそそる。


「いただきます」


 レンはスプーンを取り、煮込み肉のスープを一口すすった。

 ……が、口に含んだ瞬間、レンの眉がピクリとわずかに動いた。


(……ん? なんだ、この味……?)


 続いて焼き魚の身をほぐし、口へ運ぶ。


(素材の鮮度は悪くない。火の通し方も完璧だ。……だけど、後味が妙にトゲトゲしくて、舌の奥に痺れるような苦味とエグみが残るな。塩味が尖りすぎていて、素材本来の旨味を完全に邪魔している……)


 前世で日本の美味しい料理や調味料に慣れ親しんでいたレンの舌には、その雑味がはっきりと感じ取れた。


 レンは向かいのリリアの様子を伺った。

 リリアは上品にスプーンを運び、何事もない様子で美味しそうにスープを口にしている。


「なあ、リリア。この料理、少し後味が苦くないか? 舌の奥がピリピリするというか……」


「え? 苦味、でございますか?」


 リリアは不思議そうに小首を傾げ、スプーンを止めた。


「いえ……ごく普通の、美味しい煮込みですわよ? お塩の味なんてどこもこんなものですし、むしろ下町のお店にしては丁寧に作られていて美味しい方だと思いますけれど……」


「これが普通なのか……?」


「ええ。王宮や貴族の夜会で出されるお料理だって、お塩を使えば多少の渋みや舌への刺激はあるものですわ。お兄様、少しお疲れなのではありませんか?」


 リリアにとっては、この苦味やエグみこそが「生まれ育った世界の当たり前」なのだ。


 レンは卓上に置かれていた木製の調味料入れを手に取り、中身を手のひらに少しだけ出した。

 純白とは程遠い、やや灰色がかった粗い粒の塩だ。


 ここでレンは脳内の【物質相互鑑定プラグイン】を発動させた。


(この世界の塩は、地球のモノで言うと何に相当するんだ?)


 意識を向けると、プラグインが異世界の物質を地球の品名へと即座に置き換えてくれた。


【地球換算:未精製の粗塩(にがりが抜けていない天日塩)】


(なるほど……! 地球でいう『にがり(塩化マグネシウム)が全く抜けていない粗塩』そのものなのか! 豆腐を固めるにがりを直接舐めているようなものだから、苦くてエグみが出るのも当然だ。この世界の人間は、貴族も含めて全員がこの雑味だらけの塩を当たり前だと思い込んで食べているのか……)


「ごちそうさま。美味しかったよ、親父さん」


 会計の際、レンはカウンターの奥で大鍋を洗っていた頑固そうな初老の店主に声をかけた。


「おう、ありがとよ! ……って、あんちゃん、あんまり箸が進んでなかったようだが、口に合わなかったかい?」


 店主が申し訳なさそうに頭を掻く。


「いや、料理の腕や火加減は抜群だよ。肉の柔らかさも完璧だった。……ただ、少し気になったんだけど、この味付けに使っている塩ってどこから仕入れているんだい?」


「ああ……塩かい」


 店主はため息をつき、カウンターの下から使い古された麻袋を取り出してみせた。中には、先ほどと同じ灰色がかった塩がどっさりと詰まっている。


「市場で普通に仕入れている塩さ。……正直、塩気が尖っていて苦味が残るのは俺も分かっちゃいるんだがね。世の中に出回っている塩なんてどれも似たようなもんだ。いくら食材を工夫しても、塩の苦味ばかりはどうにもならねえよ」


 店主が諦め顔で麻袋をカウンターに戻そうとする。


 王侯貴族から路地裏の庶民に至るまで、この世界には不純物を取り除いた「まともな塩」そのものが存在していないのだ。


「親父さん、少し調理場を借りてもいいかい? 試したいことがあるんだ」


「あん? 調理場をか? まぁ、客足も引いたし構わねえが……刃物や火の気には気をつけてくれよ」


 レンは席を立ち、奥の調理場へと足を踏み入れた。


 調理場の隅にある食材棚を見渡すと、ザルに入った乾燥豆が目に留まる。


(よし、豆があるな。これを拝借しよう)


 手鍋に豆と少量の水を取り、すり鉢で一気にすり潰して絞り、濃厚な豆乳を抽出する。


(原理は日本の伝統的な『差塩(さしじお)』や豆腐の凝固反応と同じだ。粗塩を水に溶かして加熱し、そこに豆乳(大豆タンパク)を注ぎ込む。タンパク質がにがり成分――塩化マグネシウムと強力に反応して凝固し、不純物や苦味を丸ごと巻き込んで沈殿してくれる……!)


 小鍋に灰色の粗塩と水を放り込んで火にかけ、煮詰まったところで絞りたての豆乳をさっと回し入れた。

 狙い通り、白い凝固物(おぼろ豆腐状の沈殿)が鍋底へと一気に沈んでいく。


 レンは魔導で素早く温度を調整しながら、濁りのない澄んだ上澄み液だけを別の平鍋へと移し替え、一気に水分を蒸発させて再結晶化させた。


 鍋肌に残ったのは――。


 雑味や苦味の元であるにがりを完全に吸着・分離させた、まるで新雪のように純白で、きめ細やかな結晶だった。


 指先で少量取って舌に乗せてみる。

 ツンとしたエグみや苦味は一切なく、まろやかで澄み切った、素材の甘みを引き立てる純粋な塩の旨味が広がった。


「よし、完璧だ」


 レンは小皿にその真っ白な塩を山盛りにし、何食わぬ顔でカウンターへと戻った。

 工程を見ておらず、ただ待っていた店主とリリアの前に、ことんと小皿を置く。


「親父さん、塩ができたよ。――これを使って、もう一度さっきの肉と魚を作ってくれないかい?」


「は……? 塩ができたぁ……?」


 店主は怪訝そうに眉をひそめ、小皿の上にある「見たこともない純白の粉末」をまじまじと見つめた。


「おいおいあんちゃん、からかわないでくれ。いくらなんでも白すぎるぜ。砂糖か何かの上等な粉と間違えてるんじゃねえのか……?」


 半信半疑のまま、店主は太い指先でその白い粉を少しすくい、おそるおそる舌先に乗せた。


 その瞬間、店主の目がカッと見開かれた。


「なっ……!? なんだこれ……ッ!? 苦味が……エグみが欠片もねえ……!?」


 口いっぱいに広がるのは、トゲトゲしさのない澄み切った塩気と、奥からじんわりと押し寄せるまろやかな甘み。舌が痺れるようなあの嫌な雑味が、跡形もなく消え去っている。


「うそだろ……!? おい、娘さんも舐めてみな!」


 促されたリリアも、訝しげに細い指先で白い塩を少量取り、上品に口へと運んだ。


「――っ!?」


 リリアの瞳が大きく揺れる。

 生まれ育った世界で「塩とはこういうもの」と思い込んでいた渋みや刺激が一切なく、ただただ純粋で雑味のない、衝撃的なまでの旨味が舌の上で優しく溶けていく。


「こんな……雑味のまったくないお塩が存在するなんて……。王宮の晩餐会で供される料理ですら、こんなに澄んだ塩味はございませんわ……!」


 驚愕に震える店主は、我を忘れたように小皿を抱え、慌てて大鍋の火を強めた。


「ま、待ってな! 今すぐこの塩で肉と魚を焼き直してやる!」


 店主が猛烈な勢いで調理場へ戻っていく背中を見送りながら、リリアは額にそっと手を当て、深い深いため息をついた。


「……はぁ。レン様、またやってしまいましたわね……」


 リリアは呆れと感嘆の入り混じった声で、ポツリと独り言をこぼした。


「ふらりと下町の食堂でお食事をなさっていただけのはずなのに……。これでまた、大陸全土を揺るがす『新製品』の完成ではございませんの……」


「え? いやいや、俺はただ美味しいご飯が食べたかっただけだし、ちょっと豆乳で差塩(にがり抜き)をしただけだよ?」


 呑気に笑うレンの横で、リリアはこれから王都や帝国、そして食糧市場に巻き起こるであろう大嵐を予感して、天を仰ぐのだった。


 大衆食堂で極上の定食を堪能した後、レンはリリアと共にベルフォール公爵邸へと向かっていた。


(……実家へ「帰る」というのも、今の立場だと少し違うか)


 すでにベルフォール公爵家から完全に分家独立し、巨大持株会社ノア・ホールディングスの筆頭株主にして最高経営責任者(CEO)。対外的には公爵家すら凌駕する経済力と影響力を持つ別組織の総帥だ。


 だが、レンにとっては気心の知れた家族であることに変わりはない。


「姉様、お時間よろしいですか?」


 執務室の豪奢な扉をノックして入ると、山積みの書類を前に優雅にペンを走らせていたエレオノーラが、パッと顔を輝かせて顔を上げた。


「まあ、レン! わたくしの愛しい弟……よく来てくれましたわ! ノア・ホールディングスの新体制の件かしら? それとも、エドワードのあのお見合いの件?」


 真紅のドレスを揺らして立ち上がるエレオノーラ。その瞳には、弟に対する底なしの溺愛と、冷徹な大貴族としての怜悧な光が同居している。


「いえ、今日はそういう堅苦しいビジネスや兄上の話じゃなくてですね。……ちょっと姉様、すごく美味しいお塩ができたんですけど、味わってみてくれませんか?」


「……お塩、ですの?」


 エレオノーラはきょとんと目を丸くした。


 レンは懐から、小さなガラスの小瓶を取り出して机の上に置いた。

 中に入っているのは、大衆食堂の豆乳を用いた伝統技法(差塩)で苦味成分を完全に分離・沈殿させ、再結晶化させた、新雪のようにきめ細やかな純白の結晶だ。


「ええ。下町の食堂でご飯を食べていたら塩の雑味が気になりまして。ちょっと不純物を取り除いて、純粋な塩化ナトリウム……あ、いえ、雑味や苦味を抜いたお塩を作ってみたんです」


「まあ……。まるで宝石を砕いた粉末のように真っ白で美しいですわね」


 エレオノーラは感心しながら細い指先で小瓶の塩を少量すくい、そっと艶やかな唇に乗せた。


 ――その瞬間。


 エレオノーラの紫の瞳が、かつてないほど鋭く見開かれた。


「――っ!?」


 舌の上でスッと溶け広がる、刺すようなトゲトゲしさの一切ない、まろやかで澄み切った塩気。

 そして、その奥から静かに立ち上る上品な旨味と甘み。


 王宮の豪華絢爛な晩餐会で出される最高級料理ですら、塩を使えば必ず舌の奥に重い渋みや苦味が残っていた。この世界に生きるすべての人間が「塩とはそういうものだ」と信じて疑わなかったその常識が、舌先の一粒によって音を立てて崩壊していく。


「な、なんですの……この澄み切った味わいは……ッ!? 舌を刺すあの嫌な渋みが、完全に消え去っていますわ……!」


 エレオノーラは驚愕に震える指先を見つめ、それから机の上の小瓶、そして目の前で穏やかに微笑む弟を交互に見つめた。


(ただのお塩……? いいえ、これは単なる調味料ではありませんわ……!)


 大陸屈指の戦略眼を持つ公爵令嬢の脳内で、瞬時に恐るべき経済的・政治的価値が弾き出されていく。


(味覚の革命だけにとどまりませんわ。塩は人類の生命維持に不可欠な最重要インフラ。すべての保存食、肉や魚の塩漬け、軍の兵站、そして一般庶民から王侯貴族に至る全人口の胃袋を完全に掌握できる……! これを安価に大量生産できる技術だとしたら、一体どれほどの富と覇権を生み出すというの……!?)


 エレオノーラは扇子を口元に当て、ぞくぞくとするような愉悦の笑みを浮かべた。


「……ふふ、ふふふ……! レン、貴方という子は、本当にどこまでわたくしを驚かせれば気が済むのかしら。薬品で国家を動かしたと思ったら、今度は『食と生命の根幹』を支配なさるおつもり?」


 小瓶を愛おしそうに握りしめ、妖艶な瞳を細めるエレオノーラに対し、レンはあっけらかんと笑って両手を広げた。


「いえ、僕がどうこうするつもりはありませんよ。――この事業、姉さんにあげます」


「……事業を、わたくしに……?」


 エレオノーラが小瓶を握りしめたまま、信じられないものを見るように目を丸くした。


「ええ。この純白の塩を作る技術と、それに伴う製造・販売の事業権、すべて姉さんにあげます。僕からのプレゼントです」


「……プ、プレゼント……!? レン、貴方、自分が何を口にしているのか分かってらっしゃいますの!? これは大陸全土の食糧市場と物流、果ては国家の兵站すら塗り替える、数千億ゴールド規模の超巨大利権ですのよ!?」


 普段は冷静沈着を絵に描いたような公爵令嬢が、珍しく取り乱して机に身を乗り出す。

 だが、レンは全く意に介した様子もなく、穏やかに肩をすくめた。


「分かってますよ。だからこそ、姉さんに任せたいんです。僕が持っているとまた会社が大きくなって、スローライフから遠ざかっちゃいますからね。それに――」


 レンは少しだけ照れくさそうに笑い、エレオノーラをまっすぐに見つめた。


「僕が分家してからも、姉さんは人事や戦略の面でずっと僕やノア・ホールディングスを支えて、気遣ってくれているでしょう? その感謝の気持ちです。いつも気遣ってくれるお礼だと思って、受け取ってください」


「――っ」


 その瞬間、エレオノーラの胸を甘く強烈な衝撃が貫いた。


 数千億の利権などどうでもよくなるほど、愛しい弟からの「いつも気遣ってくれるお礼」という純粋な言葉と感謝が、彼女の心を芯から蕩けさせていく。


(ああ……! なんて愛らしくて、罪深い子かしら……!)


 エレオノーラは頬を微かに上気させ、小瓶を両手で胸元に強く抱きしめた。

 その瞳には、弟への深すぎる愛情と、世界を牛耳る女帝のような冷徹な覇気が同時に燃え盛っていた。


「……分かりましたわ、レン。可愛い弟の頼みですもの、このエレオノーラが責任を持ってお引き受けいたします」


 扇子の陰で、妖艶極まりない笑みが咲き誇る。


「貴方がくれたこの『至高の塩』……我がベルフォール公爵家の総力を挙げて、大陸中の貴族、王族、そして平民の胃袋まで完全に平伏させてみせますわ。ついでに――帝国や他国の小娘どもが、塩の利権にかこつけて貴方に近づけないよう、鉄壁の包囲網を築いて差し上げます」


「え? いや、普通に美味しい塩をみんなに配ってくれればいいんだけど……」


 レンの呑気な言葉を華麗にスルーし、エレオノーラはすでにベルフォール公爵家主導の「大陸塩業公社」設立計画を脳内で猛スピードで組み立て始めていた。


 レンは執務机の前の椅子に腰を下ろし、呆れたように肩をすくめた。


「鉄壁の包囲網とか、そんな大層な話にしなくていいですよ。そもそもこの塩の作り方、機密にするほどのものじゃないんですから」


「……なんですって?」


 エレオノーラがピタリと動きを止め、信じられないものを見るように瞬きをした。


「機密ではない……? 国家の経済と軍事バランスを根底から覆すこの製法を、秘匿しないとおっしゃるの?」


「ええ。水に溶かして豆乳を混ぜて煮詰めるだけですからね。特殊な魔導具も希少な魔薬も使っていません。むしろ、下町の食堂のおやっさんや一般の家庭、製塩業者にまで広く知れ渡って、みんなが当たり前に美味しいご飯を食べられるようになればいいとすら思ってますよ」


 レンにとっては、前世の日本で誰もが享受していた「安くて美味しい食卓」を再現しただけの話だ。独占して暴利を貪る理由などどこにもないし、特許でガチガチに縛って管理の手間を増やすなど、スローライフを目指す身としては真っ平ごめんだった。


「だいたい、塩なんて生活の必需品じゃないですか。一部の人間が独占して値段を吊り上げるより、オープンソース……あ、いや、一般的な知恵として世間に広まったほうが、国全体の食文化も豊かになりますし」


「……」


 エレオノーラは扇子を握りしめたまま、言葉を失ってレンを見つめた。


(この子は……どこまで底が知れないのかしら)


 国家を揺るがす技術をあっさりと手放し、あまつさえ「広く民草に知れ渡ればいい」と事も無げに言ってのける。

 利益や権力への執着が一切なく、ただ純粋に「世の中が便利で豊かになればいい」という一点のみで動いているのだ。


 その桁外れの器の大きさと無欲さに、エレオノーラの胸は再び激しく高鳴った。


「……ふふ。本当に、恐ろしい子ね」


 エレオノーラは優雅に息を吐き出し、艶やかな笑みを浮かべた。


「貴方がそう望むのなら、製法自体は無償で世に公開いたしましょう。ですが――その普及の音頭を取り、流通網を整え、粗悪な模倣品を排除して『ベルフォール印の純正塩』として市場を掌握するのは、わたくしの役目ですわ」


「あはは、そのへんの面倒な仕切りは全部姉さんに任せますよ」


 レンは満足そうに笑い、紅茶に手を伸ばした。


 大衆食堂のまずい塩をきっかけに生まれた純白の結晶が、やがて大陸全土の食卓を塗り替え、ベルフォール家の名声をさらに押し上げることになるのだが――レンはただ、「これで次から食堂の煮込みが美味しくなるな」と呑気に考えているだけだった。


「どうせ姉さんは、僕と将来一緒になるつもりなんでしょう? だったら利権が誰のものとか、ややこしく考えなくてもいいんじゃないですか」


 紅茶に角砂糖を落としながら、レンは何でもないことのようにあっさりと言い放った。


「――っ!?」


 エレオノーラが手にしていた扇子が、音を立てて床へ滑り落ちた。


 普段はどんな老獪な貴族や冷徹な軍人を前にしても眉一つ動かさない氷艶の令嬢が、まるで雷に打たれたかのように硬直している。


「レ、レン……? い、今、なんとおっしゃいましたの……?」


「ですから、利権がノア・ホールディングスにあろうとベルフォール公爵家にあろうと、将来的に僕たちが一緒になるなら、最終的にひとつの財布になるわけですし。僕と姉さんの間で『どっちのものか』なんて細かく線引きする必要もないかなって」


 レンとしては、実質的な家族関係や将来のパートナーシップを踏まえた極めて合理的な「資産管理の統合」の話をしただけのつもりだった。


 だが、エレオノーラにとっては完全に致命的な一撃だった。


「わ、わたくしと……い、一緒になる……っ!」


 エレオノーラの白い頬が一気に耳まで真紅に染まり、胸元をぎゅっと押さえて激しく息を乱す。


(な、ななな……なんですのその不意打ちは……っ!? わたくしの気持ちを完全に理解した上で、そんな……そんな当たり前のことのようにプロポーズ紛いの言葉を……っ!?)


 数千億ゴールドの塩の利権を前にしても冷徹に計算を弾いていた頭脳が、完全にオーバーヒートを起こして煙を吹きそうになっている。


「あ、姉さん? 顔が真っ赤ですけど、熱でもありますか?」


「な、なんでもありませんわ……っ! そ、そうね……! 貴方がそこまで言うのでしたら、わたくしがすべて……ええ、わたくしたちの『将来』のために、完璧に管理統括して差し上げますわ……!」


 エレオノーラは取り乱した様子を隠すように慌てて扇子を拾い上げ、口元を隠しながらも、その瞳にはこれまでにない熱っぽい歓喜の炎を宿していた。


「……ふふ。ええ、絶対に離しませんわよ、レン……」


 妖艶に微笑む義姉の凄まじい気迫に、レンは「やっぱり姉さんに任せておけば安心だな」と、見当違いの安心感を抱いて呑気に紅茶をすするのだった。


 普段は社交界の海千山千の貴族たちを手玉に取り、どんな無理難題も涼しい顔で切り捨てる冷徹無比な義姉。

 そんなエレオノーラが、耳まで真っ赤にして扇子を取り落とし、胸を押さえてあわあわと取り乱している。


 そのギャップが、レンにはたまらなく可笑しかった。


 ◇


 この世界における調理法といえば、基本的には「焼く」か「煮る」の二択。肉や魚をそのまま火に放り込むか、大鍋に野菜と一緒に放り込んで煮込むくらいのものである。


 調味料のレパートリーも貧弱極まりなかった。


 塩:にがりを抜く技術がなく、舌を刺すような苦味と渋みが強い灰色の粗塩。


 胡椒:主に肉の生臭さを誤魔化すために使われる、刺激ばかりが強い輸入品。


 香草(ハーブ):青臭さや肉の臭みを消すために手当たり次第に放り込まれる野草。


 素材の旨味を引き出すという発想はなく、「素材の臭みを強い刺激でねじ伏せて、腹に詰め込む」というのが、王族から庶民に至るまでこの大陸の共通認識だった。


(醤油も味噌も、みりんも砂糖もない。出汁の概念すら曖昧で、味付けの要である『塩』があの苦さじゃ、料理のバリエーションが広がるはずもないよな……)


 レンは改めて、この世界の食文化が抱える根本的な課題の大きさを実感していた。


 味覚の土台となる「塩」の苦味が消え、素材本来の旨味を引き出せるようになっただけでも、この世界にとっては天変地異に等しい大革命だったのだ。


 少しこの世界の調理技術を改善する必要があるかもしれない、とレンは強く実感していた。


 本来ならば、もっと美味しい調理法はいくらでもあるのだ。

 焼く・煮るだけでなく、蒸す、揚げる、炒める、下味をつけて寝かせる、低温でじっくり火を通す――地球では当たり前だった技法を使えば、手に入る食材のポテンシャルは何倍にも跳ね上がる。


 さらに言えば、食材そのものだって決して不足しているわけではない。

 山には豊かなキノコや山菜があり、海や川には新鮮な魚介、肥沃な大地には質の良い肉や穀物、豆類が豊富に実っている。素材自体は素晴らしいものが揃っているのだ。


 決定的に欠落していたのは、調理の技術――そして何より、「旨味成分」という概念そのものだった。


(この世界の人たちには、『旨味』という味覚の認識すらないんだな……)


 地球ではグルタミン酸(昆布やトマト、野菜)、イノシン酸(肉や魚)、グアニル酸(干しキノコ)といった旨味成分を掛け合わせることで、驚くほど深いコクと風味を引き出していた。出汁を取り、発酵させ、素材の相乗効果で味を何層にも重ねていく。


 だが、この世界にあるのは「塩気」「辛味」「酸味」「甘味」、そしてハーブの「苦味・香り」という単純な刺激の足し算だけだ。臭みを消すために強い香草や胡椒をこれでもかとぶち込み、苦い塩で無理やり味を調えるため、素材本来が持つ繊細な旨味が完全に塗りつぶされてしまっている。


(あの大衆食堂の親父さんも、腕や火加減の感覚は間違いなく一級品だった。それなのに、基本となる調味料の質が悪く、旨味を引き出す発想がないせいで、本来のポテンシャルを半分も出せていなかったんだ)


 塩の精製を成功させたことで、味の土台は整った。

 だが、それはあくまでスタートラインに立っただけに過ぎない。


(せっかくうまい食材が山ほどあるんだ。出汁の取り方や発酵調味料、旨味の掛け合わせ方を少しずつ教えていくだけで、この世界の料理は劇的に化けるぞ……)


 美味しいものを美味しく食べたいという、日本人としての飽くなき食への探求心。

 レンの頭の中には、薬品やポーションの開発に勝るとも劣らない情熱で、新たな「食の改善プラン」が次々と湧き上がっていた。


 下町の活気あふれる青空市場。

 レンは並び立つ露店の数々を、じっくりと見回していた。


 色鮮やかな根菜や果物はもちろん、乾物屋の店先にはカチカチに乾燥させた干し魚や干し野菜が積まれ、樽の中にはたっぷりの粗塩に埋もれた塩漬け肉や塩漬け野菜が並んでいる。さらに奥の露店からは、独特のツンとした酸味や、どこか懐かしいような濃厚な香りが漂ってくる――得体のしれない匂いだが、前世の記憶に照らし合わせれば、十中八九は何かしらの発酵食品だろう。


(……へぇ、結構思っていたより色々とあるじゃないか)


 食材の絶対数が足りないわけではない。

 これだけ豊富な乾物や保存食、発酵の産物まで揃っているのだ。


(やっぱり、素材そのものじゃなくて『活用方法』の問題だな。旨味の引き出し方や、食材同士の組み合わせを知らないだけなんだ)


 宝の山を前にしたようなワクワク感を覚えながら、レンは干物や乾燥肉を山積みにしている露店の前で足を止めた。

 店番をしている恰幅のいいおばちゃんに、親しみやすい笑顔で声をかける。


「おばちゃん、この乾燥魚や肉はどうやって食べるの?」


 下町の青空市場から戻ったレンは、ベルフォール公爵邸の広大な調理場に立っていた。


 一流の宮廷料理人たちが慌ただしく行き交う厨房の片隅、レンは作業台を一画借り受け、買ってきた干し魚、乾燥肉、干しキノコを並べる。


「レン様、本当にご自身で調理なさるのですか? 料理長に言いつければ、腕利きの料理人に作らせますのに……」


 後ろで見守るリリアが心配そうに眉を寄せる。


「いいんだよ。まずは自分の手で試して、味の変わり方を確かめたいからね。――料理の基本は、何より下処理だ。これをやらないと、どんなに良い素材を使っても必ず生臭さやえぐみが残ってしまう」


 レンはまず、干し魚と乾燥肉を並べ、熱湯をさっと回しかけた。表面の酸化した古い脂や汚れ、血合いが熱で浮き上がったところを、冷水に取って優しく洗い流す。さらに清潔な布で水気を拭き取り、臭みの元凶を徹底的に排除した。


 干しキノコも同様だ。ぬるま湯でじっくりと戻し、底に沈んだ細かい砂や灰汁を丁寧に取り除きつつ、旨味を含んだ澄んだ戻し汁だけを別容器へ確保する。


「……お湯で洗い流すだけで、独特のツンとした嫌な匂いが消えましたわね」


 目を見張るリリアの横で、レンは火を熾した。


 小鍋に水と下処理済みの干し魚、もうひとつの鍋には乾燥肉と香味野菜を入れ、弱火でコトコトと煮出す。決してグラグラと強火で煮立てない。沸騰直前に火を絞り、表面に浮いてくる白い泡(アク)をスプーンで根気よくすくい取っていく。


 やがて鍋の中に現れたのは、濁りのない、底まで透き通った黄金色のスープだった。


「わあ……綺麗……。煮込み料理の汁って、いつももっと濁っていて灰汁が混ざっているものなのに……!」


「これが『出汁』さ。素材の旨味だけを抽出した基本のスープだよ」


 レンはさらに、この黄金のスープをベースに2通りの仕立てを試みる。


 ひとつは、干し魚の上品なイノシン酸スープに、干しキノコから取ったグアニル酸たっぷりのエキスをブレンドしたもの。旨味成分同士が相乗効果を起こし、香りを嗅ぐだけで唾液が溢れてくる。


 そこへ刻んだ新鮮な根菜を加え、仕上げに先ほど精製した「にがりのない純白の塩」をパラリと落として味を調えた。余計なスパイスなど一切使っていないのに、立ち上る湯気は驚くほど芳醇だ。


 だが、レンの仕事はそれだけでは終わらない。


「お兄様、スープを取ったあとのこのお肉や魚はどうなさるのです? 旨味が抜けてしまっていますし、お捨てになりますの?」


「まさか。食材は絶対に無駄にしないよ。ここからが腕の見せ所だ」


 出汁を吸ってふっくらと柔らかくなった干し肉は、一口大に削ぎ落とし、市場で仕入れたシャキシャキの葉野菜と一緒に油を引いたフライパンへ投入。強火で一気に炒め合わせ、少量の塩とハーブで軽やかな炒め物に仕立て上げた。


 さらに、出汁を取り終えた干し魚の身とキノコの軸を細かく刻む。

 平鍋に入れ、少量の酒と塩、ごくわずかな甘み(果汁のエキス)を加えながら、汁気が飛んでパラパラになるまでじっくりと乾煎りしていく。


 鍋肌から香ばしい匂いが立ち上り、旨味が極限まで凝縮された「佃煮(ふりかけ)」の完成だ。


 作業台の上には、あっという間に見事なコースのような料理が並んでいた。


 透き通る黄金色のブレンドスープ(魚×干しキノコ出汁)


 柔らかな干し肉と新鮮野菜の香ばしい炒め物


 出汁ガラを極限まで美味しく再利用した、旨味凝縮の佃煮


「さあ、できたよ。リリア、味見してみてくれ」


 レンが小椀に注いだ澄んだスープを差し出すと、リリアはおそるおそるスプーンを口元へ運んだ。


 小椀から立ち上る湯気は、市場の露先で嗅いだあのツンとする生臭さやえぐみとはまるで別物だった。


 リリアはおそるおそるスプーンを口元に運び、透き通った黄金色のスープを一口含む。


「――っ!?」


 その瞬間、リリアの青い瞳が大きく見開かれた。


 舌の上に乗った途端、雑味の一切ない澄んだ塩気が優しくほどけ、直後に魚とキノコの重層的な旨味が爆発するように口いっぱいに広がる。生臭さは微塵もなく、舌を刺す苦味も皆無。ただただ滋味深く、身体の芯まで染み渡るような優しいコクが喉を通り抜けていく。


「な、なんですの……この美味しさは……ッ!?」


 驚愕に震えながら、リリアは急き立てられるようにスプーンを動かした。スープに浮く柔らかく煮込まれた根菜の甘み、続いて口にした干し肉の炒め物のジューシーな香ばしさ、そして出汁ガラを再利用した佃煮の濃厚な風味に、完全に言葉を失う。


 市場の安価な乾燥食材を使ったとは到底信じられない、貴族の晩餐会すら凌駕する極上の味わい。


「市場の固い干物が……下処理と火加減だけで、こんなにも化けてしまうなんて……!」


 リリアはうっとりと頬を緩め、感動のあまりため息をつきながら、レンを見上げてポツリと漏らした。


「……はぁ。お兄様は、本当に良いお嫁さんになれますわね」


 家庭的で、料理が美味しくて、甲斐甲斐しく気配りができる。リリアなりの最大限の賛辞だった。


「いや、俺は男なんだけど……」


 苦笑いしながらレンがツッコミを入れた、その時だった。


「――ええ、まったく同感ですわ、リリア」


 厨房の入り口から、鈴を転がすような、けれど獲物を狙う肉食獣のような艶やかな声が響いた。


 びくりと肩を跳ねさせて振り返ると、そこには腕を組み、口元に完璧な笑みを湛えたエレオノーラが佇んでいた。背後には、ただならぬ覇気を感じ取って直立不動で震え上がる料理人たちの姿がある。


 エレオノーラは優雅な足取りで作業台へと歩み寄ると、紫の瞳を怪しく細め、レンを逃がさないようにじっと見つめた。


「わたくしの『将来の旦那様』は、国家を揺るがす錬金術や経済感覚だけでなく、こんなにも家庭的で愛らしい手料理の才能までお持ちでしたのね? ……ふふ、誰にも奪われないよう、ますます囲い込みを厳重にしなければなりませんわ」


「あ、姉さん……いつからそこに……?」


 引きつった笑顔を浮かべるレンの横で、エレオノーラは作業台に並ぶ黄金のスープを妖艶な瞳で見つめながら、心底嬉しそうに喉を鳴らすのだった。


 エレオノーラは優雅な手つきでスプーンを取り、黄金色に澄んだスープをすくい、艶やかな唇へと運んだ。


 一口含んだ瞬間、その切れ長の瞳がわずかに見開かれる。


「――素晴らしいですわ」


 短く、だが偽りのない感嘆が漏れた。

 舌を刺す塩の苦味も、乾物特有の鼻につく生臭さも一切ない。魚の豊かな風味とキノコの奥深い滋味が完璧に調和し、澄み切った塩気によって素材本来の輪郭が鮮やかに際立っている。


「王宮の晩餐会で供されるスープですら、これほどの透明感と深みはございません。……ただ煮るのではなく、味を引き出すとはこういうことですのね」


 そう言ってエレオノーラは、背後に控えていた料理長たちへと鋭い視線を向けた。


「貴方たち、見ていまして? この世界の料理人が誰も成し得ていなかった革新が、いま目の前で成されたのですわ」


 公爵令嬢の威厳に満ちた声に、厨房にいた熟練の料理人たちは息を呑み、直立不動のまま恐る恐る前に進み出た。


「れ、レン様……恐れながら、下町の安価な乾物でこれほどの品を作り上げるなど、信じられません……。一体、どのような秘術を?」


 白髪混じりの料理長が震える声で尋ねる。

 レンは気負う様子もなく、作業台の前に立ち、気さくな笑顔を浮かべた。


「秘術なんて大層なものじゃないですよ。大切なのは、下処理と火加減、それと旨味の掛け合わせです」


 レンは乾物を手に取り、料理人たちに見せるように実演を交えながら説明を始めた。


「まず、乾物はそのまま鍋に放り込んじゃいけません。熱湯を回しかけて表面の古い脂や汚れを落とし、冷水で優しく洗い流す。これだけで、料理に残る嫌な生臭さの八割は消えます」


「お湯で……洗い流す……!?」


 料理人たちの間に驚きのざわめきが走る。臭みは香草でねじ伏せるものだと思い込んでいた彼らにとって、それは盲点以外の何物でもなかった。


「そして煮出すときは、強火でグラグラ煮立てないこと。弱火でコトコト温め、浮いてきた白い泡――アクを丁寧にすくい取るんです。そうすれば、雑味のない透き通った黄金のスープが取れます」


 さらにレンは、二つの小鍋を指し示した。


「魚の出汁と、乾燥キノコの戻し汁。この二つの異なる旨味を合わせることで、味の深みが何倍にも膨らみます。仕上げは、にがりを抜いた純白の塩をひとつまみ。香草で臭みをごまかさなくても、素材本来の味が全部引き出せるんです」


 レンの明快で論理的な解説に、料理人たちは目から鱗が落ちたように聞き入っていた。


「そして、出汁を取ったあとの具材も捨てません。柔らかくなった肉は野菜とさっと強火で炒め、魚の身やキノコの軸は刻んで水分を飛ばしながら煎れば、極上の佃煮になります」


 料理長がおずおずと差し出された炒め物と佃煮を口に含むと、その目からポロリと涙がこぼれ落ちた。


「う、美味い……! 雑味が消え、素材の味がこれほど素直に喉を通るとは……! 我らは今まで、食材の命を無駄にしていたのかもしれません……!」


「そんなに大袈裟に考えなくていいですよ」


 レンは照れくさそうに笑い、料理人たちを見渡した。


「このやり方は独占するつもりはありません。公爵邸の料理はもちろん、街の定食屋や一般の家庭にもどんどん教えてあげてください。みんなが安くて美味しいご飯を食べられるようになった方が、絶対に楽しいですから」


 惜しげもなく極上の調理技術を授けるレン。

 その無欲で純粋な姿を、エレオノーラは扇子の陰から熱っぽい眼差しで見つめていた。


「……本当に、底が知れませんわね」


 食の常識を根底から覆す少年の横顔に、公爵家の厨房は静かな熱気と興奮に包まれていた。



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